2007年6月30日土曜日

技でもなく、アクション・リサーチでもなく —私たちのExploratory Practice— 8/10

7 授業実践の理解とは何か:生態学的・存在論的アプローチ

 Exploratory Practiceが、一般法則発見や問題解決ではなく、理解の深化を目的にするといっても、その「理解」とは何かについて私たちが明晰な考えをもっていなければ、Exploratory Practiceとは無作為の自己満足を意味するだけともとらえられかねません。ここでは実践における「理解」を、生態学的アプローチと、存在論的アプローチの二点からまとめます。

7.1 生態学的アプローチ

 生態学的アプローチ(ecological approach)とは、近年応用言語学でも注目されているアプローチですが、その要点は、世界の内での複雑な相互作用の中で生きている様を、できるだけそのまま忠実に生きたまま捉えようとすることかとまとめられると思います。ここではvan Lier先生のまとめを引用します。

 van Lier先生は、言語・言語使用・言語習得を考える際にも、それが人々と世界の関係の中での現象であることを忘れてはならないと強調します。言語使用・言語習得の際も、環境は人間に「アフォーダンス(affordance)」(仮に「誘発要因」と訳してみます)を提供します。その「アフォーダンス」に誘発されて、人間は発話をします。「アフォーダンス」を適確に読み解いて、それらに応じて自らの適切な反応をすることができているのが「理解」だと考えられます。

Ecological linguistics (EL) focuses on language as relations between people and the world, and on language learning as ways of relating more effectively to people and the world. The crucial concept is that of affordance, which means a relationship between an organism (a learner, in our case) and the environment, that signal opportunity for or inhibition of action. The environment includes all physical, social and symbolic affordances that provide grounds for activity. (pp. 4-5)

 話が抽象的になりすぎてもいけませんので、ここで具体例を入れます。例えば、リーディングの授業でも、旧来の想像力に欠けた授業方式で、テキストの冒頭から「はい、読んで訳しなさい」なら、相当に受験に向けてモティベーションの高い生徒でもない限り、なかなかに学習が進みません。しかしうまい英語教師は、テキストや教室空間をアフォーダンスに満ち溢れるものに変換させ、生徒を言語使用・学習に熱中させます。例えば中嶋洋一先生です。ある実践で中嶋先生はAのグループにはネパールの中学生に関する英文を、Bのグループには韓国の中学生に関する英文を読ませます。そうして中嶋先生は、「それぞれ読んで、『ああ、そうなんだ』と思い、ぜひ隣のグループの友達に知らせたいと思った箇所にアンダーラインを引いてください」と指示を出します。テキストが、一方的に与えられるだけの教材から、ネパールあるいは韓国の同年代の少し異なるライフスタイルを教えてくれるかもしれない環境に変わります。個々人がただ座っているだけの無機的な教室空間が、生徒の話を聞いて、驚いてくれるかもしれない友達が待つ空間に変わります。実際、中嶋先生のクラスでは中学生は夢中になって英語を読み、話そうとしていました。環境への能動的なアクセスをうまく促して、その環境の中で活動に従事することの大切さはもっと強調されてもいいのかもしれません。

 教師の学習者理解も、学習者をもっぱら抽象的な「学習データ産出者」として捉えるのではなくて、学習者がそれぞれに自分自身の世界での「アフォーダンス」をどのように捉え、それらにどのように応えようとしているのかという全人格的理解であるべきです。授業実践の理解も、教室はどのようなアフォーダンスに満ちて、それぞれの登場人物はそれらにどのように応えようとしているかという教室の生態をそのまま受け止めるべきでしょう。生態学的アプローチはそのような理解概念と親和性が高いものです。

Good teachers of course always see their students as whole persons, but at times they are almost forced into seeing their students as potential test scores, in the name of standards and accountability. An ecological and sociocultural perspective helps to provide a counter-balance and new arguments against the commercialization of schooling. (p. 17)

Leo van Lier (2004)

The Ecology and Semiotics of Language Learning

Kluwer Academic Publishers: Boston

7.2 存在論的アプローチ

 理解とは、環境のアフォーダンスを適確に読み解き、それに自分らしく反応できること、という理解概念の前触れは、ハイデガーの『存在と時間』にみられる人間の「存在論」の議論に既に登場しています。わかりやすく少し言い換えますと、実践者は、自らの実践的理解について流暢に語れないことも多いが、彼/彼女は、「生活世界」において適切な行為ができる。これが彼/彼女の理解の証左であるということです。

http://yosukeyanase.blogspot.com/2007/05/understanding-understanding.html

 理解とは、世界の内で行為できること、生きること、存在することです(ハイデガーは、理解とは「現存在」(=人間)の「存在様式」(=この世にかく在るあり方)であると述べます)。もし理解が世界内に存在することだとすれば、「理解」そのもの(=この世に存在すること)と、「理解の表象」(=理解を言語化したもの)は同じものではないということになります。言語表現は、それが表現するものそのものではありえないからです。

 そうしますとここに問題が生じます。授業研究(正確に言えばPractitioner Research)の一つとしてのExploratory Practiceとて、研究である以上、言語を使って表象されます。しかし言語で表象されるなら、Exploratory Practiceは、その目的である実践者の「理解」とはカテゴリーが異なってしまうのです。授業研究の目的が、一般法則の解明や、問題解決の実証なら、言語(およびその延長としての数字)でなんとか表現できます。論証は言語のカテゴリーに属するからです。しかし理解は、法則や問題解決などとカテゴリーを異にし、はるかに言語化しにくいのです。私たちはこのことをどう考えればいいのでしょうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。