2012年9月26日水曜日

内田樹(2008)『街場の教育論』ミシマ社



■教育を商品メタファーでしか考えられなくなった私たち

内田樹先生が、以下のように教育に断言することをいぶかしく思う人、いや、端的に何を言っているのかわからない人は、今多いでしょう。特に世俗権力の中心にいる人の間では。

「教育サービス」というのは、私の知る限りでは、かなり近年になって私たちの語彙に入ってきた言葉です。これは教育をビジネスモデルで考えている人間が言い出したことだと思います。

教育活動のコンテンツは「教育商品」であり、教師はその商品のサプライヤーであり、保護者や生徒は顧客である、と。そういうモデルで教育を語る人間がおります。でも、私はこれは絶対に教育者が口にしてはならない言葉だと思っています。

教育を「商品取り引き」に類比して語るのは教育の自殺です。(61ページ)


「えっ、これが教育の自殺なんですか?いや実際、ウチの教育方針はこんな感じなんですけど」と口にする教育者すら昨今は珍しくありません(特に教育権力の中心にいる人、近づこうとする人の間では)。「『商品』として大切に教育コンテンツを考えることこそが、健全な競争原理を引き出すわけですから」というのがそういう方々の信念です。

ですが、この信念こそは、デイヴィド・ハーヴェイが『新自由主義―その歴史的展開と現在』で指摘するように、新自由主義の中心的な教条です(この本は面白かったので、近いうちにまとめを掲載しようと思っています)。





いや、市場競争こそが社会的倫理であるという考え方以前に、私たちは商品こそが社会の基礎的な形態であり、社会の豊かさとは商品が満ち溢れていることであると信じて疑わない資本主義的生産体制(注)の社会に生きています。この社会のあり方に対して自覚的理解、ひいては批判的意識がないところでは、いわゆる「ネット大学」に対する下記の記述にも、なんら問題を感じないでしょうし、最後の断言にも得心がゆかないでしょう。

通販の場合は、カタログを見て、商品を選び、クレジットカードでお金を払うと、商品が送られてきます。ネット大学も同じです。カタログを見て、「商品」を選び、対価として一定時間の課業を行う。課業という「労働価値」の報酬として、合格点をクリアーすると単位がもらえる。これはそのまま商品交換のアナロジーですね。

課業として支払われた労働価値に対して、商品が「単位」というかたちで交付される。単位を揃えたら学位記が発行される。これはどう見ても、通信販売による商品購入行動以外のなにものでもありません。ビジネスマンであれば、これこそ教育の理想形だと小躍りするでしょう。

でも、残念ながら、これは教育ではありません。「お買い物」です。(45ページ)


しかしこの教育の「お買い物」化は、現在、多くの教育機関で見られます。大学の英語教育でも、多くの大学が英語教育の指標をTOEIC得点と定めて、その目標得点を教育目標として掲げます。すると、もし学生がその目標得点に達しなかったらどうするのだ、大学はどう「教育」の責任を果たすのだ、補習か、いやもっと授業をTOEIC対策中心にするべきだ、予算削減も兼ねてCALLの充実だ・・・などと様々な意見がいさましく出てきます。しかし決して出てこないのは、「教育」の目標を、万人に同じ価値をもつとされる数値に還元してしまってよいのだろうか、という根源的な問です。

そもそも教育とはどのような営みなのか。それは学習者が支払う対価(=授業料および授業課題を行うための時間など)に対して、定められた知識・能力を学習者に交換的に与える取り引きなのか。教育で育まれるのは「定められた知識・能力」だけなのか。教育という営みを、対価とパッケージ化された教育内容との交換関係とだけ見なし、ますますと資本主義の商品取り引きと同じように教育の営みを変えることにより、私たちは何を得て、何を失うのか。この単純化・世俗化(=資本主義化)は私たちに何をもたらしているのか ― こういった根源的な問いが忌避されたまま、さまざまなアクション・プランが企画実行され、教育関係者はますます時間に追われ、心身を疲弊させてゆきます。

多くの人が、今一度、立ち止まって考えるべきだと痛切に思っているのに、誰もそうできずに(アレント的な意味での)「仕事」あるいはポストンが批判する意味での「労働」に追われてしまっている ― この社会体制を根源的に考察して、教育について改めて考えなおさない限り、私たちはますます「教育改革」を繰り返し、予算と人力と浪費し、教師も学習者も士気を落としてゆくのではないでしょうか ―そしてそのありさまを慨嘆する世俗的権力者がますます強烈な「教育改革」に着手するのかもしれません。



■教育の本質は「外部」との通路をつなぐこと

内田先生は、この本で、教育の本質とは、第一に、自閉した世界の「外部」に接し、自らとは異なるものと繋がろうとすることだと説きます。

それは教育の本質が「こことは違う場所、こことは違う時間の流れ、ここにいるのとは違う人達」との回路を穿つことにあるからです。「外部」との通路を開くことだからです。

(中略)

「今ここにあるもの」とは違うものに繋がること。それが教育というもののいちばん重要な機能なのです。 (40ページ)


この内田先生の教育観は、現在主流の教育観とおよそ異なります。(私が理解する限り)現在主流の教育観は、教育を、学習者にいかに現世の(資本主義)社会に適応させるか、という問題としてとらえています。

「若者が就職難です」となれば、大学は面接や適性検査への対策を強化したり表面的な「キャリア教育」の機会を増やしたりします。「英語が必要です」となれば、いかにネイティブに近い英語力を短期間に身につけさせるかという問題に英語教育学者は集中します。コンピュータ・リテラシーが必須となれば、どのようにMS Officeの取り扱い法を廉価に教えるかという問題にコンピュータ・リテラシーの問題が矮小化されます。

ここには根源的な問いや、新しいものを創造しようとする企図がありません。「とりあえず就職」、「とりあえずTOEIC」、「とりあえずWordとExcel」などと言っているうちに、いつのまにかその「とりあえず」が不問の前提・世界のあり方にすり替えられてゆきます。21世紀に、人間と環境をこれ以上損ねずに、どう私たちは暮らし方を変えてゆけばいいのか、英語がますます使用される世界でどのように私たちは創造性の源泉である文化的多様性を保つのか、ICTでいかに世界をより「よい」場所にすることができるのか ― このような批判的で創造的な思考は、ますます奪われようとしています ― 「教育責任」を果たすためという大義名分の下に。

もちろん、物事への対応は短期的・中期的・長期的と、多層的であるべきですから、大学などの教育機関が短期的な「とりあえず」の対応をすることが一概に非難されるべきではありません。しかし、逆に長期的な対応が、無批判・無思考的な短期的対応により阻害されることは批判されるべきです。それは愚かなことですから。大学といった教育機関が、もし「とりあえず」ばかりに追われるなら、それはそれこそ「教育の自殺」です。

そう言えば、私の友人も先日、メールでこう書いてきました。転載の許可は取ってありますのでここに引用します。

そもそも、文科省、教科書会社、現場に「理論」(「理屈」でもいいや)がないと思います。そして、中教審の答申や文科省の大学改革の内容を読んでいると、「理論無し」の流れは、確実に教員養成大学にも迫っていて、薄っぺらな経験主義中心の大学改革が始まりそうです。


私の友人は教員養成系の大学が、いずれ「教員免許状センター」のようになるかもと上の文章に続けていましたが、私もその悲観をよく理解できます(だからこそ、このような文章を書き連ねているわけです)。


「教育」を、自らとは異なる「外部」とのコミュニケーションと捉えず、定められた範囲の知識・能力、いわゆる専門的知識・能力の獲得とだけ捉えると、必然的に「教養」は軽視されます。これは1990年代から日本の大学の教育改革が促進していることです(最近、その反省の念が表明されていたでしょうか。私はどうも行政文書に疎いので(苦笑)よく知らないのですが)。

内田先生は、教養教育を次のように考えています。

教養教育というのは、要するにコミュニケーションの訓練だということです。

それも、なんだかよくわからないものとのコミュニケーションの訓練です。共通の用語や度量衡をもたないものとのコミュニケーションの訓練。(89ページ)


高度に複合的な現代社会では、専門家にも(いや専門家にこそ)教養が必要です。なぜなら「他の専門家とコラボレートできること。それが専門家の定義」(92ページ)だからです。(日本には、自らの領域外の人間とうまくコミュニケーションを取れる専門家が少ないのは、私たちが3.11以後に学んだことでもありました)。ちなみに、この引用がある本書「第5講 コミュニケーションの教育」は六芸の伝統の深い知恵からコミュニケーションについて考察しているすばらしい章です。ぜひご一読を。

ですが、現代の教育は、目的を定量化し、その数値達成によって教育の成果を測るというきわめて「正しく」「合理的」な考えにより、教育を定められた領域の中だけでのゲーム(あるいは「商品取引」)として、ますます私たちの根源的な教養の力を損ねています。

困るのは、学校秀才として卒業し実社会に出た若者です。

学校では、「習っていないこと」については「習っていません」と申告すれば、それ以上は咎められません。でも、現場は違います。「どういうふうに処理していいかわからない問題」にいきなり遭遇し、その場で即断即決で答えを出さないといけない。気の毒ですね。習ったことを覚えておきさえすれば満点がもらえる試験に受かって仕事を得たら、そこは「習っていないことについて即答すること」が要求される場であったわけですから。

そのための訓練を日本の学校教育は構造的に怠ってきた、というのが私の年来の主張であります。「どうふるまってよいのかわからない時に、適切にふるまう」能力の涵養こそが教養教育の眼目である、と。

前にも申し上げましたが、別にそれほどむずかしい話ではないんです。それが「学び」の基本なんですから。(119-120ページ)


しかしその学びの基本が今失われようとし、ビジネス界の思考法で教育界が牛耳られようとしています。「商品」がもはや教育のメタファーでなく、教育そのものになりつつあります。私たちは資本主義的思考に汚染されていない学びの姿を思い出す必要があります。



■伝統的な師弟関係

非-資本主義的な教育関係は、例えば江戸時代の学びに見ることもできます(辻本雅史(2012)『「学び」の復権――模倣と習熟 』(岩波現代文庫))。内田先生は、学びのあり方を、レヴィナスの哲学、および(ご自身うちこまれている)武術の営みなどに見出し、次のように述べます。

教師というのは、生徒をみつめてはいけない。生徒を操作しようとしてはいけない。そうではなくて、教師自身が「学ぶ」とはどういうことかを身を以て示す。それしかないと私は思います。

「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことができない。教える立場にあるもの自身が今この瞬間も学びつつある、学びの当事者であるということができなければ、子どもたちは学ぶ仕方を学ぶことができません。これは「操作する主体」と「操作される対象」という二項関係とはずいぶん趣の違うもののように思います。(142ページ)


教員が自ら学ぶことを忘れ制度の上にあぐらをかいて、自分を不動の固定点としたまま、若者を「学習の数値目標を達成するために操作される対象」としかみないなら、そこでは学校・教室が腐臭を放つような空間に変わってしまいます。教師自身も学び続けなければなりません。英語教師でしたら、何より英語を、そして英語を使うことを、さらには英語を教えるということを(よく言われるように、教師とは教え方を学んでいる (learn to teach) 学習者です)。

内田先生はさらに言います。

何度も言っていることですけど、人間は自分が学びたいことしか学びません。自分が学べることしか学びません。自分が学びたいと思ったときにしか学びません。

ですから、教師の仕事は「学び」を起動させること、それだけです。「外部の知」に対する欲望を起動させること、それだけです。そして、そのためには教師自身が、「外部の知」に対する激しい欲望に現に灼かれていることが必要である。(158ページ)


教師自身がそのように学ぶ欲望を強く覚えるには、自分がまだまだ掴んでいない「外部」があることを痛切に感じる必要がありますが、そのことを常に思い起こさせてくれるのが師 ―教師の教師―です。内田先生は、こう言います。

ですから、学びの場というのは本質的に三項関係なのです。師と、弟子と、そして、その場にいない師の師。その三者がいないと学びは成立しません。(143ページ)


「その場にいない師の師」とは、単にその教室にいないというだけの存命の師でもかまいません(というより教師になった後も師をもてるということは本当にありがたいことです)。ですが、師の師は、もはや亡くなった方でもかまいません(というより人間的弱さや欠点を晒さざるを得ない存命の人間よりも、すでに物故された師の方がいいとすら言えるかもしれません)。ですから、実際の姿を見たことがない伝説的な存在でもかまいません。ただ、その人を思い起こすたびに、まだまだ学ぶべきことがあることが改めてわかり、学ぶ姿勢を正されるような理想像(カントのいうところの"Ideal")が、教師が教師であるためには必要です。もちろん理想像を妄想的に膨らませることは危険ですけれども・・・

ともあれ、私たちは、今一度、対価の支払いによる商品の獲得という資本主義的メタファー以外の学び・教育のあり方について、今一度思い出す必要があります。それは、江戸時代やフランス哲学について学ぶ必要もないのかもしれません。あなたが子どもの時に何かに熱中した経験を思い起こすだけでもいいのかもしれないのですから。



■「資本主義」について改めて考える

「資本主義」について語ることが大学生の特徴であった時代は、今や昔。バブルを経たり、ソ連崩壊を経たりした私たちは、いつの間にか資本主義を不問の前提とし始めました。しかし、格差などの現実は、私たちに今一度、資本主義について問いなおすことを促しています。全体主義化した社会主義国家に二度と幻想を抱くことなく、資本主義に全面的にとってかわる体制などないと覚悟しつつ、資本主義という人間が生み出したテクノロジーをなんとか手なずけることを。


内田先生はこう言います。

  改めて私たちの直面している問題を定式化すると、もう一度さきほど述べたことを繰り返すことになりますが、それは「グローバル資本主義が私たちに要請する生き方をどうやって学校の外へ押し戻すか」ということに集約されるだろうと思います。(202ページ)


私たちには資本主義に「ひびを入れる」ことが必要なのではないでしょうか --私は、『権力を取らずに世界を変える』というすばらしい本を書いたJohn Hollowayの最新刊であるCrack Capitalismをわかりやすい日本語に翻訳してくれた訳者に大いに感謝すると同時に、その翻訳書にこのような時代錯誤的な邦題と表紙をつけた関係者の感覚に大いなる違和感を覚えますが、それについてはまた改めて。









(注)
資本主義の「生産」体制に注目し、マルクスについて伝統的解釈から自由な根底的な解釈を提示しているのが『時間・労働・支配: マルクス理論の新地平』です。私は今読み始めたばかりですが、圧倒的に面白い。これもいつかまとめの記事を掲載したいと思います。






2012年9月22日土曜日

私は2012年10月から試行的にMS Officeとそのフォーマットの使用を極力控え、OpenOfficeをOpenDocumentフォーマット(ODF)で使うことを基本にします。



私は2012年10月から試行的にMS Officeとそのフォーマットの使用を極力控え、OpenOfficeをOpenDocumentフォーマット(ODF)で使うことを基本にします。

ICTは今や社会の共通インフラです。ICTが使えないと十分な知的生活は送ることができません。それどころか、就職の機会さえ阻害されかねません。以下は私が信頼する高校教師が報告するエピソードです。ある媒体に書かれてありました。ご本人の許可を得て、ここに転載します。


金曜日に突然、3年生の保護者から電話がかかってきて、「市役所の採用試験を受けたいのだが、家にインターネット環境がなくて、 出願できない。市役所に問い合わせたら、インターネットカフェか学校でやってもらってください、と言われた」 とのこと。

市役所の対応は、「ちょっと~!」って内心思ったけど。

ここのお家は、自営で、おうちにはネットもPCもないそうだ。

急遽、親子で学校に来てもらったけど(徒歩3分というので)、 その子は、公務員試験を受けるなんて、ちっとも知らなかったし(一応、私は公務員試験の模試とかを案内する担当なので)。

まず、この市役所の公務員試験の申し込みは、 電子申請なので、PCのインターネットが使えないとダメとのこと。

受験の申請がうまくいったら、メールでお知らせがきて、 受験票をダウンロードしてプリントアウトするんだとか、 この市の受験案内には書いてあった。

学校に来てもらって、やってもらおうとしたけど、 まず、PCのメールアドレスがなくて、アウトだった。

学校の業務用パソコンでは、フリーメールのウェブサイトは、 制限があって、たどりつくことができない。

というわけで、ダメ。

そもそも、公務員試験で、こんなデジタル・デバイドを設けていいのだろうか、と思った。

持たざる者と持てる者を差別することになるよね。

高校生でも、ここまで、要求するのか、されなくちゃいけないのか、と釈然としなかった。

でも、英語でも同じようなことが起こりつつあるのか、と思うとこわいなあ、とも思う。




しかし一方で、ICTはますます現代社会の中に組み込まれ、私たちはICTを使わずにはいられなくなってきています(少なくとも資本主義社会への適応を志向する限りにおいて)。

そうなれば、教育者としては、できるだけICTについての教育を充実させる必要があります。ですが、それと同時に、経済的な理由でICTが使えないような状況をできるだけ阻止することが必要だと私は考えています。


ここで私が問題にしたいのが、Microsoft Office(以下、MS Office)がデフォルト化され、MS Officeの使用がほとんど義務化されていることです。多くのファイル提出が、MS Officeで作成されることを求められています。

周知のようにMS Officeはかなり高価なソフトです。それを購入することが容易ではない個人・団体は少なからず存在します。

それでもMS Officeでしかできない必須の機能があるなら話は別ですが、私見では、そのような機能はありません。ほとんどの人が必要としているのは基本的な機能だけで、それは他のソフトでも十分に可能です。ですが、MS Officeの使用がほとんど義務化されているので、私たちはそれを購入するように仕向けられます。かくして多くの人がMS Officeを購入します。

しかしMS Officeをいったん購入すれば、それでOKということでは必ずしもありません。Microsoft社は、資本主義社会で競争する企業の常として、次々に「バージョンアップ」した新製品を投入し、新しくMS Officeを購入するように仕向けます。次々に人々に消費を強いるのが資本主義社会のあり方です。

もちろん古いバージョンでも使えるようになっているはずですが、実際に使ってみると、古いバージョンのMS Officeでは微妙に使い心地が悪かったり細部がずれたり表示できなかったりと、小さなトラブルに悩まされます。かくして新しいMS Officeを購入するように私たちは仕向けられます。またMS Officeを保存すると、何も指定しないままだと新しいファイル形式(docx, xlsx, pptxなど)で保存され、古いバージョンのMS Officeでは読めません。

これが嗜好品のことでしたら、私も問題視しません。個人が個人的に好きなことのために特定の商品に自分のお金を使うことになんの問題がありましょうか。しかし冒頭に述べましたように、今やICTは社会の共通インフラだと私は考えていますから、私としては、そのためのソフトはできるだけ経済的要因に左右されずに入手できるべきだと考えます。

このような考えは私は以前からもっていまして、以前も、MS Officeの使用を極力控えて、無料で誰でもダウンロードできるOpenOfficeでファイルを作成するようにしていました。OpenOfficeの普及に少しでも役立ちたち、ICTの公共性に対する関心を高め、ひいてはICTのためのボランティア活動をなさっている方々への支援を増やしたいと考えたからです。

しかしその際のファイルは、Microsoft社のフォーマット(doc, xls, pptのいわゆる97-2003形式)で作成していました。私がOpenOfficeで作成したファイルを読む人の利便を考えたからです。ですがMS Officeで読むと、微妙に細部がずれるなどの問題が生じました。「やっぱりOpenOfficeでファイルを作成しても不便かなぁ・・・」などとも思っておりました。

しかし、考えてみたらこれは話が逆です。

すべての人にICTのアクセスをという理念で作られたOpenOfficeなどのソフトは、そのために国際的に定められたOpenDocument Format (ODF)で保存され使用されるべきです。

むしろMicrosoftのようにほぼ独占的に儲けている企業がODFに合わせるべきで、OpenOfficeなどのボランティアによる無料ソフトが、独占的に営利を得ている企業のフォーマットに合わせる努力を強いられるのはおかしな話だと私は考えます。

現在OpenOfficeはかなりの精度でMS Officeのフォーマットに対応できていますが、完璧ではありません。しかし完璧でないからといってOpenOfficeを批判するのは筋違いです。逆にMS Officeの方が、OpenOfficeのフォーマット(ODF)に「完璧に」対応できることを求めるべきだと私は考えます。何度も申し上げますが、MS Officeがほぼ独占に近いような状況で利益を得ている以上、フォーマット対応への努力はMicrosoft社が負うべきだと考えます。


ですから、私はこの10月から、私は2012年10月から試行的にMS Officeの使用を止めて、OpenOfficeをOpenDocumentフォーマット(ODF)で使うことを基本にします。

仕事の相手から具体的にMS Officeのフォーマットでのファイル提出を求められれば別ですが、そうでない限り、ソフトはOpenOfficeを使って、しかもOpenOfficeのフォーマットOpenDocumentFormat(ODF)で保存します。

公共の仕事である教育と研究に関しては可能な限りOpenOffice/ODFを使用することを私の方針とします。


MS OfficeはODFもきちんと扱えるはずです(いや「べき」です)。もしODFがきちんと使えないなら、MS OfficeではなくOpenOfficeなどのボランティアが作成した無料ソフトを使えばいいだけです。

またMS Officeも、ファイルをODF形式で保存できます(WordでしたらOpenDocumentテクスト、ExcelでしたらOpenDocumentスプレッドシート、PowerPointでしたらOpenDocumentプレゼンテーションを「ファイルの種類」として指定すればいいだけです)。

私は仕事相手に迷惑をかけることはできるだけ避けるつもりですが、少なくともよりよい社会、より公正な社会をつくるための教育・研究活動ではできるだけOpenDocumentフォーマット(ODF)を使うことを試行します。

「何を青臭いことを言っているんですか。学生はいずれMS Officeを使わねばならないのだから、それをきちんと教えることこそが親切でしょう」と批判する方もいらっしゃるかもしれません。

しかし私は、特定の商品への対応ばかりを教えることが公教育のするべきことだとは思いません。もちろん商品が基盤となっているこの資本主義社会で、商品について一切具体的に語らないというのは不可能ですが、Microsoft社の商品の使い方ばかりを教え、その結果(たとえ意図せざる結果とはいえ)社会の中のICTの公共性を大切にしようとする試みを抑圧することは、私は公教育機関の教師の仕事だと思いません。私は資本主義社会の全面的否定などはしませんが、無批判的な是認や追従も同様にしません。

もちろん実社会に出れば、少なくとも現状ではMS Officeを使うことが求められているのは事実です。しかしMS Officeの使い方に関しては、Microsoft社や他の団体が多く無料でウェブ上で解説をしています。さらにわかりやすく・使いやすくまとめられた書籍も比較的廉価で売られています(Microsoft社の商品がほぼ独占的な立場にあるにせよ、Microsoft社の商品の不備をサポートするための商品を開発する会社はたくさんありますから、資本主義的競争により、よりよい商品がより廉価で販売されます)。要は、教育などの公共性の高い分野は、市場が解決してくれることは基本的に市場に任せ、市場が解決しにくい公共性の高い問題に取り組むことを基本姿勢とするべきだと私は考えています。

もちろん、OpenOffice/ODFばかりを使ってみたらいろいろな細かな問題を発見するかもしれません。「試行」と呼ぶ所以です。しかしその発見の中から、いろいろな改善点を探し、社会がよりよいものになるための方策を探してゆきたいと思います。

これは私個人の試みですが、私としてはより多くの人が、社会的共通資本と考えられる・考えるべき事柄に対して公共性を高めるべく行動するべきだと考えます。たとえ短期間は多少の不便を忍ばなければならないにせよ。その努力を怠り、資本主義的競争にばかり社会のあり方を決定させるなら、ますます格差が広がり、「持たざる者」にされた人々が、経済的・文化的・社会的・政治的にますます力を失いかねません。私はそれを公正なこととは考えません。



とりあえずソフトとしては、以下を使います。


Apache OpenOffice

http://www.openoffice.org/ja/



みなさんもよろしかったらどうぞ。ちなみに、OpenOffice.org日本語プロジェクトのツイッター@jaopenofficeorg)は、https://twitter.com/jaopenofficeorgです。



追記1

現在私の勤務する大学では、学生は(ある制限内で)「無料」でMS Officeをダウンロードできます。大学がMicrosoft社と一括契約してお金を払っているからです。教職員もMS Officeを自由にダウンロードできます。ですから私の大学の構成員は事実上MS Officeを入手することに何の問題もありません。大学としてもこの一括契約により、教職員が個々の予算でMS Officeを購入することに比べれば、相当の予算を節約できているとも聞きます。

しかし、これはMicrosoft社がこれから社会に出る若者にMS Officeを優先的に使わせ、MS Officeの事実上の独占体制をますます強化するための(きわめて合理的な)ビジネス戦略だと考えています。Microsoft社が一括契約をするのは、善意ではなく、営利のためだと考えます(営利こそは資本主義企業の基盤であり「倫理」です)。

しかしそもそもOpenOfficeのように無料でも十二分に機能的なソフトは作れます。私は、これ以上、Microsoft社だけが儲かるような社会的な仕組みや風潮には加担すべきではないと考えています。


追記2

私がMS Officeに対して否定的な意見をもつのは、特にMS Wordが不安定で使いにくいからです(Microsoft社の商品では特にWordとInternet Explorerは使う気にはなれません)。これだけ世界中でお金を集めながら、どうしてこのようなソフトしかできないかと私は常々思っています。この不安定さと使いにくさをできるだけ回避するため、私はほとんどすべてのテクスト作成作業をエディターで行なって、最終段階でそれをMS Wordに移植していましたが、今後はそれをOpenOfficeに移植することにします。(エディターについてはコメント欄を御覧ください)。


追記

OpenOffice.orgについては以下のマニュアルが参考になります。公共の利益のためにマニュアルを作成・無料公開されている方々に心から感謝します。


OpenOffice.orgオンラインマニュアル
(秋田パソコンステーション作成)
http://www.ne.jp/asahi/pa/sta/openoffice.html



徳島県(県庁ホームページ)
OpenOffice.org(オープンオフィス)操作マニュアルの公開について

http://www.pref.tokushima.jp/docs/2011081000092/


山田智久 (2012) 『ICTの活用』 くろしお出版




ICT (Information Communication Technology)を使いこなせれば便利になるのはわかっている。というより今は使いこなせていないからかなり苦労しているし周りにも不便をかけてしまっている ―こう思いながらも、なかなかICTを活用できていない言語教師は多いかと思います。

著者によるならその理由は次のようなもの。

・ICTについて体系的に学ぶ機会がほとんどない。

・ICTに関する本を読んでも、自身の教育現場と結びつかない。

・何から始めてよいかわからない。

・ICTに詳しい人に聞いても、説明が難解でわからない。

・ICTそのものが次々に進歩している。


このような状況を受け、これまでICTに多額の投資をしてきた日本語教師である山田智久先生が、外国人に日本語を教えるように丁寧に、初歩から応用まで、ICTそのものから活用のポイントや教室での展開まで、体系的にわかりやすく解説してくれたのが本書です。くろしお出版の編集者の「世の中の役に立つものを作りましょう」という声に支えられて出版されたものです。

シリーズ「日本語教師のためのTIPS 77」の一冊ですが、英語教師や国語教師にも役立つ本です。実際、上記の理由から、学部生にコンピュータ入門の授業で苦労している私としては、今年度の「英語教師のためのコンピュータ入門」の授業では、この本を副読本として推薦する予定です。

本書の目次はくろしお出版のホームページで見ることができます。


日本語教師のためのTIPS 77 第2巻 ICTの活用
http://www.9640.jp/xoops/modules/bmc/detail.php?book_id=41898&prev=released


この目次を見てもわかりますが、本書は以下のように、言語教育の現場と言語教師の実態を知った著者ならではの項目や助言が満載です(また「デジタルがアナログに勝る時にのみ使用する」ことをモットーとする著者は、無駄に高機能・多機能を賞賛することはありません)。

・そもそもどんなパソコンを買えばいいのか。

・DVDの+Rや-Rなどはどんな意味なのか
・PowerPointスライドは、タイトルで32ポイント、本文で28ポイントぐらいが無難。

・かんたんな地図などの作図なら、Excelが意外と便利。

・スクリーンショットの多用で教材作成時間が短縮できる(ちなみに私(柳瀬)は、スクリーンショットはEvernoteと連動させて使っています。これは便利です)。

・音声編集はFree Audio Dubなどの無料ソフトでかんたんにできる。

・ビデオカメラではなくデジカメで学習者の発表(ただし10分以内)を録画すると、非常に機動性が高くなり録画をどんどんするようになる。SDカードなどを通じて、授業中にすぐに再生できるし学習者にも渡せるから便利。

・デジカメ用の簡易三脚は、ゴリラポッドが便利。 ・発音チェックはスマホのGoogle TranslateやDragon Dictationなどの無料アプリでできる。

・フォルダ名やファイル名に空白を入れずに"_"や"-"を使った方がいい理由。

・「ディスクのクリーンアップ」と「ディスクデフラグ」はパソコンの掃除。


著者もいうように(269ページ)、ICTに関しては、最終的には個々人が「自律」して「自分で調べる癖」をつける必要があります。しかし「デジタルの勘」が身につくまでは、体系的な入門書を常備の参考書にして、導いてもらう方がいいでしょう。

実際、この本に書かれていることのほとんどは、ネット検索でも知ることができるでしょうが、そのネット検索にかける莫大な時間(初心者はそもそも何を検索すればいいのかわかりません)を考えるなら、このような本を手元においておく方が賢明でしょう(このような出費を惜しむのは賢明ではないと私は考えます)。

ただ申し添えておくべきは、この本はWindowsマシンでMicrosoft Officeを使うことを前提とした本です。Macへの言及はありません。また私は個人的にはMicrosoft Officeの普及に対して意見をもっていますが、それはまた別の記事で書きます。

ともあれ、現時点で言語教師(の卵)に対してICT入門の本を薦めるとしたら私はこの本を薦めます。