彼の中には誰よりも高い理想があったのでしょう。だからこそ彼はまさに人類遺産としての音楽を残すことができた。
その理想の追求こそは彼の幸福だったのでしょう。
しかしそれは同時に不幸の連続だったに違いありません。
なぜなら理想とは、定義上、現実の否定であり、理想を追い続けるというのは、現実を否定し続けることなのですから。だから彼の生涯は、幸福の追求であり、不幸の連続だったのかもしれないと思うわけです。
それでは理想を捨てれば、現状を丸ごと肯定できて人間は幸福でありうるのか(あるいは、不幸ではあり得ない状態になるのか)。
そういうわけにもいかないでしょう。どこからか根付いた理想というものは、もう既に現実に入り込んでしまっている。理想抜きの現実などは、ベートーベンのような人間にはもはやありえない。理想が現実の否定であると同時に、現実が理想の否定となっている。理想抜きの現実は考えられない。そして現実抜きの理想もありえない。
理想と現実は互いの尻尾をかみ合った二匹の蛇のように絡み合い、もはや二つを分かつことができない。無理矢理二つを離せば、それぞれが喪失した尻尾の痛みを覚え、不全感にさいなまされてしまうでしょう。だからといってそれぞれが相手を食い尽くすことはできない(食い尽くしたとき、二匹はどこへいってしまうのだろう)。
言語を使い、思考を重ねることによって人間は、他の動物に見られない想像力を得た。現実にないもの、すなわち理想を想像することだ。
理想を現実に創造しようと、人間はまるで神のような試みを行なう。人間も動物である以上、なすべきことは生命の再生産とゆるやかな進化による環境との調和だけなのかもしれないのに、理想に取り憑かれた人間は創造を目指す。
繰り返すが、それは幸福の追求であると同時に、不幸を絶えず招くことである。
仮に一つの理想が到達できたと(達成の陶酔感から)思い込むことが出来たとしても、我らがベートーベンはそこでは満足できないだろう。なぜなら彼の現実には理想が食い込んでしまっているからだ。
理想と現実のどちらか一方を消滅させることはできない。かといって両方を消滅させることもできない。
さりとて理想と現実を調停するような弁証法的解決とて、新たな現実が生まれ、それが新たな理想を招き寄せ、葛藤が始まるだけだろう。
理想と現実の二項対立を、どうにかずらすこと--脱構築すること--はできないのか。
イメージ的にしか語れないのだが、二つの対立する軸をずらして、二つをグラグラにしてしまう。もはや理想がどこにあるのか、現実がどこにあるのか、二つは固定した場所をもたない。二つの揺動は時に激しく、場合によってはどっちがどっちだったかわからなくなる。かといって二つが無くなっているわけでもない。
わけのわからない言い方につきあわせてしまってごめんなさい。
しかし私はそんなイメージのあり方を本当に欲しています。
かつてベートーベンは、弦楽四重奏第十六番の楽譜に "Muss es sein?" (Must it be?)"と書込み、それに対して自分で "Es muss sein!" (It must be!)と書いたと言われています。私たちが過剰に解釈しているだけなのかもしれないけれど、いかにもベートーベンらしい言葉かと思います。
しかし「こうでなくてはならないのか?」という問いかけに「何のことだい?」と答えられないものか。
ベートーベンの最後のピアノソナタ第三十二番の第二楽章は、「何のことだい?」という彼の理想と現実の脱構築であったのではないか?
誰よりも不幸で幸福であったのかもしれないベートーベン。
ストラビンスキーのオペラ『オイディプス王』で、これまた誰よりも英雄的でかつ悲劇的だったオイディプス王の最期に、コーラスは「オイディプス、私たちはあなたを愛していた」と歌いかけます。私はこのオペラ(小澤征爾指揮)をDVDで見たとき、不覚にもこの場面で泣いてしまった。
幸福であり不幸であったオイディプス、そしてベートーベン。
神のように理想を見出したが、自らは動物であるという現実から逃れられなかった二人、そして私たち。
理想と現実の二項対立に絡め取られてしまうのは愚かなのか、それとも人間的なのか。
私たちは理想と現実を脱構築できるのか。
それともこんな問いは、禅僧がかつて「喝」の一言で無効にしてしまっていたことではなかったのか。
私たちは歴史から学んでいるのか、学んでいないのか。
新春に聞いたBeethoven: Complete Works for Solo Piano, Vol. 6 [Hybrid SACD]。
彼のフォルテピアノによるベートーベン演奏は好きで、私はリリースされる度に買い足しているのですが、この作品も良かった。収録作品が、
第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』Op.53
第22番 ヘ長調 Op.54
第23番 ヘ短調 『熱情』 Op.57
第24番 嬰ヘ長調 『テレーゼ』 Op.78
第25番 ト長調 Op.79
という有名どころだから、クラシックをあまり聴かない人に入りやすいだろうし、かといって底が浅いなどというのではまったくなく、いろいろな感情や思考がこの演奏から想起される。中期というある意味、最もベートーベンらしい時期の作品がこのCDでは堪能できます。
このような文章は本来は「音感」という私の独りよがりなブログ(アクセス少ねぇ!)に掲載するのですが、そこでは「脱構築」はわかってもらいにくいだろうし(ましては脱肛・・・のジョークもわかってもらえないだろうし)と思い、ここにも掲載しました。
でもこのブログの読者の多くの皆さんにとって、ベートーベンやストラヴィンスキーも「あ、もちろん知ってるけど何か?」でしょうね。
というわけでどこに掲載しても理解してもらえない文章を私は書き続けるのでした。(←てか、仕事しろ)
おそまつ。
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