2008年9月28日日曜日

ヴィヴィアン・バー著、田中一彦訳『社会的構築主義への招待』川島書店

英国の心理学者によるこの本を読んで「社会的構築主義による脱構築」という一種の矛盾表現を思いついたので、この小文を書き付けます。矛盾は「構築と脱構築」および「主義と脱構築」に見られます。通常、これらは共起できないものと考えられているからです。しかし私は伝統的心理学の脱構築として社会的構築主義を読み込み、使いこなす限りにおいて、社会的構築主義はうまく伝統的心理学とも相互排他的に憎み合わずにやっていけるし、私たちの知見も豊かになると愚考しました。

それにしても「社会的構築主義」とか「脱構築」とか、大きくは「ポストモダン」とか、捉えにくい概念にはうんざりだとお考えの方も多いかと思います。科学概念のようにワンストップで、ある定義さえ覚えておけば、あとはその概念はその定義に置き換えてしまえばいいだけだったらどんなに話は楽でしょう。しかし、概念は、私たちの生活に即したものになればなるほど、ウィトゲンシュタインのいう家族的類似性の色彩を強めます。一義的に本質は定義しがたく、複数の要素が互いに重なり合ったり、合わなかったりする使用を私たちは見極め、使い分けるしかないからです。そして「社会的構築主義」にせよ「脱構築」にせよ、それらは私たちの生活に密着した概念だと私は考えています。

この本は社会的構築主義のラインで考えるなら、例えば「パーソナリティ」といった、個人内にある行動の原因と伝統的心理学で考えられている概念でさえ、そう単純で固定的な実在物ではないことを示します。これはいわゆるコミュニケーション能力に関しても言える議論です。コミュニケーション能力を個人内能力とだけ考えてしまえば、インタラクションでどんどん変わってゆくコミュニケーションのパフォーマンスをどう説明してよいのかわからなくなります。次の「パーソナリティ」についての言及を「コミュニケーション能力」などといった概念と重ね合わせながら読んでみましょう。


要するに、どちらが本当の自分かを問うのは、意味がないのである。それらは両方とも本当であって、しかもそれぞれの「あなた」のヴァージョンは、他者との関係の所産にほかならない。それぞれの「あなた」は、あなたの関係を形成する社会的な出会いから、社会的に構築されている。人びとの行ったり言ったりすることは、パーソナリティなどの内的な心的構造から生じるという考え方から離れようとするために、ショーターは「共同行為」の概念を提出したのであった。人びとが相互作用するとき、むしろそれは、お互いのリズムや姿勢に微妙に反応しながらいつも一緒に動いてゆくダンスのようである。そのダンスは、彼らの間で構築されるのであって、どちらかの人の、前もっての意図の結果と見ることはできない。(43ページ)


こうなると伝統的な心理学の考え方と社会的構築主義の考え方は全面的に対立するように思われます。


われわれが今日おなじみの伝統的心理学と社会心理学は、そのルーツを北米の諸大学の実験研究室にもっており、したがってそれらはしばしば「北米の心理学」と言われる。歴史的にそれらは、人間の行動と経験が、精神内部の説明を探ることによって、つまり個々の人の「心」の内部で働く構造と過程を探ることによって
理解されうるという前提に基づいて活動してきた。心理学が主に関係するテーマの多くは、われわれ自身が個人のレベルにあると感じる、記憶や近くや動機づけや情動などのようなテーマであった。われわれの記憶やわれわれの感情、欲動等々は、われわれにはプライベートな出来事(われわれの内部で生じ、われわれだけに自分自身の頭の内で手に入るという意味でプライベートな)だと思われる。伝統的心理学はこの前提に基づき、この自足した個人の行動や経験をその基本単位として解してきた。この見方の内では、記憶能力や知覚の正確さやパーソナリティ特性のような事柄の「純粋な」測定は、人に影響するかもしれない変数をできるだけ多く取り除くことによって、理論的には得られる。(150ページ)


こういった考えを社会的構築主義は全面否定しようとします。


個人はあらかじめ与えられた存在であって、そこから二次的現象として社会が生じると見る見方、これは心理学という学問の核心にある。したがって、人間の経験と行動を説明し予測することをめざす心理学全体の企ては、社会的構築主義のパースペクティブからすると、誤った前提に基づいている。それは、人格性の本当の源泉に本気で取り組んでいないのだから、せいぜいが見当違いであって、またその慣行や知識は社会の中の不公平な権力関係を維持するのに役立っているのだから、悪くすれば抑圧的である。(149ページ)


かくしてしばしば全面戦争が始まります。社会的構築主義の立場からすれば、伝統的心理学の研究者など、愚かか専横的(あるいはその両方)に思え、伝統的心理学の研究者からすれば社会的構築主義の研究者など学問が何かをわかっていないイデオローグに思えるからです。

この二つの立場--人間の現象を個人から見ようとする立場と、社会から見ようとする立場--に安易な調停や統合あるいは融合はありえないように思えます。しかし、この二項対立を「脱構築」することは有効なのかもしれません。著者はデリダの議論に依拠しながら次のように論じます。


二項対立では、常に一方の項がその対立項より特権的地位を与えられるのだが、そうした二項対立は諸イデオロギーの特色をよく表しているとデリダは論じる。それらは読者を「だまして」、二分法の両者は実際には他方なしには存在しないのに、一方の側が他方よりもずっと価値があると信じ込ませる。したがってわれわれは、個人が一次的で社会は二次的だと考えるように仕向けられるし、精神は身体に優ると考えるように仕向けられ、感情よりも理性を高く評価するように仕向けられる。この「二者択一」の、二項対立の論理を、われわれは拒否し、代わりに「二者双方とも」の論理を採用することをデリダは勧める。どんな現象を考えてみても、それを正しく理解するためには、われわれの研究の単位として、存在していると考えられるものと、それが排除していると思われるもの、その両者を取り上げる必要がある。したがって、二分法の対立項を形成するものとして個人と社会を考えるよりも、その代わりにわれわれは、それらを一つの体系の不可分の構成要素として、どちらも他方なくしては意味がないものとして、考えるべきなのだ。したがって、個人/社会の大系は、どちらの項も、自然に正しく理解されうるような何かあるものを指しているのではないのだから、それは研究の単位なのである。
そのような「脱構築」は、力/構造、自由/決定論、自己/他者といった、問題をはらむ他の二分法にも適用できる。「われわれは自由意志をもっているのか、それともわれわれの行動は決定されているのか?」、また「われわれは力をもっているのか、それともわれわれは社会の所産か?」といった、それらの二分法が提起する問いは、この枠組みではその意味を失う。それらは、問うことが適当でない問いになる。(165ページ)


つまり伝統的心理学(以下、個人心理学)を荒唐無稽で全面否定するべき愚見として社会的構築主義を称揚するのでなく、個人心理学を揺さぶり、その限界を明らかにするために、つまりは個人心理学を脱構築するために社会的構築主義を読み込むわけです。

逆に言いますと、個人心理学からすれば、社会的構築主義をナンセンスとして捨て去るのではなく、社会的構築主義も無謬の包括的体系ではないことを示すために、つまりは社会的構築主義を脱構築するために個人心理学を再解釈するわけです。

そうしますと社会的構築主義も、個人心理学も、それぞれにこれまでとは変わらざるを得なくなると思います。変わるといっても、社会的構築主義は社会的構築主義で、個人心理学に変容してしまうことはないでしょう。個人心理学も個人心理学のままであり、社会的構築主義にいつのまにかなってしまうこともないでしょう。また、両者がいつか統合され、「真なる心理学」となることもないでしょう。

ここでルーマンを私なりに読み込めば、個人心理学は「心理システム」を扱う学問です。この心理システムにとって、社会的関係(典型例としてコミュニケーション)は、心理システムの「外部」(「環境」)の出来事にすぎません。心理システムは、コミュニケーションという社会システムを直接支配はできません。もちろんある発話をするのはある心理システムです。しかしその発話が公的空間に現れるや否や、それは他者の多様な解釈にさらされ、自らの発話とて自分が完全にコントロールできなくなります(会話がそれぞれの参加者の思惑を越えて弾むことや、誰も制御できなくなった会議での議論は私たちが日常的に経験することです)。つまり心理システムにとって社会システムは、心理システムの観点からは説明し尽くせない、かといって無視してしまえば心理システムの理解そのものが損なわれてしまう外部(「環境」)なのです。

逆に社会システム(コミュニケーション)の観点からするなら--コミュニケーションを擬人的に理解することは容易ではないので、この想定は難しいかもしれませんが--、コミュニケーションのそれぞれの参加者は、その内部が不透明な外部(「環境」)に過ぎません。しかしコミュニケーションはこの外部(「環境」)がなければ成立しないのです。コミュニケーションを考える際には、個人という心理システムは外に置かれてしまいます。社会関係と個人を一人の人間が同時に考える、つまりは社会的構築主義と個人心理学を一つの体系として統合することは、原理的に不可能ではないでしょうか。私たちができることは、片方を考える際に、もう片方を、絶えず影響を与えてくる異質な「環境」、しかしそれなしでは自らが極めて限定された研究にしかならない異なる立場として絶えず念頭におくことぐらいではないかと思います。

無矛盾の体系を理想とする人びとにとって、上記のような考え方は受け入れがたく、また愚かな弱腰の考えのようにすら思えるかもしれません。しかし私は現実世界を考えるためには、常に自分の思考体系に矛盾を導入することをこれまでモットーとしてやってきました。私が少しでも現実世界を理解することができたとするなら、それはこの矛盾を排せず、矛盾ある中で現実を理解し、それに対応してゆくことに依るのではないかと自負しています。"The test of a first-rate intelligence is the ability to hold two opposed ideas in the mind at the same time, and still retain the ability to function."というF. Scott Fitzgeraldのことばを私は愛しています。

以上、私は個人心理学と社会的構築主義の関係を中心に語ってきましたが、本書は副題の「言説分析とは何か」が示すように、言説分析に多くのページを割いた書です。言説分析も、英語教育界に、もっともっと、しかし丁寧に導入されるべきツールだと思います。

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