2007年8月1日水曜日

英授研でのQ&A 4/4

【懇親会でビールを飲みながらの質疑応答の補筆再構成】

Q4 Exploratory Practiceのことはだいたいわかったし共感できるのですけれど、これって当たり前のことではないですか?少なくとも小学校の有能な先生なら、思考力やら判断力に非常に優れていると思うのですが・・・[他教科を専門とするある中学校の校長先生による質問]

A4 Exploratory Practiceが「当たり前」のことをやとうとしていること、および、小学校の先生方が思考や判断に優れ、高い対応力・柔軟性を持っていることについては私も同意します。ただ英語教育界では、その「当たり前」のことがなかなかやられていないこと、あるいは少なくとも研究や研修として認められていないことは強調されなければならないと思います。英語教育学を「科学的」にしようとして、「きれいな理論的説明」を無理やりするのではなく、実践を、言葉に十分に気をつけながら、不必要に科学化しようとせず、言葉を適切に使いながら丁寧に記述してゆくことを英語教育界は学ばなければならないと私は考えます。一度は「論理実証主義」の雄とも周りに理解(誤解)された後で、科学的言説の限界に自覚的になったウィトゲンシュタインの次の言葉は、英語教育界にとっても重要だと思います。

It was true to say that our considerations could not be scientific ones. It was not of any possible interest to us to find out empirically 'that, contrary to our preconceived ideas, it is possible to think such-and-such' ---- whatever that may mean. (The conception of thought as a gaseous medium.) And we may not advance any kind of theory. There must not be anything hypothetical in our considerations. We must do away with all explanation, and description alone must take its place. And this description gets its light, that is to say its purpose, from the philosophical problems. These are, of course, not empirical problems; they are solved, rather, by looking into the workings of our language, and that in such a way as to make us recognize those workings: in despite of an urge to misunderstand them. The problems are solved, not by giving new information, but by arranging what we have always known. Philosophy is a battle against the bewitchment of our intelligence by means of language. (Wittgenstein, Philosophical Investigations Section 109)

Q5 10年前は「アクション・リサーチ、アクション・リサーチ」といっていた柳瀬さんが、今度は「EPEP!」と騒ぎ出すのはおかしい。大学の先生はすぐに騒ぎ立てて論文を書こうとする。これから10年たった後の柳瀬さんが何を言い出すか、いまから楽しみだ。だいたいEPとはEDとはどう違うのか [「ヒゲのK」といえば業界人ならわかる人(爆)による絡み]

A5 ご明察(笑)。論文を書くのが商売の一つなものなので、何かあればすぐに私はセコイ論文を書こうとしています。何か知的な動きがあれば、すぐにそれを小賢しくまとめようとしています。コバンザメと呼んでください(笑)。それから、EDについてはどうぞご自身の主治医にご相談ください(爆)。

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