2014年9月20日土曜日

世界との和解そして調和としての写真撮影



感性の点で私が深い影響を受けた人に、東京都写真美術館を教えてもらったのはもう何年も前のことになるが、正直その頃の私はそれほど写真に興味をもっていたわけではなかった。

それでも卒業式などで学生さんの写真を撮るためにコンパクトデジカメを買ったものの、レスポンスが遅く、目をつぶった瞬間の学生さんの写真を量産していた。だから、「何でもいいから」とキャノンの安い一眼レフ(当然のごとくデジタル)を買ったが、それほど写真は撮らなかった。とはいえ、一眼レフを買うとそれなりに写真に興味を持ち始め、昨年の初夏に思い切ってフルサイズのニコンのD600を買った。

だが、本格的に写真を撮り始めたのは、今年の3月からだった。

昨年の晩秋から冬にかけて、私はまたも体調を崩し耳下腺炎などを患っていたが、体と心は連動しているもので、そのうちごく軽いうつ状態になった。それでも人生万事塞翁が馬で、それを機会に臨床心理学関係の本をたくさん読み、自分を振り返ることができたのは幸いだった(学部2年生の時に、転学科しようかと思うぐらい夢中になっていたユング心理学に再会できたのは特に大きかった)。

季節が春に向かうにつれ、調子もだいぶ戻ってきたが ―考えてみれば私は冬には調子を落としていることが多い― その時、突然感じたのが「写真を撮りたい」という衝動だった。広島駅から新幹線で東京に向かう直前に、広島市内の家電量販店に立ち寄り、「とにかく携帯しやすいデジカメを」ということで買ったのがニコンのP340だった。

以来、私は写真に夢中になった。実際、購入直後に乗った新幹線で私はバッテリーを充電し、東京駅に降りた時から写真を撮り始めていた。

P340は、一眼レフでできることの多くができるのに、極めて小さく、常に携行でき、画質もかなりよいコンパクトデジカメだった ―カメラのことをよく知らない一般の人がこのデジカメで撮影した写真と本格一眼レフで撮影した写真を区別することは難しいかもしれない―。その多機能性・携行性・高画質性に促され私は写真に夢中になった。

しかし、それよりも大きかったのは、私が情動・感情表現の媒体を得たということだった。

私が自己分析する限りにおいて、私の不調には、仕事のしすぎによる慢性的な過労とストレスが基盤としてあるものの、それ以外に、私がうまく自分の情動と感情 ―両者の違いについてはDamasioの論をご参照ください― を表現できていないことが原因としてあった。情動と感情の不全を、仕事中毒でごまかすという悪い循環に私は入っていた。

近代知の研究と教育という職業に過剰適応することにより、私は、幼少の頃から抑圧していた身体的な情動と意識的に心で自覚する感情をさらに抑圧していたのかもしれない。だから職業的機能はこなせても、自らの身心を、ずいぶん押さえつけていたのだろう。その歪みは、さまざまなところで出て、自分はおろか他人も苦しめていたはずだったが、私はその自己抑圧の自覚がほとんどなく、「人生はこんなものだろう」と思い込んでいた。

しかし身心の不調に迫られて読んだ臨床心理学の本による自己分析と自己セラピー(アクティヴ・イマジネーション)の試みで、自分は相当に情動と感情を否定した人生を生きていたらしいことがわかった。

誤解のないように言うと、私は社交的な情動・感情表現 ―儀礼的な微笑、愛想笑い、はては追従など― は人並みに、あるいは人並み以上にできる。私はこれを機能社会での重要技術として意識的に学び獲得した。しかし、自分自身に対して、あるいは社交より深い親密な他人に対して、自分の情動と感情を自然に表現することは苦手としていた(いや、苦手であると自覚しないぐらいに抑圧していた)。

さらにいうなら表現以前に、私は自分の情動や感情をうまく発見すらできていなかったのかもしれない。「情動やら感情にかまける時間があるなら、仕事をせよ」と私は自分を追い立てていた。そしてその追い立ての激しさと一徹さで私は職業上のそれなりの成功を享受していた。

「それでは」と、自分の情動や感情を発見し、表現しようとしても、これが長年の歪みでうまくできなかった。自らの偏りを自覚した身心は情動と感情の発見と表現を欲し始めていたのだが、いざやろうとしてもうまくできない。

そこに現れたのがコンパクトデジカメだった。私はとにかく毎日持ち歩いた。日によっては一日百枚ぐらいは撮影した。撮影といっても、わざわざ旅行に行くほどの余裕はない。撮影は通勤途上、せいぜい出張の折ぐらいに限られた。花や風景のスナップがほとんどだった。

私は被写体という世界のあり様に自分の情動や感情を見出そうとした。こと情動・感情に関しては、言語的媒体よりも非言語的媒体の方が適している。情動や感情に関して、言語はあまりにも粗すぎる(文学的表現はもちろん精妙だが、それでも、そのことばは、朗読のニュアンスといった非言語的な表現手段を必要としている。そして文学的表現は、私が関与している英語教育界でも近年どんどんと軽んじられている)。

P340といった優れたコンパクトデジタルカメラは、私に情動・感情を発見し表現することを促す、この上ない非言語的な道具となってくれた。私はこれまで抑圧していた自分の情動・感情を、被写体に発見しそれを表現しようと毎日、毎日、写真を撮った。

しかし、それは発見よりも表現の方が勝っていたかもしれない。撮り始めた頃の写真の一部は例えばFlowersというFacebook上のアルバムにあるが、ここの写真の多くは、わざとカメラを振ったり、焦点を外したり、極端なRAW現像をしたりと、私の表現欲動によって世界のあり様を大きく変化させた写真が多い。極めて人間洞察に長けた私の友人の一人は、そんな写真を見て「柳瀬さんを写すのではなくて、もっと被写体を写したら」と助言してくれたが、当時の私は、世界のあり様よりも、自分の情動・感情の方が大切だった。今思うと、あの「実験的」な表現は、私が必要としていた過程だったのかもしれない。

そうやって写真を撮影し続け、Facebookに掲載し、人からのコメントももらい、また他人の写真も見るようになると、コンパクトデジカメがもつ画質の限界に気づき始めた。

しかし私にとって常にカメラを持ち歩くということは必要条件だった(残念ながら撮影旅行に行く時間的余裕はほとんどない)。「それなら、一眼レフを常に持ち歩けばいいのだ」と思い直し、KATAのスリングバッグ (KT DL-LT-315-B)を購入した ―これまた優れた製品だ―。これは大きな転機となった。以来、カメラは私にとって一層欠くべからざるものになっている(私は冗談半分によく「カメラは私の精神安定剤です」と言っている)。

そうして写真を撮り続けながら、写真の撮影技術・理論・哲学・歴史等などについての本を読みあさり、自分なりに気に入った写真集も何冊か買い、写真についての学びを続けた。もちろん学びの中心は、自ら撮影し、その写真を見ては反省し、その反省を活かして新たに撮影するというまさに "Reflective Practice"だ。だが、その反省における気づきを促すためには、先人の知恵が凝縮した書籍というのは本当にありがたい。

そうやっているうちに、やがて私にも発見と表現のバランスが少しはとれるようになってきた。自分の表現欲動により、被写体を強引に編集加工するのではなく、自分の心にかなう被写体を発見し、それをできるだけそのまま表現するようになってきた。現在、撮影し掲載している写真は、時間がないこともあり、RAW現像は一切していない、いわゆる「JPEG撮って出し」である(だがもちろん、ピント・絞り・シャッタースピードや、カメラで設定するピクチャーコントロールなどに関しては自分なりの工夫はしている)。

写真家の相原正明氏 ―氏による『誰も伝えなかった ランドスケープ・フォトの極意』は私がこれまで読んだ写真関連の数十冊の本の中でも最良の部類に入る本だ― は、(風景)写真を「宇宙とカメラと心のシンクロ」だと表現している。その表現を換骨奪胎して言うなら、私にとっての写真撮影は、最近ようやく「世界と自分の調和あるいは和解」になってきた。

以前の私の写真は、「世界の利用による自己表現」だったのかもしれない。私は世界の中に、自らの情動や感情を十二分には見いだせなかった。だから撮影・現像の極端な技法で世界のあり様を大きく加工していた。だが、最近、ようやく私は世界のあり様、日常の風景に自分の情動や感情を見出し、それをできるだけそのまま表現できるようになり始めたのかもしれない。

写真を撮り始める前の私は、世界のあり様を無視し否定していた強度の仕事人間だったのだろう。

写真を撮り始めて、私は世界のあり様に気づき始め、それと自分の心との関係を築こうと努力し始めた。

本格的に撮影を始めて半年ぐらいたち、私はようやく世界と和解し始め、世界との間に調和を見出し始めたのかもしれない。

今は、「このような世界のあり様を、私はこれまでの51年間も気づいていなかったのだ」と毎日のように驚いている。そしてその驚きを写真という形にしようとしている。

私はまだ写真の名作をそれほど知っているわけではないが、それでもWilliam EgglestonHenri Cartier-BressonAnsel AdamsAugust Sander植田正治木村伊兵衛ハービー山口川内倫子内田ユキオ岡嶋和幸田中長徳、そして先程も言及した相原正明などの作品には惹かれ、写真集も買っている。

そうやって買った一つにAlbert Renger-Patzschの写真集があるが、彼の有名な作品のタイトルはDie Welt ist schön 『世界は美しい』である。


「世界は美しい」と、生まれたことの恵みを実感できるようになったとしたら、写真というのも佳い趣味だろうと思う。



と、理屈を並べましたが、私はまだまだ非常に写真撮影が下手です。しかし下手な人間ほど、自分が撮った写真を他人に見せたがります。私もFacebookで掲載しているだけにとどまらず、下手をすると仕事でメールを送る相手にまで写真を添付するようになってきたので、「これではまずい(汗)」と、誰にでもアクセスできる写真公開サイトFlickrに写真を掲載し始めました。



ご興味とお時間がありましたら、一度覗いてやってください。

そして、もし写真撮影に興味を持ち始めた方がいらしたら、「どうぞお始めください。いいですよ」と申し上げたく思います。











2014年9月14日日曜日

「研究力強化に向けた教員活動評価項目」への回答前文



今年度、私は講座主任となりましたが、順番で言語教育系の三講座をまとめる専攻長も兼任することになりました。さらに今年度は、組織改革を行わなければならない年であり、その関係で改組委員会やらその他の委員会に引っ張り回されることとなりました。

その一つの委員会では、数値管理型の「研究力強化に向けた教員活動評価項目」を提出することが大学本部から求められ、私が所属する研究科もその枠組での項目案を提出することになりました。

しかしその枠組での回答をする一方、その枠組自体についての検討を促す文章を添えるべきではないか、ということを委員会で私はずっと主張していましたら、案の定、「それなら君がその文章の草案を書きなさい」ということになりました←黙っていることができない損なタイプ(笑)。

以下の文章は、その草案の下書きです。読者の皆様で、もし何かご意見があればお知らせください。この程度の文章は公開してもいいし、むしろ税金を使って運営されている組織である以上、多くの皆さんの意見を求めるべきだと考えて、ここに公開します。





■ この前文の必要性について

標記の件につき、教育学研究科は回答しますが、そもそもこの件の枠組自体に対しての懸念が、少なくとも一部の教員から表明されましたので、この懸念も合わせて教育学研究科の回答としてお受け取りいただきたく、ここに前文を記します。

今回の「研究力強化に向けた教員活動評価項目」は、各研究科の研究力・教育力を向上させるために、個々の教員の活動を数値化してそれを教員の処遇に反映させるという発想であると理解します。

ここには、

(a) 研究・教育活動は要素分解的に数値化でき、その数値を統合すれば研究・教育活動を正しく反映することができるという前提(=数量化の妥当性の前提)と、

(b) 個々の教員を数値評価とそれに連動した処遇で競わせることにより組織が活性化するという前提(=個人間競争の妥当性の前提)


があると考えられます。

言うまでもなく、この発想は近年多くの領域で見られている発想であり、近代組織としては「当然の常識」であるとお考えの方も少なくないでしょう。しかし人々がある事を「当然」と思い、疑いを挟むことを忘れた時、あるいは疑いを挟む者を異端視する時、社会は大きく誤りうるというのが歴史が教えることでもあります。ましてや私達の組織は高等教育機関であるわけですから、当然視されている営みに対しても批判的意識を失うわけにはいきません。そこで、ここでは上の、数量化の妥当性の前提と個人間競争の妥当性の前提についての若干の検討を加えます。



■ 数量化の妥当性の前提について

数量化は西洋近代の特徴の一つであり、時間・空間・現象をできるだけ分割した要素に還元し数量化し、要素間の関係性を記述した数量モデルを構築します。この技術的合理性により、西洋近代文明は自然を制御し支配する力を他の文明にもまして獲得しました。要素還元・数量化・モデル制御は、科学技術のみならず資本主義経済とも親和性が高く、数量化の妥当性は、科学技術と資本主義の繁栄と同じように、近代の常識と思われるようになりました。

しかし、この技術的合理性が、本来は、要素還元・数量化・モデル制御になじまず、その場に生きる人々のコミュニケーションにより了解し合い解決すべき領域までに侵食していることに警鐘を鳴らしたのがハーバマスです。人々の話し合いなどではなく、技術的合理性により物事を進歩させなくてはならないという考え方が、人々の批判を免れたイデオロギーとなりつつあることを彼は20世紀後半の早い時期から指摘していましたが、彼の警鐘の重要性は、後に紹介する事例でますます明らかになっています。



■ 個人間競争の妥当性について

複数の人間が集うところでの社会的な相互作用の創発よりも、個々人を競わせることによる個人的競争力の向上を重んずる思考法は、新自由主義的発想の特徴の一つです。新自由主義は、私的所有権・自由市場・自由貿易を強力に促進する資本主義的ビジネスモデルを、公共性の高い、医療・福祉・環境・警察・軍事・教育・研究などに当てはめることを推進し、国家の役割はそのための制度的枠組みを作ることだと考えます。今回の評価制度の導入も、まさにその流れにあると考えられます。

この新自由主義的な発想は、一定の時代的な意義はあったものの、近年の加速化に対して批判が高まっていることは、資本主義的発想の行き詰まりの指摘と共にますます私達の注意をひいているところです。そんな中に、広島大学がもし無批判的に新自由主義的な個人間競争を促進する制度を導入することには懸念を覚えずにはいられません。



■ 米国経営コンサルタントによる自己批判

話をこれ以上抽象化・理念化せず、具体的なレベルのものにしますと、数量化モデルにより従業員個人を競わせる経営方法には、それを推進していた当の経営コンサルタントから反省の念が聞かれています。フェランはMITで博士号を得た後、米国の大手コンサルティング会社に長年勤めたコンサルタントですが、彼女は、「目標による管理」や「競争戦略」などのお題目を唱えて、論理的な分析を行いさまざまなモデルや理論を駆使して、その結果、会社を傾かせてしまった経営コンサルタントを代表して詫びるために書を著しました。それによりますと、いくつかの数的指標(数値目標)を定めてその評価基準をもとに経営を行うと、以下のようになり、経営が失敗することがほとんどです。

(1) 部下は評価基準ばかり気にして、上司と意味ある会話をせず評価基準に関することしかやらなくなる。

(2) データ分析や報告書の作成ばかりに追われて、全員で実際に問題に取り組む時間がなくなる。

(3) 時には評価のための数値を不正に操作してしまう。

(4) 上層部も数値ばかり気にして、まるでダッシュボードの数値ばかり見ながら自動車を運転する人間のようになり、判断を誤る。



「評価指標は、せいぜい参考にすべきものであり、管理の方法になってはいけない、ましてや評価基準とインセンティブ制度を絡めて懲罰的な効果が出てくるようになると、評価指標そのものが目的になり、本末転倒が起こってしまう」というのが、経営コンサルティング会社の最前線で長年過ごした彼女の結論です。



■ MBA文化の蔓延に対する批判

もちろんこういった批判的見解は彼女だけのものではなく、経営学の大家ミンツバーグも、サイエンスに偏りすぎた官僚的な「計算型」のマネジメントスタイルを批判し、それを生み出しているMBA文化を批判し、次のように述べています。

立派な組織をつくるには何年もかかるが、衰退させるには数ヶ月もあれば十分だ。民主主義社会を築くには何世紀もの期間を要するが、その土台を揺るがすには数十年でいい。リーダーシップという古くから存在するものも、MBA流のマネジメントという比較的新しいものによって簡単に破壊される恐れがある。私に言わせれば、教育、マネジメント、組織、社会に蔓延している腐敗--腐敗という言葉を私は軽々しく使っているつもりはない--の原因は、MBA教育にある。


また日本でも、1990年台後半からはなばなしく導入された「成果主義」も停止や修正をよぎなくされている企業が多くあります。



■ 非営利組織(世界銀行)の例

営利企業ですら、こうなのですから、非営利組織においては、数値管理・個人間競争経営については、一層の警戒が必要です。元世界銀行副総裁の西水美恵子氏は2014年7月20日に毎日新聞で世銀での経験を語っています。それによりますと、世銀では担当プロジェクトの数や融資総額などのアウトプット(output)を功績とし、それにより報酬と人事が大きく左右されていたそうで、数値に現れにくい側面も含めたアウトカム(outcome)を評価している教育機関や優良企業がうまく行っていることを知りつつも、そういった「ソフトな思考」を侮る空気が強かったそうです。

それを一変させたのが、金融企業出身のある総裁で、就任早々ブラジルとインドの貧民街を視察し、取締役会でこう発言しました。「この旅で、世銀融資の成果は、発展途上国の子供たちの笑顔にあると学んだ。プロジェクト件数や融資総額などのアウトプットは、むろん無視できない。しかし、次世代の笑顔なしには、世銀の未来さえ危うくなりかねない」。総裁はさらに「笑顔の成果を追う仕事は、同じ笑顔の職員にしかできない」とも付け加えたそうです。これにより世銀の改革が始まり、紆余曲折の末、「大切なのは職員と上司の対話だと学んだ」と西水氏は述べています。

前述のフェランも、職場での話し合いこそが重要だとして、「モデルや理論などは捨て置いて、みんなで腹を割って話し合うことに尽きる」と述べています。彼女が関わった経営コンサルティングで成功した例は、実は経営モデルに拘泥せずに、職場でのコミュニケーションを促進した例でした。人々のコミュニケーションによって解決すべき複雑で多面的な問題を、単純な技術合理性で解決しようとする考えがイデオロギー化し、技術合理性を疑い人々の話し合いの重要性を訴える人々を鼻で笑うようなことになってしまうことの危うさを批判していたハーバマスの指摘は半世紀たった今、まさに重要な警鐘となっています。

それにしても自然科学や工学で当たり前の数値データによる定量的管理は、なぜにこのように人間世界の営みにおいてうまくゆかないのか得心のいかない方もいらっしゃるかもしれません。しかし以下の三つの観点から考えれば、定量的管理だけで「科学的に」人間の営みを制御しようとすることが無理であることが理性的に納得できるかと思います。

第一の観点は複雑性です。自然科学は、複雑性 (complexity) についての理解を深めるにつれ、単純な因果関係が成り立つのは、極めて限定された系の中でのみであり、様々な要因が絡み合い偶発性が高まる大きな系においては「AをすればBが生じる」といった単純な因果は想定できないことを明らかにしてきました。大学という組織での研究や教育も閉ざされた単純な系での現象ではないことはご承知の通りです。

第二の観点は主体性です。人間を客体(=対象, object)として数的モデルを構築し、それにより人間を客体として操作しようとしても、人間は外界と自己を意識できる主体でもありますから、その主体性により、客体として把握された法則を超える(あるいはその法則から逸脱する)ことができます(あるいはありえます)。古典的な例は「ホーソン効果」であり、人間は期待された場合、それだけの理由で、特に物理的要因の向上などなくともパフォーマンスを上げることがあります。人間を客体として考えるだけでは説明のつかない現象です。医学の世界ではプラセボ効果として知られているのも周知の通りです。プラセボ効果のメカニズムについては未だ十分な科学的解明がなされていませんが、プラセボ効果(あるいはホーソン効果)という事実があることを否定することは反科学的なことです。科学的な態度とは、人間の主体性を否定したり排除したモデルを作りそれに拘泥することではなく、人間の主体性という現在の科学ではまだうまく説明できない事実を勘案にいれることだということには異論はないかと思います。

第三の観点は無意識です。人間は主体性における自己意識で自らを把握している以外の要因、すなわち無意識においても大きく駆動されていることは、フロイトやユングの精神医学やロジャースなどのカウンセリングが明らかにしている通りです。主体性をもつという点でも、人間は単純に客体化(対象化)して予測・管理されるものではないことがわかりますが、それ以上に人間には無意識の領域があり、それが本人や関係者にも予想のつかない働きをすることも私達は既に十分に知っています。精神医学やカウンセリングは、狭義の自然科学ではありません。DSM (Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)のようにこれらの領域を標準化しようとする試みもありますが、解釈の問題や、そもそもDSMが特定の利益誘導のために作られ運用されているのではないかといった批判も出るなど、人間の心の働きは、未だ厳密な自然科学理論によっては説明できるものではありません。むしろ自然科学的な装いによる権力乱用に対する警戒がなされているぐらいとすら言えます。

これら複雑性、主体性、無意識といった観点から考えても、数的データとそれによる数的モデルを「科学的」だと信頼し、その結論に多大な権力を与えることは科学的ではなく、危険でもあることはご理解いただけると思います。


今回の「研究力強化に向けた教員活動評価項目」を推進する方々が、もしこの前文を読み、「何を青臭いことを」と冷笑的になったり、「そうはいっても、この方向で改革をするしか途はない」と思考放棄的になるとしたら、それこそ、私達は時代の流れとともに大きな過ちを犯そうとしているのではないかと考えるべきではないでしょうか。「教員活動評価項目」に過大な期待をかけ、過大な権力を付与することは危険だと考えられます。批判的意識を失わないことこそ大学の根幹かと思い、この前文をしたためました。





関連記事

アルフレッド・クロスビー著、小沢千恵子訳(2003)『数量化革命』(紀伊国屋書店)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/2003toeflielts.html

ユルゲン・ハーバマス(1968/2000)『イデオロギーとしての技術と科学』(平凡社ライブラリー)
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review.html#060222

デヴィッド・ハーヴェイ(著)、渡辺治(監訳)、森田成也・木下ちがや・大屋定晴・中村好孝(翻訳)『新自由主義』作品社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/05/blog-post.html

カレン・フェラン著、神埼朗子訳 (2014) 『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする』大和書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/05/2014.html

ヘンリー・ミンツバーグ著、池村千秋訳『MBAが会社を滅ぼす マネジャーの正しい育て方』日経BP
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#061103

時代の風:「人をつくる」管理職=元世界銀行副総裁・西水美恵子
http://mainichi.jp/shimen/news/20140720ddm002070049000c.html







2014年8月21日木曜日

柳瀬陽介・組田幸一郎・奥住桂編 (2014) 『英語教師は楽しい 迷い始めたあなたのための教師の語り』ひつじ書房







「英語教師は楽しい」 ― これは宣言です。語用論の用語を借りるなら、performative actです。私達はこう宣言することで、そのような現実を創り出そう、あるいはより一層確かなものにしようとしています。

「あらゆる人間は、人権の点で平等である」という宣言は、当初はわずかの事実的根拠しかもたない宣言であったかもしれないのに、そのような現実を少しずつ創りあげてきました。

私達も、執筆者が実感している事実的根拠に基づきながら「英語教師は楽しい」と宣言することにより、そのような現実を創造しより確かなものにしようとしています。



私の持論は、「教職に希望がもてない国に、明るい未来はない」というものです。

教育の仕事は、他の仕事同様、決して楽なものではありませんが、教師が仕事に希望がもてないなら、その徒労感や敗北感は確実に子どもつまりは次世代の市民に伝わります。そんな次世代が創る国の前途が明るいとは思えません。

ですから、どうあっても教職という職業には、希望が、幸福感が、あるいは楽しさがなくてはなりません。



しかし、現代日本の教師の生活は、OECD国際教員指導環境調査(The OECD Teaching and Learning International Survey: TALIS) でも明らかになったように、調査国の中では最長の労働時間であったりと、決して楽なものではありません。加えて英語では、他の教科よりもはるかに外からの圧力が大きく、英語教師はさまざまな要求を突きつけられています(その中にはかなり非現実的なものもあります)。

このような現状で、無責任な放言ではなしに、自らの毎日を振り返りつつ「英語教師は楽しい」と宣言できる教師はいるのでしょうか。



編者は「これは」と思う方々に声をかけました(様々な事情で声をかけそこねた方々もいらっしゃいますが)。

しかし多くの方々は、「英語教師は楽しい」というこの本のタイトルに躊躇しました。中にはこのタイトルで書くことの苦しさを訴えた方もいらっしゃいました。

そういった方々に、私達は決して嘘や無責任な放言はせずに、いわば「ほろ苦い喜び」としての楽しさを書いて下さいとお願いしました。もしどうしても書けそうもなければ、このお話は忘れて下さいともいいました。

そうしてそれぞれの著者が、自らの実体験をもとに原稿を書いてくれました。

英語教師が置かれる現状を知るにつれ、英語教師という職業選択に自信を失いかけそうになっている若い方、中堅の方、そしてさまざまな責任を負ったベテランの方が、この本から、英語教師という職業のほろ苦い喜び、あるいはしみじみと感じる幸福感を感じていただければと思っています。

「本のサブタイトルには、明るいことばを並べた方が売れます」という営業サイドの助言にもかかわらず、私達編者は「迷い始めたあなたのための教師の語り」というサブタイトルを選びました。「英語教師は楽しい」ということばに、重層性と多面性があることを示したかったからです。何度も繰り返しますが、この本は決していいかげんなお気楽本ではありません。

さらにこの本では、教師教育者を中心とした執筆者も加え、現代日本の英語教育の現状を理論的に俯瞰する考察も掲載しました。力作揃いです(注)。この理論的考察により、この本は英語教育に関する見通しを得ていると自負しています。

加えて、3.11という未曾有の経験を経た英語教師の手記も掲載しました。この執筆者の方々は特に原稿を書くことに苦労されました。経験があまりも巨大すぎたからです。しかし、3.11を風化させないためにも、私達編者はこれらの執筆者に原稿の完成をお願いし続けました。このセクションはこの本に深みを加えていると私は確信しています。

詳しい目次と執筆者一覧は、ひつじ書房のホームページに掲載されてあります。




私達編者は、これらの執筆者には自信をもっています。英語教師や英語教育論者としての実力や生き様を踏まえて人選したからです。いいかげんな「お為ごかし」は決して言わない人たちです。そして原稿は誠実で正直なものです。





こういったすべてのことを踏まえた上で、私達は宣言を繰り返します。




英語教師は楽しい




どうぞぜひお買い上げの上、ご一読下さい。











(注)
理論的考察の一環として、私はここ数年考え続けてきた、現代英語教育と資本主義的発想の親和性について、まとめました。そういった考察の予備ノートは、これまでもこのブログで公表してきましたが、「難しい」との声をいただいてきました(笑)。この本の原稿では、私はこの内容をできるだけわかりやすく噛み砕いて書くことに心血を注ぎました。ご一読いただければ幸いです。



追記

と、私はいつものように熱く語ってしまいましたが(苦笑)、この本のバランスを保ってくれたのに大きな働きをしてくれたのが、本の体裁としては第二編著者・第三編著者となっている組田さんと奥住さんです。特に奥住さんは、「はじめに」で、見事にこの本を総括してくれました。奥住さんの自然体の文章は、私はなかなか書けないだけに、奥住さんがこの本の総括を書いてくれたことには本当に感謝しています。

また、表紙のイラストも奥住さんによるものです。タイトル、表紙、さまざまな文章が、全体として一つの融合体を作り、「英語教師は楽しい」という宣言に深みを与えてくれたのではないかと編著者としては思っています。



追記2

ある方が「SLAの研究結果も大切だと感じていますが、この本ではその研究からは導き出せないとっても大切なことが出ているのではないかと思います」と言ってくださいました。

私の狙いもまさにそこにありました。学会論文ではどうしても、査読を通るために、既成の方法論を前提にした書き方でしか書けないようなところがあります。

しかし、本来、質的研究いやいかなる研究とて、テーマの解明と探究が第一であり、方法論はそのために最適の方法を選ぶにすぎません。最初に方法論ありきではないわけです。佐藤学先生は次のようにおっしゃっています。

最後に、本書の中心主題である「フィールドワークのメソドロジー」について付言しておこう。初学者から「メソドロジー」に関する質問を受けることは多いし、かなり経験を積んだ自立した研究者からも「メソドロジー」の妥当性に関する質問を投げかけられることは少なくない。この問いに答えるのは至難である。なぜなら、これらの問いを発する人のほとんどは、研究主題や研究対象やリサーチ・クエスチョンとは無関係にフィールドワークやアクション・リサーチの「メソドロジー」が存在するものと想定している。これらの人びとの質問は、その方向を転換する必要がある。この問いを発する人びとは自らの研究の意図や主題や研究対象やリサーチ・クエスチョンの曖昧さを問い直すべきなのである。フィールドワークもアクション・リサーチも方法論は多様であり複雑である。研究テーマにより研究対象により研究方法は千編自在に変化し、ひとつの研究を行うごとに最も説得力のある方法を研究者自身が自ら創造しなければならない。その創意のなかに研究の価値が内包されているというのが、私の25年間の経験から導きだされる結論である。(佐藤学:13ページ)。








この本は、出版市場における読者の精査という、既成の方法論での学会査読とは異なる種類のスクリーニングを経るものですから、既成の方法論にはこだわらず、とにかく執筆者がもっとも訴えたいことを、読者に正確に伝わるように書いていただきました(執筆者の方には7回書き直しをしていただいた方もいます)。

もちろん、私とて方法論的自覚や考察をまったく怠っているわけではありません。それらの研究は、最近でしたらJACET中部地区大会シンポジウムや、国際応用言語学会の発表でそれらの論点の整理を図っています。

ともあれ、この本は「読者に伝わること」を優先して作りました。ぜひお読みいただけたらと思います。