2012年8月31日金曜日

金谷憲・小菅敦子・日臺滋之・太田洋・神白哲史『英語授業は集中! -中学英語「633システム」の試み- 』





教師が日々の授業で行う「小技」も「塵も積もれば山となる」のようにいつしか大きな力となります。しかし小技には小技としての限界があることは、小技を地道に改善してきた中堅教師が感じることでもあります。

それでは、と、国などがやる「大技」に期待しますが、国などの「大技」は一律に実施を求められる融通の効かないものが多いのも周知の通りです。国などが「研究開発校」を指定して教育における実験を依頼しても、それは路線が定まった後のことです。

しかし、文部行政のみの現象ではありませんが、研究開発を行う時点で、ある施策の施行は決定済みと考える慣行があります。調査費がついたということは、実行することを意味するのが「常識」です。たとえば、小学校における外国語活動の導入には、60校を超える協力校を設けて、「実験」を試みました。けれども、この結果を踏まえて導入の可否を考えた、とは思えません。むしろ、実施にあたっての留意点などについて情報収集するために使ったと言えるのではないでしょうか。こうなると、研究開発こうにおける実験は本当の意味での実験では言えず、ほとんど決まった政策の後押しをするためのものになってしまいます。(171ページ)


かくしてこの本の著者は「本当の意味での学校単位の実験」 ―「小技」「大技」に類して称するなら「中技」― の導入を試みます。それが「633システム」、つまりは中学英語を1年生から3年生まで毎年4時間ずつ教えるのではなく、1年生で週6時間と集中的に教え、2年生と3年生ではそれぞれ週3時間ずつ教えるという方法です。(著者によりますと、この改革は現行の指導要領下で十分可能なものだそうです)

「しかし、それではかえって英語嫌いを生まないか」、「授業数が減る2年生で成績がガタ落ちしないか」、「保護者の理解をどう得るか」、「そもそも週6時間で何をするべきなのか」等など、疑問や不安はつきません。著者の教師集団は、これら一つひとつを丁寧に検討し、具体的に手立てを打ってゆきます。本書は、その試みで教師がいかに考え、いかに行動していったかの記録ともなっています。

ここではその過程と結果の詳細は割愛します(ぜひ本書をお読みください)。ですが、どうしても紹介したいのは金谷先生の報告の第二点です。

2つ目に感じたことは、教育効果の測定の難しさです。この本をお読みになればわかるように、「633システム」が「444システム」より生徒の成績(テストの点数)を非常に上げたという形跡は見当たりません。しかし、質的評価のところ (第4章) で明らかにしたように、実際に中学で教えている先生たちの実感では、生徒の伸びや自信などがはっきりと感じられているのです。 (149ページ)


確かに教育効果が上がったことは、私も読者として実感できるところです。しかしそれが明確な数字ではなかなか現れない。金谷先生も次のページで言うように、私たち教育関係者は教育の細かな(質的)エピソードを日頃から具体的に記録しておき、自らの欲目をどう抑えながら現場の実感を記述するかが、「教育研究上の急務」だと思います。(この夏に行った「英語教師が書くということ -日本語あるいは英語による自らの実践の言語化・対象化-」も、この急務に対する一つの試みとご理解ください)。

何度も言いますが「質的研究を認めるか認めないか」のような時代遅れの考えにとらわれずに、質的研究のあり方を他分野から広く豊かに学ぶことは日本の英語教育界にとって未だ課題です。(頭の固い方々が、質的研究について勉強することもなく、質的研究をする者の足を引っ張ろうとすることは、本当に残念なことです。私は時に激しい怒りすら感じます。「学者」を名乗るなら勉強していただきたい、と私は思っています)。

と、私憤が出てしまいましたが、この本の意義は「633システム」という改革を具体的に検討するだけでなく、教師を政策の「請負業専門」から、政策の「請負プラス提案者」にすることの意義を説いたことにもあります。

例えば先日(8/28)に出された中央教育審議会の答申は、「これからの教員に求められる資質能力」の第一点として次のように述べています。

これからの社会で求められる人材像を踏まえた教育の展開、学校現場の諸課題への対応を図るためには、社会からの尊敬・信頼を受ける教員、思考力・判断力・表現力等を育成する実践的指導力を有する教員、困難な課題に同僚と協働し、地域と連携して対応する教員が必要である。

http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2012/08/30/1325094_1.pdf
「思考力・判断力・表現力」というのは、文部科学省が昨今連呼する用語です。私も「生きる力」同様、この「思考力・判断力・表現力」は次の世代にとって不可欠なものだと思います。

しかし私見では、文部科学省は、教師自身が思考力と判断力をもつことを促進・歓迎していないように思えます(この見解が誤りであれば、それを示すエピソードなどをぜひご教示下さい)。文部科学省が求める教師像とは、自らの思考や判断は放棄し、文部科学省が求める教育政策を豊かに教育現場で表現する人材であるようにすら思えます。思考力と判断力なしに、表現力だけを言われたように発揮する人材が文部科学省に求められているようにすら思えます(繰り返します。この見解が誤りであれば、ぜひそれを示すエピソードなどをご教示ください)。

本書も次のように締めくくっています。

自分で考え、自分で決断を下し、他者を説得するという過程を経ることによって、人はよりよく、より深く考えるようになるのです。

「考える生徒を育てたい」と教師は思います。しかし、このことは、教える教師も考える教師でなければ、達成しにくいことです。学校ぐるみの改革への努力は、一種の副産物として、教師を考える人に変えていきます。こうした意味においても、学校単位の改革努力を試みることを、どの学校にも勧めたいと考えています。(173ページ)




今や若い世代の受難が厳しく、8/28の朝刊では「大学卒の4人に1人が安定した仕事に就いていない」ことを文部科学省の学校基本調査が明らかにした」とのニュースが入ったかと思うと、8/30には「30代男性の非正規労働者の75.6%が未婚で、正規労働者(30.7%)と2.5倍もの差のあること」が厚生労働省の調査で判明したとのニュースが入りました(共に毎日新聞より)。

現在、次世代が幸福な人生そして社会を築いていける力をつけることは、学校教育の急務です。実際、学校単位などで改革を検討しているところも多いと思います。

もしそうでしたらぜひこの「中技」の実践記録をぜひお読みください。いや、そうでなくても、もしあなたが自ら考えることを放棄したくなかったなら。







追記

この本は一般書店での取り扱いがなく、直接東京学芸大学出版会(http://www.u-gakugei.ac.jp/~upress/)に注文するか、アマゾンで注文するかしか入手方法がないそうですので、ご注意下さい。




集中講義「言語と社会」を終えて





昨日で四日間の集中講義「言語と社会」を終えることができました。少人数でしたし、討議の時間もかなりもったので、私自身大変に楽しむことができました(ただ、終わってみると自分が自覚している以上に随分疲れていたみたいで、今朝は寝坊してしまいました)。

講義では、前の記事にも書いたように、単純化するなら"the rationalist cognitive dominated approach versus the socially sensitive and engaged, postmodern approach"の論争をまとめたDavid BlockのThe Social Turn in Second Language Acquisition をまとめることを基本としながら進めました。(資料集はこちら

講義を通じて何度も強調したのは、一つの立場に教条的に居ついてしまわない(こだわってしまわない)ことです。

F. Scott Fitzgeraldのことばも何度も述べました。

"The test of a first-rate intelligence is the ability to hold two opposed ideas in the mind at the same time, and still retain the ability to function."


他にも「アクセルとブレーキ」のたとえも何度も使いました。究極の速さを求めるために、重いブレーキ装置を取り払ってしまった車があるとすれば、そんな車では、怖くてとても速く走れません。アクセルとブレーキは相互矛盾の関係にありますが、その矛盾があるからこそ速く走れるわけです(また効果的に止まれるわけです)。運転とは、アクセルとブレーキという相互矛盾する機能の巧みな使い分けです。

もし単純な頭の持ち主が来て「アクセルとブレーキのどっちが大切なんすか?オレ、教えられたらそっちばっか使いますんで、どっちかバッチシ教えてください!『両方の使い分けが大切』なんてわけのわかんないこと言われても困るんすよね。だいたい、ヤナセ先生は、きっちり『これだけやればいいんです』って、ホーホーロンってゆうんすっか、そんな感じのこと言ってくれないんで、オレ的には不満なんっすけど」などと言ってくれば、私は苦笑いするしかありません(機嫌が悪ければ首を絞めます(笑))。

今回の集中講義でも私はいつものように学習指導要領の批判もしました。しかしそれはもちろんのこと、指導要領の完全否定でもなく教条的な反抗でもありません。「文科省の言うことはすべて間違いだ!」などと叫ぶのは、「文科省の言うことに間違いなどございません」としたり顔で言うことと同様、およそ愚かなことです。指導要領とて金科玉条ではなく、10年すれば制度的に改訂されるべく定められた基本方針に過ぎません。ならば現行の指導要領を尊重しつつも、その中の問題点を具体的に考えてゆくことこそ知的に誠実な態度だと思います。

この本のテーマである、個人の脳内で完結する認知主義と、個人を超えた関係を重視する社会的アプローチは対立関係にあります。「指導要領を一も二もなく忠実に実行する」という態度と「指導要領について批判的に考え主体的に行動する」という態度は矛盾関係にあると言ってもいいでしょう。しかし私はそれらの対立や矛盾を、無理やり解消させようとせずに、自らの中に組み込むことが大切だと考えています(考えてみれば、これは20歳代の頃から私の信念でした)。

この、自らの中に矛盾を組み込むというのは、甲野善紀先生の言葉で言えば「矛盾を矛盾のまま矛盾なく扱う」です。これは、「中庸」と言ってしまえば、そうですが、決して「足して二で割った」ような中庸ではなく、対立する観点を往復運動することの中で初めて現れるような中庸かと思います。

というより、これは、マルクスへの関心から私が最近読みなおした柄谷行人の『トランスクリティーク――カントとマルクス』の、まさに「トランスクリティーク」ということばで表現した方がいいのかもしれません。(今回の再読は、マルクスについて少し勉強したこともあり、非常に実りのあるもので、私はこの本の英訳版も注文しました。この思想を英語で経験すればどうなるだろうと思ったからです。また、この本に影響されて、今、カントの『純粋理性批判』を毎晩就寝前に読んでいます(長谷川宏先生の翻訳は本当にありがたいです)・・・にしてもオイラ、影響を受けやすいなぁ(爆)。







とはいえ、現代日本の資本主義的発想の跋扈は、有力な対抗言説を欠いているせいか、憂慮すべきことだと考えています。対立する相手、相矛盾する相手を欠いた思想が問答無用に人々を縛る時、それはもはやハーバマスが言う意味での「イデオロギー」でしょうし、もしその思想・イデオロギーが社会のあらゆる側面を支配するなら、その社会は全体主義社会と呼ばれるのかもしれません(私は全体主義についてきちんと勉強したことがありませんので、この用法には自信がありませんが・・・)。


たまたま、この集中講義と重なった時期に、江利川春雄先生がブログで「格差に抗し,全員を伸ばす英語教育へ」という連続記事を書いておられました。その第三回では、次のように書かれています。

これまで2回にわたって見てきたように,1990年代からの新自由主義教育政策が公教育を疲弊させてきました。

この政策がもう一つ危険なのは,その市場万能主義によって,国民の意識の中に「学校教育=サービス」という観念を刷り込んでしまったことです。 多くのマスコミもそれを煽ってきました。

この観念のもとでは,生徒や保護者は教育という「サービス」を商品として「買う」側となり,学校や教師はサービスの提供者と映ります。

そのため,ちょっとした不満があると,あたかも商店員に接するかのように,上から目線でクレームを付けます。

本来は,保護者と教員とが協働しながら子どもの教育を担わなければなりません。 しかし,新自由主義的な観念に染まると,協働すべき両者がしばしば敵対関係に引き裂かれます。

(中略)

斉田智里氏の博士論文「項目応答理論を用いた事後的等化法による英語学力の経年変化に関する研究」(2010,未刊行)によれば,高校入学時の英語学力は1995年度から14年連続で低下し続け,下落幅は偏差値換算で7.4にも達しています。

特に,恐れていたことですが,英語が週3時間に減らされた2002年度以降の低下が著しいのです。

この2002年に,文科省は「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」を立ち上げたことを忘れてはなりません。

一般の生徒が通う公立の英語授業を削減させておいて,他方では「英語が使える」エリート育成を始めたのです。

さて,上のグラフは「平均」の下落でした。

しかし,さらに問題なのは,成績の上位層と中下位層との格差が広がり,特に階層の下落が深刻で,指導困難な生徒が増えたことです。

http://blogs.yahoo.co.jp/gibson_erich_man/31195154.html


第四回の記事では、英語教育に関する文科省の「戦略構想」(2000)が、経団連の提言(2000)に見事に一致していることがわかります。(格差に抗し,全員を伸ばす英語教育へ(4)

「ちょっと待って下さいよ。それのどこが悪いんですか?わけがわかりませんね。財界の要望を聞き入れるな、って仰るんですか?」と、<やれやれ、これだから世間知らずは困る>という表情を示しながら反論する方もいるかもしれません。

いや、私も別に経済活動をすべて否定しようなどとは思っていません(てか、私には農業して自活する土地も技術もないから、お金がないと暮らしていけないしw)。ただ、教育界が経済界の下請けとして単なる「人材」の供給所になってしまうことが怖いわけです。教育も社会の中の活動である以上、経済と無縁ではいられませんが、教育には教育の論理があるわけです。その教育の論理が侵食され否定されてしまっては黙っていられない、ということです。

言い方を変えれば、人間には資本主義的な生き方と、資本主義から離れた生き方の両方があります。前者の例は商品の生産と消費、後者の例は家族・友人とのだんらんや個人での楽しみ、つまりはお金に換算できない活動、となりましょうか。その両方があってこそ、近代社会で人間は人間らしく生きられるかと思います。

しかし、現在は、他ならぬ私たち教育者自身が「教育の論理」や「お金に換算できない活動」とは何かについて、迷い始め、資本主義的な生き方にますます包摂されようとしていると思えます。だからこそ、資本主義的発想の言説と対立・矛盾する対抗言説を学び(あるいは学び直し)、両者をそれぞれに相対化すること、つまりは資本主義的発想の絶対的肯定も絶対的否定もしないようになることが重要だと私は考えます。



今回の講義ではBlockの本に示された議論を中心としつつも、'phatic communication'の話題からヤーコブソンを出したり、最終日までにはほとんどテキストの概観を終わっていたので、隠し玉であった「『商品』という観点から考える日本の英語教育』も語ったりとしました。

学生さんも楽しんでくれたのではないかと思います。以下は、講義最終日に学生さんが出した課題です。私としては「授業を受けて自分なりに感じたこと、考えたことを適宜まとめてください。長さの指定などは特にしません」という指示だけ出していました。非常に短い時間の間に、学生さんがそれぞれに自分の考えをまとめてくれたので以下に掲載します。単位不要で聴講してくれた院生は除く、全員の学部生のレポートです。中には「まとめる時間が少なかったので、自分としては納得できていません」と添え書きしていた学生さんもいますが、私は短時間によくまとめてくれたと思っていますので(←親バカ状態)、ここに転載する次第です。






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「学び」と「コミュニケーション」から考える、英語教師が持つべき視点

YK


1. 「学び」とは

「学び」とは何か、単純な言葉ですが様々な切り口から見ることでいかようにも捉えられます。SLAの分野ではその歴史変遷から、言語習得過程において学習者の中で何が起こっているか、学習者個人の中で習得・学習はどのように起こるのかといったことを解明することに研究目的の比重が偏っています。しかし、言語習得の起こる要因とはそれだけではないのではないか、一般化を求めてそぎ落としていったものに目を向けることが必要ではないのかという批判も生まれています。そのひとつが、より社会的な側面、すなわち他者との関わりや周囲の環境が習得・学習に影響を与えるといったことを蔑ろにし過ぎているではないかというものです。自らの経験と照らし合わせてみても、人の影響を受け、やりたいと思って始めたことが自分の身についていることは多々ありますし、機械的に学んだものはどこか頭の隅にあるもので、自分の核として存在しているわけではないと感じています。


1.1 「学び」のための教師の役割

教師を志すものとして、生徒に最も「学び」を与えることができるのは教室内の授業であるという考えが私の中に深くあります。この考えは大きく外れていないでしょうし、完全に正解ということもないと思います。今回の講義を通して、「学び」が起こる環境とはどういったものなのか、教師はどう振る舞い、生徒と関わりを持つべきなのかということを考えました。「教え込む」ことしかしない教室では教師の言葉というものは生徒にとって外吹く風の音となんら変わらない、単なる記号となってしまいます。生徒がその記号から何かを得ようと動機付けされている集団ならまだ話は深刻でないかもしれませんが、多くの学校で「教え込み」による「学び」は実現されるでしょうか。少なくとも私は簡単にYesとは言いきれません。

私は現時点で、教室内における「学び」とは、学ぶ対象と生徒たちの現実をつなげることによって初めて生まれるものだと考えています。「学び」の定義づけはとても難しい作業ですが、いわゆる「腑に落ちる感覚が生まれること」と捉えられないでしょうか。教科書に書いてある記号(英語・日本語でも構いません)が意味することを頭で理解し、それと自分との関わりを体で感じて「あぁ、そういうことか。」と生徒が納得するということです。そこで教科書と生徒の媒介として存在するのが教師であり、いかように伝えるかが教師の力の試されるところでしょう。

1.2 英語教師の場合

英語教師に特化して考えると、学習指導要領の目標を拝借するならば、コミュニケーション能力の育成が教科としての最終目標といえます。その過程でまず英語という記号とその意味を理解させることはもちろん必要でしょうし、実際にコミュニケーションを行わせることも必要です。ではこれらを機械的に教え込むことが生徒の「学び」にとって有益だと言えるのでしょうか。ただSLA研究の心理言語学の視点からよいとされている理論の下指導を行えばよいのか、コミュニケーション能力を育むために英語教師が持つべき視点とは具体的にどのようなものなのか。今回のレポートを通じて考察を加えたいと思います。


2. コミュニケーションとは

講義で扱ったコードモデルとヤコブソンのモデルから、コミュニケーションを捉え直すことで、授業における教師の立場と役割を再認識していきます。


2.1 コードモデルから見たコミュニケーション

話者によって伝えたい考えなどのメッセージが言語というコードに込められる。
言語が音声として話者から発話され、空気などのノイズを通して聞き手に到達する。
聞き手は受け取った言語から話者のメッセージを読み解くことで情報を得る。

このコードモデルを極端に体現した授業の一例として、教師が教壇に立ち、教科書の英文を読んで訳して板書をするだけの授業が挙げられます。教師が何らかの情報を発していればそれはメッセージとして生徒に伝わり、理解してくれるという考えです。しかしこの方法を実際の公立学校での授業で取り入れると、生徒の大半を睡眠に陥れかねません(私もこのような授業を受けてきましたが、授業が午後の場合、睡眠学習の打率6割は固かったです)。実際のコミュニケーション場面でメッセージがしっかり聞き手に伝わるというのは、コードモデルの枠組みほど単純ではないからです。


2.2 ヤコブソンのモデルから見たコミュニケーション

・addressor (emotive)による呼びかけ。語り手は「送信者」としてだけ振る舞えばよいわけではなくて、自らの情動(emotion)を表現しつつ呼びかける。
・addressee (conative)による応え。聞き手は、語り手による情動表現に「応え」、動かされる。
・contact (phatic)をとる。語り手と聞き手の間に交際的な出会いが成立する必要がある。例:アイコンタクトが成立しているかどうか。
・message (poetic)を作品化させる。口語ではあまり見られないが、書き言葉ではメッセージをより際立たせ、印象付けるためによりよい表現を模索する。
・context (referential)の影響。メッセージが指し示す具体物だけでなく、その具体物と関連している広がりと深まりも指し示しうる。
・code (metalingual)の共有。語り手と聞き手の間でのcodeの共有は必ずしも十全ではないのでコードの解説が行われる。

 学校とは人間が集団生活する場ですから、人と人との出会いは必ず起こります。そこでは円滑な人間関係を維持するためであったり、コミュニケーションを始めるためであったりと様々な目的でphaticなやりとりが存在しています。日本の学校では、それらのほとんどが日本語という共通のcodeを用いており、日本語でのコミュニケーションの方法を日常から学ぶための指導もなされているはずです。例えば、私の高校では、職員室に入る前に、「失礼します。○年○組のです。○○先生に用事があって来ました。」と言うことを徹底させられます。これは少し機械的な教え方かもしれませんが、このことによって、コミュニケーションの発信者として目上の人と関わりを持とうとするときのphaticな一面が大なり小なり身についたかと思います。では英語でのコミュニケーションにおける、こういった学びを授業内で実現するために教師が持つべき視点とは何なのでしょうか。


3. 英語教師が持つべき視点

コミュニケーションを目標とする外国語科において、教室内で生徒とのコミュニケーションを取らずに教師主導で授業を展開することに矛盾を感じます。ヤコブソンのモデルとコードモデルの決定的な違いは、contact(出会い)という概念がヤコブソンのモデルに存在することです。

このモデルの中でも特に取り上げたいものが、emotive・phaticです。

まずemotiveについてですが、教室内での教師と生徒間のやり取りをコミュニケーションとして捉え、コミュニケーションを成功させることが生徒の学びを引き起こす一手段とすると、まず教師は教科書に載っている教えるべき内容(message)を語り手として情動的(emotive)に伝える必要があります。情動的に伝えるためには教師自身がその教材の内容にメッセージ性を見出さなければなりません。その方法の一つとして教材研究の充実が挙げられます。Codeである英語の語彙や文法に関する教材研究も必要ですが、ここでは題材の話題に関する教材研究を取り上げたいと思います。教科書に載っている情報の歴史的背景や人間ドラマなど、掲載されている英文以上の情報を教師が知ることで題材の深い面白みをメッセージとして込めることが可能になります。また、それが生徒にとって身近なものにまで発展出来れば、生徒の現実と教材を関連させることになるので「学び」はより深まると考えられます。また、現在のトレンドである推論発問を用いることでも題材について思考を巡らせることになり、生徒と教材の距離を縮めることにつながります。そのためにはやはり教材研究、という事になるでしょう。

発信する準備が整えばemotiveに伝えるための工夫が必要です。それは教師の英語のイントネーションであったり、注意を引く間であったりすると考えています。生徒のphaticについては、柳瀬先生にご指摘を受けたように、英語でのphaticの表現方法はある程度教えることも必要であると考えます。しかし、ある程度授業を英語で行い、生徒と目を合わせてコミュニケーションを図る教師の姿勢を見せることで帰納的に生徒が学習する側面もあります。しかし、帰納的に学習させるだけの「聞く姿勢」を生徒に持ってもらうためには教師と生徒の強い信頼関係や教師の英語への憧れを持ってもらうことが、時間はかかっても一番の近道であると考えます。となれば授業外でも日常的な生徒とのcontactの積み重ねや、教師の非常に高度な英語力が求められるので、どのような授業の議論でも信頼関係・英語力は必要条件であるのだと再認識しました。

教室内での生徒の学びを育むために教師のもつべき視点として、行き着くところはよく言われるような、教材研究の重要性・生徒との信頼関係の構築、英語力となりましたが、今回は2つのコミュニケーションモデルという新たな視点から考えることで、自分の中の切り口が増えたように感じます。

4日間の授業で、現在の教育システムや歴史的背景としての哲学を垣間見ることで広く深い視点が必要だと強く感じました。これからの勉強に役立てたいと思います。ありがとうございました。



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教師に求められるもの ― “Information”の観点から


KR


1.教室内における教師の立場・意識

このレポートでは、Batesonのinformationの定義と、Jakobsonのコミュニケーション・言語の枠組みを踏まえたい。また、その上で、教師の使命・立場について再考したい。

しばしば、教師は「教え込むこと」に偏重してしまうことが多いと考える。例えば、「all Englishで授業を展開すれば、生徒のinputが格段に増え、彼らの学力は飛躍的に上昇する」といった考え方である。教師が教えたものが問題なく生徒に刷り込まれる環境(例えば、学習に対する生徒のモチベーションが非常に高く、生徒が受け取れる姿勢が完成しているような進学校など)であれば、生徒の学力の向上には効果があるかもしれないが、現実はそのような学校ばかりではない。

その偏った考え方は、結果的に生徒の学びを見えなくさせてしまっているのではないか。


2.1 Batesonのinformationの定義

BatesonはInformationを「他人の中に変化を生み出す変化」と述べている。つまり、発信者(発信物)が何かしらの変化を発した際に、受信者の中で変化を生じさせるものがinformationである。言い換えると、どんな発信も、受信者内で変化が起きなければ、それはinformationとならない。

例えば、夏である現在、セミの鳴く声は非常にうるさく、非常に大きな音を発信している。非常に大きな音であるにも関わらず、私達は意識しないために受信者に変化を起こさない。この点で、セミの鳴き声はinformationに成り得ない。しかし、「夏らしいね。」という発言の直後に、タイミングよくセミが鳴くとどうだろうか。この場合は、私達の中で「まさにそのとおりだ」とか様々なことを考えさせるきっかけとなる場合が考えられ、受信者に変化を起こす。セミの鳴き声はinformationとなる性質を手に入れた。

 これを教室で考えてみるとどうだろうか。教師が発信する教授内容はinformationとなるためには、生徒の中に何かしらの変化を起こさなければならない。言い換えると、教師が何を発信しようとも、それが生徒の中で変化を生み出さなければ、教師はinformationを発していないことになる。教師が「発信する内容」だけに着目し、生徒の中での変化を配慮しなければ、教師が授業で発した内容は効果的に教授されないだろう。

 教師は生徒の中で変化が起きているのかを軽視してはいけない。生徒の変化を軽視した授業は、生徒の自主的な参加により成功が委ねられてしまい、下手をすれば教師の言葉は情報という性質を失い、空回りしてしまう。指導要領の改訂で、「英語は英語で」という言葉を元に、授業をall Englishで行うことが求められている。もちろん、教師が誤った英語をしゃべることは好ましくない。が、このような状況では、教師は自分の発信する英語に意識が集中し過ぎてしまうかもしれない。all Englishで授業をするのであっても、自分の発信に加え、生徒の変化を意識する必要があるだろう。


2.2  Jakobsonのコミュニケーションモデル

単純に「アンテナを張り、生徒の変化に気づく」と言っても、生徒の変化を起こすことは簡単ではない。発信者と受信者との間には、どのような関係が存在するのだろか。Jacobsonのモデルで考えてみる。以下はそのモデルを図示したものである。




このモデルによると、発信者(Addresser)は、出会い(Contact)という相互関与上で受信者(Addressee)と意味上のやり取りを行う。言語はこの出会いという土台の上で交わされるCodeに当たり、発信者と受信者の意思伝達のための媒介となる。そして、出会い(Contact)は、交わされる言語(Code)以外にも様々な要素に支えられていることを忘れてはならない。コミュニケーションは意思伝達のためだけの、無味干渉なCodeだけの世界ではない。発信者は受信者との出会い(Contact)を維持・発展するために、無数の語彙の中から、最も相手に影響を与えるフレーズを選択する、または、様々な表現様式を選択する。これがMessageにあたる。このメッセージは周りの環境(Context・Situation)により制限され、決定される。ここでいう外部環境は、話者を取り巻く環境だけではなく、発話者と受信者それぞれの背景知識や、今までの経験全てまで指す。
コミュニケーションは言語以外の外的要因に影響を受けている。発信者は受信者との出会い(Contact)を維持・発展するために、言語(Code)以外にも、様々な環境・状況の上で選択されるMessageを考えなければならない。仮に発信者がMessageへの注意を欠いてしまった場合、受信者との出会いの維持は困難となり、コミュニケーションは円滑に行われないことがある。ある発信者が話している言語には問題が無くとも、その話者がMessageという言語選択を怠った場合、受信者は彼の味気ない表現に対し、注意を注ぎ、傾聴し続けることは保証されない。

英語教育という観点で考えてみたい。指導要領の目標では大きくコミュニケーション能力の育成と掲げられている。しかしながら、教師の視点は表面上のCodeに向きすぎているのではないだろうか。様々な状況を判断した上で、発信者は多くの語彙の中から、受信者との出会いを継続するためのMessageを選択することにフォーカスを置くことは極めて少なくなっている。その結果、一辺倒な表現を詰め込んだ教材や会話が授業で取り扱われ、コミュニケーションの出会いを軽視してしまうがために、コミュニケーション全体を考える機会が減ってはいないか。

Messageを根幹に置いた授業を具体的に考えると、文学での巧みな表現を取り上げ、考えるというような指導が考えられる。現在では、このような文学を軸に考えられた授業は「コミュニケーションにおいて役に立たない」と忌み嫌われているかもしれない。確かに、年中ずっと文学の表現を扱う授業は極端で、文学に興味のある文学研究者以外はついてこないかもしれないし、コミュニケーション能力を育成するとは考えない。しかしながら、このような授業が、言語に対する敏感さを想起させ、出会いというコミュニケーションにおいて重要な場面を維持する働きを養うことを考えなければいけないのかも知らない。


3 教師に求められるもの

 Informationとコミュニケーションモデルに踏まえた上で、改めて、教師が教室内で行えることについて確認したい。

 教師が何かを教授する際には、少なくとも生徒に何かしら伝わらなければならない。指導要領の改訂で、教師は自らの英語に焦点を起きがちであるが、そちらばかりに意識が向かってしまうと、それはinformationという性質を失ってしまう。教師は、生徒の変化を意識した語り方が求められる。

 生徒の変化を生み出すにはどのような配慮が必要なのか。それはコミュニケーションモデルで言う出会いを意識することであり、同時にMessageに対し、注意を向けることである。しばしば、間違いのない簡潔な英語が最善だと思い込むかもしれない。しかし、そのような無味干渉なメッセージは生徒の心を動かすことは出来ない。生徒とのコミュニケーションの場、出会いを発展させるには、敏感な言語感覚から、より生き生きとした言葉の選択が求められるのである。単なる英語でとどまることなく、教師がコミュニケーションの模範を示し、生徒に変化をもたらす。この意識が求められるのではないだろうか。

 教師の「教え込む」という姿勢は、しばしばコミュニケーションの本質を隠してしまう。また、コミュニケーションにおける繊細な変数を見失わせてしまう。生徒にはそれぞれ独自のアイデンティティがあり、それらが複雑にからみ合って一人の人間を成しているので、自然科学のように、どのようなモデルも厳密に学習を定義することは不可能ではないか。また、社会というものは複雑に絡み合い、歴史的発展から変容し続けていく。単純化出来ない社会では、これまで行われてきたSLAという学問で唱えられた研究結果と自分のいる環境が等しくなることはありえないために、同じ効果が得られる確証は存在しないという点で、完璧な教授法は存在しない。何かに偏った教授の観点は、アイデンティティの差により、適合しなかった生徒を見捨ててしまうことになってしまう。教師に求められるのは、教室とは生徒が変化する場であり、教師はその変化の媒介という側面が大きいことを意識すること。また、何か偏った教授法にのみ頼るのでなく、複数の観点から、様々なアイデンティティをカバーできる配慮・アンテナを張っておくという事ではないだろうか。


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「英語教育は英語で」

NA


「英語教育は (原則として) 英語で行う」というスローガンに関しては国内でも賛否両論あるが、私が留学したハワイ大学でこのスローガンを俎上にあげた時になされた批判を紹介したいと思う。すなわち、「なぜ日本語を使えるアドバンテージを捨てるのか」というものである。

言われてみれば確かに、基本的に日本人は表意文字である漢字と、ともに表音文字でありながらも異なるニュアンスを持つ (と思われる) ひらがな・カタカナ・ (場合によってはアルファベットをも) 使い分けている。特に表意文字である漢字は、モノの名前などに用いられた場合、字面からそのモノの性質を示すことが多い。私の経験上、アルファベットに漢字が併記されることで、その単語の意味理解が促進されたという場合は多い。(もちろん、意味不明になることもある。)

今回の授業で扱った、plurilingualism  (複合的言語観) という概念を見てみたい。複合的言語観は、他言語を学ぶことは「中国語運用能力」「英語運用能力」という個別に存在する能力を獲得することではなく、水 (元の言語能力) に洗剤 (新たに学ぶ言語) を溶かすように、別の性質を獲得することである、という概念だ。これは上記の私の経験にも当てはまる。ここでは、英語の形態素と、全く違う言語である漢字の関係で考えてみたい。

例えば授業で扱った “transcendence”「超越」という単語を見た時に、  “trans(変)-scend (上昇) - ence (状態) ” といった具合に漢字に変換出来れば、意味を類推することができる。trans-は私にとって漢字で言えば「変」という一文字に集約される。そのイメージは「垣根を越える移動=変になる=トリップ (トランス) 状態」である。二節目の “scend” は “ascend” に代表される「上昇」、三節目の-enceはモノの性質・状態をあらわす接尾辞である。そうすると “transcendence” は「トリップして上昇している状態」というイメージになり、コンテクスト「最近私はカントにはまっているので」からカントの「超越」という意味であることが類推される。こういった風に、全く異なる言語間に共通項を見出し (「英語だから漢字は関係ない」ではなく) 、既存の知識を利用し、新情報を類推する、それが複合的言語観ではないだろうか。

さて、この観点で言えば、「英語教育は英語で」というスローガンは何をもたらすだろうか。まず、日本語を利用した英語理解というものはなくなるだろう (逆説的に、もしそれが必要不可欠であるならば、日本語の利用はなくならないだろう)。それによって、言語的接触の非常に限られた (日本語に置き換えて理解することも出来ない) 英語に授業内でだけ触れ合うことで、客体的学習の疎外感と相俟って、英語に対する苦手意識が増すのではないだろうか。相手の言っていることが理解できないということは恐ろしいことである。私はスペイン語を話せないので、NYでタクシーに乗った時に運転手がスペイン語で誰かと連絡を取り合っているのを見るのがものすごく怖かった。

私は「英語教育は (原則として) 英語で行う」ということが実際に不可能であるとは思わない。英語を話せない人間が英語教員をするべきか、と論には一理ある。そして実際に可能であることはいくつかの実践で示されているとおりである。しかし、私は (一部の) 成功例をもって全体を断ずるのは早計であると考える。また、公教育としての機能、つまり国民の一定以上の能力を担保するという目的からすれば、生徒の実情、すなわち英語との接触や、英語を学ぶ必要性への実感がほぼ皆無である状態を鑑みない教育方法は間違っているのではないかと考える。「英語教育は英語で」というスローガンが自己目的化し、生徒がその犠牲になるという状況はなんとしても避けなければならない。別種の「ゆとり世代」を作り出してはならないのだ。



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講義のまとめと講義を通じて考えたこと


ND


1. 授業のまとめ

1.1 SLAの歴史的変遷

 ここでは、SLA(Second Language Acquisition )の台頭から近年に至るまでの歴史的変遷ついて述べます。広い意味でとらえたSLAの台頭の背景には、第二言語習得理論に対する政治的・軍事的なニーズがありました。国の領土拡大や戦争の際に、他言語の習得が必要だったからです。そうして台頭したSLAは、1940-50年にかけて、構造言語学や行動主義心理学をその理論的背景として発達していきました。(構造言語学は統語的・音韻的な知識の体系化に、行動主義心理学は習慣形成理論に基づいた言語学習法の発展に、それぞれ大きく貢献しました。)やがて、Chomskyの登場により、SLAの論理的な拠り所は、生成文法理論へと取って代わられました。(生成文法に関する説明は割愛します。)その後、生成文法理論に対する批判としてHymesらが登場しました。個人の中で完結するChomskyの言語習得観に対して、彼らは周囲とのコミュニケーションまでを考慮した言語習得を唱えました。こうしてできたのが、比較的最近のSLA理論といえるでしょう。


1.2 SLA対する批判

 上に述べたような変遷をたどって発達したSLA理論に対する批判として、「基盤となる概念の曖昧性」や「理論の過度な抽象性」というものがあります。前者については、例えば「日本人にとっての英語と、ドイツ人にとっての英語はどちらも同じレベルの”EFL”といってよいのか」といった曖昧性が挙げられます。後者については、たとえば、「統計処理によって一般的な『学習者』を想定して作り上げた理論を、多種多様な一人ひとりの学習者にそのまま当てはめてよいのか」というような問題が挙げられます。特に後者の問題は、従来の多くのSLA研究が、被験者のspecificな側面や周囲の社会的要因との関係を捨象して、理論を一般化してきたという点に置いて、慎重に顧みなければならない問題といえるでしょう。


1.3 社会的視点からみたSLA

 前述のとおり、第二言語習得において、個々の学習者は周囲の様々な社会的要因と密接に関わりながら言語を習得していきます。その中で、それらの要素を排除し、数値化できる部分だけを理論として生成する自然科学的なアプローチをもってSLAは研究され続けてきました。言語習得理論を、単なる机上の空論で終わらせないために、私たちは一度、「理想的環境で語られる理論」から脱却し、様々な社会的要因に目を向けなければならないのです(social turn)。

 今回の集中講義を通して、(私が受講した範囲では)「ヤコブソン・モデルによるコミュニケーションの再考察」「マルクスの商品論に基づいた、『商品』としての英語教育の考察」「affordance, identity, zone of proximal developmentなどの概念と英語教育」(この項目はうまく理解できませんでした。ごめんなさい。)を学びました。そのような分野からSLAを相対的に見つめなおすことによって、言語習得をより一層深く考察できたと感じます。


2. 集中講義を通して考えたこと

2.1 特定の理論を過信することへの反省

 集中講義を通して深く考えたのは、1つの理論を信じこんでしまうことの危険性です。SLA理論は、依然その曖昧性を内在しているとはいえ、歴史的変遷の中である程度整合性のとれた理論体系に成長してきました。それ故に、私たちは「SLA理論にしたがって○○をすれば言語は習得できる」といった安直な考え方をしがちです。しかし、そのように1つの理論を無批判的に信じるのは非常に危険なことです。精緻化された現在のSLAだけを見ていては、その過程で捨象された学習者個人のspecificな側面を見落としてしまうように、一つの理論だけを過信していては、その理論の重大な欠点に気づくことが困難だからです。複数の考え方を相対的に比較し、それぞれの長所・短所を考慮しながら物事を考えることが重要であると考えました。


2.2 英語で情報を読むこと

 加えて、英語で情報を読むことの重要性を再認識しました。講義中、先生のお話の中で最も印象に残ったのが、「英語教育を社会学的分析の観点から考察している文献が日本には非常に少ない」ということでした。現在、英語教育に関して多くの翻訳本が市場に出回っているものの、やはり「新しい情報」や「開拓が進んでいない分野の情報」が日本語に翻訳されるまでには、多くの時間がかかるようです。研究者として、また教育の実践者として、現状を批判的に分析し続けるためには、英語での情報収集を習慣づける必要があると、改めて考えました。





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「公教育」について考えたこと

MN


1.はじめに

 私は「言語と社会」の講座を受けた4日間のなかで、日本の「公教育」はどうあるべきなのかということについて考えを巡らせてきました。講座を受けるなかで新たに得た視点、あるいはより明確にわかるようになった視点も多くありました。たとえば資本主義的な考え方が公教育にどんどん入り込み、いまやそれが当たり前であるというような見方さえ一部では受け入れられつつあるということ、しかし学校には教師と生徒間における贈与の関係が成り立ち、また公教育には富の再分配という側面もあるということ、そしてそれが日本の教育的な環境、あるいは学校そのものの良さを保ってきたということなどです。


2.1 公教育に対する考えの出発点

 私自身も稚拙であるかもしれませんが、公教育あるいは公立学校はこうあるべきだ、という考えを、学校教育を受ける者としての経験のなかで、自分なりに考えてきたつもりです。その考えは当然、10年ほどの間で少しずつ変化をしており、今となってはどこでどう変わっていったのかも忘れてしまいましたが、そのスタートは中学生のときであったということは記憶しています。


2.2 学校の授業と高校受験にまつわる経験

高校受験を控えた中学3年生の2学期ごろのことでした。今はどうかわからないのですが、私が中学生のときは、中3の社会科では公民を扱うことになっていたと思います。しかし私の中学校では、中3のはじめの数週間は中2でやり残した歴史を終わらせてから、公民に入るという形をとっていました。周りの中学校でもそういう学校が多かったということを記憶しています。しかし私たちの代ではなんと、まるまる1学期分が2年生でやり残した歴史の時間にあてられてしまい、残りの2学期と3学期で公民をするという形になってしまいました。しかも、2学期に入ってからも授業のスピードは変わらず、「おそらくもう教科書の全範囲は終わらすことはできないだろう」とだれしもが感じていたと思います。

 「丁寧な指導」とよべるならまだしも、授業とどのように関係があるのかわからないような親父ギャグと雑談で授業時間をつぶし、なおかつ教科書もほとんど進められない授業だったので、そもそも私たち生徒のなかではその授業に対する期待というのはあまりありませんでした。少なくとも、私自身はそう思っていました。しかし、何人かの友人に

「Nちゃん、社会科の受験勉強ってどうすればいいのかなあ」

とぼそっと相談されたときに、中学生にありがちな小さな正義心が私の中にも芽生え、ある時

「一体、公民の教科書はちゃんと終わるんですか。」

というようなことを、その社会科の先生に直接問い詰めてしまいました。そして返ってきた返事が

「なんとか終わらせるように頑張るね~。でもみんなちゃんと塾でも勉強してるんじゃないの~?」

というものでした。確かに私には、塾というエクストラの学習環境を与えられていた、恵まれた中学生だったので、いってしまえばその先生の授業があってもなくても高校受験にはほとんど影響はなかったかもしれません。しかしこの時当然、怒りの気持ちが私にはこみ上げてきました。

「塾に行っていない友人たちはどうなるのだ」

そういった感情でした。そして同時に、同じ中学校で学んでいる同士でも、「塾に行く生徒」、つまり自分と、「塾に行かない生徒」である友人の間で、なにかアンフェアな差異があるということを認識した瞬間でした。経済格差が学習機会の差になってはいけない、教育格差になってはいけない、という今の私の問題意識も、この出来事が出発点でした。


2.3 学校と生徒を取り巻いていた環境

今その当時のことを振り返って整理してみると、いくつかの憶測が思い浮かびます。

○その社会科教師自身も、「塾で習ってるから大丈夫」と次々に授業から背を向けていく生徒に対してやるせなさを感じていたのかもしれない。
(だからこそダジャレやギャグで笑いをとって、自分の授業に振り向かせたかった)。
○授業時間数の削減で、教えたい内容とあるべき進度を調節することが難しかった。
(この事に関しては実際、多くの教師がぼやいていた。)

中学生の頃は「あの先生はダメだ。なんもわかってない」と思っていましたが、おそらくその当時の学校をとりまく環境や生徒自身の変化に、そのベテラン社会科教師も存分に影響を受けていたのだと、今は思います。

また、私の父に言わせれば「受験勉強は自分ひとりでするもの」、つまり学校は特別な受験対策用のサービスを提供する必要はないそうです。(そのため父は塾に行くことも反対していました。)たしかにそういう考え方にも一理あるのかもしれないなあと思います。だから今は、その教師のことを全面的に悪者扱いしようとは思いません。しかしやはり残念だと思うのは、学校の授業を何よりも必要としている生徒(=塾に通わず、学校の授業こそが全ての生徒)へのまなざしまでも、その教師自身が見失ってしまっていたことです。


2.4高校での政経教師のことば

 高校では一転、ほとんどの教員が「予備校は生徒の自由な学びを阻害する」といったような認識をもって、予備校を敵対視していました。試験は学習の到達度をはかるためだけに用いられ、結果を他人と比較すること(順位付けなど)もありませんでしたし、試験がない主要科目すらありました。国立大附属の教育研究校といった性格も大いにあったと思うのですが、学びの楽園のような場所だったと今は思います。

 その中で、今でも心に残っている授業のひとつに「政治経済」の授業があります。「3年生の最後の授業では毎年同じ話をするんだ。」といって先生が話したことが今でも印象に残っています。

「この学校ではほぼ全員が大学進学を希望しているけど、高校生全体でみれば大学に行くのは半分。これを少ないとみるか、多いとみるかは人それぞれだと思うけど、中には経済的な事情から進学をあきらめる高校生もいるんだよ。僕は前任校でそういう高校生もたくさんみてきた。大学でどのように過ごすかは君たちの自由。それをわかった上で僕はお願いしたい。大学で学ぶ権利をもった存在、恵まれた存在として、そうでない人たちの分までという気持ちで学んできてほしい。」

ほとんど、こういった趣旨の話であったと思います。いま思えば、この先生はおそらく再分配のことについて触れていたのかもしれません。つまり学んだことを社会に還元できるような立派な人材になることが、恵まれた環境で学んだ者がすべきことだ、ということです。

 高校生ながらに、周りには授業料の免除を受けている友人がいるのも知っていましたし、学校自体は図書館が雨漏りして大事な古書にカビが生えてしまうほど古い校舎でした。しかし卒業した今も心に残っている授業が多く、それほど優秀な先生がたくさんいたという点では、その中で教育を受け、勉強できた学生は質的にかなり恵まれた存在であったのだと思います。そしてそういう高校生を大事に育てることが、未来の社会への投資となる、といった価値観が教員である先生方にあったのだと思います。


3.これからの社会を守る主体的な存在として

 最近知ったのですが、アメリカのある人気就職先ランキングのTOP3に、ある教育NPO団体がランクインしているそうです。このNPOは主に貧困地域にある教育困難校に教師(多くは大学の学部卒業生)を派遣するというプログラムを実施しており、実際の現場でリーダーシップと経験を培えるという点、かつ、貧困による教育格差という負の連鎖を食い止めるというNPO本来の目的にも適っている点が魅力的として、アメリカの大学生にも買われているそうです。

 私自身は当事者なので他の世代との差についてあまりピンとはこないのですが、就職活動をしている中でよく耳にしたのは、私たちの世代は「社会貢献への意識」が高いということです。背景にはゆとり教育、震災、ライブドア事件やリーマンショックなどがあるとも言われているようです。個人的な実感の話にはなりますが、たしかに私たちの世代では働く上で、金銭的な利益だけを追求することはあまり魅力的だと捉えられていないように思えます。少年期に大量のリストラがニュースで取り上げられ、また教育では「個」を大事にされてきたこともあるかもしれません。モノにあふれた社会で育ってきたこともあり、「自分探し」という言葉も流行りました。もしかしたら「社会vs自分」という視点で、社会に貢献することで自分の存在意義を見いだそうとする姿勢があるのかもしれません。私のように、小中学生という段階で格差社会を目の当たりにし、そのやるせなさをエネルギーに社会を変えようと活動している学生も多いそうです。

 今の日本における公教育の意義は見失われつつあるのではないか、それは私も強く感じるところです。しかし今の流れに乗ってこのまま簡単に、公教育の「公」の部分が失われていってしまうようには私には思えません。もしかしたら、思いたくないというのが正直なところかもしれません。ただそうならないためにも、新しい世代である自分たちが積極的に社会に問いかけ、世論に働きかけなければいけないのだとも思います。私たちの世代はまだ、今の日本社会をリードできるような存在ではないかもしれません。しかしいつか来るべきその時のためにこそ、今から、学校教育がさらされている資本主義的な発想に疑問を投げかけておくべきなのだと思います。


4.終わりに

 今回の講義を受けて私は、とりあえず全てに○をつけるという姿勢を考えるようになりました。当たり前ですが、世の中には多くの考えがあり、さまざまな異なる主張をする人が存在しています。そして柳瀬先生がよくおっしゃる通り、「中庸」という考えもあります。

  何をもって正しいとするかは何を基準とするかで異なり、あとはもう個人の良心の問題になるときもあります。何かを選ぶことは何かを捨てることだとはよく言われますが、だからこそ何かを選ぶときは慎重に吟味をしなければいけないのでしょう。学問でいえば、それが分析にあたるのかもしれません。

 大学に入学した当初、私はおそらく理想の教育というものに対して少なからず偏った考え方を持っていたと思います。正と悪も今よりはっきりと認識していました。しかし異なる考えをもつ友人に揉まれ、広い学問の世界に触れて、次第に「真ん中あたり」に答えを求めるように変わっていきました。今まで自分が「悪」だと捉えていたことに対してもいったんは○をつけ、そしてとりあえず「中間」で答えを保留して、極端な項目をできるだけ外から考え、見つめ直す努力をするようになりました。自分の中でも「どれもいいんじゃない」というあいまいな答えが増えましたが、以前より視野は広がった、すくなくとも視野を広くしようという姿勢は身に着いたのではないかと思います。

 今回の講義もそんなことを考えながら、たくさんの○をつけてしまいました。









2012年8月24日金曜日

日本の英語教育界のSocial Turn




来週の月曜から始まる集中講義の補助ブログ記事をようやく書き終えることができました(なんという自転車操業だ 汗)。David Block (2003) The social Turn in Second Language Acquisition (Georgetown University Press)を読んで、もしそれでも時間が余ったら、この本の執筆の重要な契機となったはずのFirth and Wagnerの論文(1997,1998 および2007)を読もうという計画です。



David Block (2003) 
"The Social Turn in Second Language Acquisition"



Three MLJ articles by 
Firth and Wagner (1997, 1998, and 2007)




このThe social Turn in Second Language Acquisition の性格を一言でまとめるとしたら、122ページにある次の表現を借りるのがいいかもしれません。

... recent debate over the ontological and epistemological issues underlying different approaches to SLA - in a nutshell, the rationalist cognitive dominated approach versus the socially sensitive and engaged, postmodern approach (p. 122)

この本を読むと、この論争(debate)の意義は大いにあったことがよくわかります。この論争により、20年ぐらい前までは唯一真正なる研究方法と思われていた、個人心理学的発想(注1)に基づいた量的研究法の限界が今や明白になったからです。そして、その限界を補うための個人を超えた社会的側面を扱う研究、量的測定・数量化以外の記述を行う質的研究が必要であることが、現在では(対話さえ拒む一部の頑迷な研究者を除くならば)広く認められたからです。




ところが、日本では必ずしもそうではありません。質的研究を露骨に否定する人こそほとんどいなくなりましたが、質的研究を理解せずに量的研究のように認識して、結果的に質的研究を学会誌から排除してしまっているようなエピソードはまだ多く聞かれます。

さらに状況が悪いのは、社会的なアプローチの研究に対する無理解です。これに関しては、多くの英語教育研究者が存在すら認知していないのではないでしょうか(もちろん私はここで少数の良心的な研究者のことを例外として省いて話を進めています)。

このThe Social Turn in Second Language Acquisitionに取り上げられている、社会的権力関係も考慮した社会言語学的アプローチ、アイデンティティなどの価値意識も含めた語用論的アプローチなどは、少なくとも私がよく行く日本の英語教育学界ではあまり取り上げられません(唯一、ヴィゴツキー系のSociocultural Theoryはまあ時に見られるのですが)。

ですから、Pennycookらがまとめあげた批判的応用言語学 (Critical Applied Linguisitcs) にある政治的側面を捉えた英語教育研究はほとんど見られません。




Index to pages about 
Critical Applied Linguistics



しかしひょっとしたら現在の日本において英語教育こそは、(英米に遅れる形で跋扈し始めた)新自由主義的風潮を正義の追い風として、資本主義的競争ばかりに邁進し、その風に乗るものは称賛するも、そこからはぐれる者は置き去りにする社会のあり方を拡大を潜在的に肯定しているのかもしれません。(現在の学校英語教育から、グローバル資本主義競争と、そこにつながる大学受験・資格試験を除いた時に、何か意義が残っているのでしょうか ―タテマエでなくホンネのところで)

あるいは「授業は英語で」を錦の御旗にして「指導要領に従えない者は学校を去れ」と息巻き、指導要領を操ることにより、あたかも教育界での立法・行政・司法のすべての権力を一手に掌握したような言説が聞こえてくる現状において、「英語教育学」の「学者」たる人間は ―もし御用学者あるいはその予備軍(wannabe)でなければ― 学校英語教育という現象を政治的な観点から考察してみることを試みなければならないのではないでしょうか。

しかし明治以来、日本のエリートに寄り添う形で発展してきた英語教育は、現状をひたすら肯定し、その枠組の中でどうやってゆくかばかりを考えてきたように思います。批判的な想像力を欠いていたのです。

いや、批判的な想像力を抑圧し忌避し、いかに現状の枠組で生徒そして教員を統治するかが「英語教育学」の仕事の一つであったようにすら思えます。(この意味で、指導要領を不問の与件とし、いかにそれを整合的に解釈して体制を維持しながら生徒と教員を管理(そしておそらくは支配)するかを目指しているような「英語教育学」とは、大げさに言えば現代の神学なのかなとすら思えてしまいます。もっとも神学ほどの精緻さや体系性はないのですがw)。

上記の引用にしても、それを読んで「『存在論』や『認識論』とか、『ポスト・モダン』なんてわけのわからない戯言はどうでもいいんです。それよりも誰にもわかる数字で結果を示す。これこそが説明責任です。違いますか!(キリッ)」と反応する人が多いだろうなと私は思ってしまいますwww。



話が大きくなりすぎそうなので、身近な話題に変えます。実際、The Social Turn in Second Language Acquisitionでは政治的な話題はほとんど出ていないので(注2)。


生徒の学びに寄り添うためには、5件法のアンケートを頻繁かつ大規模に行うだけでいいのでしょうか。生徒の家庭や教室での人間関係や自己意識、学校や地域が置かれた社会・経済的状況、そしてそういった状況を固定化(あるいは悪化)させている政治的状況を理解することはどうでしょうか。こういった個人心理学・量的方法にとどまらない社会的・質的アプローチも重要ではないでしょうか。

生徒が社会で英語を使えるようになるためには、マークシート方式で測定できる(信頼性の高い!)学力のことだけを考えていればいいのでしょうか。人が何をどのように語るかという言語使用と社会的諸関係の錯綜した関係を少しでも解明することも重要ではないでしょうか。そうして生徒が英語という外国語に対して"ownership"を感じ、自らの"agency"を自覚しながら、英語使用共同体に参加することを私たちは促進するべきではないでしょうか。

現状の問題意識では容易に言語化できない事象を考察するために、私たちは質的そして社会的な学術用語の使い方を、少しずつ(「学問をした馬鹿」のように暴走しないように注意しながら)学んでゆくべきではないでしょうか。そうしてこれまでの人類の社会科学的知見を消化して、日本の英語教育界を語る私たちのからだの血肉とした時に、私たちはよりよい社会を創り出すための力を得ませんでしょうか。

集中講義を通して、学生さんと一緒に考えてゆきたいと思います。





(注1)
「個人的心理学」については下記の記事をお読みください。

アレントによる根源的な「個人心理学」批判
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/03/blog-post.html

この世の中にとどまり、複数形で考える
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/03/blog-post_24.html


(注2)
David Block氏は、政治的な側面を最新刊のNeoliberalism and Applied Linguisticsで語っているのかもしれません(私は未読です)。


2012年8月23日木曜日

「教師のためのからだとことば考」を読んで考えた、授業における生徒への接し方(学部生SSさんの文章)





以下は、学部生SSさんの文章です。もしよかったら皆さまも読んで、「からだとことば」という質的な観点から英語教育を考えなおす契機にしてください。自分のからだで感じることの多くは、誰にでもわかる形で対象化してエビデンスにできないものですが、だからといってそれを「ない」ものにすることは知的怠慢であるし、それを抑圧・排斥することは知的傲慢であると私は考えます。


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「教師のためのからだとことば考」を読んで考えた
授業における生徒への接し方


SS


1. はじめに

 私がこの本を読もうと思ったきっかけは、もうすぐ教員になる者として、どのように生徒と接していくべきか漠然とした不安を抱いているためです。実際に授業をしたのは教育実習でやらせていただいた9回のみです。ほぼ毎回担当するクラスが違っていたので、担当したクラスの生徒たちのことを深く知れないまま授業をしたためか、自分が投げかけている発問や一つ一つの働きかけが、ひどく形式的で、儀式的なものに感じられました。生徒の間をすり抜けて、教室を出て行くような感じがしたのです。自分はこんな形式的な授業をしたくて教師になるのか?答えはもちろん、否です。

  塾講師の経験のない私は、これから生徒との間に「教師と生徒」という、今まで自分が経験したことのない関係を築いていかなければなりません。それは友達になったり、先輩後輩の関係を深めるのとも全く異質なものなのだと感じています。そのために、生徒が体じゅうから発しているメッセージを理解し、歩み寄っていくべきだと考えました。先日行われた教員採用審査で、「1つの教室には色んな背景や性格をもった生徒が集まってきます。そんななかで、あなたはそういった生徒たちとどう接していきたいですか?」と質問されました。私は、「集団の中で完全に個に応じた指導をするのは難しいので、机間指導を積極的に行って、それぞれの生徒の状況を的確に把握したいと思います」と答えましたが、実際に自分がそれができるのかな?と面接会場を後にしながら不安になりました。目を合わせて話をしてくれたり、私が横を通る時に「先生、ここがわかりません」などと生徒からかかわってくれればそれができるでしょうが、そうではない生徒も大多数いるものだと推測します。なかには「教師」という人種が嫌いな、反抗心をもった生徒もいるかもしれません。そうした生徒たちときちんと向き合い、何とか血の通った授業をしたいと考えるとき、少しでも生徒の体や態度から発せられる声のない声を拾うべく、この本を読むことに決めました。


1.2 自分自身の経験から

 本書は主に姿勢や身体論のお話だったので、「自分が生徒だった頃、そういえばいろんな場面で姿勢のこと、注意されたなぁ」と思い出していました。そのなかでもっとも印象的だった先生の発言が2つあります。1つは、小学校高学年の時の担任が常々言っていた、「先生が話しするときは、目に穴が開くぐらい先生のこと見て!」という言葉です。この言葉は当初、落ち着きのないクラスの注意を先生に向けさせるためだと思っていました。ですが時が経つにつれ、目と目を合わせて話を聞き、話をすることが相手と「伝え合う」ことのもっとも根底にある大事なことだと気づいたとき、先生のあの言葉の真意はここにあったのかと気づきました。高等学校の頃、英語の授業でよくスピーチやプレゼンを行う機会がありました。そのたびに友達や先生からフィードバックをもらっていましたが、アイコンタクトについては常に一番いい評価をもらっていました。先生の言葉に感謝したいです。

   そしてもう1つは、高校時代の部活の顧問の先生の「腰を立てろ!」という言葉です。とても抽象的なだけに、最初は全く意味が理解できず、今でもはっきりとは理解できていません。楽器を演奏するうえで、腰が立っていないと息がきちんと行き来できないということぐらいしか理解できませんでしたが、それでも腰を立てるということだけで、ずいぶんと楽器を吹きやすくなったように感じました。



 2. 「教師のためのからだとことば考」より

今回読ませていただいた中から、自分が特に「これは大事だな」と感じた部分をピックアップしてそこで考えたことを述べていきたいと思います。


2.1 「並ぶ」のは「並ばせられる」こと?

 まず、授業をしようと教室に入ったとき、真っ先に見えてくるのは6列程度に並べられた机と椅子です。生徒だった頃は何も違和感を覚えませんでしたが、いざ見習い教員としてその光景を前にしたとき、あまり整然としていたので私は圧倒されてしまいました。そして授業が始まると、その整然と並んだ机と椅子に生徒たちが座ります。このとき、彼ら彼女らは「並べられて」いるのではないかとこの部分を読みながら考えました。その形態からして、すでに生徒たちは無意識の『「授業を受けさせられて」いる』感を持って授業に望んでいるのではないでしょうか。

そこで頭に浮かんだのが、高校時代の英語授業でペアワークやグループワークをする時間が多くあったことです。これらの活動をしている間、少なくとも私や私のまわりにいた友人は「やらされている」感を持たず、目の前にいる友人と多く英語を話したいという意志を持って授業に望んでいたように思います。「とりあえずペアワークやグループワークだけさせておけ」とやみくもに授業形態を変えるのでは無意味でしょうし、生徒が教師ときちんと活動の目的を共有し、教師が明確な指示を与えないとただのおしゃべりの時間に変わってしまいます。先に述べた机と椅子が並べられその間に「並べられて」いることで無意識に受身になってしまいがちな生徒をいかに自らそこに「並び」、授業を受けてやろうという気にさせてやれるか。それはやはり生徒同士が生徒自身の声をもってふれ合うこと、そして教師がいかに自分の声を生徒たちにぶつけ、また生徒も声を教師にぶつけてもらえるように向き合うかが最も重要なことだと考えました。


2.2 話しかけるということ

 この章に、「自分の言葉を、他者とふれ合い、交流しつつ、変容し成長してゆくものとしてはとらえていない」、「まるで一本の材木か石みたいにまとまった文章をそこへつき出し、置いておくだけ」の人がとても多いと書かれています。私はここを読んで、またしても自分の教育実習での経験を思い出しました。中学生の授業を担当させていただいたときでした。私は会話文から読み取れる生徒の気持ちを生徒に発表してもらっていました。少し自分の意図と違う答えを発表した生徒がいたとき、私はそのままほかの生徒を指名してしまいました。その授業の批評会で「教師の意図と違う意見は尊重してもらえない勝ち抜きトーナメントのような授業でした」と指導教官の先生からコメントをいただいたとき、私は初めて自分のしてしまったことに気づいたのです。先に私が引用したような、そのままのことを私は授業でしていたのでした。自分の発問を生徒に「置いて」、後はほったらかし、という状況だったのです。生徒の間に生まれた意見差を、彼らのことば同士がふれ合い、交流しながら変容し成長してゆくものとして捉えることができませんでした。自分自身が生徒のことばとふれ合うことを恐れていたのだと今では分かります。声だけは昔からよく通る、教師向きだね、と言われてきましたので、活気ある授業をできる「つもり」でいました。その時、私は声、そして言葉について何も分かっていなかったことにこの本を読んだ今やっと気づきました。


2.3 ことばとふれ合う

 この章に、「相手のからだに、声がぶつかってない!」と竹内先生が怒鳴る場面があります。私はこの言葉を「どこかで聴いたことがあるな。」と感じ、しばらくどこで聴いたのか思い返していました。そして私はこの言葉を高校時代の部活動で聴いたことを思い出しました。(部活動で言われた時には「声」ではなく「音」でしたが。) 体育館で練習をしたとき、「お前らの音には方向性が全くない」とのことで、体育館の端々に部員が散らばりました。「誰に音をぶつけるか決めてそいつにめがけて吹け」と、一人一人演奏させられたのです。するとほとんどの部員が上の言葉を先生に投げられました。それまで「右上の、あそこらへん」といった曖昧な対象に向けて吹いていた私たちでしたが、それからというもの、「あそこの木に止まっている鳥」だとか、「グラウンドで練習しているソフト部員」といった具合に、洒落かと思われるほど細かい「対象」を設定して練習するようになりました。これを授業に置き替えて考えたとき、例えば誰かを指名したいとき、「○○さん、」という文字を声に乗せ、その声をその○○さんにきちんとぶつけないと、その指名はきっとむなしく宙を彷徨うだけになってしまうのではないでしょうか。そのままの状態で発問を投げかけたり、説明をしても、その発問は生徒たちの体に触れられず、体の中に入ることもなく、「胸に沁み」、「腑に落ちる」ことはないのだと考えます。


2.4 からだは常に語っている

 この章の始めに、たくさんの「目」にまつわる慣用表現が紹介されています。「目を丸くする」「伏し目がちに」、「目くばせをする」「目の色が変わる」…。これらの目が伝えるメッセージというのは、生徒の反応がより濃く現れていると感じました。口では同意していても、伏し目がちであればきっと本心はそうではない。あの子とあの子がさっき目くばせをしていた。きっと何か企んでいるんだろうな。など、生徒の目を見るだけでも多種多様な反応が見て取れます。それと同時に、きっと教師の目も、生徒に語りかけたり、優しいまなざしで見守ったりするためのものでなければならないのだとこの章を読んでいて感じました。

   私が今までお世話になった先生のなかに、いつもスーツをシャキっと着こなした、背筋がピンと伸びた髪の短い女の先生がいらっしゃいました。彼女は、私たちがどんなに言うことを聞かなくても、そのピンと伸ばした背筋のまま注意しつづけます。やがて私たちはその背筋から発せられる「あなたたちには動じませんよ」というメッセージを受け取り、彼女に従いました。この例は先に述べた目の話とは少し離れますが、「からだが常に語っている」ことを私が教師から感じた一番印象的な場面だったのです。

  この章を読んでいると、人の体の姿勢と声というものは、そのままその人の心の方向や、心の中を表していることに改めて気づかされます。声のことについてはこれまで述べているので、ここでは姿勢のことについて述べたいと思います。私はファッションサークルに入っていて、年に何回かファッションショーで服を出させてもらうことがあります。その際、モデルさんのウォーキング練習を行うのですが、やはりそこにもモデルさんそれぞれの気持ちが、ポージングや歩き方に如実に表れるのです。今まで何度もショーに出てそれなりのキャリアも自信もあるモデルさんは、歩き方にも「自分をいかに魅力的に見せられるか」を見せる余裕がありますし、ポージングにも「みんなどうやったら私に釘付けになるか」といった貪欲さといいますか、自信を感じる人が多いのです。一方で、入りたてでいまいち自信がなく、せっかくの可愛さや美しさを台無しにしてしまっているモデルさんも何人か見てきました。歩いているときも顔が下を向いてしまって、肩が内側に向いている。だからポーズもいまいち決まらない。このようなモデルさんには、物理的なアドバイス(「肩を後ろにグルッと回して、そのままキープするようなかんじで」や「顎をもう少し上げて顔を見せてください」など)をするのと同時に、「頭のてっぺんからワイヤーで吊るされているような感じで。そうすると自然と胸も高くなりますよ」というと、途端によくなるモデルさんがほとんどですが、やはりそう長くは続きません。その時にはとにかく自信をつけてもらうよう、褒めたり、繰り返し練習をしたりしています。

   教師も、モデルと同じ程度からだをもってメッセージを放つべきだと思います。よく、問題行動に対する対処のしかたなどの答申を読んでいた際、「毅然とした指導」という言葉を見ました。「毅然とした」というと非常に抽象的ですが、やはり私が想像したのはしっかりと背筋を伸ばして、しっかりとした目線を生徒に送り、腹の底から声を出してその声をまっすぐ生徒にうつけている教師の姿でした。姿勢を直すのは簡単なことではないですし、時間もかかることですが、教壇に立つまでには、背筋がスッと伸びた立ち姿で授業に臨めるようになりたいと考えました。



3. 具体的にどのように生徒と接していくべきか

 ここまでで考えたこと、感じたことを通して現段階で私が考えるこれから教師として生徒に接していく際に心がけたいことを述べていきたいと思います。


3.1 自分の声を全身で「生徒」にぶつける

 授業を行う際、生徒をすりぬけて壁や天井に声がぶつからないよう、目の前の生徒一人一人に声が届く教員でありたいと思います。もちろん、そのためには声だけではなく、「目」のもつ力や、からだ全体で訴えかけることも重要だと考えます。きっと先に述べたように、教員に対して漠然とした反抗心や単に英語という科目が嫌いという理由で、授業に対してネガティブな生徒も相当数いると思います。そこで「あの子は英語嫌いだし」や「あの子は何回注意しても聞いてもらえないから」という理由でその子たちと向き合おうとすることから逃げては断じていけないと考えます。一度そうしてしまうと、きっとその生徒たちに私の声がぶつかることはないでしょうし、そうすればますます距離は広がります。やはり根気強く生徒に声をぶつけ続けていきたいです。


3.2 自らも生徒の言葉に「ふれる」

 私自身が発問を「置く」だけで終わってしまわないよう、生徒のことばや、表情から発せられるメッセージにふれることができる感受性を持ちたいと思います。これができなければ、先にも述べたような「勝ち抜きトーナメント」式のおおかた授業とは呼べないものになってしまいかねません。そのために日ごろから生徒を「観る」ことが必要だと考えます。ただ表面的に活動に取り組んでいるかどうかを「見る」のではなく、例えば、「今この子は I think so too.って言ったけど、本当はそうは思ってないな」などと、生徒のこころの内まで「観る」ことのできる「目」を養っていきたいです。この「目」は、やはり普段から友人と話す際、きちんとその友人を観てあげて、声色や目の動きといったほんの小さな変化に違和感を覚えることで養えるのではないでしょうか。



4. おわりに

 この本を読み始めた時、最初の体育座りのお話が非常に自分にとってセンセーショナルでした。小学校や幼稚園で当たり前のように教えられてきた体育座りですが、これが一世代前のいわゆるヤンキーと呼ばれていた少年たちがコンビニの前でいわゆる「ヤンキー座り」をしている時よりももっと危機的な状況だということを知れたことが、私にとってはとても大きな財産となりました。確かにあの頃のヤンキーたちは、「先公」にはむかったり、反抗していました。その動きにはまだ「向かい合おう」「立ち上がろう」という意欲がありました。しかし現代のより複雑な問題を抱えた子どもたちが体育座りを教えられることで、その問題から「立ち上がる」「なんとか抜け出そうとする」志向を失ってしまっているように感じます。そういった子どもたちに、少しでも多くことばがぶつかりあう英語の授業を提供できるようになりたいなと考えます。









なぜ英語を勉強するのか ―フリースクールでの経験から― (学部生MNさんの文章)





以下は、ある機会に書いてもらった学部生MMさんの文章です。もしよかったら皆さまも読んで、「なぜ英語を勉強するのか」という素朴な疑問を、英語教育を考えなおす契機にしてください。

***



なぜ英語を勉強するのか 

―フリースクールでの経験から―

MN


0. はじめに

 今回のエッセイで私は「なぜ英語を勉強するのか、なぜ英語を教えるのか」ということをテーマに、フリースクールでの経験―不登校児童に対する英語のボランティア講座―をふまえたものを書こうと思いました。選んだテーマは私が高校生の頃から漠然と、そして大学生になってより意識的に考えてきたものです。そして就職を民間企業というある種、英語教育とは全くかけ離れたところに決めた今、私と英語教育を一番強く結んでいる場所はおそらく、このフリースクールだと思います。ここで日々感じる「英語とは何か」という問いは、これまでと同じように私を悩ませ、苦しめるのですが、同時にとても新鮮な感覚を味あわせてもくれます。

 もしかしたら、残りの大学生活において、私が英語教育と最後に向き合っているのはこのフリースクールで生徒たちと一緒に英語を勉強している時かもしれません。だからこそ、今わたしが考えている事をこの機会に書いてみようと思いました。


1. フリースクールに通うようになるまでの、私と英語教育

1.1 なぜ勉強をするのか、という永遠の問い

  私はこれまで「なぜ英語を勉強するのか、なぜ英語を教えるのか」ということに対して悶々と考え続けてきました。自らが受けてきた教育を踏まえて、英語は楽しい、外国の文化を知れる、英語を学ぶことで日本語と比較することができる、などといったように、いろんな意義を見いだしてきました。そういった意味では「なぜ勉強をするのか」といった問いへの答えに近かったのかもしれません。勉強とは決して進学や就職のためにやるものではない、という価値観が自分のなかに強くありました。「学問は最高の遊びである」という言葉にあるとおり、学問を通して自らの感性を磨くことこそが勉強をする理由であると思っていました。そのため、受験に特化したような参考書も好みませんでしたし、また大学名や偏差値で頭が良い、悪いなどと言い、その中で一生懸命勉強している人たちのことを勝手に評価しようとする人のことも嫌いでした。今思えば、とても偏っていたかもしれません。

 だからこそ英語を勉強することも、進学や就職以上に価値のある目的や理由が存在すると思っていました。そしてそれを、頭の中だけでなく、肌で強く実感したのは2年次でのイギリス留学、そして3年次での教育実習でした。


1.2 イギリス留学での生のコミュニケーション体験

  イギリス留学では生の英語のシャワーを初めて経験しました。相手の話す言葉がわからず、自分の気持ちがうまく伝えられず、悔しい思いをすることが何度もありました。いわゆる「カタコト」と呼ばれる英語で、すばらしいスピーチをする日本人にも出会いました。日本語なまりの英語を話す私を、現地のイギリス人は剣道という共通の言語を通して受け入れてくれました。イギリスで食べた料理はうまかった。グルメの世界は言語以上にグローバルだと感じました。親しくなった人たちと、言葉を交わさずともコミュニケーションができるようになりました。異なるバックグラウンドを持つ世界中の英語学習者と、同じ時間を共有することができました。彼らは私とはdifferentであるけれども、同時にsameでもあるのだと思いました。どれも私が英語を勉強してきたからこそ経験できたことであり、英語学習者の特権であると思いました。英語という語学を学ぶと同時に、実際にその言語が使われている世界を触れてみる必要性を感じた経験でした。


1.3 教育実習で感じた、教師の役目

  教育実習では、私の人生ではじめて、だれかに英語を教えるという経験をしました。目の前の生徒たちが何を考えているのかわからず、とても苦しみました。生徒たちの能力を決めつけ、「きっとできない。きっと理解しない。」と教師である私自身が考えてしまっていた時期もありました。しかしある授業を行っていた際、生徒に音読をさせる場面で、私がとっさに出した一言がきっかけで、生徒たちは私が思ってもみなかったような力を見せつけてくれました。その時、教師は生徒の可能性を判断、評価するためでなく、その可能性を引き出すためにいるのだ、ということがわかりました。英語教育の現場で、表現すること、そしてそれを理解し、再び表現することの素晴らしさを生徒に教えてもらい、それこそ英語教育が目指すべき道だ、とも思いました。


1.4 進路の決断

  3年の冬が近づいてきた頃、昔から大好きだった学校への愛着をさらに募らせ、また教師、そして英語教師という職業のすばらしさを実感しながらも、海外も含めた自分の知らない外の世界への好奇心、そして教育実習で出会った生徒たちや日本のこどもたちがいずれ飛び込む一般社会というものへの興味から、私は民間企業への就職という進路を視野に入れ始めました。3カ月間以上、就職活動というものにどっぷり浸かり、英語教育へ思いを巡らす時間がめっきり減ってしまった頃に、私は不登校の高校生たちが通っているあるフリースクールに、英語の講座を担当するボランティアとして、週に1回通いはじめるようになりました。



2.フリースクールに通うようになってからの、私と英語教育

2.1 スクールの生徒たちと接してみて

  フリースクールでのボランティアは1年以上前から希望しており、念願でもありました。ボランティアへの単純な興味ももちろんありました。しかし、今の日本の教育の最大の問題点は経済格差による教育格差があると自分なりに考えており、そこから発して何らかの理由により、勉強についていけなくなってしまった生徒をサポートしたい、という思いがあったことも理由の1つです。実際に教英の先輩たちが英語の講座を行っている様子を見学することからはじまり、徐々に私自身も生徒たちや、フリースクールの先生たちと関わるような形をとりながら、私のボランティアはスタートしました。

 通いはじめてみてわかったのは、彼らには知的発達障害があるということでした。普段、彼らと話し、接するなかでは今でもあまりピンとはこないのですが、講座を通してなんとなく、こういうことなのかなと感じることがしばしばあります。どこまでが障害によるもので、どこまでがその子の特性であるのかは私の勉強不足ゆえわからないのですが、人の話をなかなか最後まで聞くことができない子、わざとか無意識なのかもわかりませんが、周囲の生徒の学習の邪魔をしてしまう子、それを注意しようとして逆に火を付けてしまう子など様々で、どういった言葉をかけて良いかわからないことがほとんどです。一言かけてみては様子を見てもう一度ことばを選びの繰り返しで、しばしば良い言葉が浮かばず黙ってしまうこともあります。

 決められた時間には講座に参加するかレポートに取り組むのがスクールの決まりなのですが、それをせずにゲームに没頭する子がいるかと思えば、休み時間でもノートにびっちりと板書や教科書を写す作業をする子もいます。最近、印象的だったのは「この学校は数字を出さない。比較して順位を出さない。だってそれがいじめにつながるから、めちゃくちゃ徹底している。」と皮肉交じりに生徒が話していたことです。このスクールが生徒ひとりひとりにとって、どのような場所であるのか、それを知るにはまだまだ彼らと共有する時間が私には必要なのでしょう・


2.2可能性を引き出すことと、疑ってしまうこと

 講座を通して英語を教えることについて言えば、難しいの一言です。何を知っていて何を知らないか、もまちまちです。私の勝手な感想にはなるのですが、英語を教わることには慣れているようで、講師が聞きたいことややりたい活動を予想したり、実行したりすることは比較的容易であるように思うのですが、そこで学んだことを本当に理解しているか、身についているかが私にもわからないので、ある問題に対して「これ、完璧。」と言ってみて、1週間後に同じ内容のところで「この前、パーフェクトだったやつだよ~」と言ってみたり、ゲームが好きな子には例文にポケモン(Pokemon)を入れてみたりなどして、詰め込みといわれても何とかして英語の大事な基本ポイントを覚えてもらいたい、と試行錯誤しています。教育実習では「可能性を引き出す」ことを学びましたが、もしかしたら今のわたしは「これわかってるかな」「大丈夫かな、難しすぎて嫌にならないかな」と、生徒の能力を下へ下へ疑っている部分があるのかもしれません。

 
2.3  世間知らずだった、「なぜ勉強をするか」という問いへの答え

そんな風に生徒と接する中で、生徒が将来のことを話してくれる機会が何度かありました。生徒は普通の高校生とは変わらない、いろんな夢をもっていることがわかりました。ある日、お昼休みに昼食をとりながら生徒と話していたときのことです。勉強の話になり、「○○くんは勉強熱心だね。お昼くらい休まないと!」と話していたら、「でも勉強がんばらないと。」と返ってきて、「勉強すきなの?」と問うと「う~ん・・・」と首をかしげました。そしてしばらくして「仕事に就きたい。そのためには勉強をして試験に通らないと。」という答えがかえってきました。

 以前の私は、試験に合格して良い大学に行くために、あるいはその先のいい就職先を得るためにという目的のためだけに勉強をすることに対して、とてもゆがんだ感情をもっていました。

「そんなもののために勉強してどうするんだ」

とさえ思っていました。しかし、彼の言葉を聞いた時、そんなことを言っていた自分がとても恥ずかしく思えてきました。不自由なく勉強できる機会を与えられ、恵まれた環境で育った自分自身の経験の範囲でしか世界を想像できず、物事を語れず、22歳にもなって世間知らずのまま生きてきてしまったと感じました。

 日本という世の中にも、さまざまなバックグラウンドを持った人たちがいろんなところでそれぞれの目的を持って勉強しています。勉強をする目的はそのままやる気につながるでしょう。勉強をする際のやる気、モチベーション、動機付け、それには効果的なものもあれば、そうでないものもあるかもしれません。しかし、どの動機付けが良くて、どれは良くない、といった良し悪しを決めることまでは私にはできないのだ、ということを思い知らされました。少なくとも生徒の前ではそんなことはとてもしてはいけない、と思いました。

思えば、勉強をすれば仕事を得ることができる(少なくとも就職に有利になる)、というのはある意味、恵まれたことなのかもしれません。だからこそ、改善されるべきは、一人ひとりの学習環境である、とも思います。学びたい人が学べる社会こそが、日本の教育がこれからも目指していくべき場所であると感じました。



3. 残りの大学生活、そしてフリースクール講師ボランティア

3.1 英語の楽しさを教えたい

フリースクールでのボランティアに通い始めて5ヶ月目になりました。生徒とも少しずつ顔なじみにはなってきましたが、いまだにどう接して良いか、迷ってしまう事もあり、毎回の訪問が手探り状態です。しかし毎回、発見があり、とても楽しいというのも事実です。どういう形であれ、勉強をしたいという気持ちを持っている生徒たちと同じ時間を過ごせるのは、私にとってもすごく刺激になるのだと思います。

わたしは英語を彼らに教える者として何を目指すべきなのか、それはボランティアを始めた時から考えていたことでした。今はとにかく「英語の楽しさ」を生徒と共有できれば、と思っています。しかし同時に、ただ表面的な楽しさをアピールしたり、「英語を楽しいのだ!」という押しつけをする方向へいかないように気を付けなければならない、とも考えています。

生徒の勉強への目的は様々です。なかには、しんどい思いをしながらする生徒もいるのかもしれません。そういった生徒にとっては、表面的な「楽しさ」はもしかしたら一時的なごまかしになってしまうかもしれない、と思っています。さらにいえば、学習における本当の「楽しさ」は、「自分ひとりでできる」ということとイコールではないか、と今は思っています。たとえしんどい勉強でも、「ひとりでも勉強したい、学習を進めたい」と思えるようになれば、それはその学習者にとっては大きなアドバンテージになると思います。

だからこそ基礎基本を身につけることが大事でもあります。しかし基礎基本はただ楽しいだけでは身に着かない、ということもまた事実です。基礎基本を身につけることは、英語を教える側の私にとっても、学習する側の彼ら生徒たちにとっても、1つの壁であると感じています。


3.2彼らにとっての「英語教師」として

私は、フリースクールに通う生徒たちの一つの特徴として、「自信がない」ということを感じています。これは前述の基礎基本がまだしっかりと身についていないことも、一つの理由なのではないかと私は思います。だからこそ個別に指導をしていく中で「できた、わかった」経験を覚えさせてあげることで、次回おなじ内容を学ぶ際にも「前できていたところだよ!」とか「それであってるよ!」と言って、「できた」記憶を繰り返しインプットできれば、と思っています。手探りではありますが、そのなかでも必死に探り当てた自分のひとことで、生徒が少しずつ「できた、わかった」経験を重ねていってくれている姿をみると、自己満かもしれませんが、とても嬉しくなります。

「『知的におもしろい』と、うっすらとでも良いから生徒に感じさせてあげたい。でも教える側のエゴにならないように気を付ける。」当面の私が目指すのは、そんな英語教師です。







2012年8月16日木曜日

研究論文を書くためのチェックリスト(大学院生Aさんによるまとめ)



以下は、高校教師業を休職してフルタイムで大学院で学ぶAさんが、The Craft of Research を読んでまとめた「研究論文を書くためのチェックリスト」です。地道にコツコツと学ぶAさんは、若い院生にとてもいい影響を与えています。このチェックリストをご本人の許可を得てここに転載します。




研究論文を書くためのチェックリスト



Ⅰ 研究、研究者、読者の意味を理解するために


1.「研究」の定義と意義が語れますか?

⇒広義には、情報を集めて、問題(problem)を解決するために立てた問い(question)に答えようとする試みはすべて「研究」と呼べます。

⇒意義の1つとして、研究者自身あるいは所属コミュニティーの無知や偏見を取り除くことで人類の進歩につながると言えます。


2.なぜ論文を書くのですか?なぜ「研究」論文でないといけないのですか?

⇒先ほどの意義として述べたことの他に、以下の3つの能力が養えます。

(1)論文を書くことで、自分が読んで得た知識を記憶にとどめておくことができます。
(2)論文を書くことで、読んだことに関するより深い理解につながります。読んだ内容を整理する中で、新たな発想やつながり、因果関係に気付き、それをふまえてより深い議論が展開できます。
(3)論文を書くことで、自分の考えを客観的に吟味することができます。

⇒「研究」論文の形式に則って論文を書くことで、特定のコミュニティー(分野)に関する問により良く答えるえることが出来るのです。また、この技術は後に関わるであろう職業分野においてもきっと役立ちます。


3.自分と読者の役割について考えたことがありますか?

⇒他者を想定して思考することに勝る思考はないのです。次の4つの事柄を確認しておきましょう。

(1)読者層を想定してください。読者は(専門性の高い研究者か、知識の豊富な一般読者か、テーマについて殆ど知らない一般読者か)。
(2)読者の期待に応えようとしてください。読者は、(楽しみたいだけか、新事実が知りたいのか、テーマをより良く理解したいのか、世の中の実際的な問題を解決したいのか)。
(3)読者の知識を想定してください。読者は(テーマにつてどこまで知っているのか、問題(problem)について知っているのか、研究課題として認めてくれるのか)。
(4)主張(claim)に対して読者がどう反応するか想定してください。読者は(常識に反するものとして捉え反論してくるか、結論に至るまでの手順をしっかり示して欲しいか)。



Ⅱ 問い(questions)を立てて、答え(answers)を見つけるために

1.トピックの探し方を知っていますか?

⇒興味のあるトピックを選ぶことがやる気を持続させます。ある程度の研究分野が決まっていると想定した場合、インターネットのChronicle of Higher Educationなどで他の研究者の興味の方向性を探るのもいいでしょう。また、最近のジャーナルに目を通すのもいいでしょう。

⇒トピックは漠然としたものではなく具体的なものに絞りましょう。例えば、Free will in Tolstoyではなく、In War and Peace, Tolstoy describes three battles in which free will and inevitability conflict.のように、主張に近い形にすることで読者の興味を引き立てます。


2.問い(questions)の立て方を知っていますか?

⇒トピックに関してとことんとん問うていきましょう。「だれが、何を、いつ、どこで」から「どうやって、なぜ」まで。批判的、系統的にトピックの歴史や位置づけ、分類などについて問いを立てて記録して行きましょう。否定的な問い(「何故~ではなく‥だったのだろうか」)や仮定的な問いを立てるのも有効です。先行研究で今後の課題として取り上げられているものも参考になります。良い問いが見つかったと思ってもそこで立ち止まらないで。最終的には、ある程度絞られた情報で対処できる問いを立てることになります。(トピックが決まったからといってすぐに情報収集に走ると手に負えないことになります)

⇒さらに、その問いが読者のSo what?に応えられる価値のあるものか吟味する必要があります。価値ある問いにするための(3)つのステップに自分の考えを当てはめてみましょう。

Step1:空欄にトピックを入れてみましょう:I am studying on …
Step2: トピックに関して知りたいことを入れましょう:I am studying on …. because I want to find out who/ what/ when/ where/ whether/ why/ how……
Step3:何故そのことを知りたいのか、読者にとってのメリットを述べましょう: I am studying on …. because I want to find out ……, in order to help readers understand …..


3.問いを問題(problem)に仕上げる方法を知っていますか?

⇒基本的には上記のステップを踏むことで、問題になりえますが、Step(3)はStep2を解決することによってのみ立てられるより大きな問いになります。初心者は、実際的な問題解決につながる問いを立てたがりますが、純粋に(pure)アカデミック(conceptual)な問いこそ尊いものです。実際的な問題解決を考えたいのであれば、前節の(3)つのステップに加え、第4番目のステップを導入するべきでしょう。例えば、

Step1: Topic: I am studying how nineteenth-century versions of the Alamo story differ
Step2: Conceptual Question: because I want to find out how politicians used stories of great events to shape public opinion,
Step3: Conceptual Significance: in order to help readers understand how politicians use popular culture to advance their political goals,
Step4:Potential Practical Application: so that readers might better protect themselves from unscrupulous politicians.

その他にも、先生や友達に相談したり、自分が書き上げた草稿の中にヒントがあったり、読んでいる情報源の中に矛盾点を見つけたりと言った問題の見つけ方があります。


4.ソース(情報源)の活用方法を心得ていますか?

⇒研究課題を検証するためのデータをソースの中から見つける必要があります。ソースには(3)種類あります。第1のソースは、直接の証拠となる現物やデータなどです。第2のソースは、先行研究などの研究結果を指します。第(3)のソースは、一般読者に向けた書物や記事などです。ソースは図書館やオンラインなどで見つけることが出来ますが、探す時のポイントを示しておきます。

本からの関連した情報
(1) 目録を見てキーワードを探す。自分の研究に関するキーワードのあるページを探す。
(2) キーワードがたくさんでてくるチャプターの最初と最後のパラグラフに目を通す。
(3) 序章、はじめに、サマリーなどに目を通す。
(4) 最後のチャプターのはじめと、最後の2,(3)ページを見る。
(5) 特集であれば、編集者の序論を見る。
(6) 自分の研究との関連書籍をチェック。

論文の場合
(1) アブストラクトを読む
(2) 序論と結論に目を通す。または、最初の6,7段落と最後の5,6段落分に目を通す。
(3) 各セクションの見出しと最初と最後の段落を読む。
(4) 関連書籍をチェックする。

オンラインソース
(1) 印刷記事なら、上記に倣う。
(2) Introduction, overview, summaryを見る。なければ、about the siteを探す。
(3) 同サイトに、site map, Indexがあれば、キーワードを入れて参考ページを見てみる。
(4) 同サイトにsearch供給源があれば、キーワード検索してみる。

※自分の論文も同じような見られ方をするから、分かりやすくまとめておきましょう。
また、情報源を読む前に、必ず文献情報をすべて記録しておきましょう。自分の都合のいい読みをしないように、また、情報を捻じ曲げないようにしましょう。特に、先行研究などの第2ソースは、自分の論証(argument)に適切な証拠として大いに利用できます。ただし、引用、パラフレーズ、サマリなどの使い分けを適切に行なってください。



Ⅲ 主張(claim)を補強(support)するために

1.論証(argument)とは何か知っていますか?

⇒まず、議論を展開する上で必要な用語の整理をしておきましょう。
具体的な問い(question)に対して、答える(answer)ことがリサーチクエスチョン(research question)です。
もっと大きな問題(problem)に対しては解決(solution)という用語が当てられます。
この研究課題への解決を根拠(reason)も含めて形式的に示したものが論証の命題(argument: X is Y because Z)と言えます。
そして、理由を除いた部分が主張(claim: X is Y)となります。
ここでのZは理由(reason)を表し、このZ(理由)を支持するものが証拠(evidence)となります。たいていの場合、一つの主張に対して理由(reason)は複数考えられ、各理由に対して、複数の証拠(evidence)が求められます。ただし、これらの理由は一貫して主張をサポートする必要があります。
この関連性を保証する(裏付ける)のが根拠(warrant)です。理由(reason)や証拠(evidence)が主張(claim)の理由として裏付けられるために根拠自体に論証(argument)が必要な場合もあります。
論証(argument)を立てる場合、次の5つのことを確認する必要があります。

(1) 主張(X is Y)は何ですか?
(2) 主張を支える根拠・理由(Z)は何ですか?
(3) 理由を支える証拠(evidence)は何ですか?
(4) 反対意見や解りにくさを想定し想像上の読者に反応できますか?
(5) 主張と関連した理由であるといえる根拠は何ですか(warrant)?


2.主張(claim)の補強の仕方を理解していますか?

⇒7つのポイントを挙げておきます。

(1)自分の主張の的が絞れているか。
(2)議論に値するだけの主張になっているか。
(3)コンセプチュアル(アカデミック)な主張をプラクティカル(実際的)なものに膨らましすぎていないか。(せいぜい、結論で述べるくらいにしておきましょう。)
(4)初期の主張(X is Y)は長くてもいいから細かく特定して書けているか。(簡潔にしたい場合は後から調整できます。)
(5)自分の主張を肯定から否定に、否定なら肯定に変えたとき、明らかに嘘だとわかる、あるいは、とるに足らないことだと思うような議論になっていないか。(その場合は価値ある議論とは言えません。)
(6)謙虚に自分の限界を知っているか。(主張の限界を述べた後、再度主張を述べましょう。)
(7)限定表現(hedges)を使って断言しすぎないように主張を書いているか。(ただし、具体的な証拠はハッキリと主張しましょう。)


3.理由と証拠の違いが説明できますか?

⇒理由(reason)は、論証(argument)を組み立てます。証拠(evidence)は理由を正当化するためのデータであるべきです。論証(argument)を組み立てるとき、ストーリーボードを使いながら、主張に対して理由・根拠と証拠が一貫性を保つように配列します。証拠データの筋書きを都合のいいように変えることがないように注意してください。ストーリーボードとは、主張を書いたカードを元に、理由(reason)を書いたカードを数枚、証拠(evidence)が書かれたカード数枚を配列し、俯瞰的に議論を配列するやり方です。理由・根拠と証拠が結びつくように信憑性のあるデータを証拠として揃える必要があります。だから、ストーリーボードに載せる前に、
証拠が
(1)正確で
(2)詳細で
(3)必要十分で
(4)代表的で
(5)権威による裏付けがあり
(6)関連性があるものか
確認してください。


4.読者の疑問・反論に耐えうる論証(argument)とはどの様なものですか?

⇒自分の論証(argument)の結果を否定したいと願う読者からの反論・疑問を想定し対話を繰り返す中でより質の高い論題へと高めてください。

研究課題への問い
(1)何故それが研究課題と言えるのか(研究課題を遂行しないことから生じる損害があるのか?あるいは研究課題と関連した現実的利益があるのか)
(2)何故そのように研究課題を定義したのか(概念的定義か実践的定義か)

解決策への問い
(1)研究課題の解決策が読者への理解や行動にそのままつながるか(概念的あるいは実践的で一貫しているか?)
(2)主張が強過ぎないか(例外や限界を感じるけど…)
(3)何故その解決法が他のよりいいのか?他のやり方のほうが良いのでは?

証拠への問い
(1)生のデータが見たい
(2)データの数字が合わない
(3)詳細なデータは無いのか?(manyってどういう事?具体的な数字はあげられないのか?)
(4)データが古いのでは?
(5)データが偏ってるのでは?(一部のグループからのみのデータでしょ?)
(6)権威的な裏付けが十分ですか?(Smithはその分野の権威としては違うでしょ?)
(7)証拠が不十分では?(データが一つだけでは信頼できない)


5.根拠の重要性を心得ていますか?

⇒主張(claim)と理由(reason)の関連性を裏付ける「信用」のようなものが根拠(warrant)です。例えて言うなら諺のようなもので、世間一般的に信頼されている因果関係や意味連関を表します。その因果関係や意味連関を主張と理由の関係に投射することで論証の裏付けを保証しようとします。根拠は一般状況と一般結果の2部で構成されていますが、一見して分かりにくい場合もあります。根拠の信憑性を測るために次のことを問うてみましょう。その根拠は
(1)本当?
(2)適切?
(3)信頼性がある?
(4)研究分野に適している?
(5)その理由・根拠と主張の関係に一般的根拠が当てはまるか?



Ⅳ 執筆計画を立て、草稿を行い、修正するために


1.草稿に入る前の計画のたて方を知っていますか(ストーリーボードを使って)

⇒論文の各セクションにポイント(主張)を含めた見出しを付けることで、論証(argument)を吟味します。前出のストーリーボードを使って、論文全体のイメージ図を描きましょう。全体の配列が終わってもすぐに草稿を始めず、草稿のための計画を立てることを薦めます。議論に一貫性と説得力を与えます。

序論草稿のための計画(準備)
(1)自分の論証(argument)にとって最も重要なソースから、主張箇所(key points)を簡単にまとめてストーリーボードに書きましょう。
(2)そのまとめの中から、疑問点や納得できない点を見つけ、問いを立て直してみましょう。
(3)その問に答えることがいかに重要であるか(何故、どの様に)説明しましょう。
(4)序論の終わりで、その問に対する自分の答えを主張(point)として述べましょう。

本論草稿のための計画(準備)
(1)研究に関する背景の整理、用語の定義、研究課題の提示、研究の限界などを行います。そして、より大きな歴史的、社会的背景の中で研究課題を設定し直してください。これらのことを簡潔に行なってください。
(2)ストーリーボード1ページにつき主要セクション1つを割いてください。ページのはじめにはそのセクションの主張(point)を記述してください。大抵の場合、この主張(point)は、研究全体の主張(claim)の理由(reason)に当たります。
(3)論証の展開順序を適切に配列します。時系列、原因結果、簡単から複雑へ、馴染みのあるものからそうでないものへ、検討しやすいものから扱いにくいものへ、重要なものからそうでないものへ、理解しやすいものから準備が必要な物へ、一般的な分析から専門的な分析へ、など。
(4)展開順序を明確にし、ディスコースマーカーを使用するなど、分かりやすい配列にしましょう。

結論草稿のための計画(準備)
結論のはじめに再度ポイント(主張)を述べましょう。できれば、新たな意義付けをして締めくくりましょう。


2.草稿作成(drafting)のとき何に気をつけますか?

⇒草稿は、新たなことに気づくために行う作業であり、気をつけるべきことがいくつかあります。

(1)見出し(headings)は論文の構成を示すために有用です。
(2)引用、パラフレーズ、サマリを適切に使いましょう。サマリは、詳細には整合性がないソース(情報源)でもアイデアを取り入れたい時に要約します。パラフレーズは、原本よりも情報を明確に伝えるために、自分の言葉で述べてください。引用は、原本のまま理由を裏付ける証拠として記述します。また、議論の新たな展開にも見通しを与えるような決定的なデータであるか、鍵となる強力な概念を示すものであるべきです。
(3)証拠を示す場合は、理由との関連性を記述してください。
(4)次のような場合は剽窃(plagiarism)になりますから注意してください。
(a) 引用の出典を明記していない。
(b) 引用箇所を括弧や別段落で示していない。
(c) パラフレーズする際、原典と同じような語句や表現を複数使った場合。

3.修正作業(revising)がいかに大切か御存知ですか?

⇒修正作業を適切に繰り返すことで、読者にとってより客観的で明確な論文に仕上げることができます。
(1)修正作業を行う順序は、全体の構成→セクション・段落→文→スペルや句読点、で行います。
(2)全体の枠組を見直す場合は、先ず、序論と結論部に見出しをつけます。それから序論と結論部で述べている主張が一貫しているか確認します。最後に、テーマに関連した、鍵となる概念 (key concepts)が各セクションに適切に配列されているか確認します。
(3)論証(argument)を見直しましょう。議論の展開と論文の構成が一致しているか確認します。そのためには、理由(reason)を示す各セクションにおいて、その理由としてふさわしい主張(point)が示されているかどうか確認します。また、証拠(evidence)を示す場合は、セクションの2/3以上の分量に膨れ上がらないように注意してください。何故その証拠(evidence)が理由(reason)を保証するのか、ある程度の分量を割いて説明する必要があるからです。
(4)論証の質を吟味しましょう。証拠と主張のつながりはありますか。限定表現(hedges)を適切に使っていますか。異論反論・代案について想定していますか。議論展開されている箇所では、根拠を欄外に書きだして信頼性を確認していますか。
(5)構造の一貫性を確認する場合は、鍵となる用語(key terms)すべてを丸印で囲み、各セクションに数語ずつ散りばめられているか確認します。次に、各セクションには見出し(headings)がついているか確認します。各セクションのはじめに、前セクションとの関連を示す記述が必要です。次に、各セクションが全体の主張(whole point)につながっているか確認します。各セクションの主張(claim)はセクションのはじめに述べてください。最後に、各セクションが他のセクションとは異なる意義を持つことを示すそのセクションならではの用語が使われているか確認してください。
(6)段落をチェックしましょう。各段落はそのセクションの主張(point)とつながっているはずです。また、小さい段落(2,3)文)を上手く(リスト化、移行、紹介、強調など)活用してください。
(7)全体をパラフレーズしてみましょう。序論から結論までの各セクションの最初の段落をパラフレーズすることで、全体をスッキリと把握できます。修正作業のなかで何度か行うことになると思います。
(8)アブストラクトを書いてみましょう。一般的には、先ず、トピックに関わる背景(context)を述べます。次に、問題点(problem)、最後に、主張(main point)を述べます。Key wordsはタイトルや第1文目に書き込むことで、検索にかかりやすくなります。


4.視覚資料の活用の仕方を知っていますか?

⇒量的なデータを理解するためには視覚資料が便利です。どの視覚資料がどのタイプのデータやメッセージに適しているのか簡単に説明します。視覚資料は大きくtableとfigureに分かれます。Tableは表タイプの視覚資料で、詳細かつ客観的に独立したデータを示し、読者がデータの関連性を読み取れるようにします。Figureにはチャートやグラフなどがあります。例えば、チャートは複数の項目を比較するのに使います。線グラフは時間系列での継続的な変化を示します。その他色々ありますので、目的に応じて最も効果的な視覚資料を選びましょう。


5.「序論」と「結論」の書き方を知っていますか?

⇒よい序論は読者に研究に対する興味を抱かせると同時に、内容理解を促進させます。よい結論は読者に明確な主張を再確認させると同時に、研究の意義を深めさせます。先ず、序論の修正の仕方を見て行きましょう。序論の構成は、トピックに関する背景の共通認識から述べます。次に、実はどの様な問題が潜んでいるのかを述べます。そして、さらに、その問題がどの様な事態に行き着くのかその損失や利益を説明します。最後に、主張(claim)を述べ、事態の解決を約束します。結論の構成は、序論の構成と逆になります。先ず、メインポイント(主張)を詳しく述べます。次に、研究の意義や新たな問題の解決への示唆を適切に示します。最後の言葉の前に、今後の課題や研究の可能性について述べてください。タイトルには、メインポイントに含まれるキーワードを入れるようにしましょう。


6.適切な文体につての原則を御存知ですか?

⇒分かりやすく無駄のない文体に仕上げることで、論証(argument)が理解しやすくなります。
(1)主題(main characters)を主語にしましょう。主語は短く明確で具体的であるべきです。最もよいのは、動作主がイメージできるような主語です。重要な行為を動詞にで表現しましょう。
(2)草稿を診断して修正する方法としては、先ず、各節の最初の5、6語に下線を引きます。次に、具体的な主題が主語で、行動を伴う動作が動詞になっているか確認します。これを修正するには、文の主題を見つけます(作ります)。その主題の行為を動詞で表現します。
(3)幾つかの重要な原則を紹介します。まず、「主題に関する馴染みのある古い情報から後に繋がる複雑で新しい情報へ」の原則に習って、文を修正しましょう。また、「自分で行ったことを明示するべき時にはIを主語にすること、誰が行なっても同じ行為は受動態で表現する」原則も有用です。また、各段落の最初か2番目の文の終盤に、そのパラグラフの鍵になる用語(key terms)を使用しましょう。


Ⅴ 倫理的(ethical)に研究するために

⇒研究とは社会的な行為です。読者との社会的な契約はエ-トス(ethos)というお互いの信頼に基づいており、証拠を悪用したり剽窃(plagiarism)を行うことは研究分野の所属するコミュニティーの崩壊につながる重大な行為になります。次に上げるような行為が決して起こらないように確認してください。
(1)剽窃や他者の研究結果を自分の手柄にする。
(2)情報源(source)を誤用したり、データをでっち上げたり、結果を偽る。
(3)信憑性のないデータを使用する。
(4)反駁できない意見を隠蔽する。
(5)反対意見を戯画化したりねじ曲げてしまう。
(6)データを破棄したり、未来の研究者に有用な情報源を隠す。

2012年8月14日火曜日

マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ




■「学力の商品化」を考えるために、マルクスの「商品論」を読む

「英語学力および学力一般が、どんどん商品化しているような気がする」と私はかねがね思ってきたが、そう言いながら自分が「商品」についてきちんと考えたことがなかったことに気がついた。そこでこの夏の一つの課題としてマルクス『資本論』第一巻の第一章「商品」を読んでみることにした。

この読解の目的は、上記の類比的思考を精緻にすることだが、ここではその準備作業として、私の読解ノートを作ることにする。上記の類比を介入させない読解ノートを作っておくことで、この商品論読解を、これから他の目的のために使用することも可能になるので、以下、マルクスの商品分析にご興味のある方はお読みください(英語教育との直接の関連を強く求める方は、今の時点では読むのをお控えになった方がいいかもしれません。英語教育に関連させた文章は後日書きます)。



■商品・資本主義・近代に対する私の基本的態度

私は商品・資本主義・近代のどれも全面否定しないし、それらを転覆させようとも思っていない。だがこれらのあり方を冷静に見つめなおすことが現代の課題だとは思っている。私は「現実を破壊さえすれば幸福になれる」もしくは「現実は変えられないのだから適合するしかない」といった思考放棄を嫌っている。



■ノートの凡例

以下、■に私なりの小見出しをつけて、マルクスの商品論をまとめる。『資本論』読解に関しては五種類の邦訳、二種類の英訳、およびドイツ語原本を使用した(注1)。だが、まとめでは、思い切って私なりの言い換えや翻訳を使っているし、さらには若干の加筆もして、わかりやすさを優先している。『資本論』の忠実(あるいは厳密)な読解なら、良書がすでにたくさん公刊されているからである(注2)。しかし、もちろん、マルクスの趣意を裏切らないよう、できるだけ諸訳を参考にしながら原文を大切にすることを試みた。その一環として、以下若干の原文と英訳(ペンギン版)およびその部分の拙訳を提示している。原文と英訳の末尾につけられた( )内の数字は、引用元のページ数を表す。ただし私のドイツ語の語学力はひどいものなので多くの間違いも含まれているかもしれない。お気づきの方はご指摘くだされば幸いです。





ERSTES KAPITEL Die Ware

Chapter 1: The Commodity

第一章「商品」



■第一章全体の概要

資本主義的な生産体制が支配的な私たちの近代社会では、商品が社会の「豊かさ」を構成するものと考えられている。だから商品について分析することが私たちの社会を理解するために重要である。

商品の価値を「商品価値」(Warenwert / commodity value)と呼ぶなら、その商品価値は2つの側面― 使用価値 (Gebrauchwert / use-value) と 交換価値 (Tauchwert / exchange-value) ― を同時に有している(主に第1節)。

人間の労働とは、本来、自然に働きかけて、生きるために役立つ価値(使用価値)をつくりだすための有用労働 (nützliche Arbeit / useful labor) である。しかし使用価値をもつ「もの」(äußerer Gegenstand, ein Ding (49)/ an external object, a thing) が商品として交換されると、それは抽象的人間労働 (abstract menschliche Arbeit / human labour in the abstract)を体現するものという側面をもちはじめる。(主に第2節)

以上の関係を単純に図示すると以下のようになる。


ものが交換されることにより、ものの商品化が進展するのだが、その交換形態は、(a)単純・個別・偶然的な交換、(b)商品群全体に展開してゆく交換、(c)一般的な交換、(d)貨幣による交換、の順で進展してゆき、それぞれの段階で交換価値をあり方を変えてゆく。(主に第3節)

商品は、近代の資本主義的社会で支配的な存在であり、私たちは商品関係をあまりにも当然視しているが、商品関係にあまり支配されない社会のあり方もある。その一つは前近代的社会のあり方であり、また脱近代的なあり方であろう。(主に第4節)





1. Die zwei Faktoren der Qare: Gebrauchswert und Wert (Wertsubstanz, Wertgröße)

1. THE TWO FACTORS OF THE COMMODITY: USE-VALUE AND VALUE (SUBSTANCE OF VALUE, MAGNITUDE OF VALUE)

第一節 商品の二つの要因:使用価値と価値(価値の実体、価値の大きさ)


■社会の豊かさ

私たちの多くは、より多くの商品を消費できることを社会の豊かさ、ひいては人間の幸福と信じている(この信念は福島の原発事故以降も、多くの日本の権力者から消え去ることはない)。しかし、この商品を基礎とした考え方 ― 言ってみるなら「商品信仰」― は資本主義によって育まれたものである。

私たちが資本主義的あり方にどっぷりと使っている以上、この社会のあり方、特に「商品」のあり方、について分析を加えることは、格別の困難を伴うことかもしれない。しかし、技術革新と共に楽になるかと思えばますます忙しくなり、会社の繁栄と共に雇用条件が良くなるかと思えばますます過酷になり、人間が社会システムを制御するのではなく社会システムが人間を支配しているようにすら思える今の社会のあり方を振り返るためには、商品について分析的に考察することは重要である。

Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine „ungeheure Warensammlung", die enzelne Ware als seine Elementaform. (49)

The wealth of societies in which the capitalist mode of production prevails appears as an 'immense collection of commodities'; the individual commodity appears as its elementary form. (125)

資本主義的生産体制が支配的な社会では、社会の豊かさとは「商品が満ち溢れていること」であるように見える。これらの社会では一つひとつの商品が、社会の基礎的な形態であるように見える。



■使用価値

商品には使用価値と交換価値という二つの側面があるのだが、このうち使用価値 (Gebrauchwert / use-value)は、人間にとってより根源的なものであり、これはただ単に「あるものが役に立つこと」 (die Nützlichkeit eines Dings (50) / the usefulness of a thing (126)) と説明することができる。



■「真価」

17世紀の英国での語法では、使用価値は「真価」 (worth) 、交換価値は「価値」 (value) としばしば使い分けられていた。これは直接的な概念には古英語の単語を使い、反省的な概念についてはロマンス語の単語を使う当時の習慣にかなったものである(50/126)。「真価」(worth)という用語はアレントも『人間の条件』で使用している。(詳しくは「アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析」を参照のこと)

„Der natürliche worth jedes Dinges besteht in seiner Eignung, die notwendigen Bedürfnisse zu befrieden oder den Annehmlichkeiten des menschlichen Lebens zu dienen." (John Locke, „Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest", 1691, in „Works", edit. Lond. 1777, v. II, p.28) Im 17.Jahrhundret finden wir noch häufig bei englischen Schriftstellern „Worth" für Gebrauchswert und „Value" für Tauschwert, ganz im Geist einer Sprache, die es liebt, die unmittelbare Sache germanisch und die reflektierte Sache romanisch auszudr¨cken. (50)

'The natural worth of anything consists in its fitness to supply the necessities, or serve the conveniences of human life' (John Locke, 'Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest' (1691), in Works, London, 1777, Vol. 2, p. 28). In English wirters of the seventeenth century we still often find the word 'worth' used for use-value and 'value' for exchange value. This is quite in accoreance with the spirit of a language that likes to use a Teutonic word for the actual thing, and a Romance word for its reflection. (126)

「ものごとの自然な真価は、人間の生活の必要性を満たしたり人間の生活を便利にしたりすることにより成立する」(ジョン・ロック  'Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest' (1691), in Works, London, 1777, Vol. 2, p. 28)  17世紀の英国の著作家は、使用価を表すために「真価」(worth)、交換価値を表すために「価値」(value)をしばしば使っていた。これは、直接的なものを表すのにチュートン [ゲルマン] 語を使い、それを省察した概念を表すのにロマンス語を使うという英語の慣用法にかなったものであった。



■交換価値 

他方、交換価値 (Tauchwert / exchange-value) については、これから少しずつその意味を説明するが(特に抽象的人間労働の説明には注目していただきたい)、まず、交換価値とは、他の使用価値をもつ他のものと交換される量的関係であると説明しておく。この量的関係は時代や場所によって異なる。

Der Tauschwert erscheint zunächst als das quantitative Verhältnis, ide Proportion, worin sich Gebrauchswerte einer Art gegen Gebrauchswerte anderer Art asutauchen, ein Verhältnis, das beständig mit Zeit und Ort wechselt. (50)

Exchange-value appears first of all as the quantitative relation, the proportion, in which use-value of one kind exchange for use-values of another kind. This relation changes constantly with time and place. (126)

交換価値は、まずは、別種の使用価値と交換する際の、量的関係として現れる。この量的関係は時や場所により常に変動する。



■質的な使用価値と量的な交換価値

「使用価値は質的な違い、交換価値は量的な違い」とも説明することができる。量的な交換価値において、使用価値の質的な違いは捨象される。

Als Gebrauchswerte sind die Waren vor allem verschiendner Qualität, als Tauschwerte können sie nur verschiedner Quantität sein, enthalten also kein Atom Gebrauchswert. (52)

As use-values, commodities differ above all in quality, while as exchange-values they can only differ in quantity, and therefore do not contain an atom of use-value. (128)

商品は、使用価値の点では主に質的に異なると言えるが、交換価値の点では量的に異なるとしか言えない。ゆえに、交換価値の点から考えられた商品には、使用価値の要素はまったく含まれていない[と考えるべきである]。



■抽象的人間労働

交換価値の量とは、抽象的人間労働 (abstract menschliche Arbeit / human labour in the abstract) である。抽象的人間労働とは、特定の人間の労働ではなく、あるものを作り出すために必要とされる労働時間を、社会的に平均して抽象化した概念の労働である。

Gesellschafaftlich notwendige Arbeitszeit ist Arbeitszeit, erheischt, um irgendeinen Gebrauchswert mit den vorhandenen gesellschaftlich-normalen Productionsbedingungen und dem gesellschaftlichen Duruchschnittsgrad von Geschick ndt Intensität der Arbeit dazustellen. (53)
Socially necessary labour-time is the labour-time required to produce any use-value under the conditions of production normal for a given society and with the average degree of skill and intensity of labour prevalent in that society. (129)
 社会的に決定される必要労働時間とは、ある社会の標準的な生産条件下で、その社会でよく見られる技術的熟練度と労働強度でもって、ある使用価値を生産するために必要とされる労働時間である。



■商品価値

商品の価値を量的に考えるなら、抽象的人間労働(あるいは社会的に決定される必要労働時間)がその商品に体現しているからこそ、その商品には価値があるとなる。ある商品がある個人にとって役に立つ、といった使用価値の特定の質的な側面を捨象して、抽象的に量的のみに考えるなら、商品には人間の労働が込められているからこそ価値があるとなる。この価値とは社会的な価値である。

マルクスは、この商品の価値を、時折「商品価値」 (Warenwert / commodity value) と述べるが、たいていの場合はただ単に「価値」(Wert / value) と呼ぶ。これは『資本論』が近代の資本主義的社会の分析なので、近代資本主義社会での「価値」とは、「商品価値」を基本とするものである以上、正当化される省略的な用語法であるが、少なくとも私は当初この用語法にとまどった。したがってこのノートはできるだけ「価値」の代わりに「商品価値」という用語を使用する

Betrachten wir nun das Residuum der Arbeitsprodukte. Es ist nichts von ihnen übriggeblieben asl dieselbe gespenstige Gegenständlichkeit, eine bloße Gallerte unterschiedsloser menschlicher Arbeit, d.h. der Veaausgabung menschlicher Arbeitskraft ohne Rücksicht auf die Form ihrer Verausgabungn. Diese Dinge stellen nur noch dar, daß in ihrer Production menschliche Arbeiotskraft verausgabt, menschliche Arbeit aufgehäuft ist. Als Kristalle dieser ihnen gemeinschaftlichen gesellschatflichen Substanz sind sie Werte - Warenwerte. (52)

Let us now look at the residue of the products of labour. There is nothing left of them in each case but the same phantom-like objectivity; they are merely congealed quantities of homogeneous human labour, i.e. of human labour-power expended without regard to the form of its expenditure. All these things now tell us is that human labour-power has been expended to produce them, human labour is accumulated in them. As cristals of this social substance, which is common to them all, they are values - commodity values. (128)

労働の生産物から [使用価値に関わる物質的基盤を除いた後に残る]残滓について考えてみよう。もうここには幻のような対象しか残っていない。残っているのは、均質化された人間労働、つまりはどのような形で行使されたかはすべて捨象してしまった形での人間労働が、凝結した量だけである。これらのことから言えるのは、この [幻のような対象でしかない] 残滓に、人間労働の行使結実し、人間労働が蓄積しているということである。これは社会的な構成体であり、その結晶が、すべての商品に込められている。これこそが価値、すなわち商品価値である。



■使用価値があっても商品ではないものがある

人が自分のために何か使用価値があるものを創りだしても、それが、(1)他人のための使用価値(社会的使用価値 (gesellschaftlichen Gebrauchswert / social use-value)であり、かつ(2)交換されなければ、それは商品とは言えない。

Ein Ding kann nützlich und Produkt menschlicher Arbeit sein, ohne Ware zu sein. Wer durch sein Produkt sein eignes Bedürfnis befriedigt, schaft zwar Gebrauchswert, aber nicht Ware. Um Ware zu produzieren, muß er nicht nur Gebrauchswert produzieren, sondern Geburauchswert für andere, gesellschaftlichen Gebrauchswert. {Und nicht nur f&uumlr andre schlechthin. ... Um Ware zu werden, muß das Produkt dem anderen, dem es als Gebrauchswert dient, duruch den Austasch übertratgen werden.} (55)

A thing can be useful, and a product of human labour, without being a commodity. He who satisfies his own need with the product of his own labour admittedly creates use-values, but not commodities. In order to produce the latter, he must not only produce use-values, but use-values for others, social use-values. (and not merely for others. ... In order to become a commodity, the product must be transferred to the other person, for whom it serves as a use-value, through the medium of exchange.) (131)

あるものが、有用でかつ人間労働の産物でありながら、商品ではないということはありうる。みずからの労働でみずからの必要を充たす者は、使用価値を生み出しているとは言えるが、商品を作り出しているとは言えない。商品を作りだすためには、ただ単に使用価値を生み出すだけでなく、他人のための使用価値、すなわち社会的使用価値を生み出さなければならない。(さらに言うなら、他人のための使用価値を作りだすだけでは不十分である。・・・労働の生産物が商品になるためには、それは他の人に交換を通じて移譲され、その人にとって使用価値のあるものとして役に立たなければならない)。



■そもそも使用価値がまったくなければ、それは商品とは言いがたい

いくらある人が苦労してあるものを作ったとしても、それが誰の役にも立たないならそれは商品とは言えないし、その苦労も労働と呼ぶべきではない。

Enldich kann kein Ding Wert sein, ohne Gebrauchsgegenstand zu sein. Ist es nutzlos, so ist auch die in ihm enthaltene Arbeit nutzlos, zählt nicht asl Arbeit und bildet daher keinen Wert. (55)

Finally, nothing can be a value without being an object of utility. If the thing is useless, so is the labour contained in it; the labour does not count as labour, and therefore creates no value.

最後につけ加えておくと、もしあるものが、何の使用の対象でもありえなかったら、それは商品価値 [を有するもの] ではありえない。もしそれが役に立たないのなら、それを作るための労苦も役に立たなかったのであり、その労苦は労働と考えられるべきではない。したがってその労苦は商品価値は生み出さなかったのである。





2. Doppelcharakter der in den Waren dargestellen Arbeit

2. THE DUAL CHARACTER OF THE LABOUR EMBODIED IN COMMODITIES

第二節 商品に体現している労働の二重性




■有用労働

商品は商品価値をもち、その商品価値には使用価値と交換価値の二つの側面があるのであった。このうち、後者の交換価値を基礎づけて社会的な関係の中で生み出しているのは、抽象的人間労働であった。他方、前者の使用価値を生み出しているのは、有用労働 (nützliche Arbeit / useful labor)である。

有用労働は、抽象的人間労働と違って、なんら特別なものでない。私たちが日常行なっている、特定の目的のために特定の手段で行う、何か役立つもの(例、コート)を作り出す労働である。(56/132)

Der Rock ist ein bebrauchswert, der ein besonderes Bedürfnis befriedigt. Um ihn hervorzubringen, bedarf es ener bestimmten Art produktiver Tätigkeit. Sie ist destimmt duruch ihren Zweck, Operationsweise, Gegenstand, Mittel und Resultat. Die Arbeit, deren Nützlichkeit sich so im Gebrauchswert ihres Produkts oder darin darstellt, daß ihr Produkt ein Gebrauchswert ist, nennen wir kurzweg nützliche Arbeit. Unter diesem Gesichtpunkt wird sie stets betrachtet mit Bezug auf ihren Nutzeffekt. (56)

The coat is a use-value that satisfies a particular need. A specific kind of productive activity is required to bring it into existence. This activity is determined by its aim, mode of operation, object, means and result. We use the abbreviated expression 'useful labour' for labour whose utility is represented by the use-value of its product, or by the fact that its product is a use-value. In this connection we consider only its useful effect. (132)

コートはある特定の必要を充たす使用価値 [を有するもの]である。コートを作り出すには、特定の種類の生産活動が必要とされる。この活動は、コートを作る目的、作業方法、対象、手段、結果によって決定される。生産物の使用価値 (あるいは生産物そのもの) で自身の有用性を示す労働を私たちは「有用労働」という用語で呼ぶことにする。この観点では、私たちは生産物がどれだけ役立つかということだけを考えている。



■有用労働は資本主義社会だけでなくどのような社会にも見られる

商品を作り出し、商品価値を基礎づける抽象的人間労働はもっぱら資本主義社会に見られるものだが、有用労働はどんな社会にも見られる。

Als Bildnerin von Gebrauchswerten, als nützliche Arbeit, ist die Arbeit daher eine von allen Gesellschaftsformen unabhängigen Existenzbedingung des Menschen, ewige Natuurnotwendigkeit, um dem Stoffwchsel zwischen Mensch und Nature, also das menschliche Leben zum vermitteln.

Labour, then, as the creator of use-values, as usefl labour, is a condition of human existence which is independent of all forms of society; it is an eternal natural necessity wich mediates the metablism between man and nature, and therefore human life itself.

使用価値を作り出す有用労働としての労働は、いかなる社会形態でも見られる、人間が生き残るための条件である。これは人間と自然の間の代謝関係、すなわち人間の生命を媒介するものである。



■商品/労働の二重性:交換価値/抽象的人間労働と、使用価値/有用労働

商品と労働は、それぞれに二重の側面をもつ。商品は交換価値と使用価値を、労働は抽象的人間労働と有用労働の側面をもつ。これら二つの側面は、どちらか一方が他方に還元できる性質のものではない。だが交換価値は抽象的人間労働と、使用価値は有用労働と通底している。

Alle Arbeit ist einerseits Verausgabung menschlicher Arbeitskraft im physiologischen Sinn, und in dieser Eigenschaft gleicher menschlicher oder abstrakt menschlicher Arbeit bildet sie den Warenwert. Alle Arbeit ist andereseits Verausgabung menschlicher Arbeitskraft in besonder zweck-bestimmter Form, und in dieser Eigenschaft konkreter nützlicher Arbeit produziert sie Gebrauchswerte. (61)

On the one hand, all labour is an expenditure of human labour-power, in the physiological sense, and it is in this quality of being equal, or abstract, human labour that it forms the value of commodities. On the other hand, all labour is an expenditure of human labour-power in a particular form and with a definite aim, and it is in this quality of being concrete useful labour that it produes use-values. (137)

すべての労働は、ある一面からすれば、人間労働力の生理学的な意味での行使であり、この特性において労働は、 [ある社会の構成員にとって] 同等の人間的労働あるいは抽象的人間労働であり、この特性において商品価値は形成される。[しかし] 別の面からすれば、すべての労働は、人間労働力の、ある目的によって決定された特定の形態での行使であり、この有用労働の具体性という特性において、労働は使用価値を生み出すのである。





3. Die Wertform oder der Tauschwert

3. THE VALUE-FORM, OR EXCHANGE VALUE

第三節 価値形態もしくは交換価値



■商品の交換価値は、物質的なものではなく、社会的に構成されるものである。

Im graden Gegenteil zur sinnlich groben Gegenständlichkeit der Warenk&oumlper geht kein Atom Naturstoff in ihre Wertgegenständlichkeit ein. Man mag daher eine einzelne Ware drehen und wenden, wie man will, sie bleibt unfaßbar als Wertding. Erinnern wir uns jedoch, daß die Waren nur Wertgegenständlichkeit besitzen, sofern sie Ausdrücke derselben gesellschaftlichen Einheit, menschlcher Arbeit, sind, daß ihre Wertgegensändlichkeit also rein gesellschaftlich ist, so versteht sich auch von selbst, daß sie unr im gesellscaftlichen Verhätnis von Ware zu Ware erscheinen kann. (62)

Not an atom of matter enters into the objectivity of commodities as values; in this it is the direct opposite of the coarsely sensuous objectivity of commodities as physical objects. We may twist and turn a single commodity as we wish; it remains impossible to grasp it as a thing possessing value. However, let us remember that commodities possess an objective character as values only in so far as they are all expressions of an identical social substance, human labour, that theri objective character as values is therefore purely social. From this it follows self-evidently that it can only appear in the social relation between commodity and commodity. (138)

物質体としての商品がもつ、ざらざらとした感覚的な対象性とまったく異なり、商品価値の対象性には、自然物の原子は一切入っていない。ある商品をどれだけこねくりまわしても、商品価値物としての商品に直接触ることはできない。しかし、商品が商品価値としての対象性をもつのは、商品が同じ社会的単位すなわち人間労働である限りのことであること、故に商品価値の対象性とは純粋に社会的なものであることを思い出せば、商品価値の対象性とは、商品と商品の社会的関係の中にしか現れえないことは自明となるであろう。



■四種類の価値形態

この節では四種類の価値形態が順に説明される。A) 単純・個別・偶然的な価値形態、 B)全体的・展開的な価値形態、 C) 一般的価値形態、 D) 貨幣形態である。これらはこの順番で進展すると論理的には考えられる。



■ A) 単純・個別・偶然的な価値形態

単純・個別・偶然的な価値形態 (Enifache, einzelne oder zufällige Wertform (63) / The simple, isolated, or accidental form of value (139))は次の形を取る。ある商品が、他のある商品と単純に、そしてたまたま、交換されるだけである。

x Ware A = y Ware B oder: x Ware A ist y Ware B wert.

x commodity A = y commodity B or: x commodity A is worth y commodity B.

商品AのX量 = 商品BのY量。 すなわち、X量の商品AがY量の商品Bと同じ商品価値をもつ。




■ B)全体的・展開的な価値形態

全体的・展開的な価値形態 (Totale oder enfaltete Wertform (77) / The total or expanded form of value (154))は、次の形を取る。ある商品が他の商品と交換されるが、後者もさらに他の商品と交換され・・・と、交換関係は次々に展開され、やがては商品群全体にまで及ぼうとする。

z Ware = u Ware B oder v Ware C oder w Ware D oder = x Ware E oder = etc.

z commodity A = u commodity B or = v commdidy C or = w commodity D or = x commmodity E or = etc.

z量の商品A = u量の商品B、または = v量の商品C、または = w量の商品D、または = x量の商品E、または = その他諸々。




■ C) 一般的価値形態

一般的価値形態 (Allgemeine Wertform (79) / The general form of value (157))は次の形を取る。あらゆる商品が、特定の商品と交換されるようになる。逆に言うなら、その特定の商品が、あらゆる商品の交換価値を体現するものさしのようなものになる。





■ 一般的価値形態においてはじめて商品世界が十全に現れる

Die neugewonnene Form drückt die Werte der Warenwelt in einer und derselben von ihr abgesonderten Warenart aus, z.B. in Leinwand, und stellt so die Werte aller Waren dar durch ihre Gleichheit mit Leinwand. Als Leinwandgleiches ist der Wer jeder Ware jetzt nicht nur von ihrem eignen Gebrauchswert unterschieden, sondern von allem Gebrauchswert, und ebendaduruch als das ihr mit allen Waren Gemeinsame ausgedrückt. Erst diese From bezieht daher wirlkich die Waren aufeinander als Werte oder läßt sie einander als Tauschwerte erscheinen. (80)

The new form we have just obtained expresses the values of the world of commodities through one single kind of commodity set apart from the rest, through the linen for example, and thus represents the values of all commodities by means of their equality with linen. Through its equation with linen, the value of every commodity is now not only differentiated from its own use-value, but from all use-values, and is, by that very fact, expressed as that which is common to all commodities. By this form, commodities are, for the first time, really brought into relation with each other as values, or permitted to appear to each other as exchange values. (158)

今、確認したこの新しい形態 [=一般的価値形態] は、他の商品とは切り離された一つの商品 ―例えば亜麻布― を通じて、商品世界の商品価値を表現する。かくして、すべての商品の商品価値は、亜麻布と同等であることで表される。亜麻布と同等とされることによって、それぞれの商品の商品価値は、それぞれの使用価値から区別されるだけでなく、すべての使用価値からも区別され、そのことにより、すべての商品に共通なものとして表現される。この価値形態によって商品ははじめて現実に互いが商品価値であるように見え始める。言い換えるなら、この価値形態によってはじめて現実に互いを交換価値として見えさせるようになるのである。



■ D) 貨幣形態

貨幣形態 (Geldform / The money form) は、上記の一般的価値形態の「20ヤードの亜麻布」が、「2オンスの金(きん)」に換わった形を取る(図は省略)。一般的価値形態と、この貨幣形態の違いは、後者では金が、交換価値を表現するための独占的な役割をはたしている商品になっていることである。この独占的な商品が貨幣である。

Gold tritt den andren Waren nur als Geld gegenüber, weil es ihnen bereits zuvor als Ware gegenüberstand. Gleich allen andren Waren funktionierte es auch als Äquivalent, sei es als einzelnes Äquivalent in verreinzelten Austauschakten, sei es als besondres Äquivalent neben andren Waren-äquivalenten. Nach und nach funktionierte es in engeren oder weiteren Kreisen als allgemeines Äquivalent. Sobald es das Monopol dieser Stelle in Wertausdruck der Warenwelt erobert hat, wird es Geldware, und erst von dem Augenblick, wo es bereites Geldware geworden ist, unterscheidet sich Form IV von Form III, oder ist die allgemeine Wertform verwandelt in die Geldform. (84)

Gold confronts the other commodities as money only because it previously confronted them as a commodity. Like all other commoditiesit also functioned as an equivalent, either as a single equivalent in isolated exchanges or as a particular equivalent alongside other commodity-equivalents. Gradually it began to serve as universal equivalent in narrower or wider fields. As soon as it had won a monopoly of this position in the expression of value for the world of commodities, it became the money commodity, and only then, when it had already become the money commodity, did form D become distinct from form C, and the general form of value come to be transformed into the money form. (162-163)

金(きん)が他のすべての商品に貨幣として対峙するのも、ひとえに金が以前は他の商品に対してひとつの商品として対峙していたからである。他のすべての商品と同じように、金は [Aの単純・個別・偶然的な価値形態として] 孤立した形で単独の等価物として交換されていたか、 [Bの全体的・展開的な価値形態として] 他の一連の等価物と並ぶある特定の等価物として交換されていた。[しかしながら] やがて金は、様々な圏内で、普遍的な等価物として機能し始める。そして、金が商品世界の商品価値を表現する地位を独占した瞬間、金は貨幣商品となる。金が貨幣商品となった時はじめて、このDの貨幣形態はCの一般的価値形態と区別されるようになる。この段階で一般的価値形態は、貨幣形態へと変容するのである。





4. Der Fetischcharaketer der Ware und sein Geheimnis

4. THE FETISHISM OF THE COMMODITY AND ITS SECRET

第四節 商品への倒錯的信仰とその秘密



■社会的構成体に過ぎなかった交換価値が、商品という物体に内在していると錯誤することから、商品への倒錯が始まる

本来、私たちは、商品の交換から、抽象的人間労働の量というものを社会的に構成(想定)し、それをもって交換価値としていた。つまり交換価値は労働と交換という社会的関係に存していたのだが、やがて交換価値は商品という物体そのものにあると私たちは考え始める。私たちは商品世界の基盤である人間の労働そしてその労働生産物の交換という社会的関係を忘却し始める。そうなると商品とは物体でありながら、(社会的関係という)物体を超えたものでもある不思議なものに思えてくる。



Das Geheimnisvolle der Warenform besteht also einfac darin, daß sie den Menschen die geselschaftlichen Charaktere ihrer eignen Arbeit als gegenständliche Charaktere der Arbeitsprodukte selbst, als gesellschaftliche Natureigenschaften dieser Dinge zurückspiegelt, daher auch das gesellschaftliche Verhältnis der Produzenten zur Gesamtarbeit als ein außer ihnen existierendes gesellschaftliches Verhätnis von Gegenständen. Durch dies Quidproquo werden die Arbeitsprodukte Waren, sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge. (86)

The mysterious character of the commodity-form consists therefore simply in the fact that the commodity reflects the social characteristics of men's own labour as objective characteristics of the products of labour themselves, as the socio-natural properties of these things. Hence it also reflects the social relation of the producers to the sum total of labour as a social relation between objects, a relation which exists apart from and outside the producers. Through this substitituion, the products of labour become commodities, sensuous things which are at the same time supra-sensible or social. (164-165)

商品形態の秘密は次のことにある。商品形態は、人間の労働の社会的性質を、労働生産物自体が客観的に有している性質、物自体に存している社会的属性として人間に写し出してしまう。かくして、生産者という人々の社会的関係が、商品という物体の間の社会的関係として、つまりは生産者という人々とは離れて人々の関係の外部にある対象の間の社会的関係として写し出されてしまう。この錯誤により、労働生産物は商品となり、感覚で捉えられるものでありながら同時に感覚で捉えられない社会的な物体となるのである。



■本来ないものがあると信じてしまうことは倒錯である。

本来は物体としての商品そのものに存していない、人間の社会的関係を、商品そのものにあると信じてしまうことは、倒錯(Festischimus /fetishism)である。

Um daher eine Analogie zufinden, müssen wir in die Nebelregion der religiösen Welt flüchten. Hier scheinen die Produkte des menschlichen Kopfes mit eigem Leben begabte, unter-einander und mit den Menschen in Verhältnis stehende selbständige Gestalten. So in der Warenwelt die Prodkte der menschlichen Hand. Dies nenne ich den Festischimus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist. (86-87)

In order, therefore, to find an analogy we must take flight into the misty realm of religion. There the products of the human brain appear as autonomous figures endowed with a life of their own, which enter into relations both with each other and with the human race. So it is in the world of commodities with the products of men's hands. I call this the fetishism which attaches itself to the products of labour as soon as they are produced as commodities, and is therefore inseparable from the production of commonidites. (165)

これ [商品] と類比関係にあるものを見つけようとするなら、私たちは宗教という曖昧模糊とした領域に飛び込んでゆかねばならない。宗教という領域では、それ自身の生命をもち、お互いにそして人間とも関係を結ぶと人間の頭が想像したたまものが、自立した形成体として現れる。これと同じことが、人間の手が作り出したものにすぎない生産物である商品の世界でも生じている。これが倒錯である。労働生産物が商品として生産されるやいなや、すぐにその労働生産物に貼り付き、商品という生産物から剥がせなくなってしまう。



■商品に関する倒錯が、資本主義社会の基本的は思考形態となってしまっている。

商品に商品以上のものを読み込んでしまい、商品を崇めてしまう思考法は、商品交換(による資本の増大)を基盤とする資本主義社会においての基本的な思考形態となってしまう。私たちはこの思考形態の倒錯性をなかなか見抜けなくなってしまい、商品の背後にある人間の営みを忘却してしまい、商品そのものを倒錯的に偏愛してしまう。



Derartige Formen bilden eben die Kategorien der bürgerlichen Ökonomie. Es sind gesellschaftliche gültige, aslo objective Gedankenfromen für die Produktionsverhältnisse dieser historisch bestimmten gesellschaftlichen productionsweise, der Warenproduktion. (90)

The categories of bourgeois economics consists precisely of forms of this kind. They are forms of thought which are socially valid, and therefore objective, for the relations of production belonging to this historically determined mode of social production, i.e. commodity production. (169)

この種の形態こそが、ブルジョア経済学 [=生産手段を有する資本家のための経済学] の思考範疇を形成している。この形態は、商品生産という歴史的に形成されてきた社会生産様式での生産物の関係を示すためには、社会的に妥当であり、ゆえに客観的な思考形態だとされている。



■中世という前近代的な、しかしもっぱら人格的関係で編み上げられた社会には、倒錯はなかったはずだ

近代資本主義社会は、生産物を交換のために分業的に生産し、交換関係を無人格的なものにしてきた。そこでは生産者や購買者も、固有の人格として現われずに、無人格的な存在として現われている(あるいは生産や購買という経済的行為が人格化した存在として現れている)。生産者や購買者という人間を無人格化するまでに労働と交換の関係を拡大させた近代資本主義社会では、上記の倒錯が生じる。

しかし、労働や交換が無人格化されずに、いわば人の顔と顔が見える範囲で労働や交換が行われていた社会(例えばヨーロッパ中世社会)では、労働の生産物は倒錯化した商品として現われない。労働生産物をめぐる社会的関係は、固有の人格的関係として現れる。マルクスは中世世界について以下のように書く。


Persöniche Abhängigkeit charakterisiert ebsososehr die gesellscahtlichen Verhältnisse der materiellen produktion als die auf ihr aufgebauten Lebenssphären. Aber eben weil persönlche Abhängigkeitsverhältnisse die gegebne gesellschaftliche Grundlage bilden, brauchen Arbeiten und produkte nicht eine von ihr Realität verschiendne phantastische Gestalt anzunehmen. Sie gehn als Naturaldienste und naturalleistungen in das gesellschaftliche Getriebe ein. Die Naturalform der Arbeit, ihre Besonderheit, und nicht, wie auf Grundlage der Warenproduction, ihre Allgemeinheit, ist hier ihre ummittelbar gesellschaftliche Form. (91)

Personal dependence characterizes the social relations of material production as much as it does the other spheres of life based on that production. But precisely because relations of personal dependence form the given social foundation, there is no need for labour and its products to assume a fantastic form different from their reality. they take the shape, in the transactions of society, of services in kind and payments in kind. The natural form of labour, its particularity - and not, as in a society based on commodity production, its universality - is here its immediate social form. (170)

[中世世界では] 人格的依存関係が、物質的な生産物およびおよびそれに依拠する生活領域の特徴をなしている。しかし人格的依存関係が、その社会の基盤を形成してるので、労働と生産物は、現実から切り離された幻影的な形態をとる必要がない。労働はあるがままの奉仕として、生産物はあるがままの産物として社会の構造の中に組み込まれている。労働のあるがままの形態は、商品生産を基盤とした社会のように一般性でなく、具体性であり、この具体性が直接的な社会の形態となる。



■ 中世社会の労働関係は、人格的関係として認識され、商品関係としては認識されていなかった。

資本主義社会ほどに労働と交換が、無人格的になるまでに拡大されていなかった中世社会では、労働は人と人との人格的関係として認識されており、商品世界の倒錯的関係は見られなかった。(もちろん、これは中世社会の無批判的な肯定ではない。中世社会にはそれ固有の欠点があったはずであることは、近代資本主義的社会に固有の欠点があることと同じであり、また近代資本主義社会に固有の良さがあることと同じである)。

Wie man daher immer die Charaktermasken beurteilen mag, worin sich die Menschen hier gegenübertreten, die gesellschaftlichen Verhältnisse der Personen in ihren Arbeiten erscheinen jedenfalls als ihr eigen persönlichen Verhältnisse und sind nicht verkleidet in gesellschaftliche Verhältnisse der Sachen, der Arbeitsprodukte. 891-92)

Whatever we may think, then, of the different roles in which men confront each other in such a society, the social relations betwen individuals in the performance of their labour appear at all events as their own personal relations, and are not disguised as social relations between things, between the products of labour. (170)

[中世世界で] 人々がどのように自らの性格を覆い隠していたかについてどのように判断するにせよ、人々の労働における社会的関係は、つねに固有の人格的関係として現われ、労働生産物という物の社会的関係というように形を変えないのである。



(ノートを完成させたら疲れてしまったので、上記に含まれているだろう誤植のチェックは後日にします)

以上





(注1)

日本語翻訳としては、岩波文庫、大月書店、新日本出版社、筑摩書房、日経BP社による翻訳書を参照した。このうち私にとって一番役に立ったのは、日本語が一番自然な中山元氏による日経BP社の翻訳である。




英訳については、Marx and Engels Internet Archive (http://www.marxists.org/archive/marx/)の英語翻訳が無料で使えるが、例えば原典52ページのWarenwerteの訳を消失させていたりなどと今ひとつ信頼しがたかったので、ペンギン版の翻訳を使った(結局、紙媒体とKindle媒体の両方で書い、読むためには紙媒体、原文をエディタに書き写すためにはKindle媒体を使った。Kindle媒体からのコピー・ペーストができなかったのは残念である)。

このペンギン版の翻訳は、英語圏では定訳となっているようであり、また、実際非常に読みやすいものであった。(ある意味、日本語訳よりも読みやすかったとすら言えるかもしれない)。






(注2)

マルクス『資本論』の入門書として、私はこれまで池上彰『高校生からわかる「資本論」』集英社を一番重宝していたが(笑)、デヴィッド・ハーヴェイによる『〈資本論〉入門』は圧倒的にわかりやすかった。今回、『資本論』を翻訳で読み、重要箇所を原典で確認する前に、この『〈資本論〉入門』を読んでおいたことがどれだけ役立ったかわからない。





ちなみにこの本は、オンラインの無料講義の書籍化(の翻訳)である。


Reading Marx's Capital with David Harvey

http://davidharvey.org/




また、マルクスが校閲・加筆修正した『マルクス自身の手による資本論入門』 もわかりやすいものであった。



ちなみに、20年ぶりぐらいに再読した廣松渉の次の本も、わかりやすかった。廣松の日本語は、巷で言われるほどに晦渋ではないと私は考える。






ついでながら述べておくと、これだけの本を日本語翻訳で読めることを私は心底ありがたく思うし、これだけの翻訳文化を作り上げてきた先人の努力に心からの敬意を抱いている(昔の人は本当に頭がよかった)。

また、今回、自分なりの日本語訳を作ろうとする中で、原文の理解が深まった。翻訳は、精読の唯一のとは言わないまでも、最良の方法の一つであることを再認識した。





参考:柳瀬ブログの中のマルクス関連記事