2013年2月10日日曜日

金谷憲先生の最終講義を心よりお慶び申し上げます





金谷憲先生が、この3月23日に東京学芸大学での最終講義をなさいます。




『英語教師養成・研修の課題~30年の研究・実践をふり返って~』(仮題)

日時:2013年3月23日(土) 16:00-17:30

場所:東京学芸大学 N棟4階 N410教室

※学芸大へのアクセスは下記サイトをご覧ください。
http://www.u-gakugei.ac.jp/07access/

事前申し込み:不要(直接、教室にお越しください)

参加費:無料





この日は私の勤務校での卒業式ですので、私はこの最終講義を拝聴することはできません。ですから、ここでお祝いのことばを書かせていただこうと思います。お祝いと言いますのは、まずもって定年の年齢まで健康で働くことができるというのは、必ずしも容易なことではないからです。

しかしそれよりも重要なことは、金谷先生がこれまでなさってこられて、そしておそらくは四月からもさらに発展させるだろう、金谷先生が切り拓かれてきたスタイルの英語教育研究を私たちは祝うべきだということです。

金谷先生の研究スタイルは、金谷憲先生の著作リスト(アマゾンによるもの)を見ても明らかですが、極めて現実的で、それでいて体制迎合的にならず、現状を理性的に分析し、その分析から何ができるかを、多くの研究仲間・実践者仲間との協同から実現させてゆくことを特徴としているかと思います。

そんな金谷先生の研究スタイルがもっともよく現れている本の一冊と私が考えているのが、『英語教育熱』です(この本は私が英語教育関係の書籍の中でもっとも好きな本の一冊でもあります)。この本を私は2009年の大修館書店『英語教育増刊号』の年間書評で取り上げさせていただきました。その書評の冒頭部分をここに掲載します。



 [ 英語教育研究は ] 国外との関係でいうなら、欧米の流行は、しばしば10~20年遅れで日本に伝播する。国内では経済界の流行がよく5~10年遅れで教育界に伝播する。流行の伝播だからたいていの場合、思考が欠落する。したがって伝播した行動は、多くの場合形骸化し、実質的な意味を失う。研究者は「欧米のレベルに追いつくため」、ますます自分の専門性を高める(あるいは狭める)のに必死になる。教師は、押し付けられるビジネスモデル的管理体制に対応し、数値と書類を量産することに必死になる。  

 かくして研究者も教師も目をつり上げて奮闘しているのだが、本当に必要なのは一息ついて、ゆっくり考え、常識を働かせることかもしれない。まともに考え、まともに感じる力を取り戻せば―そしてそこで得た見識を世の中に広めるなら―物事は存外にうまくゆくのかもしれない。専門性の向上や管理の徹底が現実世界の問題解決に常に有効であるわけではない。  

 筆者の金谷氏は、これまでの英語教育界での長いキャリアの中で、何度も「何でもっと常識で考えないのかなあ」と思ってきたという。落ち着いて考えて、静かに感覚を取り戻せば何でもないことが、侃々諤々の論争になったりする。本書は金谷氏が、英語教育に関する「過熱心理を常識で冷ます」ことを試みた本である。








私は先日発売された『英語教育』2月号で、金谷先生の最新刊『高校英語教科書を2度使う!』を書評させていただく機会をいただきました。詳しくはその書評を読んでいただきたいのですが、ここではその書評で引用・言及しなかった箇所を書きますと、この本でも金谷先生は、極めて常識的でありながら、なぜか私たちが考えることを忘れていることを思い出させ、それを実践者と共に次々に実現させてゆきます。

それは例えば、「以前は、校外に出ないと研修ではない」と思い込んでいたが、「今は、校内で自分の勉強ができる」ようになった学校の姿(41ページ)であり、「生徒の変容を実感でき、それとともに我々英語教員の意識も変容し、自然に指導改善につながり、現在もまだまだ変容し続けている」教師の姿でもあります(52ページ)。教師は、「学習の観察の必要性を感じるようになった」「観察結果を共有しようとするようになった」わけで、それで「学校が変わった」(218ページ)わけです。







しかし、それではなぜ、「教師が勤務校で生徒の実態をじっくり観察することで力量をつけ学校を変えてゆく」といった当たり前のことができていなかったのか? 金谷先生は、『英語授業は集中! -中学英語「633システム」の試み- 』で次のように述べます。



大ざっぱに言って、これまで教師は、どこかで決定された事柄の実行者という存在でした。国が学習指導要領を決定すると、それに従って授業を行う、いわば「請負業」でした。トップダウンの過程だったという言い方をしてもよいでしょう。そして、現在においても、この形は大筋において変わりはありません。そのため、「自分のやろうとすることの枠組みを自分で決定する」という作業も覚悟しないで済んできたのです。教育現場における研究も、この請負仕事の効果を上げるためのものでした。

どんな学習が生徒に最も適しているか、どのような教材がよいか、どの程度の授業量(料ではない)が適切か、授業頻度はどのくらいがよいか ---- などについて、生徒の観察を通じて考える癖(?)が身につかないでも、やってこられたのです。(『英語授業は集中! -中学英語「633システム」の試み-』 172ページ)


金谷先生は温厚な方ですから上で「請負業」という表現を使っていますが、言い方を変えれば「下請け業」です。(英語)教師は、しばしば文科省の下請けとして扱われ、その権力構造の中で自ら観察し考え決断することを忘れてしまったのです。

それでは「トップダウン」で素晴らしい政策が降りてくるかといえば、そうは思えないというのが現実のようです。

もう十年近くも前になるが、小学校英語の導入が話題になり始めたころ、ある文部省(当時)のお役人が、「やる以上、教師の研修や教材をどうするかなどをちゃんとしてからと思うのだが、国会議員の先生方はそれ行けドンドンで攻めてこられて、本当に頭が痛くなる」とこぼしていたのを思い出す。(『英語教育熱 過熱心理を常識で冷ます』 116ページ)


私が学習指導要領の作成に関与したのは平成十年度版を作るときが最初だった。そのときの英語の学習指導要領の目玉は、「実践的コミュニケーション能力」というものであった。私にはこの言葉の意味がわからなかった。そして、未だにこの言葉の真の意味がわからないでいる。

学習指導要領の作成協力者会議というものは、当時、教育課程審議会というものの下にあった。こういう場合、教育課程審議会は、作成協力者会議の親委員会であると言う。こちらは子ども、あちらは親ということである。協力者会議のメンバーだった私は、学習指導要領作成の最中に、この親委員会の委員に実践的コミュニケーション能力とはなんぞやということを尋ねる機会があった。その委員は、「例えば、ショッピングや電話をかけることができるような力」であると説明してくれた。しかし、私の理解はまったく進まない。 (『英語教育熱 過熱心理を常識で冷ます』 73ページ)


物事の過度の単純化は危険ですが、現場の英語教師はこんな権力制度・命令系統の末端で働かされているのではないか、という疑いはもつべきかと思います。現場の教師はあまりにも軽くみられているのではないでしょうか。

と、私などはすぐに熱くなってしまうのですが、ここをしたたかに・冷静に現場でやれることをやっていこうとするのが金谷先生のすごいところです。私は上記の2月号書評で金谷先生のことを「戦略的楽観主義者」と評しましたが、それは「こんな現状でもやれることはあるはずだ」という信念を崩さずに、さまざまな仕掛けを考案し現状を改善してゆく金谷先生を評してのことばです。

さらに言うなら、金谷先生は「きわめて穏健なラディカル」であるとも私は評したく思っています。金谷先生は上記のような権力構造の歪みもしっかり見抜いています。その意味で金谷先生は既得権益体制(=エスタブリッシュメント)を批判するラディカルな方かと思います(これに限らず、このブログでの金谷先生評はすべて柳瀬個人によるものです)。しかし、そこで生じているはずの怒りを金谷先生は建設的なアイデアに昇華・転化し、実践者と共に地道に一校一校の英語教育改善に時間と労力をつぎ込みます。かくして私たちは金谷先生の穏健なスタイルにたどり着きますが、その中にはきわめてラディカルな精神があるというのが私の見立てです。



私にとって、金谷憲先生というのは、英語教育界で尊敬している数少ない先生の一人です。私がこのように金谷先生の最終講義をお慶び申し上げたいと言う気持ちが皆さんにもわかっていただけるでしょうか。





と、またもや熱くなる私ですが、金谷先生は私に対しては、「う~ん、柳瀬さんは本読み過ぎだよ。理屈が多すぎる」と笑って私を諭してくださいます。こういった面と向かっての批判を私はありがたく思っています。金谷先生に倣って私も、もっと現実的にならねばと思う次第です。



金谷憲先生のこれからますますのご健康とご多幸、そしてご活躍を祈念します。





2013年2月7日木曜日

卒論・修論のテーマの決め方: 表の方法と裏のやり方





卒論・修論を書こうとする皆さん、論文執筆には莫大な時間がかかります。だったら、ぜひいいテーマを選んで論文執筆を充実した時間にして、(数こそ少ないかもしれないけれど)他人にもお世辞でなく「面白い!」と言われる論文を書きましょう。

ここでは卒論・修論のテーマの決め方を二通り示します。標準的というか無難な「表」の方法と、自分に正直だけど危険もいっぱいの「裏」 のやり方の二つです。



■表の方法

次の作業を(前後重複しながら)進めていってください。

・興味ある分野の総説を、定評ある英語のレファレンス(EncyclopediaやHandbookなど)や本で読み、キーパーソンとキーワードを複数メモする。(以下ではとりあえずキーパーソン中心で作業を進めるが、適宜、キーワードも使いながら同じように作業をやってください)。

・キーパーソン(その分野の研究で重要な貢献をしている研究者)の名前でウェブ検索し、その人がホームページをもっていたら、そこからできるだけの情報を得ておく(情報保存は、Evernoteなどをうまく使ってください)。

・キーパーソンの名前で各種学術電子データベース(学術雑誌ごとの電子データベースおよび学術出版社ごとの電子データベース)を検索し、その人の関連論文はとりあえず全部ダウンロードしてしまう(PDFのファイルの名前のつけ方は、「名前_出版年_タイトル」が無難)。

・学術電子データベースでしばしば示される、「この論文を引用した論文」をチェックし、それもダウンロードしておく(案外、そういった新しい論文に、より重要なキーパーソンやキーワードがあるかもしれない)。

・ダウンロードした論文をアンダーラインを引きながらどんどん読む(最初からノートを作ろうとすると、無駄に巨大なノートを作りがちだから、はじめのうちはアンダーラインぐらいに留めておく)。

・ダウンロードした論文が重要論文として引用している昔の論文もダウンロードして読む(もちろんアンダーラインを引く)。

・アンダーラインを引いた箇所をとりあえず全部一つのファイルにコピペする。そのファイルを何度も読みながら、重要箇所にハイライトをつけたりして、そのテーマに関する重要情報をさらに精選する。(色分けに原則をもたせて論点が直観的にわかるようにすること。またそのように編集したファイルの重要部分だけを、さらに新しいファイルにコピペして一層精選したファイルを作るとよい)。

・そのテーマに関する研究論文の書き方のパターンを見つけ、そのパターンの細部をちょっと変えて「オリジナルな」研究ができないか考える。(要は、代表的な研究方法をパクって、そのパターンに乗っかってしまう)





この「表」の方法は、それまでの学界の学術遺産を最大限利用して、最短時間でそのテーマに関しては最先端の知識を得るものです。研究方法も整備されているし、英語で論文を書くときも(もちろん剽窃なんかしてはいけないけれど)、まあだいたい似たやり方で書いていけば、結構サクサク書ける。短時間で自分の頭が良くなり英語もうまくなったように思えるから、自信がつき、さらに論文を書いていこうとする意欲が湧くから、まあ、この方法は賢いやり方というか、正攻法です。





■しか~し

運悪く、従来の研究論文に自分が面白いと思えるものがなかったらどうするか。

英語教育研究・応用言語学なんて、学問の歴史は恐ろしく短いのに、対象・関連領域は果てしなく広いのだから、自分が心身の深い所で予感している面白さを、これまでの研究論文がうまくとらえてくれていないことは、実は結構起こりうる(てか、オイラがそうだった)。

さらに運悪く、その時たまたま『ツァラトゥストラ』なんか読んでしまって、完治しないままであった中二病が悪化し、

すべての書かれたもののうちで、わたしは、人が自分の血でもって書いているものだけを、愛する。血でもって書け。そうすれば、きみは、血が精神であることを経験するであろう。



とか言い始めたら、覚悟を決めて、「裏」のやり方で論文テーマを決めようと思ってもいいのかもしれない。

もちろん「裏」のやり方は、アナキン・スカイウォーカーみたいに「ダークサイド」に陥ってしまう危険性をもっている(笑)。いい歳こいて中二病を悪化させ、自ら黒歴史を作ることもないではないかと慎重になる善男善女は、悪いことは言わないから「表」のやり方で無難に論文をまとめた方がいい。

でもどうしても自分の全身で実感し納得できるような問題を見つけたいと思うのなら、さらにニーチェにはまって、次のように語ってもいいかもしれない。

すべての偉大なことは、市場と名声から離れたところで起こる。昔から、新しい諸価値の創案者たちは、市場と名声から離れたところに住んだのだ。



と、無料で読めるこんなブログ記事に煽られて、実際に人前でこんなことばを口走ったら友人減らすし、下手したら恋人まで失うかもしれないけれど、もし、学生時代はやっぱり徹底的に知的冒険をしてみたいと思うのなら、もう覚悟を決めて「裏」のやり方でやってみよう。





■「裏」のやり方

危険いっぱいだけれど自分の直感や情動、感情に忠実なのが以下のようなやり方です。

・自分の直感を信じる。今まで生きてきて、いろいろ考えたり感じたりしてきて、どうもここらあたりに謎があるのではないか、と身体の奥で芽生えてきた直感に耳を澄ます。「今、学界ではこんなのが流行っている」とか「そんなテーマでは査読に通らない」とか「助言」してくれる人から遠ざかり、一人で静かに考える。

・自分の直感の正体を極める。直感を言語化することは実はとっても難しい。少なくとも数ヶ月かかるし、下手をしたら数年、数十年かかる。その間、ずっと考え続け、観察し続け、そして本を読み続ける。なぜ本を読まなければならないかというと、言語という人類がもつ最大の認識装置をできるだけ身につけ、それを精妙に使い分けないと、きちんと観察することも考えることもできないから。おざなりのことばでは、凡庸な観察と惰性の思考しかできない。だから本を現実世界での思考と観察と絡めながら徹底的に読まなければならない。この時、本を「英語教育の本」だけに限るとかバカなことは決してしないこと。効率よく読書しようとかいった横着な心を捨てて、自分の直感と縁を頼りにひたすら読んで、考えて、観察し、自分の直感にだんだんと形を与えて形式化してゆく。

・形づけられた自分の直感が、それ自身のきちんとした体系をもっているか確認し、もっていなかったら直感の形式化を修正する。身体で感じた自分の直感が正しく、かつそれを的確に言語化(もしくは図式化)できたのなら、その言語・図式表現は、それ自身の体系をもち、自己生成的に発展するようになる(発展する際に矛盾が生じるようになったら、よく考えながら言語化・図式化を修正し、矛盾が出ないようにする)。

・体系化され理論となった自分の直感を、改めて現実世界と照らし合わせたり、他人に説明したりして、その直感に基づく理論が妥当性を失わないことを確認する(妥当性が損なわれるようなら、言語化・図式化を修正し理論を洗練させる)。

・聴衆や査読者と闘う。多くの人は、あることが有名でないという理由だけで、「興味ない」とか「価値がない」と即断する(悲しいかな、これが認知的限界をもつ私たち人間の現実だ)。それでも話を聞いてもらうと、少なからずの人は、自分がよく理解できないという理由だけで冷笑や皮肉で反応する(悲しいかな、これが自分のプライドを何よりも大切にする私たち俗人の性だ)。査読者の一部は、論文に瑕疵が見つからなくても「これはもはや英語教育研究ではない」と、勝手に自ら英語教育研究の領域を定めて、新しいものを抹殺しようとする(悲しいかな、これが学ぶ力も意欲も感性も失った時に陥る私たちが年老いた時の姿だ)。「裏」の方法を取るからには、そんな聴衆や査読者とは闘わなくてはならない。無関心な聴衆には、より魅力的な導入や問いかけで。冷笑や皮肉で自分を守るだけの聴衆には、その作った表情を壊すぐらいの説得力で。自分の古い認識だけを既得権益化しようとする査読者とは、徹底的に具体的で怖くなるぐらい冷静な反論で。


このように「裏」のやり方は、労多くして世俗的見返りが少ない(いや無い!)かもしれない博打のようなやり方で、友人よりも敵ばかりを作るかもしれません。いや、それよりも怖いのは、実は自らの知的努力(思考・観察・読書・理論化)が足りないのに、「世間に見る目がない」とどんどん自分をごまかして、自分で自分の魂を腐らせてしまうかもしれないことです。黒歴史を自ら作り出しながら、それが黒歴史であることを決して自分で認めようとしないというのは、このうえない悲劇です(そして周りからすれば、このうえない喜劇です)。

ですから、特に「ゆとり世代系お子ちゃま」は「裏」に憧れるべきではないでしょう。たとえ少々つまらないと思っても「表」のやり方に留まっているべきでしょう、よほど覚悟がない限り。いや、「自分には、本当に覚悟があるのか」などと自問しているようでは駄目で、もう考える前に、からだの方が動いてしまって貪るように本を読み、気がついたら一心不乱に考え、生活のあらゆる側面の観察が勉強になっていて、はじめて「裏」の道を歩くことを自認すべきなのかもしれません。

ですが、「裏」の道は、自分と世界に対する正直を貫き通し、自己欺瞞という罠に陥らなかったら、この上ない喜びに充ちたものです。また、思いもがけない人が、何の利得も求めずに、救いの手と励ましの拍手を与えてくれます。そこにあなたは「友」を見出すでしょう(利権仲間や同病相憐れむ知人ではなしに)。「裏」の道は、莫大な苦労に裏づけられた形容しがたい愉悦をもたらしてくれるでしょう。





■駱駝・獅子・子ども

再び中二病的に、ニーチェに戻ると、ニーチェは、駱駝・獅子・子どもという「三つの変化」を語ります。駱駝とは、重荷に耐え、最も重いものを欲する心です。やがて駱駝は獅子に変わります。竜と闘うためです。竜は既存の価値をすべてとし「汝、なすべし」と命令します。新しい価値の創造を求める「われ欲す」の心を踏み潰そうとします。駱駝は、創造のための自由を勝ち取るために獅子に変身しなければなりません。そして獅子が竜に勝ち、自由を得たら、獅子は子どもに変身します。無邪気そのものであり、忘却であり、遊戯であり、新たな始まり、神聖な肯定である子どもとなるわけです。

もちろん、これに失敗すると黒歴史となります。駱駝は重荷に耐えかねて動けなくなるかもしれません。駱駝は竜と闘う獅子になるどころか、新たに来る獅子が倒れた時を竜の足元で待つハイエナになるかもしれません。ハイエナは、自由な子どもでなく、自ら演ずる弱さで周りを支配しようとする「お子ちゃま」になるかもしれません。何度も言いますが、「裏」の道は危険でいっぱいです。





■植松努さんという人間

と、ニーチェを引用すると胡散臭さ満点ですが(笑)、しかしやはり人間は、何かをやろうとすると、必然的に危険を受け入れ、時に周りの人達を敵に回しても、自分に正直でいなければならない、そうしないと本当の友も得られないと私は強く思うようになりました。植松努さんの本を読んだからです。

植松さんは北海道の田舎で従業員20人という企業で、しっかりと利益を上げて、その利益をもとに、一切の利得を求めずロケット開発・宇宙開発をしています。それは「『どうせ無理』という言葉をこの世からなくす」ためです。そうして世界各地の研究者、日本各地の子どもと大人の心をつかんでいます(まずは下のビデオを見て、そして本を読んでください。私のこの短い説明では植松さんのことを冷笑で迎える人もいるでしょう。ビデオだけでも皮肉しか言わない人もいるでしょう。どうぞ本を読んでことばを失ってください)















植松さんはこう言います。

夢とは、大好きなこと、やってみたいことです。

そして仕事とは、社会や人のために役に立つことです。

NASAより宇宙に近い町工場』(170ページ)


もしあなたが夢を失わず仕事を楽しみたいのなら、せめて学生時代の論文執筆ぐらいには、思い切って自分の直感にかけるべきなのかもしれません。それは甘えを捨てることです。

誰かが信じてくれることを期待してはいけません。信じるというのは、自分自身の覚悟のはずです。誰かが信じてくれないと不満を言ってもしかたがありません。自分で信じることです。自分を信じて、自分が裏切らないということが、一番大事なことかもしれません。

NASAより宇宙に近い町工場』(170ページ)


他人に期待せず、自分に期待し続け、苦労を厭わないこと、苦労を苦労と思わず(いや、まったく苦労と思えず)ひたすらに試行錯誤を続けること、これが「裏」の道かと思います。未来は、過去の事例からの確率計算の上にあるのではなく、今の自分の行動にあると考えるわけです。

本当の未来というものは、やってみたいことをどうやったらできるかなと考えて、やり始めることです。ただこれだけで、未来に到達することができます。選ぶことではないんです。どうやったらできるかなと考えて、それをやることです。そうすれば、自動的に未来に向かって進み始めます。

NASAより宇宙に近い町工場』(85-86ページ)






論文執筆に関して、あなたが「表の方法」と「裏のやり方」のどちらを選ぶべきか、それは私にはわかりません(そもそもこれは二者択一の選択でもないのかもしれませんし)。これは生き方の問題ですから。振り返ってみると、私は「裏のやり方」がほとんどです。博士論文を書く時だけ、「表の方法」(に近いやり方)を取りました。そしてこの「表の方法」は、単に学位取得に役立っただけでなく、自分の「裏のやり方」ばかりで自家中毒になりかけていたかもしれない自分にとってのいい薬になりました。私はこの裏と表の選択を自ら行いました(というより、状況の中でそういう選択をしていたと後で気づきました)。この経験に基づき、これに限らず、何かを決めるときには、決して「誰それが言ったから」と口を尖らせることなく、自分の身体に聞いてみるべきかと考えています。





きみの身体のなかには、きみの最善の知恵のなかにあるより、より多くの理性がある。







本当は、大好きなことを掘り下げて学ぶのが、大学や専門学校です。大学や専門学校というところは、かたよった知識を伸ばす場所であり、研ぎ澄ます場所です。だから、かたよっていなければいけません。万能な人をつくる場所ではないはずです。

NASAより宇宙に近い町工場』(99ページ)








2013年2月2日土曜日

ジョージ・リッツア著、正岡寛司監訳 (1999) 『マクドナルド化する社会』 早稲田大学出版部





■たいていの人はマクドナルドが大好き

マクドナルド・ハンバーガーに代表される社会の過度の合理化を批判するこの本の著者も、合理化を全面否定しているわけではありません。合理化されたシステムが、商品・サービスの入手・利用可能性や安定性などにおいて、それ以前の仕事のやり方よりも優れていることは著者も十分認めています(例えば36-37ページ)。そもそもマクドナルドは多くの人に愛されてるようです(それとも私はテレビCMを見過ぎなのかなぁ。実際に中で働いている人に話を聞かなくっちゃ)

しかし著者は、彼が「マクドナルド化」と称する、効率性、計算可能性、予測可能性、制御の追求の影の部分も正しくみようとします。本書の狙いは「社会批評」です(4ページ)。



■マックス・ウェーバーの「形式合理性」と「鉄の檻」

著者はマクドナルド化を、ウェーバーが「形式合理性」と呼んだ、近代西欧世界に特有な合理性の拡張とみます(47ページ)。ウェーバーの「形式合理性」を著者は以下のようにまとめます。

形式合理性とはいかなるものであるか。ウェーバーによれば、形式合理性とは、与えられた目的に対して最適な手段を探ることが、規則や規定やより大きな社会構造によって共有されていることを意味する。ある目標を手に入れるための最良の手段を探るさいに、個人は自分で工夫を凝らす裁量をもっていない。ウェーバーは、このことを世界史上大きな発展と特筆している。かつて、人びとはみずからの方針、もしくはより大きな価値体系(例えば宗教)に由来する曖昧で、しかも一般的な指針に基いて、そのようなメカニズムを見つけだす余地があった。形式合理性の進展以降、彼らは何をなすべきかを決めるために規則を利用できるようになった。もっとはっきりいえば、人びとは自分が何をすべきかを指令してくれる社会構造にすでに位置づけられていた。そのため、人びとはある目的にとって最適な手段を自分の手で見つけだす必要はもはやなかった。むしろ、最適な手段がすでに発見されており、規則や規定や構造に制度化されていた。人びとはそれらに従いさえばよかったのである。このように、形式合理性のひとつの重要な側面は、目的を実現するための手段の選択を個々人にさせないという点にある。手段の選択は指令されたり決定されたりしており、実際に、すべての人が最適な同じ選択をなしうる(あるいはしなければならない)のである。(47-48ページ)


この形式合理性を追求したシステムが、ウェーバーによれば官僚制なわけで、官僚制はこれまでには考えられなかった大規模の仕事を迅速にこなすことを可能にしました。しかしホロコーストの悲劇性が、あれだけの人数の人間をおよそ合理的に迅速に効率よく殺したことにより一層高まっていることからもわかるように、形式合理性は、システムの内で働く者にも外でその影響を受ける人間にも、「脱人間化」(50ページ) -- 人間らしくふるまうことがますます阻害されること -- を促します。このように人間が合理的なシステムによりますます生産性を高める一方、人間性を否定されてしまうことが「鉄の檻」です。

そしてこの形式合理性は、マクドナルド化により一層進行し、私たちは「鉄の檻」をもはや「ビロードの檻」(281ページ)とみなし、「人間が人間的であること」について考え想像する能力を失っているのではないか、というのが著者のメッセージかと私は理解しました。

マクドナルド化の4つの次元である効率性、計算可能性、予測可能性、制御についてもう少しまとめてみます。



■効率性

マクドナルド化における効率性には、「多様な社会状況で効率の最大化を追求するという意味が含まれている」(71ページ)と著者は語ります。つまり、個々人がそれぞれ固有の状況で効率を上げるために創意工夫をするというのではなく、状況や関係者の個性を捨象し、できるだけ一般化した形で効率性を追求し、その追求の中で見つけられた目標達成のための最適な手段を従業員に指示するというのがマクドナルド化での効率性のようです。



■計算可能性

私の考えるところ、この計算可能性がマクドナルド化においてもっとも警戒すべきことかと思います。計算可能性を著者は次のようにまとめます。

マクドナルド化する社会では、ものごとを数えられること、計算できること、定量化できることが重視される。実際、量が(とくに大量であれば)質にとってかわる傾向がある。 (106ページ)
「質を『わかる人にはわかる』とか『個々人が実感するもの』などと言ってしまえば議論が進まないのでなんとか数量化しましょう」、というのはたとえそれが善意からの判断であったとしても、その果てには恐ろしいものが待っているように私には思えます。質を量に還元してしまうことに慣れてしまった人たちは、やがて数字ばかりを見つめ、質感ということを忘れがちだからです。さらには「質」を数字でなく実感で語ろうとする人を、教育を受けていないように蔑むこともしばしばあります(「あのね、そんなこと言ったって仕方ないでしょう」という苦笑や冷笑を私は今思い浮かべています)。便法としての質の数量化がいつの間にか、「科学的手続き」、「科学」、ひいては「真理」と認識され始めている現代に私はどこか恐ろしいものを感じています。芸術や自然、ひいては教育も、数量化し最終的には金銭換算しないと理解できないような「偉い人」が私はどうも苦手です。



■予測可能性

計算可能性を高めれば、マクドナルド化の第三の次元である予測可能性も高まります。効率もますます高まります。いいことづくめのようですが、一方で人びとは、物事が期待通りに動くことを当然視しはじめます。人のからだも、計画通りに動いてもらわなければなりません。昨今は、風邪がひどかったり急にお腹の調子が崩れてしまった人でも計画通りに仕事ができるように人間の身体を生理学的に制御する薬がCMでもさかんに宣伝されています。私たちのからだも心も今や予定通りに動いてもらわなければ困るのです。

 -- でも誰が困るの? -- あなたの同僚が -- いや私の同僚はむしろ私の心身を心配しているんですけど -- システムがです!システムを止めることは許されないのです!!



■制御

かくしてマクドナルド化が進行するところ、人間の心やからだといった予測を裏切るふるまいをするものはできるだけ排除し、「人間の技能から人間によらない技術体系への置き換え」 (165ページ) が進められます。人間がロボットやコンピュータのようになりきれないのなら、人間をロボットやコンピュータに換えるまでです。人間と違ってロボットやコンピュータは文句も言いませんし、制御もしやすいですから。

 -- 「人間性」などといった芸術家や人文学者きどりの怠け者がいう曖昧なものを相手にしていれば、仕事なんかできません。仕事について来れない者は脱落する、これが社会じゃないんですか! --



■資本主義

-- そう、私たちは仕事が大好きなんです。仕事をどんどん強化し、生産性を高め、競争に打ち勝つことが大好きなのです。いやこれは野心を満たすだけのことではありません。何よりお金が得られます。より多くのお金を。なぜ多くのお金が必要かって? 何をそんな当たり前のことを聞くんですか? 自分と家族を幸せにするためじゃないですか!--

あまり資本主義ばかりを悪者に仕立て上げて、その悪口を言っていれば正義をなしていると思い込む思考の短絡に私は陥りたくありませんが、やはり西洋近代の形式合理性の推進の背後は、西洋近代思想だけでなく、資本主義的生産体制があることは否定できないと私は考えます。

私たちはもはや私たちが社会の姿として「当たり前」と疑わなくなった、資本主義的生産体制の社会を問い直し、それを一気にひっくり返そうなどとするのではなく、少しでも人間らしい社会を目指すべきかと思います。そのためには「人間らしさ」とは何かを追求する人文学、芸術、そして日々の生活の営みが大切なことは言うまでもありません。

現代において「革命」が起こるとしたら、それは資本主義的生産体制の中で働きつつも、人間らしさを追求する多くの人びとが、同時多発的に仕事や暮らしの場で小さな革新の試みをさまざまに行い始めた時かもしれません。その新しい無数の試みの動きが、さらに多くの人びとの心を捉え、ひろがり、誰もその相互作用による自己組織的発展を止めることができなくなったとき、私たちは「革命」が成就されたと思うのかもしれません。

いや「革命」ということばも不要なのかもしれません。私たちは人間らしくあろうという望み、お互いに対する愛、そして創造性、を失わなければいいだけなのかもしれません。



-- 何を言っているんだ! 愛も創造性も望みも、資本主義的生産体制あってのことではないか。資本主義からはみ出したところで語られる愛とは何か、創造とは何か、望みとは何か? システムの維持と発展こそが私たちの務めだ。なにしろ私たちは資本主義システムによって幸福を発明したのだから! --



もし「偉い人」がこう信じて疑わず、市井の人びとがそれを「仕方ない」としか考えないのなら、私たちはまさに「最終段階の人間」 (der letzte Mensch) にまで進化したのかもしれません。資本主義バンザイ!



















追記

この記事は、翻訳書を読んだだけで書き、原書でのチェックしていません。現在、本当に仕事に追われていて、この記事は、そのストレス解消のために半ばヤケになって書きました(苦笑)。