2014年4月25日金曜日

河合隼雄 (2009) 『心理療法序説』(岩波現代文庫)





■ 自然科学と人間科学

1928年(昭和3)年生まれの河合隼雄氏は、多感な時期に非合理的な軍国主義を経験したこともあり、若い時は合理的な科学を強く志向し、理学部数学科(京都大学)に進学しました。卒業後、河合氏は高校教師になりますが、そこで生徒の相談にのっているうちに心理学を勉強しなければならないと思い、心理学の研究に邁進するようになります。

そのような背景をもつ河合氏にとって、心理学を自然科学の一つとみなすことはできませんでした。河合氏は「心理学の科学性について(実験心理学も含めて)、相当に確信をもって保証する人もあったが、理学部出身の筆者としてはほんとうに納得できるものではなかった」(vページ)と述懐しています。

実験心理学についてでさえそうなのですから、河合氏は心理療法もいわゆる「自然科学」とは考えていません。ですが、河合氏はそこから科学性を全面否定することなく、「心理療法の科学性について考えることによって、従来からある「科学」に対する考え方についても反省すべき点が見出だせる」(viページ)としています。

心理療法の行っていることは、敢えて言えば「人間科学」とでも言うべきことになるだろう。心理療法は全人的な関与を必要とするもので、人間と人間の主観的なかかわりを不可欠とする。と言っても、自分の在り方を何らかの方法によって対象化することを怠っていると、まったくのひとりよがりとなってしまう。(viiページ)


単なる生理学的対象としてではなく、人格的な対象としての人間を「科学」しようとするなら、その科学者自身もが人間であることを忘れてはいけません(これはユングが何度も強調していることです)。人間が人間を理解する場合は、理解者の主観性ひいては人格的な関与が必然的に絡んでいることを自覚してこそ、人間を科学できると、ここでは考えられています。



■ 切断と隔絶

もちろん、人間を単なる生物として生理学的あるいは生物学的に研究することはできます(それは広い意味の生命科学として自然科学の一部となっています)。しかし、河合氏は、哲学者の中村雄二郎氏のことばを借りて、「物事や自然をそれ事態で完結したものとみなすとき、それらは私たちとの生きた有機的なつながりを失う」(59ページ)と述べます。心理療法を行うセラピスト、あるいは私の主関心である教育を行う教師の知は、そのようなつながりを失ったものではありえません。

無論、生命科学的な自然科学の知見は、セラピストや教師の知の前提とはなりますが、自然科学的知識が実践者の知をすべて構成するわけではありません。これについては、部分や量の問題(自然科学的知識が実践者の知の一部を構成している)ということ以上に、二つの知のあり方に大きな違いがあることに着目するべきでしょう。河合氏は言います。

科学の知においては、世界や実在を「対象化して明確にとらえようとする」。これは、対象と自分との間に明確な切断があることを示す。このことのために、そこで観察された事象は観察した人間との属性と無関係な普遍性をもつことができる。(60ページ)


自然科学の知識の普遍性は、対象と私たちの間に「明確な切断」があって初めて成立するものです。ところが、たとえば一つのコップを見て、「感じがいい」とか「これは花をいけるといいだろう」とか言ってしまうと、そこには「関係」が存在しています。その人自身の感情や判断がはいり込んでいます(60ページ)。

そして、人間が人間に接する時、私たちは、それが社会的なものであれ権力的なものであれ、必ず何らかの関係性の中にあります。また、神経科学のダマシオが言うように、人間の意識の底には必ず感情と情動があります。加えて自分自身優秀な科学者でもあった哲学者のポラニーも言うように、判断というものには、判断する者の個人的・人格的 (personal) な経験が必ず関与しています。

そうなると、通常の日常感覚、あるいはその延長上で、物事を観察し思考する者は、自然科学とは異なる人間科学のあり方 ―自らの主観性や人格的関与を自覚した上での認識法― を学ぶ必要があります。自然科学者として訓練を受けて、徹底的に日常感覚を忌避した認識だけで観察・思考することを学んだ人が、自然科学の対象物について自然科学者として発言することは、もちろん認められ推進されるべきです。しかし、そういった自然科学者も、一人の人間(人格的存在)として人間や社会について発言する際には、自らの自然科学の権威を笠に着ることなく、謙虚に人間について語ることに対する洞察を深めなければならないでしょう。

しかし、現代人は自然科学者ならずとも、科学と技術の進歩にあまりにも慣れすぎてしまっているので、人間を科学技術的に操作してしまうことができると信じきってしまいます。河合氏があげる例は、不登校児の親の発言です。その親は、現在は科学が進歩してボタンひとつで人間が月まで行けるのだから、うちの子どもを学校に行かせるようなボタンはないのですか、と語ったそうです(61ページ)。

これについて河合氏は次のように述べます。

この言葉は非常に大切なことを示している。つまり、ここで「科学的」方法に頼るとするならば、父親と息子との間に完全な「切断」がなくてはならない。既に述べたように近代科学の根本には対象に対する「切断」がある。しかし、この親の場合はあまりにも極端としても、われわれは他人を何らかの方法によって「操作」しようと考えることが多いのではなかろうか。つまり、自然科学による「操作」があまりに強力なので、人間に対してもそれを適用しようとするのである。しかし、もしそのように考えるならば、その人は他からまったく切断され、完全な孤立の状態になる。(61ページ)


件の親とて、『時計じかけのオレンジ』のようなテクノロジーを使えば、不登校の息子を学校に行かせることもできるのかもしれません ―ちなみに、私はこの映画を見て少なくとも数年間は不快感が消えませんでした。もうこの映画は二度と見たくありません。ですが私にこの映画を薦めてくれた心理学の先生が言うように、科学的知見により人間を動かすことを考える人は一度は見るべき映画でしょう―。しかし、もし親が『時計じかけのオレンジ』のような手段で子どもを変えようとすれば、その親子の間には、もう絶対的といってもいいぐらいの切断が生じ、互いは隔絶し孤立するでしょう。

科学的方法による人間の「操作」(そして「支配」)の代償は、関係性の「切断」と互いの「隔絶・孤立」なのかもしれません。

ここで気をつけておかなければならないのは、他人の操作と支配は、自然科学の知識だけでなく、深層心理学の知識によってでも可能だということです。河合氏は、「深層心理学の知識をふりまわして、それに悪いことには権力が加わって、親、教師、医者、そして時に治療者を自認する者までもが、相手を裁断することにのみ用いているとしたら、非常に残念なことである」(71ページ)と述べていますが、これは「残念なこと」というよりは、残酷で凶悪なことと言うべきでしょう。

英語教育でも、ついつい私たちは、「生徒が勉強をしません。何かいい方法はないでしょうか」と安直に、教師としての自分のあり方を省察せずに、テクニックあるいはテクノロジーに解決手段を求めます。ですが、その態度の行く果てには残酷で凶悪な行為があるのかもしれないと警戒するべきではないでしょうか。



■ 「第二者」のあり方

対象との関係を切断し、研究者が自らを対象と隔絶させるあり方を「第三者」的あり方と称するなら、自然科学はこの第三者的な態度を貫く知と言えましょう。それに対して、研究者が対象との関係性を切断しないまま、自らの主観性や人格的関与を自覚した上で認識を進めてゆくあり方を、仮に「第二者」的なあり方と称することができるなら、人間科学においてはこの第二者的なアプローチについての洞察を深めなければなりません。

「第二者」という用語は珍しいとしても、第二者的あり方と第三者的あり方についてはこれまでにも多くの考察がなされています。すぐに思い浮かぶのはマルティン・ブーバーの『我と汝』(苫野一徳先生による解説)ですが、ハイデガー『存在と時間』における「現存在」 (Dasein)と「事物的存在」 (Vorhandensein)の対比もこの問題に関連していると言えましょうし、ジュディス・バトラーのことも思い出されます。

関連記事
Exploratory Practiceの特質と「理解」概念
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/10/exploratory-practice.html
ジュディス・バトラー著、佐藤嘉幸・清水知子訳(2008)『自分自身を説明すること』月曜社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/11/2008.html

つまり第二者のあり方というのは新しくて古い問題と言えましょうが、この問題にもっとも切実に取り組んでいる分野の一つは、やはり河合氏などが関わるカウンセリング ―フロイトの言い方なら精神分析、ユングの言い方なら分析心理学― でしょう。こういった心の分析 (psychoanalysis, analytical psychology) の方法を開発したフロイトもユングも、それぞれに自らの聴き手に助けられながら自己分析を行い、その経験を参考にしながら、他者の心の分析的理解の方法を創りあげてゆきました。

この方法における分析者と被分析者の関係は、第三者的なものではありません。

この際、分析家と被分析者との関係は、自然科学における観察者と対象との関係と異なり、「切断」を行うのではなく、むしろ、主観的なかかわりを大切にするのである。このとき、分析家が相手と同一化してしまっては、混乱してしまう。さりとて、まったく相手から切断された客観性をもとと、分析は進展しないのである。(68ページ)


第二者は、第三者のように対象者と隔絶された態度で対象者を分析するのでもなく、かといって対象者(すなわち当事者=「第一者」)に同化してしまってしまうのでもありません。通俗的な裁断などを可能な限り介入させないようにして、できるだけ第一者の心に即した理解をしつつ、第一者の反応を見ながら、その理解を第三者的な理解にもつながるような形でゆっくりと注意深く言語化することを試みることが第二者のあり方と言えるでしょうか。

上では「通俗的な裁断」と否定的に書きましたが、この概念を肯定的に表現するならこれは「一般的な原則」となりましょう。「通俗的な裁断をできるだけ介入させずに」なら「なるほど」と思えても、「一般的な原則をできるだけ介入させずに」ならば、「それで大丈夫か」と思えてしまいます。この場合重要なのは「できるだけ」という微妙なさじ加減でしょう。そのさじ加減は、第一者と第二者の関係性の文脈と歴史によって定まるものでしょうから、両者の主観性や両者が置かれている個別の時空から隔絶された形で第三者的に定めることはできません。そこを敢えて抽象的な形で述べるとしたら、次のようになるのでしょう。

このようなとき、心理療法家としてはある程度の一般原則に通じていなくてはならないが、何よりも「自己の責任を解除しない」態度をとることが必要なのである。(80ページ)


さじ加減は、第二者の人格的判断によるものであり、その第二者の判断はまず、第一者との関係性で試され、さらにもしその判断が第三者に対しても報告されるとしたら、その第三者との関係性で試されると言えましょうか。自然科学の第三者的アプローチでしたら、判断は共有化され、もはや誰のものでもなくなった判断 (impersonal judgment)が下されなくてはなりません。しかし、生きた人間を扱う第二者的アプローチでしたら、あくまでも人格的な判断 (personal judgment)が必要とされます。第二者の一人の人間としての人格性、そしてその第二者に関わる第一者と第三者それぞれの人格性が、第二者的アプローチの基盤となります。

人格的 (personal) に接するというのは、(時に誤解されるように)別段、道徳的に接するというのではなく、善悪も正邪も真偽も聖俗も美醜も愛憎も知りながらどちらに徹することもできない生身の人間として、自らが生きている時代と状況の中で第二者に接してゆくことかと私は考えます。

そういった接し方の難しさを、河合氏はクライアントの中学生にピストルを持っているという秘密を告げられたカウンセラーがどうするべきか悩んでしまう例で説明します。

中学生がピストルをもっていると知って、警察に言うのか、言わないのか、あるいはそのどちらも駄目とするとどうすればいいのか。このように二者択一的考えに陥り、どうにもならないと思うのは、事態が見えなくなっている証拠なのである。そのように結論をすぐ焦る態度ではなく、この少年はどうしてピストルなどもつことになったのか、その事実はなぜ、他ならぬ今、この自分に告げることになったのか、などについて、少年および自分自身をとりまく状況全体の流れのなかで見ていると、解決法が浮かびあがってくるのである。そしてそれは一般的常識を踏まえつつ、一回限りの個別の真理として通用するものとなるのである。(93-94ページ)


こうしてみますと、人格的なアプローチとは、何よりも状況性と歴史性を重視し、その事例の個別性の中で「普遍性」を求めるアプローチのように思えます。「個別性の中の普遍性」というのは、いかにも矛盾した概念のように聞こえますが、「もし後年、自分がこれとまったく同じ状況に遭遇したとしても」というありえない仮定において、「自分は迷いなく同じことをするだろう」ということ、もっとわかりやすく言うと、「後で後悔することがないと迷いなく自他に告げること」、だとすれば、それほど荒唐無稽な概念ではないかと思います。



■ 教える・育てる・育つ

さてこれまでカウンセリング(心理療法)を中心に河合氏の論を私なりにまとめてきましたが、河合氏は自論は、看護、家政、保育、医療、そして教育などの生きた人間を扱う領域にも当てはまることが多いのではないかと考えています。

「教育」という言葉を分解すると、次の三つに分けられると河合氏は述べます。


教える

育てる

育つ



伝統的な教育学は「教える」視点からの論考がほとんどでしたが、近年の教育学はだんだんと「育てる」方向に移行していることはご承知のとおりかと思います。しかしデューイの『民主主義と教育』などを読みましても、また教師として直接的間接的に経験することからしましても、上記の三側面のうち、「育つ」という視点は大変重要でありながら、やはり多くの教師・教育学者にはまだまだ看過されている視点かと思います。

「育つ」という視点で教育という営みを観察しますと、そこでは「教える」という視点で前提とされているような「AではなくBをせよ」といった定式化が極めて困難なことがわかります。河合氏の言葉を借りますと、「生きた人間を相手にすると、単純で整合的な論理によっては、ことが運ばない」(90ページ)からです。

もちろんこのことは「単純で整合的な論理」を全面否定するものではありません。例えば数万人といったマクロな規模で、観察者と対象の関係を隔絶した上で教育を観察してみるなら「単純で整合的な論理」が浮かび上がってくるでしょう。そしてそれは第三者的には正しいことなのでしょう。

しかしその第三者的知識を、ある教師(当事者・第一者)が、自分の教室でそのまま適用してもうまくいくとは限らないということは、私たちの経験が示している通りです(例えば下記参照)。





そうなると「英語教育学」なるものが第三者的アプローチだけでよいものか、ということになります。私が今回この本についてまとめたのも、第三者的アプローチとは異なる第二者的アプローチによる英語教育研究のあり方を、少しでも明らかにしたかったからです。

教師は生徒を「教える」のか「育てる」のか、それとも生徒が「育つ」のか。また、教師教育者は現職教員を「教える」のか「育てる」のか、それとも現職教員が「育つ」のか ― それらのどれもが正解なのでしょうが、これまで看過されがちだった「育つ」視点を大切にしながら、これら三つの視点の適切な使い分けを学んでゆきたいと思います。

いわゆる「お勉強ノート」なのでうまくまとまりませんが、今日はこのへんで。







2014年4月16日水曜日

教英新入生(26生)の教養ゼミ感想の一部(高校までの学びや英語を身につけることについてなど)



私は今年度の入学生(教英26)のチューターで、4月9日に第一回の教養ゼミでお話をしました。その授業ではこの記事の一番下に掲載した北川さんに関する記事の話をしたり、「学校に行けば行くほどバカになるかもしれない(試験には受かるかもしれないけど)」などと挑発したり(笑)、英語が「身につく」とはどういうことかなどについて話しました。さらに授業後の課題として同じく下の5つのサイトを読んだ上で、授業の感想をウェブシステム(Bb9)に書き込んでもらいました。以下はその一部(原文のまま)です。二文字のアルファベットはイニシャルです。この29名の新入生が大学時代に、かけがえのない深く広い学びをしてほしいと切に願っています。









MA


誰かのお話を聞いて、これほど引き付けられたのは初めてでした。また課題サイトを読んで考えさせられ、袋小路にはまってしまい、思いのほか考えがまとまりません。そこで、難しいことは後にして、まず高校生だったころの自分の環境や、勉強法を振り返ってみました。

 高校1年生の時の英語の授業は、教科書のパートごとに予習(ノートの左側に教科書の英文を写し、右側に日本語訳を 書くという、ごくごくありがちなものです)を課されていました。授業中は新出単語の発音確認、予習してきた日本語訳と文法事項の確認で終了。高校の英語の 授業を楽しみにしていた入学当初、少しがっかりしたのを覚えています。そんな中、私が見つけた唯一の暇つぶし(笑)が英和辞典でした。英和辞典が私に「学 び」の本当の意義を教えてくれました。「なんで?」のあとの「なるほど、そういうことか」「へえー。こんなのもあるんだ」これが私の口癖でした。ブログで 拝見しました、「集中的入出力訓練」、声に出して読みながら書くことを私も常日頃やっていました。前述したように独り言をぶつぶつ唱える私はきっと、クラ スの中でも変人だったと思います。(笑)英和辞典は今でも本当に大好きで、無人島に何か一つ持っていけるのならば、私は間違いなく英和辞典を持っていきま す。私は探求心の塊で、疑問に思ったことはとことん解決しないと気が済まず、辞書に載っていないようなことを英語の先生に聞きに行くという、本当に先生を 困らせる生徒でした。しかしそんな私の疑問に、真剣に向き合ってくれ、考えてくれた先生たちがたくさんいました。質問しやすい環境、言い換えれば、私の 「why」を受け入れ、生徒も教師も一緒になって学ぶ環境が私の周りにあったことに、本当に感謝しています。

 文法事項や単語の詰め込み教育という話題をあちらこちらで耳にしますが、私はそれらに賛成の立場をとらせていただ きます。アウトプットには必ずインプットが必要だと思うからです。柳瀬先生もおっしゃっているように、ある程度の強制力を持った訓練も必要だと考えます。 しかし詰め込むだけでは、教えられた通りにそのまま、という単純な思考回路しか持ち合わせていないため他のパターンには対応できない、柳瀬先生が定義され る「バカ」が生まれるのだと思います。ひっかけ問題を解く能力だけが養われているのではないか、とすこしゾッとしました。

 また今回のお話の中で、一番心に残った言葉は、「できないやつは教えるな」です。背筋がぴんっと張ると同時に、ま さにその通りだと感じました。日本の英語教育では、なぜ実践的な英語力が身につかないのか、カリキュラムの問題ももちろんあるとは思いますが、根本的に考 えてみました。英語教師が、実践的な英語力を身に付けていないからなのではないか、と思います。実践的な英語力を持たない英語教師から教わった生徒に、実 践的な英語力など身に付くはずがないのです。このことを肝に銘じて、将来生徒に英語を教えるという責任感を常に意識したいと思います。私はこれまで、なん でこんなことを勉強しないといけないのだろうと思ったことは一度もありません。勉強する意義は、自分がまだ会ったことのない誰かの役に立つためであると 思っています。生涯勉強です。大学生活はいろんな分野において充実させ、お金では買えない価値を見出したいです。長々と、とりとめのない文章ですがお許し ください。ありがとうございました。







NM


 勉強すればするほどバカになる。オープンキャンパスで聞いた衝撃的なことばでした。教養ゼミでもう一度出会い、やはりはっとします。実際に、今まで出会った先生方の中には、理論よりも方法論を教えてくださる先生もいらっしゃいました。テストや模試の成績など、数値的なものは確かに伸びました。しかし、なぜ、どうして、という私たち生徒の問いかけに対して耳を傾け、目を輝かせて教えてくださる先生方から得たものには到底及びません。英語に関して言えば、授業で取り扱った長文の内容にリンクした海外の文化や事情背景などを話してくださったり、文法についてネイティブの感覚や考え方について教えてくださったりした先生の授業は本当に興味深く、言葉を学ぶことの本当の楽しさを知りました。逆にいえば、目先のテストや受験にだけ焦点を当てた授業を受けて得点を得る方法を身につけただけで、実は何もわかっていないことはたくさんあった気がします。そういった学びは、教室を一歩出ると何の役にも立ちませんでした。だから、私は英語教育を変えるのです。英語教育をおもしろくしたいのです。

 柳瀬先生は「好きこそ物の上手なれ」の精神が大切だとおっしゃいます。確かにその通りだと思いました。何かを身につけるときに何の苦もなく習得できるなんてことはありません。しかし、楽しめるならば、勉強と自分との間に垣根を作らないでどんどんと関わっていくことができたならば、それが本当の学びなのではないかと思います。だから、ただ机についてひたすら問題集をこなすような学習ではなく、映画や動画サイト、Webなどから自ら学びとる方法を私も実践していこうと思います。私は将来教師になりたいと思っていますが、そのためにはまず自分が学ぶことに対して常にどん欲である必要があると考えます。なぜ、どうして、と問う姿勢を教師がなくしたら、生徒も知識があれば、または問題が解ければそれでいいと思うはずだからです。

 また、北川さんのお話を聞いて、北川さんは、自分がどのような人間であるかについての認識や自分が何をしたいのかという目的意識が非常にはっきりとしていると感じました。私は、自分自身がどうしたいのか自信を持って言えないことがあります。どうすればよいかは明確なのに、本当にそれを望んでいるのかはよく分からないことがあります。だから、常に自分自身と向き合い、自分を認め、しっかりと自己との対話を行っていかなければならないと思いました。

 そして、自分というもののコントロールについてのお話については、緊急性があり、社会一般で価値が高いと見なされることを、私たちは優先しがちであると再認識しました。私も高校時代は、課題や部活動にたくさん時間をかけましたが、興味がおもむくままの自主的な学びや、趣味にほとんど時間を割くことがありませんでした。いますべき重要なこととはなにか。行動の基準はそこだったように思います。第一回目の教養ゼミを受けて、今まで、優先順位を考えることで効率的にやっているつもりでも、どこか落ち着かなさや焦りを感じることも多かったように思います。北川さんの話にもありましたが、生活をコントロールしてベストの状態に保つことや、ストレスコントロールなど、自分の声に耳を傾けることは思った以上に重要なのだということがわかりました。それは甘えているとか、根性がないとかいったことではなく、人間らしく、自分らしくあるためには、荷物を降ろして休憩したり楽しんだりすることが必要なのだと思います。一見重要性が無いように思えても、長い目で見れば人生を豊かにするヒントがたくさんあると気づくことができてよかったです。いままで洋画や音楽に興味を持っても、時間がないからなどといって深く楽しむことはありませんでした。振り返ると、そんな風にして結局なにもできなかった私自身に悔しくなります。しかし、これからの4年間は時間があります。もちろん課題など、すべきことはしっかりとしますが、いかに楽しく回り道をするか、を大切にして、興味を持ったことはとことんやってみようと思います。







TK


教養ゼミで柳瀬先生のお話を聞かせていただいて、僕の疑問が勘違いではなかったのだと実感できたことが一番の収穫となりました。

僕は、現代の学校教育はオカシイと思っています。点を取ること、大学に入学することが目的となり、学ぶことがその手段にすぎなくなっているからです。大学入試センター試験で、そのことを強く実感しました。例えば社会科目です。僕は世界史と地理をとっていたので、センター試験もこの二つを使って受験しました。正直なところ、世界史は本当に苦手でした。しかし点を取らないといけないので必死に教科書を暗記しました。教科書を暗記しただけで、本番で八割とれました。本当に無意味で、価値のない時間でした。(断っておきますが、これは僕自身の勉強に対する感想であり、きちんと勉強をしてセンター試験に臨んだ人に対する批判ではありません)歴史の表面だけを「覚えれば」テストで点がとれるのですから。なぜ戦争が起こったのか、あの事件にはどんな意味があったのか、そんなこと知らなくてもセンター試験では点が取れます。しかし、その「そんなこと」が歴史を学ぶ上で一番面白いところなのではないでしょうか。僕自身は、受験シーズンはこのことに気づいていましたが、やはり点を取ることだけを考えていました。今となってはすごく後悔しています。

どうして現代の学校教育は以上のようなシステムなのか、高校二年生のころに先生が説明してくださいました。「多様な分野に触れることにより、将来の選択肢が増えるからだ。だから教科を絞って勉強してはいけない。」と。今だから言えますが、心の中では「何を言ってるんだこいつは?」と思っていました。「将来の選択肢が増える」ということは、その分野に興味を持ち、楽しさを覚えることが必要だと僕は思っています。しかし、こんな表面的で、中身の薄い学習で、どうやって楽しさを見つければいいのでしょうか。子供たちはどの分野にも興味をひかれず、むしろ将来の選択肢が狭くなっているのではないでしょうか。確かに、現代の子供には、僕自身も含めて、主体的に学ぼうとしない傾向があります。でもそれは、少なからず現代の教育制度にも問題があるはずです。

自分自身が教職の道を進むにあたって、今一度現代の現代の学校教育の問題を見つめなおすことができるゼミでした。







OA


 私が先日の教養ゼミを通じて改めて感じたことは、「Why?」の疑問を持ち、解決することを大切にしていきたいということです。私がそう感じるようになったのは教師を目指し始めたころからですが、そう感じるきっかけをくれたのも、教師を目指すきっかけをくれたのも、今までお世話になった先生方でした。

 私は、小学校二年生から高校一年生の春までずっと、保育士になりたいという夢を持っていました。中学校の間は英語がとても苦手でした。英語の授業は苦であり、出される課題は毎回辞書や参考書を机いっぱいに広げて泣きそうになりながらやっていました。だから、将来の進路の選択肢の中に「英語教師」は全く含まれていませんでした。英語が苦手だと感じていたとき、「Why?」の疑問が私の頭の中にたくさんありました。でも、中学1年のころ、ただ単語を覚えよう、ただ文法を覚えよう、としていたため、全く理解は深まらなかったのです。

 そんな私を救ってくれたのは、当時担任だった英語の先生でした。私の通っていた学校は、県に三校しかない、県立の併設型中高一貫校のひとつで、中学校から通っていた私は中学生のころから県の高校教師として働く先生方から授業を受けていました。当時の担任の先生も県の高校の教職員として働く先生でした。英語が大の苦手だった私に、昼休みを使って毎日be動詞の使い方から教えてくださいました。私は少しでも納得できなかったり理解できなかったりすると、すぐに「Why?」の質問を投げかけました。その先生は、予定通りに進まなかったとしても私の質問に丁寧に答えてくださいました。その先生との特訓の甲斐あって、中学校三年の4月の模試で今までにないくらいの成績をとることができ、そこから英語は私の得意科目となり、また、いつのまにか英語が大好きになっていました。

 そしてまた、高校に入って英語を教わるようになった先生も、「Why?」の疑問を大切にする先生でした。はたから見れば脱線と言えるのかもしれませんが、授業で取り扱う教材について、関連のあることをたくさん話してくださったり、「なぜこの考え方になるのか?」を詳しく教えてくださいました。毎日の授業が楽しみであり、英語に大きな興味を抱くようになりました。

この二人の先生のように、英語の楽しさを教えられる教師になりたいと思い、教師を目指し始めたのです。

 高校三年生のころは、受験に向けていわゆる「受験英語」をすることが大半で、私は心の中で違和感を感じながら机に向かっていました。「AだからAだ」と言っているようにしか感じられない説明を受けたことも多々ありました。受験に合格するためには必要なことかもしれません。でも、私はやっぱり「受験英語」は「学ぶ」こととは言えないと思います。私は教師になったら、私に英語の楽しさ、苦手なことでも「Why?」の疑問を問い続けることで理解できることの喜びを生徒に伝えられる教師でいたいと思います。





YA


まず、第一回目の教養ゼミを受けて。

私は去年のオープンキャンパスで柳瀬教授の話を聞いて、広大の教英で学びたいと思い試験を受けたのですが、課題を読んでいて「やっぱり来てよかった」と思いました。

私は中学の時から、学校教育の掲げる「良い子」を目指し勉強をしてきましたが、高校に入り学年が上がるに連れて「はめられた」というきがしてなりません。自分から入り込んでしまっただけなのかもしれないですが。「よく学び、よく遊べ」と書いてありましたが、本当にそれです。私の固い固い頭の中には「遊ぶ暇はない」でした(笑)「もっと遊べば良かった」という後悔が最近つのります・・・

「なんのために勉強するのでしょう?」

もし私がそう問われたら、正直言い訳しか思い浮かびません。

人は一人じゃ生きていけない。勉強はある意味一人でもできるけど、それじゃ生きていけない。

沢山遊ぶことで沢山人と触れ合う。そして色んな和ができて、人生が楽しくなる。それがベースとなって、その上に勉強があるのではないでしょうか?

ただ「遊ぶ」ことがベースになるのではなくて(笑)、柳瀬教授がおっしゃるように「表のカリキュラムと裏のカリキュラム」両方が大切なんだと私も思いました。

次に学校の授業について。

とりあえず決まったこと、勝手に断定されたことを覚えさせられるけど、どうしてそれを勉強しないといけないのか、そしてなぜそうなるのか、教えてくれる先生は少なかったように思う。

それにプラス「わからない=自分が頭悪いから」という感じで、質問せずどんどん悪循環になってしまう。

つまり、もしその人に意欲があったとしてもそれが無駄になってしまう、ということ。

だけど、その意欲はパワーになる、行動源になる貴重なエネルギーであり、それを失うのは非常にもったいない!

ただ決められたことを教え込むだけ、つまり自己満足で終わる教師にはなりたくないと思います。

私は、生徒の意欲を無駄にしたくない。そのために、生徒が「わからない」を積極的に出し、生徒同士で出し合える授業をしたい。

そして、その意欲を生かしてもらいたい。生徒が自ら動く力を後押ししたい。

と同時に、「自ら考える力」を養う手伝いをしたい。私のように、ただ「勉強をしなければならない」という観念に縛られないような、個人個人の考えを育む手伝いをしたい。

そして、自分も常に成長させていきたい。

そう感じました。もうすこし先の話ですが、、、

そして私自身も、「英語が好きだ」という自分の気持ちに正直でいよう、と思いました。「上手じゃなくても、得意じゃなくても、自分が好きならいいじゃないか!」というような言葉を柳瀬教授から聞いた時は涙が出そうでした・・・(泣)この言葉を励みにこれからやっていきます!!

最後に、英語を身に付けることについて。

高校の時は単語帳を必死に覚えました。使うかは別として。「言葉は体から出てくる」ということばを聞いて「まさにそうだ!」と思いました。

私は韓国ドラマが好きで(笑)、それから韓国語が好きになり、日本語字幕で韓国語を聞いたり韓国語のテキストを買ってCDを聞いて覚えたりまねをしたりするのにハマってました。

英語は、アメリカのドラマ「Victorious」(←であってたと思う・・・)にはまって、録画して同じ話を何回も英語でみてました(笑)単語帳よりはるかに面白かったです。もちろんベースは大切ですが、要は「生きた英語(言語)」に触れるということが、私達にとって一番楽しくてワクワクすることなのだと思います。とくに英語は「得意ではないけど(苦手だけど)好き」という人は多いと思います。(←私も)

そこから、その気持ちをバネにして得意になりたいです!!

あとは、NHKの「大人の基礎英語」や「ニュースで英会話」も受験生の時に見ていました。「大人の基礎英語」は友達が教えてくれて、見ているとハマってしまいまして(笑)

ガリガリただ勉強するよりは、全然楽しかったし身につきました。自分でノートを作ったらさらに楽しかったです。

と、いろいろと話がごちゃごちゃしてしまいましたが、言いたいことは、「教科としての英語」だけでなく、そこから「生きた英語」を楽しみたいし、生徒たちにも同じように楽しんでほしい、と感じました。






ON


 私は今まで、学校の小テストや定期テストのために、その場しのぎで行われる勉強に疑問を持っていました。徹夜で教科書やノートの丸暗記をし、テストが終わったらすべて忘れて再度覚えなおす、といった いわば「テストのための」勉強です。私はwhyを追及して物事を体系的に理解したいと思う性格なので、このような学習は絶対にしたくないと思いつつも、現在の受験に対応するためにそのような勉強法を半ば強いられる形で行ってきました。whyを追及しても受験では役に立たない、これは暗記科目だからwhyは存在しない、と開き直ってきました。

 しかし、柳瀬先生の「学校に行けば行くほどバカになるかもしれない」という言葉を聞き、それだ!という衝撃を受けました。というのも、上述のような単語や要点だけを理解しようとする形式的かつ効率的な勉強法に疑問を持ちつつも、なぜそれが自分にとって納得がいかない疑問点なのか、深く考えることがありませんでした。また、それを考える余裕もなければ、考えたことを言葉でうまく表現できませんでした。

 ですが「学校に行けば行くほどバカになるかもしれない」という言葉は私が心の中で思っていたことを簡潔に表しています。学校に行けば行くほど、つまり学校で受験用のwhatとhowを学習するほど、今後出会うであろう新しい問題に対処できなくなっていくということが自分でも分かっていたから、この勉強法に納得できなかったのだと思います。そのように私は解釈しました。

 以上のようなことから柳瀬先生の講義は、私の今までの学習を見直し、今後の大学での学習をいかに充実したものにするか考えるきっかけとなりました。

 私が教師になったら、whatやhowを伝える教師主体の授業ではなく、生徒主体の授業を行いたいと思います。「主体的」というのは漠然とした言葉ですがやはり大切です。なぜなら「主体的」に自ら考えて行動することでコミュニケーション力や積極性といった、今後社会で生きていくうえで必要な能力が育つからです。whatやhowだけ伝えれば確かに分かりやすい。しかし実際にその教授法が採られている学校は機械的な人間を生み出す温床となっているかもしれません。whatやhowを全否定するわけではなく、「whatやhow」と「why」のバランスが非常に難しいと思います。

 最後に、この文章を書く際にも、私は表現の仕方に苦労しましたし、読み返すとまとまりがなく分かりにくい点が残っています。自分の考えを上手く伝えるためにも、whyの追及が必要だったのかもしれません。これまでは、客観的に数値化された成績で自己を把握してきましたが、4年間の大学生活では自分の興味のある分野を追及し、単位にとらわれずに理想の教師像に近づいていきたいです。





MM


第1回目の教養ゼミを受けて、また課題サイトを読んで、私がこれまで行ってきた「学習」や「勉強」がどれだけ自分を「バカ」にしているのかを考えさせられました。例えば英語であれば、受験のために単語帳の4500語や(実際使う場面がわからなかった)例文たち等必死に覚えてきましたが、"why"を気にかけることなど一切なく"what""how"を、それこそ1秒を惜しんで頭に取り込んでいきました。これが「学習」であると信じて疑いませんでした。これらを実際に海外の方やALTに使ってみると思った以上に通じず、または話しかけられた時に全く相手の意図が理解できない(アップされていたTEDも8割方わかりませんでした。)など、様々な場面で自分の英語力の低さは痛感してはいましたが、「私達の授業用英語では仕方がない。」と心の中では諦めていました。しかし今回の講義でそれが「バカ」という状態なんだと気づきました。

そこで惹かれたのが「映画を繰り返し見て?」の記事です。英語は好きだけど、今まではどちらかというと受け身の状態で英語を習得してきたため単語も文も機械的に記号的に理解していました。でもそのようにして覚えた英語たちは驚くほどのスピードで忘れることができるのに、幼い頃に見た大好きな映画「SPEED RACER」の"Race's changing us."という台詞はずっと記憶の中に留まっているし(この台詞はかなりゆっくり読まれたので。)、"Go!Speed,go!"というフレーズも、使われたシーンもほぼ完璧に覚えています。TVで見るとき何度もこの台詞を画面の前で言いました。当時の私が意味をきちんと理解していたかはわからないけれど、これが英語を心身に染みとおらせることで、「好きこそものの?」の効果は絶大なんだと思いました。これからは、最初は英語音声・日本語字幕になるだろうけど、洋画を進んで繰り返し見て、また好きな洋楽を何回もリピートして、楽しみながらで英語を心身に付けたいと思います。

私は将来高校の英語教諭になりたいと考えています。そのためには今の「バカ」状態を脱し、"why"を確実に学ばなければいけません。これまでそういった習慣がなかったのでかなりの時間を要するかもしれないし、時代は物事に対する最短経路・最小労力・結果を求めているかもしれません。ですが、未来の教え子たちを私の善意によって「バカ」にしないために、これ以上善意による「バカ」を増やさないように、英語への私自身がもつ興味や英語自身がもつ素晴らしさを体現できる教師を目指したいです。そのために、これからの授業は自分の感性と感情を最大限引っ張りだして取り組んでいきたいと思います。






OA

北川さんについての話はどれも印象的でしたが、一番印象に残ったのは、大学で教え始めた頃の話でした。北川さんの、自信がにじみ出ないことを、自身の私生活を充実させることで教授として成功しようという発想に驚きました。一見それらは関係のないことのように思われたけれど、今までに出会った先生方のことを思い浮かべてみたところ、納得しました。

 例えば、休日はいつもヨットに乗るのが楽しみで、時間があればネット上で国内外の人と囲碁を打つという高校時代の数学の先生は、授業中もなんだかいきいきしていて、私もこの先生のように充実した生活を送る社会人になれたらいいなあ、と思いながら、好感を持って授業を受けていました。  

 話がかわりますが、最短距離を追求する、受験勉強によく見られる傾向には、常に疑問を抱いていました。今回の柳瀬先生のお話を聞いて、この感覚が悪いものではなかったと思えました。  

 小学校の時は、クラスに中学受験を予定して塾に通う人が多数いました。その人たちから聞く、塾で習ったことというのは、今回柳瀬先生がお話された「whatやhowのみ」のものでした。高校生の頃に一度だけ受けてみた塾の授業もそうでした。  私は、それとは違う、「why」を追い求める授業や勉強が好きでした。そして、授業中に友人の意見をいくつか聞いて、同じようにwhyを求めて勉強を楽しむ人が近くにいることがわかり、うれしく思いました。

 また、ひたすら合格のためのwhatとhowを伝える授業は確かに効率的ではありますが、このような授業の継続は、先生のおっしゃるような「バカになる」のみならず、そもそも、実用的な知識を欠いたまま資格を習得しても、その資格を運用できるのか、という疑問を抱きました。あくまできっかけにすぎない資格でも構いませんが、受験者がどこかでその自覚を持っていなければならないと考えました。

課題サイトからの引用:試験とは、新しい職場や大学などでの現場で、どんな状況にでもそれなりに対応できる人を選ぶためのものではなかったのか。


 私もそう考えた時期がありましたが、試験に備えて計画的に勉強や準備ができたか、という点も試験は問うのだろうと今は考えています。ただし、「創造的で探求的な人間」であることができるかどうかを問う面が試験に設けられなければおっしゃる通り、教えられたwhatとhowを淡々と覚えた人間しか選ばれなくなると思います。

 教員を志す者として述べても良いのならどこかでhowを問う喜びのような、あるいは新しい知識を得るだけの喜びでも良い、学習そのものの楽しみを自分自身が感じ、生徒に伝えられるような教員になりたいと思います。

 課題サイト2を読んで考えたことなのですが、今までの自身の英語学習を振り返る中で、はっきり言えることが一つあります。単語帳は苦手だし、ものすごく嫌いでした。ちっとも覚えられないし、覚えたところでコロケーションが分からず、一部の名詞しか実際の会話では活用できませんでした。

 このサイトを読んで、それは、ことばが本来つながるはずの心やからだや場から無理矢理切り離していたからだとわかりました。だから、映画を繰り返し見て自然な英語を身につけようという先生のご提案に納得しました。中でも、日本語音声で英語字幕を活用しながら映画を見るという方法は思いつきませんでした。まずは、以前に映画館で見たことのある洋画や興味のある洋画で、是非やってみたいと思います。あるいは、以前から関心の強い音楽関係の洋画なら、専門用語でも分かるようなものがありそうなので、そのような分野の洋画から始めたいです。





TY


 私は今回の話を聞いて、アメリカから帰ってきた時のことを思い出しました。日本に帰ってきて再び日本の授業を受けたとき、自分たち生徒はロボットかと思いました。全員が同じように椅子に座り、先生の話を聞いて、ノートをとる。そして試験に向けて暗記をする。正直つまらなかったし、何も心に残りませんでした。アメリカに留学する前はこれが普通だったのだと思うと、すごく複雑な気持ちになりました。日本の”受け身”の授業と違って、アメリカでは生徒が主体となった授業がほとんどでした。授業の話題について、自分が疑問に思ったことや意見をクラスメートや先生と語り合う。知識をただ詰め込む授業よりも何倍も分かりやすかったし、もっと知りたいと思えました。知識を詰め込むことも大事だと思いますが、あることについて自分で考え、意見を持ち、それを自分以外の相手に発信することはもっと大事なのではないかと私は思います。

 答えのない問題が山のようにあり、これからも増えていくであろうこの時代に、学校でひたすら答えのある問題だけを解くというのは矛盾していると思います。社会に必要とされている人材を育成できるような教師になるために、これから大学で4年間教育について深く学びたいです。






SN


 WhatとHowだけでなく、Whyを問う大切さ・・・

これを心に留めている中・高の教師は、いったいどれほどいるのだろうかと今回の教養ゼミを通して自分の中高時代を思い返しました。

 私は昔から疑問に思ったことを追求しないと気がすまない人間で、友達からは「そんな細かいことまで気にせんでも」といつも呆れられていました。しかし私は、そのWhyと一つ一つ真剣に向き合って自分の納得いく結論に導く作業が、学習の一番の醍醐味ではないかと思っています。その知的好奇心を持てば、どんなことも楽しく感じるし、理解も自然に深まると思います。

 しかし、実際の教育現場では効率性のために、その生徒のWhyに応えてくれないこともよくあります。例えば私は化学ではモルの概念、数学ではベクトルの概念がどうしてもすぐに理解出来なくてたくさんの先生方に質問に行きました。もちろん一生懸命説明しようとしてくださった方もいらっしゃいましたが、最終的には「とにかくこれで覚えなさい」と言われ、心のモヤモヤが取れないままになってしまいました。そういうものも結局は勉強していくうちに自分自身で納得のいく結論を出せたりしますし、真剣に向き合うだけも意義はあります。けれど最初になぜ?と思ったときにWhatとHowしか教えられなかったら、そのとき生まれたせっかくの知的好奇心の芽は教師によって摘まれてしまっているのではないでしょうか。せっかく質問をしに行っても、答えもなくただ覚えろとだけでは、普通生徒は傷つきますし、やる気もそがれます。きっとこの状況は教師も生徒も気づかぬまま広がっていて、これが柳瀬教授のおっしゃる「学校に行けば行くほどバカになるかもしれない」ということだと思います。この負のサイクルはどうにかならないのか・・と質問に行くのが怖いという友達と話す度に思ったものです。

 また、高校時代私の周りには英語が分からない、出来ないという人が大勢いました。しかし話してみると、その人たちには他の人が目をつけないとても鋭い質問があったりするものです。私は、彼女たちは英語が出来ないのではなく、そのWhyに応えてくれる人が側におらず、疑問への対処の仕方が分からなかったのではないかと思います。受け身ではなく積極的に動くことも大事なので一概にそうとは言えませんが、Whyを持ち解決していく重要性を教師が生徒にちゃんと伝えなければそのような状況はこれからも続いてしまいます。ですから私は、些細なことでも生徒がWhyと思うことは真摯に受け止めて一緒に考え、学ぶ楽しさを伝えることで、様々な分野でもそうやって学んでいけるよう指導出来る教師になりたいと強く思います。





授業で言及したサイト:北川智子 (2013) 『世界基準で夢をかなえる 私の勉強法』 幻冬舎
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2013_4.html
課題サイト1:学校に行けば行くほどバカになるかもしれない(試験には受かるかもしれないけど)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/08/blog-post_27.html
課題サイト2:映画を繰り返して見て、ついでに英語を身につけよう
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/blog-post_09.html
課題サイト3:ウェブで英語を自学自習し、豊かな文化社会を創り上げよう!
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/05/blog-post_31.html
課題サイト4:広大教英生がお薦めする英語動画集
http://kyoeivideoselection.blogspot.jp/
課題サイト5:英語専攻生はTOEFL ITPを受けよう
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/toefl-itp.html








2014年4月15日火曜日

Dwight Atkinson先生が5/23(金)に広島大学で講演: Learning and Teaching Language from a Sociocognitive Viewpoint




きたる5月23日にsecond language acquisitionのsociocognitive approachの第一人者であり、Alternative Approaches to Second Language Acquisitionの編著者でもあるDwight Atkinson先生が広島大学で講演をなさいます。



日程: 2014年5月23日(金)

場所: 広島大学教育学部第一会議室(場所は変更するかもしれませんのでご注意ください)
広島大学へのアクセス
教育学部の位置(第一会議室は管理棟の二階です)


参加費: 講演・自由討議は無料。茶話会(希望者のみ)は茶菓代として200円。

スケジュール
16:30-17:20 講演
17:20-17:30 休憩
17:30-18:10 自由討議(Atkinson先生と参加者の間で)
18:10-18:20 休憩
18:20-19:00 茶話会 (コーヒーとお菓子あり。当日200円徴収させていただきます)
講師: Dwight Atkinson (Purdue University)
Dwight Atkinson teaches at Purdue University, where he is an associate professor of English. His academic interests are in second language learning and teaching, culture, and writing. He spent 12 years living and teaching in Japan, most recently at Temple University Japan. Living in Japan has been one of the most meaningful experiences in his life. He has also spent a year and a half doing research in India.
演題: Learning and Teaching Language from a Sociocognitive Viewpoint

要旨
Second language acquisition has often been treated as a "lonely" cognitive process: input comes in, is processed, and results in output. The mind is a computer in this view.

I present an alternative view of cognition and second language learning--as designed for and intimately tuned to social action. Like all nervous systems, the human nervous system is designed to enable us to adapt to our complex and ever-changing environments. For humans more than many other animals, this notably includes adapting to our conspecific--i.e., human--environments. That is, our existence-ensuring action-in-the-world is largely social action. This inter + action is thus what language is for, from a sociocognitive viewpoint, and therefore why--and how--we acquire it.

This theoretical viewpoint will be illustrated with video data, and possible implications for pedagogy will likewise be explored in this talk.


申込方法:下記のフォームから申込をしてください。会場の収容人数が限られていますので、先着順とさせていただきます。申込されていない方の当日飛び入り参加はお断りします。申込をされた方が、万が一キャンセルをする場合は、必ずyosuke@hiroshima-u.ac.jpにお知らせください。キャンセル待ちの方にご入場していただきます。












2014年4月4日金曜日

学部と大学のオリエンテーションでの挨拶

下は本日の学部と大学院のオリエンテーションで私が行った挨拶の原稿です。新入生の期待を裏切らないように毎日をしっかり過ごしたいと思います。

改めてみなさん、教英へようこそ!





(写真は学部合同オリエンテーションのものです)




学部ガイダンス挨拶


皆さん、教英へようこそ。

皆さんが当たり前のようにして通っていた小中高、そして多少の自覚をもって入学してきた大学、これらの学校は近代社会の賜物ですが、近代社会は学校を、国の経済力や軍事力の増強のために形成してきたというのは一つの歴史的な事実です。日本の英語教育というのはまさにその最先端を走ってきていて、現在も政治家や産業人の話題にのぼっていることは皆さんも重々承知のことと思います。

しかし、学校を経済や軍事などのためだけのものとして考えることを拒んできた人たちがいます。それらの人々は教師、そして教育学者と呼ばれます。

教師や教育学者の多くは、学校という制度を、人々の幸せという点からも考えます。いやもっぱらその点から考えようとしているのかもしれません。

人類史上、この数百年で広く認められるようになった考えの一つが人権概念です。お金持ちや、腕力をもった人だけでなく、どんな人でも、どこに生まれようが、どう育てられていようが、どう能力をもっていようがもっていなかろうが、どんな人も生命という点で対等であり、どんな人も尊重され幸福を追求する権利を有するという人権概念は、それまでの弱肉強食的な考えからすると文字通り革命的な思想でありました。

しかしその革命的思想も今や日本国憲法も含め多くの国が国是とし、世界的に共有され尊重される考えとなっています。

広島大学という大学も、教英という講座も、その世界史的な系譜に連なっています。

皆さん一人ひとりが幸せになってほしい。そしてその幸せを周りに分け与えてほしい。そのために広く、深く学んでほしいと私たちは願っています。

複雑な近代社会で幸せであること、あるいは他人を不幸にしないことは、実はそれほど簡単なことではありません。だからこそ広く深く学ぶ必要があります。

皆さんに幸せになってほしい。

だから、学んでほしい。

これが私からの歓迎のことばです。

四年間よろしくお願いします。





(写真は学部合同オリエンテーションのものです)





大学院ガイダンス挨拶


皆さん、大学院へようこそ。大学院では、「研究」と呼ばれる近代合理的な知性の追求を目指しています。私たち教員は皆さんの研究を徹底的に支援します。

しかしその際、研究とは何かについて予め了解しておく必要があるでしょう。

哲学者のカントの感性・知性・理性の区分で言えば、研究では、言語と外的対象とを結びつける知性の概念を主に扱い、言語化以前の感性の直感や究極の言語化である理性の理念は軽視しがちです。

深層心理学者のユングの枠組みで言えば、思考・感情・直観・感覚の四つの機能、外向・内向の二つ構えのうち、現在主流の研究は、外向つまり外界に向けた思考ばかりを扱い、人間の心の内の感情・直観・感覚の探究については怠りがちです。

つまり研究とは人間の営みの一部に過ぎないものにすぎません。しかし、それを徹底的に追求することで合理的な社会を作り上げてきたのが近代という試みです。

この特性を踏まえて申し上げたいことが二つあります。

一つは、皆さんが研究に邁進するあまり、一人の人間として、みずみずしい感性と、根源的な意味を問う理性、そして心の中の感情・直観・感覚などを忘れないでほしいということです。

論文を書くマシーンにならないでください。マシーンになれば論文は量産できるかもしれませんが、その論文がおよそ「ことばの教育」という人間的な営みを適切に解明しているものかどうかわかりません。また、マシーンになることにより皆さんの魂は深いところで損なわれるでしょう。どうぞ研究と研究以外の生活のバランスを大切にしてください。

もう一つは、近代からポスト近代 (postmodern) の歴史的な潮流の中で、どうぞことばの教育についての研究の刷新を図り、新しい人間研究のあり方を探る試みを共に行いましょうということです。

自然科学が発達するにつれ、人間の研究も自然科学と同じものでよいのだろうかという問いは少なくとも19世紀から生じていました。しかし20世紀後半の、現在私たちが「主流」と呼んでいる人間研究の多くは、自然科学の方法を表面的に真似ただけのもので、同業者以外の人々、実践者、私たちの場合でしたら言語教師の共感や納得を十分に得ていないと、私は他の多くの人々と共に考えています。

それこそマシーンとなって論文を量産するのでしたら、理性や感性の働きを忘れ、内界を無視し、そういった「主流」のフォーマットに対して無批判的に従う方が効率的でしょう。しかし研究者とて人間です。今、世界中の多くの研究者が、人間研究のあり方についての新たな地平を開拓しようとしています。もちろんこれは困難な道です。試行錯誤ばかりです。私自身、苦しんでいるところもあります。

しかし私たちはなぜ研究をするのでしょうか。もし研究の目的が、業績量産による権力獲得ではないとしたら、それは人間の幸福のためにあるのではないでしょうか。人間の幸福のためには人間をより広くより深く理解する研究が必要になるかと思います。それを目指す苦しみは、何事にも代えがたい深い喜びをもたらしてくれるかと思います。ですから、できれば、お互い失敗や挫折を繰り返しながらも、人間の幸福のためという研究を目指し、近代合理主義を全面否定することなく、うまく超克する世界史的な試みを共に行いませんかというのが、私の申し上げたかった二つ目のことです。

今日から共に研究しましょう。どうぞよろしくお願いします。



2014年4月1日火曜日

英語教育学のユソグ心理学的展開 (『英語狂育通信2014年4月1日号』)



『英語狂育通信』2014年4月1日号


「もはや英語狂育は資格試験得点競争としてしか認められていない。今や人を育てる営みではなくなっている」と舌鋒鋭く批判するのは東広島大学狂育学部の柳瀬妖介狂授。「果て無き資本主義的競争の限界を直感的に感じ取っている子どもや教師こそ今や英語狂育の歪みに苦しんでいる」と狂授は分析する。人間を育てるための英語狂育の再建を目指す狂授にインタビューした。

編集長(以下、編):本日はお忙しい中、ありがとうございます。早速ですが、英語狂育の現状に関する狂授のご意見をお聞かせください。

狂授(以下、狂):うむ、今や大局を見定めるべき政治家、官僚や、研究者までもが、「グローバル化」という言葉に踊らされて、新自由主義的発想に取り憑かれておる。これが現状ぢゃ。

:新自由主義的発想といいますと?

:いちいち教科書的説明までせんでもよかろうから、簡単に述べると、資本主義的競争を善と定めてしまい、さまざまにあるべき人間の営みをすべて、個人間の数量の競争に変えてしまうイデオロギーぢゃ。

:それが英語狂育にも蔓延していると。

:文化省の施策を見よ。資格試験の点数で「結果」を出すことをますます奨励しておる。発言力の大きなビジネス界の改革論者の熱気にあてられて、静かに国民の生活を守るべき政治家や官僚までもが目をつり上げておる。もはやこの国に良識ある保守派はおらん。「保守」を自称する者は、新自由主義的競争で企業を助けて国民をくじく成長論者か、己の不全感を特定の国に対する嫌悪感の表明でごまかしておる言葉の暴徒ぐらいぢゃ。

:しかしそれが大きな流れとしたら、英語教師としてはどうすればいいのでしょう。

:まず個人としてはこの時代の歪みを冷静に見定めることぢゃが、教師は子どもに関わる仕事ゆえ、何よりも授業改善をせねばならぬ。

:私たちもそのお話を聞きたく思っております。

アシスタント(以下、ア):実は狂授のお話は最近抽象的になりすぎているので、編集部でも困っているんです。

:こらっ、黙っていなさい。

:(アシスタントの女性をぎろりと睨み)ふっ、所詮天才というのは世間には理解されぬのぢゃ。

:理解されないのでしたら、変人もそうですけど。

:こらっ!

:(編集長に対して)まあ、言わせておきなさい。それよりも授業改善の話ぢゃったの。

:そうです。

:まあ、具体的なテクニックは後で言うこととして、先に背景を説明させてくれんかの。もっともこのお嬢ちゃんには難しすぎるかもしれんが、儂もできるだけわかりやすく説明する。背景を知らなければテクニックなど、誤用されるばかりぢゃからの。

:どうぞよろしくお願いします。

:うむ。儂が人間性を回復する授業改善を考えた時に、やはり無視できなかったのは、人間性を全体的にとらえたユソグの思想ぢゃ。

:誰の思想?

:ユソグ。

:ゆすぐ?コップか何かをですか?

:ユソグ!

:・・・

:ユ ソ グ!

:(数秒の沈黙の後)あの~、私、先生のお言葉を頭の中で活字化してようやく思いつけたんですけど、ひょっとしてそれは心理学のユングと文字面で見間違えさせるために考案した先生のジョークか何かでしょうか。

:ほう、お前さんもユングとユソグの関係を知っておるのか?

:いえ、一ミリたりとも知りません。

:いやいや、この場合、無知は恥ずかしいことではないぞ。ユソグのことは、ユングの高弟しか知らんのぢゃ。ユソグとは、ユングのドッペルゲンガー、つまりは分身だったのぢゃ。ユングはフロイトと決別した後、精神的危機に陥ったことぐらいはおヌシも知っておるかもしらんが、実はその頃からユングは、ユソグと名乗る自らの分身に出会うようになったのぢゃ。

:そんな話は聞いたこともありません。

:はっはっはっ。それはそうぢゃろう。実はユングの晩年の著作もすべてユソグに教えてもらったことをユングが筆記しただけぢゃったから、ユングはユソグのことを高弟以外には決して語らなかったのぢゃ。そして、このことをユングの死後以降も絶対の秘密にするよう命じたのぢゃ。

:それならどうして先生がそのことをご存知なのですか?

:うむ、儂がユングの本を読み理解するにつれ、その理解のあまりの精確さにユングが驚いたのぢゃろう、ユングが霊界からやってきて儂に告白したのぢゃ。

:馬鹿な。大○隆○じゃあるまいし。

:これっ、その手の固有名詞には気をつけんかい!

:でも馬鹿げていますよ、分身だなんて。だいたい分身といえばですね・・・う~ん、これを言ってしまっていいのかどうかわかりませんが、私にはどうも狂授こそ誰か他の人の分身のような気がするんです。

:何をたわけたことを言っておる。

:狂授はどうも実在の人物の分身、いやパロディというか、何というか、どうも狂授には実在感がないんです。いや、実在感といえば、私自身だって、どうも自分が実在の人物ではなく、誰かの妄想の中で作られた虚像にすぎないような気がして・・・

:話をメタメタにするのはやめなさい。

:それって、メタレベルの話をさらにメタレベルで語るなって意味のジョークですか?メタのメタでメタメタとか?

:なるほど、狂授の本当の姿というメタレベルの話を語る私も実は虚像だったというメタ?メタレベルの話という意味のね。

:そうなるとまとまる話もまとまらんようになるぢゃろうが。

:いや、小説の中で語り手がメタ的に登場するというのはここ一、二世紀ではまったく珍しいことじゃありませんから。

:(顔を真赤にしながら大声で)今日、耳、日曜!今日、耳、日曜!今日、耳、日曜!

:まあ、いいでしょう。でユソグでしたね。

:そうユソグぢゃ。

:でもユングの著作がすべてユソグのアイデアによるものなら、一般に知られているように、それはそのままユング心理学と呼んでもいいのではないですか?

:いや、ユソグにはユングにも明かさなかったアイデアがあり、儂はそれをユソグから直接聞いたのぢゃ。

:はいはい、霊言としてですね。

:そこはあまり強調せんでもよい。固有名詞が儂は怖い。

:で、それを背景とした上でお尋ねしますと、具体的にはどのような授業方法があるのでしょう。

:そうぢゃの、たとえばシャドウイングじゃ。

:えっ、通訳訓練から有名になって、今では誰でも名前ぐらいは知っているあの方法ですか?

:おう、そうぢゃった。俗世間ではそちらのシャドウイングの方しか知られておらぬのぢゃった。あの金魚のフンみたいに言葉を続けるやり方のことぢゃったの。儂のいうシャドウイングとはそれとは違う。う~む、仕方ない、それと区別するため、儂の方のやり方は「ザ・シャドウイング」と呼ぶことにしよう。

:いいでしょう。で、そのザ・シャドウイングとは具体的にはどんなやり方ですか?

:そうぢゃの、例えばここに教科書の英文がある。毒にも薬にもならんような英文じゃが、お前さん音読してみるがよい。

:”When spring comes, everything becomes fresh.  You meet new people, and make friends with them.”

:今度は儂がそれをザ・シャドウイングしてやる。おヌシはもう一度読むがよい。もっとも今度は、儂がその直後に何か言うがの。

:ちなみに、編集長の直後に続く[  ]の中にあるイタリックの英語が狂授の言っている「ザ・シャドウイング」です。

:これ、お前は誰に話しかけておるのじゃ。まるでテレビカメラに向かって語るみたいに。話をメタメタにするなと言ったぢゃろうが。

:だって読者にとって便利なんですもの。

:まあよい。ほれ、編集長、早く始めんかい。オヌシがもたもたしておるからこのお嬢ちゃんがいらぬことを言いよった。よいか儂がオヌシの後にすぐ言葉を足すからの。

:はい。わかりました。それでは行きます。

When spring comes, [If spring ever comes,]
everything becomes fresh. [you’ll only be deluded.]
You meet new people, [You meet a new source of troubles,]
and make friends with them. [and regret that you were ever born.]

:はぁっ?

:これがザ・シャドウイングじゃ。

:先生、なんですか、これは。

:ザ・シャドウイングと言ったぢゃろうが。

:何か、ねじ曲がった暗いことを言っているだけじゃないですか。

:これを即座に言うには、相当な英語力がいるぞ。

:英語力以上に、相当なねじ曲がった根性と暗?い人生観が必要です。『さよなら絶望先生』の方がまだ愛嬌がある。

:ふっ、おヌシはやはりユソグ心理学を理解しておらん。いや、ユング心理学ですらわかっておらん。

:どういうことですか。

:よいか、ユングですら「影」のことを言っておった。英語でいうなら「シャドウ」ぢゃ。個人の人格の中で発達できていない部分が影で、それはしばしば外界に投影され、その人に強い感情的葛藤を生じさせるのぢゃ。

:と言いますと・・・

:例えばオヌシにも、妙に気に障る奴がおらぬか。周りからすれば普通の人なのぢゃが、オヌシにとっては妙に気にかかってしょうがないような奴ぢゃ。

:狂授は、だれにとっても気に障る方ですよ。

:ええい。お嬢ちゃんには話しかけておらん。これ、編集長、オヌシが早く答えんから、またこんなことになろうが。

:確かにそんな人はいると思います。

:ユングは、そういう自分にとっての影を自覚することが人格の成熟につながると言ったのぢゃ。

:で、ユソグとやらは。

:ユソグは、その影を実体化することに成功したのぢゃ。

:何です、黒魔術ですか、それは?

:ふっ、ユングもそう言って怖気づいたそうぢゃ。だからユングはそれを公表しなかった。それを儂が英語狂育で展開したのぢゃ。オヌシの後に聞こえてきた儂の声がオヌシの影ぢゃ。影を受け入れることにより、人間は劇的に成熟するのぢゃ。

:狂授のように人格円満な方になれるというわけですね。

:そうぢゃ、そのとおり。お嬢ちゃんもたまにはいいことを言うではないか。(皮肉にはまったく気づかない)

:しかし、先生、これを学校狂育で行うというのはどうでしょう。学校ではもっとポジティブなことを教えなくては。

:はっ、何がポジティブぢゃ。オヌシの言うポジティブとは、せいぜい資本主義に飼い慣らされるぐらいのことぢゃろう。「風邪で熱が出たら風邪薬を飲み、頭痛がすれば頭痛薬を飲み、下痢も強烈な薬で抑え、とにかく仕事をせよ。せっかく身体がNoと言っておるのに、のぉ。胃がムカムカする時も薬を服用して飲み食いし、大量消費せよ。働け、そして消費せよ。資本主義のために」―これがオヌシらが子どもに英語の勉強を押し付ける隠れた論理ぢゃ。オヌシらの英語狂育とは、金儲けのための調教にすぎぬ。金と引き換えに魂をさしだす所業ぢゃ!

:しかし、近代社会は実際のところお金で回っているわけですから、そうも大胆に仕事を否定されても・・・

:はっはっはっ。おヌシもペルソナが脱げなくなった哀れな奴ぢゃ。

:ペルソナって、社会的仮面のことですか。

:そう。ユングですらもこの言葉を使って、社会に浮遊している漠たるイメージに無意識的に憑依された人間像のことを警告しておる。おヌシは、資本主義について正面から考えたこともないままに、なんとなく世間的な価値観を語っておるに過ぎぬ。それでオヌシの人生と言えるのか。創造的な人生と言えるのか。

:私は創造的な人生かどうかって言うことより、幸せな人生の方がいいですけど。

:ええい、いちいち気に障るオナゴぢゃの。

:あれっ、先生は人格円満で、影なんてないんじゃなかったんです?

:ふんっ。とにかく儂はオヌシらのようにペルソナに取り憑かれた哀れな奴らを救うために、このザ・シャドウイングを提唱しているのぢゃ。

:先生、お考えはわからないわけではないのですが、その何と言いますか・・・あまりに独創的すぎます。もっと、普通の人がやれる実践はないのですか?

:ふん、それもそうぢゃの。それでは、「子ども時代を生き直す英語狂育」について教えてやろう。

:子ども時代を生き直す、ですか?

:従来、外国語狂育では、学ぶ者の精神年齢に比べて簡単すぎる語彙しか使えんので、どうしても中身が薄くなるという議論があった。

:確かにそういう側面はありますね。

:ふっ、おヌシも、知性中心の、人間としては不十分な哀れな奴ぢゃ。昨今の高等狂育も、知性に偏り、感情や感覚や直感、そして魂のことを忘れておる。それでいてその浅薄な合理主義で、世の中を割り切ろうとしておる。その結果の一つが、原子力災害ぢゃ。

:狂授、英語狂育の話にお戻しください。

:よかろう。よいか、言葉というのは、高頻度ぢゃから易しい、低頻度ぢゃから難しいとかいうものではないのぢゃ。むしろ、易しい言葉こそ使うことが難しい。易しい言葉を使いこなせるのは詩人ぐらいぢゃろうが。

:まあ、それはそうかもしれませんが。

:儂はオヌシらと違って詩人の心をもっておるから・・

:痴人じゃなくて?

:(アシスタントを睨みつけて)儂はその詩人の心で英語狂育を見直すことができるのぢゃ。そこで観察できるのが、中学生が、拙い英語だからこそ、素直な気持ちを表現できるということぢゃ。

:確かにそうおっしゃる中学校の先生もいらっしゃいます。

:儂が見た例では、教室の後ろに中学生の英文が一人ひとりのカードに書かれておった。その中には”I love my father.”というものもあった。聞けば、これを書いた中学生はやんちゃで、教師も手を焼くような子らしい。そんな「悪い子」というペルソナをかぶらないとやってゆけないような子でも、英語ぢゃと素直になれて、このようなことでも書き、そしてその英語を教室で共有することを許せるようになるのぢゃ。

:確かに、やんちゃな中学生の男の子が、日本語で「お父さん、大好き」とカードに書いて、それを教室の後ろに掲示させておくというのは考えにくいですね。

:ぢゃろうが。これが「子ども時代を生き直す英語狂育ぢゃ」。不如意な外国語という特性を逆に活かして、ペルソナで自我防衛しなくてはやっていけないような学習者にも、子ども時代を生き直させるのじゃ。素直な感性と自然な感情を取り戻させ、本来の自分を直感的に悟らせるのぢゃ。そうやって、英語の学びを通じて、学習者は人間性を取り戻すことができる。よいか、英語狂育とは魂の狂育なのぢゃ。

:なるほど。

:で、儂はこれを大学生でも社会人でもやろうとしておる。

:大人に子ども時代を生き直させるのですか?

:儂の見るところ、子ども時代に傷を受けた大人というのは世間が想像する以上に多い。ぢゃがたいていの者は、それを隠す。他人からも自分からもぢゃ。不幸なことぢゃ。そうして自らの人生の真実から目を背けるよってに、やたらと他人の愛情を欲しがるか、逆に他人を支配しようとする。だから、いつまでたっても不幸なままなのぢゃ。儂はそういう哀れな大人を、そやつらの過去から解放してやるのぢゃ。これが大人のための子ども時代を生き直す英語狂育ぢゃ。そのためには、徹底的に子ども時代に戻らなければならぬ。

:はぁ。

:で、儂はこういう道具を使う。まあ、なにせ、大人は下手に知識があるゆえに自我防衛も固い。その頑なな心を解きほぐして、素直な子どもの心を思い出すには、道具がいるのぢゃよ。(狂授、箱から衣服を取り出す)。

:ひっ。(衣服を見て引きつる)。

:狂授、それは、大人サイズの・・・・

:そう、産着ぢゃ。

:まさかそれを着て、英語を話すというのじゃないでしょうね。

:それの何がおかしい。ほれ、儂から先に着てやろう。

:ひ―っ!(完全に引きつる)。

:先生、それって、幼児プレイ、明らかな変態行為ですよ。

:(真顔で)えっ、そうなの?

:お願いですから、やめてください。

:でも、ボクチャン、もう産着をきちゃったでちゅ。ハロー、ナイス・ツー・ミーチューでちゅ。おねぇちゃん、ボクと遊ぶでちゅ。

:こっ、この変態!(もっていたバックで狂授を殴り倒す。狂授、白目を向いてしばらく立っているも、やがて倒れて失神)。

:わっ、気絶しちゃった。

:帰りましょう。もう、こんなところ二度と来ませんからね。

:でも、今帰ったら、オチがないまま話を終えることになっちゃうし・・・

:もう!話をメタメタにすると、終わるものも終われないでしょ。ちょっと、テレビカメラ、いつまで撮ってんのよ。そこの裏方!幕よ、幕!幕を下ろしなさい!

(幕、降りる。おそらくこの幕は一年ほど上がることはないだろう)。

おそまつ m(_ _)m