2012年3月3日土曜日

和田玲先生による「原初体験と表現の喪失」




京都での講演(「英語教師の成長と『声』)に向けて、竹内敏晴のノートを作っている時に、和田玲先生とメールでまたやり取りをしました。その中で頂いたメールの文章は、ぜひこのブログの読者の皆さんにも読んでいただきたいと思ったので、ご本人の掲載許可を得た上で、以下に転載します。




今日は、先生のノートから3箇所だけ引用させて頂いて、僕がよく考えていることを申し述べて見たいと思います(感想文みたいなものとして)。題して、「原初体験と表現の喪失」について。これを哲学することは同時に言語教育を通じて、子供の感性をいかに育てるかという着眼への一つのヒントを提供するものではないかと思います。これは、いまの英語教育・国語教育が見失いつつある、言語教育の大切な側面であると僕が信じているものです。


*****




原初体験と表現の喪失


和田玲



ゆっくりでいい。断片的でいい。からだの内に動くものを正確にとらえたと感じることばを見つけるまで、しつこく追いかけるだけだ。(竹内 1988, 289)

[1968年当時] それまでに制度としての言語はかなり習得していたわけだが、情念やイメージの表現としての、つまり感情的表現の話し言葉を、知らない -- これはたぶん幼年時代に身につくよりないことで --。言語によって情念を表現する方法をほとんど知らなかったということから来る閉塞だったのだろう。(竹内 2009, 86)

どうもわたしは、「出会い」ということの本質的な部分は実は、話し合って何かがわかるというよりも以前に -- 後で考えついたことばで言うと -- からだとからだ、或いは、存在と存在が響き合うような次元のことで、言い換えれば「言語以前のからだ」の次元で起こっている、ブーバーの言い方に従えば「全存在の集中と融合」においておこることではないのだろうか、と思い始めたのです。(竹内 2009, 44)




僕らの人生には、時に言葉はかくも無力なものかと感じさせられる瞬間があります。

それは自分の心を正確に映し出す言葉を見いだせない瞬間です。

一方で、詩人や画家と呼ばれる人たちは、これを生業としている人たちであると言えるかも知れません。「からだの内に動くものを正確にとらえたと感じる表現を見つけるまで、しつこく追いかける」人たちです。

世の一般的な人々は、こうした人物のことを「天才」と呼び、その感性を称賛します。

しかし、考えてみれば、この感性というものは、研ぎ澄まされ、育てられていくものというよりかは、本来誰もがみな持っていたはずのものだったのではないかと思うのです。僕らはそれを知らず知らずのうちに失っていくという過程を経て大人になっていくのではないかと僕は思うのです。

では、「からだの内に動くものを正確にとらえ」る感性を「失っていく過程」とはどういうことかを考えてみます。

例えば、いま目の前の床に丸くて、赤い物体が置いてあるとします。かじると甘い味がする食べ物です。さて、「これは何だ?」と問われれば、僕らは誰もがリンゴだなとわかります。しかし、初めてその物体と対面した赤子はそういう訳にはいきません。これは一体何だろうと不思議に思い、好奇心を抱き、その物体の真実を知るために、触ってみたり、叩いてみたり、口に入れてみたり、放り投げてみたりするわけです。

そこにその物体の真実がある。鮮烈な驚異感(sense of wonder)で一杯の赤ん坊の体験は、見るもの(我)と見られるもの(汝)とが直接に、いわば無距離に接触し合体している状態と言えます。この主客未分離の状態にある原初体験が、「言葉以前の体内表現」を生む。それを見事に表現しうる人々を「芸術家」と呼ぶわけですが、これは本来誰もが持っていたはずの感性であり、表現であったはずなのです。西田幾多郎はこれを「純粋経験」と呼び、人間のあらゆる認識の原点であり土台をなすものだと考えています。

しかし、ある時お母さんと呼ばれる人たちが(別にお父さんでもお婆ちゃんでも良いのですが・・・)それを手に取り、「これはリンゴよ」などと教え込んでしまう。

すると、その瞬間にその人間とリンゴと呼ばれる物体の直接的な関係(汝・我)は断絶し、記号論的概念形式へと変貌してしまう。その物体の真実は消え、やがてこれは「リンゴという甘い味のする食べ物だ」と概念の固定化と一般化が始まるということになります。「存在と存在が響き合うような次元」の表現、ブーバーが言う「全存在の集中と融合」を通じて導き出された表現というものを失っていき、あらゆる人間の思考や思想、そして言語というものが一般化という洗礼を受けていく。その過程で僕らはやがて、「からだの内に動くものを正確にとらえる」力(感性)を失っていくのだろうと思います。僕らはこうして大人になっていくわけです。「教育」はそれに大きく貢献してしまっている・・・(嫌ですねえ・・・)

つまり、僕らは大人になって、様々な概念を理知的に吸収するごとに、対象の真実をとらえる感性を徐々に失っていくわけです。同時に、論理的思考や論理的表現に長けていない日本人は、いよいよ固有の表現を失い、思考の「空洞化」を進行していきかねない実情に立ち至っていると言えるのではないでしょうか。


そこで言語教育の話です。

そんな実情を考慮すると、いつまでも「訳読して正確に理解させろ」とか「論理を理解し、正確に下線部を解けるようにならなければダメだ」などといつまでも呑気なことを言っていていいのかなと思っちゃったりするわけです。

ここへきて議論が途端に低レベルなものになりましたが、それは言語教育の現場で行われている事柄のレベルがあまりにも低いからだろうと思います。

偏差値で生徒たちの競争を煽り、「解ける英語」、「解ける国語」なんてことばかりをやっていていいのかなと思っちゃったりするわけです。

言語の指導者は「表現を育ててナンボ」ではないかと僕は思うのです。

それは同時に「感性を育てる」ということと同義でもあります。

自己の経験を内省し、、「からだの内に動くものを正確にとらえたことば」を一語一語必死に紡ぎ出していく経験が、青春期を生きる若者達にはとりわけ大切なことではないかと僕は思うのです。授業で行うスピーチやプレゼンテーションも、文法と論理という意匠を身にまとった形式ばかりの「自己不在」な表現であってはいけません。ある現象と直接対面し、自分らしい「自己表現」へといかに導くかが言語教育に関わる教師達がもっと大切にすべき絶対的コンセンサスとならなければならないのではないかと僕は強く思います。



*****


先生にとっては当たり前すぎて、無駄に長い話となっただろうと思いますが、先生から頂いた資料を拝読して僕が得た雑感です。

本当はこの先にさらに具体論を展開しなければ、ということもわかりつつ、この辺にしておきたいと思います(なぜなら、この先を書き始めたらあと三日はかかりそうだからです・・・笑)。

それにしても、こんな哲学は一見無用に見えますが、本当は方々で語られていなければならないことだと思うのですが、はたしてどれだけ多くの言語指導者たちが考えているのでしょうか?「理解して終わり」みたいな授業が定型化しつつある高校国語の授業などはもう本当に危機的な状態であるように感じます。「教える」ことばかりをやっている。いや教えるどころか「解くこと」ばかりを教えている。学校のテキストはすっかり予備校の先生が作った模擬問題集ばかりになりつつある。それは生徒たちから「言葉を奪う」教育と言っても過言ではないでしょう。(一方、大学受験が学生に求めている力というのは、もっと純粋なところにあるような気がするのですが・・・)




このメールをいただいて、和田先生に引用許可を願ったところ、快諾していただき、かつ以下の文章も寄せて下さいました。




あんまりひどいことをいいたくないのですが、僕は学校の先生ほど、前のメールに書いた感性を奪われた人達はいないのではないかと思います。ある時期から学校の学びが予備校に追従するようになったところからそれはより一層加速してしまったのではないかと思うのです。だから生徒たちにとって英語や国語はいまや【解くもの】となってしまっている。高三の授業はどうなさっていますかという僕の純粋な問い掛けに、かつてこうお答えになった方がいらっしゃいました、『高三は予備校だよ。』と。

言葉の教育を通じて、世界と出合い、感性を深め、意見をもち、表現を深めるといった本来の言語教育に再度着眼することは僕ら現場教師の最も大切なポリシーとならねばならないはずです。それが世の中で軽視されていることを示す一つの現象として、近年の文学部不人気傾向などがひょっとしたら挙げられるかもしれません。(それは教育に携わる大人のせいであると僕はひとえに反省してしまいます)

さらに付記しますが、教育行政のみならず、学校現場の管理職が似た様な調子だと学校教育は変わらないでしょうね。どんな生徒を育てたかよりも、どこの大学に何人入れたかみたいな事でやきもきしていたりする。ゆえに授業に求める観点も粗末なものになってしまう。まるで素人みたいな人達が偉いところに座って偉そうなことを言い、若い教師たちから生徒を見る目や良い先生になる可能性を奪ってしまう。それが大きな問題でもあります。困ったものですね。



この返信の「学校の先生ほど感性を奪われた人たちはいないのではないか」という指摘には、私も共感せざるを得ません。もちろん私は、個人的には感性豊かな学校教師を多く知っています(私が親交を結ばせていただいている方はもちろんそのような方ばかりです)。しかし、時に学校(特に高校)などに行くと、私としては「えっ、どうしてしまったの?」と思わざるを得ないような、声・表情・姿勢・動き・ことばの先生に会うことがあります。

教育行政にいらっしゃる方にはさらにその傾向が強いようにも思います。再び誤解のないように申し上げますと、私はその例外である方々を数多く個人的には存じております。しかし次のような経験をしたことも事実です。

とある中学校の研究授業に助言者として参加した時のことです。授業前に校長室に通され、そこで校長先生や他の助言者や観察者の方々と歓談しました。学校訪問に関する私の経験則は、「(1)児童・生徒が他人である私にも挨拶してくれる、(2)廊下などの掲示物に生徒の個性が豊かに表現されている、(3)校長先生が話し好きで談笑ができる、の三条件が揃った学校の研究授業はまず失敗しない」ですが、この学校もその三条件を満たしたところでした。

ところが校長室にいる一人のお客さん(外部からの観察者)だけが、どうも校長室内での私たちの会話の中に入ってきません。校長先生も、私の知り合いの指導主事も、他の教師経験者とおぼしき方も、楽しく話を弾ませるのですが、その正装した比較的若い女性だけは表情を変えず、頷きもせず、かといってあからさまに会話を拒否するわけでもなく、その場にただ座っています。

私も気になって、その人にことさらに目を向けて笑顔で話しかけるのですが、かんばしい反応が返ってきません。校長先生も気になったのか、その女性に話しかけますが、同じような結果に終わるだけです。ただ校長先生が、その人の仕事内容について聞くと ―どうも教育行政の人のようでした。その若さで、その仕事内容のためにこのような場に来るということはそれなりに有能だと役所ではみなされているのでしょう― 仕事については、そつなく答えます。

しかしそこには、本当に私としては居心地が悪くなってしまうぐらい個人的表情がありませんでした。繰り返しのようになりますが、別段、むっつりしているとか、不機嫌な顔をしているとかではなく、単に表情がないのです。私などは、そのような方と同席するのがどうも苦手です。

ですから話は、事実上他のメンバーだけでかわされます。そのうち、話が、ある女性担任教師と悪ガキ連中の話になりました。その子らは愛すべき悪ガキで、勉強もできないし、授業態度も悪いのですが、独特の人懐っこさがあったそうです。女性担任もそのことをよく理解し、学級通信をまめに出したり、子どもたちに働きかけをしたりするのですが、その子らの成績も授業態度も、世間的価値からすれば悪いままでした。

そんな中、その先生が公開研究授業をしなければならないことになります。しかも「偉い方々」も含んで多くの人がくる大掛かりな公開研究授業でした。同僚の先生たちは、悪ガキ連中が変なことをせねばよいがと若干不安を感じながら、授業を参観したそうです。

ところがその授業では、悪ガキ連中は必死で真面目に勉強をしているふりをしています。とはいえ、日頃まったく勉強をしていない連中ですから、その勉強の真似が板につかず、事情を知っている同僚の先生方は、その連中の奮闘ぶりを見て、笑いをこらえるのに必死だったそうです。でも悪ガキ連中としては「今日、オレ達がふざけていたら、あの先生があぶない」とでも思っていたのでしょう。示し合わせていたのかいなかったのかは定かではありませんが、彼らなりに必死に勉強している演技をしたわけです。

話を聞いた私たちは大笑いをしました。「ははははは。でも、よくわかります。そんな子どもと担任の関係って、時にありますよね」と私も言いました。周りも大きくうなずきました。

しかし教育行政の若い女性だけはびっくりした顔をしていました ―考えてみれば、その驚きだけが、私がその日にその女性から見ることができた表情らしい表情でした―。「そんなことってあるんですか?」とその女性は、真顔で私たちに聞いてきました。そんなことなど信じられない、といった様子でした。ひょっとしたら、自分もそのように「騙されたまま」学校観察をしているのか、と思ったのでしょうか。


帰り道、私は知り合いの指導主事に「あの若い女性は、教師経験者ではないですよね。教師だったら悪ガキ連中のエピソードを理解できないわけがないですから」と尋ねました。指導主事は答えました。「その通り。あの方は行政一筋の人です。教育現場のことは、私たちからすれば、ほとんど理解していないのですが、現在は教育行政で重要な役割を担っています」。表情を曇らせて指導主事は続けます。「でもね、先生、私たち指導主事は、あのような行政の方々に対して予算請求をしなければならないんですよ。あの方たちが要求する内容を、あの方たちが指定してくる書式と文体と数字で書類を作らないと、仕事ができないんです」。 ― 私も一瞬、ことばを失ってしまいました。


教師や教育行政者が、感性を失っているかもしれないということ。さらには、それらの教育者が、子どもの感性をさらに奪っているかもしれないということ ― 私にはこれが怖ろしくてなりません。

いわゆる「学力低下」よりも、感性の喪失と剥奪の方が、よほど深刻な問題とは言えませんでしょうか。





■引用文献

竹内敏晴(1988)『ことばが劈(ひら)かれるとき』(ちくま文庫)(初版は1975年に思想の科学社から出版)






竹内敏晴(2009)『「出会う」ということ』藤原書店






2 件のコメント:

  1. 柳瀬先生
    お久しぶりです。
    先生がこのブログに書いてらっしゃることに、胸を突かれるような思いをいつも抱きます。頭でばかり考えていて、大切なことを忘れがちになっている私に、カツを入れられるような気持ちになります。
    クラスの子達は19日で卒業です。とにかく優しい子達で、男女の仲も良くて、ユーモアがあって、あと二週間しかいっしょに居られないと思うと、ちょっとさみしいです。

    返信削除
  2. ポッピーママさん、

    「とにかく優しい子達で、男女の仲も良くて、ユーモアがあって」っていいですね。

    学校教師は生徒に学力をつける一方、生徒が本来もっている豊かな人間性を損ねないように注意して置かなければならないのではないかとすら時に真剣に思います。

    柳瀬陽介

    返信削除

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。