(2009/10/11-12、神戸市外国語大学)
第1日目登壇者:大津由紀雄、寺島隆吉、中嶋洋一、寺沢拓敬、松井孝志、山岡大基、柳瀬陽介
第2日目コーディネーター:今井裕之、吉田達弘、横溝紳一郎、高木亜希子、玉井健
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NHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言」は、見ていてやはりそうだったのかと落胆すると同時に、いくつかの場面では悔しさで涙が出そうになったドキュメンタリー番組でした。
やはりそうだったのか、と思ったのは、当時の日本のエリート中のエリートであったはずの海軍
軍令部が、軍人としてひどく無能で、人間として怖ろしく無慈悲だったからです。やはり、陸軍だけが劣悪だったわけではなかったわけです。涙が出そうになったのは、そんな無能で無慈悲な人間の命令で、多くの人が無惨な死を遂げ、多くの人が苦しみを抱えたまま生き続けなければならなかったからです。
番組第1回「開戦 海軍あって国家なし」では、戦争を避けるべきだと考えながらも、組織の「空気」のために戦争回避ができなかった軍令部の姿が語られます。軍令部のエリート軍人は、海軍の体面やお互いの人間関係ばかり気にして、国家の利益を正面から考えることを怠りました。そして日本は太平洋戦争へと突入してしまいます(注1)。
その結果、300万人以上の日本人の命が奪われました。アジアでは更に多くの人命が失われました。
かつて
鶴見俊輔は「いかなる悪人も、権力者以上の悪事を行なうことはできない」と述べたと私は記憶しています。個々人が凶行を起こすことができることは周知の通りですが、権力者、とくに国家権力者は、命令や法律により、個々人ではまったく不可能な大規模の事態を引き起こすことができます。戦争はその最たるものです。エリート軍人の蒙昧と浅慮は、国家権力で増幅され、取り返しのつかない悲劇を引き起こしました。
番組第2回の「特攻 やましき沈黙」こそは、本当に見ていて無念を感じました。軍令部は、「神風特別攻撃隊」の1年以上前から、組織的に計画、特攻兵器を作り続けてきたことが赤裸々に語られたからです。
日本海軍のエリートは、戦局が悪化するはるか以前から、同胞の兵士に対して自殺攻撃をさせる作戦を立てており、そしてそれを実際に実行したのです。しばしば「志願者」を半強制的に作り出しながら。
なぜ日本のエリートは仲間の兵士に対してこれほど冷酷(というより非人道的)になれたのか。
おそらく個人としては極悪非道の人間でもなく、家族や周りの人々にはよき人であったかもしれない軍令部のエリートは、なぜ、同じ日本人であり、海軍の仲間でもあった兵士に、これほどに酷い命令を出せたのか。
戦争時の非人道的行為に関しては、しばしばヒトラーやアイヒマンのユダヤ人虐殺が引き合いに出されます。私は彼らを弁護するつもりは一切ありません。しかし彼らの虐殺は、ユダヤ人という「他者」を創り出して、その他者を抹殺することで「我々」を肯定しようとするものでした。
日本軍上層部の特攻命令およびバシー海峡への出撃命令など(注2)が、ヒトラーやアイヒマンのユダヤ人虐殺と異なるのは、死に追いやった人間が「敵」ではなく、同胞の兵士だったということです。
日本のエリートにとって、前線で戦う兵士は、仲間ですらなく、切り捨てることによって自分たちの存在を確保する「他者」だったのでしょうか。日本のエリートは、日頃会議室などで出会う目に見える人間関係だけしか懸念できなかったのでしょうか。彼らは、会議室を越えた場所、そしてそこにいる人間をまともに想像できる知性を持ち合わせていなかったのでしょうか。
遠い場所にいる自軍の兵士すら「同胞」と考えなかったとしか思えないような日本軍エリートの知性とは何だったのか。身辺の「空気」ばかりを気にして、抽象的な思考をせず、目に見えず会うこともない人々の経験を想像することもできなかった彼らを育てた軍部の教育とは何だったのか。彼らをエリートとしてしまった日本とは何だったのか。
同胞にすらこれほど冷酷である人間が、他国の人々に対して残虐であることは理の当然と言えるかもしれません。
番組第3回の「戦犯裁判 第二の戦争」では、東京裁判で、海軍という組織を守るため、水面下で海軍トップの裁判対策を組織的に行っていた海軍の姿が描かれます。「上をかばい、下を切り捨てる」体質です。同時に番組は、海軍が戦時中に他国の人々に対して行なったことを描きます。見ていて息を詰めざるを得ないシーンが続きます。
私は英語を使う人間として、何度か太平洋地域の人々と、過去の日本について語る際に緊迫した瞬間を経験したことがあります。日本国民がこういった過去を知ることは、決して「自虐的」ではありません。むしろこうした事実から目をそらしたり、「悪いことをしたのは日本軍ばかりではない」と子供じみた弁明をし続ける
ネウヨのような人たちこそが「自虐的」とはいえませんでしょうか。過去の否認や責任回避は、日本国民の成熟を妨げます。それこそが自らを卑しめ、侮り、愚弄することではないのでしょうか。
しかし番組の中で、取材デスクの小貫武氏が繰り返し言っていたように、この問題は当時の軍令部の特定の人間だけを断罪すればいいという問題ではありません。
現代の私たちも、組織の「空気」を気にして、言うべきことを言わず、行なうべきことを行なっていない文化を引きずっているからです。私自身にしても、軍令部の個々人を批判するよりも、
「なぜ日本は、そのようなエリートを育ててしまったのか」、
「側近の人間関係の維持と既得権益の確保と増大ばかり考え、目に見えないところにいる人間を平気で切り捨てる人々を、組織の上層部に上げてしまう文化を、私たちはなぜ今も持ち続けているのか」、
「なぜ日本の教育文化は、目の前の時空を越えた超越的な思考力と想像力を育てられないのか」、
といった問いの方にはるかに切実感を感じます。
組織の会議室にいる人間の体面と権益を保つ事ばかりに長けた人間が、組織の上に上ってゆくことを私たちが今なお許しているとするのなら、私たちの組織に対する考え方というのは根本的に変えられなければなりません。そういった人間を「お上」として威張らせてしまうことの責任の一端は、私たち自身にもあります。そういった文化を断ち、組織に組織本来の仕事をさせるためにはどうしたらいいのか・・・。
私はブログという媒体を、取りあえずの思考を書き留めるために使っています。ですから考えはしばしばまとまらないままになってしまうのですが、今回は特にまとまりません。
ただ、この日本の組織文化―狭い人間関係の「身内」に優しく、目に見えない人間を「他者」として冷酷に切り捨てて、身内の利権を確保・増大する人間を重用する文化―だけは何とかしなくてはならないと思います。
権力者は、いかなる個人がなしうるよりも、大きな災厄をもたらしうるからです。
(注1)
追記 (2009/08/13)
今朝の毎日新聞の記事「子どもは見ていた―戦争と動物(4)」は、特攻隊関係の証言を掲載していました。
それによると特攻機の整備をしていた兵士(証言者)が、特攻の見送りの際に涙を流したら上官に殴られ、「おまえの命は1銭5厘(召集令状のはがき代)。馬の方が高いんだ」と怒鳴られたそうです。
このエピソードは、軍令部のエリートだけでなく、前線の「上官」―どの階級なのかはこの記事からはわかりません―さえも、同胞兵士を人間扱いしていなかったことを示しています。
そういえば、こういったエピソードはよく聞くものでした。私は上の記事で、軍令部などのエリートだけが非人間的な態度をもっていたように書きましたが、それは正確でなく、思考力と想像力の極度の貧困は、日本の軍隊のかなりの範囲まで蔓延していたと言うべきでしょう。
そもそも組織というものは、(1)特定の仕事を遂行し、(2)自らの存命を確保するという2つの大きな機能をもっています。
(1)の特定の仕事は、特定の価値観に基づいていますが、その価値観が極度に固定化したり、曲学阿世の徒によって歪められたりしたら、組織は「仕事」の名の下に巨大な悪をなしえます。
(2)の自己存命も、組織の存命が組織構成員(特に上層部)の私的権益を増大させるようなシステムができてしまえば、組織は組織外の社会に奉仕するのではなく、組織内の構成員(特に上層部)の利益に奉仕するようになります。そうしますと上層部には、(1)の仕事と価値を組織の権益確保につなげるように言葉を巧みに、そしてしばしばヒステリックにがなりたてる人間が居座り、そういった人間の周りには「うん、うん」と権力者にうなづくことしかしない茶坊主が集まり、組織の公的性質を消滅させてしまいます。
このような組織の腐敗は、日本の軍隊で極度に進行していたのでしょうが、こういった腐敗は戦後日本にも見られることです。
そうしますと、(1)組織の仕事の硬直化・価値の歪曲化、(2)組織構成員の自己利益誘導をいかにして防ぐかということは、現代的な問題でもあると言えます。
今の私にはこれらに対して快刀乱麻の答えはありませんが、戦前の軍隊とまではいかぬとも、組織が―特に官僚的な組織が―暴走することは、現代の私たちにとって切実な問題ですから、問題意識だけは常に保っていたいと思います。
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「ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性」
(2009/10/11-12、神戸市外国語大学)
第1日目登壇者:大津由紀雄、寺島隆吉、中嶋洋一、寺沢拓敬、松井孝志、山岡大基、柳瀬陽介
第2日目コーディネーター:今井裕之、吉田達弘、横溝紳一郎、高木亜希子、玉井健
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