2007年6月25日月曜日

パッチギ

 人生というのは、歴史と社会に翻弄されて錯綜し混乱します。「何やねん、これ!」と突っ込みでもいれなければやれないことが続き、やがては怒りが爆発したり、わっと泣き崩れるようなことに至り、その中から、なんとも形容のしがたい不思議な笑いが生じたりするものです。日本と韓国の歴史的・社会的関係についても同様でしょうが、似非インテリの私は、その関係についてもほとんど知らなかったりします。

ですからせめてビデオ録画で見たこの映画のよさを多くの人に伝えようと思います。

誤解を怖れずに言ってしまうなら、この映画に出てくる人物は皆アホです。背景となる時代そのものも相当アホです。でもそれらのアホさを、悲しさとユーモアを同居させながら肯定するところにこの井筒和幸監督の偉大さがあったと思います。

私は日本を愛しています。だから日本のアホさをもまるごと肯定したい。日本の間違いもそのまま引き受けたい。だからといって日本ばかりがアホだとか間違いを犯すとも思いません。皆アホです。他の国だって相当アホです。その中で何とかお互いうまくやってゆきたいと思います。

最近、狭隘な「愛国心」が語られすぎていることを私は懸念します。狭隘で偏狭な「愛国心」は、その影として、その「愛国心」を共有しない同国人と、その「愛国」でない国に住む外国人に対して無理解と蔑視の視線を注ぎがちです。

私は日本を愛しています。ですからこそ、排他的な「愛国心」ばかりを標榜する人に賛同できません。

最近の日記で内田樹氏も次のように言います。

人は「愛国心」という言葉を口にした瞬間に、自分と「愛国」の定義を異にする同国人に対する激しい憎しみにとらえられる。
私はそのことの危険性についてなぜ人々がこれほど無警戒なのか、そのことを怪しみ、恐れるのである。
歴史が教えるように、愛国心がもっとも高揚する時期は「非国民」に対する不寛容が絶頂に達する時期と重なる。
それは愛国イデオロギーが「私たちの国はその本質的卓越性において世界に冠絶している」という(無根拠な)思い込みから出発するからである。
ところが、ほとんどの場合、私たちの国は「世界に冠絶」どころか、隣国に侮られ、強国に頤使され、同盟国に裏切られ、ぜんぜんぱっとしない。
「本態的卓越性」という仮説と「ぱっとしない現状」という反証事例のあいだを架橋するために、愛国者はただ一つのソリューションしか持たない。
それは「国民の一部(あるいは多く、あるいはほとんど全部)が、祖国の卓越性を理解し、愛するという国民の義務を怠っているからである」という解釈を当てはめることである。
そこから彼らが導かれる結論はたいへんシンプルなものである。
それは「強制的手段を用いても、全国民に祖国の卓越性を理解させ、国を愛する行為を行わせる。それに同意しないものには罰を加え、非国民として排除する」という政治的解決である。
その結果、「愛国」の度合いが進むにつれて、愛国者は同国人に対する憎しみを亢進させ、やがてその発言のほとんどが同国人に対する罵倒で構成されるようになり、その政治的情熱のほとんどすべてを同国人を処罰し、排除することに傾注するようになる。
歴史が教えてくれるのは、「愛国者が増えすぎると国が滅びる」という逆説である。

内田樹 http://blog.tatsuru.com/2007/06/20_1056.php

私は『パッチギ』のような映画を見て、「日本人も韓国人もたいがいにアホや。でも日本には一杯ええとこあるで。韓国もそうや。まあ、お互いボチボチやね」ぐらいに思っていたく思います。アホ同士がお国自慢をし合っているぐらいに思っているのが丁度いいのではないでしょうか。

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