2018年5月18日金曜日

「意識の統合情報理論からの基礎的意味理論―英語教育における意味の矮小化に抗して―」(『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 48 (2018). pp.53-62)


この度、「意識の統合情報理論からの基礎的意味理論―英語教育における意味の矮小化に抗して―」を『中国地区英語教育学会研究紀要』 の No. 48 (2018). pp.53-62 に掲載していただきました。

国際的な慣行に基づき、ここではその論文の草稿を掲載します。正式な論文については同誌か遠くないうちに公開されるはずの各種学術レポジトリをご参照ください。

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意識の統合情報理論からの基礎的意味理論
英語教育における意味の矮小化に抗して


広島大学 柳瀬陽介



1 序論

 本論は、意識の統合情報理論からの意味論の構築を試みるものであるが、序論では、日本の英語教育界の現状が客観主義的意味論の影響を強く受け意味が矮小化されている現状、および、この現状に対抗するための理論として経験基盤主義やルーマンの理論社会学に基づく意味理論があるもののその説明力はまだ十分ではないことを述べる。

1.1 現状
 日本の英語教育界では、英語表現においては意味の知覚反応化が、英語教育全体においては意味の貨幣化が進行している。
 英語表現の意味の知覚反応化は、客観テスト(多肢選択方式)によって助長されている。客観テストでは正解は一つの選択肢だけで、他の選択肢はすべてどんな観点から検討しても不正解でなければならないので、意味に関する問いにおいてある観点からは十分可能だが必ずしもすべての観点から可能だとは言えない(弱い)推意・暗意 implicature が構造的に排除されている。この事態は、表意・明意(explicature)に伴う(強弱さまざまの)推意・暗意を巧みに使いながら探りを入れたり交渉したりするといった現実世界のコミュニケーションにおける意味の事態とは本質的に異なっている。学習者がこういった客観テストに対応するためには、もっぱら表意・明意に注目すればよいが、そのことを察知してか多くの教師は一つの英単語の刺激に対して一つの訳語を反応として出す形の単語集暗記や単語テストを学習者に奨励・強制し、その結果、学習者はそのような単語暗記こそが意味の学習だと信じるにいたっている。「英単語E1を見たら、訳語のJ1を思い出せ」といった営みは、もはや理解(understanding)―思考や判断を伴う認知活動―を伴う活動ではなく、単なる知覚(perception)―単純な感覚的同定―に対する反応となっている。多くの教師と生徒が「意味の学習」だとみなしている営みは「入力刺激E1をすばやくE1として知覚すること。そして直ちに丸暗記をしていたJ1を出力すること」という知覚反応になってしまっている。
 英語教育の意味の貨幣化とは、英語教育の成果(意味)(1) が、もっぱら客観テストの得点で測られその得点が貨幣のように扱われていることを指す(柳瀬, 2014)。現在、文部科学省は「各試験団体のデータによるCEFRとの対照表」を公表しているが(2) 、この表は、まずCEFRCommon European Framework of References)が本来意図していた学習者の技能間の能力差から生じる質的多様性を消去している。各試験のそれぞれの技能での能力差を点数合計で合算し、技能ごとに異なる能力様態という個々人の質的な特徴を量的に平均化し消し去っている。だがそれだけでなく、この対照表は各試験がもっている特徴(たとえばビジネス英語向き、あるいは学術英語向き、など)を捨象して一種の為替換算表のように働き、個々人や各種教育組織における英語教育の成果を「客観的」な指標に還元してしまっている。(3) これは各人の技能別能力の分布様態や各試験の特徴といった質の違いをすべて均一化して、単なる数直線(A1からC2 という順序尺度、あるいは各試験の点数という間隔尺度)上の数値としている点で、一元的な量化によって多種多様な商品の質の違いを消し去ってしまう貨幣(Money, Geld)の驚くべき働き (マルクス)にたとえられる。学習者も教師も一般市民も今や英語教育の意味を、換算表で制度的に裏付けられた「商品価値」として考え始めているのではないだろうか。その帰結の一つとしても考えられるのが、総務省が「中学校3年生の英検3級以上取得率等50%(4) などを「成果指標」として文部科学省に勧告を行っていることである(総務省, 2017)。換算表で制度的に公認された数値は、教育組織にとっては予算など、学習者にとっては進学・昇進などと交換される一種の貨幣として働く。英語教育の意味は、ますます貨幣的な交換価値で測られようとしている。

1.2 これまでの意味論・意味理論
 以上のように意味を確定的な知覚反応とみなしたり一律に数値に還元したりする考え方は、意味を「客観的に記述できる確定的な静態的対象」とする客観主義者的意味論(objectivist semantics)(Lakoff and Johnson, 1987)に基いていると解釈できる。この客観主義者的意味論は、測定結果(点数)の客観性を標榜する客観テストと親和性が高いが、その客観テストが産出する数値は、公共的な営みも自由市場での競争原理に基いて運営されるべきとされる新自由主義―1980年代以降の世界的な潮流―を動かす格好のデータとなる。そういった数値データの特権化は、西洋的形而上学(Lakoff and Johnson, 1987; クロスビー, 2003)の伝統に適う一元的客観主義(柳瀬 2017a)によって正統化もされ、客観テストも無批判的に受け入れられる。つまり、<客観主義者的意味論―客観テスト―新自由主義―一元的客観主義>の連環が近代社会に組み込まれているわけである(図1)。
 このような相互強化的連環が存在している以上、その一環である客観主義者的意味論に対抗することは容易ではない。Lakoff and Johnson1987)が経験基盤主義(experientialism)に基いて提唱する意味理論(5)は、意味について「ある種の存在者がある種の環境の中で機能するという経験の中から生じるものであって、意味が意味自体で有意味であることはない」と述べ、各種の経験から生じる身体的図式がそれぞれの生活様式で生きる人間にとっての意味の基盤となっていることを例証したが、現状からすればこれも客観主義者的意味論の意味の確定性や静態性への十分な対抗理論とはなっていないように思える。





1 「客観性」をめぐる近代の連環

 理論社会学のルーマンは独自の―といっても哲学や言語学の遺産に根ざした―意味理論を提示している。その意味理論については柳瀬(2017b)の説明があるので、ここでは後の議論のために必要な最小限の説明をするなら、ルーマンは、意味を、現実性(Aktualität, actuality)と可能性(Potenzialität, potentiality)の統合と考える。現実性とは、意識の焦点であって、従来の言語学的意味論の用語でいうなら "reference" "denotation" に近いだろう。(6) それに伴っているのが可能性であるが、これは言語学的意味論の "connotation" (含蓄、含み、暗示的意味。たとえば「家庭」という単語に対する<安らぎ>など)よりもはるかに広い領域を指している。ルーマンの可能性とは、意味の現実性からつながりうる無数の事態であり、それはその現実性を理解している人間にとっても枚挙できないほど果てしなく多種多様に現実性とつながっている事態である。(7) そのように確定的な現実性と不確定的で莫大な可能性の統合という形式を意味が取るゆえに、意味は意識(がとらえる世界)の複合性に対処できる媒体(medium)となる。もし私たちの意味が、たとえば機械語のように厳密な指示対象しかもたなかったら、私たちの意味のやり取りからは曖昧さがなくなり、やり取りは厳密で(それゆえに)長大なものとならざるを得ない。複合性に対応するために、意味は、現実性という緩やかに閉ざされた領域を指しながら、同時に可能性という開かれた領域を指すことによって、一方で確定的なことを扱いながら、他方で起こりうるさまざまな不確定的事態にも対応ができるようになる構造を獲得するにいたったとルーマンは論ずる。(Luhmann, 1990)。
 このように意味の不確定性についても光をあてるルーマンの意味理論ではあるが、説明はまだ抽象レベルにとどまっている。そこで注目されるのが神経科学における意識の情報統合理論である。本論文では、ルーマンの意味理論と情報統合理論が矛盾なく相補って一つの意味理論を形成し、その結果、意味の確定性と不確定性、静態性と動態性、そして客観性と主観性を統合的に説明できることを論証し、併せて、その意味理論によって英語教育界における意味の矮小化に抗することを研究課題とする。


2 方法

 ここでは統合情報理論について短くまとめ、その上で本論文が扱う範囲を限定する。

2.1 統合情報理論
神経科学の統合情報理論(Integrated Information Theory: IIT)は、精神科医から神経学者へと転身し、エーデルマンやコッホといった神経科学の大家とも共同研究を行うトノーニが提唱している理論である(Edelman & Tononi, 2001; Tononi, 2008; Tononi, 2012, Tononi & Koch, 2015)。統合情報理論は、意識の現象学的基盤から出発し、神経科学的な知見を整合的に説明できる数学的モデル(情報理論)を構想している。理論は五つの公理(axiom: 意識に関して私たちが自明と認めざるをえない命題)と、そこから導き出せる公準(postulate: 公理から導き出せる、意識の物質的基盤に関する想定)をもつ。トノーニもルーマンと同じように意味を意識の媒体と考えているので、この統合情報理論から意味に関する部分を整理し、ルーマンの意味理論で相補うことによって整合的で新しい意味理論を構築することが本論文の論証法である。

2.2  本論文が扱う範囲の限定
 だが実は、ルーマンは意味を、意識(彼の理論によるならば、心的水準での自己生成システム(autopoietic system(8))においてだけでなく、コミュニケーション(「社会的水準での自己生成システム」)においても作用する媒体と考えている。これに対して、統合情報理論は個人の意識を超えたコミュニケーションの水準(=複数の心的な自己生成システムが相互作用をすることによって生み出される社会的水準での自己生成システム)での意識(ひいては意味)の成立について懐疑的である。この齟齬は大きな問題なので本論文では扱わず、以下の論考では意識における意味だけを扱い、コミュニケーションにおける意味は扱わない。また統合情報理論には、なぜ多くのニューロンを有する小脳には意識が生じないかなどの多くの神経科学的な説明、および意識の質と量の数学的表現に関する説明があるが、それらも本論では割愛する。興味をもつかもしれない読者のために、統合情報理論の公理について言及はするが、その詳しい説明も紙幅の都合で割愛せざるをえない。


3 意識の統合情報理論からの意味理論

ここでは意識の内在性、機構性、複合性を鍵概念としながら、意識としての意味を説明する。3.1では意識の内在性の論証によって意識の主観性を措定し、3.2では機構性を論証することで意識の客観性を措定すると同時に意識の動態性を説明する。3.3では複合性について説明する中で現実性と可能性、確定性と不確定性の統一的説明を試み、3.4で意識の特殊形態としての意味の定義を導き出す。

3.1 意識の内在性
 意識の主観性の措定:デカルトが言うように、私たちにとって意識の存在は疑いようがない。統合情報理論ではこの現象学的自明性を意識についての科学の出発点とし、意識の存在は外部観察者(external observer)とは無関係の内在的視点(intrinsic perspective)から認められるものとする[第一公理:内在的存在(intrinsic existence)]。意識は内在的あるいは主観的に経験(experience)されるものであり、外部の者がその存在や経験についてどのように観察したり推定したりしようが、それらの観察や推定とは独立に意識は主観的に存在し経験される。この意識の主観性を否定・排除した論考は十分な意識の理論とはなりえない。

3.2 意識の機構性
 意識の客観性の措定:統合情報理論は因果論的存在論(causal ontology)の立場から「存在するものがそれ自体を含めたいかなる対象に対しても因果力(cause-effect power)をもたないことは想定し難い」と考え、存在するものは、何かに対する因果力を有し、因果力を生むための物理的機構(physical mechanism)を有しているはずであるとする(物理主義 physicalism)。前項で見たように意識は主観的に経験されるが、因果力をもち、その因果力を生み出すための物理的な基盤をもつ。この物理的実在物をもつという点で意味は客観的・対象的(objective)でもある。



意識の因果力は、まずもって意識自身に対する自己因果力である。(9) 単純な回路(図2)を用いて考えよう。①からは回路の素子であり、矢印は回路をつなぐ導体である。①からはそれぞれに同等の確率(1/2)でonoffの状態になるが、導体でつながれている場合は、矢印元の素子がonであれば次の瞬間に矢印先の素子は必ずonになると仮定する。また素子がonであれば1offであれば0と表記することとする。
ここで単純な回路の③と④の状態の確率分布から自己因果力について考えることにしよう。もし導体がまったくない(回路に矢印がない)なら、③と④のon/offの状態つまり(0, 0, 0, 1, 1, 0, 1, 1)は、(1/4, 1/4, 1/4, 1/4)の確率分布を示す。だが、もし導体(矢印)があり、かつ①と②の状態が(1, 0)か(1, 1)なら、次の瞬間の③と④の状態は必ず 1, 1 となり確率分布は 0, 0, 0, 1 になる。時間軸を逆にして考えるなら、③と④の状態が(1, 1)であるならば、その前の瞬間の①と②の(0, 0, 0, 1, 1, 0, 1, 1)の状態の確率分布は(0, 0, 1/2, 1/2)となる。このように単純な回路でも自己生成のあり方の可能性(選択肢)を減らすという点で情報量(10)を有する。(11)
意識の動態性:脳が上記の回路とは比較にならないほど複合的な回路(ニューロンによって構成される回路)であるならば、脳はニューロン回路の特定の発火状態によって自らの状態に関する情報を生み出す回路だと考えることができる。意識をニューロン回路の特定の発火状態から生まれるとするならば、意識は脳が自らの状態に関して生み出す情報(選択肢の縮減)であると考えることができる。となれば、意識はその存在により自らを変容させる自己生成システムである。また、その変容により、意識は静態的ではなく、常に動態的な過程 dynamic process であるとも結論される。

3.3 意識と複合性
 今度はニューロン回路の複合性(complexity(12) から意識の現実性と可能性について説明する。ある瞬間(t)のあるニューロンの発火状態は現実的(actual)であり確定的(determinate)である。しかしニューロンの数は莫大であり、かつ、その発火の程度や相互関係(ニューロン間の距離や組み合わせや等など)も実にさまざまであるため、そのニューロンも他の莫大な数のニューロンとさまざまな様態で(直接的・間接的に)結合している。この複合性の高さのため、次の瞬間(t+1)のそのニューロンの発火状態は、tの時点では現実性ではなく可能性(potentiality)として存在する。次の瞬間(t+2)に発火するニューロンの状態はさらに弱い可能性として存在する。t+3以降に発火するニューロンはもっと弱い可能性として存在する。この議論を延長するなら、ある未来(t+n)の瞬間の(意識を発生させる部位の)すべてのニューロンの発火状態(すなわち意識)を正確に予測することはできない。そうなると、ある瞬間の意識の状態(すなわちニューロンの発火状態)は現実的(actual)であり確定的(determinate)ではあるが、その現実性および確定性は、常に可能性(potentiality)および不確定性(indeterminacy)を帯びて自己生成する動態的過程にあることになる。意識は、現実性と可能性、確定性と不確定性の動態的統一であると表現できるかもしれない。

3.4 意識と意味
 以上の議論では、話をわかりやすくするために、意識を「情報」としてきたが、統合情報理論が意識としてみなすのは、単なる情報ではなく統合情報である。統合情報(integrated information)とは、多くの情報が一つにまとまった情報[第四公理:統合 integration]であり、その一部として統合情報を構成する一つ一つの情報[第二公理:構成 composition]が生み出す違いの単なる総和であることを超えて、それ以下でもそれ以上でもない[第五公理:排除 exclusion]全体として、それ独自の違いを生み出す[第三公理:情報 information]。この情報と統合情報の違いをわかりやすい例で示すなら、たとえば1000万画素のデジタルカメラは、それぞれの画素に色の情報を受け止めることができる。だが、デジタルカメラは統合情報を得ていない。デジタルカメラのそれぞれの画素は特定の色情報を有するだけであり、たとえばどの画素が被写体であるネコの瞳を構成しそれがネコの毛皮を構成している画素とどのように関係しているかなどと情報を統合しているわけではない。デジタルカメラは情報は有しても統合情報は有しない。統合情報を有するのはその画素出力である写真からネコ(という意識)を得る人間である。人間が写真に見るのは画素の集合ではなくネコである。人間は写真から意識すなわち統合情報を得る。
 意識は前述の議論で示したとおり自己生成する。たとえば写真にネコを見出した人の意識は、そこからその人のニューロン回路の複合性にしたがってネコにまつわるさまざまな意識を自己生成する。Tononi2012, p.135)は「意味は意識に他ならない(that there is no meaning without consciousness and that, in a fundamental sense, consciousness and meaning are one and the same thing)とまで述べるが、ある事態からさまざまな意識が連動的(coherent)に展開する事態を私たちは一般に「意味がわかる」と呼んでいることからすれば、この主張も十分うなづける。だが私たちは通常、意識をもっているすべての時間が意味にみちていると考えない。ただのぼんやりとした意識もあるが、それは、意味の到来と共に突然にさまざまなつながりをもつ数多の意識を生み出すようになる。そのような私たちの日常感覚的語法からすれば、「意味とは、意識自体に格段の連動的発展をもたらす意識である」と定義する方が合理的だろう。さらに述べるなら、私たちが「意味がわからない」と言う時は、現在の意識の状態が未来のどのような意識の状態につながるか、また、過去のどのような意識の状態に由来しているのかについて、まったく「見通し」がもてない状態の表現であると解釈できる。この用法からすれば、意味を「(意識における)見通し」と言い換えることも可能である。
 以上の議論をまとめると次の関係がなりたつ。

情報⊃統合情報=意識⊇意味

このような関係性に基づき、本論は意味を「意識に格段の連動的変化をもたらす意識の特殊形態」と定義する。


4 英語教育における意味の拡充
 
 本論の結論部として、ここでは新しい意味概念を総括し、現在矮小化されてしまっている英語表現の意味と英語教育の意味の再生について語る。

4.1 新しい意味概念
 近代社会に組み込まれた意味の通説である客観主義者的意味論は、意味を「客観的に記述できる確定的で静態的な対象」としてとらえていた。これに対して本論で得られた新しい意味概念は、意味を「客観的に記述できる物理機構における動態的過程から生じる主観的経験であり、そこには現実性の確定性と可能性の不確定性が統一的に共存している」と説明する。この意味概念を三点に整理しなおせば次のように意味を説明できる。
1  意味の客観性と主観性:意味は、客観的実在物上での主観的経験である。
2  意味の確定性と不確定性:意味の経験では、現実性の確定性と可能性の不確定性が統一的に共存している。
3  意味の動態性:意味は、動態的過程として常に連動的に発展する。

4.2 英語表現の意味
 この新しい意味概念からすれば、英語表現の意味は、「理解者の自己生成として主観的に経験されること」となるだろう。意味は理解者の内的な「見通し」の変化として主観的に実感される。その「見通し」は不確定的な可能性を含んだものとして動態的に現れる。ある「見通し」から浮き上がってきた可能性を現実性の高いものとして考え始めるにつれ、別の見通しが連動的に次々と現れるため、意味による意識の自己生成、つまりは「見通し」の変化を静態的に確定することはできない。
 そうなると、意味理解を客観テストの唯一の正解選択肢の選択だけで判断するのは、およそ粗雑な方法であり、そればかりが意味理解とされるなら意味を歪めることにつながるだろう。客観テストはせいぜいもって便宜上の簡便な手段であり、「客観的」や「科学的」といったことばの浅薄な理解でもって過剰な権威や権力を帯びるべきものではない。現在「客観テスト」と呼ばれているテストの「客観性」や「科学性」を多面的に理解し、テストが不可避的にもつ権力性に留意しなければ、客観テストの浸透につれて、英語教育の学びにおける意味の矮小化はますます進行するであろう。
 本来、言語表現の意味理解は、一元的客観性でなく多元的客観性で吟味される。ある発言の意味は、一人で吟味する場合でも複数の視点・観点から吟味されるし、多くの場合はその発言に接した複数の人間の語り合いによってさらに多くの視点・観点から吟味される(アレント, 2015)。意味理解が一義的に定まるのは、ビジネスの発注書などの定型的発言だけであり、経済活動の場でも政治活動の場でも社交の場でも文芸の場でも、一つの発言は多くの可能性を帯びたものとして現れ、その意味は不確定性と動態性を帯びながら各人の意識の中で主観的に経験される。その不確定的・動態的・主観的な意味理解の妥当性を検討するのは、アレントが言うように、複数の人々に開かれた場での対等な語り合いである。英語教育が、客観テスト対応に追われてこの現実を忘れ続けるならば、英語教育はことばの教育としての意義を失っていくだろう。

4.3 英語教育の意味
 英語教育の成果を問われる文脈で、私たちは客観テストの点数を提示するばかりでなく、「英語教育の意味は、それを経験した個々人の自己生成の多様化と精妙化に現れる」と答えることもできるだろう。母(国)語とは異なることばでさまざまな文脈で意味を理解することを経験した者は、それだけ自らの意識を多様にそして精妙に変容させることを経験したわけである。その経験は、複合的な現実世界への適応能力につながる。ある事態の意味を一義的・固定的にとらえるのではなく、可能性にみちて動態的なものとしてとらえることにより、私たちはどのような変化が到来するかわからない複合的な現代社会への適応力を高めるといえるだろう。(13)
 たしかに、英語教育の意味を「客観テスト得点=貨幣的な量」に縮減してしまうことは、議論を単純化することには役立つ。世俗の方便としてそれは必要であることは認めざるをえない。だが、それだけが英語教育の意味だとみなすことは、意味を矮小化することである。
 英語教育はことばの教育であるはずだ。それならば、英語教育界における意味の矮小化に対して、私たちは抵抗しなければならない。本論文は、理論による抵抗の一つである。


1 「成果」を「意味」と呼び替えることは、「意味」の通義、たとえば「3. 物事がある脈略の中でもつ価値。重要性。意義」(『大辞林』)などからも正当化されるであろう。言語学ではこのような定義を「意味」の議論から外すことが多いが、本論はルーマンや統合情報理論の議論と並び、このような定義の「意味」も意味理論が扱うべき領域とみなして論考を進めている。
2 20171015日に以下のURLで確認
http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/giji/__icsFiles/afieldfile/2015/03/25/1356121_02.pdf
3 ただしこの「客観性」は、数直線的客観性(一元的客観性)に過ぎず、アレントやルーマンらの考えが示唆している多元的客観性ではない(柳瀬 2017a)。
4 ちなみに「何%以上の学習者がある試験のある順序尺度や間隔尺度以上であること」といった数値目標は、たとえそれが達成されたとしても、その尺度以下でしかなかった残りの学習者のあり様を不問に付す点で、公教育としての目標設定としてはふさわしくないと考えられる。
5 本論では言語学のsemanticsが扱う狭義の意味の理論を「意味論」という用語で、semanticspragmaticsが扱う言語学的意味のみならず非言語的な現象の意味(たとえば「ある芸術作品の意味」「私の人生の意味」など)にもおよぶ広義の意味の理論を「意味理論」 theory of meaning という用語で表現している。
6 ただし "denotation" は論理学で、指示可能なすべての対象の集合を表す「外延」の意味で使われるので注意が必要。ここでは言語学での用法にしたがい、間接的・周縁的な意味の "connotation" の対語として、直接的・中心的な意味を指す用語として "denotation"を使っている。
7 さらに、現実性が指示している事態も常に明確であるというというわけではないことは、一般的な語に対して必要十分条件(定義)を与えることが著しく困難であることが示しているとおりである(ウィトゲンシュタイン)。現実性が指している事態も、「緩やかに閉ざされた領域」にある―この表現を矛盾表現として否定しない限りの表現ではあるが―。
8 自己生成システム autopoietic system は、被造システム allopoietic system)と対比的な概念である。被造システムとは、他者によって作られ、維持・発展するのにも他者の介入を必要とするシステムである。たとえば自動車は多くの部品が相互に絡み合っている高度なシステムであるが、その維持や改造には他者(人間)の手が必要であり、自動車自身が自らを維持・発展させることはない。それに対して自己生成システム、たとえば生命は、卵細胞の時点から自らが分化し脳・心臓・肺といった器官を形成して発達する。食物を外部から得てもそれを消化し低分子化してから自らの体物質として自分自身を維持・成長させる。怪我を負ったとしても(ある程度までのものなら)自らその傷を回復させ怪我した部位を再生させる。ルーマンはこの自己生成システムの論理を生命以外にも適用し、意識(心的システム)やコミュニケーション(社会的システム)も自己生成システムとして説明できるとした。
9 意識が私たちの身体を動かすのか、それとも意識は私たちの身体を動かすメカニズムが起動した後に生じているだけではないのか(リベット, 2005)という論点にはここでは立ち入らない。
10 言うまでもなく、これは情報の量(情報量)を事象の起こる確率(生起確率)で定義するシャノンの古典的な定義による考え方である。
11 この議論は最終的には汎心論 panpsychism につながり、実際Tononi & Koch2015)も汎心論を主張しているが、その議論については本論は扱わない。
12 複合性とは、あるシステム内の要素があまりに多く、要素間の組み合わせの数が莫大となっているので、システムの観察者が、要素間の組み合わせによって定まるシステムの未来の状態を正確に予測できない状態である。
13 この点からすれば「文学は実学」と言い切った日本英文学会(関東支部)(2017 の見識は評価できる。


引用文献
Edelman, G. & Tononi, G. 2001. A universe of consciousness: How matter
becomes imagination. New York: Basic Books.
Tononi, G. 2008. Consciousness as integrated information: A provisional
manifesto. Biological Bulletin. 215 3, 216-242. doi0.2307/25470707
Tononi, G. 2012. Phi: A voyage from the brain to the soul. New York: Pantheon.
Tononi, G. and Koch, C. 2015. Consciousness: Here, there and everywhere?
Philosophical Transactions of The Royal Society B. 370 1668.
doi: 10.1098/rstb.2014.0167
Lakoff, G. and Johnson, M. 1987. Women, Fire and Dangerous Things. Chicago:
University of Chicago Press
Luhmann, N. 1990. "Complexity and Meaning"  In N. Luhmann 1990 Essays
on Self-Reference. pp.80-85. New York: Columbia University Press
アレント, H.(著)、森一郎(訳)(2015. 『活動的生』東京:みすず書房.
クロスビー, A.W.著、小沢千恵子訳 2003. 『数量化革命』東京:紀伊國屋書店.
総務省 2017, July 14. 「グローバル人材育成の推進に関する政策評価<評価結果
に基づく勧告>」http://www.soumu.go.jp/main_content/000496468.pdfより取得
日本英文学会(関東支部) 2017. 『教室の英文学』 東京:研究社出版.
柳瀬陽介(2014.「学習者と教師が主体性を取り戻すために」柳瀬陽介・組田幸一郎・
奥住桂(編著)所収『英語教師は楽しい』(pp.127-140. 東京:ひつじ書房.
柳瀬陽介(2017a. 「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについ
て」『中国地区英語教育学会研究紀要』47, 83-93.
柳瀬陽介(2017b.「意味、複合性、そして応用言語学」『明海大学大学院応用言語学
研究科紀要 応用言語学研究』19, 7-17.
リベット, B. (著)下條信輔(訳) 2005. 『マインドタイム 脳と意識の時間』
東京:岩波書店.


謝辞
本論文は、科研基盤C「教師教育者・メンターの成長に関する研究―熟達者と新人の情感性と身体性に着目して―」(課題番号15K02787)の成果の一部である。



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