うちの会社では、数年前、ふたつの、超一流とはいえないものの、少なくとも私の時代の70年代の常識では明らかに一流であった国立大学卒の30代はじめの男性と女性をふたり、解雇しました。その1年半ほど前に中途で採用した人間たちです。
もちろん、労働基準法に則り、かれら二名の不足と思われる仕事の問題点を、まずある時点で指摘し、そのことを本人にも理解してもらった上で改善努力を要請し、しかし1年経過しても、うちの仕事で合格と私が判断するレベルには達しなかったので、一か月分給与の前渡し支給とともに、自主的に辞めてもらいました。
その解雇の理由が、文章力なのです。
この理由による解雇は、14年前の会社設立以来、初のことでした。
このふたりの文章は、恐るべきものでした。
クライアントに提出するあるレポートを書き上げても、その上司なり私なりが、ほとんど全行にわたって詳細にチェックし、修正しないと、とうていそのままでは外部に出せない水準でした。
だからこのふたりは、定型の伝票のような書類に何かを書き入れるという内容ならともかく、あるテーマでA4数枚以上の文章を作成するということが、最初から能力的に不可能なのです。
採用を決め、入社後そのことが分かったときの、私の絶望的な思いをお察し下さい。
衆に抜きん出たものを書けとか、名文を書けとか要求しているわけではないのです。ただのビジネス文なのですから、そんな要求をするわけがありません。主語と述語の繋がり、形容詞や副詞の位置、センテンス冒頭で挙げた事柄の行方不明、そもそもこのセンテンスは何をいいたいのか、等々の、ごくごく基本的な問題が、体を成していないのです。
70年代には一流であった国立大卒で、このありさまです。
私はこの二人の国立大卒の方を知りませんが、もちろん彼/彼女とて、基本的な漢字が書けないとかいうレベルで困っているのではないでしょう。しかし、「他人に向けた文章が書けない」ということでしたら、私にも心当たりはあります。とにかく文章は書いてくるのですが、とりあえず自分が思ったことを書き付けたような文章で、一貫して読者に何を伝え、何を訴えたいのかがわからない。仮に一文、一文がわかるとしても、パラグラフ全体で何を言いたいかわからない。あるパラグラフがわかったとしても、レポート・論文全体を通して何を言いたいかわからない----そういった事例には実は事欠きません。
自らとは異なる立場、しかも複数の立場から考える力、いや考える力以前の想像力に問題があるのではないかというのが私の取りあえずの見立てです。
マスメディアとしては、いわば「バカにでもわかる」ような形でしか提供されないテレビ番組や漫画ばかり見て、パーソナルなメディアとしては「ほぼツーカー」のような文脈でしか言葉を交わさないケータイや、「手取り足取り指示してもらっているから、あとはやるだけ」のような形「教えられて」いる授業ばかりにしか接していないのが若者の生活としたら、時空を共有する文脈を超えて思考を喚起する書き言葉は読めないし、ましてや書けないとしても不思議ではないと思います。
ちょっと前なら、そのような兆しを示す若者には「オイ、少しは本を読めよ」と言い、彼/彼女らが提出した物に対しては「オイ、その首の上についているものは何だい?少しは自分の頭で考えろ!」と言っていればよかったのかもしれませんが、今ではそうはいきません。前者の苦言でしたら「でも何を読んでいいかわかりません。とりあえずこれだけ読んでいれば大丈夫という一冊を教えて下さい」と言われますし、後者の罵倒はアカハラ(指導拒否)としてさえ捉えられるかもしれません。(私が「教育」というページに学生さんのための情報を蓄積しているのは、そういう懸念からです)。
もっと「読み、書き、考える」ということ、しかも異なる複数の立場からそうすることの重要性を学校は叩き込まないといけないのかもしれません。
「小学校から高校まで、日本の先生は親切で丁寧だから、善意で児童・生徒に、『最初に○○して、次に△△したら、□□と評価しますよ』と手取り足取りしてしまうのだよな。そんな一時間以内の短期的な合理性も、数年間という長期的な合理性にはつながらないのだよな」と日頃私は責任を小中高の先生方にかぶせるような考え方をしていました。
しかし先日、「エクセルによるタスク管理」でダウンロードするファイルを作っていると、「オイ、待て。私こそ大学生・大学院生相手にspoon feedしているじゃないか!」と気づきました。私としてはうつむき加減に「やってみたけどわかりませんでした」つぶやく学生さんとか、口を尖らせて「きちんと教えてくれないままに、『やれ』とだけ言われてもできません!」という学生さんの顔を想像してしまって、いちいち細かくファイルを作っていました。ここで学生にいい顔したいと思う自分の弱さを私は少し反省するべきなのかもしれません。
もちろん親切で具体的な指導という基本方針自体を否定するつもりなどありません。しかしどんな良いこともやり過ぎるなら逆効果になるというのも真実でしょう。
「こんなのじゃ、駄目。自分の頭で何がよくないのか考えなさい」という苦言を少しずつ若者に注入しておくことは、将来彼/彼女らが職場で「折れ」たり、離職したりすることを考えるなら、彼/彼女らのためになるように思えます。
折からも2008年10月9日の毎日新聞は、ノーベル賞受賞者の教育に関する次のような言葉を掲載しています。
今の研究者は、結果の出やすい目先の成果を追うことが多い。元気のない若い研究者が多く、もっと根本原理に迫る研究者が出てほしい。(下村脩氏 25面)
高校の物理の教科書を最近見る機会がありますが、問題を解くことにウエートが置かれているのですね。物理は全体のストーリー、全体のロジック(論理)、意味とかいう部分があまり強調されていない。教科書は大変コンパクトになっていて、肝心なことが一行、二行で書いてあり、書いてあるからいいんだ、という感じがしますね。教科書はもっとぶ厚くてもいいから、読本というようなアプローチが必要ではないかと感じます。(小林誠氏 16面)
科学者ですから言えるのは教育のこと[が私が今の社会に言いたいことです]。大変危機的な状況にあります。考えない子供を一生懸命製造している。大学受験の厳しさが非常に大きな影響を与えています。日本福祉大の先生が「教育汚染」という言葉を使っていますが、私も今の教育は(筋道を立てて考える力を奪うという意味で)、子供を汚染していると思います。(益川敏英氏 16面)
目の前に数値目標を立て、それに子供が到達するように、どうあっても間違いの無いように学習課題を指定して、後はお願いですから勉強して下さいと懇願する(あるいは強制する)----こういった、少なくとも短期的にはとても合理的な善意(あるいは管理)が、この国の文化を根底から損なってしまっているのではないかという懸念を私はぬぐい去ることができません。
異なる複数の立場から、じっくりと読んで、書いて、考える -- そういった文化を一層振興しなければ、日本は、とても表層的な合理性と善意(あるいは管理)によって駄目になってしまうのではないかとすら思えます。
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