「達セミ」(英語教育の情報交換ネットワーク:英語教育の達人をめざして)が、「達セミアウォード」を新設し、2012年度の受賞者を決めるための投票を(達セミメルマガ読者約4150人を対象に)呼びかけています(締切 3月20日(火)24時)。
達セミメルマガの読者の一人として、私は畑中豊先生(大熊町立大熊中学校)に一票を入れます。畑中先生の卓越した教育技術と、(私などが想定している)東北人の良さである優しさ・ぬくもり・粘り強さ、そして照れ屋といった特徴をまさに体現しているお人柄が理由です。
もちろん私のこの投票理由の背後には2011年3月11日以降という歴史的な事情があります。どう少なく見積もっても「戦後最悪の国難」の中で、優れた教育活動を、愚直なぐらいのまっすぐな心と慈悲の心で続けておられる東北の教師そして生徒の皆さんには、私がこのような場で「敬意を表します」などと言うのが恥ずかしいぐらいの思いをもっています。3.11以降の東北人こそは、世界中の人びとに深い人間性というものがどういうものであるかを示しました。ですから、私が畑中先生に投票する時、私は同時に東北の先生方に投票しているつもりです。西日本でやるべきことの多くを行えずにいる恥ずべき一人の人間として、畑中先生と東北の先生方に一票を入れます。
しかしながら、これは同情票などというものでは決してありません(畑中先生や東北の方々を、高みから「同情」するようなことほどの傲慢不遜がありましょうか)。以下、畑中先生が登場した昨年12月23日の広島市内での達セミで私が取ったメモをもとに、畑中先生の授業スタイルについて書きます(本日、久しぶりにこのメモを読み返して、一部の記憶を失っており、本来書けるだけの文章を今は書けなくなっていることを申し訳なく思います。年末年始は正直、かなり疲れていたのでメモを元に文章を書く気になれませんで、そのまま入試シーズンと一つの原稿、三つの講演というスケジュールに巻き込まれてしまいました。年賀状の返事も確定申告もまだできていません (泣))。
以下、私が畑中先生のワークショップで感じた五点について書きます。
■一分以内に雰囲気をつくる
畑中先生は、登場するや否やすぐに会場の雰囲気を和やかなものにします。おそらく畑中先生をまったく知らない人達も、一分以内には笑顔になっていることと思います。
落語の名人も、高座に上がった瞬間、客の心を掴みます。畑中先生によれば、落語の客というものは、元々笑いたいと願って寄席に行くそうです。だから落語家は、その客の期待するスイッチをオンにすることが大切なのだそうです。生徒や学生にしても、本来は自ら成長し育つことを望んでいるはずです。教師もその期待のスイッチをパチンと入れてやればいいわけです。
ですがもちろん、そのスイッチの入れ方がなかなかわかりません。スイッチという譬えは、たしかにある人が来ただけで一気に雰囲気が変わることをうまく表現してくれています。ですが、そのスイッチは誰でも見つけること・入れることができるものではありません。
畑中先生にしても、これは長年の努力のたまものでしょう。達セミの午前中のワークショップが終わって、私がお昼ごはんを誘ったところ、畑中先生は「お昼はこの会場で留守番しています」と言ってITC機器やカードや板書などを丁寧に準備していました。「午後の私のワークショップの時間調整はいくらでもできますよ。できれば3時半までお昼をゆっくり食べてきてください」などと笑いながら冗談も言っておられましたが、後で(懇親会の席でだったでしょうか)畑中先生は、「実は準備している姿を見られたくないんです」とおっしゃっていました。繊細な心で準備をされており、照れ屋ですから、そんな「舞台裏」をお客には見せたくないといった芸人さんにも通じる心情なのかもしれません。
畑中先生に限らず、優れた人は、一瞬で場のスイッチを入れることができますが、それを天与の才だけで行なっていると思うのは、あまりにも短見でしょう。
■頭がいいということ
畑中先生にせよ、(中学校教師時代の)田尻先生にせよ、私はお会いするたびに、中高の現場でからだをはって仕事をなさっている方は本当に頭がいいなぁ、と思ってしまいます。通俗的観念では「学歴が高い者が頭がいい」ということになっていますが(いや、それも思い込みかwww)、しばしば学歴の高さは頭の固さと比例してしまいます。しかし現場で次々に判断を下し、自分の思い込みでなく、現場の事実に即して動かなければならない方は、本当に観察と分析に長け、思考が柔軟です。高学歴の人間が、しばしば教科書で教えられているから、ある「はず」の事柄しか観察・分析・思考できないのに対して、優れた現場の実践家は観察・分析・思考が臨機応変です(このあたりは『成長する英語教師をめざして -- 新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』にも書きました。私としては現場教師の声を取り上げた本が一冊でも売れて、そういった本の出版市場がぜひ広がってほしいと思っていますので、よかったらぜひお買い上げください)。
畑中先生も、もはや小学校でけっこう英語にふれてきた中学生を、さらに英語学習に動機づけるために「ローマ字では、なぜ"sa, shi, su, se, so"と"shi"だけが異なるんだろう? そういえばタ行は"ta, chi, tsu, te, to"だよね」と好奇心をつのらせ、「純粋sa行」と「sha行」、「純粋ta行」、「cha行」、「tsa行」の25音を生徒に発見させます。その25音の中の日頃はあまり聞かない音も、方言や外国語にはあることを示します。音に対する感覚と、文字と音の関係、さらにはことばそのものへの好奇心を育む素晴らしい試みでした。
畑中先生の思考の特徴の一つは、思考の対象を目に見えるように操作することでもあります。いわば「思考を統語的に操作する」とでもいいましょうか、例えば文字や単語をカード化して、それらを並び替えたり、間隔を詰めたりして、新たな可能性を示します。このあたり私のメモが不十分で十分にここで再現できないのですが、文字カードをアナグラムとして使う方法や、"Is" "that" "a" "pen?"という4枚のカードの間隔を詰めて"Is" "thata" "park?"と配置し、音のつながりを視覚的にも意識させたりする方法は、当たり前のようでいてなるほどと思わされました(カードには「これは『伊豆雑多』だ」という冗談のおまけまでついていました)。
■からだと感情は最初からある
畑中先生のもう一つの特徴は、畑中先生が話し教える英語が、畑中先生のからだに基づいた感情に充ちた自然な表情をもったものだということです。感情表現というのは、3月4日に京都でお話させてもらったように、英語授業ではしばしば最後に(授業時間が余っていれば)付け足されるものとして扱われます。授業の主眼は、あくまでも記号としての英語を正しく操作し再生することと思われているようです。
しかし畑中先生は、例えば「この"Use this."という表現はどんな時に使うだろう」と生徒に問いを投げかけ、「ドラえもん」や「アンパンマン」という反応を引き出し、そこからこの表現を使う状況を想像させてからこの英語を発話させます。そこには自ずから自然な感情が表れます。
別の例としては"What do you want?"がありました。これにもいろいろな反応がありましたが、畑中先生が紹介したのは、寿司屋の大将とお客との会話状況です。しかもお客は二人で、一人は風邪を引いて声を出せないという設定になっています。畑中先生がまるで寿司屋の大将のように"What do you want?"と尋ねると、生徒は"I want ..."と言いつつ、声が出ない連れのために"She wants ..."とも付け加えます。もちろんここでは一人称・二人称・三人称の使い分けが隠れた焦点となっています。しかし生徒はそういった言語的項目をいわばsubsidiary awarenessの後景に置いたまま、寿司屋の大将である畑中先生に対して、自分の注文を言う時には自らの胸に、連れの注文を言う時にはその連れの方向に手を差し伸べながら英語を発話します(この自然な手振りを誘導するため、畑中先生は"What do you want?"と言いながら、生徒を明らかに見つめたり生徒の方に手を差し伸べたりします。ここでは英語を使う人間のからだと感情がしっかりと存在し、その存在基盤の上に英語が載っかっています。
こういった自然な英語を学ばせるために、畑中先生は映画のトレーラー(映画の宣伝のために公開されている短い映像)も使います。今回見たのは、(私の記憶に間違いがないなら)映画『ファインディング・ニモ』で、主人公の魚が波止場に打ち上げられたシーンでは、たくさんのカモメが"Mine! Mine! Mine!"と叫びます。映画ですからもちろんこの台詞は生きています。この英語は生徒の身に染み入ってゆきます。
その上で畑中先生は、「この台詞は日本語でならどう言うだろう」と問いかけます。その問いかけから始まる討議で明らかになるのは、「エサ!エサ!エサ!」あるいは「欲しい!欲しい!欲しい!」であっても「俺の!俺の!俺の!」ではないということです。なぜならカモメがオスかメスかわからないからです。
ここに見られるのは生きた翻訳です。英語を直接自分のからだで感じた後に、その感覚を基盤にして適切な日本語を見出してゆく翻訳です。決して単なる機械的な記号操作にすぎない英文和訳ではありません(参考記事:「オメの考えなんざどうでもいいから、英文が意味していることをきっちり表現してくれ」、「山岡洋一先生追悼シンポ」)。
この実践に限らず、畑中先生を見て思うのは「地に足がついている」ということです。これはそのまま私の言う「頭のよさ」につながっています。教育行政が産業界や政治家の声に、研究者が教育行政の声に、「浮き足立って」しまうことが多い英語教育界で、畑中先生を始めとした地に足がついた実践者を大切にしてゆかねばと改めて思いを強くします。
■「答えはない。だが、答えを求めながら、楽しめればよい」
ワークショップの最初に、畑中先生は80歳の寿司職人の短いドキュメンタリー映像を見せて、寿司づくりに「答えなどない」と言いながら、一貫して寿司づくりを追求し、後続世代に「とてもあの大将には追いつけない」と評される寿司職人を私たちに紹介します。
この冒頭の映像を受けて、ワークショップの途中で畑中先生はさりげなく「答えはないんですよね。でも、答えを求めながら、楽しめればいいですよね」とおっしゃっていました。上にも述べたように畑中先生は照れ屋ですから、大切な台詞は実にさりげなく言います(実際、本人も照れてしまっているのでしょう)。しかし、この台詞には、あくまでも自分の授業を良くしてゆこうという職人的なこだわりと、何時までたっても自分の技術が完成しないという若干の諦念と、その両者を融和させるような人生に対する優しい肯定があります。「すごい台詞だよなぁ」と私は感動していました。
寿司職人の映像の後は、震災後の福島の中学校の様子を次々に写真を畑中先生は私たちに見せてくれました。しかし、その時も次々に冗談を言って私たちを笑わせ、私たちが震災の写真で反応に困らないように配慮してくれました(あるいは冗談でも言わないと、畑中先生自身が感極まってしまうのかもしれません)。そうやって笑いながら写真を次々にスライド投影する畑中先生を見ていて、私は実はひそかに涙ぐんでしまいました。理不尽ともいえる自然の猛威に家も車も流され、そして原発依存してきた日本社会の歪みを一手に引き受けてしまっている方が、逆に写真を見る西日本の人間の気持ちを配慮しながら、軽口で冗談を言っている姿を前にして、私は涙が出てしまいました。
■「変わらない」ではなくて「変えてゆく」
そんな照れ屋の畑中先生も、ワークショップで最後に「説教です」と笑いながら前置きしながらも、「『変わらない』じゃなくて『変えてゆく』ことが大切です」と言い切りました。「まず手を挙げることが大切です」ともおっしゃいました。地に足がついて、足腰が定まっているから手が挙がるのでしょう。いや、私たちも、英語教育にしても原発問題にしても浮き足立たずに、地に足をつけて、まっすぐに手を挙げるべきなのでしょう。
本当にいい時間をいただきました。
こんないいセミナーを、このように遅れて不十分にしか報告できない自分を恥じると共に、畑中先生、および畑中先生が代表しているような東北の皆さんに、心から感謝いたします。
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