立て続けに二つの武術セミナーに参加しました。単なる武術ヲタで、実際には何もできないに等しい私としては、私ができない技術について色々書くことは避け、その時私が(一知半解のまま)考えたことをここに書いておきます。こうして書いておけば後年私が読んで、自分がいかに愚かであったかを思い知ることができるでしょうから。
■刹那を無窮に生きる
武術の技は、決まる時には刹那の瞬間に決まります。しかしそれではその刹那の瞬間だけが良ければいいのかと言えば、そうではなく、その刹那の瞬間の前も後も重要です。言うまでもなく前が駄目なら刹那の技も出せず、後が駄目なら技が決まった直後に他の相手から攻撃を受けてしまうかもしれないからです。
ですから、技に至るまでも間断がなく、技が刹那の瞬間に完結した後も、動きの均衡は連綿と展開していなければなりません。
二つのセミナーでのそれぞれの先生方の動きは、まさに完全と言いたいような全体的調和の瞬間が間断なく連綿と続くものでした。一つの固定的な動きがずっと続いているのではなく、それぞれの瞬間において完結している刹那が、無窮に続いているといった感じです。
動きを見ている私たちは稠密な時間を過ごしているようでした。時間が日常的感覚とはまったく異なる濃い密度で過ぎてゆきます。自然な速度の普通の動きを日常的な時間で見ているはずなのに、スローモーションで見ているようです。それだけ身体の動きが緻密に細分化されているのでしょうか。
細分化されているといっても、動きに断絶はありません。まったく滑らかです。また断絶がないといっても、単調な直線運動でもありません。おそらくは瞬間ごとに身体全体が絶妙にその最適均衡を達成しつつ動くため、動きは微細で精妙な変化に満ちています。
今、こうやって文章を綴りながら、私はわずかながらでもお二人の先生の動きを思い出しているのですが、しかし私のイメージは非常に弱くおそらくは歪んでおり、文章力も拙いので、これ以上表現することはできません。ご興味を持たれた方は、ぜひ近代的スポーツとなってしまった「武道」とは異なる武術の達人の動きをぜひどこかでご覧くださいとぐらいしか言えません。あるいはミヒャエル・エンデの『モモ』を読んだことのある方は、モモが「時間の国」で見た「時間の花」を思い出してくだされば、私が言いたいことはわかっていただけるかもしれません。
■意識は自然を取り戻せるのか
人間は意識を持ち始め、さらには書き言葉、印刷媒体、さらに昨今では電子媒体も持つことで、意識を増幅・増大させ、世界を次々に標準化することを学びました。その結果、現代人は多くのテクノロジーを手にしています。
しかしそもそも方便でしかなかったはずの、標準化された認識は、蓄積されやがて固定化し惰性的に使われ始め、人間は自らの自然を損ねてしまったのかもしれません。標準化された発想でどこにもかしこにもテクノロジーを押し付けて、人間の外の自然を破壊し、人間の内の自然 ―感情であり思念であり身体の動き― もその精妙さを失ってしまったのではないかと思えます。
お二人の先生の動きを見て、お話を聞いていると、武術とはそんな人間の意識によって損なわれてしまった自然を回復する試みなのか、とも思えてきました。人間が本来もつ精妙さを取り戻せば、文明の怠惰により自然の感覚を失ってしまった近代人には驚くしかないような身体の動きと、それに伴う心の正明さを、人間は体現できるのではないでしょうか。それこそは生の喜びであり、身体による宗教的表現とすら言えるものなのかもしれません。
しかしこの自然の回復は、人間が動物化し、意識および意識から発展した理性を失うことによってはなされません。そうでなく、かつては自然を損ねた意識を捨て去ることなく、しかしながら意識の使い方を根源的に変えて、より高いレベルで意識を使いこなすことで自然を取り戻すことが武術だと思います。
スポーツ化された「武道」を武術によって相対化し、武術の理を身体で学ぶことは、そのまま近代を問い直すポスト近代的課題だと私は考えます。大げさな言い方になってしまいますが、日本に生まれた私は、誇りをもってこの課題に取り組んでゆきたいと考えています(←中2病 爆)。
2011年11月13日日曜日
2011年11月6日日曜日
増田俊也(2011)『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社
[私の場合、他人様から見れば愚にもつかぬ文章を自分自身のためだけに書くことは、自己回復と自己発見の試みだ。ここでは出張の行きがけに読んだ本のことを書いておく]
私は本書の存在を知ってはいたが、題名からきっと興味本位の本だろうと決めつけていた。しかし、ある書評で本格的な評伝だと知り即購入し、新幹線の中で読んだ。素晴らしい本だった。ドキュメンタリーの傑作だと私は思う。
筆者の増田俊也は、稀代の柔道家であるこの木村政彦を愛している。しかしその愛は、在学時代に自らも柔道に勤しんだ筆者にとって敬意に充ちたものである。その敬意から筆者はあくまでも真実に忠実にあろうとする。それは各種の本の記述を鵜呑みすることなく、当時の新聞記事を地方版にまでわたって丁寧に読み、新事実を発見するというところにも現れている。その結果、二段組みで701ページの本書は一気に読めるものになっている。
木村政彦を中途半端にしか知らない大半の読者(私もそうだった)は、やはり力道山との一戦に注目するだろう。一体あの試合は何だったのか。背後に何があったのか。本書は冒頭でその試合の様子を再現した後、その秘密を明かそうと木村政彦の生涯をたどる。その過程で力道山、大山倍達、中村日出夫、塩田剛三、そして木村の師である牛島辰熊や、柔道に合気道的要素を取り入れる阿部謙四郎などの生涯も語られる。記述は重層的で多面的で、安直な決め付けを避ける。その中から戦前、戦中、戦後の社会のあり方が浮き上がってくる。さらに講道館正史では隠されていた柔道・柔術の諸事実が次々に明らかになってくる。現代の私達が持っている「柔道」の観念とはいかに一面的なものであるのかがわかる。
本書は、木村政彦と力道山の一戦を扱った第28章あたりで山を迎える。580ページで、一戦の背景を知りその映像を見た高阪剛のもらす一言に私もぐっときてしまった。そうしてついに筆者が下す582ページの結論に私は一瞬涙が出そうになり、新幹線の中でしばし本から目を離さなければならなかった。
だがその山を過ぎても本書は読者をぐいぐいひっぱる。それは本文最後の689ページで明かされる新事実があったからだ。さらに「あとがき」の後に掲載される一枚の写真。ここに写った男を、愛し敬せざることは私にはとてもできない。木村政彦こそは不世出の柔道家であった。まさに木村の前に木村なく、木村の後に木村なき存在であった。
来年から中学の体育で武道の一貫として柔道も教えられることになるという。武術の専門誌『月刊 秘伝2011年9月号』は、特集「武道教育とは何か?」で、中学校での安易な武道教育に対するに対する懸念を表明しているが、中学校で柔道を教える体育の先生にはぜひ本書を読んでいただきたい。
生徒が学ぶ柔道というのは、このような柔道家によって作り上げられてきた武道であることを理解していただきたい。さらには本書ではほとんど触れられていないが、木村の柔道とて、それなりに競技化された明治以降の柔道であり、明治以前の人の生き死にと直接に結びついていた柔術は、木村の柔道ですら到達し得ないかもしれない次元での深遠さと術理をもつものであったろうことも理解していただきたい(参考:内田樹『武道的思考』
)。
もし中学への武道導入が、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」(教育基本法)を目指すものならば、武道をスポーツと混同したまま教えることは許されないはずだ(まあ、この本を読むまで柔道のことについてほとんど知らなかった私が偉そうにお説教できる筋合いではないのですが ←馬鹿は死ななきゃ治らない 笑)
⇒『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』
追記
以下のビデオは、私がこの拙文を書く際に見つけたもので、本書にも出てくる人物の写真や映像が出るのは本当にありがたいのですが、いかんせんテレビ用に安直に作られ、やたらと糖衣をつけ、その反面語られるべき人間や社会の深部などは描いていません(特に力道山との一戦の描き方などは本書を読んだ私などからすれば腹立たしい程です)。下のビデオを見るだけで本書を読んだつもりになることだけはぜひお避け下さい。やはりテレビには明らかな限界がある。
私は本書の存在を知ってはいたが、題名からきっと興味本位の本だろうと決めつけていた。しかし、ある書評で本格的な評伝だと知り即購入し、新幹線の中で読んだ。素晴らしい本だった。ドキュメンタリーの傑作だと私は思う。
筆者の増田俊也は、稀代の柔道家であるこの木村政彦を愛している。しかしその愛は、在学時代に自らも柔道に勤しんだ筆者にとって敬意に充ちたものである。その敬意から筆者はあくまでも真実に忠実にあろうとする。それは各種の本の記述を鵜呑みすることなく、当時の新聞記事を地方版にまでわたって丁寧に読み、新事実を発見するというところにも現れている。その結果、二段組みで701ページの本書は一気に読めるものになっている。
木村政彦を中途半端にしか知らない大半の読者(私もそうだった)は、やはり力道山との一戦に注目するだろう。一体あの試合は何だったのか。背後に何があったのか。本書は冒頭でその試合の様子を再現した後、その秘密を明かそうと木村政彦の生涯をたどる。その過程で力道山、大山倍達、中村日出夫、塩田剛三、そして木村の師である牛島辰熊や、柔道に合気道的要素を取り入れる阿部謙四郎などの生涯も語られる。記述は重層的で多面的で、安直な決め付けを避ける。その中から戦前、戦中、戦後の社会のあり方が浮き上がってくる。さらに講道館正史では隠されていた柔道・柔術の諸事実が次々に明らかになってくる。現代の私達が持っている「柔道」の観念とはいかに一面的なものであるのかがわかる。
本書は、木村政彦と力道山の一戦を扱った第28章あたりで山を迎える。580ページで、一戦の背景を知りその映像を見た高阪剛のもらす一言に私もぐっときてしまった。そうしてついに筆者が下す582ページの結論に私は一瞬涙が出そうになり、新幹線の中でしばし本から目を離さなければならなかった。
だがその山を過ぎても本書は読者をぐいぐいひっぱる。それは本文最後の689ページで明かされる新事実があったからだ。さらに「あとがき」の後に掲載される一枚の写真。ここに写った男を、愛し敬せざることは私にはとてもできない。木村政彦こそは不世出の柔道家であった。まさに木村の前に木村なく、木村の後に木村なき存在であった。
来年から中学の体育で武道の一貫として柔道も教えられることになるという。武術の専門誌『月刊 秘伝2011年9月号』は、特集「武道教育とは何か?」で、中学校での安易な武道教育に対するに対する懸念を表明しているが、中学校で柔道を教える体育の先生にはぜひ本書を読んでいただきたい。
生徒が学ぶ柔道というのは、このような柔道家によって作り上げられてきた武道であることを理解していただきたい。さらには本書ではほとんど触れられていないが、木村の柔道とて、それなりに競技化された明治以降の柔道であり、明治以前の人の生き死にと直接に結びついていた柔術は、木村の柔道ですら到達し得ないかもしれない次元での深遠さと術理をもつものであったろうことも理解していただきたい(参考:内田樹『武道的思考』
もし中学への武道導入が、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」(教育基本法)を目指すものならば、武道をスポーツと混同したまま教えることは許されないはずだ(まあ、この本を読むまで柔道のことについてほとんど知らなかった私が偉そうにお説教できる筋合いではないのですが ←馬鹿は死ななきゃ治らない 笑)
⇒『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』
追記
以下のビデオは、私がこの拙文を書く際に見つけたもので、本書にも出てくる人物の写真や映像が出るのは本当にありがたいのですが、いかんせんテレビ用に安直に作られ、やたらと糖衣をつけ、その反面語られるべき人間や社会の深部などは描いていません(特に力道山との一戦の描き方などは本書を読んだ私などからすれば腹立たしい程です)。下のビデオを見るだけで本書を読んだつもりになることだけはぜひお避け下さい。やはりテレビには明らかな限界がある。
『千と千尋の神隠し』
馬鹿は死ななきゃ治らない。今回も仕事しすぎて、ほぼ同時期に重なった4つの締め切りが終わると同時に風邪を引き、一週間はまともに仕事ができなくなった。締め切り前は、自分でも驚くぐらい集中できたのだけれど、それは危険信号であるということを、自分はまだ学習していないらしい。その結果、締め切りをなんとかクリアーすると同時にほぼダウン状態。自分でもよくこんなに寝れるなと思うぐらい寝たのだけれどなかなか体調が戻らない。文化の日も一日中横になっていたけど、さすがに24時間は眠れず、かといって本を読む気力もないので、宮崎アニメDVDを再視聴。『千と千尋の神隠し』。でもこれがよかった。
私の業界話にかこつけて話してしまうなら、この映画の主人公であり、いきなり異界に叩きこまれ、魑魅魍魎の存在の中で働かなければならなくなった10歳の女の子千尋は、それまでにようやく自分の好きな世界を創り上げかけてきた大学生が、卒業後いきなり教育困難校に配属され、とにかく自分の想像を超える世界の中で働かざるを得なくなったことに喩えられる(笑)。千尋は手足も細くひょろひょろで、まともに挨拶をする世間知も持たないぐらいの鈍臭い泣き虫で甘えん坊の女の子だが、いきなり教育困難校に配属された新人教師よろしく、とにかく働かなければ生きて行けない状況に追い込まれる。
「嫌だ」とか「帰りたい」と言えばすぐに動物に変えられてしまう異界の中で、千尋は見ているこちらが驚くほど素直に自分の運命を受け容れる。他方、異界の登場人物の異形ぶりは、もう笑い出すぐらいのもので、これは映画を見ていただくしかないが、その異形は、初めて実社会で働くことになった新人が見る世界の象徴的表現としても見ることができる。もちろん実社会で働き始めた新人の労苦はこんなものではなく、睡眠時間を剥奪され、生徒に罵られ、学校の出来事に追い立てられ、事務仕事に忙殺されと、まさに文字通り身を削られるようなものであり、笑い事ではとてもないが、これは映画、娯楽作品。少女が感じる違和感を、寓話的にユーモラスに表現している。実社会というのは、まあ、いかがわしく摩訶不思議なところだ。
働かなければ動物にされてしまう異界で、石にかじりつくようにして仕事を得た千尋は、仕事場の主である湯婆婆(ゆばーば)に名前を奪われ、「千」(せん)と名付けられる。湯婆婆はこのように本当の名を奪うことにより、その者を支配するのだ。
やがて千は仕事場の大きなトラブルを押し付けられるが何とかそれをこなす。その一方で無知からとんでもない災厄を招いてしまう。世間知のない千にとってこの災厄を収めることなど不可能に思える。実際、私が少々世間知に長けた存在としてこの異界にいたなら、千は仕事を辞めるべきだとか、こうすればいい、ああすればいいと俗論を繰り返しているだけだろう。(このように役に立たぬ正論をまくしたてる御方は世間にごまんといる)。
しかし千は、自らの本当の名前を忘れていなかった。異界でくたくたに働かされる存在でありながら、少女の心を忘れていなかった。差し出される砂金を淡々と拒み、災厄の主であるカオナシに語りかける。それは誰もがやれなかったことだった。やがて頑固者の老人(釜爺(かまじい))、年上の気の強い同僚リン、小さなススワタリ(トトロの「まっくろくろすけ」)も自然に千(千尋)を助ける。打算などとはまったく関係なく自然に千(千尋)に心を寄せる。それは千(千尋)の心が、仕事の打算や利害得失とはまったく独立した、自然であるからだ。自然は自然を呼び、自然と自然は自然につながる。
千(千尋)はさらに、異界に来た当初自分を助けてくれたハクも助けようとする。釜爺はそれを見て「愛じゃよ、愛」というが、この愛は、いわゆる男女の性愛を超えたものである。ハクは、実は千尋が小さい頃に住んでいた地域の川を司る神であった。その神はかつて川で溺れかかった千尋を助けたし、その事を忘れてしまっていた千も竜に形を変え苦しむハクを助ける。両者とも共にそれは惻隠の情とも言うべき自然な行為で、そこに男女の性愛にしばしば見られるような自己陶酔や独占欲などはない。実際、ハクと最後に別れを告げなければならない千が言ったのは「また会える?」だけだった。千(千尋)は、内なる自然に生きる少女なのだ。
その少女はやがて、湯婆婆と仲の悪い双子の姉である銭婆(ぜにーば)のもとへと向かう。傍で見ている者にとって、これはもう荒唐無稽で無謀極まりない行為だが、千(千尋)は「だって銭婆に謝らなければならないから」と向かう。その際に災厄の主であったカオナシも同行させる。そんな千(千尋)に、湯婆婆のわがまま息子である「坊」はついて行く。
もうこの辺の知恵というか発想は、計算では絶対に出てこない。計算高い世間知を学術用語で言い換えて誤魔化しながら人生を生きているような私ではとても思いつかない。ましてや実行できない。それをこの手足の細い少女は、淡々と実行する。
彼女の知恵は身体から来ている。彼女の内にあり、彼女の外ともすべてつながっている自然により彼女は動く。彼女は自然体で神々しいとすら言える。だが大仰な所作とはまったく無縁だ。華美でもなければ妖艶でもない。見方によっては彼女はひょろひょろとした女の子に過ぎない。ただ彼女は、計算高い男性や、そんな男性に自分を似せることに専念する女性がよってたかってもなしとげえないようなことをやってのける。彼女は女性の自然である。だから彼女は自然に美しい。ちょうど自然の草木がそのままで美しいように。
私達のこの世界でも、時に計算的合理性をはるかに超える出来事が生じる。小さくは職場のトラブル、大きくは今回の震災や原発人災。そんな時に、人々を救い、世界をかろうじて保つのは千尋のような自然な女性性なのかもしれない。男性性は近代社会においてあまりに肥大し過ぎてしまった。千尋のように、身体の自然により淡々と事をなす、あるいは事を待つ女性性、悪意はおろか善意とも無縁に、ただそのままに在ろうとする女性性こそが、世界の始まりからあったことであり、私たちはそれを忘れてはならないのかもしれない。
だから、職場の魑魅魍魎の中で疲労困憊する新人も、大切な事は生き延びて自分の本当の名前を忘れないことなのかもしれない。新人が仕事をうまくやれないのは、いわば当たり前だ。だからといって子供じみた居直りをするのでなく、千(千尋)のように子供のような素直な心で大人の世界に慣れ、かつ自分の中の自然を失わないことこそが職場の新人がやるべきことなのかもしれない。
俗の苦しみの中で自分の本当の名前を失わないで。そのためになんとか生き延びて。疲れたら泥のように休んで、とにかくなんとか働き続けて。そうすれば人々は、そんなあなたこそが、この世界の小さな救世主であることをいつか感謝の念とともに知るから。外見的には目立たない、しかし実は神々しい救世主であることを。やがて人々はあなたを愛し、あなたに愛されることを望んでやまなくなるから。
・・・と、自分の内の自然を忘れかけた仕事中毒は、治らぬ風邪の症状の中で、このようにただただ恥ずかしい文章を綴り、それをあろうことかブログに掲載するのであった。
馬鹿は死ななきゃ治らない。
追記
映画後半で、千が千尋の服を着て次々に問題解決をする様はすばらしい。まさに迷うことなくただ自然に事をなしてゆく。ハリウッド映画の文法なら、主人公が呻吟したり熟考したり、あるいは解答のヒントや幸運なアクシデントを外から得たりしなければならない状況で、千(千尋)は逡巡することなく行動し、またそれがことごとく的確なものである。
日本文化には心身定まり、何にも居つくことなく自在に動けば、それがすべて最適解になるという思想、そして事実があるけれど、この映画を見て多くの日本人が「なんでこんなに簡単に問題が解決するんだよぉ」、「フツー、そこでは悩むだろ」、「こんなヒントなしの正解なんてあり得ねー」などと思わず、「うん、こういう時は、こういうもんだ」と違和感なく話の筋を追って行ったら、私はそれこそが日本文化の底力だと思う。ウィキペディアによれば、この映画は、2011年現在でも日本国内の映画興行成績における歴代トップであるとのことだが、老若男女このような映画を楽しんで見ているとなれば、私はこの国の民度は極めて高いと思う。
⇒千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]
私の業界話にかこつけて話してしまうなら、この映画の主人公であり、いきなり異界に叩きこまれ、魑魅魍魎の存在の中で働かなければならなくなった10歳の女の子千尋は、それまでにようやく自分の好きな世界を創り上げかけてきた大学生が、卒業後いきなり教育困難校に配属され、とにかく自分の想像を超える世界の中で働かざるを得なくなったことに喩えられる(笑)。千尋は手足も細くひょろひょろで、まともに挨拶をする世間知も持たないぐらいの鈍臭い泣き虫で甘えん坊の女の子だが、いきなり教育困難校に配属された新人教師よろしく、とにかく働かなければ生きて行けない状況に追い込まれる。
「嫌だ」とか「帰りたい」と言えばすぐに動物に変えられてしまう異界の中で、千尋は見ているこちらが驚くほど素直に自分の運命を受け容れる。他方、異界の登場人物の異形ぶりは、もう笑い出すぐらいのもので、これは映画を見ていただくしかないが、その異形は、初めて実社会で働くことになった新人が見る世界の象徴的表現としても見ることができる。もちろん実社会で働き始めた新人の労苦はこんなものではなく、睡眠時間を剥奪され、生徒に罵られ、学校の出来事に追い立てられ、事務仕事に忙殺されと、まさに文字通り身を削られるようなものであり、笑い事ではとてもないが、これは映画、娯楽作品。少女が感じる違和感を、寓話的にユーモラスに表現している。実社会というのは、まあ、いかがわしく摩訶不思議なところだ。
働かなければ動物にされてしまう異界で、石にかじりつくようにして仕事を得た千尋は、仕事場の主である湯婆婆(ゆばーば)に名前を奪われ、「千」(せん)と名付けられる。湯婆婆はこのように本当の名を奪うことにより、その者を支配するのだ。
やがて千は仕事場の大きなトラブルを押し付けられるが何とかそれをこなす。その一方で無知からとんでもない災厄を招いてしまう。世間知のない千にとってこの災厄を収めることなど不可能に思える。実際、私が少々世間知に長けた存在としてこの異界にいたなら、千は仕事を辞めるべきだとか、こうすればいい、ああすればいいと俗論を繰り返しているだけだろう。(このように役に立たぬ正論をまくしたてる御方は世間にごまんといる)。
しかし千は、自らの本当の名前を忘れていなかった。異界でくたくたに働かされる存在でありながら、少女の心を忘れていなかった。差し出される砂金を淡々と拒み、災厄の主であるカオナシに語りかける。それは誰もがやれなかったことだった。やがて頑固者の老人(釜爺(かまじい))、年上の気の強い同僚リン、小さなススワタリ(トトロの「まっくろくろすけ」)も自然に千(千尋)を助ける。打算などとはまったく関係なく自然に千(千尋)に心を寄せる。それは千(千尋)の心が、仕事の打算や利害得失とはまったく独立した、自然であるからだ。自然は自然を呼び、自然と自然は自然につながる。
千(千尋)はさらに、異界に来た当初自分を助けてくれたハクも助けようとする。釜爺はそれを見て「愛じゃよ、愛」というが、この愛は、いわゆる男女の性愛を超えたものである。ハクは、実は千尋が小さい頃に住んでいた地域の川を司る神であった。その神はかつて川で溺れかかった千尋を助けたし、その事を忘れてしまっていた千も竜に形を変え苦しむハクを助ける。両者とも共にそれは惻隠の情とも言うべき自然な行為で、そこに男女の性愛にしばしば見られるような自己陶酔や独占欲などはない。実際、ハクと最後に別れを告げなければならない千が言ったのは「また会える?」だけだった。千(千尋)は、内なる自然に生きる少女なのだ。
その少女はやがて、湯婆婆と仲の悪い双子の姉である銭婆(ぜにーば)のもとへと向かう。傍で見ている者にとって、これはもう荒唐無稽で無謀極まりない行為だが、千(千尋)は「だって銭婆に謝らなければならないから」と向かう。その際に災厄の主であったカオナシも同行させる。そんな千(千尋)に、湯婆婆のわがまま息子である「坊」はついて行く。
もうこの辺の知恵というか発想は、計算では絶対に出てこない。計算高い世間知を学術用語で言い換えて誤魔化しながら人生を生きているような私ではとても思いつかない。ましてや実行できない。それをこの手足の細い少女は、淡々と実行する。
彼女の知恵は身体から来ている。彼女の内にあり、彼女の外ともすべてつながっている自然により彼女は動く。彼女は自然体で神々しいとすら言える。だが大仰な所作とはまったく無縁だ。華美でもなければ妖艶でもない。見方によっては彼女はひょろひょろとした女の子に過ぎない。ただ彼女は、計算高い男性や、そんな男性に自分を似せることに専念する女性がよってたかってもなしとげえないようなことをやってのける。彼女は女性の自然である。だから彼女は自然に美しい。ちょうど自然の草木がそのままで美しいように。
私達のこの世界でも、時に計算的合理性をはるかに超える出来事が生じる。小さくは職場のトラブル、大きくは今回の震災や原発人災。そんな時に、人々を救い、世界をかろうじて保つのは千尋のような自然な女性性なのかもしれない。男性性は近代社会においてあまりに肥大し過ぎてしまった。千尋のように、身体の自然により淡々と事をなす、あるいは事を待つ女性性、悪意はおろか善意とも無縁に、ただそのままに在ろうとする女性性こそが、世界の始まりからあったことであり、私たちはそれを忘れてはならないのかもしれない。
だから、職場の魑魅魍魎の中で疲労困憊する新人も、大切な事は生き延びて自分の本当の名前を忘れないことなのかもしれない。新人が仕事をうまくやれないのは、いわば当たり前だ。だからといって子供じみた居直りをするのでなく、千(千尋)のように子供のような素直な心で大人の世界に慣れ、かつ自分の中の自然を失わないことこそが職場の新人がやるべきことなのかもしれない。
俗の苦しみの中で自分の本当の名前を失わないで。そのためになんとか生き延びて。疲れたら泥のように休んで、とにかくなんとか働き続けて。そうすれば人々は、そんなあなたこそが、この世界の小さな救世主であることをいつか感謝の念とともに知るから。外見的には目立たない、しかし実は神々しい救世主であることを。やがて人々はあなたを愛し、あなたに愛されることを望んでやまなくなるから。
・・・と、自分の内の自然を忘れかけた仕事中毒は、治らぬ風邪の症状の中で、このようにただただ恥ずかしい文章を綴り、それをあろうことかブログに掲載するのであった。
馬鹿は死ななきゃ治らない。
追記
映画後半で、千が千尋の服を着て次々に問題解決をする様はすばらしい。まさに迷うことなくただ自然に事をなしてゆく。ハリウッド映画の文法なら、主人公が呻吟したり熟考したり、あるいは解答のヒントや幸運なアクシデントを外から得たりしなければならない状況で、千(千尋)は逡巡することなく行動し、またそれがことごとく的確なものである。
日本文化には心身定まり、何にも居つくことなく自在に動けば、それがすべて最適解になるという思想、そして事実があるけれど、この映画を見て多くの日本人が「なんでこんなに簡単に問題が解決するんだよぉ」、「フツー、そこでは悩むだろ」、「こんなヒントなしの正解なんてあり得ねー」などと思わず、「うん、こういう時は、こういうもんだ」と違和感なく話の筋を追って行ったら、私はそれこそが日本文化の底力だと思う。ウィキペディアによれば、この映画は、2011年現在でも日本国内の映画興行成績における歴代トップであるとのことだが、老若男女このような映画を楽しんで見ているとなれば、私はこの国の民度は極めて高いと思う。
⇒千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]
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