2012年3月19日月曜日

学生さんの哲学的な文章(「「言語コミュニケーション力論と英語授業(2011年度版)」を受けて)

[以下は、「言語コミュニケーション力論と英語授業(2011年度版)」の授業での感想・レポートです。この授業では学生さんが本当に熱心に予習をして授業に参加しさらに振り返りをしてくれました。私の話は「難しすぎる」とか「もはや英語教育ではない」と、一部の「英語教育学者」には敬遠されるのですが(笑)、学生さんはそんな一部の「英語教育学者」とは比べ物にならないほど私からの立論に真摯に向かい合い、問いただし、議論を深め、毎週毎週大量の文章を予習と復習それぞれにWebCTシステムに書きこんでくれました。教師としてこれ以上の喜びはありませんでした。本当にありがとうございました。以下はそんな学生さんの書いた文章の一部です(適宜、改行の挿入や[ ]による補注など、最小限の改変は加えています)。]





■NT君による「言語、文法の時間的な理解」(全文)




言語、文法の時間的な理解



 今回の一連の講義の最後の方で出てきたものに「学習文法」というものがあります。これは、従来学校などで教えられてきたり、「文法書」などを見たりすればその説明を読むことができる「伝統文法」に対置されるものです。しかし、正直に言うとはじめて学習文法の説明を受けた時は「学習文法、学習文法と言うのはいいけれど、それが含む具体的な内容については何一つ説明がないな」という印象を私は受けました。ただ、文法の説明の仕方に関する具体例の説明を聞いて、少し腑に落ちました。これは、私の理解では文法の空間的な説明と時間的な説明との対比であると理解しました。このレポートではここから話をはじめて、文法や言語の時間的な理解について考えていきます。


 文法の空間的な説明
 
 さて、文法の空間的な説明というのは例えばこんな感じです。「××は主語だから、その右に動詞○○が来ている。その右に・・・」「動詞の隣には目的語が・・・」こうした説明の中に「右」「隣」という空間的な言葉が使われていることからもわかる通り、これは空間的な文法の説明です。
 
 このような説明の欠点の一つは、教える側が最終的に伝えられる情報が、その文章の意味に加えて、そのトポロジーに限られてしまうということです。ここでトポロジーとは、ある文章において、その文章を構成する語群の機能に即した、「文法的に正しい」配置の情報のことです。たとえば
“The quick brown fox jumps over the lazy dog.”

という文章があるとすれば、そのトポロジーの一つの例として
“The quick brown fox (動作の主体)/ jumps over(動作) / the lazy dog(動作の対象).
”
という感じで分節したものが考えられます。もちろん、これよりも細かいものを考えることもできるでしょう。受験参考書の中にもこのような感じで英文を分節するテクニックを説いているものがあります。確かにこうすれば文意を正確に理解できるのかもしれませんし、そうすれば志望校に受かりやすくなるのかもしれません。

 けれども、このような空間的な文法の説明には、実際に発話される文章が生成される過程、そしてそれを受け手が理解する過程のダイナミクスを見落としてしまっているという点で非常に問題があります。このダイナミクスを理解し体得するための手掛かりは、空間的に言語を説明する文法の中にはおそらくありません。その傍証として、「英文を読むことはできるとしても、喋るのは(読むのに比べたら)苦手あるいはほとんどできない」という人間(私自身を含む)を日本の英語教育が生み出しつづけてきたという事実(多分)があります。


 時間的な文法の説明
 
 一方で、時間的な文法の説明とは「まず誰が何をどうするかの誰をいうねん」「そしたらな、英語ではその次に動作を表す語がきて、そしたら今度は・・・」というようなものです。
 
 このような説明は、空間的な説明に対して、ある言語の文章が(話し手の立場からすると)生成され、(聞き手の立場からすると)理解されるダイナミックな過程を記述するものです。人間が言語というものを発明した瞬間からそれをどのように使っていたかを考えると、おそらく言語とは本質的には時間論的な現象です。したがって、ある言語を習得するために必要な「文法=言語という知識」というものもまた発話/理解のダイナミクスあるいは時間発展を記述するべきもののはずです。そしてそれこそが来るべき「学習文法」の中核になるべきではないかと私は考えます。


時間的な現象としての言語

 時間という観点から言語という現象をとらえることで、たとえば「母語話者がほとんど無意識のうちに次から次へどその言語の文章を語りつづけることができる」理由を与えることができるのではないかと考えます。以下では、このことについて私論を述べてみたいと思います。
 
 「母語話者がほとんど無意識のうちに次から次へどその言語の文章を語りつづけることができる」理由として、しばしば与えられる説明の一つは「十分な訓練・経験を積むことで、無意識的に(意識することなく)それが行えるようになった」というものです。しかしこれでは、
 
 1) どのような種類の訓練/経験が必要かわからない

 2) 無意識的にできるから、無意識的にできるのだというのは十分な説明ではない

 
という意味で問題が残ります。2)について今回提示したい仮説は


(意識することなく)語りつづけることができる 
= 語るべき内容を時間的に先取できる


ということではないか、ということです。おそらく人間はその母語を習得する過程でまず体得するのが、先に挙げたような発話と理解のダイナミクスです。そしてそのダイナミクスを体得した上で、語彙やフレーズがある程度まで蓄積されると、それらが「口をついて出てくる」ということが可能になってくるのではないかと考えられます。これらのことを非常に大雑把にまとめてしまえば「言語の習得とは、言語的な時間操作の技術の習得である」と言うことができます。このようなことを、特に「詩」について着目した文章があります。


アナグラムと押韻は「あまりにふつうに行われているので、それについて誰も主題的に論じることのない詩法」である。

どうして、それは主題的に論じられないのか。

私の仮説はこうだ。

それはこの二つがいずれも「時間をフライングすること」だからである。
福原は吉川のこの問いの前の書簡で、英詩人の押韻についてこう書いている。
「そこで私は、英国の詩人たちに、韻(ライム)は、君達にとってどうなのだと、いく人かに聞いてみたことがあります。(・・・)韻を踏む必要があるため に、自然、内容を制限されて、言いたいことも十分言えず、また余計なことばを加えて不自然になることもあるのではないか、と訊ねたのでした。例えば、ファ ウンテン(泉)という語を使うと、どうしても、それに押韻してマウンテン(山)という語をあとで使わざるを得なくなるだろう、そうするとどうしても詩的感 興の自由な正直な表現を欠くに至るだろうと申しました。すると彼らの一人が非常に適切な返事をしてくれました。『それはそうだけれどね、』と彼は答えたの でした。『ぼくたちはカプレット(二行並韻)を書くときは、二行一しょに考えているんだよ。』」(13頁)


「なぜ韻を踏むのか」を説く詩学が存在しないのは、「なぜアナグラムが存在するのか」を説く詩学が存在しないのと同じ理由による。

それは私たちが実は時間をフライングして未来にゆけるのだが、そのことをうまく説明できる「時間論」をまだ持っていないからである。

(「翻訳についての二つの対話」 内田樹の研究室  http://blog.tatsuru.com/2009/02/27_1053.php)


内田樹は「詩法とは、時間をフライングする技術」であると言います。


「二行並韻はいっしょに来る」というのは、押韻している行は同時に構想されているということである。

例えばシェークスピア。

O! she doth teach the torches to burn bright.
It seems she hangs upon the cheek of night
Like a rich jewel in an Ethiop’s ear;
Beauty too rich for use, for earth too dear!
So shows a snowy dove trooping with crows,
As yonder lady o’er her fellows shows.

おお、燈火はあの娘に輝く術を教わるがいい!
黒人の耳を飾る目映い宝石さながら夜の頬に輝いている
手に取るにはあまりに美しい、この世のものとは思えぬ!
雪を欺く白鳩が烏の群れに降り立ったのか、
娘たちに立ち混じり一際燦然と輝くあの美しさ
(『ロミオとジュリエット』、福田恆存訳)


この6行では、bright と night, ear と dear, crows とshows が韻を踏んでいるわけであるが、シェークスピアはこれを二行ずつ書いていた、ということである。

つまり、一行目の最後がbright 「だったから」二行目の最後は同音の単語をスキャンして、nightをみつけたという時間の流れではなく、bright とnight は詩人に「同時に到来した」ということである。

同時に到来した二つの語を、シェークスピアは(どっちが先がいいかなと考えて)二行のそれぞれの末尾に配当したのである。

たぶん。

末尾の韻だけではない。

他の語や文字も、どれも実際には詩人の「詩魂」には同時に到来しているのだと私は思う。

(「人間的時間」 内田樹の研究室 http://blog.tatsuru.com/2009/02/28_1013.php)

詩人というものは、彼らの言語を扱うことにかけては詩人でないものの追随を決して許さない技術を持っています。日本語だろうと英語だろうと中国語だろうと、それぞれの仕方で他の言語話者には真似できない独自のやり方を誇っています。しかしその根本である「時間をフライングする」という技術は、詩人としての訓練をつむことによってしか得られないものでは決してなく、むしろその原型は、人間がはじめにその母語を習得する過程の中で自然に育まれているものではないでしょうか。おそらく、人が特に意識することなく

“The quick brown fox jumps over the lazy dog.”

という言葉を自然に発話するときには、まさに最初の口を開いた段階でその人の脳内には、実はこの文章のほとんどすべての部分が既に到来しているのでしょう。あとは、それを解凍して順番に発音するだけです。その内容もほぼ自在に変更することができます。たとえば

“The quick brown fox jumps over the lazy … cat!”

などと変えてしまうということも自然にできるはずです。このようにして、詩人も詩人でないものも「時間をフライング」しながら、日々言語を操っていることになります。これが「特に意識することなく言語を操作できる」という現象の一つの正体ではないでしょうか。

 そして、このようなことをたとえば外国語話者として行えるようになるためには、やはり「言語生成/理解のダイナミクス」の理解を目指すことが大切ではないかと考えます。







■MTさんによる「『私』と『他者』」(全文)



「私」と「他者」



1.はじめに

 今季の授業において最も難しかったが、それと同時に私が面白いと感じた題材は、ウィトゲンシュタインである。さらに、今回のこのレポートのテーマを考えるにあたって、ウィトゲンシュタインの哲学について触れている論文を探してみたところ、ウィトゲンシュタインの論文を引用する哲学者のひとつの特徴として、デカルト的二元主義(心と身体とを独立したものとみなす考え方)の克服への試みがあるということがわかった。
 
 私たちが何気なしに使う「心とからだ」、「心の中」という言葉にも、デカルト主義的見方が潜んでいる。しかし、普段の私たちの生活において、他者との関わりをもたない「私」、あるいは社会との関わりをもたない「私」といったものは、考えることは難しい。そこでここでは、「『私であること』とは一体どういうことなのか」ということについて、いくつかのそれに関連した論文に触れながら、考えていきたい。


2.「私」とは

「私」の2つの用法

ウィトゲンシュタインは「私」という表現の「客観としての用法」(the use as object)と「主観としての用法」(the use as subject)を区別している。たとえば「私は3cm背が伸びた」とか「私の目の下にホクロがある」などというのは前者の用法であり、「私は山が見える」とか「私は足が痛い」は後者の用法である。前者は特定の人格が存在することを含んでおり、その人格が異なるという可能性をはらんでいる。例えば、鏡に映っている他人の目の下のホクロを自分のホクロだと取り違えることは可能性としてあり得る。一方で、「私は足が痛い」という場合、そこに人格の帰属先の問題はなく、その言及において他者と自分を取り違えるという可能性はあり得ないとウィトゲンシュタインは指摘している。


アンスコムの『第一人称』

 アンスコムは「私」という表現の独特の機能を、他の人称代名詞や固有名詞、指示代名詞との比較を通して明らかにしている。以下はその要約である。
 
 (1)「私」という表現は文法的に言えば人称代名詞である。しかし、「私」について命令することはできないという「主観としての用法」から考えると、「私」という第一人称は、三人称代名詞とは機能を異にする。
 
 (2)また、「私」は代名詞でもない。私たちは他人の言動について「Xは~している」というように、Xを観察することによって代名詞Xを用いて事態を描写する。しかし、私たちはそのように観察に基づいて「私は手紙を書いている」とか「私はイスに座っている」と主張しているわけではない。私たちは「自己意識」に基づき、自己を「私」と呼ぶ。
 
 (3)アンスコムによれば、「私」をめぐる混乱の源泉は、「私」が対象を指示すると考えてきたことにある。指示代名詞のように指示されている者が存在し、それをつきとめることが私とか自己の実態を解明することだと考えられてきたのである。その基準を最もよく満たすのがデカルト的自我であるが、もしそれが幻想の産物であるとしたら、「私」は対象指示表現ではない、としなければならない。したがって、「私はアンスコムである」という命題は同一性を表す命題ではない、というのがアンスコムの結論である。


「観察に基づかない知識」

 アンスコムは、「自己意識とは自己についての意識ではなく、しかじかのことが自分に生じているという意識である」と定義し、「私はイスに座っている」、「私は立ちあがった」というような言葉で表されるものを「私-思考(I-thought)」と呼んだ。彼はこの、ウィトゲンシュタインで言う「客観としての用法」を通して自己意識を規定する理由を、以下のように述べる。
 
 
「私が行為、身体的状態、運動、意志行為の思考のみを取り上げる理由は、これらの思考のみが直接的で、非観察的であるとともに、人物アンスコムについて直接的に検証あるいは反証できる記述だからである。私自身を含め、誰でもその人物が立っているかどうか見ることができる」。

 
 つまり、「私-思考」とは、私自身も「私は立ちあがった」と認識でき、また、他の人々も観察によって「Xが立ちあがった」と確かめることができる事態についての意識なのである。
 
 この考え方は、アンスコムの身体論につながるものがあり、彼は「私の体」という表現には2つの用法があるとした。ひとつは観察の対象としての身体であり、もうひとつは私が観察に基づかないで知っている身体である。確かに私たちは鏡やレントゲンなどを通して自分の身体を観察している。しかし同時に、他人が私の身体を観察するのとは全く異なる仕方で自分の身体に関わってもいる。私たちは自分の身体の状態や動作を、五感を通して捉えているわけではないということである。これをアンスコムは「観察に基づかない知識」と呼び、「この身体が私の身体である」と言えることの理由として、「私は立ちあがった」という「私-思考」がこの身体によって観察され、検証されるからだとした。


3.「他者」とは

他者の存在の問題

永井均によると、「他者とは決して到達することのできないもうひとつの世界(の原点)であり、理解しあることも、助け合うことも、ついには不可能な、無限の距離をへだてた、あまりにも遠い隣人」である。それに対し山田友幸は、他者に対する到達不可能性と理解不可能性を重ねてしまい、理解可能な「他人」と到達不可能な「他人」を分断しようとする点に反対している。

通常の他我問題は、「隣人たちに囲まれて、世界の中に存在している」ということを出発点とする。しかし、永井によれば、他我認識の問題においては他者の存在が出発点において暗黙のうちに前提されているが、他者の問題においては、「問題はむしろ、その暗黙の前提がいかにして成立したか」にある。他者の問題の出発点となるのは、「私」は、「世界の―部分ではなく―限界」であり、同時にまた「世界とは私の世界である」という考え方である。したがって、ここで「私」は「私」の世界の中に登場する他人たちとはまったく異なり、この世界の中に登場しない。他人たちは皆この世界の中に登場するのに、「私」だけはこの世界に登場せず、その限界に存在するという点で特別なのである。永井によれば、誰もが「世界の―部分ではなくて―限界」であり、「世界とは私の世界である」と主張できるのではないかという問いが問われる。そこで、「誰もが世界の限界である世界」を想定することが不可避になるが、この「誰もが世界の限界である世界」と、初めに前提としていた「隣人たちに囲まれた世界」というのがしばしば同一視されてしまうこともまた不可避であると言う。

そこで永井は、次のように結論する。

「他者とは、いつもつねに、隣人を持たないものの隣人である。それは、決して到達することのできない、根本的に異質な、もうひとつの世界(の原点)であり、理解しあることも、助け合うことも、ついには不可能な、無限の距離をへだてた、あまりにも遠い隣人なのである。<魂>に対する態度とは、それゆえ、それに向かって態度をとることができないものに対する、愛や共感や理解を越えた態度なのであった。」


永井は「他者とは、そもそも到達不可能なもの、認識不可能なもののこと」とみなしているが、この見解は他我問題をめぐる永井の見解と表裏一体をなしている。彼によれば、「なんらかのしかたで他我認識の十全性を証明することによって他我の存在を根拠づけ、独我論を論駁しようと努める」こと「によっては、他我の存在の承認にいたることは不可能である」。「それはまったく逆向きの努力」であり、「その種の努力は、むしろはじめから他我をその他我性においては否定している」。永井にとっては、「他我の存在を承認することは自分にとっては究極のところ不可知であるものの存在を承認すること」なのである。

永井が「他者」を実践的な関わりも不可能な「あまりにも遠い隣人」として語るのは、「他者」の理解可能性を主張することが他我の他我性を否定することに通ずるとみなしているからである。


他我問題の純化

 永井は「かりにわれわれがなんらかのしかたで他人の心のなかに起こるすべてのことを即座にかつ確実に知りうるとしても、その知り方が自分自身の心のなかに関する知り方と異なってさえいれば、独我論は生じうるのではあるまいか」と述べている。この「私」の独我論が「自己であることと他者であることの存在論的な差異のみから生じ得るのではあるまいか」という問題意識の背景には、次のような指摘がある。
 
 
「ある人が別の人の心理的状態を体験することができないというのは経験的な事実の問題なのではない。それは論理的・概念的な問題、ウィトゲンシュタイン風に言えば文法問題なのであって、ある人がどのような体験をしても(どのような心理状態になっても)、われわれはその人が別の人の心理状態を体験したとは認めないのである。」



他者はどこにいるのか

 永井は、「私の「世界に対する態度」の一部」であるようなものを他者と呼ぶに値しないとみなした。ここで注意すべきなのは、他者の到達不可能性を認めるためには、他者と私の間に文字通りの意味で「無限の距離」を想定することは必要ではないという点である。他者の体験は、彼が現実世界においてどれほど私の近くにいようとも、私が何を体験しても、その体験が彼の体験の体験であると認められることがないという意味で、私には到達不可能であることができるからである。


さいごに

 以上、主にアンスコムと永井の「私」と「他者」についての見解について見てきたが、未だ「私とは何なのか」、「私と他者との違いは何なのか」という点については論争が尽きないようである。今回の考察においては明確に「私」と「他者」について定義することはできなかったが、このレポートを通して「私」という表現の二元性や、「他者」と「私」の境界線について改めて哲学的に見ていくことができた。
 
 上にも記したように、ウィトゲンシュタインは「私」という表現の「主観としての用法」と「客観としての用法」という2つの用法を指摘した。これは私にとってまったく新しい考えであり、興味深いものであった。私が「私は身長160cmである」といえば、それはアンスコム風に言えば私が見ても、他者が見ても160cmであることを表しており、観察によって検証可能な、物理的な事態である。これは哲学に馴染みのない私たちにも、「私が私である所以」として分かりやすいだろう。
 
 しかし、「客観としての用法」については少し注意しなければならない。たとえば「私は○○について考えている」と言ったとき、どうしてその「考える」といった述語が「私」に帰属していると言えるのだろうか。デカルト的二元論は、そういった意識の状態と、物理的性質はまったく別の主体に属する述語であるとしている。つまり、私たちが普通同じものとして考え、使用している「私」は、実は異なった2つの主体であるかもしれないということである。それが正しいとするなら、本当の「私」とは一体どちらの主体を指すのだろうか、そもそも「本当の「私」」とはどういうことなのだろうか、といった疑問が残った。
 
 先ほどの例で用いた「考える」という行為も、確かに他者には観察によって認めることができない事態ではあるが、結局は「私」の頭、脳が「考えて」いるのであり、物理的なものとして考えることはできないのだろうか。もし「考える」や「意図している」といった意識の状態として考えられているものを、物理的性質として捉えることができるなら、「主観」と「客観」の2つの主格の帰属性の問題も解決できるのではないだろうか。
 
 また、「他者」についてであるが、永井の「他者の到達不可能性」には納得できるものがあると感じた。たとえば他者が「お腹が痛い」と言ったとする。腹痛というのは誰にでも起こり得ることで、「私」も「お腹が痛い」という体験をする可能性は十分ある。しかし、その「私」の体験というのは、「お腹が痛い」と言っている他者の追体験であるとは認められることはどうしても不可能である。というのも、「彼はお腹が痛い」ということを知るのと、「私はお腹が痛い」ということを知るのとでは、「お腹が痛い」という心の中の状態に対する関わり方が異なるからである。そういった意味で、他者とは永久に到達不可能なものであると言えるだろう。しかし、この永井の考えに対しても「到達不可能な他者が存在するならば、それは実践的な関わりの相手とするには役不足である(現実世界において実践的な関わりの相手とするに足る存在には出会えないことになってしまう)」というような反論もあり、課題として残されているようである。

参考文献
『ウィトゲンシュタイン以後』飯田隆、土屋俊編


学生さんによる、音楽から考えるコミュニケーション論

[以下は、「言語コミュニケーション力論と英語授業(2011年度版)」の授業での感想・レポートです。この授業では学生さんが本当に熱心に予習をして授業に参加しさらに振り返りをしてくれました。私の話は「難しすぎる」とか「もはや英語教育ではない」と、一部の「英語教育学者」には敬遠されるのですが(笑)、学生さんはそんな一部の「英語教育学者」とは比べ物にならないほど私からの立論に真摯に向かい合い、問いただし、議論を深め、毎週毎週大量の文章を予習と復習それぞれにWebCTシステムに書きこんでくれました。教師としてこれ以上の喜びはありませんでした。本当にありがとうございました。以下はそんな学生さんの書いた文章の一部です(適宜、改行の挿入や[ ]による補注など、最小限の改変は加えています)。]





■SSさんによる「高校時代の吹奏楽部活動で受けたさまざまなアドバイスから ―意識について再考する―」(全文)



高校時代の吹奏楽部活動で受けたさまざまなアドバイスから
意識について再考する




1.はじめに

 私は高校時代、吹奏楽部に所属していました。部員が多かったため、「音楽」という抽象的で言語化できないものを無理やりにでも言語化してパートごとや、セクション(音域が同じ楽器のグループ)ごとでの動きをそろえる必要がありました。その先輩方や先生からのアドバイスには、意識を共有したたくさんの言葉があったのだとこの授業での「意識」の回に気づきました。これまで私が部活動を通して受けたアドバイスの言葉をもとに「意識」についてもう一度考えて生きたいと思います。


2 吹奏楽部でのアドバイス

2.1「頭の上のキャパシティーを広げて!」

 私が所属していた吹奏楽部では、楽器での表現の仕方、息の使い方を学ぶために誰でも音を出すことができる合唱を定期演奏会で行っていました。その練習の際に、歌唱指導の先生からうけたアドバイスがこれです。先生の解説によると、そのときの私たちの声は「音楽になっていなかった」そうです。一人ひとりの口から勝手に声が出て、しかも口からそのまま声が出ているから何一つまとまったフレーズにならない、と言われました。
 
 そこで先生が下さったアドバイスは、「頭の上に大きなホールのような空間があって、そこから声をだす」ことで、「みんなの声が響きとなって、空気を伝って客席に音楽として伝わる」というものでした。ただ口を伝って音程をもつ音が出ればそれが歌というわけではなく、空間(空気)を隙間なく振動させること、そして全員の音楽の流れが共有できること(この音楽の流れを私は意識と解釈しています)で音楽になる、という意味でした。そのアドバイスを受けてから私は自分の声を口から出すのではなく自分の上にある(しかもかなり高い所にあると想定した)頭蓋骨に向けて声を出すように意識を向けるようになりました。そうすると自然と声が縮んでしまっていた高音域の跳躍(オクターブなど1つの音が次の音との間にかなりの距離があるもの)が容易になりました。
 
 それまでは丹田から出る息と、前にいるお客さんにどうやってその息に乗った音を届けるか、ということしか意識できていなかったので自分の意識が及ぶ範囲が狭かったのですが(丹田から口まで)、このアドバイス以降、丹田から自分の頭上にあるキャパシティーまで意識の範囲を広げることができるようになったため、その範囲で音楽を創れるようになり、とても表現の幅が広がったように感じました。みんなも同じように感じた人が多かったのか、それ以降、個々の口から声が出るのではなく、声域(アルト、ソプラノ、男声など)ごとでのまとまりや、声域間の音の交流もできるようになりました。


2.2「意識せずに無意識にできるようになるなんて無理」

 楽器をやっていて、よく「いらん力は入れない」といわれます。と、同時に「脱力は力んでしまった者にしかわからない」とも言われます。これは少しスポーツにも関連があるようにも思いますが、高校1年で初めてこの言葉を言われたときはまったく理解できませんでした。
 
 楽器を演奏する際に脱力するべきところはたくさんあります。私はフルートパートでしたが、フルートは木管楽器のなかで唯一、唇に脱力を求められます。(ほかのリード系楽器も楽器をくわえるのに必要な力以外は脱力をしなければなりませんが。) 私は特に力みやすい人間なので、「唇の力を抜け!!」といつも言われていました。しかし本当に唇からすべての力を抜くと、アンブシュア(楽器に息を送るための口の形)が崩れてしまって音になりません。
 
 意識してしまってできないのなら意識しなくてもいいのでは?という疑問が浮かんできて、意識するのを止めてしまったら、すぐに先生にばれました。「今まで自分が意識してなかった部分をいきなり無意識にできるようになるなんてありえん。まずは端から端まで意識しろ。できるようになったら、勝手に無意識にできるようになる。」と言われました。
 
 それ以降私は唇を意識し抜きました。音を出す瞬間、音を終わらせる瞬間、自分の唇がどうなっているのかを頭の中で観察しながら練習しました。そうしているうちに、だんだんと音楽のほうに集中できるようになりました。きっと無意識に唇が脱力を覚えたのだと思います。
 
 要するに、先生が言いたかったことは、「今まで意識の及んでいないことを無意識にできるようになるには、新たな意識を創り、体得させる必要がある」ということだと今となって考えなおすことがよくあります。ほかに、管楽器を演奏する際の一番の基本となる「腹式呼吸」についても、同じことが言えます。中学校から吹奏楽を始めた私も、高校に入ってすぐ先輩に呼吸のしかたを指摘されました。「最初はどうしてもお腹に息を入れて、お腹を絞ることで息を出すことを意識的にしないといけない」と言われました。中学校で腹式呼吸ということを知っただけで、実はできていなかったことにその時気づかされました。


2.3 メトロノームの時間と音楽の時間は違う

 この言葉は私たちに音の価値を共有するための先生のアドバイスでした。この文をこのままの意味で解釈すると、メトロノームどおりに演奏しなくてもいいのか、というふうに捉えられてしまいがちですが、そういう意味ではありません。
 
 音の価値というのは、曲を表現するのにとくに大事な意味をもつ音がどれなのかを理解するために意識するべき項目です。特にジャズやワルツなどの変拍子(6/8や5/8などの均等にメトロノームで割り切れない拍子)の音楽を演奏する際に理解が必要です。たとえば、6/8は、1つの小節に八分音符が6つ入る、という意味なので八分音符3つで1拍とカウントしますが、通常の2/4拍子(1小節に四分音符が2つ入る)に三連符を2つ入れることと実質は同じことですが、音の重みは違います。2/4であらわす場合は、すべての音に同じだけ価値がありますが、6/8では、リズムにイレギュラーさを盛り込むことで音楽の流れを活き活きとしたものにします。そのため、6/8の八分音符の1つめと4つめ(1拍目と2拍目の最初の音)が音楽的な価値を高くすることで、6/8のリズムが持つイレギュラーさによって音楽の流れを変えることができます。
 
 このように、曲を表現するために大事な音を大事にしようとすると、演奏者にはその音が長く感じます。しかし、指揮者やメトロノームを無視しないかぎり、テンポは乱れません。メトロノームが示すのは物理的な時間ですが、指揮者や演奏者が意識するべきなのは音楽的な時間だ、ということを私たちに理解させるための言葉でした。


2.4 パーカッションもちゃんと息を吸え!

 パーカッション(打楽器)は、吹奏楽部のなかで息を使って演奏しないパートの1つです。そのため普通はフレーズに関係なく通常通り息をしていればいいわけですが、それでは、2.3で述べた物理的な時間は合っていても、音楽的な時間はずれてしまう、ということです。フレーズを作り出している管楽器パートと同じところでブレスをし、同じだけ息を吸っていく事で、音の形や、音楽的な時間を共有でき、それまでの音楽の流れを崩すことなく演奏することができるということなのだそうです。
 
 パーカッションパートにいた友達に管楽器と同じように息を吸うようになってから何か変わったかを聞いてみました。すると「今までは蚊帳の外から演奏していたような感じだったけど、同じ動きをする管の人らがどういう音を求めているかが分かって、もっとどんな音を出すべきか、叩き方はこれでいいか、とか考えてシビアにできるようになったし、音楽の流れが見えるようになって、それに上手く乗れるようになった」と言っていました。つまり、パーカッションも管楽器と同じようにブレスをとる(息をする)ことで、管楽器と意識を共有できた結果だと考えます。


2.5 音の切り方を揃えろ!

 人間は、音の始まり方には比較的気を配りやすいものですが、音の終わり方には意識を向けにくいものです。そのため、管楽器では、何もせずに音を切ると、息のスピードが下がってしまって音の終わりに音程が下がってしまいます。音の終わりなんて意識したこともなかった私は自分の音の終わりが下がっていることさえも最初はまったく感じることができず、やみくもに下がらないようにすることだけ考えてしまっていました。ですからきっと想像もつかないほど不自然だったのではないかと思ってぞっとします。(意識できていなかったので自分の音の終わりが実際にどれほど汚かったのかは今となっては知る由もありませんが。)
 
 それでも意識し続けているうちに、徐々に自分の音のおわりがぼんやりと視覚化できるようになりました。音の終わりなんてとっくに意識できていて、その時その時の音の終わり方を図示することまで出来ていた先輩方に、少しだけ近づけたような気がしました。音の終わり方が自分で観察できて、図示できるようになったのは、2年生になる少し前でした。
 
 今まで意識の隅にすらなかったことを体得し、無意識にできるようになるのはこんなにも労力を費やすものなのだと今振り返ってもあの頃は頑張ったな、と思うことがよくあります。この音の終わり方は、どう頑張っても視覚化するのが精いっぱいで、言語化するとしても、「煙みたいに消えろ」だとか、「切れん包丁で切ったような鈍い切り口を残せ」といった、とてもあいまいで比喩的なものとしてしか表現することが出来ません。このような曖昧なものを80人、100人といった大人数が揃えるためには、同じ意識を共有する必要があって、先生はこの授業で習ったようなことを高校生にも分かるように伝えようとしていたのだと気づきました。


2.6 音のカーテンを作れ!

2.1や2.5の話とも関連してきますが、特に印象的な言葉だったのでこの言葉についても述べたいと思います。吹奏楽部の一般的な編成のなかで、もっとも人数が多いのはクラリネットで、8~15人が理想の人数とされています。そのため、クラリネットがメロディー系の音色や音楽性の高さの決め手のなることが多いのですが、人数が多いためまとまらないこともよくあります。そのときに大人数をまとめるために意識させられたのが、「息のスピード」「フレーズの頂点」「音の方向性」でした。いずれも非常に抽象的な言葉なので、説明していきたいと思います。

まず「息のスピード」というのは、楽器に入れる息のスピードのことなのですが、もちろん隣の人や前後の人が出している息のスピードは見ることができません。そのため、実質は息を出す前の段階のブレスの勢い、体の動きなどで息のスピードを予測していきます。最初は意識するだけでも気疲れしますが、これが意識できると、回りの音ととてもシンクロできているのが体感でき、よりまとまりのある演奏ができるようになります。

次に「フレーズの頂点」ですが、これは音楽のフレーズ(曲を構成している意味のまとまり、文章でいう文のようなもの)がどこで一番の盛り上がりを見せるのかを揃える、ということです。演奏者でフレーズの頂点がそれぞれ違ってしまうと、全体で聴いたときにどこが一番の盛り上がりなのかが分からず、輪郭のにじんだ音楽になってしまうのです。

最後に、「音の方向性」は、2.1の合唱での話と関連しますが、ホールや音楽室のなかで、どの場所に向かって音を届けるか、という意識です。これが3つのなかで一番意識しづらく、抽象的なものなので実際に音の方向性が全員揃えられているかは、演奏者からは分からず、聴衆や指揮者しか感じることができません。が、これを意識するのとしないのとでは、音楽全体のまとまりがまったく異なります。これを意識できるようになるのにはなかなか時間がかかりました。ホールで練習するときには2階席に続く空気全部を通るように意識しよう、とよく言われていましたが、意識しようとして実際にできているかは幽体離脱しないかぎり分かりませんが、この音の方向性を意識するかしないかの違いは本当に歴然としています。これは言語化が難しいですが、あえて無理やりに言葉にするとすれば、音の方向性を意識した場合は「水が管の中をいっぱいに満たした状態で押し迫ってくる」ような音のうねりが客席にやってきます。この表現ではやはり表現しきれいないので、ぜひ実際に体感していただきたいと思います。


3.おわりに

 私が高校時代に吹奏楽部で新たに意識するようになったことは、数え切れないほどあります。実際に、入部したての頃と、3年生になる頃とでは、自分の音楽やそれ以外のものへの見方が大きく変わったのです。より研ぎ澄まされた感覚を得ることができたと実感しています。それまでは楽譜どおりの強弱、音で、正しい音程で、あとは雰囲気で、という音楽性をまったく省みず感覚のみでの演奏でしたが、今では音楽の頂点はどこなのか、自分はどこから音を出しているのか、音を届けたい場所はどこか、今の自分の唇はどんな形か、丹田から息を出せているか、重心は地面と垂直か、周りの空気を自分の音で振動させられているか、など、色んな部分に意識を縦横無尽に張り巡らせていますが、それは演奏している自分は意識していません。3年間の部活動で、意識してきた部分が、今では無意識に自分で確認できているようになっているのです。今までは、後輩の「どうやったら音が遠くに飛びますか?」や「どうやったら唇の力を抜けますか?」などという質問に上手く言葉だけでは伝えられず、自分が実際に吹くことでなんとなく教えていましたが、これからは自分が意識していることをなるだけ言語化し、それを共有できるようになれればいいなと考えています。







■NSさんによる「音楽と『意識』」(全文)



音楽と「意識」




1.はじめに

 わたしは、5歳のころからピアノを習っており、もっといえば、記憶がないほど幼いころから母が弾くピアノに合わせて手をたたいたり、歌ったり、常に生活の中に音楽がありました。中学生から高校生まで通っていた教室の先生はとても厳しい方で、時には途中でレッスンを切り上げられ帰れと言われたり、拳が飛んできたり、悔しくて泣きながら帰ることもしばしばありましたが、その教室に通い始めてしばらくすると、それまで記念出演だったコンクールで賞がもらえるようになりました。また、それまでよく分からなかった感覚的な指示が理解できるようになったのもその時でした。音という非言語的なものを(100パーセント再現できないにしても)言語というものに置き換え、それを相手に伝えることは至難の業です。それでも感覚的なタッチ、音作り、奏法が上達したのは、さまざまな練習法を試行錯誤しながら見つけていくうちにいつの間にか共有していた意識がコミュニケーションを円滑にしていたからだと思います。このレポートでは、非言語的なものの意識化について考えたいと思います。


2 音楽における意識

2.1 手のフォーム

 私は当時、テンポの速い曲を弾き続けると手の甲から手首にかけて痛んでくることに悩んでいました。先生はそれをすぐに手の形が悪いからだと指摘し、そこから猛特訓が始まりました。
 
 ピアノを弾くには理想的な手のフォームというものがあります。一流のピアニストや、ジャズなどといった違ったジャンルの場合は、必ずしもこのフォームどおりではありませんが、そうでない限り原則的には理想とされるフォームです。第一関節から下と鍵盤がほぼ垂直(80度くらい)になるように鍵盤の上に指を置き、第三関節(指の付け根)は絶対に下げない。手首も絶対に下げない。力を入れるのは打鍵の一瞬だけ。しかし、弾いている途中に手の甲を上から押さえたときに手がつぶれてしまうようでは力の入れ方が足りない。
 
 はじめは、本当にこんなことできる人間がいるのか、と思うほど難しいことでした。テーブルの上などで手の甲を上から押さえられても、簡単にはつぶれないのに、いざ実際に弾きながら手の甲を抑えられると、簡単にフォームがくずれて手がつぶれてしまうのです。つぶれるもんか、と力を入れすぎると今度は速いテンポで弾けなくなります。要は、力を入れるところと抜くところを無意識的に加減して弾くことができなかったのです。
 
 そこで、まずは手を鍵盤に置いた時に空洞になる手の中の部分にハンカチを丸めたものを入れて固定し、それが鍵盤に触れないように弾くよう言われました。また、手首と手の甲の境目くらいのところに10円玉を置き、それが落ちないように、なおかつなるべく速いスピードで鍵盤の端から端まで88鍵すべて半音階で行ったり来たりする練習もするよう言われました。
 
 苦労しながらもなんとかそれができるようになると、今度はそれをすべての音をスタッカート(短く切る)で弾くように言われました。そんなのできるわけないだろう、まずそう思いました。すべての音を短く切るというのは、それだけの衝撃が手首にも伝わって、どうしても手首が揺れてしまうものだと思っていたからです。でも、それこそが誤りであり、手首が揺れるというのは、打鍵の瞬間以外にも力が入っているということでした。そしてこの練習を続けるうちに、速いテンポの曲でも痛みを感じることなく最後まで弾けるようになりました。実際にはこんなに手首を固定して演奏することはまずありませんが、古典やバロック音楽を演奏する際にはこの奏法が基本となるため、クラシックを学ぶ上では必要なことでした。この練習により、先生と私の共通意識である「固い音」「パリパリした音」が出せるようになりました。


2.2 テンポと肘

 ロマン派の音楽では、それまでの機械的でめったにテンポをくずさない曲調とは打って変わり、曲全体がひとつのストーリーのように叙情的です。演奏する際には、その曲がもつストーリーを演奏で再現する(言語を使わずに身体・物体を使う)必要があります。
 
 わたしは、どちらかというとバロック音楽は苦手で、ロマン派や近現代音楽のような、テンポが比較的自由で緩急がある音楽のほうが好きでした。ショパンのワルツを練習していたときは、ここぞとばかりに緩急をつけ、速いところでは腕が痛くならなくなったのをいいことに自分ができる限界まで速く弾き、dolce(ドルチェ:歌うように)やgrazioso(グラツィオーゾ:優美に、上品に)などといった音楽用語が書いてある部分では、ワルツの3拍子をまるっきり無視し、自分では「あえて」テンポをくずしているつもりで弾いたものでした。
 
 しかし、これだと聞いているほうにとっては耳障りな演奏にしかなりません。わたしは無意識的にテンポをくずして弾いていたのですが、先生の指摘からメトロノームに合わせて本来のテンポ通りに弾く練習をしました。ロマン派の音楽をバロック調で弾くのは、はじめは非常に違和感があり、なんとなく落ち着かないのですが、とにかくメトロノームが刻むテンポ通りに弾くことに集中しました。それができるようになると、メトロノームなしで弾く練習。さらに、のばすところで肘を内側から外側に円を描くようにまわす練習。こうすることで、テンポを意識しながらも自然な伸びのしかたが身に付くそうです。曲調が変わる境目のところと、伸びが多いところで、肘をまわしはじめるときに少し力を入れると、タッチが柔らかくなり、自然とdolceがかかったような演奏になります。肘でテンポをとることをイメージして練習を重ね、だいたいの大枠をつかみ、自分なりの解釈で肘をまわすテンポを調節しながら曲を自分のものにしていきました。
 
 ここでは、無意識のうちにくずしていたテンポを意識的にもとに戻し、それから意識的に肘を使って伸びの弾き方をつかんでいくと、また無意識のうちに自然な緩急のついた演奏になります。無意識から意識へ、そして意識から再び無意識への移行により、それまで気付かなかった自分の勘違いに気付き、意識的にそれを直し、そして無意識的な自然な演奏につなげていくこと。大枠は言語によって与えられ、そこから微妙な感覚をつかんでいくこと。これは、音楽のみにおいてではなく、スポーツや、英語学習にもつながるものだと思います。たとえば英語学習だと、自分の発音(無意識)についてだれかから指摘されたら、その音の発音のしかたを知ること(意識)、そしてその練習をすること(意識)で、正しい発音が身に付く(無意識)のではないでしょうか。


2.3 ストーリーを考える

 近現代の音楽は、抽象的なタイトルや変拍子、変速記号や不協和音が多く含まれ、ロマン派と違い曲の中のストーリーがつかみにくくなっています。また、曲の解釈のしかたも人それぞれであるため、近現代音楽はこうやって弾く、といったルールはありません。
 
 そこで先生が私にさせたのは、完成した演奏をCDなどで聞く前に、楽譜を見てだいたいの曲の雰囲気をつかみ、ストーリーを考えさせることでした。そしてそれをメモするなり絵に描くなりしてあとから見てわかるようにし、自分の考えたストーリーどおりに表現します。見返したときに同じ演奏にならないようにすることで、毎回思いつきの演奏にならないようにすることができます。ストーリーには正解も不正解もなく、弾いている途中で、これは違うなと思ったら消し、こういう解釈もあるかな?と考えればそれを書き加え、自分なりの解釈をストーリーにしていました。
 
 曲という抽象的なものを自分で意識化し、演奏しながら試行錯誤することにより、自分のストーリーに沿った演奏ができるようになります。たとえば、中学生のときのコンクールの課題曲、カスキ(フィンランドの近代音楽家)作曲の「牧歌」という曲では、曲全体を「自然」というテーマでイメージし、ここは川の流れみたい、とか、ここは川の水面がキラキラ光っているかんじ、とか、この部分は風の音、ここは森のざわめき、など、曲調や雰囲気から連想されるものに見立てて、練習を重ねました。また、アルペジオ(分散和音。和音に含まれる音を高い音、あるいは低い音から順番に出すこと)移動が続くなか、規則的に考えれば同じアルペジオが来るべきところでアルペジオが来ないときは、それはなぜか?といったことを考え、分析し、イレギュラーな意味を考えて大切に弾くなど、細かい分析も重ねました。この曲は、速度記号が楽譜の随所に見られ、テンポの変化が多くあるのですが、ただ楽譜に従うのではなく、解釈を加えて楽譜を見るとそのテンポ変化の意味に気付いたり、速度変化前後のつなぎがスムーズにできたりします。
 
 近現代音楽は、人によって演奏が大きく変わります。コンクール本番でも、近現代音楽のときは何人も続けて同じ曲を弾くにもかかわらず、その演奏はひとりひとり違い、聞いていて飽きません。無意識という段階に至るまでに、解釈を加え、分析を重ね、ストーリーを意識しながら弾くことにより演奏に深みを増すことが近現代音楽の面白さだと思います。


3.おわりに

 このレポートでは、バロック、ロマン派、近現代に分けて、音楽という抽象的で非言語的なものを意識化することに焦点をおいて、意識と無意識に関連付けながら記述してきました。音楽にのめり込めばのめり込むほど、その非言語の魅力に気づき、人を感動させることのできる演奏とは、非言語で言語を伝える演奏なのではないのかな、と思います。
 
 私がこのクラシックの経験を通して学んだ感性や感覚といったものは、今やっているジャズの分野でも大いに役に立っているし、絵画や写真など、ほかの芸術にも興味をもつようになりました。内田樹さんの身体論的にいえば、芸術は非言語的なものではあるけれど、「声」はその内に持っており、感情を豊かにする一要因であると考えます。ことばにできない感情は、ことばにできたらそれはとてもいいことだと思いますが、ことばにできないことの価値もきっとあるはずです。コミュニケーションにおいて、相手を100パーセント理解することは不可能であり、それは芸術の分野においても、作者の解釈や本人の演奏をそっくりそのまま再現することは不可能で、それでも声を拾い解釈を加えることでそれが誰かを感動させる要因になりうるものであると思います。それを人に教えるとき、どうしても必要になるのが言語であり、その言語をうまく使える存在が教師であると思いました。






■UJ君による「音楽とコミュニケーション」(全文)




1. はじめに

 「音楽でコミュニケーションを行う」。多くのミュージシャンがこのことをインタビューなどで口にしているのを見た。このことから筆者は音楽におけるコミュニケーションが、普段我々が考えているコミュニケーションとどのような共通点があるのかについて興味を持った。
 
 本レポートはその共通点を、授業でも取り扱った「身体」というキーワードをもとに探っていくことを目的とする。以下では音楽を「身体」という観点から見る、コミュニケーションを「身体」という観点から見るという大きな2つの流れから、今まで「音楽と身体」、また「コミュニケーションと身体」はどのように考えられてきたのかを紹介し、その中から共通点を探り、所見を述べていく。
 
 予めここで述べさせてもらいたいが、本レポートでは筆者の推論や所見などが多く含まれる。そのためやや強引な部分もあるかもしれないが一推論としてとらえて頂きたい。


2. 音楽を「身体」という観点から見る

2.1 音楽=身体論

  
 ロラン・バルト(1915‐1980)はフランスの批評家である。バルトは音楽のうちに指向対象としての身体を見出し、音楽=身体論を展開した。ただし、これは科学的実証でもなければ、音楽的記述でもなく、隠喩的、文学的に語ろうとする試みであった。
   
 バルトはこのテーマに関して「声のきめ」(1972)において記述しており、音楽の「きめ」を考慮に入れるだけで別の音楽史を記述できるとまで断定している。「きめ」とは「歌う声における書く手における、演奏する肢体における身体である」と彼は定義し、また「きめ」は声だけにあるのではなく、器楽にもあり、声によって音楽をする者に体があるように、楽器の演奏者にも身体はあるとも言う。(鈴木 2007)
  
 鈴木(2007)はこのバルトの考えを「ほとんど持論として読むことができる」と述べているが、筆者はバルトが音楽と身体との関係に着目していることからここに取り上げた。


2.2 音楽における身体の重要性

 スイスの作曲家でもあり音楽教育家でもあったエミール・ジャック=ダルクローズ(1865‐1950)は音楽における身体の重要性に着目している。彼は幼児教育や子供の音楽教室における基礎コースなどで一般的に普及している、「リトミック」の創始者として名前が知られている。リトミックを一言であらわすならば「音楽をリズムの要素を中心にして身体の動きを通して教えるメソッド」と説明することができるだろう。このことから彼も音楽における身体の存在に着目していることがわかる。
 
ダルクローズはジュネーブで和声学を教えていた際に、学生たちが、将来和声学で身をたてていこうとしているのにも関わらず、記譜しようとする和音を自分の耳で聴き取る力が身についていないという印象を持ったという。そこから学生たちに、和音を記譜する訓練よりも前に、まず彼らの音を聴く力の発達を促すための、体験に基礎をおいた訓練を施すことを試みた。年齢の異なる学生や子どもたちとの訓練・実験を通して、年齢の低い子どもたちの方が、音楽教育を受けてきた年齢の高い生徒たちに比べて、聴覚が自発的に養われ、音の分析的な理解ができ、結果として記譜を容易に行うことができるようになることを発見した。

この年齢の低い子どもたちの時期とは「身体と脳が平行して発達していて、絶え間なく印象や感覚を互いに伝え合っている」時期と考えたため、ダルクローズは技能訓練の前に、音楽に対する感受性やリズムに対する感覚をまず経験や体験を通して学ぶことが、音楽学習の基礎として何よりも重要であると考えた。その後ダルクローズは様々な観察などを経て「音楽的感情の鋭敏さというのは、身体的感覚の鋭敏さに左右されるのである」とも述べている。(塩原 2008)


2.3 音楽家と聴衆との関係

 ここまでは音楽家という個人の身体について着目してきた。しかしながら音楽において聴衆という存在を忘れてはならない。この音楽家と聴衆との関係性についてはフランスの美学者ミケル・デュフレンヌが指摘している。彼は「見るものが同時に見られるものであり、触れるものが同時に触れられるものである」というメルロ=ポンティの身体論をより発展させ、彼の身体論に欠如していた音楽的身体論を語った。彼は「身体全体が世界全体そのものと交流している」のであり、「われわれが対象を作り上げるのではなく、対象が豊かで統一した形でわれわれに対して多様な現れ方をし。そして知覚がまっすぐ対象に向かうのである」とした。また、音楽=身体としたときの私の身体(音楽家)と他社(聴衆)の身体との関係について、各々が他者に「反響し」、「共鳴する」と考える。(鈴木2007)このようにデュフレンヌは音楽家と聴衆との身体の共鳴に着目している。
 
デュフレンヌが着目した音楽家と聴衆の身体の共鳴に関しては、現在最前線で活躍しているギタリストも無意識的に認識しているということができるかもしれない。ここでキコ・ルーレイロとジョージ・リンチという2人のギタリストを紹介する。キコとジョージはどちらとも現代ヘヴィーメタル界の最前線で活躍するギタリストである。キコはブラジル出身でヘヴィーメタルからジャズやボサノヴァまで幅広い音楽性を持ち、また音楽理論に広く精通している、いわゆる理論派ギタリストである。一方アメリカ出身ギタリストのジョージは理論派のキコとは全く正反対で、あまり楽譜が読めず、多くのところを自分の耳やフィーリングを頼りするため、他のギタリストにはない独特なトーンとプレイスタイルを確立しているギタリストである。一見全く違ったタイプのギタリストである両者だが、「身体」「共鳴」などという言葉自体は使っていないにしろ、どこかで身体の重要性や身体の共鳴について認識していることが伺えた。以下にそのことに関して筆者が非常に興味深く感じた両者の対談インタビューの抜粋を掲載する。この対談インタビューは株式会社シンコーミュージック・エンタテイメントが出版する雑誌、月刊YOUNG GUITARの2008年6月号に掲載されたものである。

  

注:以下「GL=George Lynch」、「KL=Kiko Loureiro」


GL : (キコの「理論などをしこたま学んだあとにはそれらは忘れるべき」という発言をうけて)「学んだことを忘れるべき」という考えは賛成だね。プレイヤーの中には、何年も練習を積み重ねて様々な事を理路整然とマスターしていく人もいる。それは素晴らしいことだと思う。ただ、キコが言ったように、ある程度の成熟したレベルに到達したと思ったら、違う次元に入るべきなんだ。学ぶことをストップするわけじゃないよ。技術の習得過程を卒業して、次は「リスナーに何を伝えたいのか」「リスナーが感情的に愛情を持てるのは何なのか」という高いレベルの考え方をすべき…という事なんだ。要は“心”だね。(中略)テクニカルなスキルを持っているかどうかなんて取るに足らない事さ。



KL : 音楽は言語だと思ってるんだ。学校に行けば、その言語を操るための文法を全て教えてくれる。つまり、文法は手助けになってくれるわけだよね。ただ、言語を覚えること自体が目的になっては何の意味もない。そこで完結してしまったら、何のための勉強だったか…ということになる。大事なのは、その言葉を使って実際に人とコミュニケーションを取ることだろ?文法はあくまでも、そのための手段さ。音楽でも然り。理論やテクニックはプレイするための手助けであって、それを身に付けることが最終目標ではない。それをどう使って良質の音楽を創作するか、ここが大事なんだよね。僕はそういう訳で、音楽という言語を学んできたわけ。



この両者の発言には彼らが「身体」「共鳴」という感覚を認識しているということが隠れていると思う。音楽=身体と考えて、ジョージの「リスナーに何を伝えたいのか」「リスナーが感情的に愛情を持てるのは何なのか」という発言を見ると、彼は、彼の作り出す音楽という身体そのものと、リスナーの身体を共鳴することを考えている。またキコの発言の「コミュニケーションを取ること」も音楽に当てはめた場合、リスナーと身体を交流、共鳴させることと取ることができるかもしれない。

 よって、やや強引かもしれないが両者ともに、「身体」「共鳴」などという言葉を直接的には使っていないにしろ、無意識的にデュフレンヌの身体の共振に近いものを感じているのかもしれない。



3. コミュニケーションを「身体」という観点から見る

  ここまで音楽を身体という観点から見てきたが次はコミュニケーションに焦点を当てて話をしていく。
  
 3.1 逆向きの相拮抗するベクトルを持つ人間
 
 鯨岡峻は「見るものが見られるものであり、触れるものが同時に触れられるものである」というメルロ=ポンティの考えをコミュニケーション研究の基礎にすえて、人間とは「もともと他者に向かって開かれた存在、つまり他者身体があらわにする志向をいつもすでに受け止める用意をもった存在」と前提したうえで、「現前し合う二者の身体がおのずから感応しあい、それに従って関わり合うということは、人間存在の自然なあり方であるとしている。また「人間は一方では個に収斂するベクトルを持ち、他方では他者に向かうベクトルをもつというように、逆向きの相拮抗するベクトルを本来的に持っている」、そして「対人関係、とりわけそこにおけるコミュニケーションは、その逆向きのベクトルをうまくバランスさせようとするところに表れてくるのだ」。そのような両義性に深く根ざしているのがコミュニケーションなのであるとした。(鯨岡 1997)

3.2 身体の共鳴
 
 デュフレンヌが彼の音楽的身体論の中で音楽家と聴衆の身体の共鳴に関して指摘をしていたが、片山洋次郎も同様に身体の共鳴に関して指摘している。片山の指摘する「身体の共鳴」はデュフレンヌに比べもっと一般的であると考えたため、こちらの「コミュニケーションを「身体」という観点から見る」で紹介する。以下、片山を授業で取り扱った際の予習資料「片山洋次郎先生の身体的コミュニケーション論」(柳瀬 2009)からの抜粋を取り上げる。


・身体の響きは、内側だけでなく、実は外側にも漏れ出ていて、無意識のうちに影響し合っているものです」(片山洋次郎(2007)『身体にきく』文藝春秋、25ページ)

・「身体そのものがメディアであり、身体同士が直接相互作用し、共鳴するということは、意識化されにくい。例えばある程度親しい間柄でも、何も話さずに同じ場所にいるということは、「気まずい」感じを生む。こういう場合、何らかの会話なり挨拶なりが必要になってくる(片山洋次郎(2001)『整体 楽になる技術』ちくま新書、22-23ページ)

・よく「気を送る」とか「気を通す」とかいうことがあるけれども、「送って」いる側も同時に受けているのであり、「受け」ている側も「送って」いるのである。だから、「”共鳴”している」といえば一番ぴったりくる。「送って」いる側は”共鳴”の対象や仕方(間合いの取り方)を調整しているのである。(片山洋次郎(1994/2007)『整体。共鳴から始まる』ちくま文庫、27ページ)

・たとえば自己をA、他者をBとする。AはBにはなれない。Aという場はBにとって代われないが、共鳴状態では<AB>であって、AでもBでもない状態、そしてAでもありBでもある状態で、さらに進めばAもBも消えて空っぽの感じになる。つまり全世界と共鳴している状態になる。(片山洋次郎(1994/2007)『整体。共鳴から始まる』ちくま文庫、115ページ)


これらのことから片山も鯨岡とほぼ同じような観点から身体を見ており、また「全世界と共鳴している」ことに関してはデュフレンヌと同様の考え方をしているとも言うことができる。


4. まとめ

 ここまで音楽と身体、コミュニケーションと身体について現段階で既に提唱、指摘されていることなどを紹介してきた。その中で筆者が特に注目したのは「共鳴すること」である。音楽において共鳴することとは、音楽家の演奏を聴いた聴衆が音楽家の生み出す音楽(=身体)と聴衆自らの身体とを重ね合わせることとも言えると筆者は考えた。この点で音楽は何か官能的でエロティックなイメージを伴っているとも言えるかもしれない。ただしこの身体の共鳴は音楽家と聴衆の間だけではなく、音楽家と音楽家の間にも成り立つと筆者は考える。
 
 その理由として挙げられるのがアドリブやセッションである。アドリブやセッションにおいては各音楽家たちの身体が上手く共鳴して重なりあった時に一種の連帯感を感じたり、時には共鳴をあえて無視しスリリングな展開をしたりしていく。そしてその生み出される音楽(ここでは音楽家”たち”の身体)と聴衆の身体が共鳴してさらに大きな世界との共鳴をしていく。コミュニケーションにおいても同様に、(片山の言葉を借りるなら)身体がメディアそのものであり、お互いの身体同士が直接相互作用し、共鳴をしていく。
 
 よって音楽とコミュニケーションは共に「共鳴を起こしていく」という点で共通点を持っているということができるかもしれない。また一見全く違う分野である音楽とコミュニケーションだが、音楽という全く違った観点からいつも私たちが考えようとするコミュニケーションを見つめていくと違った発見があるかもしれないという事を、併せて本レポートからから発見することができた。違う分野からの視野に関してはこれから卒業論文を書くにあたって、また何かを考察していく上で実は意外なアイディアを与えてくれる可能性があるため、今後是非頭に入れておきたい。



参考文献

・鈴木正美(2007)「音楽的身体とパフォーマンス」 『テクストと身体』北海道大学スラブ研究センター、pp.122-137

・塩原麻里(2008)「ジャック=ダルクローズ音楽教育論の心理学的再考―脳神経科学との関連から―」『東京学芸大学紀要、芸術・スポーツ科学系』60:pp.43-49

・鯨岡峻(1997)『原初的コミュニケーションの諸相』ミネルヴァ書房、84頁

・柳瀬陽介(2009) 「片山洋次郎先生の身体的コミュニケーション論」(授業予習資料)












学生さんによる、スポーツから考える英語教育論

[以下は、「言語コミュニケーション力論と英語授業(2011年度版)」の授業での感想・レポートです。この授業では学生さんが本当に熱心に予習をして授業に参加しさらに振り返りをしてくれました。私の話は「難しすぎる」とか「もはや英語教育ではない」と、一部の「英語教育学者」には敬遠されるのですが(笑)、学生さんはそんな一部の「英語教育学者」とは比べ物にならないほど私からの立論に真摯に向かい合い、問いただし、議論を深め、毎週毎週大量の文章を予習と復習それぞれにWebCTシステムに書きこんでくれました。教師としてこれ以上の喜びはありませんでした。本当にありがとうございました。以下はそんな学生さんの書いた文章の一部です(適宜、改行の挿入や[ ]による補注など、最小限の改変は加えています)。]


■SS君による「サッカー界にみる英語教育の姿」(全文)



サッカー界にみる英語教育の姿



今回はサッカーの試合に臨むまでの準備過程を参考にして、英語教育のあり方について考察していきたいと思う。

 まず現代サッカーにおいて、選手たちは中3日、あるいは1週間といった短いサイクルの中で定期的に試合を行っている。今回は1週間のサイクルで行われているものを参考にして話を進めていく。一般的に多くのチームは、試合→体力回復→試合分析→課題修正→トレーニング→試合…というサイクルを繰り返すことで年間を通じて試合を行っている。科学技術等の発達により、体力回復、試合分析といった点に関してはチーム間での差はそれほどなくなってきている。しかし、それにも関わらず強いチームもあれば弱いチームもあるのはなぜだろうか。
 
 1つの理由としては選手や監督の質の差が挙げられる。そして他の理由としては、トレーニングの差、つまりその方法や負荷のかけ方の違いが挙げられる。その中で現在そのトレーニングは、戦術的ピリオダイゼーション理論(PTP理論)というものに基づいて行われる場合が非常に多い。この理論はおよそ30年ほど前にポルト大学のビクトル・フラーデが提唱し、2003-2004年シーズンにFCポルト(ポルトガル)がヨーロッパの大会(UEFAチャンピオンズリーグ)で優勝するのだが、当時このFCポルトを率いていたジョゼ・モウリーニョ(現スペイン、レアル・マドリード監督)がチームトレーニングにこのPTP理論を導入していたことで一気に広まり、現在に至っている。なぜこのFCポルトやモウリーニョに注目が集まったのかというと、当時このチームは決して優勝候補と呼べるチームではなかったが、ダークホースとして強豪チームを次々と破って頂点に立ったためであった。
 
 ここで少しPTP理論とはどんな理論なのかを簡単に説明しておきたい。この理論は簡単に言うと、サッカーがうまくなるにはサッカーをしなければならないという考えに基づいている。何を当たり前のことを言っているのかと言われるかもしれないが、実は2003-2004年シーズンにFCポルトが優勝するまでは、世界のトップクラブでさえ多くのクラブはサッカー選手のトレーニングとして、戦術トレーニングなら戦術にのみ特化したトレーニング、パスの練習なら実際の試合でもほとんど遭遇しないような場面でのパストレーニング(例えば敵がいることも想定しないでお互いが向かい合った状態で単にパスをする)、更には選手のフィジカルトレーニングで調子を整えたいなら陸上専門のコーチを呼んで陸上選手が調子を整えるような方法で行っていたのである。もちろん全てのチームが必ずしもこのような古典的なトレーニング方法を用いていたわけではないのだが、世界のトップチームでさえも何十年も前のトレーニング法を踏襲していたのだから驚きである。PTP理論に基づいた具体的なトレーニング方法は後で少し触れることにしたいと思う。
 
 ここまでの流れで、スポーツと教育は枠組みの異なるものではあるが、英語教育にも少なからず似たような考え方が可能なのではないかと思う。それは、英語教育において、授業の最終的な目標があり、そのために必要な学習をし、その成果を測り、それをフィードバックし再び学習するという流れが、サッカーにおける試合→(回復)→分析→修正・トレーニング→試合→…というサイクルと酷似しているからである。加えて、サッカーはサッカーをすることでしか上手くならないという考えも、英語は英語を使用することでしか学べないという考えと一致するとこがあるのではないだろうか。以上のような点から、初めにも述べたように、スポーツと英語教育を比較しながら英語教育のあり方を以下で考察していきたい。
 
 まず上記でも述べたサッカーのPTP理論についてもう少し話を進めるところから始めたいのだが、現在は日本にもこのPTP理論が徐々に導入されつつある。数年前までは、海外から見た日本人は、「技術はあるがサッカーは下手」だと見なされていた。これは一例を挙げると、リフティングは上手いが、いざ試合になるとリフティングを用いるような場面は皆無に等しく、柔らかいボールタッチをできる選手であったとしても、試合中に自分のその柔らかなプレーを発揮できないということである。また、1ヵ月前に全国高校サッカー選手権が行われ、その決勝戦をスペインのプロクラブのコーチが視察し語っていた言葉であるが、日本の選手の技術は海外の同年代の選手と比較しても遜色ないが、判断力に差がありその場その場にあった選択が悪いためにせっかくの技術を生かし切れていないと言っていた。またそのコーチがある高校の練習の講師として訪れた際に、日本の高校生が試合を想定することなく同じ練習をひたすら反復する光景に驚いたという。確かに反復するのは一定の効果があるのだが、サッカーでは選手の置かれる状況は刻一刻と変化するものであり、その変化についていけるようなトレーニングを行うために様々なシチュエーションを想定して行うのが海外では一般的であり、この差が選手が成長した時の差になっているのではないかと言っていた。
 
 要するに、「サッカー=技術+戦術+体力+精神力」の総和と考え、技術や戦術(ドリブルやパス、シュート等)というものを独立したものと捉え、分割してトレーニングした場合、試合でマイナスになりえる行動を選手たちに習慣化させてしまう恐れがあるのである。
 
 これは英語教育においても同様のことが言える。読む・聞く・書く・話すができれば英語を自在に使えると考えられることもあるからである。そして実際にこれらの4技能を独立したものと見なし、それぞれを別物として習得していく傾向も見られる。こういった教育がもととなって、サッカーで言うところの「技術はあるがサッカーが下手な日本人」、つまり「英語を知っている(例えば文法に対する詳しい知識)が英語を使えない日本人」が多数生まれているのではないかと考える。
 
 ではこの問題を解決するためにはどうしていけばよいのだろうか。答えは実にシンプルである。実際にサッカーの試合に近い形でトレーニングを行う。英語教育に関して言えば、英語を使う場面を作る。恐らくこれは誰もがわかっていることであろうが、それがなかなか実践できないということは、それを具現化することが非常に難しいことを意味している。
 
 サッカーにおいてこの問題を解決するために取られている方法を例にとってみよう。トレーニングの一環として、選手の体調を整える際に、かつては陸上専門のコーチによる陸上式の方法を取り入れていたと述べたが、現在では体のキレを維持するためにラダートレーニングを行いながら、それを試合中の敵に見立てるような形で行い、同時にボールコントロールを行いながら敵をかわすこともイメージするトレーニングがある。これにより瞬発力トレーニングとドリブルトレーニングを同時に行うことが可能になる。そしてこのようなトレーニングにより、従来のサッカーに必要とされている筋肉をつけるための筋トレよりも、サッカーをするのに必要な肉体をより効果的に作ることもできるようになるのである。
 
 ここまでサッカーにおけるPTP理論の特徴を中心に述べ英語教育にも似たような特徴があると述べてきたが、あくまでこの理論はトレーニング方法でしかなく、教育において実践する場合にはどのような流れの中でこの理論を取り組んでいくかも非常に重要である。そこで最後にこのPTP理論の考えを有効活用にするためにはどのような枠組み(ここではサイクル)の中で行うのがよいのか考えていきたい。
 
 まずあくまで最終目標は「英語を理解する」だけではなく「英語をコミュニケーションの手段として」使用できるようになることなので、まず生徒が実際に英語を使用する場面を作らなければならない。これはサッカーにおける試合にあたる。そしてその英語を使用した結果見つかった課題を様々な形でフィードバックする。これはサッカーにおける試合分析にあたるものである。続いてここで見つかった課題を修正するためのトレーニングが必要となる。それと同時に、新たに英語使用場面を設定し、そこに向けての準備も行わなければならない。そして再び英語を使用する試合に挑まなければならない。
 
 要するに、「…英語を用いてのコミュニケーション活動→フィードバック→練習問題に取り組む→次回に向けての準備→英語を用いてのコミュニケーション活動…」という流れである。現在でも高校によってはOCという名の文法授業が行われている。しかし文法を完全に他の技能と切り離して学ぶことで、文法に関する知識は会得しているが、それを使用することができなくなっているように感じる。それはサッカーにおける「技術はあるがサッカーの下手な日本人」と同じである。
 
 学校という限られた空間・時間の中で教育をしなければならないという現状を考慮に入れると、理想の英語教育を実現することが容易でないことはわかる。学校によっては生徒を学校に連れ戻すことで精一杯なところもあるであろう。さらに中学校や英語学習の初期段階においてはここまでで述べたような教育は難しいという意見もあるであろう。実際にサッカーにおいても、初めからPTP理論に即した練習を行っているわけではなく、一般的に10~13歳頃までに多くの技術を体得できると考えられているゴールデンエイジを過ぎてから徐々に取り入れていくことがほとんどである。
 
 同様の方法で英語教育に置き換えて見ると、小学校・中学校初期段階においてある程度の英語に触れておく、完璧な知識としてではなくとも、英語とはこういうものなんだという感覚を持たせるような教育が望ましい。恐らく、英語教育を行う上での最大の障害となるのは、ほとんどの日本人は英語が話せなくても生活できるという環境であろう。しかし、我々教師は、そんな困難な課題に対しても立ち向かわなければならず、課題を先延ばしにしていては何も変化は望めない。
 
 現在、日本サッカーは世界的な地位も向上し、多くの若手が海外でも認められるような時代になってきた。このような変化は指導者や選手の質の劇的な変化によってもたらされたのではなく、サッカー界の体系を変えたために起こった出来事なのである。具体的に言えば、日本代表を頂点とし、その下に西・東日本選抜、地方(四国や中国、関東といった枠組み)選抜、圏選抜、地区選抜というように、日本を1つの枠組みとして一貫性のある体系を小学生から高校生までの各段階で構築した結果なのである。教育も、今こそ各学校による競争ではなく、一貫性のある、より目的のある体系を作る必要性に迫られているのではないだろうか。そしてそれは英語教育にも同様のことが言えるであろう。これから我々が少しずつ微力ではあるがそういったことを主張していかなければならない。






■NY君による「書記言語化が人の成長へもたらす影響 -スポーツ選手にとるノート記録に関連させて-」(全文)


書記言語化が人の成長へもたらす影響
-スポーツ選手にとるノート記録に関連させて-


1.はじめに

このレポートでは、「意識の神経科学と言語のメディア論に基づく教師ナラティブに関する原理的考察」で取り上げられた「書記言語化」に着目し、自分の中で考察したいと考える。その授業では、教師が自らの教育実践を語ること-ナラティブ-は教師の成長に貢献するということを学習した。それは自己意識を言語化することで自己観察と自己理解を可能にするからである。言語化として「語る」ことと「書く」ことが言及され、そこでは「書く」ことは「語る」ことよりも、深い自己観察を促し、自己理解につながると学習した。そこで、私が中学生時代に日々作成していた「バドミントンノート」や、プロスポーツ選手のノート活用術などと関連させて、書記言語化が人の成長へもたらす影響について、自分の言葉でまとめ、考察していきたい。


2.中学校時代の「バドミントンノート」

 私は、中学校から大学までバドミントンを続けているのだが、それは中学校の時の顧問の先生が指導熱心で恵まれた環境にあり、上達することの楽しさを教えてくれたからである。先生はバドミントンを上達させる方法について、様々な所から情報を仕入れてきて私を指導してくれた。その指導の中で効果が顕著に現れた印象深い取り組みに、「バドミントンノート」があげられる。
 
 この取り組みは、サッカー強豪校の監督がノートを活用し、選手を上達させているという情報を先生が手に入れたことから始まった。最初は、「強豪校の選手はノートを取っているからではなく、良き指導者や、膨大な練習量、選手の才能の違いなどが存在するから上達するのである」という思いと、「毎日練習の反省を書くなんて面倒くさい」という思いがあった。初めは内容も簡単であり、例えば、「打点が低いので気を付ける」「スマッシュを真ん中に打たないようにする」「ヘアピン(ネット前から相手のネット前に返す技)を上手くなる」などであった。ノートを取るようになってから、自然と書いたことを意識した練習を行うようになった。そして少しずつではあるが、今まで出来なかったことが出来るようになり、上達していると実感することも多くなった。次第に面倒くさいという思いや、提出しなくてはという義務感は消え、逆にもっと真面目にノートを書こうという思いが強くなり、ノートにかける時間も15分から最終的には30分くらいかけるようになった。その結果、今まで勝てなかった相手にも勝てるようになって大会で昔より良い成績も残せるようになった。
 
 
3.「バドミントンノート」の隠された5つの意義

最初ノートを記録させることの意義は、単純に反省を義務化して、反省の回数を増やすことや、反省する習慣をつけることだと思っていた。確かにそれも大きな意義であるが、それ以外にもノートを記録させる意義は存在する。ここでノートをとることの意義を考える前に、まずノートに記録しない反省について考える。

ノートに記録しない反省とは、頭の中で何が問題点、反省点なのか言語化する、「自己意識化の言語化」の段階、よくてその反省点を友達に話す、「共有化」の段階で止まっている。これだけでも効果はあるのだろうが、それらの段階では自分の問題点や反省点を思いつく限り列挙していくことしかできず、まとまりのない反省となってしまう。結果、自分はどんなことに気をつけ、何を改善する必要があるのかが不明瞭である。加えて、この段階においては思いつきであり、その思いつきには「考える」という行為が圧倒的に不足している。またその思いつきは一時的なものであり、記憶にも残りづらい。このように考えてみると、ノートに記録する反省には反省の義務化以外にも5つの隠された意義が存在すると考えられる。

①目標や課題を明確にすることが出来る:

まず初めに目前に控えた大会や最終的な大会ではどのような成績を収めたいか、例えば「市大会優勝」「県大会ベスト4」といった具体的な目標を書いていた。目標を書くためには自己観察が必要であり、自分の実力を考えた上で、どのような自分になりたいか、最低達成出来る目標と最高達成出来る目標を考える。目標を設定した後には、現在の自分の実力と目標達成に必要な力を照らし合わせて、どのようなこと(練習方法、トレーニング、テクニック、メンタル面などの課題)が必要とされるか、また目標を達成するまでには、どんな相手が予想されるか、その場面ではどのようなプレーが必要とされるか、またどのようにすればその相手に勝つことが出来るか考え、それを記述することが出来る。ノートを書くことは、自分の目標を明確にし、同時にこれから取り組んでいく課題を浮き彫りにすることが出来る。

②:論理的に反省や課題について考えることが出来る:

例えば、普段の練習の反省として「ヘアピンの精度が悪い」と書いたとする。書くことは、その反省と向き合わせ、深い観察と深く考えることを可能にする。例えば、「ヘアピンの精度が悪い」を直すためには、「ひざを使ってコントロールする」「高い位置でシャトルを取る」「腕は伸ばした状態で打つ」などの改善点に結び付く。それは記述することでもう一度反省点をしっかりと観察また、それについて深く考えることが可能になるからである。また、記述することは論理的に考えることにも結び付いている。中学生の時の課題によく「打点をあげる」と書いていた。それは角度のある球や、タッチを早くするという効果があり、背の低い僕にはとても重要な課題であった。ノートを取る前までは、「打点を上げる」とはとにかく腕を伸ばして、上で打つことを意識しなければとばかり思っていた。しかし、ノートをとるようになってからは、もう一度課題を見直し、そのためには何が必要であるかに着目出来るようになった。「打点を上げる」ためには、「フットワークを使いシャトルの下に入る」や、「体幹を鍛えて、上体をまっすぐにする」ことが必要であると考えたのである。記述することは課題を遡って、必要なことを考えることを可能にし、論理的に反省や課題について考えることが出来る

③重要な反省や課題を整理し、順列をつける:

「書く」ことは「語る」ことに比べて、時間や労力を要するため、情報選択を吟味することを可能する。バドミントンノートを書く時には、思いつく多くの反省や課題の中から、本当に重要な反省や課題はどれであるかを考え記述することが出来る。また、同時に重要度を考え、今の自分に必要であるもの、改善しなければならないことを順番に並べ替えることもできる。そうすることによって反省や課題が自分の中で整理されて、練習中に特に注意しなければならないこと、重点的に練習すべきところなどが明確になった。

④一時の反省や課題を記述という形で永続的に残す:

記述することによって、自分の反省や課題を目に見える形に残すことが出来る。それは後に過去の反省や課題を振り返ることを可能にし、調子が悪くなった時などにそれを見直せば調子を取り戻す手掛かりにもなる。「書く」こととは、永続性のある媒体に書き写すことであり、それは過去の自己観察までも可能にする。その過去の自己観察が現在の自己観察する上での参考にも成り得る。
⑤他者からの観察、理解を可能にする:

「書く」ことによって、他者からからの観察を可能もすることが挙げられる。練習の次の日には先生に提出して確認してもらい、返却時には反省に対してコメントやアドバイスが書かれていた。自己記述を通して、他者にも自分について理解してもらうことができ、それによって客観的かつ自分にはない新しいアドバイスを得ることが出来るのである。

このように整理すると「バドミントンノート」には5つの隠された意義があった。①目標を明確にし、課題を浮き彫りに出来る。②論理的思考を促す。③反省や課題を整理し、順列をつけることが出来る。④一時の反省や課題を永続的に記述という形で残す。⑤他者からの観察、理解を可能にする。これらの意義はどれも上達するために必要なファクターとして考えられ、私が上達を早める理由となったのである。


4.プロスポーツ選手のノート活用術

 ノートを記録しているスポーツ選手には、野球の野村克也選手(監督)、バドミントンの佐々木翔選手、ゴルフの石川遼選手など数多くあげられる。その中でもプロサッカー選手の中村俊輔さんは高校二年生から15年間に渡って11冊のサッカーノートを書き続けており、2009年には「夢をかなえるサッカーノート」が文藝春秋から出版された。中村選手のノートには、長期目標、中期目標、短期目標、練習内容、試合の反省、自分の課題、気付きなどが記録されている。試合の反省には攻撃面と守備面でのプラス面とマイナス面を書き、課題や次の試合に向けて何をしなくてはならないかを明記していたという。また、サッカーの内容のみならず、孤独や不安、意地や自信といった感情までもが入り混じっていたり、自己評価が含まれていたりしている。私のノートと比較して、孤独や不安、意地や自信といった精神面に関しても多く記述していることは大きな違いである。自分の精神面を書記言語化することによって、自分の心の動きを把握することが出来、それは試合中の精神面のコントロールにもつながっているのだろう。本の中では、「サッカーノート」は「目標を達成するための人生ノート」言い換えることが出来ると述べられている。ノートをつけることは目標と課題を明確にするのである。つまり書記言語化することによって自分の目標や課題を明確にするということであり、それは目標や課題にまっすぐ遠回りせずに取り組めるため、上達を早めることにつながっているのである。


4.まとめ

書記言語化が人の成長へおよぼす影響について、ノートに記録するということに着目して述べてきた。スポーツ選手にとって明確な目標を持つことや、課題を持つことや、反省することは非常に重要である。それらは、確かに頭の中で考えることや語ることでも可能である。しかしながらノートに記録することでより深いものになっていき、ノートに記録(書記言語化)することは目標や課題や反省の質を高めることが出来ると言えるのではないかと考える。

ここまでスポーツに関連させて話を進めたのだが、教育にも同じことが言える。教師にも目標や課題や反省は必要である。ここで、私は教育実習中のことを思い出した。教育実習では毎授業毎に批評会というものがあり、その授業での反省やこれからの課題について実習班の人と担当教官と話し合うものであり、その批評会の前までに自分の反省点などを記入するという作業があった。それはまさに「教師ノート」である。そこには活動の順番が悪かったことや、発問が適切でなかったことや、教具が悪かったことや、生徒の反応に対する対応を考えておくことなどが記入されていた。教師という忙しい仕事では、このような時間と労力の要する書記言語化をする機会を頻繁にとることは出来ないだろう。しかしながら、書記言語化することによって初めて人は初めて思考することが出来るとしばしば言われるほど、書記言語化の意義は大きい。

書記言語化は自己観察を深め、自己理解も深めることができる。このことは教師の成長にも大きく貢献する重要なファクターであり、その時間と労力に見合った意義は大いにあるだろう。時間に追われる中で教師としての自分を見つめなおす時間として、「教師ノート」を記録していくことは非常に有意義な時間となるだろう。








■UK君による「優れたマネジメント力を持った監督像 ~グアルディオラとエディー・ジョーンズの両氏に見られる共通点~」(全文)



優れたマネジメント力を持った監督像
~グアルディオラとエディー・ジョーンズの両氏に見られる共通点~




1.はじめに

優れた成績を収めたスポーツチームという集団には必ずと言っていいほど“名将”の存在がその背後にある。優れた練習方法の知識、プレーに関する独自の哲学等その要素を挙げればキリが無い。私は現在一大学生としてラグビー部に所属し、高校から続けてきたこの競技を心から愛し、プレー技術の向上やウェイトトレーニングの方法等、自身とチーム全体の向上のために数々の書籍を読み、試合のテレビ放送の録画を見て学び、その一部を実践してきた傍らで指導者についての情報にも興味を持った。全国大会やプロリーグ、ワールドカップで優秀な成績を収めたチームの監督はどのような哲学を持ち、どのような指導をしているのか。将来的に高校の英語教員且つ高校ラグビーの指導者になって日本のラグビーの発展に寄与することを目指す私にとって、優れた指導者の条件を探求することは必要不可欠であり、何より残り1年となった私自身の競技人生にも有益となる。数々の名将と呼ばれる人たちの記事を読んだ結果、ある二人の監督について私は非常に興味を惹かれた。

本レポートでは、2008年に当時不振にあえいでいたスペインのプロサッカークラブのバルセロナの監督に就任し、最初のシーズンにチームを国内リーグ、世界大会など合わせて前人未到の6冠達成に導いた現監督ジョゼップ・グアルディオラ氏と、2011年に日本ラグビートップリーグに所属するサントリーサンゴリアスの監督に就任し、こちらも就任最初のシーズンでチームを日本選手権制覇に導いたエディー・ジョーンズ氏に関する書籍、記事をもとに二人に見られる共通点、そこから感じられる優れたチームマネジメント力を持った指導者の資質を探る。また、そこから英語教師という仕事にも共通して応用できる点を私なりの解釈として述べる。


2.独自のプレイスタイルの確立と追求

-エディー「独自のスタイルで戦わなければトップリーグで生き残っていけない」

-グアルディオラ「私は自分で選んだスタイルで戦うし、それができなければ勝つことは不可能だと思っている」


チームには確固たる芯が必要である。この二人には“独自のスタイル”という共通点がある。ここで言うスタイルとは、いわばチームの基本戦術のことで、例としてエディー氏は、ボールを蹴って前に進むのではなく自陣の深い位置からでもパスをつなぎ続けて、前に進むという「アグレッシブ・アタッキングラグビー」を独自のスタイルとした。現代ラグビーではルールの影響でどのチームも基本的に自陣ではボールをパスせず、とにかく蹴ってボールを敵陣に運ぶ戦術を取っていたのに対し、全く正反対のスタイルを取って日本一を獲得した
この二人の素晴らしいところはその独自のスタイルを徹底的に追求し、必ず1シーズンをそのプレイスタイルでやり通すところである。多くのチームでよく見られる典型例は、目指すスタイルで勝てなくなったときに周囲から批判を浴び、そしてチームの雰囲気が低下、その後監督がスタイルの見直しを図り、段々普通のスタイルになるという場合だが、この二人の場合重要視しているのは、特にリーグ戦の時期は、目指すスタイルができているかどうかなのだ。

ある日の試合後のグアルディオラ氏のコメントにはこうある「今日の試合に勝利はしたが、このチームの目指すサッカーの内容からはほど遠いものだった」と。監督独自の考え方があるのはどの監督も共通のことだろう、と思われる方もいるかもしれないが、忘れないでほしいのは、この両氏は就任1年目で、徹底的にそのスタイルにこだわって「優勝」という結果を残しているのだ。就任1年目から、はっきりとしたスタイルをチームに徹底的に追求しそれをきっちりと体現させ、結果まで残した監督は少なくとも私の知る限りではこの二人だけである。自分なりの断固とした考え(哲学)を持ってチームを作り上げていくことがいかに大事かがよく分かる。そしてそれを選手と共有することで、選手は監督を信じ、また自分自身の中にも確固たるものを得る。それが次にチームとしての確固たるものとなっていく。

2.1目指すプレイスタイルのイメージの浸透とそのための言語使用

これは二人の発言からではなく、選手や同チームのスタッフからの二人に関してのコメントから発見したことであるが、二人がチームに何かを伝えようとする時の言語は驚くほどシンプルで難しくないそうだ。その中でも具体的な内容として共通していたのは3つ、①話す内容の一貫性②選手目線で物事を語る③ポイント(本質)を的確に、である。

①について言うならば、話す内容がぶれないことと考えられる。常に大元にあるのは、自分が掲げたプレイスタイルを目指すこと、このために色々な局面で何が必要かを述べているのだと考えられる。また、一貫性があるということは話す内容が論理的であることも大前提である。

②については書いてあるそのままである。自分の中で目指しているものを、階層に分けて考えそれを選手が理解できる階層まで内容を掘り下げて話をする能力だ。

③は、①の内容と重なる部分もあるが、「的確に」というのがプラスされている。自分の考えを全て言うのではなく、中心にあることを理解しやすい言語に自分の中で明確に言語化した後で口頭言語化に持っていく能力であると考えられる。これが言葉のシンプルさにつながるのであろう。

これらは人に話をするときに特に重要な要素であるが、二人の場合それが常にできているから選手にも内容が伝わりやすく、選手は監督の目指すプレイスタイルを体言することができたのだろう。私は色々な監督を題材にした記事を読んできたが、監督の話す言語についての称賛の記述があったのは、この両氏の場合が初めてだ。エディー氏について言うならば、エディー氏の言うことはすごくシンプルなのだが、色々なことを考え抜いた上で最後にシンプルな言葉にしているために、単純でも非常に整理されているのが伝わってくるそうである。また、多くの指導者のコメントを読んでいて感じるのは例えば「もっと大きく動かしたい」「もっと走らないといけない」等、非常に抽象的なコメントが多いのだが、この二人の場合それがより具体的且つシンプルなのだ。この「目標の具体性」については、後の項目で詳しく説明する。


3.学ぼうとする姿勢

-エディー(日本選手権優勝のすぐ後の雑誌のインタビューで)「このオフには南アとアルゼンチンにラグビーを勉強に行きます。取り入れられるものがないか見てきます」

-『グアルディオラのサッカー哲学』の一文から「グアルディオラはスポンジのように物事を吸収し、なんでも学ぼうとする意欲の固まりだ」


これらのコメントに見られるように、両氏は何かを学ぼうとする意欲が非常に強い。現にエディー氏は自身が現役の時に日本代表と試合をして圧勝したにも関わらず、当時の日本代表のプレーで参考になるプレーを探し自チームに取り入れていたそうだ。もちろん指導者にとって新しい知識を仕入れることは普通のことであるが、常に世界基準で最先端の情報を仕入れ、チームに取り入れている指導者がどれほどいるだろうか。この二人はプロチームの監督であることから、世界を飛び回りご当地に行って情報を仕入れることができる時間的、金銭的余裕があるのが強みである。しかしインターネットが広く普及した今、twitterやfacebookなどのソーシャルネットワークを利用して、日本にいて他の仕事をしていても世界最先端の情報を得ることは決して不可能ではない。

これはスポーツだけでなく、英語教員に関しても言えることだと思うのだが、多くの人がプレーヤー(大学生)を卒業し、指導する立場になった瞬間に仕事の忙しさに追われ、最新の技術を学ぼうとする姿勢を失ってしまうことが多い。また、ある一定の結果を収めた後にそれに満足し、学ぶことを止めてしまう人もいる。優れた指導者は常に何かを吸収しようとする姿勢を忘れない。この両氏の優れたところは優勝という結果を出した後も、次に向けて学ぶ姿勢を失っていないところである。これは授業中に柳瀬先生が田尻悟郎先生について語った言葉であるが、田尻先生は常に“考えている”からすごいのだそうだ。この二人についても、自分が目指す物事について何か得るものは無いか、と常に“考えている”のだと思う。それがいつも学ぶ姿勢と意欲を忘れないということなのであろう。

3.1.ワーカホリック

-エディー「朝の8時から夜の11時までスタッフとクラブハウスにいたこともありました」

-グアルディオラの同僚のコメント「グアルディオラはサッカーに一度没頭すると、時間を忘れて、食事も忘れ、ひたすら自分の課題に取り組むため、オフィスから引きずり出さなければならなったことが何度もあった」

ワーカホリック、という言葉は『グアルディオラのサッカー哲学』からの引用であるが、ラグビーマガジンからもこれとほぼ同じ意味を表す、エディー氏を描写した言葉を見つけた。今回の授業内容と関連して述べると、これはワーカホリックという造語を翻訳した言葉ではないだろうか。おそるべき働き者、である。彼らは自分の仕事に対して狂気の沙汰になっているのだ。与えられた仕事を遂行するために、そこに情熱を燃やし、気の済むまで研究をし続けるのである。事実、グアルディオラ氏はシーズン中に対戦相手の直近の録画映像を少なくとも4試合分は見るそうだ。これは単純計算するとリーグ全体で160試合分のビデオをシーズン中に見ることになるそうだ。エディー氏に関しても、ラグビーマガジンに掲載されるエディー氏のコメントを見ていると、他の監督の言葉と比べて、試合中の具体的なスタッツ(犯した反則の数やタックルの成功率等)についての言及が非常に多いことに気付く。また、それは自チームのものだけでなく、他チーム同士の試合についてのコメントにも同じことが言える。このような分析を監督自身が行っているチームはほとんど無いであろう。多くのチームは分析と呼ばれる役職の人物が主にこれを行っていると聞く。両氏は”自分で見て学んでいる“のだ。


4.リーダーとしての資質

優れた指導者は同時に優れたリーダーである必要がある。指導者は選手だけでなく、クラブ全体をまとめ、牽引しゴールを目指すからだ。ここではジム・コリンズの言う優秀なリーダーの質を基に、それが両氏に当てはめるとどういうものになるかを説明し、二人がリーダーとしてどう優れているのかを論考する。リーダーの質の基準としてなぜジム・コリンズを引用するかであるが、これは『グアルディオラのサッカー哲学』の中から引用したものである。ジム・コリンズはアメリカで最も優れた企業コンサルタントの一人であり、世界的にも有名な経営学者でもあることから、彼の哲学は十分信用性の高いものであると考えられる。

4.1.ジム・コリンズによるリーダーの質

ジム・コリンズは企業におけるリーダーの質を5つのレベルに分けて表現しており、その最高評価であるレベル5のリーダーとは「さらに高いレベル(*レベル4において「打ち立てたヴィジョンを達成する」という記述がある)で目に見える素晴らしい結果を残し、常に先のことを見据えているリーダー」と記述している。例としてこれをエディー氏に当てはめるならば、エディー氏は就任1年目サントリーを日本一に導いた後、優勝後のインタビューですでに次は2冠(リーグ優勝と日本選手権優勝)を目指すと明言し、またその語の『ラグビーマガジン』のインタビューでこう語っている。(優勝して、やり切った思いはありますか?)「ありません。なぜなら、次の日には優勝も過去のことだからです。一週間はその喜びに浸れることでしょうが、次のシーズンはどう成長しようかと考えます。」

このインタビューから分かるのは、エディー氏は過去のことにこだわらず、常に「次」を考えているということである。グアルディオラ氏に当てはめるならば、就任初年度で6冠を達成した後、次のシーズンへ向けてのインタビューでのグアルディオラ氏のコメントから「修正点を改善し続け、勝ちつづけなければならない。そして、たとえ勝ち続けたとしても、そこからまた改善点を見つけ、さらに強いチームへと変わっていかなければならない」と。二人が、いかに「次」を見据え、そこに向かってチームを引っ張っているのかがよく分かる。これらのリーダーとしての資質は、高次で物事を考えるという基礎があってこそ始めて所有することができるのではないか。今ある現状に満足せず、それらをいい意味で上から目線で捉えることが、よき指導者には必要なのである。

5.チーム、選手個人への個別化された目標

エディー氏が指揮するサントリーでは所属している全選手に月ごとにフィットネスレベル、体重やウェイト数値において細かく目標が設定されており、それをクリアすることを課題とするそうである。練習中に特殊な測定装置を選手に付けさせて練習させ、心拍数、走った距離などを徹底的に記録し、データ化して管理しているそうだ。これによって選手たちは“逃げれなく”なり、課せられたゴールに向かって自分自身の向上に励むのである。その結果、サントリーの選手たちは驚異的なフィットネスを手に入れ、エディー氏の掲げた「アグレッシブ・アタッキングラグビー」を体現した。

これは今回の授業で出てきた意識・無意識の心理学を一部利用した方法ではないだろうか。もちろん、選手にとって自分の数値を測られ、それが目標値に届くようにとそれまで以上に練習に励もうという気持ちは起こるものである、しかしそれ以前に、練習中はスタッフにそんなに細かく自分を見られているのか、という意識が選手全員を無意識に頑張らせたという要素もあるだろう。ましてや自分の体に練習中に走った距離を測る機械がついているならば、練習中は常に走り続けようとする意識は無意識に湧きあがってくるものであり、それは押さえようが無いと思われる。いわゆるピグマリオン効果と呼ばれるものだ。
これと似たような例がグアルディオラ氏にも見られる。グアルディオラ氏は就任当初からメディアに対して「先発の11人だけでなく、すべての選手がチームを意識して全員で戦っている」と繰り返し言い続けたそうだ。これによって控えの選手たちも、自分もこのチームに必要とされているのだ、という意識を持つことができ、選手全員がハードなトレーニングに励んだそうである。それがチームにとって大きな力となった。事実グアルディオラ氏は大事な試合においても若手選手や控えの選手に出場チャンスを与え、出場した選手たちが見事に期待に応える場面が多々あった。これについてもグアルディオ氏は「このチームの素晴らしいところは常に私の要求に結果で答えてくれるところだ」と語っている。

5.1.選手への信頼と自分の責任感

-エディー「選手たちは本当にハードにプレーし、やろうとするスタイルを勇敢に実行しました。43人の選手全員が誇らしかった」

-グアルディオラ「もし他人がこのチームに疑問を抱いたとしても、私の選手たちに対する信頼は不変だ」


これは間違いなく、指導者としてだけでなく、人の上に立つものとして本当に大事な要素であろう。選手たちを信頼することである。選手を信頼する、と選手たちに伝えることが前述したような選手全員の無意識の頑張りにも大きく作用すると私は考える。選手個人にとってそれはプレッシャーでもあり、努力しようとする原動力ともなるのである。

エディー氏はそれまでの日本のラグビーのトレンドを大きく改め、それを果敢に実行した。エディー氏が掲げたプレイスタイルに対して、私を含め日本中のラグビーを知る人たちが疑問を抱いたはずだ、「ボールを一切蹴らない?それは無理やろう?」と。しかし、エディー氏は選手たちを信頼し、また選手たちもエディー氏を信頼し期待に応え、堂々とそのスタイルで日本一を手にした。サントリーのキャプテンの竹本選手は「完全に監督を信じてやれています。エディーさんの仕向ける力だと思います」とコメントしている。

グアルディオラ氏は国内リーグの試合(それまでチームは勝ち星こそは先行していたもののなかなか上昇気流に乗れなかった)で、それまでずっとレギュラーで出ていた主力の選手を全てベンチに置いて、若手や控え選手をメインにした。前半に同点ゴールを決められると、観客席からブーイングが鳴り響き始めた。しかしグアルディオラは一切顔色を変えず、終わってみれば見事4対2で勝利をおさめた。「チームの本当の強さを確かめたかった」とグアルディオラ氏はコメントしている。選手全員を信頼して臨んだからこその結果であろう。選手を常に信頼し、期待し続ける。これを徹底しないことには選手は指導者には応えてくれないということを二人は体現している。

また、二人に共通していることがもう1つある。それは、結果が出ないことは全て自分の責任です、と言い続けていることだ。チームの選手全員に素晴らしい才能があること、選手全員が努力を怠らないことを目の当たりにしているからこそ、それを指揮している自分に対しても責任感というプレッシャーを与えつつ、結果を出す。二人はある意味非常に男らしいのだ。

この項では選手を信頼することを前提にしてチームを作り上げることの大切さと、それに対する自分の責任を明確にし、選手だけで無く指導者である自分自身を“逃げれなく”することの大切さについて述べた。


6.考察

ここまでグアルディオラ氏とエディー氏についての考察を通じて、私は指導者とはかくあるべきかを二人から学んだ。二人の共通点を色々と挙げてきたが、私が特に興味を惹かれたのは2.独自のプレイスタイルへのこだわりについてである。二人の監督はいわば自己流を究極に追求、徹底し、チームを勝利に導いた。しかしその自己流と言うのも、最先端の情報とそれまでの経験、そしてチームの特徴全てを把握して綿密に練り上げられた自己流である。こだわりとは一歩間違えばただの監督のエゴになる。それがエゴにならないための手はずを全て用意し、選手にそれを理解させるためのシンプル、かつ明瞭な言葉遣いで自己流を浸透させ、二人は完全にチームを自分のものにして、自身が信頼する選手とともに栄光を掴んだ。二人はいわば、スポーツの指導者という点で本物のプロフェッショナルなのだと思った。

私は今現在も自分の専門であるラグビー関して、情報は常に最新のものを仕入れるようにし、自分の中にこれまで以上に知識を蓄えているつもりである。二人のようにまだ独自のラグビー哲学を得るまでには至っていないが、将来的には必ず自分なりの考え、こだわりを持って指導に当たりたいと考えている。

また、これらの学んだことはスポーツとしての指導だけでなく、英語教師としても十分活かせるものであると思う。自分流の授業スタイルに「こだわり」を持って、生徒を信頼し、また彼らを預かる身としての自分に責任を持って指導にあたることは優秀な教師としての資質に十分なりえるだろう。私は両氏から、スポーツだけでなく、「指導者」として大事なことを教わった。

最後に、このレポート中では両氏による数々の発言を紹介してきたが、その中でも私がもっとも心に残ったコメントを紹介して本レポートを終えたい。

エディー・ジョーンズ氏(現ラグビー日本代表監督)「あなたが何かを生み出すと反応があり、それがさらに新しい反応を生む。常に変化していくことがラグビーの魅力的なところ。ラグビーの進化はとどまるところを知らないのです」


エディー氏のラグビーへの愛情と情熱が非常によく表現されていると思いました。

グアルディオラ氏「結局、我々は見ている人たちに対してサッカーをしているのであって、選手たちにそれを意識してほしいと思っている。世界が君たちのサッカーを見ているんだ、と」


バルセロナは今や世界最高のクラブとして、見ている人みんなに感動を与えています。それを選手に意識させるための言葉として、本当に優れた言葉ではないでしょうか。

二人の監督がこれからどのように世界を動かしていくのか、本当に楽しみです。

参考文献

『グアルディオラのサッカー哲学 FCバルセロナを世界一に導いた監督術』ファン・カルロス・クベイロ、レオノール・ガジャルド著 今井健策訳 実業之日本社
『ラグビーマガジン』2011年5・8・10月号、2012年3月号 ベースボール・マガジン社
『ラグビーマガジン別冊冬季号2011*ラグビークリニック』ベースボール・マガジン社
『ラグビーマガジン別冊盛夏号2011*ラグビークリニック』ベースボール・マガジン社
『ラグビーマガジン別冊春季号2011*ラグビークリニック』ベースボール・マガジン社