2014年7月15日火曜日

8/24(日)に広島大学東京オフィスで高等学校教員のための指導力向上セミナーを開催。英語分科会では、現実的な話題について実験的な方法で探究します。ぜひお越しください。



広島大学教育学研究科は社会貢献の一つとして、「高等学校教員のための指導力向上セミナー」をこれまで4回開催してきましたが、この8月24日(日)に、広島大学東京オフィス (JR田町駅(芝浦口)下車徒歩1分) で、第5回目のセミナーを開催することとなりました。




広島大学HP
2014年度高等学校教員のための指導力向上セミナーのご案内

http://www.hiroshima-u.ac.jp/news/show/id/20485




詳しい内容などは、上記のURLをクリックしていただきたいのですが、概略を言いますと、今年は午前中に、今後の指導要領のあり方を巡る講演(長尾篤志先生(文部科学省初等中等教育局視学官)・森敏昭先生(広島大学大学院教育学研究科教授))を行い、午後には三つの分科会(数学・美術・英語)に分かれてセッションを行います。

参加費は無料です。ぜひお誘い合わせの上、下記の受付サイトから申込を行っていただければ幸いです。



8/24  高等学校教員のための指導力向上セミナー
専用受付サイト
http://goo.gl/LNu5gG




英語分科会においては、次のことを目指します。

・「授業は英語で」や「自分なりの授業パターンを作る」といった現実的な話題

・新人教師と中堅教師の当事者(第一者)としての実際の語りと、

・教師教育者からのインタビュアー(第二者)として問いかけを通じて探究し、

聴衆(第三者)とのコミュニケーションを行い、当事者の知見を客観化する。


もしこのように自負することが許されるならば、今回の分科会は、「現実的な話題について実験的な方法論で探究する試み」と称することができるかもしれません。

二人の現場教師の事例報告を2時間10分かけて検討しますから、じっくりと考え語り合うことができるかとも思っています。

皆様のご来場を心よりお待ち申し上げます。セミナーの名称は「高等学校教員のための」とありますが、英語教師を目指す学生さんや、日本語教育関係の方々、その他、ご興味のある方などすべて歓迎いたしますので ―このセミナーの目的は大学としての社会貢献です―、どうぞお早めにお申込みください。


以下は、予稿資料です。









試行錯誤しながらの英語授業実践
‐新人教師と中堅教師の事例‐



司会・第二質問者:柳瀬陽介(広島大学大学院教育学研究科)
第一発表者:豊永彩佳(神奈川県立瀬谷西高等学校)
第一質問者:樫葉みつ子(広島大学大学院教育学研究科)
第二発表者:組田幸一郎(千葉県立成田北高校)




■ 目的

この分科会では、必ずしも良好とは言えない環境の中で ―例えば前の記事教育現場で「よく観察し、よく考える」ことをお読み下さい― 、変革を迫られ続けている英語教師が、心身の健康を保ちながら英語教師として成長するための経験の積み方を探究することを目指します。

英語教師としての将来に不安を感じている教員志望者、自らの苦難を打開しようとする新人教師、英語教育の改革の波に対応しようとする中堅教師、同僚教師の支援を目指す熟練教師・教育行政者、質的研究により教師の実態を解明し英語教育の改善を目指す研究者などの皆様のご来場をお待ちしております。



■ 背景

教師、とりわけ英語教師をめぐる状況は、とても優雅なものとは言えません。まず、日本の教師の現状を理解するために、OECD国際教員指導環境調査 (The OECD Teaching and Learning International Survey: TALIS)の2013年度版結果報告を見ますと、次のようなことがわかってきます。

(1) 教師あたりの生徒数:教師一人あたりが抱える生徒数は、チリ(23.4名)と日本(23.3名)がOECD参加国で最多で、平均の12.4名を大きく上回る。

(2) 学級あたりの生徒数:学級あたりの生徒数では、日本は、シンガポール、メキシコ、韓国、チリの次に多く、これも平均の24.1名を大きく上回っている。

(3) 総労働時間:教師の一週間学校での労働時間(Including teaching, planning lessons, marking, collaborating with other teachers, participating in staff meetings and other tasks related to the teacher's job at the school)は、日本が53.9時間(週5日で割ると10.8時間)でOECD参加国中最多で、これも平均38.3時間(週5日で割ると7.7時間)を大きく上回る。

(4)教える時間の割合:総労働時間のうちで実際に授業をしている時間の割合では、日本が32.8%で参加国中最低(平均は50.5%)。

(5) 授業準備時間の割合:学校の内と外で授業準備にかける時間(Hours spent on individual planning or preparation of lessons either at school or out of school)を、総労働時間で割ったら32.8%で参加国中最低(平均は50.5%)。

(6) 授業準備時間の絶対量:学校内外で授業準備にかける時間の絶対量は、クロアチアの9.7時間に次いで日本が8.7時間で第二位。ちなみに平均は7.1時間。つまり、日本の教師はよく授業準備をしているが、それでも総労働時間があまりにも多いので(5)の授業準備時間の割合が参加国中最低になっていると考えられる。

(7) 採点や添削時間の割合:総労働時間の中で、生徒の提出物を採点や添削した時間の割合は、日本が8.5%で参加国中最低(平均は12.8%)。ちなみに割合でなく時間の絶対量では、日本は4.6時間で、平均の4.9時間を少し下回る程度。

(8) 保護者とのコミュニケーションをする時間の割合:総労働時間の中で、保護者とのコミュニケーションをする時間の割合は、日本は2.4%でクロアチアと並んで下から2位(平均は4.1%)。ちなみにこの時間の絶対量は1.3時間で、平均の1.6時間を少し下回る程度。

(9) 事務仕事の時間量:事務仕事の時間(Hours spent on general administrative work (including communication, paperwork, and other clerical duties you undertake in your job as a teacher))は、韓国(6.0時間)、マレーシア(5.7時間)に次いで、日本は3位(5.5時間)で、平均の2.9時間を大きく上回る。ちなみに、事務仕事時間が総労働時間で占める割合を見ても、日本(10.2%)は平均(7.6%)より高い。

(10) 部活動指導に費やす時間:日本は7.7時間でダントツの1位(平均は2.1時間)。ちなみに、この時間を学校内総労働時間で割っても、日本は14.2%で1位(平均は5.5%)。

(11) 「教職は社会の中で敬意を持たれていると思う」( I think that the teaching profession is valued in society.)に対して、4件法で肯定(strongly agree, agree)を示した割合は、日本は平均以下。ちなみにその他のアジア国はすべて平均以上。

(12) 「自分の仕事に総じて満足している」(All in all, I am satisfied with my job)に対して、4件法で肯定(strongly agree, agree)を示した割合は、日本は85.1%で、平均の91.2%を下回る。


以上をまとめますと、以下のようになるかと思います。

日本の教師は、多くの生徒と多くの事務仕事を抱えながら、OECD参加国で最も長い時間働いているし、長い時間をかけて授業準備をしている。だが、部活動指導に費やす時間が非常に長く、それだけ、授業をする時間・採点や添削をする時間・保護者とコミュニケーションする時間の割合が少なくなってしまっているし、それらにこれ以上の時間を割くことができないと考えられる。また、教職に対する社会の敬意や、仕事に対する自らの満足度は平均以下となっている。


また、(1)~(12)の結果を図示したものは、以下からダウンロードできるようにしました。((11)の図はTALISからそのまま引用したもので、その他の図はTALISの表データを柳瀬がグラフ化したものです。







次に、日本の英語教師をめぐる状況ですが、英語ほど外からの改革を要求されている教科はなく、その否定的な側面は、大津・江利川・斎藤・鳥飼(2013)や江利川・斎藤・鳥飼・大津(2014)などがまとめている通りですので、ここでは詳述を割愛します。



■ 方法

こういった状況で、英語教師が授業改善を中心として英語教師として成長し、生徒と社会の未来に貢献するには、長期的な戦略と短期的な戦略の両方が必要だと思われます。

長期的な戦略は、教師の労働時間の削減で、それには部活指導と事務仕事を減らすことが必要となるでしょう。ですが、部活指導に関しては長年の教師文化が、事務仕事に関しては近年加速する管理体制が障壁となるかもしれません。

短期的な戦略としては、時間があまり割けない中でもできる自己研修の方法を充実させることが考えられます。樫葉と柳瀬はこれまで、教師自身によるリフレクション(およびメンターとの対話)について研究を重ねてきましたが、この分科会では、新機軸として、新人教師と中堅教師がそれぞれ自分のこれまでをまとめた発表を聞き、それに対して聴衆の前で対話を重ねることで、新たに見えてくることはないかを探究してゆきます。新人教師と中堅教師が掲げるテーマは、次のページ以降に示されているように、「 “授業は英語で” への対応」、「自分なりの授業パターンを作り上げてゆく」といった具体的・現実的なものです。

その対話の際に、柳瀬が考えている方法論は、カウンセリングにおけるカウンセラーや当事者研究における「第二者」の聴き方であり、教師が語る内容についての通俗的な判断や価値付けを一時停止して(一種の「エポケー」)、なぜ・どのようにしてそのような語りが生じたのかを、教師が自ら発見することを促すことを目指します。

聴衆がいる前で、このような対話を行うことは、実験的なやり方ですが、聴衆という「第三者」を意識しながら、教師という「第一者」の理解を、第三者にも通じるように「第二者」としてなすべきことをなすという実験的試行は、当事者間だけの理解にとどまりがちなリフレクションなどを「研究」として進化させることにつながるのではないかと考えています。

また、当日は聴衆の皆様との質疑応答・討論の時間をできるだけ取りたいと思っています。この分科会を充実した時間にしたいので、皆様のご来場をお待ちしております。



参考文献

江利川・斎藤・鳥飼・大津・内田 (2014) 『学校英語教育は何のため?』 ひつじ書房 大津・江利川・斎藤・鳥飼 (2013) 『英語教育、迫り来る破綻』 ひつじ書房
樫葉・上山・山本・柳瀬 (2013) 「英語教師が自らの実践を書くということ(1) ―日本語/公開ライティングと英語/非公開ライティングの事例から― 」『中国地区英語教育学会研究紀要』43号 pp.61-70.
樫葉・大塚・坂本・柳瀬 (2014) 「英語教師が自らの実践を書くということ(2) 中高英語教師が自らの実践を公刊することについて」『中国地区英語教育学会研究紀要』44号 pp.97-106.
柳瀬 (2014) 「人間と言語の全体性を回復するための実践研究」言語文化教育研究会 シンポジウム 「言語教育の目的と実践研究」での発表資料(http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/02/315.html
柳瀬 (2014) 「『客観性』を問い直し、量的研究の『客観主義』を乗り越える」 JACET中部支部大会シンポジウム「第二言語習得論からみた大学英語教育-量的アプローチと質的アプローチの共存-」での発表資料(http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/06/blog-post.html






生徒の「英語を使う力」向上を目指して
‐“授業は英語で”の視点から‐



豊永彩佳
(神奈川県立瀬谷西高等学校)




1. はじめに

 生徒数が年々減少する現在、神奈川県においては、県立高校入学者の全入化・低学力化が課題の一つとなっている。勤務校もその例外でなく、生徒の中にはアルファベットのbとdの区別が付けられない者もいる。授業を静かに聞くものの、授業に希望を持てず暗い表情をした生徒たちが多い中、いかにして授業に向かせ、英語を使う力を向上させるかが本校の課題である。  

 興味深いのは、英語を苦手とする生徒が多い一方で、そのほとんどは「英語が使えるようになりたい」という思いを持っていることだ。たとえば、「海外に行きたい」、「外国人とおしゃべりができたらかっこいい」など、生徒たちは実に素朴な思いをアンケートに書く。設備やプログラムの整う私立高校ではなく、公立高校を選択した生徒たちに、日頃の授業の中で可能な限り「英語を使う力」をつけてあげられないか???そのための授業の方策を探った。  

「授業は英語で」の方針が打ち出され、施行されて1年が経つ。教師側が積極的に英語を用い生徒に働きかけることで、英語はやりとりの道具として意識され、英語を聞いたり話したりする機会が増える。もし授業が、英語を使える場として機能するのであれば、「授業は英語で」行う意義は大きい。そこで、担当する本校の1学年の対象として、英語での授業の有効性を検討した。1学年の4月~7月の四半期においては、英語を苦手とする生徒が多いことを鑑みて、運用能力の下支えとなる学習意欲を向上することに焦点を当てることとした。



2. 仮説(リサーチ・クエスチョン)

「英語で授業を行えば、生徒の学習意欲が向上するのではないか。



3. 実践の概要(英語での授業について)

・1時間の授業の流れとともに指示で用いる英語の固定化

・生徒に内容を伝えることを目的としたteacher’s small talk

・生徒の言いたいこと・つぶやきの積極的な英語への変換

・授業内ルールを周知徹底(英語を使う環境の整備)




4. 結果および課題

〇英語の授業への抵抗感が低くなり、学習意欲の向上に結び付いた生徒がいたこと

〇教師の発話のインプットを受け、英語への気づきが生まれていること

主には以上の2点を得ることができた。しかし、学習意欲の向上は十分ではなかった。再度英語での授業の在り方について見直すとともに、意欲の向上が見られなかった生徒への具体的な働きかけを検討する。また、全体として学習意欲を伸ばしながら、英語を使う力がどの程度比例して伸びるかについて検証したい。









自分なりの授業パターンを作り上げていく



組田幸一郎
     (千葉県立成田北高校)




 「かには甲羅に似せて穴を掘る」という諺は「教師は自分の英語の理解に似せて授業を作る」と応用ができるのではないだろうか。自分が教科書の英文をどのように理解し、その英文をどのように定着していくかということを意識して授業は作り上げられていく。いかにリスニングをし、単語を覚え、読解をし、音読を行うかなどを具体的に作りあげたものが授業のベースになる。  

 新人教師と呼ばれているときには、授業をどのように進めていくのかがなかなか定まらない。自分のことを思い返すと、学校の仕事に慣れなかったり、新人ということで多くの仕事が回ってきたりして、授業作りに集中できないという事情も確かにあった。しかしそれだけではく、教師になるまでは、英語を勉強していたものの、自分がどのように英語を理解するかというメタ認知を働かせる機会がなかったということもあった。そのため、何を意識して授業を組み立てるかに悩む=授業の進め方がなかなか定まらなかった。これは授業を意識的に考える経験を重ねることで、授業の進め方のパターン化=自分の英語理解の客観視が可能になっていく。これは、「出汁」といえる部分である。

 次に、どのように生徒に授業内容を定着させたり、英語力を伸ばしたりするか、という課題を持つようになる。これは、自分の英語理解・英語力上昇の方法をなぞるだけではうまくいかない。教師は一定の年齢に達しているし、英語力もあるが、生徒はまだ若いし、英語力もまだまだである。モチベーションも、教師よりも低いことが多い。教師にとっての英語は「そのもの」だが、生徒にとっての英語は多くの教科のうちに1つにすぎない。これらの事情を踏まえて、授業を組み立て方や、授業への「惹きつけ方」を意識して、授業を作り上げていく。これは「(英語)教師力」とも呼ばれるもので、生徒の状況を客観的に理解する必要があるだけでなく、授業以外での生徒とのコミュニケーションも大切になってくる。これは生徒の英語力アップとともに変わっていく部分で、「味付け」といえる部分である。  

 毎時間、授業のパターンを変えていくことは、教師にとっても、生徒にとっても辛いことだ。授業の「出汁」がしっかりとしていれば授業は一定のパターン化ができる。そして「味付け」を徐々に深化させることで、授業に刺激が与えられ、生徒はさらなる高みを目指すことができる。このようにすると、教材研究を効率的に行えるだけでなく、深みのある授業ができるのではないだろうか。













高等学校教員のための指導力向上セミナー
 (8/24(日) 広島大学東京オフィス(JR田町駅芝浦口下車1分))
専用受付サイト
(お申し込みはお早めに)

http://goo.gl/LNu5gG








2014年7月13日日曜日

教育現場で「よく観察し、よく考える」こと



以下は、私が最近あるところで出会った方から寄せられた文章です。この方は、数年前に定年退職をされた元英語教師で、私がある機会に述べた「よく観察し、よく考える」ことの重要性に反応され、「それはその通りだが、時に恐ろしいほど困難である」と述べて、後日、この文章をわざわざ私に送ってくださいました。



英語教師を目指す若い方々にはショッキングな文章かもしれませんが、これも英語教育の現実の一部ですから、このブログに掲載します。文章は、些細な箇所の変更以外は、すべて原文通りです。




「よく観察し、よく考える」


「よく観察し、よく考える」ことを教育現場でしようとすると、大変な困難と苦痛をともなうことがあります。

次の文章は私の経験を述べたものです。15年以上も前のことであり、思い違いや記憶違いもあると思います。また、くれぐれも誤解しないでいただきたいことは、以下に述べる文章の目的は、私が勤務した学校の生徒や教職員を悪く言いたいのではありません。私にとって、大変厳しい職場でしたが、その中で私なりにどのようにして自分に降りかかってきた問題を解決しようとしたのか、それがこれから教員になる人、私が経験したのと同じようなことで日々苦労されている先生方に、少しでも参考になればと思うのです。



1 衝撃的な体験

 もう15年以上も前のことです。教員になってすでに20年以上も経ち、少しぐらい問題のある学校に行っても、自分はなんとかやっていけるだろうと思っていました。ところが、ある高校に赴任して驚きました。授業中、まったくと言っていいほど秩序がありませんでした。(少なくとも私にはそのように見えました。)

 初めの授業に行って驚きました。生徒が教科書を持っていないのです。「教科書は持っていないのか」と近くの生徒に尋ねると、「教科書なんかいらないから買っていない。」  

「えー、今まで先生は、授業はどうしたんだ。」と尋ねると、それまで教員が毎回授業のためにプリントを作成して持ってきて、それに書き込んでいたらしいことが分かりました。「じゃー、ノートは」「そんなもの持っているわけがないだろう。」半信半疑で、職員室に帰り、先生方に尋ねると、「そうなんです。ほとんど生徒は教科書を買わないので、しかたなく教員がプリントを作って授業をするのです。教科書を買うために保護者からもらったお金は、すぐにこずかいになってしまいます。」

 仕方なく私も授業プリントを作ることにしました。



2 授業を始めて、さらに驚いたこと  

 4月の始め頃のことでした。授業を始めようと思っても、まだ10時前なのに、弁当を平然と食べている者、教室の後ろでボール投げをして遊んでいる生徒、テレビゲームに夢中になっている生徒、携帯電話で大声で話している生徒、ヘッドホンで夢中になって音楽を聴いている生徒がほとんどです。席に座っている生徒の方が少数でした。 全部のクラスが全員が次のような訳ではないのですが、いつから授業が始まり、いつ授業が終わるのかそれすらはっきりしないようなクラスがあったのです。特に昼前の授業では、「喉が渇いたな、ジュースを買いに行こうか」と誰かが言い出すと、私が制止しても、まったくと言っていいほど意に介さず、多い時は10人ぐらいが教室から出ていきます。それが事実上授業の終わりになるのです。こんなことが何度かあったのです。

このような中で授業をしようとして途方にくれました。まず、教室にいる生徒に、席に着くようにと、大声で注意をして、自分の席に座るようにしました。先ほど述べたように、私は、授業で使うプリントを4から5枚ホッチキスで止めて配布し、授業中は黒板に書いて、プリントに空欄にした(  )の中に、その答え書き込みをさせました。そして、名前を書かせ、授業が終わると毎回回収しました。そして次の時間にまたそのプリントを個人個人に手渡ししました。そうしないとすぐにそのプリントはゴミ箱に捨てられてしまうのです。

 4月の下旬のころでした。そんなクラスで授業中に、大きな音がヘッドフォンから漏れてくるので、ヘッドフォンを外させ、音楽を止めさせようと思い、肩をかるくたたいて、注意しました。怒るように注意したのではなく、「そのヘッドフォンはずしてくれないか、そして音楽をかけるのをやめてくれないか」と私は丁寧に言ったのでした。そうすると、いきなり手に持っていたシャープペンシルを私の右手の親指のつけねあたりに、おもいきり刺してきたのです。チカットした痛みを感じましたが、それ以上に私は大変なショックであり、私はとても授業を続ける気になれず、保健室に手を見てもらいに、教室から出て行きました。

 あまりにショックで、校長に話に行くと「今日は、授業をしなくてよい。帰って休養しなさい。」と言われました。



3 「小守りをして月給をもらうと思えばそれで良いのだ。何も考えるな。」

 そんな中、私は現状をなんとかしたいと思い、いろんな教員に私は話しに行きました。私の相談に返ってきた答えは意外な答えでした。私の質問に困惑気味に「そうなんです、私も困っているんですが、どうしようもないのです」というのは、まだまともなこたえでした。驚いたのは、「小守りをして月給をもらうと思えば良いのだ、だから、英語を教えようなどと考えるのをやめたらいいんだ。何も考えるな。朝が来れば、また夜が来る、そんなふうに思えば一日一日が過ぎていく」という答えでした。「えー、そんな、それでいいのでしょうか」「○○さん、そんな風に思うようにしないと、この学校は勤まりませんよ。」  

しかし、それは現実からの逃避であり、教育者として「腐敗」と「堕落」以外の何物でもないと思いました。(しばらく後になって知ったのですが、このような厳しい中でも、自分なりにこのような状態をなんとか改善しようと取り組んでいる先生方も何人もおられました。)しかし、そうでも思わないと気持ちの冷静さを保てない現実も事実でした。(少なくとも、その時の私にはそのように思えたのです。)私と同じ時に異動になった50代半ばの優しい男性教員は、どんなことがあったのか知りませんが、4月いっぱいで休職され、その後も学校に復帰することはありませんでした。  

 

4 人間としての尊厳、教師としての尊厳

 フランクル著の『夜と霧』という本があります。ユダヤ人であるために、強制収容所に入れられ、いつガス室に送られ虐殺されるかも知れないという環境の中で、人々はいったいどんなふうに振舞うのか、その中で人々はどんな心理状態になるのか、克明に述べてあります。そのような中で、哲学者として必死になって「自分の生きる意味」を考えたのがフランクルです。  

フランクルが見た収容所にいる人は、絶望を通り越し、まるで魂の抜けた、もぬけの殻のようになった「ゾンビ」のような人の姿でした。つまり、余りの苦痛のために、考えることを止め、悩むことを止め、自分を絶望感から守るために「無感動」「無表情」になっている人々でした。ある日フランクルは、朝わずかばかりの食事を、いっしょに食べた自分の仲間が、昼過ぎには死に絶えてしまい、その亡骸が収容所の役人によって運ばれる姿を見ました。そして彼は「ハッと」なり驚いたのです。今朝までいっしょだった同じ収容所の仲間が、亡くなっても、まったく何も感じない自分に驚いたのです。つまり、フランクル自信もいくらか「ゾンビ」のような精神状態になっていたのです。ここからフランクルの「生きる意味」に対する本格的な思索が始まりました。

 私が聞いた「何も考えるな」という同僚の言葉は、このような状態になることを思い出させてくれました。「夜と霧」は持っていましたが、ほとんど読んでいませんでした。そこで私は一度丁寧に読み直してみました。  

 この本を読んで、私は次のような強烈なメッセージを受けとめました。「どんなに苦しくても、その現実を避けてはいけない。現実を直視しなければならない。今こんな状況の中で、果たして生きることにどんな意味があるのかを問うのではなく、逆にその苦しみが自分に何を伝えようとしているのかを問いなさい。人間として生きてきた以上、生きることに何らかの使命があるはずです。自分の生きている使命は何かを考えなさい。」



5 現実を直視することから、私は少しずつ立ち直りました。

 文章が長くなりましたので、以下簡単に述べますと、こんな中でも彼らができることを一つ一つ作っていくことを考えました。例えば、途中どんなに騒いでも、遊んでも、とにかく授業の「始め」と「終わり」だけは、まずはっきり生徒に認識させることをししました。それができたら、次は授業中弁当を食べても、ゲームをしても、とにかく授業が終わる時は、プリントに記入して提出するようにしました。こんなことを一つ一つ粘り強く、生徒ができるまで繰り返して、させるようにしました。そして、このことは、生徒に大きな声で威嚇されても、また職員室に怒鳴り込んできても、妥協しないようにして、一つ一つ簡単なルールを守らせるようにしました。  

 それともう一つしたことは、生徒となんとか人間関係を築き上げることでした。「どうして、そんな風に思うんだ。私に分かるように説明してくれないか」と、私が納得できないことを、かなり執拗に、生徒に質問するようにしました。一番うまくいったのは、外部から講師を呼んで実施する、フォークリフトや小型建設機械の講習に参加した時でした。生徒は始め「なんで、お前なんかがこんなところにいるんだ」と言うような顔をしましたが、しばらくすると「その時はこんなにするんだ。」と私に助言をしてくれる生徒まで出てきました。  

 だからと言って、私が納得できる授業ができるようになったわけではありません。しかし、少なくとも教室に授業に行くことに恐怖心を感じることはなくなりましたし、朝起きて、たまらなく憂鬱になることも少なくなりました。やっとなんとか2年以上かかり授業の秩序が、私なりに保てるようになりました。



6 今思うこと

長い教員生活の中で一番厳しい経験でした。しかし、私はこの経験を通じて、ぎりぎりのところで自分を見つめなおすことができました。そして、教師として、また一人間として少し成長したと感じています。「もうどうなっても知るもんか。」という気持ちにならずに、なんとか自分を見失うことをしなかったのは、フランクルの『夜と霧』、そしてフランクルを紹介した諸富祥彦『フランクル心理学入門』などの本を何度も読み返して救われたからです。「気持ちを変えたり、やる気になればなんでもできる」といった精神論を私は述べているのではありません。たとえ厳しい状況に置かれても、見たくない現実、知りたくない現実であっても、それを現実として受け止めて、そこからどうやって出発すればいいのかを、自分なりに一つ一つ考えていくことの勇気と大切さを学ぶことができたことを述べたいのです。