2013年12月23日月曜日
『17歳のカルテ』
生き物の課題とは環境に適応して生き延びることである。環境に応じて自分を変え、時に環境の方をも変える。だがもし、生き物と環境のギャップがはなはだしすぎるならば、適応は失敗し、生命力は損なわれる。
だが生き物は頑強なもので、休養をとり生命力を回復させ、やがて大なり小なり環境に適応する。生き物は、単純な機能固定的マシンではなく、様々な複合性が組み合わさったオートポイエーシス・システムであり、その自生的な対応能力は単純なマシンとは比べものにならない。
生き物の中でも人間は、器用な手を利用し様々な人工物を作り出し、さらには言語という媒体で「今ここ」の体験を、自分の過去・未来・仮想世界と、そして他人とに関連づけ、自分の世界を作り変える。生き物の世界の中で、おそらく人間の世界こそはもっとも複合性の高いものではないか。
人工物は、それが建築物だろうが、被服だろうが、食品だろうが、道具だろうが、芸術作品だろうが、人間が生きることを ―環境に適応することを― 少しは容易にしてくれる。言語は、それが脳内の思考表現であれ、他人との応答であれ、視覚媒体での読み書きであれ、人間が生きるという課題を少しは対処可能なものにしてくれる。
だが、人工物と言語は、人間の外なる環境と内なる意識 ―それは簡単には説明できないやり方で生理学的生命システムとカップリングされている―を、ある意味、極端に複合的にしてしまう。その高度な複合性ゆえに、人間が生きることの可能性は、当の人間が想像できないぐらいに広がった。だから人間は、自らをそして他人をさらには地球さえをも、信じられないぐらい素晴らしいものにすることができる。だが、その可能性は破壊にも開かれている。
人工物と言語を備えた人間が、自分を含む何かを破壊する流れに巻き込まれた時、その流れを止めることは、その複合性ゆえに必ずしも容易なことではない。単純な判断による単純な介入が必ずしもうまくいかないからだ(もちろん、何かを破壊しようとする人間を、介入者が破壊してしまうのだったら、単純な力の行使で流れは止められるが、それは緊急避難的手段である)。特にその人間がことさらに敏感な複合性をもっている場合、単純な介入は介入者の予想をまったく超えた災厄をもたらすことがある。
この映画(『17歳のカルテ』)の主人公のスザンナは、ベトナム戦争の60年台という社会環境 ―若者は実際にくじびきで徴兵され遠く彼方での殺し合いに参加させられた―と、大学教授の娘という一見幸福そうな立場でありながら、実は心理的な葛藤を抱えた母親に育てられたという家庭環境に適応しなければならなかった。
もちろん同じ社会環境と似たような(あるいはもっと過酷な)家庭環境を引き受けながらも、「問題なく」―これは問題を含んだ表現だが、今はそれについては触れない― 過ごす人間も多くいる。いやそれが社会のマジョリティ ―嫌なことばを使えば「普通の人」― なのだろう。だが、スザンナという少女にはそれが耐えられなかった。繊細な完成と鋭敏な知性により、極めて高度な複合性を有する彼女の心は、彼女が、彼女にとっての社会環境と家庭環境に適応しようと努力する中で、彼女自身が予想も制御もできないぐらいに変動し、それに即して彼女は自分の行動に翻弄される。
そして彼女は精神病棟に送られる。
映画ではこのスザンナ役のウィノナ・ライダー(Winona Ryder)の演技がすばらしい。スザンナの、世間的な価値観からすれば「常識外れな」行動の「まともさ」が見る者に伝わってくる。そして、権力装置の中で彼女を一方的に判定し彼女を制御・支配しようとする人間の悲喜劇的な凡庸さがよくわかる。
私はこの映画を偶然スカパーで見て、その後でウィキペディアを調べてはじめて知ったのだが、ウィノナ・ライダーは、自らも境界性パーソナリティ障害で精神科入院歴がある。そういった履歴もあり、彼女は原作(『思春期病棟の少女たち』)に惚れ込み映画化権を買い取って製作総指揮も兼任したそうだ。この映画の演技で注目され数々の賞を得たのは、もっぱらアンジェリーナ・ジョリーだったそうだが、そんな知識なしに映画を見ていた私にとって素晴らしかったのは、断然ウィノナ・ライダーの演技の方だった。彼女の微細な表情は、言語表現が困難なぐらいに微妙な感情を見事に伝えてくれていた。
映画はスザンナが退院するまでを描く。映画は、『カッコーの巣の上で』と同じように、繊細な感性と鋭敏な知性をもつ当事者が不安定になった時に、鈍重な感性と単純な知性によって設計・運営される権力システムが、善意や正義感に溢れながら、いかに追い込まれた当事者をさらに追い込んでしまうか(あるいは、追い込まざるをえないか、と言うべきだろうか)を描き出す。外からの単純な権力行使ではなく、当事者のうちからの回復を待つ ―「支援」ということばでさえもここでは控えるべきなのかもしれない― 環境を整備することが、まわりの人間のなすべきことなのだろうか。
私たちは、単純な善意と正義感に対する警戒感を失ってはいけない。もちろん単純な知性の単純な増幅に対しても。
繊細な感性と鋭敏な知性を備えたオートポイエーシス・システムの可能性は、自己破壊にだけではなく、回復と自己再生にも開かれている。
私たちは生命の力を信じる。
2013年12月7日土曜日
記号づけ英語教育実践の講演会を聞いて考えたこと
地方大学の理系研究室で起きた奇跡 - 「はじめて英語がわかった」 -では、改めて英語教育の現実について色々考えることができました。はるばるお越しくださった板倉隆夫先生と大庭まゆみ先生に深く感謝します。
特に板倉先生からは、「現実を観察し、そこから仮説を理論化し、その仮説に基づき実験し、その実験結果からさらに考え、観察と仮説・理論化を深める」という自然科学の王道を、大学理系の英語教育に適用された事例を学ばせていただきました。
自然科学的な態度に欠けることが多い英語教育界では、上の
観察→仮説・理論化→実験→結果→省察・・・
ではなく、
ドグマ(=学説・教育政策・個人の経験など)
→ドグマの実行→結果
→ドグマの強化(=成功だったら「やはりそうだろう」とし、失敗だったら「ドグマをもっと実行しなければ」と結論する)
になることがしばしばありますから、板倉先生のアプローチは非常に啓発的でした。
今は時間がないので、この講演会で私が考えたことをメモ風に記するだけに留めておきます。以下の内容は、板倉先生と大庭先生のお話に触発されて私が考えたこととご理解ください。以下にもし少しでも見るべき点があればそれは板倉先生と大庭先生のお話のおかげであり、誤りや偏りがあればそれはすべて私に由来するものです。板倉先生と大庭先生のお話は、一つの実践現場での吟味された「現実解」であり、非常に説得力があるものでした。以下の私の文章は、その現実解を過小評価も過大評価もしないための、私なりの覚書と理解していただけたらと思います。
■ 外国語学習における言語とメタ言語の循環
「全体を理解するためには部分を理解しておかねばならないが、部分を理解するためには全体を理解しておかねばならない」というのが、解釈学的循環であるが、外国語学習にも同じような循環がある。
つまり、幼い頃から身につけたわけではない外国語という言語に習熟するためには、文法といったメタ言語が必要だが、メタ言語を理解するためには、当の外国語という言語に習熟していなければならない、ということである。
外国語学習においては、まずメタ言語を完全に理解してから言語を学ぶことはほとんどありえないし、メタ言語一切抜きに言語に習熟してしまってからメタ言語を学ぶこともまずない(あるとしたらそれは「外国語学習」というよりは幼少期からの「第二言語習得」と言うべきだろう)。
外国語学習で大切なことは、言語とメタ言語の矛盾する循環関係にとにかく入り込み、(他に適切な表現を思いつけないからこう書くけど)言語とメタ言語を弁証法的に発展させ、自覚的な外国語使用を少しずつ可能にしてゆくことである。
あるいはデューイ風に表現してみるなら、「経験」をすることで「思考・振り返り」を学び、「思考・振り返り」をすることで「経験」を(単なる試行錯誤ではないという意味での)「経験」にすると言えようか。
どちらにせよ、言語(経験)とメタ言語(思考・振り返り)を独立分離させて、別々に学ぶことは非現実的であると考えられる。
■ 母国語と外国語の違い
もし目標とする外国語が母国語と同じ語族に属し特性が似ているなら、母国語を題材にメタ言語に習熟でき、そのメタ言語をそのまま外国語の学習に転用することもできる。だが、例えば日本語と英語のように母国語と外国語が大きく違う場合、仮に母国語を題材にメタ言語を覚えたとしても、そのメタ言語をそのまま外国語学習に転用できるわけではない。
この意味で(板倉先生の主張なら)「他動詞」や「形容詞」、(三上章以来の問題意識なら)「主語」といったメタ言語には注意しなければならない。
■ 文法理解を側面から助ける物語
人間の営みを描いた物語は、ある程度予期できる共通理解基盤の中で少し驚くような事が生じるという展開をもつが、その予期と驚きのバランスの中で、文法関係の理解が促進される。つまり、もし文がまったく抽象的で予期しがたいなら、学習途中の文法を使ってその文を理解することははなはだ困難となるが、他方、もし文がまったくありきたりの定型句であれば文法を理解しなくてもその文の働きを理解することができるので文法関係の理解には役立たない。
物語は、予期と驚きの配置が巧みなことが多いので、文法学習のための素材としては適切であると言える。しかし、説明文は、よほど巧みに書かない限り、そのトピックを知らない者には驚きばかりの文が続くことになり、トピックを知っている者には予期できる文ばかりになりがちなので、文法関係の理解には適切でない場合がおおいにありうる。また、会話文は、たいていの場合凡庸すぎる展開で内容がほとんど予期できるので、これも文法関係の理解には適切ではないことが多い。
■ 「英語を英語で理解する」ことの視覚化としての記号づけ
教師が英文に記号づけをしてやることで、学習者は「英語を英語で理解する」支援(指導)を得ることができる。学習者に記号づけさせることにより、教師は学習者が「英語を英語で理解する」ことができたかを判定(評価)することができる。
一般にこの支援と判定は、「英文和訳」で行われているが、たとえば「僕は野球が好きだ」と"I like baseball"のように、二言語間の関係が単純でない英語教育の場合は、英文和訳は支援(指導)の手段としても判定(評価)の手段としても必ずしも適切ではない。(この点、いわゆる「中間日本語」や「意味順」のように「私は―好きです―野球を」といった人工的な日本語を教育手段として使うことには妥当性がある)。
■ 「英語を英語で理解する」ことの内実としての品詞感覚とオンライン処理
「英語を英語で理解する」ために、記号づけは不可欠ではない。「英語を英語で理解する」ということは、十分な「品詞感覚」(=文の中での品詞の働きに関する感覚的な理解)により、部分である語句が文全体の中で一定の働きを担っていることを速やかに理解しながら、語句を語順通りに次々に連結し文全体の意味を完成させるという「オンライン処理」(=文の前の部分に戻ることなく理解をして文の終わりと共に理解が完結する処理)をしていることと表現できる。つまり「品詞感覚」と「オンライン処理」が「英語を英語で理解する」ことの内実である(これは統語論中心の言い方であり、意味論や語用論への配慮は少ないが、話を短くするために、ここではこれ以上の精緻化は避ける)。
「品詞感覚」は記号づけのために必要でありながら、おそらく記号づけによって育成される理解であろう (あるいは日英語の違いにもかかわらず、日本語の品詞感覚で英語の品詞感覚も得られているのだろうか ―純粋な疑問)。「オンライン処理」は記号づけ指導が目標とする事態であるが、それができる頃には記号づけは必ずしも必要とされなくなる。記号づけを「オンライン処理」ができているかどうかの判定(評価)手段として使うことも可能だが、即時性はどうしても判定できないし、記号づけというメタ言語記号そのものに習熟していなければならないという問題もある。
(記号づけに限らず、文法(=メタ言語の表記)は、外国語習得のための手段でありながら、時にそれが自己目的化し、本来の目的である外国語習得が忘れ去られてしまうという問題をもつ。)
■ 学習者を外国語の自覚的な使い手にするという目的のためには、手段はすべからく折衷的・便宜的に使い分けるべき
記号づけは非常に有効な外国語教育の手段であるが、高1の教科書にあったという次の文(これは大学入試レベルだろう!)を記号づけして指導するのは、それほど容易ではない。"There are few things that are more rewarding than to watch young people recognize that they have the power to make their dreams come true."
もしこういった文を指導しなければならないとしたら、従来の記号づけをした上で、「節 (および意味上の主語・動詞関係)が開始される時には改行しインデントする」といった原則を加えて
There are few things
that are more rewarding than
to watch young people recognize
that they have the power
to make their dreams come true.
とでも表記し(上では記号づけ表記をしていません。念のため)、行ごとに「チャンク訳」をしつつ、次に来る意味を予期させるといった、さまざまな手段を合わせて使う必要があるだろう。
一般に、ある手段だけで外国語学習がすべて行えるというのは単純すぎる主張であり、教師は複数の手段を知り、学習者の様子を注意深く観察しながら複数の手段を使い分け、組み合わせることが必要である。学習者を観察するためには、もちろん、少人数クラスである必要がある。
以上です。時間がないのですが、今、少しでもまとめておかないと板倉先生と大庭先生の貴重な話の教訓を忘れてしまいそうなので、文章をまとめてみました。おそまつ。
追記(2013/12/08)
院生のKR君が、講演会の感想を書いてくれたので、ここに本人の許可を得て掲載します。
本講演会での「見える化」とは、通常の英文和訳の過程では、日本語に埋もれてしまう「英語の解釈の明確化」を指しており、またこの意味での「見える化」をさらに言い換えるならば、解釈の明瞭化の過程で、学習者の解釈ができていない箇所をあぶ出されるという点で「学習者内のわからない部分の明瞭化」を指すのかな、と感じました。
個人的な体験談になるのですが、バイト先の塾で生徒の質問対応を行っていると、理系科目(数学・理科)に対して、文系科目(国語・英語)に関する質問が少ないことに気がつきます。数学や理科の宿題では、解答は明確な一つが用意されてあり、学習者はその解に辿りつけないことが、「わからない」という状態であるとみなされます。この解釈は非常にわかりやすく、「解答欄に解があるorない」が理解の指標となります(ここでは単なる計算ミス・あてずっぽうな論理展開は除きます)。一方で、英語の宿題の多くは教科書の英文和訳か、文法項目に関するドリルが中心です。特に前者の英文和訳に関して言えば、調べた単語の意味を機械的に組み合わせることで、本来の英文から離れた、日本語の組み合わせの解釈を引き起こしてしまう恐れがあります。この際、本来の英文の意味はわかっていないのに学習者の意識は英文そのものから離れてしまっているために、ひとまず完成した「何となくの訳」に対して、生徒の中では疑問が生まれないことが少なくないのではないでしょうか。従来の英文和訳という課題では、生徒は母語の表現の中に意識がいってしまい、本来の英語の解釈が見えない状態に陥っているために、「わからない」という状態すら実感できない可能性が考えられます。このことが質問に来ないという現状の原因となってしまっているのではないでしょうか。生徒が質問に来ない、ということ自体は問題がないのですが、この考え方でいくと英文和訳という課題そのものが英語学習という目的を果たしていない恐れがあります。すなわち、理系科目同様、英語科においても、目の前の英文に対して思考を明瞭化する必要があるのではないでしょうか。
学習に対して思考を明瞭化する際に、今回の「見える化」は非常に有効な手段であると感じました。学習者は目の前の長文に対して、解釈を進める際に規則的な記号を書き加えることで、自身の解釈を明瞭化することができます。このことにより、従来日本語に埋もれ曖昧とされてきた英文の解釈を、英文からかけ離れることなく行うことができるでしょう。さらに、解釈が曖昧な部分に対して学習者は記号を当てはめることができないことから、自身の解釈ができていない部分までもを明瞭化することができます。このことでわからない状態が実感でき、学習はより意識的に進められることが予想されます。従来の曖昧な点を残しがちだった授業は、記号という方法・規則に従うことで、明確にわかりやすく進められるでしょう。
一方で、この「見える化」には、規則としてある程度自立しているという点で、若干の危うさを感じました。というのも、本来この「見える化」というのは英文から離れることなく英文を解釈することを目的としていましたが、この「見える化」自体が明確な規則を確立しているために、解釈の過程の中で英文全体から離れ、規則を当てはめるだけの状態に陥る危うさを感じました。例えば、英語は本来広いコンテクストの中で使用され、短文のみを切り取って考えることは不自然な行為のように思われます。しかしながら、この「見える化」を徹底して行うことは目の前の英文に対して盲目的に記号を振ることに専念してしまう恐れがあるのではないでしょうか。その結果、目の前の短文に関しては、従来日本語によって曖昧にされてきた部分を明確にすることはできたものの、結局大きな文章の流れを考えることを忘却してしまう恐れがあります。「見える化」という行為が規則性を持ち、独立しうるために、英文に記号を振って解釈するという限定的な過程を目標化してしまう危うさを感じます。「見える」ということは、同様に「他のものを見えなくさせる」という危うさを持っていることを、少なくとも教師は認識する必要があるのかもしれません。
また、この「見える化」という手法自体がある程度自立しているという点で、学習者がこの手法そのものに関心を示さなければ成功しない、という危うさも感じられます。というのも、全く英語に関心のない生徒に対して、この手法をマスターさせること自体が困難なように思えます。個人的な感覚なのですが、この「見える化」という方法そのものは英語から少し離れた性質を持っているような気がします。それは数学の問題を解く上で複雑な公式を丸暗記する感覚に似ているように思えます。数学に関心のない生徒にとって公式を丸暗記することは困難なことであり、またこれを丸暗記したところでどのように使用すればいいのか理解できず、そもそも使用できない恐れがあります。関心のない生徒や、極めて初級の段階にいる生徒には、この「見える化」という手法そのものが、英文を解釈するという全体に対しどのような位置づけをもっているか把握できない危うさを感じます。この「位置づけがわからない」という点に関しては、生徒の関心に直接関わってくる問題であり、わからない故に教科から離れてしまう危険を考えなければならないでしょう。今回の講演での成功例はあくまで大学生や大学院生と、ある程度英語全体が把握できている学習者だったので成功したのかもしれませんが、これが初期学習者である場合には特別な配慮が求められるかもしれません。
しかしながら、この「見える化」を用いることは、学習者の思考・解釈を明確化することで、彼らの学習を一歩離れた位置から俯瞰するきっかけを与えるでしょう。自身の学習を俯瞰して見ることは、より効率的な学習の達成につながるように思われます。俯瞰した学習法を経験した生徒は、その学習の延長線上にある「英語の運用」という巨大な像を感じ取るようになり、主体的な学習が展開されていくことも十分に考えられます。また、この学習法が生み出す、「学習が進んでいる感覚」そのものが、学習者の動機になることも十分に考えられると思います。全ての面を完璧にカバーした究極の学習法は存在し得ないと考えているので、この「見える化」を盲信すれば良い、とは考えませんが、その一方で、この手法の弱みを補いつつ自分の指導法に取り入れることは非常に有益だと思います。
追記 (2013/12/17)
この記事に関して何人かの方から感想をいただきました。
受験産業に従事されているある方は、「学生たちが英語を人の言葉としてとらえていない。」という板倉先生のご指摘に深く共感なさっていました。
中学校で長く教えられた後、今はある高校で教鞭をとってらっしゃる方は次のようなメールを下さいました(許可を得たので転載します)。
>
12月7日のブログ拝見。自分の経験を説明していただいている感じで、その通り!と納得。
「物語と文法理解」
「品詞感覚の大切さ」など
思わずメモ取りました。
(中略)
高校1年生を教えてみて中学校でするべきことがされていないのに驚きました。
品詞を考えたこともなく単語の単純な意味だけ覚える学習習慣しか持たない生徒たちでした。
中高の英語教育をつないでいかないといけない、と思うのですが、中高連携が難しいですね。小中連携以上に難しいです。
>
文部科学省が12月13日に発表した「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」によって英語教育の現場は大幅に変動するでしょう。
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/25/12/1342458.htm
そういう時は、平時にまして教師の目が「上」に向いて、「これは新しい方針にかなっていますか」と児童・生徒不在の授業になりがちです。
しかし、そういった流れ ―これは明らかに安倍政権が作り出している流れだと私は考えています― に自らを失ってしまうのではなく、学習者をよく観察し、教師一人ひとりがよく考えて実践を深めてゆきたいと思います。
2013年12月5日木曜日
Thinking in Education (Chapter 12 of Democracy and Education)
[ この記事は、デューイ『民主主義と教育』(John. Dewey (1916) Democracy and Education. を読む授業のためのものです。目次ページはhttp://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.htmlです。]
以下、引用はProject Gutenbergからします。
(Project Gutenbergに掲載されている本の著作権は切れていますので、引用や転載は自由です)。
http://www.gutenberg.org/files/852/852-h/852-h.htm#link2HCH0012
なお、以下でつけられたページ番号は、Dover editionのページ番号です。また、Project Gutenbergにはイタリックやボールドなどの強調が抜けていますので、それらは適宜Dover editionから補いました。
■印は、続く引用文の要約で、⇒印は私のコメントです。 下のスライドは、私にとって印象的だったデューイのことばです。
第12章: 教育における思考
Chapter Twelve: Thinking in Education
Chapter Twelve: Thinking in Education
■ 教示 (instruction)を、技能獲得、情報獲得、思考訓練に区分してしまうと、結果的にどれも不十分に終わってしまう。
The parceling out of instruction among various ends such as acquisition of skill (in reading, spelling, writing, drawing, reciting); acquiring information (in history and geography), and training of thinking is a measure of the ineffective way in which we accomplish all three. (p. 146)
⇒しかし、現実には、技能獲得はドリルで、情報獲得は丸暗記で、思考訓練は(例えば「クリティカル・シンキング」の時間で、と分けて特化して教えることがもっとも効果的と思われていないか(願わくば「クリティカル・シンキング」が、critical sinking となりませんように)。
■ 行為・自己・世界と結びついていない思考、思考と結びついていない技能、考えた上での行動と結びついていない情報は、知性を破壊する重荷となる。
Thinking which is not connected with increase of efficiency in action, and with learning more about ourselves and the world in which we live, has something the matter with it just as thought (See ante, p. 147). And skill obtained apart from thinking is not connected with any sense of the purposes for which it is to be used. It consequently leaves a man at the mercy of his routine habits and of the authoritative control of others, who know what they are about and who are not especially scrupulous as to their means of achievement. And information severed from thoughtful action is dead, a mind-crushing load. (p. 146)
⇒前の表現より一歩進んで、反知性的とまでデューイは表現していることに注意。(私たちにそういった認識はあるだろうか?)
■ 教育の方法の改善は、ひとえに思考にかかっている。
The sole direct path to enduring improvement in the methods of instruction and learning consists in centering upon the conditions which exact, promote, and test thinking. Thinking is the method of intelligent learning, of learning that employs and rewards mind. (pp. 146-147)
⇒最後の一文だけ翻訳:思考こそは、知的学びの方法であり、知性を使い知性に報いる学びの方法である。
⇒近年、英語教育界で流行した方法は、この原則とはずいぶんかけ離れてしまっているように思える。技能獲得と知識獲得を思考と連動させる方法について私たちは真剣に考えなければならないのではないか。
■ I: 思考は経験から始まる。(だが従来の哲学では、思考と経験は切り離されて考えられていた)
I. The initial stage of that developing experience which is called thinking is experience. This remark may sound like a silly truism. It ought to be one; but unfortunately it is not. On the contrary, thinking is often regarded both in philosophic theory and in educational practice as something cut off from experience, and capable of being cultivated in isolation. In fact, the inherent limitations of experience are often urged as the sufficient ground for attention to thinking. Experience is then thought to be confined to the senses and appetites; to a mere material world, while thinking proceeds from a higher faculty (of reason), and is occupied with spiritual or at least literary things. (p. 147)
⇒たしかに反知性的な態度と共に「君も、経験すればわかるよ」としか言わない人もいるが、このような人のいう「経験」は思考との結びつきが弱いようにも思わる。
逆に、「考えろ」と言われると妙にしゃちこばってしまい、本から覚えただけの学術用語を振り回す人もいるが、そのような人にも知性は感じられない。
「現場の経験から考える」ことができるという当たり前のことが、知性にとって重要なのだが、その当たり前のことを教員養成課程では十分に指導しているだろうか。
「考える」こと、特に「現場で考える」ことについては以下の三つのエッセイを読んでほしい。
栗田哲也 (2012) 『数学による思考のレッスン』ちくま新書
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/06/2012.html
実践者として現場で考えるための方法論
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/07/blog-post_20.html
想像力と論理力の統合としての思考力について
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/08/blog-post_2.html
■ しかしもちろん経験も、最初は試行錯誤から始まる。
But the first stage of contact with any new material, at whatever age of maturity, must inevitably be of the trial and error sort. An individual must actually try, in play or work, to do something with material in carrying out his own impulsive activity, and then note the interaction of his energy and that of the material employed. This is what happens when a child at first begins to build with blocks, and it is equally what happens when a scientific man in his laboratory begins to experiment with unfamiliar objects. (pp. 147-148)
⇒私は「手で考える」という表現が好きだが、まずはモノを手にとって、いろいろといじくるうちに考え始めるというのは、確かに、遊びにおいても仕事においても、知性の始まりだろう。しかし、現在、そのような遊びは十分になされているだろうか。昔の徒弟制を無批判的に礼賛はしないが、仕事においても、マニュアルを与えて試行錯誤抜きにいきなり完成品を求めるようなやり方ばかりになっていないか。
以下の本は、私がもう20年近く魅了されている本で、いつかきちんとまとめようと思っているが、なかなかその時間がない。現場の知性(そして机上の学問の薄っぺらさ)を理解するためには素晴らしい本なので、ぜひ機会を作って読んで下さい。(ちなみに私は西岡常一さんの著作やDVDはおそらくすべて所有して心の糧にしています)。
■ 学校の勉強も、日常生活での思考や振り返りや行動と結びついてはじめて学びとなる。
To realize what an experience, or empirical situation, means, we have to call to mind the sort of situation that presents itself outside of school; the sort of occupations that interest and engage activity in ordinary life. And careful inspection of methods which are permanently successful in formal education, whether in arithmetic or learning to read, or studying geography, or learning physics or a foreign language, will reveal that they depend for their efficiency upon the fact that they go back to the type of the situation which causes reflection out of school in ordinary life. They give the pupils something to do, not something to learn; and the doing is of such a nature as to demand thinking, or the intentional noting of connections; learning naturally results. (p. 148)
⇒これまでの授業でも、どう英語科の授業内容を、学習者の日常生活と結びつけるかということを討議してきたが、これからも考え続けたい(英語が苦手な学習者にも、日常よく見かけるアルファベット標記やカタカナ英語から、英語授業を、学習者が生きることと結びつけることは可能だと私は考える)。
実践してみる場所・機会がないままに私が温めているアイデアで、なおかつ、ここの議論の流れと直結しているわけではないので恐縮なのだが、アルファベットが書けない学習者に対しても、上記のように生活の中にあるアルファベットや、下の図のように色彩やフォントの力を借りたアルファベットを使って、学習者の感性に訴えながら知性を育てる教育はできないものだろうか?
■ 単にいつもやっていることや、急に思いついたことでなく、学習者に新しさ(ということは不確実性と問題性)を提示するような状況を教師は提供しなければならない。
That the situation should be of such a nature as to arouse thinking means of course that it should suggest something to do which is not either routine or capricious -- something, in other words, presenting what is new (and hence uncertain or problematic) and yet sufficiently connected with existing habits to call out an effective response. An effective response means one which accomplishes a perceptible result, in distinction from a purely haphazard activity, where the consequences cannot be mentally connected with what is done. The most significant question which can be asked, accordingly, about any situation or experience proposed to induce learning is what quality of problem it involves. (p. 148)
⇒学習者が思わず「えっ、どうしたらいいんだろう」と考えてしまうような課題を作り出すことが教育の方法論の中核にある。そのためには、日頃から生徒の思考様式を観察しておくことが必要になるだろう。生徒を見ずに教育書ばかり読んでいてもよい教師にはなれない。
個人的には、問題の「質」 (quality of problem) という表現がやはり気にかかった。私たちはもっと、量に還元しがたく、身体ごと感じるしかない質(クオリティ)というものを大切にしないといけないのではないか。
■ 従来の教育方法でも、問題や課題をきちんと提示しているではないかと思うかもしれないが、生徒にとって真正な問題や課題と、擬似的な問題や課題を区別するために、以下に続く問いに即して考えてゆこう。
At first thought, it might seem as if usual school methods measured well up to the standard here set. The giving of problems, the putting of questions, the assigning of tasks, the magnifying of difficulties, is a large part of school work. But it is indispensable to discriminate between genuine and simulated or mock problems. The following questions may aid in making such discrimination. (p. 148)
⇒確かに一見、「問題」や「課題」に見えながらも、学習者の心身に何のワクワク感も目を覚ますような驚きや心地良い困惑も感じさせないものはある。
■ (a) それは実は問題ではないのではないか?教師が授業のためだけに作り上げた問題であり、日常生活では見当たらないようなものではないか?
(a) Is there anything but a problem? Does the question naturally suggest itself within some situation or personal experience? Or is it an aloof thing, a problem only for the purposes of conveying instruction in some school topic? Is it the sort of trying that would arouse observation and engage experimentation outside of school? (pp. 148-149)
⇒先日ある中学校の授業で、「比較級、最上級、同等比較を使って、英語の文章を書いてみよう」という「課題」が与えられたが、私はその課題に何のリアリティも感じられなかった。
私なら例えば、次のように指示を出すかもしれない。
「みんないろいろな自慢をしてみよう。一つ目の自慢は「絶対自慢」― あなたが絶対の自信をもって「これは、誰・何よりも○○や」と言える自慢 [=要は、最上級を使う表現]。二つ目の自慢は、「ドヤ顔自慢」 ―「これは、こいつよりは○○だぞ」という自慢 [=比較級]。そして最後は、「謙虚な自慢」 ― 「これは、少なくともこれと同じぐらいは○○だけど」 [=同等比較]。さあ、自慢したいものを考えて、それぞれの自慢の方法で表現してみて。表現したいけど知らないことばがあったら教えるから手を上げてね」
ほんのわずかの差かもしれないが、このように指示することによって、多少なりとも英語表現と日常生活の認識が噛み合わないだろうか。
■ (b) 本当に学習者にとっての問題であるか?教師が評価を提出しなくてはならないから出しているだけの問題ではないのか?言い換えるなら、学習者にとって内的な問題か、それとも外的な問題か?
(b) Is it the pupil's own problem, or is it the teacher's or textbook's problem, made a problem for the pupil only because he cannot get the required mark or be promoted or win the teacher's approval, unless he deals with it? Obviously, these two questions overlap. They are two ways of getting at the same point: Is the experience a personal thing of such a nature as inherently to stimulate and direct observation of the connections involved, and to lead to inference and its testing? Or is it imposed from without, and is the pupil's problem simply to meet the external requirement? (p. 149)
⇒これに関しては毎日新聞(2013年12月3日)に掲載された青木保氏(国立新美術館長、文化人類学者)のエッセイ「世界をタフに生き抜くために」の一部が印象的だったので、ここに引用する(引用部分は冒頭箇所で、エッセイはその後一捻りがあるのだが、それはまた別の話として)。
「成長の限界」が指摘されて久しい。それにもかかわらず「生産性第一」と「効率性第一」は21世紀のいまも人間の世界を支配し続ける。その様は生産性と効率性の暴虐と感じられることがある。
人がたとえ一時でも心や精神を慰め、日常の喧騒から解放され、人間存在の深さ、美しさに思いを凝らし、さらには何らかの創造的なヒントを得る契機ともなりうる文化の鑑賞やその施設の維持に対しても、生産性と効率性の暴虐が、「評価」「査定」という大義名分によって遺憾なく発揮されるのが現実なのだ。人間の精神や心を数量的基準によって「査定」する。この人間を退廃の極地に追い込もうとする「成長」の論理の限界は、もはや耐え切れないところまできているといってよいのではなかろうか。
英語教育で行われている「評価」のかなりの部分は、本当に学習者のための評価になっているのだろうかと私はかねがね疑問に思っている。多くの「評価」は、教師が行政者から命ぜられて、外向けに行われている「査定」に過ぎないのではないか。少し別の言い方をすると、そんな「評価」は、学習者にとって内的必然性がない(=学習者がその評価の必要性を感じていない)だけでなく、教師にとっても内的必然性がない(=教師も実はそんな評価は特にやる必要がないと思っている)ものではないか--この場合、もちろん、教師が査定という小権力行使を喜ぶ、他に楽しみのない俗悪な人間ではなく、純粋に学習者のことを考えているというのがここでの前提だけど。
■ 子どもは生来好奇心旺盛のはずだが、学校の中ではいつしか好奇心を失ってしまう。このことは、学校が、いかに自然と問題に出くわす経験を与えていないかということを示している。
No one has ever explained why children are so full of questions outside of the school (so that they pester grown-up persons if they get any encouragement), and the conspicuous absence of display of curiosity about the subject matter of school lessons. Reflection on this striking contrast will throw light upon the question of how far customary school conditions supply a context of experience in which problems naturally suggest themselves. No amount of improvement in the personal technique of the instructor will wholly remedy this state of things. There must be more actual material, more stuff, more appliances, and more opportunities for doing things, before the gap can be overcome. And where children are engaged in doing things and in discussing what arises in the course of their doing, it is found, even with comparatively indifferent modes of instruction, that children's inquiries are spontaneous and numerous, and the proposals of solution advanced, varied, and ingenious. (pp. 149-150)
⇒事態を改善させるためには、「もっと何かを行うための教材・教具・道具・機会がなくてはならない」(There must be more actual material, more stuff, more appliances, and more opportunities for doing things)としている。
最近の英語教育の方法論は、教師個人の力量ばかりに集中し、このように具体的な教材・教具・道具・機会が潤沢にあることを軽視していないか?(実際、優れた先生の授業を見学に行ったりすると、しばしば信頼と交渉で勝ち取った「英語教室」で、学習者を英語の学びに仕向ける潤沢な環境を整備していることが多い。この環境整備も、教育方法あるいは教師の力量の一部と言うべきではないか。(私たちは、能力をとかく個人の皮膚(あるいは頭蓋骨)の内だけに帰属させようとする傾向がある)。
■ 生徒にとっての「問題」は、教師の要求をみたすことだけになり、教師が何を求め、どうしたら教師を満足させることができるかだけを考えるようになる。知らない間に学習者の学びの対象は、学校システムの慣行や基準、そして権威となってしまう。
As a consequence of the absence of the materials and occupations which generate real problems, the pupil's problems are not his; or, rather, they are his only as a pupil, not as a human being. Hence the lamentable waste in carrying over such expertness as is achieved in dealing with them to the affairs of life beyond the schoolroom. A pupil has a problem, but it is the problem of meeting the peculiar requirements set by the teacher. His problem becomes that of finding out what the teacher wants, what will satisfy the teacher in recitation and examination and outward deportment. Relationship to subject matter is no longer direct. The occasions and material of thought are not found in the arithmetic or the history or geography itself, but in skillfully adapting that material to the teacher's requirements. The pupil studies, but unconsciously to himself the objects of his study are the conventions and standards of the school system and school authority, not the nominal "studies." The thinking thus evoked is artificially one-sided at the best. At its worst, the problem of the pupil is not how to meet the requirements of school life, but how to seem to meet them?or, how to come near enough to meeting them to slide along without an undue amount of friction. (p. 150)
⇒日本の学校でも、このような現状が多いと考えるが、実際のところどうだろう?このように育てられた「良い子」あるいは「学校秀才」は、人の目ばかりを気にして、その場で何が求められているかを察知することは得意だが、誰も答えがわからない(というより、何が問うべき問いであるかすらわからない)状況では、まったく役立たずであるというのが定番の批判だが、その批判はやはりあたっているのだろうか?
以下は、3.11の直後のある記事で私が引用した内田樹先生の文章の一部だが、この批判は上でデューイが述べているような教育で育てられた「学校秀才」なのだろうか?
けれども、日本のエリートたちは「正解」がわからない段階で、自己責任・自己判断で「今できるベスト」を選択することを嫌う。これは受験エリートの通弊である。彼らは「正解」を書くことについては集中的な訓練を受けている。それゆえ、誤答を恐れるあまり、正解がわからない時は、「上位者」が正解を指示してくれるまで「じっとフリーズして待つ」という習慣が骨身にしみついている。彼らは決断に際して「上位者の保証」か「エビデンス(論拠)」を求める。自分の下した決断の正しさを「自分の外部」に求めるのである。仮に自分の決断が誤ったものであったとしても、「あの時にはああせざるを得なかった」と言える「言い訳の種」が欲しい。「エビデンス(論拠)とエクスキュース(言い訳)」が整わなければ動かないというのが日本のエリートの本質性格である。(中略)
日本の戦後教育は「危機的状況で適切な選択を自己決定できる人間」の育成に何の関心も示さなかった。教育行政が国策的に育成してきたのは「上位者の命令に従い、マニュアル通りにてきぱきと仕事をする人間」である。それだけである。
http://www.chuokoron.jp/2011/04/post_72_3.html
■ II: 自ずと生じた困難に対応するためには、データが必要だ。先進的な教育方法を提唱している教師の中には、あたかも子どもは自分の頭の中だけから解決法を見出すことができるかのように言う者もいるが、それは間違い。
II. There must be data at command to supply the considerations required in dealing with the specific difficulty which has presented itself. Teachers following a "developing" method sometimes tell children to think things out for themselves as if they could spin them out of their own heads. (p. 150)
⇒確かに、考える素材も何もないところで、「考えろ」と言われても困るだけ。
■ 考えるための材料は、経験。
The material of thinking is not thoughts, but actions, facts, events, and the relations of things. In other words, to think effectively one must have had, or now have, experiences which will furnish him resources for coping with the difficulty at hand. (pp. 150-151)
⇒全訳
考えるための材料は思考ではなく、行為、事実、出来事、物事の関係である。言い換えるなら、効果的に考えるためには、目の前にある困難に対応するための資源となる経験を過去に有しているか、現在有していなければならない。
■ 学校には学習者に与えられる情報が多すぎるとも言えるし、少なすぎるとも言える。
There is no inconsistency in saying that in schools there is usually both too much and too little information supplied by others. (p. 152)
■ 暗記課題や試験問題で再生されるべき情報はありすぎる。知識は、さらなる探究のために必要とされるものに過ぎないのに、学校ではしばしば知識自体が到達点だとみなされている。このように静的な知識観が、考えることを抑圧してしまう。
The accumulation and acquisition of information for purposes of reproduction in recitation and examination is made too much of. "Knowledge," in the sense of information, means the working capital, the indispensable resources, of further inquiry; of finding out, or learning, more things. Frequently it is treated as an end itself, and then the goal becomes to heap it up and display it when called for. This static, cold-storage ideal of knowledge is inimical to educative development. It not only lets occasions for thinking go unused, but it swamps thinking. No one could construct a house on ground cluttered with miscellaneous junk. Pupils who have stored their "minds" with all kinds of material which they have never put to intellectual uses are sure to be hampered when they try to think. They have no practice in selecting what is appropriate, and no criterion to go by; everything is on the same dead static level. (p. 152)
⇒デューイが100年前に言っているこの批判は、市井の人々ならおそらく誰でも頷くものだろうが、なぜこの批判を受けて学校教育が一向に変わろうとしないのか。
私たちには、学校教育のシステムについて(再)分析が必要ではないか。こういった批判が出る度に「いやぁ、まったくデューイ先生の言うとおりです。知識至上主義でなく、考えることを大切にする授業をしましょう」と言ってきた教師は、数多くいるはずだ。そんな反省の弁にもかかわらず、学校教育が変わっていないという事実を受けて、私たちは学校教育システムの何が、知識至上主義を維持し促進しているかもしれないことを考える必要があるのではないか。
■ 他方で、学習者が問題解決の経験のために使える情報が学校にふんだんにあるとは言い難い。
On the other hand, it is quite open to question whether, if information actually functioned in experience through use in application to the student's own purposes, there would not be need of more varied resources in books, pictures, and talks than are usually at command. (p. 152)
⇒情報革命で情報供給のあり方はどんどん変わっているが、学校はその変化をうまく使いこなしているだろうか?(先日、一年生の声を集めたら、中高の情報教育のほとんどは「ネットはあぶない」といった抑制的なものだったという声が多かった)。
■ III: 思考にはデータが必要だが、他方でアイデア(思いつき)が必要。既知のデータに加えて、未知への推論があってはじめて思考と言える。
III. The correlate in thinking of facts, data, knowledge already acquired, is suggestions, inferences, conjectured meanings, suppositions, tentative explanations: -- ideas, in short. Careful observation and recollection determine what is given, what is already there, and hence assured. They cannot furnish what is lacking. They define, clarify, and locate the question; they cannot supply its answer. Projection, invention, ingenuity, devising come in for that purpose. The data arouse suggestions, and only by reference to the specific data can we pass upon the appropriateness of the suggestions. But the suggestions run beyond what is, as yet, actually given in experience. They forecast possible results, things to do, not facts (things already done). Inference is always an invasion of the unknown, a leap from the known. (p. 152)
⇒"Idea"ということばは、これまでだいたい「観念」と訳してきたが、ここでは「アイデア(思いつき)」とした。
■ この意味で、考え(=物事が示唆しているが明示しているわけではないもの)は、創造的である。考えとは、新たなものへの侵入であり、独創を伴うものである。
In this sense, a thought (what a thing suggests but is not as it is presented) is creative,-- an incursion into the novel. It involves some inventiveness.
⇒"A thought"には不定冠詞がついているので「考え」と訳したが、この語は"an idea"と同意語だと考えられる。
■ ニュートンが重力の法則を考えた時に、彼は他の人が手にしていない新しいデータをもっていたわけではなかった。
When Newton thought of his theory of gravitation, the creative aspect of his thought was not found in its materials. They were familiar; many of them commonplaces -- sun, moon, planets, weight, distance, mass, square of numbers. These were not original ideas; they were established facts. His originality lay in the use to which these familiar acquaintances were put by introduction into an unfamiliar context. (p. 153)
⇒最後の一文を翻訳
ニュートンの独創性は、既知を、未知の背景に当てはめて使ってみるという、既知の使い方にあった。
■ 他の科学的発見も同じで、既知の事柄を、これまで誰も試したことがないやり方で考えるのが科学的発見につながる。
The same is true of every striking scientific discovery, every great invention, every admirable artistic production. Only silly folk identify creative originality with the extraordinary and fanciful; others recognize that its measure lies in putting everyday things to uses which had not occurred to others. The operation is novel, not the materials out of which it is constructed. (p. 153)
⇒最後の2文を翻訳。
愚か者だけが、創造的独創性とは、非凡や奇想であると考える。愚かでない者は、創造的独創性を生み出す手段とは、日常の事柄を、他の人が思いついたことのないやり方で使ってみることであることを認識している。頭の使い方(作動)は新たなものだが、その材料は新たなものではない。
⇒本当に頭がいい人は、誰もが見ている事柄から、誰もが気づかなかった原理・原則・法則を見出すことができる人。他人が知らない最新知識を誇らしげに語る人は、往々にして、思考力のない単なる知識の収集家。単なる知識の収集家は、知識を実生活でまともに活かすことが活かすことができないので、しばしば無学だけれど現実生活で鍛えられた人よりも頭が悪いようにしか見えない。
■ ここから生じる教育的な結論というのは、すべての思考は、これまで理解されていなかったことを新たな状況に投射するという点で、独創的であるということである。仮に、周りの者が既にその考えを知っていたとしても、考えている本人にとって、思考とは発見であり創造である。
The educational conclusion which follows is that all thinking is original in a projection of considerations which have not been previously apprehended. The child of three who discovers what can be done with blocks, or of six who finds out what he can make by putting five cents and five cents together, is really a discoverer, even though everybody else in the world knows it. There is a genuine increment of experience; not another item mechanically added on, but enrichment by a new quality. The charm which the spontaneity of little children has for sympathetic observers is due to perception of this intellectual originality. The joy which children themselves experience is the joy of intellectual constructiveness -- of creativeness, if the word may be used without misunderstanding. (p. 153)
⇒しかし実際には、「そんなこと、いちいち学習者に考えさせないで、早く答えを言えばいいだろう」と思う教師は多いし、そのような教師に教育を受けた学習者も、考えるという発見の喜びを知らないまま、使えない知識を蓄えることばかりを誇るようになる。
■ 思考とは、物のように人から人へと移送できるものではない。
It is that no thought, no idea, can possibly be conveyed as an idea from one person to another. When it is told, it is, to the one to whom it is told, another given fact, not an idea. (p. 153)
⇒全訳
どんな思考も、どんな思いつきも、ある人から他の人へと移送できるものではない。もしそれが語られたとしたら、それは語られた人につけ加えられた事実であり、思いつきではない。
⇒別の言い方を大胆に導入するなら、思考・考えること・思いつくことは、知性の作動 (operation) であり、知性にとっての対象物 (object) ではない。
■ コミュニケーションは人に思考を促進することも抑圧することもできるが、人に思考を直接与えることはできない。
The communication may stimulate the other person to realize the question for himself and to think out a like idea, or it may smother his intellectual interest and suppress his dawning effort at thought. But what he directly gets cannot be an idea. Only by wrestling with the conditions of the problem at first hand, seeking and finding his own way out, does he think. When the parent or teacher has provided the conditions which stimulate thinking and has taken a sympathetic attitude toward the activities of the learner by entering into a common or conjoint experience, all has been done which a second party can do to instigate learning. (pp. 153-154)
⇒教育者が学習者になしうることは、間接的なことでしかないことを述べるために重要な論点なので翻訳。
コミュニケーションによって、他人に問題を実感させ似たような考えを思いつかせることもできるし、その人の知的興味を削ぎ芽生え始めた思考を抑圧することもできる。しかし、その人が直接に得るのは決して思考ではない。自分でじかに問題の条件と格闘し自分なりの解決法を探し出してこそ、人は思考できるのだ。親や教師が、学習者に思考を促進する条件を与え、学習者と共同的・協働的に経験を共にしながら学習者の活動に対して共感的な態度を取ったなら、学びを開始させるために親や教師が第二者としてできることはすべてやり終えたのだ。
⇒しかし、現実は、教師は「第二者」という隣人としてでなく、むしろ、「第一者」である学習者当人が自分自身で経験し考え理解すべきことを、あれこれと当人に代わって行い説明し解説してしまっているのではないか。その結果、学習者は当座はそれなりに目標行動ができるようになっても、それが身についていないため、すぐにそれを忘れてしまっているのではないか。
デューイの考えなら、親や教師がなすべきことは、子どもが自ら問題に遭遇しそれに対処できるような適切な環境を整備し、そこで子どもが問題に取り組むことを共感的に見守ること(そして必要に応じて最小限の示唆を与えること)、となる。
だが、実はそのように環境を適切に整備し子どもを見守ることの方が、子どもに成り代わり何もかもやってしまうことより、はるかに困難。環境を適切に整備するためには、問題の性質を十二分に理解した上で、その時々の子どもの(知的・心理的)状態をわきまえていなければならないし、子どもを見守るためには子どもの僅かな変化を見落とさずに環境を微調整しつつ子どもの発達を待つ知的忍耐が必要。時には「あぁ、自分でやってみせた方が早い!」と思いつつ、「急がばまわれ」と自分に言い聞かせ、環境整備と子どもへの信頼だけに専念することが必要かもしれない。
■ 教師は子どもを観察し、子どもの事実に即して考え、教師として子どもから学ばなければならない。
The rest lies with the one directly concerned. If he cannot devise his own solution (not of course in isolation, but in correspondence with the teacher and other pupils) and find his own way out he will not learn, not even if he can recite some correct answer with one hundred per cent accuracy. We can and do supply ready-made "ideas" by the thousand; we do not usually take much pains to see that the one learning engages in significant situations where his own activities generate, support, and clinch ideas -- that is, perceived meanings or connections. This does not mean that the teacher is to stand off and look on; the alternative to furnishing ready-made subject matter and listening to the accuracy with which it is reproduced is not quiescence, but participation, sharing, in an activity. In such shared activity, the teacher is a learner, and the learner is, without knowing it, a teacher -- and upon the whole, the less consciousness there is, on either side, of either giving or receiving instruction, the better. (p. 154)
⇒前の箇所に続くところで、ここも全訳。
残りは、問題に直接関わっている学習者がすることだ。学習者が自分自身の解決法を生み出せず(といっても学習者は一人だけで解決法を生み出すのではなく、教師や他の学習者とのやり取りの中で生み出す)自分なりのやり方を見いだせなかったら、たとえ、学習者がある正答を100%の正確さで再生できても、学びは成立していない。私たちは何千もの既成の「アイデア」を子どもに与えることができるし、実際に与えてもいる。私たちは普通、意味ある状況で学びが成立しており、学習者自身の活動がアイデア ―つまりは知覚された意味やつながり― を生み出し、維持し、確かなものにしているかを苦労して見守ろうとしない。だからといって、教師は離れて立って傍観していればいいということではない。既成の教科内容を与えそれが再生される正確さをチェックすることの代わりにやることとは、不作為ではなく、活動への参加であり活動の共有である。共有された活動において、教師は学習者であり、学習者は、自分では気づかないが、教師である ― 概して言うなら、教師と学習者のどちらの側にも教示を与えているとか受けているとかいった意識がなければないほど、よい。
⇒教師は環境を整備し学習者を見守る時に、個々の学習者はいかに学ぶかということを個々の学習者に教えてもらっている(もちろん学習者の学びには、多くの学習者に共通することもあれば、一部の学習者だけに当てはまることも、個々人で違うこともあるだろう)。その意味で、教師は学習者であり、学習者は教師である。
教師が整備した環境で、学習者がいろいろと試行錯誤しながら考え、他人と協働している時は、特段、学習者が教師に、また教師が学習者に、何かを教えているようには思えないかもしれないが、そのように学習者が問題に集中している時、学習者はもっともよく学ぶし、教師も学習者からもっともよく学んでいる。
以下は、私が10年前にある雑誌のために書いたエッセイの一部です。その当時、尾道市土堂小学校に校長として勤務しておられた陰山英男先生の様子を見ていて考えたことを書きました。
だが雑誌『プレジデント』(2003年12月15日号)のインタビューに答えて陰山先生はこう言う。「"陰山メソッド"なんてマスコミは言うけど、私が考えだしたことなんか、一つもないってことを、もっと強調しなきゃあ。陰山メソッドさえやれば子どもが無条件に伸びるなんて、ほんと大きな誤解ですよ」。「要は、どれもこれも、私の中では単なる方法、単なる手法にすぎないんです。子どもたちが伸びるためなら、何でもする。面白そうな手法があれば、まずは試してみる。それを愚直に実践するだけなんです。百ますだって、私自身のやってきたことの中では、50分の1くらいの感覚なんです」。陰山先生に教育のあり方・ノウハウを教えているのは子どもたちだ、というわけである。
この態度は、授業名人の英語教師にも見られる。富山県の中嶋洋一先生はこう言う。「授業がおもしろくなったのは私の力ではありません。緻密なのは私の性格ではありません。みな子どもたちが教えてくれたのです。私が今あるのはみな彼らのおかげです。本当に感謝しています」(『学習集団をエンパワーする30の技』明治図書)。島根県の田尻悟郎先生も同じようなことを言っていた。「目の前の生徒の疑問にどう答えるか、彼らの意欲をどう引き出し、社会でたくましく生きていける力をつけるかということばかり考えています」。なるほど、子どもの事実こそが教師の教師だったのだ。
誰でも見ているはずの現象から、誰も考えつかなかった自然法則を見出したニュートンのように、優れた教師は、どんな教師の網膜にも映っているはずの子どもの姿に、凡人が思いもつかなかった結びつきを見い出す。やはり、感性と思考力が重要。
■ IV: アイデアとは、解決の予期であり、活動とその結果の予期である。アイデアに基づいて行動してみてアイデアは真価が試される。アイデアによって観察・想起・実験が導かれる。アイデアとは学びの中間点であり到達点である。
IV. Ideas, as we have seen, whether they be humble guesses or dignified theories, are anticipations of possible solutions. They are anticipations of some continuity or connection of an activity and a consequence which has not as yet shown itself. They are therefore tested by the operation of acting upon them. They are to guide and organize further observations, recollections, and experiments. They are intermediate in learning, not final. (p. 154)
⇒アイデアあるいは仮説は立てただけではなく、実際にアイデア・仮説に即して行動を起こして、その結果からアイデア・仮説を検証したり修正したり棄却できないと学んだことにはならない。
考えてみれば、マニュアルなどなかった昔は、人はほとんどの事柄において、このように現実経験に即して知性を高め行動力をつけていった。そんな市井の人々は、現実経験抜きの虚学で学歴を取り現実対応力のないままに威張り散らしている人よりもはるかに賢く、そのような人を「学問をした馬鹿」と呼んでいた。
いつもの安っぽい言い方になるけど、表面的な学習効率ばかりを考え、学習者を単なる既成の正答の再生マシーンにしたてるような教育方法の「進歩」は、私たちをますます愚かにしているのではないか。
幕末から明治の日本人に比べ、21世紀の日本人ははるかに多くの情報・既成の知識をもっているはずだが、果たして現在の私たちは、当時の日本人のように大胆に社会を変革し構築できるだけの知性をもっているのか。
■ 思考とは未完成で暫定的な示唆であり、今経験している状況に対応するための一つの立場・方法に過ぎない。思考は、実際の状況で試されてはじめて意味とリアリティをもつ。
As we have already seen, thoughts just as thoughts are incomplete. At best they are tentative; they are suggestions, indications. They are standpoints and methods for dealing with situations of experience. Till they are applied in these situations they lack full point and reality. Only application tests them, and only testing confers full meaning and a sense of their reality. (p. 150)
⇒「紺屋の白袴」や「医者の不養生」という表現もあるけど、私も含めて大学で偉そうに教育について語っている人間は、まずもってその語っていることを自ら実践し自ら試されなければならない。試してうまくいかずいろいろと試行錯誤し思案することは、かっこいいことではないかもしれないが、恥ずかしいことではない。逆に、試そうとせずに「いやぁ、私は理論を語っているだけですから」としらを切るのは卑劣で破廉恥(自戒を込めて)。
本当にすごい先生は、どこにでも行って出張授業をする。例えば田尻悟郎先生。「いやぁ、うちの高校では理想の授業なんて到底できませんよ」と授業改革を拒む教師がいれば、その人の高校に出かけてそこで、その教師が使っている教科書を使って素晴らしい出前授業をしてみせる(ちなみに田尻先生は中学校経験は長いけど、正式に高校で教えたことはないはず)。初対面の高校生ともすぐに良好な関係を作り、普段は英語嫌いな生徒も前を向く。
これはすごい。どうして日頃接していない高校生の実態に即した授業を展開することができるんだろう。この観察力と行動と結びついた思考力! ― もう、脱毛。・・・じゃなかった、脱帽(笑)。
■ 学校の教科内容には、それ特有の奇妙で人工的な「リアリティ」がまとわりついている。実生活で感じるようなリアリティではないが、暗記して試験問題を解かなくてはならないというリアリティを生徒は覚える。かといってこの学校的リアリティで、日常生活が豊かになるわけではない。それどころか、中途半端な理解のままに知識内容を扱うことに慣れてしまうと、生徒の考える力が弱まってしまう。
there can be no doubt that a peculiar artificiality attaches to much of what is learned in schools. It can hardly be said that many students consciously think of the subject matter as unreal; but it assuredly does not possess for them the kind of reality which the subject matter of their vital experiences possesses. They learn not to expect that sort of reality of it; they become habituated to treating it as having reality for the purposes of recitations, lessons, and examinations. That it should remain inert for the experiences of daily life is more or less a matter of course. The bad effects are twofold. Ordinary experience does not receive the enrichment which it should; it is not fertilized by school learning. And the attitudes which spring from getting used to and accepting half-understood and ill-digested material weaken vigor and efficiency of thought. (p. 155)
⇒繰り返すが、どうして100年も前に言われているこういった批判が、現代にも当てはまるのだろう(いや現代にこそますます当てはまっている、と言うべきだろうか)。教育学・教師教育・教員養成は、この100年間何をしていたのだろう?決してサボっていたわけではないだろう(少なくとも形式的には研究紀要論文は昔よりはるかに量産されている)。となれば、現代の私たちが「教育学・教師教育・教員養成」と思い込んでいる枠組みに、どこか根本的な誤りがあるのではないか(そして前にも述べたように、学校教育システム ―おそらくは試験制度― に根本的な歪みがあるのではないか)。
■ 教室での教示の三類型
Classroom instruction falls into three kinds. (p. 157)
■ 一番悪いのが、授業が、その科目の前後の授業とも、他の科目の授業ともつながりがないように進められるタイプの授業。
The least desirable treats each lesson as an independent whole. It does not put upon the student the responsibility of finding points of contact between it and other lessons in the same subject, or other subjects of study.
⇒前の授業内容とのつながりを簡単に述べる教師は多いが、上に書いているように、そのつながりを生徒に考えさせる教師は多くはないだろう。ましてや、他の科目の授業とのつながりを考えさせる教師は少ない(というより、他の教科内容に興味をもっている教師が少ない)。また、授業に慣れていない新人教師は、1時間の中の諸活動にもつながりがない授業をしてしまいがち。
参考記事:和田玲先生(順天中学・高等学校)から学んだこと
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/02/blog-post.html
■ 少しマシなのは、授業の前後のつながりはわかるが、授業が学校教科としてしか認識されておらず、学習者の実生活に結びついておらず、学校教育を受けることで学習者が実生活を豊かに生きることまでは至っていない。
Wiser teachers see to it that the student is systematically led to utilize his earlier lessons to help understand the present one, and also to use the present to throw additional light upon what has already been acquired. Results are better, but school subject matter is still isolated. Save by accident, out-of-school experience is left in its crude and comparatively irreflective state. It is not subject to the refining and expanding influences of the more accurate and comprehensive material of direct instruction. The latter is not motivated and impregnated with a sense of reality by being intermingled with the realities of everyday life. (p. 157)
⇒「授業がうまい先生」も多くはこのレベルか?
■ もっともよい授業は、学校教科と実生活の結びつきに影響を与え、学習者が常に両者に共通する点を探そうとするようになる授業。
The best type of teaching bears in mind the desirability of affecting this interconnection. It puts the student in the habitual attitude of finding points of contact and mutual bearings. (p. 157)
⇒(決して、授業中に教科内容とは関係のない人生訓を脱線話としてよく語ってくれるという意味でなく)「○○先生には、△△(=教科名)を教えてもらっただけでなく、人生の生き方も教えてもらっています」と生徒に言われたり、「社会に出てから△△の知識を使う機会は実はまったくないないのですが、先生が教えてくださったことは、私の仕事や人生の隅々に生きています」と卒業生に言われたりする教師がこのレベルの授業をしているということか。さらに安っぽい言い方をすると、こういう教師は進路実績などの記録を残す以上に、生徒の人生に深い記憶を残す。
要約 (Summmary)
Processes of instruction are unified in the degree in which they center in the production of good habits of thinking. While we may speak, without error, of the method of thought, the important thing is that thinking is the method of an educative experience. The essentials of method are therefore identical with the essentials of reflection. They are first that the pupil have a genuine situation of experience -- that there be a continuous activity in which he is interested for its own sake; secondly, that a genuine problem develop within this situation as a stimulus to thought; third, that he possess the information and make the observations needed to deal with it; fourth, that suggested solutions occur to him which he shall be responsible for developing in an orderly way; fifth, that he have opportunity and occasion to test his ideas by application, to make their meaning clear and to discover for himself their validity. (p. 157)
⇒さらに短くまとめると次のようになる。
考えることが教育的経験 (educative experience) の方法であり、その本質は振り返り (reflection) と同じ。学習者は、(1) ある状況の中で純粋に興味のある活動を行う。 (2) 問題が生じ思考が刺激される。(3) 情報を集め観察をする。(4) 考えが浮かび、それを試してみようと思う。(5) 実際に自分の考えが意味あり妥当なものだったかを試す。
"Democracy and Education"読解のためのブログ記事の目次ページ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.html
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