■また私は内田樹氏の考え方に共感するところが多いので、以下の文章の中の考えにも内田氏あるいは内田氏が引用する人々の考えがたくさんあることであろう。また私はアレントにも大きな影響を受けているが、以下には彼女が『精神の生活』で示した議論の枠組みが多く使われている。以下の文章に私は責任を有するが、オリジナリティを名乗る権利は有しない。
(内田氏のエッセイでは、最近では以下の二つを面白く読んだ)
http://blog.tatsuru.com/2008/05/08_1200.php
http://blog.tatsuru.com/2008/05/13_1156.php
■話を始める。高度資本主義社会が徹底し、私たちの身の回りにはあまりにもたくさんの「商品」があふれている。いや、私たちは「商品」以外の物事のあり方を想像しがたくなっている。貨幣を媒介とした商品売買の枠組み(あるいはメタファー)以外で物事を捉えることがほとんどできない若者も存在するのかもしれない。
■同時に「教育」という社会の営みは、かつては市場原理の外側あるいは周縁に存在するものと見られていたのかもしれないが、現状では教育機関の多くは市場原理に基づいて運営されているようにも思われる。大学なら研究における資金獲得のための競争であり、教育における受験生の確保のための「営業」である。
■思わず「営業」という言葉を使ってしまったが、これは大学教員の少なからずが自嘲的に使う言葉であり、大学経営者の多くが確信的に使う言葉であろう。
■「営業」である以上、大学も「商品」をセールスする姿勢で高校生に接する。また大学院も定員確保に焦るあまり、気がつかないうちに商品のセールスのような言辞を弄しているのかもしれない。
■手元に大学・大学院のパンフレットがあったら見てほしい。たいていは現役生が楽しいキャンパスライフを満喫し、卒業生が満足ゆく就職先で懐かしく母校を回顧する談話と笑顔の写真があることだろう。私の知る限り、大学・大学院の勉学がいかに厳しいかを詳しく具体的に記述するパンフレットはあまりない (反例があればぜひ教えて下さい)。
■このようなパンフレットは「夢」を売ろうとしているのではないか。
■以下、大学・大学院は「夢」を売ろうとしていると仮定して話を進める。
■商品としてのその「夢」は、「夢」だけに漠然としたイメージでしかないが、少なくとも上記のエピソードや写真で想像できるぐらいの具体性は持っている。
■つまり、大学が商品として「買って下さい」と高校生に提供しているのは、「楽しくも充実したキャンパスライフ」あるいは「笑顔で働ける就職先」という「夢」である。
■高校生・大学生は、大学・大学院を選ぶ場合、自分なりにパンフレットやらその他の情報を収集し、自分の所有する「貨幣」と相談して、もっとも得をすると思われる大学・大学院への入学権を購入する(「学生はcustomerである」という表現はもはや一部の大学関係者にとって比喩ではない)。入学とはお得な買い物をすることである。
■入学者が「貨幣」として支払うのは実際の入学金・授業料であるが、さすがに現在の若者とて金ですべてが解決するとは思っていない。彼/彼女らが大学・大学院生活という商品を購入するために支払わなければならない対価は入学試験をパスするという「知力」である(ちなみにこの「知力」の対価は少子化でどんどん下がっているのはご承知の通りである)。
■「知力」を獲得するため若者は勉強する。だが私見では、小学校から高校まで「○○を××したら合格です」というように、明確な始まりと終わりと範囲があるものを学びとして規定する風潮がどんどんと強くなっている。さらにはその規定を細かくして、誰でも一定の暗記や知的作業をすませれば一定の点数がもらえるようにすることが親切な指導であり評価であるとしている(一部の人は「指導と評価の一体化」などという言葉を頻繁に使うが、私はこの言葉にスローガン以上の深い意味を見出したことはない。乞、ご批判)。
■つまり現代日本の学校では、「知力」とは暗記や知的作業を対価として獲得されるものであり、いったん獲得されたならそれは教育市場で交換価値を持つ一種の「貨幣」として通用する(いや通用しなければならない)。
■現代日本の学校での「学び」とは、暗記や知的作業によって教育市場での交換価値をもつ知力を獲得するプロセスであり、そのプロセスが細分化され、簡易化され、誰でもその知力という「貨幣」を獲得できるような単純課題に還元された時に、教師は親切でよい教師という評判を得る。
■だが大学・大学院で待っているのは、そのように細分化・簡易化された単純課題ではない。大学・大学院での学びの本質は、自ら考え、その考えを他人の批判やや現実の世界に面しても耐えられるように充実させることである。
■このことは、従来「高校までの『勉強』と大学からの『学問』は異なる」という言葉だけで、それほど大きな問題もなく学生にも理解されてきたが、最近は学生にこのことを理解させるには骨が折れる場合が多い。時には大学院生すらもこのことがなかなか理解できない。
■学生からすれば、すでに入学金・授業料という実際の貨幣、および入学試験をパスする知力という対価を支払い終えたのである。なぜ支払いを終えたのに、商品である「夢」をすぐに手渡してくれないのか、彼/彼女らには不可解である。
■もちろん学生とて、入学時の支払いだけですべての支払いが終わったなどとは思っていない。入学以降も支払いは続くことを承知はしている。しかしその支払いは、彼/彼女らにとっての旧知の貨幣であり、細分化・簡易化された知的課題であるはずだし、あるべきである。彼/彼女らはそれ以外の枠組みで思考し行動することにほとんど慣れていない。
■授業料の支払いは親、もしくは「奨学金」という名の負債が自分の代わりに支出してくれるので、学生はほとんど気にしない(「奨学金とは借金のことだ」などと言う教師は疎んじられる)。知的支払いは、これまでのように明確に範囲が定められた箇所の暗記あるいは知的作業ですませられると学生は思い込んでいる。
■ところが、一部の大学教員は「考えろ」という。始まりこそあるかもしれないが、明確な範囲も定められておらず、最終地点も示されていない「考える」という営みは、学生がそれまでほとんど経験したことのないものである。
■だが実社会で「考える」ことは不可欠である。
■現実社会で、自分の思い込みだけで物事がすむことはほとんどない。私たちはしばしば現実に驚かされ、自分の思い込みが単なる仮説でしかなかったことを知る。複数の仮説を同時にもっていないならばなかなか現実には対応できないことを知る。あるいはせめて一つの仮説のもとに行動するにせよ、常にその仮説以外の可能性について自らを開いていないとやっていけないことを知る(Donald Schönはこれをdouble visionと呼んだ)。時には自分の仮説が当たり前のこととしてその存在すら自覚していなかった諸前提を掘り起こし、疑ってみなければならないことを知る。諸前提を取り替え、今まで人が思いついていなかった全く新しい仮説を立てることさえ時には必要であることを知る。そしてどんな仮説を立てても、それは部分的で暫定的なものでしかなく、現実世界の複雑性は、常に自分の知的複雑性を凌駕していることを知る。これが現実である。
■だから現実に対応するためには、考えることができなければならない。考えて、自分の思い込み以外の可能性を想像し、その想像を仮説という形で具体化しなければならない。複数の、一部は相矛盾するかもしれない諸仮説を同時に考えながら行動しなければならない。仮説がうまくいかないなら新たな仮説を考え出さなければならない。新たな仮説を生み出すためには、自明視していた前提を問い直さなければならない。そうして考え続け、考え抜いて、なんとか現実に対応しなければならない。
■この考えるという営みには、「ここまででよい」という明確な範囲はない。「それで正解です」という最終解答はない。この意味で「考える」ことは高校までの知的課題遂行とは決定的に異なる。言い古された言い方だが、高校までは「既定の問いに対する既定の答えにいかに速くたどり着くか」という勉強をしていた。大学・大学院では、いかに適切な問いを立てるかという学問をする(=問ヲ学ブ)。現実社会で必要なのは、高校までの勉強を基盤とした、創造的な知的能力だからだ。
■だが高校まで「親切な教師」に知力のお得な購入の仕方ばかり指示されてきた学生は、この「学問」に狼狽する。「卒論・修論のテーマは自分で見つけろ」、「見つけられないなら、自分でじっくり本を読んで考えろ」などという大学教師は、不親切で非常識な人間に思える。そのような大学教師は、消費社会の常識では考えがたい変人である。なぜ「このテーマで研究しなさい」、「この本のここからここまでを読んでまとめなさい」、「ここからここまでを調べてきなさい」「調べるのはこの方法でやりなさい」と目の前にわかりやすく「商品」を出してくれないのだ! 「商品」さえ出してくれれば自分は知的作業という対価を払う用意があるのに!!
■仕方がないので、教師に自分の意見を述べると、教師はそれにネチネチ絡んでくる。「それはもっと精確に表現するならどういうこと?」、「そう主張できる理由は?」、「その理由をサポートする具体的な証拠は?」、「その証拠は十分な証拠能力を持っている?」、「そもそもあなたの枠組みで私たち読者も考えるべきだという根拠は?」、「あなたの問いはなぜ読者にとっても大切なの?」、「あなたの問い以外にはどのような問いが考えられるの?」などと次々に問いを出す。それでいて正解は決して示さない。これは教師の不親切なのだろうか。無能力なのだろうか。
■「これは学生を追い詰めているだけである」と学生は思う。「追い詰めることは指導ではない」と学生は不満を抱く。「これはアカハラではないのか」という思いさえよぎる。
■だが大学教師は別段追い詰めているとは思っていない。教師は学生と対話をしたいと願っている。対話を通じて、学生の考えを、他人や現実にも通じるように鍛え上げたいと願っている。対話こそが指導だと思っている。
■だが現在の学生にとってそのような大学教師の言いぐさは、理解しがたい言い訳に過ぎない。
■百歩譲って、自分が買ったはずの「夢」を実現するためにはその「考える」ことが必要だとしよう。しかし明確な範囲も終点もない営みなど荒唐無稽ではないか。形なく終わりない商品などない。ゆえに学生としては、もしこの「学問」が大学・大学院が売ろうとしている「商品」だとしたらこれは欠陥商品であり、そもそもこの商取引は詐欺ではないかとさえ思えてくる。
■一神教の文化を持つところでは、もしその信仰が原理主義的なものでなければ、神は人の知が不完全であることを否応がなしに思い起こさせてくれるものである。禅の公案の文化を持つところでは、ある問い方を根本的にひっくり返したところに新たな知が現れることを人々は体得する。だが前者は日本では稀であり、後者は数百年もの歴史にもかかわらず今死に絶えようとしている(私はそれが悲しくてたまらない)。
■自然の中で遊び回った子どもなら、五感(いや六感)を総動員しても、自然は不可知なものだということを体感する。その圧倒的な複雑性の中で、自分なりに何とか遊んでゆくなかで、子どもは柔軟な思考力と想像力を養う。だが現代日本の多くの子どもにとって自然の中の遊びなど、年に一度ぐらいに指定管理区域内で親の監視の下に経験すればいい方だ。多くの子どもにとって自然はアニメの中で描かれているものだけだ。「体験」とはWiiやDSでするものだ。アニメやゲーム以上の複雑性は処理しきれないものであり、危険なものだ。アニメやゲームでは「こうすれば、ああなる」という単純な因果法則が存在する。単純な因果法則では説明できない経験などあってはならない(一部の大学院生は単純な因果法則を複雑性の観点から否定する教師は「非科学的」だと主張するかもしれない)。
■それでもスポーツなどを徹底的に経験することができるなら、自然ほどの複雑性はないものの、自分の五感(六感)を総動員しても、予期できない結果が生じることを熟知する。だがスポーツに熱中することは、それが英才教育によって支えられていない限り、無駄な「投資」だと多くの親は信じている。ましてや互いに全身で闘い、その中で六感を最大限に発揮する武術など時代遅れの陋習に過ぎない。
■昔のように、年齢・性情・思考において様々に異なる人間と、とにかくなんとかつきあってゆかなければならない文化があれば、自分の考えは、多くの考えの中の一つに過ぎないことにすぐ気づく。だが習い事(=市場交換価値のある知力などの獲得)に忙しい子どもにそんな暇はない。
■読書に夢中になり、あるページで感動のあまりしばし天を仰いでみたりした経験や、芸術作品の表現に文字通りひっくりかえりそうになってしまった経験があれば、自らを超えた偉大なるもの・畏怖すべきもの・崇高なるものがあることを知ることができる。だが明確に定義されないそのような経験は市場にはのらない。市場にのらないということは、他の物と交換できないということで、それは「価値」がないということだ。
■しかし現代の若者は上記の文化とはほとんど無縁である。したがって彼/彼女らの思い込みがすべてである。自分が認識する世界のあり方が、唯一の世界のあり方である。
■いや「唯一」という言い方ですら誤解を招くかもしれない。「一」は「二、三、四・・・」を連想させるからだ。彼/彼女らの思い込みには、それに対立するものがないのだから「絶対」である。
■「絶対」を否定されることは冒涜されることである。彼/彼女らの思いは絶対だ。少なくとも絶対であるべきものだ(なぜならば他の異なる世界は想像しがたいものなのだから!)
■かくして現在、少なからずの大学・大学院生が、自分の意見(自分の世界)に色々な問いを投げかけ、あげくのはてには「考えろ!」という大学教師を、「絶対」を否定しようとする不心得者だと思う。だが彼/彼女はなんとか卒業・修了する。大学教師も授業アンケートや退学率などの数値管理や、アカハラで訴えられることを恐れ、厳しくは教育しないからだ。
■そうして学生は社会に出る。彼/彼女の人生が豊かであらんことを!
■だが憧れの就職をした若者もそこに「夢」はないことにやがて気がつく(非正規の仕事しか見つけられなかった若者はもっと早くそれに気がつく)。
■現実社会では自らの思いを超えたことが次々に生じる。しかも明確な指示なしにそれらに対応することが求められる。
■自分の思いが否定された時に「キレる」のは多くの若者の特徴である(それはそうだろう「絶対」が否定されたのだ!)。「キレた」若者は次の夢を探して転職する。( 彼/彼女の人生が豊かであらんことを! )
■しかしどこに行っても「夢」や「絶対」はない。彼/彼女の思い込みは否定される。自分の思い込み以外のことを想像できないし、自分を超えた現実の中で考え抜くことで新たな可能性を見出すことができない若者にとって、そんな自分は「傷ついた」被害者である。「なぜ自分はこんなにひどい目に遭わなければならないだろう」と彼/彼女らは思うかもしれない。
■しかし雇用者の立場からするなら、彼/彼女は単純で固定的な仕事ならできるのだが、想像力で異なる複数の立場を同時に考慮する判断はできないし、ましてや自らを問い直し新しい仮説を生み出すこともできないのだから、組織を導き革新する中核のメンバーとしては仕事を任せられない。いきおい彼/彼女には、それが知的なものであれ肉体的なものであれ、単純労働をあてがうことになる。
■単純労働は、彼/彼女の知的能力を向上させることはない。彼/彼女は年齢を重ねるが、それにふさわしいと彼/彼女が考える賃金も仕事の働きがいも得られない。彼/彼女は心中深く「傷つく」。
■「傷ついた」中で、安直な宗教やナショナリズムに「絶対」を見出し救われたように思う若者も多く出てくるだろう。「今までの自分の思いは間違っていたかもしれないが、これこそは絶対だ!」。彼/彼女は熱心にそれに没頭し、それに疑問を投げかける人間を矯正しようとする。矯正できなければ排斥するしかない(Eric HofferのThe True Believer (1951)をきちんと読んでみたいものだ)。
■かくして個々人の若者の悲劇は、社会や国の悲劇へと拡大する。歴史上、そのような例は多くあるし、日本の未来がそのような悲劇から免れていると楽観できる理由はない。
■多くの知識を持つものの、自らの考え方を変えることができない者、いやそれ以前に他の可能性を想像することがはなはだ困難な者、こういった者の知性を私たちは何と呼べばいいのだろうか。繰り返す。彼/彼女は知識を持っていないわけではない。ただ「考える」力に欠けているのだ。
■「考える」ことについてもう一度考えてみないか。
追記
上の文章を書き終え、ブログに掲載したら、ようやく私の悶々とした気持ちが「成仏」し、冷静な気持ちも戻ってきました。
冷静になった上で、勤務校の名誉のためにも書きますと、本日行ったある大学院の授業では、ハンナ・アレントのDer Raum des Öffentlichen / Public realmは、「公的領域」と邦訳ではなっているが、それは「公的空間」、「公共的空間」、「公開空間」などの訳語より適訳と言えるだろうか、そもそも中国文化・日本文化での「公」とはどのような意味か、古来からあった日本語の「世間」と明治以来の「社会」はどのように違うのか、インターネットの2チャンネルで成立している匿名空間をアレントが目にしたら彼女はそれをどう評するだろうか・・・などを討論し、多くの院生が「面白い」と繰返し言ってくれました(これは英語講座、国語講座、日本語講座合同の授業です)。
また個人面談では、ある院生と私は一時間半、直接の修士論文の話題から離れて、現代日本の教育問題について語り合いました。私がそれほど長時間を割いたのは、ひとえにその対話を私自身が楽しんでいて、打ち切ることができなかったからです。
このようにうちの大学院そして大学には優秀で「考える」ことができる学生が多くいることを彼/彼女らの名誉のためにも付記しておきます。
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