「人を見る目」
http://blog.tatsuru.com/2008/11/03_1337.php
内田先生は、「人を見る目」というちょっと前までは、日本で当たり前に語られていたことが、急速に語られなくなり、それどころか社会的に抑圧されていることを懸念します。その傾向の根源には、「『誰にでもわかるもの』を基準にして、すべての価値を考量すること」という前提があります。内田先生は、その前提の限界について考察します。
その過程で"evidence-based"についてこう語ります。
Evidence based という考え方それ自体はむろん悪いことではない。
けれども、evidence で基礎づけられないものは「存在しない」と信じ込むのは典型的な無知のかたちである。
古来、私たちは「人を見る目」を尊重してきましたが、そういった総合的で「曖昧な」判断はevidence-basedという文化にはそぐいません。少なくとも、その判断の根拠を、目の前に誰にでもわかる証拠の形で列挙することはできないからです。
「人を見る目」というのは、突き詰めて言えば、目の前にいる人の現実の言動を素材にして、その人の「未来」のある瞬間における言動をありありと想起することである。
別にむずかしいことではない。
それは「こういう状況でこういうことを言っていた人間」が「それとは違う状況」に置かれた場合にどのようにふるまうかについての先行事例の膨大な蓄積がこちらにあれば、数年後のその人の表情や口ぶりくらいは簡単に想像できる。
私たちは根拠にもとづいて「推理」しているのである。
しかるに、この推理の根拠は数値的にはお示しすることができない。
推理の根拠が存在しないからではない。推理の根拠が限られた時間内に列挙するには「あまりに多すぎる」からである。
古来日本では、禅仏教などの伝統に基づき、以下のような態度を重んじてきたかと思います。
臨機応変
当意即妙
円転滑脱
縦横無尽
融通無碍
自由自在
禅仏教では「不立文字」とまでも言います。しかしこういった態度は現代日本では、社会的には認知されないものに急速になっていませんでしょうか。ですがこういった高度な判断、文字面にとらわれない解釈こそは人間が例えば「知恵」といった言葉で尊重してきたものかとも思います。現代日本の知性は、古来からの知恵を殺そうとしていると言えば、また私のいつもの悪い癖の悲憤慷慨口調かもしれませんが、現代日本では「小学校の学級委員的正義観念」が必要以上に幅をきかせているのではないかという懸念をぬぐい去ることができません。
ハーバマスは、かつて『イデオロギーとしての技術と科学』で「目的合理性」が人間の営みを乗っ取ろうとしていることに警鐘を鳴らしました。
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#060222
ブログ「英語教育にもの申す」が「マスコミの無責任」で語っている問題も、「『誰にでもわかるもの』を基準にして、すべての価値を考量すること」、"evidence-based"、「目的合理性」の考えが強くなりすぎているのではないかという観点で考えることもできるかと思います。
追記(2008/11/05)
阿川弘之氏の『大人の見識』には、戦前の日本人の、原理原則を大切にしながらも枝葉末節の形式には必ずしも束縛されない見識を示すエピソードが多く紹介されてよい読み物になっているかと思います。思い出しましたので、追記しておきます。
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