2008年4月1日火曜日

ソレ・ダリダ『英語教育の脱肛築』東広島大学出版会

 いくつかの問いがある。「英語教育が『教育』である限り、そこには人間の変容が企図されざるを得ず、その意味で英語教育は<暴力>に連なるのではないのか?」。あるいは「英語教育が『英語』に関わる限り、それは19世紀国民国家的意味での『帝国主義』の支配構造ではないにせよ、ネグリ・ハート的な<帝国>の支配構造に人々を組み込むことではないのか?」

 英語教育の日常においてこれらの問いは抑圧され隠蔽される。これらの問いを掲げる者は忌避され、彼/彼女の現前で忘却される。それはこれらの問いがデモクリトスの剣だからである。彼/彼女らが、デモクリトスの剣をつり下げる糸に、触れようとするからである。我々は9/11以降、「何かの拍子」に、世界が一変してしまうことを知悉している。デモクリトスの剣は私たちの意識の中から痕跡もなく消え去らねばならない。たとえその存在が事実だとしても。

 しかしフランスの現代思想家、ソレ・ダリダは、天使のように大胆に悪魔のように細心にデモクリトスの剣の糸に手を触れる。かつてジャック・デリダは「脱構築自体は脱構築不可能であり、それゆえに脱構築は正義なのだ」という事実確認を遂行的に発言した。ダリダは、デリダによって脱構築不可能であり正義であるとされた脱構築自体を脱構築し、脱肛築に至る。西洋哲学は、ここにその限界を越境し、「過剰の痛み」として私たちの心身を貫く。ダリダの英語教育に関する根源的論考(いやこれは病いなのだろうか)は、私たちの世界理解を、高速オセロ・ゲームのように反転させ、逆転させ、さらに反転させる。いやオセロのアナロジーは不適切であろう。ダリダは反転・逆転を無効化し、その無効化を嘲笑し、その嘲笑を嘆きつつ、いつのまにか新たな言語ゲームを開始している。

 読者としての英語教師は、ダリダの文体によって、英語教育の日常世界から、脱-西洋的な思考世界(しかしそれは断じて東洋的な思考世界ではない!)に拉致される。読者はダリダの問いに絡め取られ、ダリダの問いを措定しつつ否定する(「ダリダはダリダ?」)。これこそが「過剰の痛みを引き受ける」脱肛的思考である。ここに英語教育学は初の本格的な思想書を手にしたわけである。

 翻訳をしたのは柳瀬妖介氏(東広島大学殉教授)。「それまでフランス語をまったく勉強したことがなかった私が『ダリダを翻訳したい』と言ったとき、フランス現代思想を専攻する私の友人は一笑に付しました」。しかし氏は学習指導要領の精神に忠実にフランス語学習を始め翻訳をやりとげる。

「実践的コミュニケーション能力とは、『情報や相手の意向などを理解したり自分の考えなどを表現したりする』ことです。リーディングも『まとまりのある文章を読んで、必要な情報を得たり、概要や要点をまとめたりする』ことであり、『まとまりのある文章を読んで,書き手の意向などを理解し、それについて自分の考えなどをまとめたり、伝えたりする』ことです。ですから私は「精読」や、文法に忠実な「直訳」という過去の忌まわしき伝統は捨て去りました。情報や意向を理解したり、概要や要点をまとめたりすることが、外国語の力なのです」と氏は語る。

 かくして氏は「ダリダは、だいたい、こんなこと?が、言いたい?みたいな、感じ?? ってか、まぁ、オレ的には、こんなとこ?、みたいな??」を口癖としながら、フランス語を読み続け、ダリダの意向を日本語でまとめ続けた。解釈が揺らぐときは、センター試験方式にならい、氏なりの「こんな感じ?」の翻訳文を四つ作り、その選択肢を鉛筆をころがすことによって決定し(「暗闇での跳躍!」)、翻訳を続けた。氏の翻訳は、現行学習指導要領の勝利である。

 学習指導要領による英語教育の日常を自明としていた「私たち」は、逆説的に、学習指導要領の勝利によって脱肛築される。「私たち」ってダリダ?。脱肛築の痛みはあなたの心身を貫くだろうか。


[以上、『英語狂育通信 2008年4月1日号』より転載]

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