2014年12月30日火曜日

柳瀬陽介 (2014) 「人間と言語の全体性を回復するための実践研究」(『言語文化教育研究』第12巻. pp. 14-28)



先日、言語文化教育研究学会の『言語文化教育研究』(特集「実践研究の新しい地平」)に拙論を掲載していただけました。この拙論は、私の2014年前半に考えたことのほぼすべてを集約したものです。もしよろしかったら、他の論文と共に拙論もお読みください。



『言語文化教育研究』第12巻
特集「実践研究の新しい地平」
http://alce.jp/journal/vol12.html



柳瀬陽介 (2014, pp. 14-28)
「人間と言語の全体性を回復するための実践研究」
http://alce.jp/journal/dat/v12g.pdf


概要
本稿は言語教育における実践研究のあり方について,「人間と言語の全体性を回復する」という観点からの論考を行う。この論考を行う背景には,近年の言語教育が,近代の合理主義,資本主義的生産体制,そして言語学などが前提としている認識論に対してあまりにも無自覚的・無批判的であるあまり,人間と言語の存在と機能の一部ばかりに偏向しているのではないかという懸念がある。その偏りによる歪みを正し,人間と言語の全体性を回復することは,言語教育の目的のために必要なことであるが,それと同時に実践研究での言語使用においても私たちは人間と言語の全体性を回復しなければならないと本稿は主張する。回復のためには,「からだ・こころ・あたま」,および「外界・内界」のどの領域においてもことばが自由に使用され,かつ実践者が,学習者・(仮想)共同研究者・自らの無意識との対等な権力関係を構築するべきという論考を本稿は展開する。




この学会誌に、ある程度の字数を許していただき書かせていただけたことは、私にとって、ひつじ書房様に『英語教師は楽しい―迷い始めたあなたのための教師の語り』を発刊していただいたことと並んでの2014年度の大きな知的収穫でした。

とはいえ、私はこの学会に依頼されている仕事を一つまだ終えていないので、今はまだ恩を仇で返していることになります。本来は、その仕事を終えてからこれを掲載しようと思っていたのですが、今年もあと一日となり、それもほぼ無理となりましたので、恥ずかしながら拙論の掲載告知だけをさせていただきます。

この件に限らず、今年は1-3月の不調から回復したのも束の間、4月からの行政仕事負担で無理をしたせいか、6月末に二度目(ひょっとしたら三度目)のおたふく風邪に罹患し、多くの皆様に御迷惑をおかけしました。10月ぐらいからほぼ調子も戻ってきたのですが、無理をしないことを第一にしたため、これまた多くの方に非礼・無礼・不義理をし、かつご迷惑をおかけしたままになりました。この場をお借りしてお詫び申し上げます。

2015年が皆様にとってよい年でありますように。



追記 (2015/01/20)

ある親切な読者からの指摘で、以下の誤植が判明しましたので、ここに訂正します。

p 23 左側 下から4行目

誤 「通俗的あるいは批判的な判断を提示して」

正 「通俗的あるいは批判的な判断を停止して」

2014年12月15日月曜日

院生MT君による国際表現言語学会と質的心理学会の報告



完全に親バカ的な発言になりますが、最近、どんどん伸びてきているし、勉強が楽しいと言ってくれる院生が増えているのでので、教師としては本当に嬉しいです。

以下は、そんな一人のMT君のブログ記事のURLとその内容の一部です。私はゼミの方針の一つとして「どんどん外に出て、さまざまな学会・研究会に参加せよ。『英語教育学』といった狭い共同体に留まるな」ということを言い続けていますが、彼は、素直にその言葉に従って、いろいろな学びをしてくれています(彼は私と共に、広大総合科学部の先生が主催するルーマンの読書会にも参加しています)。もしよかったら彼のブログの記事をお読み下さい。



第6回国際表現言語学会に参加して

■ 議論で出た主な要点

・今日グローバル人材やリーダーシップの育成を目標に掲げた教育がなされているが、今の子たちにはどのような英語力が求められるかという議論が抜けた状態で進んでいるようである。

→まさにそのとおりだと思いました。「グローバル人材」「コミュニケーション能力」といった言葉が独り歩きしている感じは否めず、これらの概念の意味することをまずは議論する必要があるはずです。そして、一部のリーダーを育てるエリート教育ではない「公」教育として、英語教育で育成すべき能力を議論する必要があるでしょう。この点は、4人組の講演会でも同様に議論されていました。

■ 劇化の可能性

しかし、演劇を英語授業で取り入れるにはなかなか時間がなく、プロの先生にワークショップをやってもらうことが必ずしも可能でないかもしれません。そこで、英語授業で取り入れるには、教科書の「劇化」が有効かもしれません。「劇化」は、教科書のダイアログを実際に演じてみることで、キャラクターの視線や発話時の感情、場面などを推論する必要が前景化し、表面的な理解にとどまらない解釈を必要とします。また、実際に演じてみることで、五感を使ってテキストを体験することができ、身体をともなった理解に通じるかもしれません。(ああ、ここらへんの言葉使いが浮付いている気が・・・。この点は、また(3) で述べます。)





第11回質的心理学会に参加して


■ 分析手法は現象が教えてくれる

私が昨年質的研究に関する勉強をしていたとき、「この通りに分析すればよい」という決まった手順があまり示されておらず、途方にくれた経験がある。これについて、西村ユミ先生 (首都大学東京) は、質的研究に定まった分析手順はなく、現場の特徴が分析の視点を示すと言う。もし現象の様式が会話であれば会話分析を使うだろうし、あまり理論化されていないものであれば*GTAを用いて理論生成を試みたりエスノグラフィー的な詳細記述をしたりするだろう。分析者が「今回はGTAを用いて行おう」というつもりで現場に行ってしまうと、既に先入見がついた状態で現象を見ることになってしまうかもしれない。なるべく現象を観察した後に適する分析手法を選択することが良いだろう。


■ 語りの内容のみならず、語られ方に注目せよ。

桜井厚先生 (立教大学) によれば、従来のライフヒストリー研究では口述のデータの信憑性は低く、主観的なものとされてきた。それに対して、ナラティヴ・ターン以降、ライフストーリー概念が浸透し、語られること (what is narrated) に着目されるようになった。それによって個人の語りにも注目されるようになってきた。

 しかし、先生によれば語られる内容のみならず、どう語られるか (how what is narrated is narrated) も着目する必要がある。たとえば言葉の使い方が特徴的なものがあれば、その人のこだわりが現れているかもしれない。あるいは語りのプロット (語る際の順番など) も、ある共同体では共有されるものがあるかもしれず、その語られ方も文脈として分析に入れることで、より豊かな分析が可能となる。他にも語る際の表情やイントネーション、沈黙の長さなども気づく限りできるだけメモすると良い。

 語り手は語ることに対して意識的になることはある。しかし、語り方にまで意識を向けることは少なく、前意識的 (無意識的) に語り方を調整していることもある。したがって、「あなたはいつも○○の話を最初にしますよね」とか「△△の話をしているとき、表情が豊かになりますね」などの分析は、本人も気づいていないこともあるらしい。(「なるほど、言われて見れば確かに!」と語り手が驚くケースも。)


1/26(月)に広島大学でIcy Lee教授が "Responding to Student Writing in EFL Classrooms"の無料講演 (要申込)




広島大学のホームページでもすでに広報していますが広島大学教育学研究科英語文化教育学講座は、この度広島大学ライティングセンターと共に、下記の無料セミナーを開催します。

第二言語ライティングに関して国際的な活躍をしている講師と指定討論者を迎えての豪華なセミナーです。皆様お誘い合わせの上、ぜひお越しください(下の申込フォーマットでの申込が必須です)。







■ タイトル
Responding to Student Writing in EFL Classrooms : Research Insights and Implications

■ 使用言語
英語(通訳はありません)

■ 日時
2015年1月26日(月) 16:30~18:00

■ 会場
広島大学中央図書館1F ライブラリーホール (広大キャンパス地図

■ 講師
Icy Lee 教授 (The Chinese University of Hong Kong)(大学HP

■ 指定討論者
佐々木みゆき教授(名古屋市立大学)(HP

申込(必須)



■ 主催
広島大学教育学研究科英語文化教育学講座 および 広島大学ライティングセンター

■ 問合せ先
柳瀬陽介(教育学研究科 英語文化教育学講座)
E-mail: yosuke@hiroshima-u.ac.jp