2007年5月19日土曜日

「自由主義的保守主義者」としての佐藤優氏

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田尻先生に関するシンポが11/24(土曜)に広島大学で!

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私が佐藤優氏の『獄中記』を非常に面白く読んだのは以前に書いた通りですが、
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#061228
この度、本屋で見かけて買った『国家と神とマルクス』太陽企画出版も非常に面白いもので、一気に読み終えてしまいました。


この本のなかで、佐藤氏はご自身を「自由主義的保守主義者」と称しておられます(この本のサブタイトルにも使われています)。私もこの「自由主義的保守主義者」という態度に非常に共鳴します(下のObama氏に関する記事でも私は“liberal conservative”という言葉を使いました)。

佐藤氏は「自由主義的保守主義」を次のように解説します。

一言で言えば、伝統を重視する。しかし、伝統というのは、一つではない。基本は保守主義なんです。保守主義とは、人知を超えるところの価値を尊重するということです。自分の好き嫌いは関係なしに、現にあるところの伝統を尊重する。自由主義的とは、自分の考えるところの保守主義に対して、違う保守主義や進歩主義の人がいても、自分に対して危害が加えられない限りは並存するという考え方なので、それを結びつけた自由主義的保守主義なんです。(40ページ)

佐藤氏は、大川周明の解釈による北畠親房の『神皇正統記を解説しながら、「このような北畠親房の論理を敷衍するならば、唯一、日本で認めることができない言説は、自らの言説が絶対に正しく、他の言説を禁止すべきであるとする非寛容な自己絶対化に凝り固まった言説だけです。そういう他者を原理的に否定する言説以外のものはみんな共存、並存、共栄していくのです」(145ページとして)、彼の言う「自由主義的保守主義」は日本の文化に根ざした態度でもあることを示そうとします。

 頭でっかちの左翼的言説への反動で、保守主義が台頭してきたのはここ10-20年のことかと思います。私も伝統や文化を、自らの合理性で一掃しようなどとする設計主義的発想を非常に恐れますから、その意味での保守主義の復活を喜びます。しかし、昨今は、「とくに右派、国家主義陣営がなぜか最近煮詰まっていて、右派本来の寛容の原理を失」なっている(138ページ)ように思えます。

「小児的」という形容詞は、以前は左翼によくつけられていました。「小児的左翼」とは、自分の小さな正義をヒステリックに叫ぶだけ叫んで、現状をかき回すだけの人々を蔑称するために使われた表現かと思います。しかし私は、最近はこの「小児的」という言葉は「右翼」と適合することが多いように思います。浅薄で、感情的なだけで反省的思考を欠き、他者に非寛容に自説を声高に叫ぶだけの自称「右翼」は最近多くありませんでしょうか。私はそういった「小児的右翼」、「小児的ナショナリズム」の暴走を警戒します。「自由主義的保守主義」は右派、左派を問わず、現代の日本において尊重すべき態度ではないでしょうか。

 なお佐藤氏はクリスチャンでもありますが、宗教の危険性についても十分自覚的です。

一神教の世界でも、多神教の世界でも無茶苦茶な人はいます。一神教が偏狭になる場合、超越性の組み立てに問題があると思うんです。一神教世界におけるカトリック、プロテスタントに顕著に現れることが多い、極端に思いつめて、絶対に正しいものは一つしかないという危険な発想は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のかかえる病理だと思います。絶対に正しいものはあるんですが、人間の側から見る限り、それは複数あると私は思います。

 唯一の神、絶対なる神という形で他の神々や価値観と競争できるような神は、キリスト教、ユダヤ教の言うところの神じゃないんですよね。そういう概念を超えている神ですから。(33ページ)

私は神学を勉強したことはありませんが、一人のクリスチャンとしてこの態度には賛同しています。また「絶対に正しいものはあるんですが、人間の側から見る限り、それは複数あると私は思います」というのは至言かと思います。

 『月刊日本』(http://www.gekkan-nippon.com/index.html)と『情況』(URL不詳)に掲載された文章が並存しているこの本は「思考する世論」のために書かれた良書かと思います。「自由主義的保守主義者」としての佐藤優氏に今後とも注目してゆきたいと思います。

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