Q3 科学的研究にしてもアクション・リサーチにしても、Exploratory Practiceにしても、大学の研究者が勝手に作り出してきたのではないか。むしろ研究者は、これまで実践者としての教師の思考をつぶしてきたのではないか。
A3 確かにこれまで多くの大学の研究者が、中高の現場をあまり知らないまま、実践者の思考をつぶしてきたことは事実だと思います。たとえばSELHi事業ですが、私はこの事業は全体としては成功であったと考えていますが、その一方で、(私もその一員ですが)、いわゆる「指導助言者」によって「こんなのは研究でない」と、実践を否定され、一定の方向に研究を向けさせられたという怨念にも近い声は私の耳にも届いています。典型的なのは数量化の強要で、「結果はデータの形で数量化しなければならない」と「指導助言者」に言われ、もともと数量化になじまないような実践を目指していた教師が途方にくれるという話は何度も聞いたことがあります。あるいは「問題解決」もそうで、とにかくこの「問題解決」という形で実践を進めろと言われ、教師が違和感を覚えるという話も聞きます。こういったケースでは、大学研究者が実践を歪めているというという批判は当たっていると思います。この点で、大学研究者をはじめとした英語教育関係者がExploratory Practiceの意味合いをきちんと理解しておくことは必要なことだと私は考えます。(ある見識者は、Exploratory Practiceという用語はまったく使わないにせよ、「中高の現場に、これ以上の『研究』はいらない。必要なのは『研修』、特に協働的な研修だ」とある場で発言されました。私はその発言の趣旨はよくわかるように思いますし、またその理解の限りにおいてその発言に賛成します)。
ただ一方で、正直に申し上げますと、中高教師による「研究」には、大学教師による「研究」以上に、首尾一貫していないとか、つじつまが合わないとか、内部矛盾を起こしているとかいったように、「科学」や「問題解決」以前のレベルで、言説として成り立っていないものがあるかと思います(私のいつもの悪癖で自分のことは棚に上げております)。もちろん、そういった「研究」は少数にとどまりますが、そのような例をみると、私は大学・大学院で、卒業論文・修士論文をきっちりと書く訓練を受けることは重要ではないかと思います。
実践を自然科学として扱うのは歪んだ見方だと私は思います。ですが他方で、実践をまったくの恣意奔放としてしまうのもおかしな考えだと私は思います。
私は、実践は、まずExploratory Practiceの考えで捉えるべきだと思います。そしてその中で、もしAction Researchとして捉えることが可能かつ適切な問題があれば、それはAction Researchとして問題解決するべきだと考えます。(自然)科学を教師が実践することは、(自然)科学の限定性から不可能だと私は考えます。しかし(自然)科学とは何か、(自然)科学的であるということはどういうことか、といったことは、学校教師は、他の市民と同様に、一般教養の一つとして学んでおくべきだと思います。
質問の答えに戻りますと、大学などに所属する研究者は、自らの狭い視野ゆえに現場の実践的思考をつぶしてしまうことは決して行うべきではありません。英語教育研究といった総合的・実践的な分野を対象としている研究者は自らの思考法を多様にし、現場の実践的思考を、豊かに言語化する手伝いをする必要があると私は考えます。
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