金谷憲先生が、この3月23日に東京学芸大学での最終講義をなさいます。
『英語教師養成・研修の課題~30年の研究・実践をふり返って~』(仮題)
日時:2013年3月23日(土) 16:00-17:30
場所:東京学芸大学 N棟4階 N410教室
※学芸大へのアクセスは下記サイトをご覧ください。
http://www.u-gakugei.ac.jp/07access/
事前申し込み:不要(直接、教室にお越しください)
参加費:無料
日時:2013年3月23日(土) 16:00-17:30
場所:東京学芸大学 N棟4階 N410教室
※学芸大へのアクセスは下記サイトをご覧ください。
http://www.u-gakugei.ac.jp/07access/
事前申し込み:不要(直接、教室にお越しください)
参加費:無料
この日は私の勤務校での卒業式ですので、私はこの最終講義を拝聴することはできません。ですから、ここでお祝いのことばを書かせていただこうと思います。お祝いと言いますのは、まずもって定年の年齢まで健康で働くことができるというのは、必ずしも容易なことではないからです。
しかしそれよりも重要なことは、金谷先生がこれまでなさってこられて、そしておそらくは四月からもさらに発展させるだろう、金谷先生が切り拓かれてきたスタイルの英語教育研究を私たちは祝うべきだということです。
金谷先生の研究スタイルは、金谷憲先生の著作リスト(アマゾンによるもの)を見ても明らかですが、極めて現実的で、それでいて体制迎合的にならず、現状を理性的に分析し、その分析から何ができるかを、多くの研究仲間・実践者仲間との協同から実現させてゆくことを特徴としているかと思います。
そんな金谷先生の研究スタイルがもっともよく現れている本の一冊と私が考えているのが、『英語教育熱』です(この本は私が英語教育関係の書籍の中でもっとも好きな本の一冊でもあります)。この本を私は2009年の大修館書店『英語教育増刊号』の年間書評で取り上げさせていただきました。その書評の冒頭部分をここに掲載します。
[ 英語教育研究は ] 国外との関係でいうなら、欧米の流行は、しばしば10~20年遅れで日本に伝播する。国内では経済界の流行がよく5~10年遅れで教育界に伝播する。流行の伝播だからたいていの場合、思考が欠落する。したがって伝播した行動は、多くの場合形骸化し、実質的な意味を失う。研究者は「欧米のレベルに追いつくため」、ますます自分の専門性を高める(あるいは狭める)のに必死になる。教師は、押し付けられるビジネスモデル的管理体制に対応し、数値と書類を量産することに必死になる。
かくして研究者も教師も目をつり上げて奮闘しているのだが、本当に必要なのは一息ついて、ゆっくり考え、常識を働かせることかもしれない。まともに考え、まともに感じる力を取り戻せば―そしてそこで得た見識を世の中に広めるなら―物事は存外にうまくゆくのかもしれない。専門性の向上や管理の徹底が現実世界の問題解決に常に有効であるわけではない。
筆者の金谷氏は、これまでの英語教育界での長いキャリアの中で、何度も「何でもっと常識で考えないのかなあ」と思ってきたという。落ち着いて考えて、静かに感覚を取り戻せば何でもないことが、侃々諤々の論争になったりする。本書は金谷氏が、英語教育に関する「過熱心理を常識で冷ます」ことを試みた本である。
私は先日発売された『英語教育』2月号で、金谷先生の最新刊『高校英語教科書を2度使う!』を書評させていただく機会をいただきました。詳しくはその書評を読んでいただきたいのですが、ここではその書評で引用・言及しなかった箇所を書きますと、この本でも金谷先生は、極めて常識的でありながら、なぜか私たちが考えることを忘れていることを思い出させ、それを実践者と共に次々に実現させてゆきます。
それは例えば、「以前は、校外に出ないと研修ではない」と思い込んでいたが、「今は、校内で自分の勉強ができる」ようになった学校の姿(41ページ)であり、「生徒の変容を実感でき、それとともに我々英語教員の意識も変容し、自然に指導改善につながり、現在もまだまだ変容し続けている」教師の姿でもあります(52ページ)。教師は、「学習の観察の必要性を感じるようになった」「観察結果を共有しようとするようになった」わけで、それで「学校が変わった」(218ページ)わけです。
しかし、それではなぜ、「教師が勤務校で生徒の実態をじっくり観察することで力量をつけ学校を変えてゆく」といった当たり前のことができていなかったのか? 金谷先生は、『英語授業は集中! -中学英語「633システム」の試み- 』で次のように述べます。
大ざっぱに言って、これまで教師は、どこかで決定された事柄の実行者という存在でした。国が学習指導要領を決定すると、それに従って授業を行う、いわば「請負業」でした。トップダウンの過程だったという言い方をしてもよいでしょう。そして、現在においても、この形は大筋において変わりはありません。そのため、「自分のやろうとすることの枠組みを自分で決定する」という作業も覚悟しないで済んできたのです。教育現場における研究も、この請負仕事の効果を上げるためのものでした。
どんな学習が生徒に最も適しているか、どのような教材がよいか、どの程度の授業量(料ではない)が適切か、授業頻度はどのくらいがよいか ---- などについて、生徒の観察を通じて考える癖(?)が身につかないでも、やってこられたのです。(『英語授業は集中! -中学英語「633システム」の試み-』 172ページ)
金谷先生は温厚な方ですから上で「請負業」という表現を使っていますが、言い方を変えれば「下請け業」です。(英語)教師は、しばしば文科省の下請けとして扱われ、その権力構造の中で自ら観察し考え決断することを忘れてしまったのです。
それでは「トップダウン」で素晴らしい政策が降りてくるかといえば、そうは思えないというのが現実のようです。
もう十年近くも前になるが、小学校英語の導入が話題になり始めたころ、ある文部省(当時)のお役人が、「やる以上、教師の研修や教材をどうするかなどをちゃんとしてからと思うのだが、国会議員の先生方はそれ行けドンドンで攻めてこられて、本当に頭が痛くなる」とこぼしていたのを思い出す。(『英語教育熱 過熱心理を常識で冷ます』 116ページ)
私が学習指導要領の作成に関与したのは平成十年度版を作るときが最初だった。そのときの英語の学習指導要領の目玉は、「実践的コミュニケーション能力」というものであった。私にはこの言葉の意味がわからなかった。そして、未だにこの言葉の真の意味がわからないでいる。
学習指導要領の作成協力者会議というものは、当時、教育課程審議会というものの下にあった。こういう場合、教育課程審議会は、作成協力者会議の親委員会であると言う。こちらは子ども、あちらは親ということである。協力者会議のメンバーだった私は、学習指導要領作成の最中に、この親委員会の委員に実践的コミュニケーション能力とはなんぞやということを尋ねる機会があった。その委員は、「例えば、ショッピングや電話をかけることができるような力」であると説明してくれた。しかし、私の理解はまったく進まない。 (『英語教育熱 過熱心理を常識で冷ます』 73ページ)
物事の過度の単純化は危険ですが、現場の英語教師はこんな権力制度・命令系統の末端で働かされているのではないか、という疑いはもつべきかと思います。現場の教師はあまりにも軽くみられているのではないでしょうか。
と、私などはすぐに熱くなってしまうのですが、ここをしたたかに・冷静に現場でやれることをやっていこうとするのが金谷先生のすごいところです。私は上記の2月号書評で金谷先生のことを「戦略的楽観主義者」と評しましたが、それは「こんな現状でもやれることはあるはずだ」という信念を崩さずに、さまざまな仕掛けを考案し現状を改善してゆく金谷先生を評してのことばです。
さらに言うなら、金谷先生は「きわめて穏健なラディカル」であるとも私は評したく思っています。金谷先生は上記のような権力構造の歪みもしっかり見抜いています。その意味で金谷先生は既得権益体制(=エスタブリッシュメント)を批判するラディカルな方かと思います(これに限らず、このブログでの金谷先生評はすべて柳瀬個人によるものです)。しかし、そこで生じているはずの怒りを金谷先生は建設的なアイデアに昇華・転化し、実践者と共に地道に一校一校の英語教育改善に時間と労力をつぎ込みます。かくして私たちは金谷先生の穏健なスタイルにたどり着きますが、その中にはきわめてラディカルな精神があるというのが私の見立てです。
私にとって、金谷憲先生というのは、英語教育界で尊敬している数少ない先生の一人です。私がこのように金谷先生の最終講義をお慶び申し上げたいと言う気持ちが皆さんにもわかっていただけるでしょうか。
と、またもや熱くなる私ですが、金谷先生は私に対しては、「う~ん、柳瀬さんは本読み過ぎだよ。理屈が多すぎる」と笑って私を諭してくださいます。こういった面と向かっての批判を私はありがたく思っています。金谷先生に倣って私も、もっと現実的にならねばと思う次第です。
金谷憲先生のこれからますますのご健康とご多幸、そしてご活躍を祈念します。