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お知らせ
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ことばの重要な機能の一つは公共的な空間を作り上げることだと考えます。教科を超えて学校教育関係者は、いや社会のすべての成員は、若者と自分自身が市民(公民)として成熟するためのことばの力を育てる責務があると思います。さもないと社会は、ことばによる理性でなく、むき出しの力(暴力・既得権力)によって統御される醜いものになってしまうでしょう。立憲主義の小特集(毎日新聞2007年6月15日)で、大塚英志氏(神戸芸術工科大学教授)は、柳田國男の昔から指摘されていた「公民」のあり方は、現在でも問題であり続けているとして、次のように述べます。
天皇よりも首相よりも上位に憲法という「公」(おおやけ)が置かれ[注:日本国憲法第99条]、その「公」の担い手が主権者としてのあなたでありぼくでもある。
(中略)
柳田[國男]が考える「公民」とは「国家」や政治家たちを「公」と錯誤し「私」を捨てて「群れ」に従う者ではない。「個人」として自分の思考、ことばを持ち、それを互いにぶつけあう能力が必要だ。そのような「公民」としての能力があって「公」ははじめて生まれる。
[国民投票法により]18歳に投票権を与えた以上、子供たちを柳田のいう「公民」つまり正しい有権者たらしめるための教育をどう構想するのか。それを問題にできない教育改革がいかに憲法という「公」をつくることの意味を軽んじているかにまず、気づくべきだ。
英語教育にせよ、英語教育以前に、日本語でのコミュニケーション力が減退しているようにも思える小学生や中学生に対して、どのようにことばの教育ができるのか。また、グローバル化し、日本語だけで充足できなくなりつつあるようにも思える日本社会を、第二言語教育・外国語教育という点からどのように再構成してゆく手伝いができるのか。ひいては外国語教育の中でも突出した一つとなってしまった英語教育は、グローバル社会の構成にどう関与してゆくのか、という大きな問題につながるべきかとも思いますが、みなさんはどうお考えでしょうか。
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