2016年6月28日火曜日

7/31(日)広島大学で無料公開ワークショップ:大学受験生がかかえる英語学習の悩み--予備校教師からの話題提供にもとづく対話の集い--

この度、広島大学教育学部英語教育学講座は、広島大学英語文化教育学会の行事の一環として以下の要領で無料公開ワークショップを開催することとなりました。どなたでもご自由に参加できます。事前申込は不要です。どうぞお気軽にご参加ください。


■ 題名:
大学受験生がかかえる英語学習の悩み 
--予備校教師からの話題提供にもとづく対話の集い--

■ 講師:
河野健治先生(河合塾講師)

■ 日時:
2016年7月31日(日)14時-16時

■ 場所:
広島大学教育学部K102教室
交通アクセス
キャンパスマップ

■ 開催形態:
どなたでも無料で参加できます。事前申込も必要ありません

■ 進行:
14:00:開始:趣旨説明と講師の紹介
14:05:講師による話題提供と司会による時折の質問
15:00:小グループでの意見共有と対話(全参加者が小グループで)
15:20:全体での意見共有と対話(全参加者が会場全体で)
15:50:まとめ
16:00:終了

■ 趣旨:
学習者は悩みのすべてを教師に伝えるわけではありません。塾や予備校の先生には言えても、学校の先生には言えない悩みもあるでしょう。

 そこで、今回の公開無料ワークショップは、予備校講師による話題提供と参加者全員による対話で、大学受験生の英語学習の悩みについての理解を深めます。

 最初に大学受験生(高校生・浪人生)の実態をよく知る河合塾人気講師の河野健治先生に、予備校現場から見えてくる大学受験生の悩みについての話題提供をしてもらいます。次にその話題提供にもとづいて参加者全員で対話を行います(最初に小グループでじっくり語りあった後に、全体で理解を深めます)。

 このワークショップは広島大学教育学部英語教育講座による広島大学英語文化教育学会が、特別に会員以外の皆さまにも提供するものです。英語教育にご関心のある方は、どなたでも参加できます。高校英語教師、英語塾講師、英語教師志望の学生だけでなく、当事者である予備校生や高校生、その他一般市民も歓迎いたします。もちろん参加費などは無料です。事前の申込も必要ありません。

 今回は大学受験を考える高校生の英語学習が話題の中心となるかと思いますが、英語教育の営みをより開かれたものにして、よりいっそう学習者のためになるものにするために、一人でも多くの皆さまの参加をお待ちしております。





ポスターのダウンロード(自由にご利用ください)
https://app.box.com/s/pmlac88y60cjw2uqqaishp1i6nq1e9zt




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広大教英は、優秀な学部生・大学院生を 歓迎します。
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2016年6月24日金曜日

「英語教育の基盤としての感性についての理論的整理」(学会発表スライド) 発表音声を追加しました

追記(2016/06/28)
学会発表の音声をダウンロードして聞けるようにしました。
ご興味のある方はスライドの下からダウンロードしてください。

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2016年6月25日(土)に開催される第47回中国地区英語教育学会で口頭発表をします(16:00-16:30 岡山大学教育学部5301教室)。

題目は、「英語教育の基盤としての感性についての理論的整理」です。

この発表は、現在構想している一つの研究の前半部分にあたるものです。多くの研究者が軽視・無視する「感性」は、優れた実践者が非常に重視している側面です。この発表で、感性に関する諸概念を整理して、後半部分の研究である熟練実践者の英語教育実践をその諸概念で解明しようと計画しています。

研究全体の前提としている考え方は、教育においては感性と知性と理性が統合されるべきだというものです。



図1:教育における感性・知性・理性の統合

今回の発表では、哲学のカント、神経科学のダマシオ、対話論のボームの諸概念を整理して感性に関する新しい記述言語を獲得することを目指しています。


図2:感性に関する諸概念のまとめ

下に学会で投影するスライドと配布する資料をダウンロードできるようにしました。ご興味のある方は御覧ください。


投影スライド(下向き矢印のアイコンをクリックしてダウンロード)




印刷配布レジメ(URLをクリックしてダウンロード)
https://app.box.com/s/twv0u650jsu75zt1fv2935t4cpnswidt


柳瀬の学会発表音声録音(URLをクリックしてダウンロード)
https://app.box.com/s/15b12sbwuh1gci1ctrk3nrv8s9vyl8sw
 












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2016年6月15日水曜日

ルーマン意味論に関する短いまとめ(『社会の社会』より)



以下は、ルーマンによる意味論についてのお勉強ノートの一つです。授業などで使う必要があるので、急いで掲載します。

ドイツ語原文は Niklas Luhmann (1997) Die Gesellshaft der Gesellshaft 1. Furakfurt am Main: Suhrkamp から、英語翻訳は Niklas Luhmann (translated by Rhodes Barret) (2012) Theory of Society, Volume 1. Stanford, California: Stanford University Press から引用したものです。

この本に関しては、ニクラス・ルーマン著、馬場靖雄・赤堀三郎・菅原謙・高橋徹訳 (2009) 『社会の社会 1』(法政大学出版局)というすばらしい翻訳があり、私は自分の母国語の出版文化がこのような翻訳を生み出すことを非常に誇りに思い、同時にいつもありがたく読ませていただいておりますが、下の訳は、私なりの訳出です。





意味は、現実として現れた現実性が、同時に、あふれんばかりの可能性を指示しているという形式をもっている。

・ドイツ語原文
Man kann Sinn phänomenologisch beschreiben als Verweisungsüberschuβ, der von akutuell gegebenem Sinn aus zugänglich ist.  Sinn ist danach -- und wir legen Wert auf die paradoxe Formulierung -- ein endloser, also unbestimmbarer Verweisungszusammenhang, der aber in bestimmter Weise zugänglich gemacht und reproduziert werden kann.  Man kann die Form von Sinn bezeichnen als Differenz von Akutualität und Mӧglichkeit und kann damit zugleich behaupten, daβ diese und keine andere Unterscheidung Sinn konstituiert.  (Luhmann 1997, S. 49-50)

・英訳
Meaning can be described phenomenologically as surplus reference accessible from actually given meaning.  Meaning is accordingly an infinite and hence indeterminable referential complex that can be made accessible and reproduced in a determined manner -- and I attach great importance to the paradoxical formulation.  We can describe the form of meaning as the difference between actuality and potentiality, and can therefore also assert that this and no other distinction constitutes meaning.  (Luhmann 2012, p. 21)

・拙訳
意味を現象学的に記述するなら、意味とは現実に与えられた意味によってあふれんばかりの指示が利用可能になることといえる。したがって意味とは -- ここでは逆説的な定式化が重要だ -- 限りなくそれゆえに不確定的な指示連関であるが、それは確定的なやり方で利用可能になり再生産できる不確定的な指示連関である。意味の形式は、現実性と可能性の差異と呼ぶことができる。そのことによって、他のどんな区別でもなく、この区別によって意味が構成されているのだと主張することもできる。


・解釈
意味が、現時点で顕になった意味(現実性)だけでなく、その時点では潜在的な意味(可能性)という二つの側面から構成されているという意味論は、一見したところ ‘denotation’ ( = a direct specific meaning as distinct from an implied or associated idea, Merriam-Webster, 明示的意味・文字通りの意味) ‘connotation’ ( = the suggesting of a meaning by a word apart from the thing it explicitly names or describes; something suggested by a word or thing : implication, Merriam-Webster, 含意・暗示) の二つの側面からの意味の説明という古典的な意味論と似ているようですが、ルーマンの言う「可能性」は ‘connotation’ よりもはるかに広い概念です。

  たとえば「このバラの写真」という句の意味を考えてみましょう。この句の「現実性」と ‘denotation’ については特に説明の必要がないかと思います。この句が、多くの写真の中から一枚の写真を指差している話者によって発話された時、この句の文字通りの意味は話者が指示しようとしている対象を確定します。これがこの句の「現実性」もしくは ‘denotation’であるとしましょう(と言いますより、実際のところは文字通りの意味の説明というのはきちんとやろうとすると存外に難しいのですが、それはさておき)。

  これに対して‘connotation’ (含意・暗示)は、例えば「バラ」なら「トゲがある」や「美しさで人々を惑わす」や「花の女王」などです。「写真」の含意・暗示でしたら、バラの含意・暗示以上に個人差や文化差があるでしょうが、「記念の品」や「本物ではない」などでしょうか。

  しかしルーマンのいう「可能性」はもっと莫大な意味につながってゆきます。「このバラの写真」は、そばにある「あのバラの写真」や「もっと向こうにあるバラの写真」、あるいは「このパンジーの写真」や「あの青空の写真」にも結びつきうる可能性をもっています。「バラ」は、「トゲ」や「魅惑」や「女王」だけでなく、「園芸愛好家」や「植物一般」や「動物一般」や「品種改良の歴史」などともつながり得ます。「写真」は「動画」や「押し花」だけにとどまらず、「趣味」や「芸術」や「デジタル技術」や「高額精密機械」などとの関連ももっています。

これらは無限とは言わないまでも、私たちの意味世界に数多く存在しています。ただその存在は、現時点では潜在的なものに過ぎません。聴者が「このバラの写真」という句を聞いた時は、聴者が直接的に経験している現実性は指さされた写真だけにとどまるぐらいでしょう。私たちはその句のすべての可能性をただちに想起し意識することはありません。しかしおそらくはこれらの可能性は無意識のうちに活性化されているはずです少なくとも、上記の可能性は「アインシュタインの特殊相対性理論」よりは活性化されているはずです)。このあたりは、神経科学の統合情報理論で説明すれば、より明晰に説明できるはずですが、ここでは割愛させてください。

関連記事:統合情報理論からの意味論構築の試み ―ことばと言語教育に関する基礎的考察― (学会発表スライド)
※この学会発表の論文化はこの夏は断念しました。もう少し統合情報理論を勉強し、かつルーマンという補助線を使って後日論文化したいと思っています。

英語教育の現場では、一問一答式に、英単語を問われるとその日本語訳を答える営みが「単語の勉強」や「語彙学習」と呼ばれていますが、そのような営みはルーマンのいう可能性はおろか、 ‘connotation’ (含意・暗示) までも切り捨てた営みです。

ルーマン意味論にしたがうなら、そういった「単語の勉強」や「語彙学習」は、現実性と可能性という差異の統一からかけ離れた形式をもっていますから、意味を学習しているとはいえないでしょう。意味を欠いた学習ということでしたら、とてもことばの学習とはいえません。下記の拙著で使った表現でいえば、そういった「単語の勉強」や「語彙学習」は「意味の亡骸」を暗記しているにすぎません。





ことばの意味を経験するとは、一例をあげると、この本の共著者である小泉清裕先生の実践のように、さまざまな働きかけで子どもの心をゆさぶり -- もう少し硬い表現をすれば、さまざまな働きかけで子どもの意味世界の可能性を活性化し --、その上で例えば “What color is spring for you?” と問いかけて、子どもに「っ」と考えさせ想像力を働かせることかと思います。

そういった実践を説明・解説する理論としては、このルーマンの意味論は優れていると私は考えて、私は昨年、下の講演をしました。

「意味論の比較から考える小学校英語教育のあり方」(一般社団法人「ことばの教育」主催 講演会)のスライドを公表


と、長くなりましたが、「意味の現実性と可能性が同時に示される」、あるいは「明示的な意味が暗示的な意味を引き連れて現れてくる」、さらに言い換えるなら「意味は、現時点で表に出てこない潜在的な可能性とのつながりをもってこそ意味たりえる」、つまり「暗示的な意味とのつながりを断たれた明示的な意味は、もはや意味ではない」などとまとめられるルーマンの意味論は、教育実践を考えるためには有効な意味論であると私は考えています。


意味によって、私たちが理解可能な世界 --意味世界と呼んでいいでしょうか --の一部が現実性として浮かび上がり、その背後に茫漠とその意味により喚起された可能性が隠れているという事態を直感的に図示したのが、以下の図になります。





・訳注
「現実に(与えられた意味)」の部分の “aktuell” は「現時点で(与えられた意味)」ぐらいに訳した方がわかりやすいかとも思いましたが、この語と“Akutualität” のつながりを明確にするために、「現実に」と訳出しました。
  “Mӧglichkeit” に対しては「可能性」という訳語を充て、「潜在性」とは訳しませんでした。「可能性」よりも日常語らしくない「潜在性」は、“Mӧglichkeit” よりはドイツ語の日常語らしくない “Potentialit ät” の訳語として使うことにします。



ルーマンの意味論は、せめて『社会の社会』からの引用にせよ、本来は上記の引用箇所だけでなく、もっと引用してきちんとしたまとめをするべきですが、取り急ぎお勉強ノートを作りました。おそまつ。




2016年6月2日木曜日

人間の複数性について: アレント『活動的生』より





この記事は、以前の記事である「真理よりも意味を、客観性よりも現実を: アレント『活動的生』より」( http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/blog-post_24.html ) に続くアレントに関するお勉強ノートです。

アレントにとって複数性 (Pluralität, plurality) は非常に大切な概念です。ここではその複数性についてアレントが言及している箇所を私なりに翻訳することによって考え、私なりの理解をまとめておきます。

最初にごく単純にまとめてしまえば、複数性というのは、ただ単に人間が多く存在しているということではなく、独自の個性(独自性)をもった人々が、その個性という違い(差異性)にもかかわらず同じ人間として平等性(対等性)をもちながら、他の多くの人々と共にいる (多数性) という事態を意味します。



対等性と差異性を同時に有する複数性があってこそ、語りあいも行為も可能になる。

・原文
Das Faktum menschlicher Pluralität, die grundsätzliche Bendingung des Handelns wie des Sprechens, manifestiert sich auf zweierlei Art, als Gleichheit und als Verschiedenheit. Ohne Gleichartigkeit gäbe es keine Verständigung unter Lebenden, kein Verstehen der Toten und kein Planen für eine Welt, die nicht mehr von uns, aber doch immer noch von unseresgleichen bevölkert sein wird. Ohne Verschiedenheit, das absolute Unterschiedensein jeder Person von jeder anderen, die ist, war oder sein wird, bedürfte es weder der Sprache noch des Handelns für eine Verständigung; eiine Zeichen- und Lautsprache wäre hinreichend, um einander im Notfall die allen gleichen, immer identisch bleibenden Bedürfnisse und Notdürfte anzuzeigen. (S.213)


・拙訳
語りあいと行為の根本的条件である人間の複数性という事実は、対等性と差異性という二つのあり方で姿を現す。等質性がなければ、生きている者同士で相互理解することも、死んだ者を理解することも、もはや私たち自身ではなく私たちと同じ対等な者によって生きられるはずの世界に対して計画を立てることもなくなるだろう。差異性とは、各人を現在・過去・未来のいかなる人とも絶対的に区別していることなのだが、その差異性がなければ、相互理解のための語りあいも行為も必要ではなくなるだろう。すべて等しく常に同一である欲求や用途を互いに知らせることが必要になった時にも、記号的な音声言語だけで十分であろう。


・解釈
人間の複数性は、人間は互いに「対等だが異なっている」 (gleich aber verschieden, equal but different) 、あるいは互いに「異なっているが対等である」 (verschiedenaber gleich, different but equal) という二つの一種相反するようにも思える対等性 (Gleichheit, equality) と差異性 (Verschiedenheit, difference) という二つのあり方から成り立っている。

人間が人間として平等 (gleich, equal) であると私たちが言う時、それは人間が「等質だから対等(であるべき)」 (same and (therefore) equal) ということを意味しているのではない。また、人間は「等質ではないから不平等(でもよい)」 (different and (therefore) not equal) といった人間の平等性を否定するような言説を、少なくとも近代的な人間の多くは認めない。平等性(対等性)とは、違いがあるからこそ認められるべきものである。

人間の複数性は、人間の違い(差異)を認めた上で、あえて人間を平等(対等)とみなすことからなりたっている。

このように対等性 (Gleicheit, equality) と等質性 (Gleichartigkeit, sameness) は異なる概念だが、ドイツ語を見ればわかるように、これらには重なるところもある。対等性と等質性との違いは、対等性は差異性を重んじる概念であり、等質性は差異性を軽視する概念であるとまとめられよう。

だがもちろん、対等性が差異性を重んじるといっても、それは、対等であるとされる複数の人間が質的に・種的にまったく異なる(例えば、犬と花崗岩のように異なる)ということを意味しない。人間は、それぞれの違い(差異)をもちながらも対等(平等)なのであるが、その違いは質的・種的なものではなく、人間は人間という種としてのある程度の等質性(同質性・同種性)は有している。

このように緩い意味での同質性は対等な人間にも共有されているものであるが、その緩い同質性ゆえに、人は他人と相互理解すること、過去の人物を理解すること、未来の人々のために計画を立てることができる。緩い意味での同質性を伴う対等性があってこそ人間はお互いに理解ができる。

他方、人間一人一人は異なった存在であるが、その違い(差異性)がなければ、複雑な言語など必要はなく、私たちはある物の代わりとなっているだけの記号的な言語を音声で叫ぶだけのコミュニケーションで満足していることだろう。差異性がない人間というのは、原始的な動物に過ぎず、望むこともすべて同じだろうからである。


・訳注
上でも述べたように、 "Gleichheit" "Gleichartigkeit" は、"gleich"を共有することばなので、翻訳にもその共通性が現れるようにしたかった。その点、森先生の翻訳はこれらを「同等性」と「同種性」と「同」を共有した形の訳をしており、私は読んだ瞬間「うまい訳だなぁ」と膝を叩いた。(アレントの英語版を元にしていた志水速雄氏の『人間の条件』ではこれらは「平等(性)」と「同一性」と訳されていた)。

しかし私としては、人間は「異なれども対等」という表現はしっくりきても、「異なれども同等」という表現にはどこか違和感を覚えてしまう。私は「異なれども対等」という表現を使い続けているので、"Gleichheit" には「対等性」という訳語を使いたかった。


関連記事:柳瀬陽介 (2014) 「人間と言語の全体性を回復するための実践研究」(『言語文化教育研究』第12. pp. 14-28)


そうなると "Gleichartigkeit" の訳語には「等」を入れればよいと考え、「等質性」という訳語を使うことに決定した。

なお、 "Gleichheit" "Gleichartigkeit" の違いについては、アレントが別の箇所でも書いているので、その違いについては別の記事でまとめておきたい。

また "Sprechen" は動詞を名詞扱いしている表現であり、もともと名詞である "Sprache" ではないので、「言語」とは訳さなかった。森氏も志水氏も "Sprechen" を「言論」と訳しているが、アレントは "Sprechen" が、人間の複数性を根本条件としていることを強調しているので、一人では不可能で複数の人間がいてはじめて可能になる営みを表す語として「語りあい」を選んだ。




人間の複数性には、個々人の独自性が含まれている。独自性を公然にするのは語りあいと行為である。

・原文
Im Menschen wird die Besonderheit, die er mit allem Seienden teilt, und die Verschiedenheit, die er mit allem Lebendigen teilt, zur Einzigartigkeit, und menschliche Pluralität ist eine Vielheit, die die paradoxe Eigenschaft hat, daβ jedes ihrer Glieder in seiner Art einzigartig ist.
   Sprechen und Handeln sind die Tätigkeiten, in denen diese Einzigartigkeit sich darstellt. Sprechend und handelnd unterscheiden Menschen sich aktiv voneinander, anstatt lediglich verschieden zu sein; sie sind die Modi, in denen sich das Menschsein selbst offenbart. (S.214)


・拙訳
すべての存在が有している特殊性も、すべての生き物が有している差異性も、どちらも人間においては独自性となる。人間の複数性とは、誰も人間でありながらもそれぞれのあり方で独自であるという逆説的特性をもつ多数性である。
  この独自性が姿を現す営みが語りあいと行為である。語りあいと行為により人間は、ただ単に差異を示すのではなく、お互いに能動的に己と他の区別を示す。語りあいと行為は、人間存在が己を公然にする様態である。


・解釈
存在するものはそれがなんであれ一つ一つが特殊なものであるし(特殊性)、どんな生き物もそれぞれの違い(差異)をもっている(差異性)。人間も存在するものであり生き物である以上、当然、特殊性と差異性を有しているが、人間の場合は、それらは独自性と表現されるべきであろう。

人間は、共に人間であるという共通性をもちながらも、一人ひとりが個人としての独自性を有している存在である。複数性とは、独自の個性をもつ個々人が、その独自性にもかかわらず人間として対等に複数で存在しているということを表す多数性である。

だが、この独自性も、人が何もしなければ現れていない。もちろん人間は一人ひとり固有の顔や姿を有しているが、それは上述の特殊性や差異性のレベルで表現できるものであり、人間の独自性とは言いがたい。人間が自らの独自性を示すのは、語りと行為である(語り (Sprechen) と行為 (Handeln) については後日、稿を改めてまとめたい)。


・訳注
「特殊性」と「独自性」については、比較的平明な日本語表現を選んだつもりである。「公然」は "offenbart"であり、"Offentlichkeit" (「公共性」) とのつながりを示すために、「公」という字を含む訳語として「公然」を選んだ。