■ 自然科学と人間科学
1928年(昭和3)年生まれの河合隼雄氏は、多感な時期に非合理的な軍国主義を経験したこともあり、若い時は合理的な科学を強く志向し、理学部数学科(京都大学)に進学しました。卒業後、河合氏は高校教師になりますが、そこで生徒の相談にのっているうちに心理学を勉強しなければならないと思い、心理学の研究に邁進するようになります。
そのような背景をもつ河合氏にとって、心理学を自然科学の一つとみなすことはできませんでした。河合氏は「心理学の科学性について(実験心理学も含めて)、相当に確信をもって保証する人もあったが、理学部出身の筆者としてはほんとうに納得できるものではなかった」(vページ)と述懐しています。
実験心理学についてでさえそうなのですから、河合氏は心理療法もいわゆる「自然科学」とは考えていません。ですが、河合氏はそこから科学性を全面否定することなく、「心理療法の科学性について考えることによって、従来からある「科学」に対する考え方についても反省すべき点が見出だせる」(viページ)としています。
心理療法の行っていることは、敢えて言えば「人間科学」とでも言うべきことになるだろう。心理療法は全人的な関与を必要とするもので、人間と人間の主観的なかかわりを不可欠とする。と言っても、自分の在り方を何らかの方法によって対象化することを怠っていると、まったくのひとりよがりとなってしまう。(viiページ)
単なる生理学的対象としてではなく、人格的な対象としての人間を「科学」しようとするなら、その科学者自身もが人間であることを忘れてはいけません(これはユングが何度も強調していることです)。人間が人間を理解する場合は、理解者の主観性ひいては人格的な関与が必然的に絡んでいることを自覚してこそ、人間を科学できると、ここでは考えられています。
■ 切断と隔絶
もちろん、人間を単なる生物として生理学的あるいは生物学的に研究することはできます(それは広い意味の生命科学として自然科学の一部となっています)。しかし、河合氏は、哲学者の中村雄二郎氏のことばを借りて、「物事や自然をそれ事態で完結したものとみなすとき、それらは私たちとの生きた有機的なつながりを失う」(59ページ)と述べます。心理療法を行うセラピスト、あるいは私の主関心である教育を行う教師の知は、そのようなつながりを失ったものではありえません。
無論、生命科学的な自然科学の知見は、セラピストや教師の知の前提とはなりますが、自然科学的知識が実践者の知をすべて構成するわけではありません。これについては、部分や量の問題(自然科学的知識が実践者の知の一部を構成している)ということ以上に、二つの知のあり方に大きな違いがあることに着目するべきでしょう。河合氏は言います。
科学の知においては、世界や実在を「対象化して明確にとらえようとする」。これは、対象と自分との間に明確な切断があることを示す。このことのために、そこで観察された事象は観察した人間との属性と無関係な普遍性をもつことができる。(60ページ)
自然科学の知識の普遍性は、対象と私たちの間に「明確な切断」があって初めて成立するものです。ところが、たとえば一つのコップを見て、「感じがいい」とか「これは花をいけるといいだろう」とか言ってしまうと、そこには「関係」が存在しています。その人自身の感情や判断がはいり込んでいます(60ページ)。
そして、人間が人間に接する時、私たちは、それが社会的なものであれ権力的なものであれ、必ず何らかの関係性の中にあります。また、神経科学のダマシオが言うように、人間の意識の底には必ず感情と情動があります。加えて自分自身優秀な科学者でもあった哲学者のポラニーも言うように、判断というものには、判断する者の個人的・人格的 (personal) な経験が必ず関与しています。
そうなると、通常の日常感覚、あるいはその延長上で、物事を観察し思考する者は、自然科学とは異なる人間科学のあり方 ―自らの主観性や人格的関与を自覚した上での認識法― を学ぶ必要があります。自然科学者として訓練を受けて、徹底的に日常感覚を忌避した認識だけで観察・思考することを学んだ人が、自然科学の対象物について自然科学者として発言することは、もちろん認められ推進されるべきです。しかし、そういった自然科学者も、一人の人間(人格的存在)として人間や社会について発言する際には、自らの自然科学の権威を笠に着ることなく、謙虚に人間について語ることに対する洞察を深めなければならないでしょう。
しかし、現代人は自然科学者ならずとも、科学と技術の進歩にあまりにも慣れすぎてしまっているので、人間を科学技術的に操作してしまうことができると信じきってしまいます。河合氏があげる例は、不登校児の親の発言です。その親は、現在は科学が進歩してボタンひとつで人間が月まで行けるのだから、うちの子どもを学校に行かせるようなボタンはないのですか、と語ったそうです(61ページ)。
これについて河合氏は次のように述べます。
この言葉は非常に大切なことを示している。つまり、ここで「科学的」方法に頼るとするならば、父親と息子との間に完全な「切断」がなくてはならない。既に述べたように近代科学の根本には対象に対する「切断」がある。しかし、この親の場合はあまりにも極端としても、われわれは他人を何らかの方法によって「操作」しようと考えることが多いのではなかろうか。つまり、自然科学による「操作」があまりに強力なので、人間に対してもそれを適用しようとするのである。しかし、もしそのように考えるならば、その人は他からまったく切断され、完全な孤立の状態になる。(61ページ)
件の親とて、『時計じかけのオレンジ』のようなテクノロジーを使えば、不登校の息子を学校に行かせることもできるのかもしれません ―ちなみに、私はこの映画を見て少なくとも数年間は不快感が消えませんでした。もうこの映画は二度と見たくありません。ですが私にこの映画を薦めてくれた心理学の先生が言うように、科学的知見により人間を動かすことを考える人は一度は見るべき映画でしょう―。しかし、もし親が『時計じかけのオレンジ』のような手段で子どもを変えようとすれば、その親子の間には、もう絶対的といってもいいぐらいの切断が生じ、互いは隔絶し孤立するでしょう。
科学的方法による人間の「操作」(そして「支配」)の代償は、関係性の「切断」と互いの「隔絶・孤立」なのかもしれません。
ここで気をつけておかなければならないのは、他人の操作と支配は、自然科学の知識だけでなく、深層心理学の知識によってでも可能だということです。河合氏は、「深層心理学の知識をふりまわして、それに悪いことには権力が加わって、親、教師、医者、そして時に治療者を自認する者までもが、相手を裁断することにのみ用いているとしたら、非常に残念なことである」(71ページ)と述べていますが、これは「残念なこと」というよりは、残酷で凶悪なことと言うべきでしょう。
英語教育でも、ついつい私たちは、「生徒が勉強をしません。何かいい方法はないでしょうか」と安直に、教師としての自分のあり方を省察せずに、テクニックあるいはテクノロジーに解決手段を求めます。ですが、その態度の行く果てには残酷で凶悪な行為があるのかもしれないと警戒するべきではないでしょうか。
■ 「第二者」のあり方
対象との関係を切断し、研究者が自らを対象と隔絶させるあり方を「第三者」的あり方と称するなら、自然科学はこの第三者的な態度を貫く知と言えましょう。それに対して、研究者が対象との関係性を切断しないまま、自らの主観性や人格的関与を自覚した上で認識を進めてゆくあり方を、仮に「第二者」的なあり方と称することができるなら、人間科学においてはこの第二者的なアプローチについての洞察を深めなければなりません。
「第二者」という用語は珍しいとしても、第二者的あり方と第三者的あり方についてはこれまでにも多くの考察がなされています。すぐに思い浮かぶのはマルティン・ブーバーの『我と汝』(苫野一徳先生による解説)ですが、ハイデガー『存在と時間』における「現存在」 (Dasein)と「事物的存在」 (Vorhandensein)の対比もこの問題に関連していると言えましょうし、ジュディス・バトラーのことも思い出されます。
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Exploratory Practiceの特質と「理解」概念
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/10/exploratory-practice.html
ジュディス・バトラー著、佐藤嘉幸・清水知子訳(2008)『自分自身を説明すること』月曜社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/11/2008.html
つまり第二者のあり方というのは新しくて古い問題と言えましょうが、この問題にもっとも切実に取り組んでいる分野の一つは、やはり河合氏などが関わるカウンセリング ―フロイトの言い方なら精神分析、ユングの言い方なら分析心理学― でしょう。こういった心の分析 (psychoanalysis, analytical psychology) の方法を開発したフロイトもユングも、それぞれに自らの聴き手に助けられながら自己分析を行い、その経験を参考にしながら、他者の心の分析的理解の方法を創りあげてゆきました。
この方法における分析者と被分析者の関係は、第三者的なものではありません。
この際、分析家と被分析者との関係は、自然科学における観察者と対象との関係と異なり、「切断」を行うのではなく、むしろ、主観的なかかわりを大切にするのである。このとき、分析家が相手と同一化してしまっては、混乱してしまう。さりとて、まったく相手から切断された客観性をもとと、分析は進展しないのである。(68ページ)
第二者は、第三者のように対象者と隔絶された態度で対象者を分析するのでもなく、かといって対象者(すなわち当事者=「第一者」)に同化してしまってしまうのでもありません。通俗的な裁断などを可能な限り介入させないようにして、できるだけ第一者の心に即した理解をしつつ、第一者の反応を見ながら、その理解を第三者的な理解にもつながるような形でゆっくりと注意深く言語化することを試みることが第二者のあり方と言えるでしょうか。
上では「通俗的な裁断」と否定的に書きましたが、この概念を肯定的に表現するならこれは「一般的な原則」となりましょう。「通俗的な裁断をできるだけ介入させずに」なら「なるほど」と思えても、「一般的な原則をできるだけ介入させずに」ならば、「それで大丈夫か」と思えてしまいます。この場合重要なのは「できるだけ」という微妙なさじ加減でしょう。そのさじ加減は、第一者と第二者の関係性の文脈と歴史によって定まるものでしょうから、両者の主観性や両者が置かれている個別の時空から隔絶された形で第三者的に定めることはできません。そこを敢えて抽象的な形で述べるとしたら、次のようになるのでしょう。
このようなとき、心理療法家としてはある程度の一般原則に通じていなくてはならないが、何よりも「自己の責任を解除しない」態度をとることが必要なのである。(80ページ)
さじ加減は、第二者の人格的判断によるものであり、その第二者の判断はまず、第一者との関係性で試され、さらにもしその判断が第三者に対しても報告されるとしたら、その第三者との関係性で試されると言えましょうか。自然科学の第三者的アプローチでしたら、判断は共有化され、もはや誰のものでもなくなった判断 (impersonal judgment)が下されなくてはなりません。しかし、生きた人間を扱う第二者的アプローチでしたら、あくまでも人格的な判断 (personal judgment)が必要とされます。第二者の一人の人間としての人格性、そしてその第二者に関わる第一者と第三者それぞれの人格性が、第二者的アプローチの基盤となります。
人格的 (personal) に接するというのは、(時に誤解されるように)別段、道徳的に接するというのではなく、善悪も正邪も真偽も聖俗も美醜も愛憎も知りながらどちらに徹することもできない生身の人間として、自らが生きている時代と状況の中で第二者に接してゆくことかと私は考えます。
そういった接し方の難しさを、河合氏はクライアントの中学生にピストルを持っているという秘密を告げられたカウンセラーがどうするべきか悩んでしまう例で説明します。
中学生がピストルをもっていると知って、警察に言うのか、言わないのか、あるいはそのどちらも駄目とするとどうすればいいのか。このように二者択一的考えに陥り、どうにもならないと思うのは、事態が見えなくなっている証拠なのである。そのように結論をすぐ焦る態度ではなく、この少年はどうしてピストルなどもつことになったのか、その事実はなぜ、他ならぬ今、この自分に告げることになったのか、などについて、少年および自分自身をとりまく状況全体の流れのなかで見ていると、解決法が浮かびあがってくるのである。そしてそれは一般的常識を踏まえつつ、一回限りの個別の真理として通用するものとなるのである。(93-94ページ)
こうしてみますと、人格的なアプローチとは、何よりも状況性と歴史性を重視し、その事例の個別性の中で「普遍性」を求めるアプローチのように思えます。「個別性の中の普遍性」というのは、いかにも矛盾した概念のように聞こえますが、「もし後年、自分がこれとまったく同じ状況に遭遇したとしても」というありえない仮定において、「自分は迷いなく同じことをするだろう」ということ、もっとわかりやすく言うと、「後で後悔することがないと迷いなく自他に告げること」、だとすれば、それほど荒唐無稽な概念ではないかと思います。
■ 教える・育てる・育つ
さてこれまでカウンセリング(心理療法)を中心に河合氏の論を私なりにまとめてきましたが、河合氏は自論は、看護、家政、保育、医療、そして教育などの生きた人間を扱う領域にも当てはまることが多いのではないかと考えています。
「教育」という言葉を分解すると、次の三つに分けられると河合氏は述べます。
教える
育てる
育つ
育てる
育つ
伝統的な教育学は「教える」視点からの論考がほとんどでしたが、近年の教育学はだんだんと「育てる」方向に移行していることはご承知のとおりかと思います。しかしデューイの『民主主義と教育』などを読みましても、また教師として直接的間接的に経験することからしましても、上記の三側面のうち、「育つ」という視点は大変重要でありながら、やはり多くの教師・教育学者にはまだまだ看過されている視点かと思います。
「育つ」という視点で教育という営みを観察しますと、そこでは「教える」という視点で前提とされているような「AではなくBをせよ」といった定式化が極めて困難なことがわかります。河合氏の言葉を借りますと、「生きた人間を相手にすると、単純で整合的な論理によっては、ことが運ばない」(90ページ)からです。
もちろんこのことは「単純で整合的な論理」を全面否定するものではありません。例えば数万人といったマクロな規模で、観察者と対象の関係を隔絶した上で教育を観察してみるなら「単純で整合的な論理」が浮かび上がってくるでしょう。そしてそれは第三者的には正しいことなのでしょう。
しかしその第三者的知識を、ある教師(当事者・第一者)が、自分の教室でそのまま適用してもうまくいくとは限らないということは、私たちの経験が示している通りです(例えば下記参照)。
そうなると「英語教育学」なるものが第三者的アプローチだけでよいものか、ということになります。私が今回この本についてまとめたのも、第三者的アプローチとは異なる第二者的アプローチによる英語教育研究のあり方を、少しでも明らかにしたかったからです。
教師は生徒を「教える」のか「育てる」のか、それとも生徒が「育つ」のか。また、教師教育者は現職教員を「教える」のか「育てる」のか、それとも現職教員が「育つ」のか ― それらのどれもが正解なのでしょうが、これまで看過されがちだった「育つ」視点を大切にしながら、これら三つの視点の適切な使い分けを学んでゆきたいと思います。
いわゆる「お勉強ノート」なのでうまくまとまりませんが、今日はこのへんで。