2008年10月1日水曜日

言語コミュニケーション力論の構想

私の主要研究テーマである「言語コミュニケーション力論」(Theories of linguistic communication)についての概要を求められることが多くなったので、ここに簡単に記述しておきます。

私の言語コミュニケーション力論は、(1)個人内の認知に関する論考から、(2)相互作用的コミュニケーションを扱う論考に発展させ、最終的には(3)社会的コミュニケーションをも扱える論考にすることを目指しています。現在私は(2)の途中段階にあり、(3)に関しては予備的な考察を進めているところです。

(1)の個人内の認知に関する論考というのは、これまで言語学・応用言語学が発展させてきた標準的なコミュニケーション能力論です。この整理は柳瀬陽介(2006)『第二言語コミュニケーション力に関する理論的考察』(溪水社)で行いました。

(2)の相互作用的コミュニケーションとは、典型的には時空を共有する二人が口頭で行う言語コミュニケーションを指します。この「相互作用」では、前述(1)の言語コミュニケーション力規定では「同じ」力を持ったはずの特定の個人が、相手次第でコミュニケーションのパフォーマンスを大きく変えたりします。またコミュニケーションのトピックや場や展開次第でパフォーマンスが大きく変わることも私たちが日常的に経験するところです。明らかに(1)の範囲にとどまらない論考が必要です。

この系譜の先駆的な論考としてはDavidson(デイヴィドソン)のradical interpretationやmalapropismの議論があります。語用論では関連性理論(Relevance Theory)は、相互作用参加者の「認知環境」(cognitive environment)を積極的に考察に入れています。これらの議論を私は上記の拙著で言語コミュニケーション力論に導入することを試みましたが、まだ十分ではありませんでした。さらに認知科学の心の理論(Theory of Mind)も、「相手の心を読む」という個人内にとどまらない認知を理論化しています。

従来の言語学・応用言語学の議論に、これらDavidson、関連性理論、心の理論などを統合し、言語コミュニケーション力論を再整理したのが柳瀬陽介(2008)「言語コミュニケーション力の三次元的理解」(JLTA Journal (2008) No. 11. pp. 77-95)です。 もし私が現時点で(2)の論考に関して、暫定的にでも答えを出さなければならないとしたらこの論文をもって回答に代えます。

さらに(1)の個人内の論考と、(2)の個人という枠組みを超えた論考の関係を明確にし、さらに(2)でより明確に理解されるコミュニケーションの不確定性をうまく説明するにはLuhmann(ルーマン)のシステム理論の枠組みでコミュニケーションを考えることが有効だと私は考えるようになりました。これに関しては、実践者としての田尻悟郎先生を分析しようとした「何がよい英語教師をつくるのか--田尻悟郎氏実践のルーマン的解明の試み」と「コミュニケーションのテスト、テストのコミュニケーション」という日本語の論考を経て、現在は"Indeterminacy in Communication"という学会発表の形でまとめています(ダウンロード: PDFファイルPowerPointファイル)。ルーマンの勉強はこれからも続けて、(2)の論考はさらに充実させたいと思っています。


(3)の社会的コミュニケーションとは、直接に時空を共有しない不特定(そして多数)の相手とのコミュニケーションのことを指します。例としては、時空の共有性・不特定(多数)性の小さなものでしたら、同じ組織の日頃接しないセクションとの文書を通じてだけのコミュニケーションや学会誌での論文公刊があります。このブログのような万人に開かれたウェブ空間でのコミュニケーションは、時空の共有性・不特定(多数)性は非常に小さなものから誰も予想がつかないぐらいの大きなものになることがあります。時空の共有性・不特定(多数)性が大きなものの典型例は、様々なメディアを通じて伝えられる政治家の発言などがあるでしょう。

書類を作ることや、論文を書くこと、あるいは多くの人に読まれるためのブログ記事を書くことでさえ、存外に難しいことは皆さんもお感じになるかと思います(大学教師として私は学生にこの「書く力」を教えるために苦労しています)。直接に時空を共有し、文脈情報が非常に豊かで、互いに解釈の成立を即時的に協力できる(2)の相互作用的コミュニケーションと異なり、この(3)の社会的コミュニケーションでは、時空を異にし、共通して参照できる文脈の範囲もあまり定かでなく、そもそもどのような相手に読まれるのかに際しても正確には知ることができないことを勘案してことばを紡ぎ出さなければなりません。これこそ「リテラシー」です。特別な障害を持たない限り人間は口頭での言語コミュニケーションはかなりの程度できますが、「リテラシー」を持つためには、たいていの場合、きちんとした学校教育などの知的訓練が必要です。

この社会的コミュニケーションを考えることは、言語を話しことば(speech)と書きことば(writing)に分けた上で、後者の書きことばについての考察を加えなければならないと私は考えています。ですが管見では、標準的な言語学・応用言語学は話しことばの分析が中心か、話しことば書きことばをあまり区別しないで論考を進めています。その点、ルーマンなどの社会学者はメディアといった観点からも、書きことばの固有性を正面から捉えようとしています。また私が以前から興味をもって少しずつ勉強しているArendt(アレント)の言語使用に関する論考は、言語の社会的側面(というより彼女の用語なら政治的側面)を他にない形で捉えているように思います。さらにDerridaデリダ)の分析も非常に魅力的です。私はこれらの観点からの勉強を始めたばかりですので、この(3)の論考については今後しばらくの課題としたいと思っています。

以上の(1), (2), (3)の展開が私の言語コミュニケーション力論の構想です。研究がある程度進めば、いつかはこれらをそれなりに統括した本を書きたいと考えています。

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