2012年7月29日日曜日

大塚謙二先生のワークショップに参加して



広島市の「市中研」のご厚意で、北海道の中学校教師、大塚謙二先生のワークショップ(7/27)の後半およびその後の懇親会に参加させていただくことができました。

私が最初に大塚先生に注目したのは、大修館書店『英語教育 増刊号』の年間書評で、大塚謙二『成功する英語授業! 50の活動&お助けプリント』明治図書を選んだ時です。

その時の原稿を一部転載します。

大塚謙二『成功する英語授業! 50の活動&お助けプリント』明治図書

本書は、中学英語教師にとって、かけがえのない実践の枠組み、そして実際的な支援の道具となるだろう。

著者の大塚氏は、北海道で公立中学教師となるも、「最初の10年間は、困難校で苦労し、毎朝新聞の転職欄をながめる日々」だったという。だが転機となったのが、「英語教育達人セミナー」(達セミ)である。そこで楽しく教えることの良さを学び、やがて大塚氏も達セミで発表するようになる。さらに大塚氏は、達セミ主催者の谷口幸夫氏が大学院で学ぶようになったことに刺激され、北海道教育大学大学院で学ぶ(北海道教育委員会からの派遣)。本書はこれらの経験、学びを経た大塚氏が再び現場に戻る中で書かれた本だ。  

(中略)

いずれにせよ、このように自らが苦労の上に形にした知見を惜しげもなく公開する大塚氏の思いは、本書の「おわりに」に示されている。―「社会の状況が変化し、教師の仕事も厳しい状況になってきています。さらに、もし学校状況が良くない状態だったとしたならば、毎日の授業を計画し、実行することは本当に激務です。精神的にも疲れ切ってしまいます。ですから、今回取り上げた活動は、誰にでも指導することが簡単で、短時間で準備ができて、さらに、生徒が楽しく力をつける活動を集めてみました。ちょっとしたことで授業が変わる、でも、そんな小さなことが大切なんだと思います」。―128ページの薄い本書を手にするのも「ちょっとした小さなこと」だ。中学教師はもちろんのこと、高校教師もぜひこの「ちょっとした小さなこと」を試して欲しい。






この本、およびこの本を補完する機能ももった大塚先生のホームページを見た時、私は「これはすごい先生だ。一度お会いしたい」と思い続けておりました。


大塚謙二先生のホームページ

http://ok.ko.kg/



しかし、なかなかその機会も得られないまま年月は過ぎ、やがて私はひつじ書房の『成長する英語教師をめざして』を編集する機会に恵まれました。





この時、私はまだ一度も大塚先生にお会いしていないにもかかわらず、大塚先生にはぜひ原稿をお願いしたいと思い、失礼を承知でメールで原稿をお願いしたところ、ご快諾いただき、すぐに原稿を書いていただきました。それは英語教師が二番目の学校に移る頃について書いたものですが、それが素晴らしかったので、私達編者はその大塚先生の原稿を、他の執筆者にお示しする模範原稿とさせていただきました。(その原稿の一部は以下にある通りです。)

2巡目の担任をする頃は、早い教師で4年目、遅いと7、8年は経過し、2校目に転勤している頃かもしれない。後輩たちを見ていると、この時期になると、まだまだ謙虚にそしてエネルギッシュに頑張る教師、文句が多く楽な道ばかりを探す教師、もうすでにできあがってしまいなんとなく全てが受け身でリーダーシップをとれない教師、など様々だ。いずれにしても、この時期は大変難しいサイクルに入ってしまう教師が多い。それは、特に2校目に転勤して発生してしまう。2校目の壁、または、2サイクル目の壁である。

新卒で赴任し、何もかもが新しく、先輩教師に言われることはすべて絶対であると素直に信じきって、なんとか乗り越えてきた最初の3年。まわりの先輩教師たちも、後輩を育てるために色々なアドバイスをしてくれる。それに応えるために必死に仕事をして駆け抜けてきて、ほっと一息ついて、2巡目の新しい環境に来たときに、今まで一生懸命自分の中に築き上げてきたより所となる考えや指導方法、学校の常識が、新しい学校や学級では通用しなかったり、または、全く違っていたりすることに戸惑ってしまう場面に遭遇してしまう。また、まわりの教師たちも、新卒ではなく、転勤してきた教師に対しては、数年の経験があるので、この人はある程度できるだろうと思い、それほど指導はしないことが多い。また、2巡目の担任となると、どうしても、前の学級との比較に陥りがちで、うまくいっている場合は良いが、そうでない場合は、前の学級では通用していたことが2回目の学級では通用しなかったりすると焦ってしまい悪循環に陥ってしまう。このような訳で、2校目や2巡目の担任という状況では心が不安定になり、うつ傾向になったり、悩みを抱え込んでしまったりする教師が出てしまう。

このようにすばらしい原稿をたちまちの間に書かれた大塚先生に私はすっかり惚れ込んでしまい、一度もお会いしないままに、さらに次の仕事(全国英語教育学会課題研究フォーラム「英語教師が書くということ -日本語あるいは英語による自らの実践の言語化・対象化-」の2013年北海道大会の登壇者)も厚かましくお願いしてしまいました。


そんな中、今回、大塚先生が広島に来られるので、私は無理を言ってそのワークショップ会場にもぐり込ませていただきました。お会いして一言お礼を言いたかったからです。

やっぱりお会いできてよかった。

大塚先生は、予想通り、いや予想以上に、すてきな中学英語教師であり実践的研究者でした。

私が聞いた部分のワークショップでは、上記の『成功する英語授業!50の活動&お助けプリント』にもあった、Rule-based processing + Exemplar-based processingの考えで、「語彙・文法・音声」だけでなく、「語彙化された定型文・語彙化された句」を英語の基礎基本の力と規定した上での実践的活動を次々に紹介されていました。

大塚先生のよいところの一つは、自らの実践を「カン」と「経験」だけで他人に勧めるのではなく、SLA理論などに物事の考え方の筋道を学んだ上で、自ら整理して理解しなおして他人に伝えるところですが、さらにいいのはSLA理論などを鵜呑みにしないところです。

例えば今回のワークショップでは、日本の中学生は欧米でのSLA理論が言う程には、教師のさりげない言語的修正(recasting)には気づかないことを、自らデータ化した上で、近年は一種タブー視すらされている感の強い「間違い探し」(例、次の英語の中には、2箇所間違いが隠れています。さあ、どことどこでしょう)をする活動を紹介されておりました(注1)。

そういった活動も、きわめてテンポよく進んでゆきます。大塚先生のワークショップは、パソコン画面を投影しているだけで、特に先端テクノロジーを使っているわけではないのですが、ICT機器の使いこなしが巧みで、私たちはきわめて快適な知的経験をすることができました。それもそのはず、大塚先生は次の本も書かれております。





このように大塚先生の実践は、理論による整理とICTによる効果的な伝達に支えられているのですが、その基盤はなんといっても生徒への愛情だと思います。

大塚先生はワークショップの最後の部分で、絵本『おごだでませんように』を紹介されました。






これはいい絵本です。大型書店や図書館にはきっとあるはずですから、一度読んでみてください。小学校や中学校の職員室の共用書棚には一冊備えておき、教員なら時折読み返したい本です。

大塚先生は、このような愛情を、授業という形にするための本もまとめています。これもいい本です。特に新任教師の方、授業から少しだけ離れられるこの夏休みに読んでみて下さい。理想を失わない現実論です。





今回の大塚先生の来広には、下の本の著者でもある胡子先生の働きかけが大きかったとも聞きました。





胡子先生は、大塚先生の実践から大きく学び、また同じように大塚先生も胡子先生の実践に衝撃を受け、相互に学び合っているようです。そしてその成果の一つとして、近々明治図書からお二人で共著を出されるとも聞きました。とても楽しみです。

このように優れた日本の実践者は著作も書いてゆきます。それも並の大学教員には絶対に書けないような深い実践の知恵をやさしいことばで表した書を。

私は、大学教員や教育行政者が各所で講演をしてまわり現場教師にあれこれ指示するより、現場教員の観察力・分析力・思考力(注2)を上げ、現場教員同士が共に支えあい学び合う自由な共同体を作った方がよほどいいのではないかという思いを近年ますます強くしています。

しかし現状は教員が自由に集ってお互いに教育の話を忌憚なくできる場所も時間もどんどん奪われているようです。もっと実践者の声を大切にし、またその声の質をより高めるように、社会の流れを変えたいと切に願っています。(ですからどうぞ8/4の全国英語教育学会課題研究フォーラム「英語教師が書くということ -日本語あるいは英語による自らの実践の言語化・対象化-」に来て下さい)。

また、(悲しむべきことですが)教育行政がそのような教師の場づくりに否定的なら、私たちが自らの手で場を育てればいいわけです。

この意味で、大塚先生が懇親会の席でも何度も繰り返し、私たちもその度ごとに頷いたことは、今回のような出会い ―全国各地でそれぞれの形で展開されている実践を愛する者たちの出会い― の多くは、谷口幸夫先生が開始し長年にわたって継続している英語教育達人セミナーによってもたらされたものです。この場を借りて再び、谷口先生、および達セミを構成しているすべての皆さんに感謝を捧げます。

ともあれ、今回もいい出会いに恵まれました。大塚先生をはじめとして、みなさんに感謝します。








(注1)
この間違い探しの問題は教師が出すものですが、私はこの間違いの題材はむしろ生徒に作らせたら面白いのではないかと思いました。つまり、正しい英文を生徒に与えて「これに、あなたがやってしまいがちな間違いを入れて書きなおして、友だちに、どこに間違いを入れたか(またどうしたら正しい英文になるか)を尋ねてごらん」などと指示するわけです。ワークショップ後、このアイデアを大塚先生に話してみますと、「あ、それは面白いかもしれないですね」と言っていただきました。


(注2)
現場教師として成長するための観察力・分析力・思考力そして日常生活のあり方について、私が多くの現場教師の皆さんから学んだことをまとめた文章である「何気ない日常に学ぶ教師のすごさ」を私は『成長する英語教師をめざして 新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』に書きました。以下は、その一部です。

教師はなんとかしたい。だがかつて学校優等生であり、卒業後はすぐに管理的な教育行政に適応することを学んだ若い教師は、途方にくれるばかりである。大学や学会で提供される研究はしばしば文字通り「教科書的理想状況」での英語教育ばかりを語る。教育行政は、教師の声に耳を傾けることもなく、教師にゆっくり考える時間を与えることもなく、次々に新事業を起こし、新たな数値目標を設定し、書類作りばかりを要求する。多忙で過酷な毎日の中、同僚、先輩-後輩のつながりもどんどん失われている。もう、大学・学会・教育行政などに頼ってはいられない。目の前の生徒の人生に働きかけるには教師自身が考えてなんとかするしかない。

時代は「考えない」ことばかりを促す。ならば反時代的に、自ら考えなければ、この時代は打開できない。生徒の人生を、そして教師自身の人生を人間的なものにするには、自ら考えるしかない。自ら考える者だけが他人と連帯できる。


臆面もなく自著を宣伝します。お金がある方はこの『成長する英語教師をめざして 新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』を買って下さい。もしお金がないなら、所属学校や地方自治体の図書館に購入希望を出して下さい。出版界が、もっと現場教師の声を公刊し、それにより現場教師が自らのことばの質を高めるようになることを私は願っているからです(ちなみにこの著書の報酬は、編者・執筆者共に書籍数冊の現物支給だけで現金はまったくありません。2刷に入れば、その収入は全額、東日本大震災で被害にあった子ども・生徒を支援するためにあしなが育英会に寄付することにしました。私がこうして臆面もなく自著の宣伝をするのは、少なくともお金儲けのためではありません)。





2012年7月9日月曜日

『授業は英語』での現状と課題 (8/10 広島大学教育学部主催高等学校教員のための指導力向上セミナー第一分科会)



広島大学教育学部は8/10(金)にJR博多シティ会議室で下記のセミナーを開催します。


2012年度高等学校教員のための指導力向上セミナー
  http://www.hiroshima-u.ac.jp/news/show/id/14356/dir_id/23


主な内容は以下のとおりです。

第1部 講演 (10:00-12:30)
○「生きる力」を育む教育課程
文部科学省初等中等教育局視学官 長尾篤志


○教員の資質能力向上を目指した人事評価制度の活用とその留意点
広島大学大学院教育学研究科教授 古賀一博


第2部 (14:00-16:30)
教科教育の最先端-これからの高校教育はどう変わるか-

第1分科会 『授業は英語』での現状と課題
発表1 井ノ森高詩 (明治学園高校)
発表2 小橋雅彦  (広島大学附属中高等学校)
発表3 柳瀬陽介  (広島大学教育学部)


第2分科会 高校音楽科教育の新しい方向性を考える
発表1 津田正之  (文部科学省初等中等教育局教育課程課教科調査官)
発表2 東正生   (熊本ミュージックテクノロジー教育研究サークルNEW WINGの会)
発表3 徳永崇   (広島大学教育学部)

第3分科会 教科の枠をこえた授業研究のあり方を探る
発表1 石村秀一  (熊本県立第二高等学校)
発表2 鶴田英二・越智隆伸 (佐賀県立佐賀西高等学校)
発表3 小河原薫  (福岡県立小倉東高等学校)

お近くの方はぜひお越しください。なお定員100名で、7/20締切ですので、上記URLからできるだけお早めにお申込みください


***


下記は、第一分科会の発表要旨です。


『授業は英語』での現状と課題
企画の趣旨説明

柳瀬陽介(広島大学)

学習指導要領は、高校では2013(平成25)年度の入学生から「授業を実際のコミュニケーションの場面とするため、授業は英語で行うことを基本とする」(第8節外国語第3款の4)と定めています。

学習指導要領の方針・趣旨は、いたずらにいわゆる「オール・イングリッシュ」を求めるものではなく、文法説明など日本語の説明が必要な場合には日本語使用を認めるものです。ですが、そのような方針・趣旨はよくわかるものの、教育現場では「進学対策がおろそかになるのでは」、「教員が長年の授業スタイルを変えるのは容易ではない」、「そもそも授業のポイントは使用言語にあるのではない」等々といった意見も聞かれるようです。

こういった中、現状分析を抜きにして「学習指導要領が変わったのだから、とにかく『授業は英語で』にしなさい」として、教師が不承不承、外見だけ使用言語を英語にしただけ授業を取り繕うことは避けるべきでしょう。教育において最も大切にされるべきなのは、生徒の学びだからです。かといって現状にあぐらをかいて、改革を一切拒否することは許されません。必要なのは冷静な現状分析に基づく、現実的な授業改善が必要かと考えます。

そこで午後の「これからの高校教育はどう変わるか」の総合テーマのもと、この第一分科会では「『授業は英語で』の現状と課題」をテーマとして討論します。会場のコミュニケーションをできるだけ促す形式で行います。現状の全面的否定(高圧的な改革の押し付け)と全面的肯定(開き直りの改革拒否)の両極端を避け、高校英語教育の現実的な改善の途を探ります。会場で、正直で多様な声をお互いに聴き合うことを大切にした会にしたいと考えています。ぜひご参加ください。



英語で授業の考え方、捉え方 ~英語・日本語の使い分けと授業の準備~


井ノ森 高詩(明治学園中学高等学校)


1. 英語で授業の前提として

(1) なぜ「英語で授業」なのか
「授業を目標言語によるコミュニケーションの場にする」、「言語材料の音声による提示」と同時に「成功した英語学習者としてのモデルの提示」を

(2) 英語教師はどんな英語を身につけるべきか
「モデル」となりうる英語とは・・・文法、発音、プレゼン力


2.いつ英語を使うのか

(1)英語と日本語の使い分け
評価に関する説明、文法(型)の説明、活動の説明・指示、ダメだしは日本語で

(2)教材の導入と説明
オーラルイントロダクション、キーワードでパラフレーズ

(3) Visual Aid の活用(目から入る「英語で授業」)
パワーポイントを使いこなすために教室のハード面の整備を

3.生徒に英語を使わせるために

(1)十分なインプットを与える
ルーティーン化された表現、長くない表現、生徒の背景知識に配慮した表現、そして実際に授業がコミュニケーションの場となる表現を与え続ける

(2)活動の目的を明確化する
教師が実演して見せる、飲み込みのはやい生徒ペアに実演させる、過年度生のビデオを見せる、などしながら、日本語でしっかり活動の目的を明確化した上で、生徒に英語を使わせる


4.準備段階での心がけ

(1)慣れるまでは指導案を作る
よく使う表現はセリフをしっかりと台本に書き込み、タイミングも授業前に確認

(2)イメージトレーニングを行う
実際に声に出して、パワーポイントを操作しながらリハーサル




「授業は英語で行うこと」の意味 
―説明中心の指導からコミュニケーションに活用させるための文法指導へ―

小橋 雅彦(広島大学附属中・高等学校)


1. はじめに

「授業は英語で」行うのか,「英語で授業を」行うのか。学習指導要領においては「授業は英語で」である。しかしながら,「英語で」の部分が世間で注目を浴び,「英語で」というフレーズがさまざまなコンテクストの中で使用され,「どこまで英語で」の議論の中で落としどころが見つからない。発表者にとって,「英語で」が文頭であろうと「授業は」が文頭であろうと構わない。「生徒を授業に英語で参加させる」方法を考えることが先決である。

2. Form - Meaning - Use

生徒が文法事項を習得してゆくとき,それらに関する説明を読んだり聞いたりし,ドリルによる演習を行い,意味を伴った英文を産出するときには「形式の正確さ」が求められる。しかしながら,産出される英文が正確であるだけでなく,文法がコミュニケーションを支えるためには,「適切さ」を兼ね備える必要があることは,論を俟たない。本提言では,「適切さ」の指導を「活用」と捉え,コミュニケーションを支えるための文法指導とは何かを考える。そして,生徒が口をそろえて「おもしろい!」と言った指導事例を紹介する。

3. Psychologically Authentic Way

これまで文法指導をしてきた中で,生徒が「おもしろい」と感想を述べたことは一度もなかった。さして,言語活動に工夫があったわけでもない。思い当たるのは二点,「教師の説明から入るのではなく,Useを意識させ授業の主導権を生徒に預けたこと」と「すぐに教師は正解を言わず,生徒には協同的に正解を求め続けさせ,意味を実感するまで待ったこと」である。学習指導要領解説は,文法事項の扱いについて次のように述べている。『この項目は,「コミュニケーションを行うために必要となる」程度が特に高い言語材料について,詳細な説明は必要最小限にとどめ,語句や文構造,文法事項などを,表現しようとしている意味や使い方として理解し,適切に活用することができるよう,…』生徒の反応が腑に落ちた瞬間である。

4. おわりに

教師が滔々とオーラル・イントロダクションを続け,教科書本文の要約を語ってしまうことが,英語を使い,知の森の中を散策する楽しみやその機会を奪うことにならないか。また,教師は同じオーラル・イントロダクションを複数回異なる教室で行える機会を得るため,教師の英語によるプレゼンテーション能力のみがどんどん上達してゆくことは,生徒の側に立てば不公平であるとは言えないか。

当日は,「生徒を授業に英語で参加させる」ことができる授業デザインの工夫を参加者の方々と語り合えたら幸いである。



コミュニケーションの6側面から検討する「英語での授業」

柳瀬陽介 (広島大学)

授業も一つのコミュニケーションです。もちろん授業過程のうち、一部には「知識の情報伝達」および「機械的な身体訓練」とも総括できる側面もあるでしょう。しかしやる気満々の生徒ならともかく、生徒の心が動かなければ、いくら大量の知識が情報伝達されても、生徒の身に入ってはゆきません。またいくら機械的訓練を重ねて一定の英文を正確かつ高速に再生できるようになっても、さまざまに変化する諸関係の中で適切に発話を重ねてゆくコミュニケーション能力は身につきません。私たち英語教師は、少なくとも「授業というコミュニケーション」と「授業を契機にして生徒に身につけさせたい英語コミュニケーション能力」といった観点から、コミュニケーションについて深く理解しておく必要があります。

さて、指導要領により「授業は英語で行なうことを基本とする」こととなりました。この方針で、授業というコミュニケーションはどう変わる、あるいは変わりうるのでしょう。本発表ではJakobson (1960)のコミュニケーション・モデルを基盤として、コミュニケーションの6つの側面から、授業というコミュニケーション、および生徒が目的にしている英語コミュニケーションについて検討します。そのモデルの概要は以下の図で表現できます。


参考:
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/01/blog-post_14.html 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/05/6.html 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/06/blog-post_26.html

***

この分科会で講師をお願いした井ノ森先生と小橋先生には、大変にお忙しい中にご無理を申し上げました。この場を借りて改めて感謝申し上げます。

なお井ノ森先生の上記の内容は、以下の本で詳しく読むことができます。合わせてご参照下さい。(この他の意味でも、下記の書はお薦めです)。






2012年7月7日土曜日

Howard Zinn & Anthony Arnove著、寺島隆吉・寺島美紀子訳『肉声でつづる民衆のアメリカ史』(明石書店)



寺島隆吉先生と寺島美紀子先生が、Howard Zinn & Anthony ArnoveによるVoices of a People's History of the United Statesの翻訳書である『肉声でつづる民衆のアメリカ史』を上梓されました。









この『肉声でつづる民衆のアメリカ史』(以下『肉声史』)の案内と訳者あとがきは、ともにPDF版で寺島先生のホームページから読むことができます。





これらを読みますと、この翻訳が現代日本にとって重要な出版であり、また翻訳をされた両先生の苦労が想像を絶するほどのものであったことがわかります。

原著は世界的なベストセラーになったHoward ZinnのA People's History of the United States(翻訳『民衆のアメリカ史』(以下『民衆史』)の史料編にあたりますが、この『肉声史』は著者のジン自身が認めるように、人びとの生のことばを集めている以上、『民衆史』よりも魅力ある書であるかもしれないからです。(日本人読者にとっては、一定のアメリカ史理解を前提とする『民衆史』よりも読みやすいと言えます。他方、『肉声史』の各章各節の冒頭にはジンによる「その時代の概説」と「登場人物の簡単な説明」が加えられています)。










しかし、生の声を集めた本というのは、翻訳者にとっては悪夢のようなものでしょう。調べなければならないことが山のようにあるからです。「訳者あとがき」で寺島隆吉先生は次のように述べます。

ですから、本書で取りあげられている人物についてゼロから学び直す必要がありました。こうして購入した本は、和書と洋書を合わせて、優に二〇〇冊をこえます(関連の音声資料CDや映像資料DVDを含めると三〇〇点をこえるでしょう)。分からないところがたった一句あるいは一文なのに、 その不明部分を確認するために文献をアメリカから取り寄せねばならないこともありました。

翻訳すれば上下2巻で1300ページ以上になる史料集を翻訳するなど、想像しただけで寝込んでしまいそうですが、寺島先生ご夫妻はこの偉業をなしとげました。それを支えたのは、この本の中の人びとの声でした。

私たちは、このように何度も投げ出しそうになりながら、この四年間、夏休みや冬休みも(正月もお盆も)返上して、そして平日は土曜日も日曜日も休まずに翻訳に取り組んできたのですが、崩れ落ちそうになる私たちを支えてくれたのは、本書に収録されている人物の「肉声」でした。


さらに寺島先生は、私達、現代日本の市民に向けてこう述べています。
今の日本はアメリカから新しい経済制度が導入され、派遣社員という制度にみられるように、就職難に加えて簡単に首切りができる、ますます生き辛い社会になってきています。 ですから、そのような中で毎日を苦闘しながら生きている若い皆さんに、まず第一に、本書を読んでほしいと思ったのです。(中略)

さらに今の日本では、東日本大震災と福島原発事故で政府から見捨てられ、自力で生き抜くことを強いられている多くの被災者がいます。戦時中におこなわれた「集団疎開」する権利さえ認められていません。そのような皆さんにも、本書をぜひ読んでほしい、そして「生きる力」をそこから得てほしいと切に願っています。

これは沖縄の皆さんについても言えることではないでしょうか。昔も今も、アジア太平洋戦争中だけでなく戦後も、戦争の矛盾・軍事基地の矛盾を一手に引き受けさせられているのが、沖縄のひとたちではないかと思うからです。そのひとたちにとっても本書の「肉声」は必ずちからと勇気を与えてくれると信じています。


私も含めて英語教師というのは、案外にアメリカのことを知らないものです。それに加えて私は「ナラティブ」を研究のキーワードの一つにしています。さらに言うなら、私は研究者としてとても中途半端でまとまった仕事をきちんとしていません。ですから私はこの本を自ら買って読み、そして寺島先生にお願いしてサインをしていただきたいと願っています。サインをねだるなんてミーハーなようですが、挫けそうになる自分を鼓舞するために、この偉業を達成した寺島先生の直筆をいただきたいと思います。

と同時に、この本を広く読んでもらうために、大学図書館にも入れてもらうつもりです。(寺島先生ご自身も、この本は大部で高価なので公共の図書館に入れてもらうことを積極的に勧められております)。

また、こういうものは機会ですから、わかりやすい以下の関連図書や、短時間で視聴が終わる以下のDVDも購入して、アメリカをより多面的に理解しようと思っています。これらの読書・視聴は、私をすこしはましな英語教師にしてくれるでしょう。

ともあれ、寺島先生ご夫妻の偉業に心からの敬意を捧げます。寺島先生、この貴重な書を私達日本語同胞のために翻訳してくださり、本当にありがとうございました。













2012年7月4日水曜日

達セミin広島(講師:胡子美由紀先生・園元恭子先生)に参加した学部生SS君の感想



以下は学部生SS君が、7月1日の英語教育達人セミナーin広島(講師:胡子美由紀先生・園元恭子先生)に参加して自発的に書いた文章です。彼の許可を得てここに転載します。SS君の心に火をつけてくれた胡子先生、園元先生、そして達セミ文化を支えている皆さんに心から感謝します。


***


日曜日に胡子先生、園元先生の達人セミナーに参加しました。参加できなかった人が少しでもその内容を知ることができたら、という思いでここに書かせていただきます。




■胡子先生と園元先生に共通すること

これは達セミの内容というより、まず私が個人的に感じた講師の先生方の人柄についてになるのですが、私は彼女らは2人ともぶれない“軸”を持っていて、それを中心に授業を行っているということを感じました。そしてその“軸”というのが、2人とも「生徒の人間形成のための英語教育」でした。

胡子先生は生徒を“みる”ことや生徒理解が大切と言われ、LOVE(Listen carefully, Open my heart to you, Volunteer to help you have great confidence, Enjoy 1-1 together)という方針を持っているそうです。胡子先生がいうから深い言葉だと思います。私は昼食会でたまたま先生の横になり、お子さんのことから授業に対する姿勢まで様々なことをお聞きできたのですが、授業に関して先生は「私が生徒に教えられることは一つも、ないんですよ。『教えてる』って時点で生徒が『学んでる』ことにはならないじゃないですか。英語を学ぶのは生徒自身なので、それを精一杯手助けしているだけで、『教えて』はいないですね。」とおっしゃっていました。これまた先生の口から聞くと、とても深い言葉でした。

園元先生は“親業”という教育理念に精通した方で、「生徒との信頼関係を築くための具体的な方法」について「教師の話し方」と「聞き方」という観点から講義を聴きました。それと英語教育とのつながりや、その具体的な活動なども学び、「人間形成のための英語教育」ということがわかってきました。



■胡子先生のten-rules

胡子先生はface-to-face(ペア活動)の際、生徒に意識させるten rulesという決まりを作ったそうです。それは相手の目をみる、声の大きさ、発音(先生は中1の夏まで教科書を使わず、音声指導を徹底するそうです。)、笑顔、、、など10つのruleです。人とのコミュニケーションにおいて一番大切な部分を授業の中で徹底しているなあと思いました。



■生徒は英語を(   1   )と思っている。

ちょっとした心理テスト?のようなものなので、ぜひ考えてみてください。

・・・(1)に何といれましたか?これは実は教師(自分)が英語をどう捉えているかを表すものだそうです。だから例えば「受験教科」と入れた人と「楽しいもの」とか「コミュニケーションツール」などと入れた教師の授業は、その方針が変わってくるそうです。私はまさに「受験教科」といれた人間なのですが、数年前までのありふれた英語授業の形態で英語を学んできた人はそう答えてしまうのではないでしょうか。この自分の今の認識がやはり偏っていて、これは修正すべき、認識を新たにすべきだことだと思いました。



■授業を通して(   2   )。

胡子先生はここに「生徒の可能性を伸ばす」といれるそうで、これに通ずるのが先ほどのten rulesやLOVEなんだなと思いました。


■胡子先生の授業構成

先生は帯活動を20分間するそうです。「基礎力(語彙、発音、言語構造理解、音読・暗誦)は地道な活動でした培えない。」とおっしゃっており、これは昼食会で聞いた話ですが、胡子先生は学生時代体育会水泳部で、そこで培った体育会魂は今の授業形態にも影響しているそうです。だから基礎力は一朝一夕でつくものではないと体感しており、それが帯活動に通じているんだと思いました。



■園元先生の<主語はわたし>

授業中に寝ている子や、私語が目立つ子に対してどのように対処するか、ということを教わりました。対処法として「私語はやめて」「授業中に話したらダメだ」「こらうるさい」といった類の、<あなたメッセージ>は効果がなく、信頼関係も築けない。それに対して「先生は~」「おれは~(準備してきた授業を終わらせたい)」など<主語をわたし>にすることが大切ということでした。先生曰く、「今若い子が自分の感情を表現できず人を刺したりしてしまうのは、感情を言語化できないから」だそうです。だから生徒に言語化できる能力をつけるには、まず教師が“キレる”“怒りのままに叱る”のでなく、(例えば私語を聞いて)生じた感情、考えを述べることが大切ということでした。


他にも学んだことはありますが、割愛させていただきます。最後に達セミに関してですが、本やDVDじゃなく、直接面と向かって話を聞かないと分からないことがあるんだなあと体感しました。今回の胡子、園元両先生方の人格や持っている“軸”などは直接会わないと感じることができないものでした。思っていたより少人数で講義が行われ、昼食会では先生のプライベートまで聞けてしまう達セミはすごいです。こんなに多大な影響を受けるものだとは思っていなかったので、今回は参加して本当に良かったと思っています。機会がある度積極的に参加したい(すべきだ)と感じました。

2012年7月2日月曜日

「英語教育研究法の過去・現在・未来」(中部地区英語教育学会課題研究プロジェクト)



第42回中部地区英語教育学会岐阜大会のシンポジウムでコミュニケーション・モデルの再検討から考える 英語教師の成長を発表させていただきました。比較的大きな会場に立ち見がでるぐらいの大入りで、それなりに面白いシンポジウムになったのではないかと思っています。同大会の実行委員長である亀山太一先生と事務局長である杉野直樹先生をはじめとする皆様には大変お世話になりました。私自身、そのシンポジウムでの議論や懇親会でのお話などから大いに学ぶことができました(同時に中部地区英語教育学会の勢いを感じました。残念ですが、私が所属する中国地区英語教育学会にはこれだけの活気はありません)。

その中でも特に勉強になったのが、同学会の「課題研究プロジェクト」(三年計画の一年目)として発表された「英語教育研究法の過去・現在・未来」です。この資料は、北海学園大学の浦野研先生のサイトに掲載されています。



課題別研究プロジェクト:英語教育研究法の過去・現在・未来

http://www.urano-ken.com/research/project/index.html


プロジェクトメンバーは、浦野研先生(北海学園大学)、酒井英樹先生(信州大学)、髙木亜希子先生(青山学院大学)、田中武夫先生(山梨大学)、藤田卓郎先生(福井県立坂井農業高校)、本田勝久先生(千葉大学)、亘理陽一先生(静岡大学)で、当日は本田先生を除く方々がご登場なさいました(髙木先生は、他の発表との関連で、遅れて登場)。どの方も聡明な知性をもってらっしゃるので、このセッションは非常に充実したものとなりました。

ここではそのセッションに参加した私の主観的なまとめを報告します(詳しくは上記サイトから資料をダウンロードしてご自分の目で確かめて下さい)。なお「英語教育研究法」とありますが、今年度は実証研究と実践報告に関するものだけで、理論研究と調査報告は扱われていませんでした。





亘理陽一 

 「論文の分類、分析方法の提案」


亘理先生は、実証研究論文をとりあえず、 (1) 研究目的が探索的か検証的か、 (2) データが量的か質的か、 (3) 提示されている結論が探索的か検証的か、という三つの観点から分類し、2 x 2 x 2で8通りの類型を出しました。その結果、好ましくない類型とされるのは以下の二つとなります。
・研究目的は探索的であり、明確な仮説も仮説検証方法も提示されていないのに、結論部分では「検証した」との主張がなされている論文で、データが量的なもの。

・同じく、研究目的は探索的であり、明確な仮説も仮説検証方法も提示されていないのに、結論部分では「検証した」との主張がなされている論文であり、データが質的なもの。






浦野研 

「紀要論文の分析」


中部地区英語教育学会紀要36-41号の実証研究151本を分析したところ、以下のようなことが判明した。

・61.6%が探索的なものであり、仮説とその検証方法を明確にした仮説検証型(30.5%)より多かった。

・特に多かったものはアンケート調査を中心としたものであり(49.0%)、中部地区英語教育学会の実証研究の約半分はアンケート調査である、と言っても過言ではない。

・質的データを扱った研究は13.9%と少なかった。


ここから浦野先生はご自身の考察として次のようなことを述べました。
・探索型研究が多いのは、 (1) ページ数制限などから先行研究の総括が十分に展開できないか、 (2) 「とりあえずデータを集めました」的な研究が多いからではないか。

・質的研究が少ないのには、(1)そもそも質的研究法が浸透していない、(2)ページ数制限が足かせになりthick descriptionができない、(3)査読者が質的研究に精通していないため、適切な審査ができていない、といった理由があるからではないか。






髙木亜希子 

「実証研究 (主に質的データを扱っているもの)」


髙木先生はリン・リチャーズ、ジャニス・モース著、小林奈美監訳 (2008)『はじめて学ぶ質的研究』(医歯薬出版)を参照文献に挙げ、質的研究の二つのタイプを示しました。

(1) 研究者の立ち位置は問題にせず、質的データを用いている研究

(2) 解釈的な (interpretive)、および批判的な (critical)な視点に立ち、現象を深く詳細に理解したい、複雑な状況や変化しながら移ろいゆく現象の意味を理解したい(小林, 2008)などの目的を明確にして、質的な方法論を選択し、質的データを用いた研究


ここで私見ですが、これは非常に大切な区分で、私は (2) こそが「研究」の名前に値すると考えています。別の言い方をしますなら、研究者が対象を観察する(=一次的観察)をするだけでなく、その研究者の対象観察自体を、反省的に・自己言及的に二次的観察することが、広い意味の「客観性」を得るためには重要だと考えているからです。(参考:言語教師志望者による自己観察・記述の二次的観察・記述 (草稿:HTML版))。

この区分は、質的研究だけでなく量的研究でも大切であることは、次の発表からも伺えたように私は思っています。





酒井英樹・藤田卓郎 

「過去数年間の掲載論文で見られた方法論上の問題点の整理」

酒井先生と藤田先生は、「過去の論文には、以下のような点での「自覚」がない論文があった。研究者が自らの研究アプローチに対して自覚を欠いていることは、研究論文の価値を大きく損ねると思われる」と述べられました。
・知の創造の歴史的な過程の中で、自分の研究の貢献するところを明示することを怠っている。

・「哲学的に見れば、研究者が行う定義(クレイム)は、知識とは何か(存在論)、私たちはそれをどのように知るのか(認識論)、そこにはどんな価値が持ち込まれているか(価値論)、それをどのように書き起こすか(レトリック)、そして、それを研究するプロセス(方法論)に関して明言することを意味している。」(Creswell, 2007, pp. 6-7)のに、その明言を怠っている。


参考文献:John W. Creswell著、操華子・森岡崇(訳)(2007) 『研究デザイン-質的・量的・そしてミックス法』日本看護協会出版会





田中武夫 

「中部地区英語教育学会紀要における「実践報告」論文の傾向と課題について」


田中先生の発表は、実証論文ではなく実践報告についてのことでした。田中先生は「日頃の授業で教師がどう問いを立てどうデータを集めどう分析しどう解釈すれば、公的な授業研究となるか?」という公共性を本発表の研究動機の一つとしてあげていました。

田中先生はEllis (2012) Language Teaching Research and Language Pedagogy (Wiley-Blackwell) の枠組みを使い、"Practitioner Research"の下位区分として、(1) Action Researchと(2)Exploratory Practiceを提示しました。

私はこのEllisの本を読んでいませんが、この下位区分には少し違和感を覚えます。私自身もExploratory Practice (EP)についてはこれまで考えてきて(参考:柳瀬のブログ記事のExploratory Practiceカテゴリー論文も上梓しましたが、私の理解は、EPはあくまでもExploratory Practiceであり、教師と学習者が疲弊してしまうことなく実践を続けること、およびその続ける実践が惰性的なものでなく探究的であることが重要であるというものです。ですから極限すれば、EPはpracticeであり、researchではありません。もちろんEPからリサーチに発展することはありますし、それは実践者に余裕がある限り奨励されるべきでしょうが、EPはあくまでも日常的なものだと私は考えています。


こういった流れを受けて、私は(前にもお知らせしましたように)今年8月4日に全国英語教育学会で研究課題フォーラムを開催します。


英語教師が書くということ
-日本語あるいは英語による自らの実践の言語化・対象化-



さらに附言しておきますと、私が書いたEPに関する上記論文を受けて、「柳瀬はアクション・リサーチを批判・否定・敵視している」といった誤解をされていらっしゃる方がまだいらっしゃるようです。この誤解を解くための文章は、過去にもこのブログで書いてきましたが、ここで改めてそのような誤解をきっぱり否定します(というより私の論文をきちんと読んでくださったら、そのような誤解は生じないのではないかと思っているのですが、まあコミュニケーションというのは話し手の意図を超えて展開するものでしたね (笑)←自らの文章能力の欠如に鈍感な者による、僅かな二次的観察の試みwww)。

ともあれ、「英語教育学」といった実学では、どう実践者の方に参画していただくかというのが大切になってくると思います(これは、このセッションの後に話をした多くの方も異口同音におっしゃっていたことでした)。この「実践報告」に関する今後の総括を楽しみにしたいと思います。



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私は以前「英語教育学には本格的な歴史 (=学史) がない」と述べていました。研究する自分達に対する自己省察(言い換えるなら、(一次的観察を行った)研究に関する二次的観察)の本格的なものがなかったように思えたからです。しかし、このようなセッションは、自らの立ち位置や研究方法なども十分に自覚した上で、この自己省察を行い「英語教育学とは何であったのか」を検討し、これからどうあるべきかについての指針を得ようとしています。

私はしっかりと勉強をしている(というより私なんかよりはるかにきちんと勉強をしている)英語教育学の若い世代には期待をしています。