先日、日本の英語教育界についてあれこれと話をしていたら「ま、型どおりやっておけば無難ですよね」という話になりました。
日本の英語教育界には、おそらく他の分野と同様、「定められた路線で定められたことをこなしておけばOKで、それ以上に真剣に物事を考えたり行動したりする必要などない」といった惰性があります。この惰性こそが、英語教育の営みから活力、責任、はてまた意味を奪っているのかもしれません。
9月15日に慶應義塾大学で行われる英語教育シンポジウム(運営:慶應義塾大学大津由紀雄研究室)は、そういった惰性を打ち破るための、営々と続けられる問い直しの機会です。ここ数年間、大津由紀雄先生ほど一貫して、かつ精力的に英語教育界の「惰性」を打ち破る試みをしてきた人は私は知りません。言うまでもなく大津先生のご専門は認知科学ですが、そのように狭義の「英語教育界」から外れた方が、最も真摯に英語教育界のあり方を問い続けているというのは皮肉な幸運と言ったらよいでしょうか。
今回の登壇者は、江利川春雄先生(和歌山大学)、古石篤子先生(慶應義塾大学)、斎藤兆史先生(東京大学)、津田幸男(筑波大学)、三浦孝先生(静岡大学)、山田雄一郎先生(広島修道大学)、そして大津由紀雄先生(慶應義塾大学)となっております。
江利川先生は、現在の英語教育界で最も良心的な研究者と言えるかもしれません。ご自身の歴史研究培われた長期間にわたる丁寧な実証の精神は、数多くの慧眼にあふれる研究に結実しています。江利川先生の著作を引用される研究者も多いでしょうし、大修館書店『英語教育』の「英語教育時評」は時代批評として多くの読者の共感を得ています。
古石先生については、私は2005年12月の慶應シンポでご一緒させていただいただけですが、古石先生がご指摘なさっていた日本の外国語教育における「モノリンガリズム」(英語集中主義)の危険性はますます増大しているように思えます(危険なのは英語教育関係者にこの問題意識がないことです)。
斎藤先生は、一般メディアへの影響力という点ではおそらくどの「英語教育学者」よりも影響力をもった「英学」研究者です。斎藤先生ほどに英語が読めて、総合的な視野から日本の英語教育について考えることができる方を、これまた狭義の「英語教育学」の世界で見つけることはできないかもしれません。私はこのシンポでようやく斎藤先生に直接お会いできるので個人的にはとても楽しみにしています。
津田先生は、日本の英語教育に関して最もラディカルな問いかけを一貫されている方です。正直申しますと私は津田先生のご主張の一部には賛同できない論点があるのですが、それでも津田先生の問いかけの魅力は減ることはありません。私は津田先生に久しぶりにお会いできるので、これまた楽しみです。
三浦先生は、『だから英語は教育なんだ』や『ヒューマンな英語授業がしたい!』の著作で私はファンでしたが、今年の夏の全国英語教育学会の問題別討論会で、私は三浦先生とようやくご一緒に研究活動ができてとても有意義な時を持てました。三浦先生は地道な英語教育の営みの中で理想の灯火を絶やさないところかと思います。今回のシンポに三浦先生が入ることにより、より地に足がついた議論がされるのではないでしょうか。
山田先生に関してはもう申し上げる必要もないかもしれません。時代の騒動に巻き込まれずに、冷静に思考を重ね、また現実にも行動してゆく(山田先生と私はある地域での英語教育導入に関わっています)山田先生は日本の英語教育にとって貴重な財産です。ご著書の『言語政策としての英語教育』は英語教育関係者にとっての必読書といえます。
こういったメンバーが長い時間にわたって忌憚なく議論する今回のシンポは非常に注目されます。私もオーディエンスの一人として参加します。
参加申込は「大津研blog」でどうぞ。
http://oyukio.blogspot.com/2008/07/915.html
2008年8月16日土曜日
全国英語教育学会に参加して
昭和女子大で開催された全国英語教育学会に参加しました(8/9-10)。この学会にも少しは変化の胎動を感じることができました。「量的研究vs質的研究」といった不要な二項対立にとらわれず、両者をクールに使い分ける若い世代の研究者も目立ってきました。リフレクションはもちろんのこと、社会文化的アプローチやナラティブ・アプローチも根付いてきたように思えます。「人間形成」といった論点を前面に出した三浦孝先生主催の問題別討論会に私も発表者として参加しましたが、そういった論点もオーディエンスの方々からは好意的に受けとめられました。最後のシンポジウムでも小中高の実践者の方々の発表が主となり、それを大学の研究者が総括するという形になっていました。「研究のための研究」「研究者のための学会」から、「実践のための研究」「実践者のための学会」へという流れが生じてきたのかもしれません。私はこの流れを支持します。
ただ今年の大会ほど、この学会の旧態依然とした文化を懸念する声を多くの人から聞いた大会はありませんでした。このような場での詳述は避けますが、上に述べた若い力を、この学会の「主流」がこれからどれだけ育てることができるのかということが重要になってくると思います。
よもやこういった若い力をつぶすような真似を「主流」が行うなら、そのような「主流」を持つ組織など求心力を失い、早晩衰退するだけでしょう。
今年の大会に私は変化の兆しを見たのでしょうか。それとも衰亡の兆しを見たのでしょうか。
ただ今年の大会ほど、この学会の旧態依然とした文化を懸念する声を多くの人から聞いた大会はありませんでした。このような場での詳述は避けますが、上に述べた若い力を、この学会の「主流」がこれからどれだけ育てることができるのかということが重要になってくると思います。
よもやこういった若い力をつぶすような真似を「主流」が行うなら、そのような「主流」を持つ組織など求心力を失い、早晩衰退するだけでしょう。
今年の大会に私は変化の兆しを見たのでしょうか。それとも衰亡の兆しを見たのでしょうか。
2008年8月5日火曜日
現代社会における英語教育の人間形成について
現代社会における英語教育の人間形成について
―社会哲学的考察―
―社会哲学的考察―
柳瀬陽介 (広島大学)
この資料は、全国英語教育学会(於 昭和女子大学 2008年8月9日)の問題別討論会(「学習者の成長欲求に英語教育はどのように応えるか―より効果的に英語力を養うために」)のパワーポイントによる発表の理解を助けるためのものです。
大会で配られる要綱の原稿と内容は同じですが、こちらの方が若干わかりやすい表現になっています。
関連資料はhttp://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/05/blog-post_10.html およびそれ以前の5つの記事に掲載されています。
1 はじめに
英語教育を「現代社会における人間の営み」として考えることは必要である。説明責任などによる合理化が進む一方で、「誰でもよかった」という暴力が続発する現代日本は、人々がもっぱら「誰でもかまわない・誰でもない」生産者・納税者として扱われようとしている社会になっているのではないかという危惧さえ感じられる。そんな中、英語教育が人間形成に関わるとすれば、それはどういうことなのかということを、個人的な価値観や世俗的な通念の押しつけや、学術用語の濫用にはならないようにしながら社会哲学的に考察したい。
2 人間概念の再検討
日本の英語教育は「西洋化」「グローバリゼーション」という世界史的潮流の中での出来事である以上、「西洋」「グローバル社会」における「人間」のとらえ方をまとめておくことは重要である。
西洋は、科学と啓蒙の地であったはずなのだが、二つの世界大戦、原爆・ホロコーストなどの大量虐殺、全体主義を生み出してしまった。この一因を、アレントは西洋の学問が人間を単数性でしか考えなかったことに求めた。「神」あるいは理想化された人間像という単一のイメージを他者に拡張しようとする考えは、複数の異なる人間が共存しなければならないという「人間の条件」に反している。「人間」を考える場合に私達は、その複数性と差異を第一に考慮しなければならない。
グローバル社会においては人間の複数性と差異はさらに増大する。そこにおいては、合意がコミュニケーションの前提(ハーバマス)ではなく、差異がコミュニケーションの前提(ルーマン、デリダ)とされる方が現実的である。コミュニケーションという接続が社会という関係を創り出す。それは一致による合意というよりは、接続における差異を動因として、コミュニケーションの世界を編み上げる。どこかで何かがどのようにかしてつながっている現代において、社会とは究極的にはグローバル社会に他ならない。
グローバル社会(あるいは<帝国>(ネグリ・ハート))を構成しているのは、「単一の同一性には決して縮減できない無数の内的差異」、つまり「一にして多、多にして一」の「マルチチュード」(multitude)である。ある国民国家の「国民」(the nation)、「一般意志」(ルソー)を共有するとされる「人民」(people)、まとめてコントロールされる「大衆」(mass)などの概念は、グローバル社会を考える上で単純すぎる概念である。「『日本人』あるいは『日本』のための英語教育」といった表現も、現在日本に住む多種多様な人々(マルチチュード)の差異を覆い隠してしまう危険を持っている。
「西洋化」と「グローバリゼーション」の帰結は、複数の異なる人間が共存し、その共存のために、差異を前提とするコミュニケーションによってマルチチュードが多種多様に接続されることである。そうするならば現代社会における英語教育の人間形成は、「英語を数多くの手段の一つとして、差異を前提としたコミュニケーションを接続できる人間を育てる」ということになろう。
3 目的概念の再検討
しかし上記のような指針は曖昧すぎて目的たり得ないという批判があるかもしれない。だが、「計測可能性」、「具体的実証性」、「短期的実現可能性」を重視するのは「目的合理性」の発想にすぎない。現代はその目的合理性のみが跋扈しがちであるという点で、科学と技術のあり方が現代社会の隠れたイデオロギーになっている(ハーバマス)と言えるかもしれない。
目的概念と異なるものとして目標概念がある。「目的」(Zweck, end) とは、単一の視点からの計測が可能で、具体的・短期的に終結されるべきもので「科学・技術」的発想と親和性が高い。一方「目標」(Ziel, goal, guideline, orientation)は、複数の視点から長期的に吟味され、抽象的・長期的に私達を方向づけるものである。目標は、「差異を有する複数の人間の共存と結合に取り組む」(アレント)という意味で「政治」的なものである。単一の視点からの目的合理性の暴走が、複数の人間の差異を破壊しかねないことは歴史の教訓である。英語教育においても目の前の「目的」の発想ばかりに埋没して、大きな「目標」を見失うことは危険である。
そもそも目的概念は、システム(例、教室、学校)においても、システムの存続のための一変数に過ぎない。古典的組織科学は、組織をもっぱら目的追求の観点から合理的にとらえようとしたが、これは単純すぎる見方である。ルーマンによるなら現実のシステムは、当面追求している目的の発想ではとらえきれない外部要因(環境(Umwelt, environment))から常に影響を受けている。教室や学校という「学力向上」を取りあえずの目的とするシステムも、学習者・保護者・教職員一人一人ミクロの心理的・社会的状況、マクロな政治的・経済的変動、といった膨大な「複合性」(Komplexität, complexity)を有した「環境」の影響下にある。優秀な教師はこれらのシステムと環境の差異を鋭敏に感知し、この外と内の差異を安定化させるようにシステム(教室や学校)の自己変革をもたらす。
目的追求はシステム崩壊の危険を冒してまで行われてはいけない。目的設定の機能もやはりシステムの環境における複合性と変動性の吸収にある。システムの目的がシステムの存在を破壊してはいけない。「上からの」目的要求によって、システムが破壊されることは、単純な知性による暴力であり、私達はその暴力に対して抵抗しなければならない。
4 まとめ
英語教育は現実の営みとして、数々の「目的」を達成しようとし、「説明責任」を果たそうとする。しかしその目的合理性だけの発想にとらわれて、英語教育が複数の異なる視点から長期的に吟味されるべき人間形成という「目標」を忘れてしまってはいけない。仮に現代社会における英語教育の人間形成を「英語を数多くの手段の一つとして、差異を前提としたコミュニケーションを接続できる人間を育てる」と解釈するにせよ、この「目標」は、いくつかの「目的」行動に還元し尽くせるものでもなく、また英語という教科の枠組の内だけで管理できるものでもないだろう。さらにこれは「能力」を「個人に帰属させるもの」「標準化されるべきもの」とする近代的テスト理論の考え方にもそぐわない。だがこれらは「目標」を忘却する理由にはならない。「目的」管理がますます強化される教育界は、「目的」概念で「目標」概念を駆逐してはいけない。ましてや「目的」の追求が、一人一人の学習者あるいは教職員およびその他の関係者を深く損ねることがあってはいけない。社会が単純な目的合理性に乗っ取られ、現実社会の複合性、人間社会の複数性と差異を無視しようとする時に悲劇は(再び)起こるだろう。英語教育は「人間」の営みである。
追記:8/7に若干の修正を加えました。
追追記(2008/9/2)
上記の問題別討論会で使用した私のパワーポイントスライドを公開します。下記の要領に従って、「080809全国問題別討論会(柳瀬)」を選択してください。
(1) http://www.filebank.co.jp/guest/yosukeyanase/dp/public にアクセスしてください。
(2)下の情報を入力してください。
1.招待されたゲストフォルダ設定場所:ディスクプランフォルダ
2.招待されたゲストフォルダのID : yosukeyanase
3.招待されたゲストフォルダのゲストフォルダ名:public
4.招待されたゲストフォルダのパスワード:public
(3)「ゲスト環境設定」のアイコンをクリックして、「ブラウザーモード」を選択してください。
(4)ダウンロードしたいファイルにチェック印を入れてください(PRファイルは無視してください)。
(5)「ダウンロード」のアイコンをクリックして、「各駅ダウンロード」を選択してください。
達人セミナーin広島2008年8月2日
広島地区で達セミが行われるときには必ず参加していたのですが、ここ数回出張が重なったりして欠席を続けておりました。今回一日だけですが参加しました。やっぱりよかった。
全体を通じて感じたのは、どの発表も、実践者の学習者に対するケアが感じられるということです。
上山(かみやま)(晋平先生(広島県福山市立福山中・高等学校)は「スラ英BOOK」(「スラ英」とは「スラスラ英会話」の略)という資料を提示しながらのプレゼンテーションでしたが、この資料が実に丁寧に作り込まれています。上山先生がこれまで様々なところで様々な人々から学んだ英語学習のメニューとコツを、中学生のために親身になってブレンドしています。上山先生はこの資料をお望みの先生には進呈しますともおっしゃっていました。上山先生の発表を聞く機会がある方はぜひ楽しみにしていてください。
松本涼一先生(福島県立豊富高等学校)の発表は、兄貴筋(?)の畑中豊先生----お話を聞く機会があればぜひぜひ行ってください。御著書の『教師必携! 英語授業マネジメント・ハンドブック』も非常に素晴らしい本で、私は今年度の『英語教育増刊号』の年間書評のトップにこの本をもってきました----の「生徒の心を温かく読む」スピリットを引き継ぎ、コンピュータ・テクノロジーを強化したようなご発表でした。Mac, iPod, iTuneを使いこなしているのですが、その一つ一つの使用に必然性があり、私達も自然に話の内容に引き込まれてゆきます。授業がテクノロジー主体ではなく、生徒の心----できる生徒の心もできない生徒の心も----を最大限理解し受容し、励まそうとするものになっていることがよくわかります。この松本先生と上山先生のことを事務局の谷口幸夫先生は「達セミジュニア世代」と呼んでいましたが、若い世代の先生がこのように先行世代の知恵と愛情を受け継ぎ、テクノロジーをどんどん使いこなしてゆくのを見ることは本当に嬉しいことです。
目崎浩子先生(岡山県立西大寺高等学校)のご発表も細かな配慮に満ちたものでした。一つ一つの工夫に裏付けがあります。生徒一人一人のできること・できないこと、誇りの感情・恥の感情を細かくケアする授業は本当に見ていて気持ちが温かくなります。面白かったのはそんな目崎先生も「私、機械は駄目なんですよ」と言いながら、DVDやYouTubeの映像を取り込んだiPodやPowerPointを使いこなし、スムーズに授業を進め、聴衆にダイレクトにメッセージを伝えていたことです。いい授業をしたいという思いが目崎先生のコンピュータ・リテラシーを高めているのでしょう。この発表を見て私の隣の高校教師の方は自分もiPodを買おうと言っていました。そのくらい目崎先生はテクノロジーをうまく使いこなしていました。
上本晋之先生(大阪府・市立四条畷南中学校)に関しては、私は以前私が敬愛する人から「すごい先生がいる」と話を聞いてから、一度ある機会にお話しさせていただき、上本先生の奥深さを感じていたものの、発表を聞くのは初めてでした。この発表も素晴らしかった。私が上本先生と個人的にお話しさせていただいた時は身体についてのことが主だったのですが、この発表においても身体のことから、それが自然と英語のリズムにつながり、さらにはそれが「言葉の奥を読む」ことにつながっていました。当たり前のことかもしれないのですが、中学校でも「深い英語授業」というものはできるのだなぁと感心することしきりでした。上本先生は音楽の造詣も深いそうです。こうしてみると、授業とは、要はその人の人間としての総合的な力の上に成り立っているものだということを思わざるをえません。
このような達セミが10年以上も全国各地で続けられているということは、本当にすごいことだと思います。事務局の谷口幸夫先生に心から感謝します。
全体を通じて感じたのは、どの発表も、実践者の学習者に対するケアが感じられるということです。
上山(かみやま)(晋平先生(広島県福山市立福山中・高等学校)は「スラ英BOOK」(「スラ英」とは「スラスラ英会話」の略)という資料を提示しながらのプレゼンテーションでしたが、この資料が実に丁寧に作り込まれています。上山先生がこれまで様々なところで様々な人々から学んだ英語学習のメニューとコツを、中学生のために親身になってブレンドしています。上山先生はこの資料をお望みの先生には進呈しますともおっしゃっていました。上山先生の発表を聞く機会がある方はぜひ楽しみにしていてください。
松本涼一先生(福島県立豊富高等学校)の発表は、兄貴筋(?)の畑中豊先生----お話を聞く機会があればぜひぜひ行ってください。御著書の『教師必携! 英語授業マネジメント・ハンドブック』も非常に素晴らしい本で、私は今年度の『英語教育増刊号』の年間書評のトップにこの本をもってきました----の「生徒の心を温かく読む」スピリットを引き継ぎ、コンピュータ・テクノロジーを強化したようなご発表でした。Mac, iPod, iTuneを使いこなしているのですが、その一つ一つの使用に必然性があり、私達も自然に話の内容に引き込まれてゆきます。授業がテクノロジー主体ではなく、生徒の心----できる生徒の心もできない生徒の心も----を最大限理解し受容し、励まそうとするものになっていることがよくわかります。この松本先生と上山先生のことを事務局の谷口幸夫先生は「達セミジュニア世代」と呼んでいましたが、若い世代の先生がこのように先行世代の知恵と愛情を受け継ぎ、テクノロジーをどんどん使いこなしてゆくのを見ることは本当に嬉しいことです。
目崎浩子先生(岡山県立西大寺高等学校)のご発表も細かな配慮に満ちたものでした。一つ一つの工夫に裏付けがあります。生徒一人一人のできること・できないこと、誇りの感情・恥の感情を細かくケアする授業は本当に見ていて気持ちが温かくなります。面白かったのはそんな目崎先生も「私、機械は駄目なんですよ」と言いながら、DVDやYouTubeの映像を取り込んだiPodやPowerPointを使いこなし、スムーズに授業を進め、聴衆にダイレクトにメッセージを伝えていたことです。いい授業をしたいという思いが目崎先生のコンピュータ・リテラシーを高めているのでしょう。この発表を見て私の隣の高校教師の方は自分もiPodを買おうと言っていました。そのくらい目崎先生はテクノロジーをうまく使いこなしていました。
上本晋之先生(大阪府・市立四条畷南中学校)に関しては、私は以前私が敬愛する人から「すごい先生がいる」と話を聞いてから、一度ある機会にお話しさせていただき、上本先生の奥深さを感じていたものの、発表を聞くのは初めてでした。この発表も素晴らしかった。私が上本先生と個人的にお話しさせていただいた時は身体についてのことが主だったのですが、この発表においても身体のことから、それが自然と英語のリズムにつながり、さらにはそれが「言葉の奥を読む」ことにつながっていました。当たり前のことかもしれないのですが、中学校でも「深い英語授業」というものはできるのだなぁと感心することしきりでした。上本先生は音楽の造詣も深いそうです。こうしてみると、授業とは、要はその人の人間としての総合的な力の上に成り立っているものだということを思わざるをえません。
このような達セミが10年以上も全国各地で続けられているということは、本当にすごいことだと思います。事務局の谷口幸夫先生に心から感謝します。
共感したブログ記事
ブログ「英語教育にもの申す」を私は愛読していますが、最近の「多様性と、深化と進化」と「謙虚な自負」には特に共感しましたのでここにご紹介いたします。
また内田樹先生の「北京オリンピックに思うこと」の次の文章にも共感しましたので、ここに引用します。
また内田樹先生の「北京オリンピックに思うこと」の次の文章にも共感しましたので、ここに引用します。
貧しさ、弱さ、卑屈さ、だらしのなさ・・・そういうものは富や強さや傲慢や規律によって矯正すべき欠点ではない。そうではなくて、そのようなものを「込み」で、そのようなものと涼しく共生することのできるような手触りのやさしい共同体を立ち上げることの方がずっとたいせつである。私は今そのことを身に浸みて感じている。
Doing and being
産業革命を経た近代社会だからなのだろうか、それとも高度資本主義がこの地球を席巻しようとしているからなのだろうか、世の中では行動(doing)がもてはやされる。教育や研究の世界にも、その時代潮流が流れ込んだのか、どのように結果を出すのか、そのためにどのように行動をするのかという思考法がはびこる(私も日ごろその片棒を担いでいたりする)。
皆がせきたてられている。大人も子どもも。男も女も。雇用者も被雇用者も。教師も生徒も。
Doingが強調される中、beingの旗色が悪い。「何もしないとは何事だ。ぼーっとするな。何かを生産せよ!」という怒声があちこちから聞こえてくるようだ。
社会人の責務とはdoingにあり、beingとはdoingの停止に過ぎない。Beingは再びdoingを始める活力を得る限りにおいて認められる休憩に過ぎない。合理的に数値目標をたてながら、doingを限りなく続けるのがグローバリゼーションなのだ—これが雇用者の、被雇用者へのメッセージである。
被雇用者は保護者として、上のメッセージを教師にも伝える。「民間会社では当たり前ですよ!」。かくして教師は子どもにこのメッセージを伝える。「何ができるかな。ここまでできれば成績をあげよう。次にはこれができるようになろう」。<次から次へ。休むな!>これが、大人が子どもへ伝えようとしていることではないか。
そうして子どもの毎日は数値目標達成として整理される。それは教師の成績となる。管理職はその達成度を書類にし、教育委員会はそれをチェックする。かくして教育界も産業界と同じ論理に染まり始める。教育活動が経済活動と限りなく同一視されはじめる。
言うまでもなく上の考えは正しいのだろう。上の考え方を失えば、日本の生産力はグローバル競争の中で急落してしまうのだろう。その場合の混乱の度合いは誰にもわからない。だから正しい考えは保たれなければならない。
だが正しい考えの欠点は、時にそれが正しくなりすぎるということだ。
Doingの強調も、それがbeingの軽視を招くようなら、それはあまりにも正しすぎる。
その正しすぎる考えが支配する世の中では、子どもはdoingの予備軍としてのみ評価される。Doingの力をもたない高齢者あるいは障がい者は社会の負担にすぎない。男女共同参画社会では男も女もdoingを求められる。同僚がただ共にいるというくつろぎの空間も時間も限りなく減少する。子どもや高齢者のそばにいること、いや夫婦がただ共にいることもdoingのために犠牲を強いられる。家を美しく整え、そこでただくつろぐことなどもはや富裕層にしか許されていないのかもしれない。Beingはdoingのための必要悪である。最小限に抑えよ。Doingを最大化せよ。それが現代人だ。人々がただbeingを愛することを、現代は忘れかけている。今や誰がbeingを擁護しているというのだろう。
かつてゲーテの描くファウスト博士は、哲学・法学・医学・神学—その当時大学で教えられていた科目の全て—を学んだあげく、自分が「いぜんとしてこのとおりの哀れなバカ」であると落胆する。それでも新約聖書の「初めに言葉ありき」を「初めに行為ありき」と書き換える。そして悪魔メフィストテレスと契約する。もしファウストが「時よ、とどまれ、おまえはじつに美しい」と言ったなら、彼はよろこんで滅びてゆこうというのだ。ファウストは自分がそのように言うことはないと考えている。ただそうあるbeingが美しいということなどありえないというわけだ。ファウストはまさにdoingを信じている。
その後のファウストとメフィストテレスの多様な経験の詳細は本に任せるしかないが、ファウストは第二部の終わりで、干拓作業を夢見る。彼は語る。
この言葉を思わず語ったためにファウストは絶命する。ファウストは人々の平穏なbeingに美を見た。そこではdoingはbeingの中に調和しているだけだった。意味深く自由なbeingこそが究極だったのだ。
翻って現代。Doingは暴走していないか。Doingは次なるdoingばかりを求めていないか。Doingにdoingを重ねることによってしか私たちは生きられないとしていないか。それこそがbeingを守ることだと言っていないか。だがdoingが増加し激化するごとにbeingは損なわれていないか。
世の中にはdoingもbeingも必要だ。だが「初めにあった」のはdoingではない。おそらくはlogosでもない。「初めにあった」のは—言葉遊びのようだが—beingである。まさに初めには「ある」のだ。最初にbeingがある。そうしてそのbeingを保つためにdoingが必要となる。だがdoingはbeingのためにある。Doingがbeingとの調和を忘れ、doingのためにあると思い始めたとき、世界は暴走する。ちょうど、映画『鉄コン筋クリート』が象徴的に表現しているように。
この世があるということ。この世に人々がただ存在しているということ。そして願わくは、幸福に存在しているということ。これこそがdoingの目的である。この幸福な時間にdoingは停止しなければならない。「時よ、とどまれ、おまえはじつに美しい」と思わず語りたくなるほどにdoingは停止しなければならない。この停止はdoingの再開のための休憩ではない。Beingそのもののための停止である。Doingはbeingのためにある。Doingはbeingに奉仕する。その逆ではない。だが現代社会はその逆をしようとはしていないか。Beingがdoingの奴隷になっていないか。
池内紀訳の『ファウスト』は次の「神秘の合唱」で終わる。
Doingはうつろうものを次々に作り出す。かりものがかりものを生み出す。それは進歩である。だが進歩は止まることを知らない。進歩の暴走は時にbeingをつぶそうとする。
しかし、人々がこの世で暮らすとは、beingを享受するということだ。そして人々がこの世を継いでゆくということは奇跡を要するということだ。
奇跡とは、無から有が生まれること、新たなbeingの誕生である。
そうしてbeingを愛し、beingを整え、beingを保ち、beingを美しくする「永遠に女性的なるもの」が私たちを導く。
「久遠の女」を私達は失いつつあるのではないか。
皆がせきたてられている。大人も子どもも。男も女も。雇用者も被雇用者も。教師も生徒も。
Doingが強調される中、beingの旗色が悪い。「何もしないとは何事だ。ぼーっとするな。何かを生産せよ!」という怒声があちこちから聞こえてくるようだ。
社会人の責務とはdoingにあり、beingとはdoingの停止に過ぎない。Beingは再びdoingを始める活力を得る限りにおいて認められる休憩に過ぎない。合理的に数値目標をたてながら、doingを限りなく続けるのがグローバリゼーションなのだ—これが雇用者の、被雇用者へのメッセージである。
被雇用者は保護者として、上のメッセージを教師にも伝える。「民間会社では当たり前ですよ!」。かくして教師は子どもにこのメッセージを伝える。「何ができるかな。ここまでできれば成績をあげよう。次にはこれができるようになろう」。<次から次へ。休むな!>これが、大人が子どもへ伝えようとしていることではないか。
そうして子どもの毎日は数値目標達成として整理される。それは教師の成績となる。管理職はその達成度を書類にし、教育委員会はそれをチェックする。かくして教育界も産業界と同じ論理に染まり始める。教育活動が経済活動と限りなく同一視されはじめる。
言うまでもなく上の考えは正しいのだろう。上の考え方を失えば、日本の生産力はグローバル競争の中で急落してしまうのだろう。その場合の混乱の度合いは誰にもわからない。だから正しい考えは保たれなければならない。
だが正しい考えの欠点は、時にそれが正しくなりすぎるということだ。
Doingの強調も、それがbeingの軽視を招くようなら、それはあまりにも正しすぎる。
その正しすぎる考えが支配する世の中では、子どもはdoingの予備軍としてのみ評価される。Doingの力をもたない高齢者あるいは障がい者は社会の負担にすぎない。男女共同参画社会では男も女もdoingを求められる。同僚がただ共にいるというくつろぎの空間も時間も限りなく減少する。子どもや高齢者のそばにいること、いや夫婦がただ共にいることもdoingのために犠牲を強いられる。家を美しく整え、そこでただくつろぐことなどもはや富裕層にしか許されていないのかもしれない。Beingはdoingのための必要悪である。最小限に抑えよ。Doingを最大化せよ。それが現代人だ。人々がただbeingを愛することを、現代は忘れかけている。今や誰がbeingを擁護しているというのだろう。
かつてゲーテの描くファウスト博士は、哲学・法学・医学・神学—その当時大学で教えられていた科目の全て—を学んだあげく、自分が「いぜんとしてこのとおりの哀れなバカ」であると落胆する。それでも新約聖書の「初めに言葉ありき」を「初めに行為ありき」と書き換える。そして悪魔メフィストテレスと契約する。もしファウストが「時よ、とどまれ、おまえはじつに美しい」と言ったなら、彼はよろこんで滅びてゆこうというのだ。ファウストは自分がそのように言うことはないと考えている。ただそうあるbeingが美しいということなどありえないというわけだ。ファウストはまさにdoingを信じている。
その後のファウストとメフィストテレスの多様な経験の詳細は本に任せるしかないが、ファウストは第二部の終わりで、干拓作業を夢見る。彼は語る。
「協同の意思こそ人知の至り尽くすところであって、日ごとに勤めるものは自由に生きる資格がある。どのように危険に取り巻かれていても、子供も大人も老人も、意味深い歳月を生きるそんな人々の群れつどう姿を見たいのだ。自由な土地を自由な人々とともに踏みしめたい。そのときこそ、時よ、とどまれ、おまえはじつに美しい、と呼びかけてやる」(池内紀訳)
この言葉を思わず語ったためにファウストは絶命する。ファウストは人々の平穏なbeingに美を見た。そこではdoingはbeingの中に調和しているだけだった。意味深く自由なbeingこそが究極だったのだ。
翻って現代。Doingは暴走していないか。Doingは次なるdoingばかりを求めていないか。Doingにdoingを重ねることによってしか私たちは生きられないとしていないか。それこそがbeingを守ることだと言っていないか。だがdoingが増加し激化するごとにbeingは損なわれていないか。
世の中にはdoingもbeingも必要だ。だが「初めにあった」のはdoingではない。おそらくはlogosでもない。「初めにあった」のは—言葉遊びのようだが—beingである。まさに初めには「ある」のだ。最初にbeingがある。そうしてそのbeingを保つためにdoingが必要となる。だがdoingはbeingのためにある。Doingがbeingとの調和を忘れ、doingのためにあると思い始めたとき、世界は暴走する。ちょうど、映画『鉄コン筋クリート』が象徴的に表現しているように。
この世があるということ。この世に人々がただ存在しているということ。そして願わくは、幸福に存在しているということ。これこそがdoingの目的である。この幸福な時間にdoingは停止しなければならない。「時よ、とどまれ、おまえはじつに美しい」と思わず語りたくなるほどにdoingは停止しなければならない。この停止はdoingの再開のための休憩ではない。Beingそのもののための停止である。Doingはbeingのためにある。Doingはbeingに奉仕する。その逆ではない。だが現代社会はその逆をしようとはしていないか。Beingがdoingの奴隷になっていないか。
池内紀訳の『ファウスト』は次の「神秘の合唱」で終わる。
うつろうものは
なべてかりもの
ないことがここに
おこり
ふしぎがここになされ
くおんのおんなが
われらをみちびく
Doingはうつろうものを次々に作り出す。かりものがかりものを生み出す。それは進歩である。だが進歩は止まることを知らない。進歩の暴走は時にbeingをつぶそうとする。
しかし、人々がこの世で暮らすとは、beingを享受するということだ。そして人々がこの世を継いでゆくということは奇跡を要するということだ。
奇跡とは、無から有が生まれること、新たなbeingの誕生である。
そうしてbeingを愛し、beingを整え、beingを保ち、beingを美しくする「永遠に女性的なるもの」が私たちを導く。
「久遠の女」を私達は失いつつあるのではないか。
ある仕事中毒者の反省
物心ついたころから真面目だとか勤勉だとか言われてきたが、これは別に私の有徳ではない。小さい頃に厳しく育てられれば自制も強くなろう。貧乏な家庭に育てば絶えず動き回らないと生き残れないことが身にしみてわかるだろう。私の勤労態度の根本は育ちから来ている。
貧乏から家庭内は不和だった。家族がそろう食事は、父と母がけんかばかりをしていた。子どもの私にはそれを調停する知恵も力量もなかった。ひたすらに早く食事を終え、自分の部屋にこもることを望みながら、両親のけんか、あるいはその予兆に耐えていた。
部屋にこもれば本があった。音楽があった。本は私にまったく違った世界を見せてくれた。音楽は日常では表現できない複雑な表現を私のために代弁してくれた。図書館とNHK-FMは私を支えてくれた。
学業はそれなりにできた。学業での認証も私の存在を支えてくれた。自然と勤勉になった。
本、音楽、学業への適性、これらが私をいわゆる「通常のコース」にとどめてくれた。どれかが欠けていて、かつ私にガッツがあったならばいわゆる不良になっていたかもしれない(しかし私は昔からヘタレだった)。
私が中学一年の時に父は脳溢血になった。彼は12年後に逝去するまで基本的に寝たきりだった。困ったのは母だった。父の商売の失敗からできた借金を払いながら私を育てた。その苦労には感謝している。というより一人の人間として偉大な努力だった。
しかし生活保護を受けていれば大学には進学できなかった。私はどうしても大学で勉強したかった。もっと本を読みたかった。母は生活保護を打ち切った。私は最初の数ヶ月だけ家賃をもらったものの、その後はすべて奨学金と授業料免除とバイトで自活した。
自活して勉強していたから、授業に対しては傲慢な態度を取っていた。ちょっとでも面白くない講義だと自分で本を読んで勉強した。休める授業はすべて休んだ。
大学では宗教哲学を勉強したいと高校生の時分には思っていた。小説家になりたいと夢想していたこともある。しかしそれでは飯は食えないという周囲の助言に、貧乏人の私は素直に従った。文学部でなく教育学部に進路先を変えた。高校の国語教師になって、好きな小説を読みながら、高校生に読書の喜びを伝えようと思っていた。
ところが共通一次試験で、偶然で高得点が取れた。「これなら英語科でも行けるよ」「国語より英語のほうが就職にも有利だよ、きっと」と周りに言われて、進路を変えた。高校時代に数学をすぐに捨てたり、世界史を真面目に勉強しなかったり、最後の最後で進路先を変えたりと、私の高校時代の学びには方針というものがなかった。
英語科に入ってすぐに後悔した。「よくわからぬ他人のことばを勉強して何になる」と思った。新入生歓迎会の飲み会で大先達にその疑問を思い切ってぶつけてみた。ていよくかわされた。後悔の念は増した。二年の頃、授業はほとんどさぼって自分でユング心理学ばかり勉強していた。心理学科に転科してやろうと思っていた。
しかし技能としての英語というのはまったく新しいチャレンジだった。ESSの課外活動でディクテーションとか暗誦とかは真面目に毎日続けた。悔しかったのだろう。コンプレックスに負けそうだったのだろう。どこかで自分の存在を自分で認めたかったのだろう。だから懸命に続けた。私の勤勉などそのくらいのものだ。
英語を勉強する者の常として留学に憧れた。大学で留学奨学金を得ればなんとかなるかもしれぬ。だが事務官はそれでも自己資金で最低100万円は必要だと冷静に告げた。
アルバイトを詰めに詰め込んだ。しばらく必死で働いた。グランドでソフトボールをしている奴の気が知れなかった。そんな時間があれば時給いくら稼げるとか、勉強がどれだけ進むとか計算していた。私の目的合理性がここで強化された。
しばらくすると20万円たまった。しかしため息をついた。この調子で100万円ためるなら、自分はためた時に人相が変わってしまっているだろうと思った。留学は諦めた。
悔しかった。英語圏で生活する人間はすべての時間が英語の勉強だと思い込んでいたからだ。金がないという理由だけでそんな人間に負けるのが嫌で嫌で仕方なかった。かくしてコンプレックスの強い力を得て、私は懸命に英語習得に励んだ。「留学する奴もやがては帰国する。帰国したら彼らの勉強のペースは落ちる。私はこのペースで勉強を続ければ、留学期こそは負けるかもしれないが、帰国後はかならず私が勝つ」と自分で自分に言い聞かせた。人に負けたくないという歪んだ根性だった。そもそも誰も競争などしていなかったのに。
大学四年次に割りのいいバイトを見つけた。そのバイトでなら院生生活も何とか自活でやってゆけそうだった。それまでサークルのESSで英語ばかりやっていて、肝心の読書をあまりやっていなかったことに気づいた自分は大学院に進学することを決めた。
修士課程1年目は何をやっているのか自分でもよくわからなかった。最初の半年は大学院を止めることばかり考えていた。後半は何を勉強していいのかまったくわからなかった。しかし冬に当時隆盛し始めていた認知科学のリーディングの本に巡り合った。ようやくディシプリンのあるまともな学問に会えたような気がした。修士論文はpsychology of readingの真似事をした。
毒食わば皿まで、と博士課程後期にも進学した(バイトもより割りのよいものを見つけていた)。科学的なアプローチでリーディングのプロセスを解明し、それによって教授法を導き出そうと思っていた。いや出せると思っていたし、出さなければ教育は遅れたままであるとすらも思っていた。ちょっと学問をして馬鹿になる典型だった。
ところがコミュニケーションの問題が起きた。早い話がつきあっていた彼女と別れたということだ。私は自分を言語の、ひいてはコミュニケーションの専門家だと早くも傲慢に思い込んでいた。それなのにこの現実は何か。しばらくするうちに心理言語学が、巧妙に作り上げられた知的ゲームのように思えてきた。心理言語学にリアリティを感じられなくなった。
そうやって煩悶していた冬、生協食堂の外を歩いていたら、ふと半年前に他研究科で学んだウィトゲンシュタインが言いたかったことが一瞬にしてわかったような気がした。妄想だろう。だが妄想こそは人にエネルギーを与える。私はウィトゲンシュタイン全集を即刻注文し、それを読み始めた。
心理言語学の発想からウィトゲンシュタイン哲学へと自分の発想が転換するのに一年半ぐらいかかったと思う。その間、論文などまったく書けなかった。やがてようやく習作を書き始めたが、もちろん周囲の反応は「それ何ですか?明日の授業にどう役立つのですか?」だった。私は教育実践・教育研究における哲学の意義を直観的には把握していた(少なくともそう信じていた)。だが具体的に説明できなかった。しかし私にとっての哲学は、別れによって生じた自分の穴を埋めるために不可欠のものでもあった。私は頑迷に我流で哲学を読み続けた。
やがて幸運なことにある大学で英語教師としての職を得ることができた。リベラルな学部だったので、自分で好きなことが勉強できた。途中仏教哲学にはまったこともある。やがて(当時流行していた)複雑系の議論に興味を持ち、ハイエクを読み始めた。寛容な留学をさせてもらい(というより自分勝手な留学だった)、デイヴィドソン哲学の面白さを知った(スピノザの面白さをも学んだのだが、こちらはまだ勉強できていない)。
やがて大学を変わり、教育学部に就職した。教育学部では勝手な哲学オタクであることは許されなかった。どうあっても博士論文を書けと厳命を受けていた。ある晩帰宅途中の電車の中で、チョムスキーによるデイヴィドソン批判を読んでいた。「これだ!」と思った。この対立を軸に、応用言語学のコミュニケーション能力論を描きなおせばなんとかなると直感した。そこから博士論文にかけての勉強が本格的にスタートした。
その頃私は結婚して数年目だった。最初の頃は夕方には大学を出て早く帰宅していた。週末の休みは二人で街を歩いていた。
だがやがて仕事が増え始めた。それと同時に私の野心もふくれあがりはじめた。私のコンプレックスはまだ解消されていなかったのだろう。次々に仕事を引き受けた。大学行政の仕事も多くなった。専門科目を教えることの難しさがわかるにつれ、授業の準備時間も長くなった。
往復三時間以上の通勤時間を厭い始め、私は「合理的なシステム」を編み出した。週二日(時に三日)大学に泊まって仕事をし、残りの日は早く帰って妻と時間を過ごすというやり方だ。通勤による疲労のことを考えても、宿泊による長時間の集中的な仕事という点で考えても合理的だと私は信じて疑わなかった。
だが私が泊まった晩、妻はいつも長電話してきた。私はそれなりに愛想よく応えていた。しかしそのようなおざなりの会話を彼女は欲していたわけではなかった。彼女はおそらく人間と人間として空間と時間を共有したかったのだろう。だが、小さい頃から個室にこもり勉強をすることに慣れきっていた私は彼女のそんな欲求がわからずにいた。
結婚から五年後、幸せな関係は不幸な破局に終わった。離婚時私は怒っていた。怒ることによって自分の正しさを不問の前提としたかったのだろう。あくまでも自分は真面目で勤勉に仕事をする正しい男である、と思っていた。言うまでもなく、これは最低の野郎である。だが私は最高を目指して働く仕事人だと思っていた。だから離婚して半年間、博士論文が完成するまでは、私はごく限られた親友以外には離婚のことは伝えなかった。同僚には博士論文の完成の目処がついて初めて知らせた。途中で同僚に伝えると仕事人としての自分が崩壊してしまうと私は恐れていた。
離婚後私はすぐに次の合理的なシステムを作った。大学の近くに居を構えた。大学に泊まらずとも朝から晩まで仕事ができた。食事は生協食堂に任せた。朝8時に研究室に着き、昼食と早めの夕食をはさんで夜10時、11時まで働いた。深夜12時を越えて働くこともめずらしくなかった。出張仕事も多く入れた。土日はほとんどが出張だった。出張のない週末は、土曜に働き、日曜に教会に行った後働いた(私は離婚の苦しさからキリスト教に救いを求めていた)。毎日毎週毎月毎年、体力が尽きるまで働いた。どこかで仕事だけが自分の人生でしかないことを察知していたのだろう。外では「よく働くいい先生」という世評を欲しながら。
しかし生身の人間は「合理的なシステム」だけには耐えられない。離婚前から発症していた鬱病は、大学の近く居を構えてからも時折私を苦しめた。全身疲労がはなはだしく、キーボードに載せた自分の腕が鉛のようだった。日内変動ということで特に午前中は疲労感と希望の喪失で授業以外はほとんど何もできなかった(面白いもので、授業に出るとどこか「面白がってもらおう」と何とか身体が動いた。ただ時にはとてもしんどく、90分間ほとんど椅子にすわったままというのも何度かあったが)。本当に苦しい時は音楽も聴けなかった。方々で義理を欠いた。年賀状の返事を出さない(というより出せない)失礼を私はどれだけ多くの方々にしたことだろう。鬱病の経験のない方には理解しがたいかもしれないが、本当に苦しい時は、何もできない。健康な自分なら1分でできることの存在が、できない自分を苦しめ続ける。30分も1時間も、時には数日も。
昨年は7月に疲れがどっとでた。全身疲労。日内変動。授業はなんとかできるが本が読めない。読んでも頭が真っ白になって頭に入ってこない。複雑な事務仕事ができない。頭が回らない。脳を含む全身が徹底的に疲れ果てていた。秋になるまでその疲れを私は引きずってしまった。
そして今年の7月。またもや同じ症状に襲われた。考えてみれば昨年と同じような生活をしている。一月は年賀状の返事書きを終えないうちに長期出張、さらに複数の短期出張、2月に学会発表、大学院と学部の入試、複数の短期出張、3月は各種年度末事務書類提出、長期出張、複数の短期出張、論文投稿。ここらで実はヘトヘトなのであるが、4月に新入生が入ってくると張り切ってしまうのが外面の良い馬鹿である。お互いの緊張の中での授業やゼミ。しかし二つの長期出張、一つの学会講演。5月の連休は遅れた仕事を取り戻す時期である。そしてまた長期出張、複数の短期出張。6月で梅雨の低気圧に身体が重く感じられる頃、また長期出張と短期出張、そしてきついのが月末の学会発表。この学会は所属大学が深く関与しているから、ぜひとも発表しなければならない。しかしもちろんのことながらいいかげんな発表はできない。そこで疲れきったところに今年は原稿用紙40枚の原稿を書かなければならなかった。それが終わって長期出張。さらに別箇所から緊急な原稿依頼。これが終わったあたりで、私の頭は真っ白になっていた。疲労が全身を襲った。
去年にこりて私はひたすらスローダウンした。研究は全く断念した。授業は時々頭が働かなくなるがこれまでの経験で何とかやりこなした(ひどい教師だ)。行政では迷惑をかけた。穴の多い仕事をしかも締め切り後に何度も出してしまった。メールの返事をはじめとして、いたるところで義理を欠いた。それでも何もできなかった。夕方6時には大学を出て、家でひたすら静養した。テレビも音楽も読書もしばらく身体が受けつけなかった。睡眠障害なのか、ひたすら寝られる夜もあれば、一晩中半覚醒のままの夜もあった。
昨年よりは早めにかかりつけの医者に行った。去年と同じ薬を処方された。自助努力としてもビタミン・ミネラルなどの効果的な摂取を心がけた。すこしずつ、全身の鉛が軽くなってきた。朝もまともな状態でいることができるようになってきた。今はおそらく普通の体調に戻っていると思う。最悪の時期と比べると、全く別の人間、別の人生だ。言い古されたことだが、健康ほど大切なものはない。
この駄文も実は家で、リハビリ代わりに書きためていたものだ。大半が自己正当化や自己憐憫になっているだろうが、それでも書く事で多少は自分の半生あるいは生き方を振り返ることができる。それに若い人がこの駄文を読んで、少しでもこのような生き方の愚かさを学び、自らは断じて避けてくれればそれは望外の喜びではないか。
とりあえずここで仕事中毒というほどの私の真面目さと勤勉さについてまとめてみる。
根本は幼少の頃の育ちである。小・中・高の頃は家庭の不和から逃げるためである。部屋にこもって勉強すれば学校で他人から認められたからだ。家族からの無条件の認証ではなく他人からの条件付きの認証をよすがにしていたのだろう。大学の学部時代もコンプレックスから勉強していた。大学院時代は自分の欠損部分を埋めるため勉強した。
第一の職場で自由に勉強したのは、喜ばしい間奏曲のようなものだ。
現在の職場に変わってからは博士論文を期日までに完成させるためにひたすら勉強した。
離婚してからはおそらく自分の空虚さを忘れるため、そして外からの世評を得るために、仕事ばかりをした。
もちろん私の仕事(研究・教育)がすべて私の不全感を解消するためになされているというのも極端な見解である。研究と教育には、それぞれに他では得られない充足感がある。まず読書を通じて自分の知的世界がどんどん深く広く複雑になってゆくことは純粋な快感である。また授業や書き物を通じて、他者と結びつくことができるということも喜びだ。学生さんとの面談ではむしろ私の方が学んでいるぐらいだ。だから、私は仕事のし過ぎによって自らを壊しているが、仕事自体からは生きる意味をもらっている。その意味では私は自分にとってこれ以上ない幸運な職業選択をしているといえる。ただその職業生活において私が何かを歪ませているのだ。
ともあれ仕事中毒は進行し、二年連続同じように体調を崩した。
今回は特に、何もせずに、ただぼんやりするしかできなかった。
でもきっとそれが大切なことだったのだろう。
私は「何か仕事をする」ではなく「ただ存在する」という生のあり方を学び始めている。
ただある場所にいる。
特段何をするわけでもない。というより何をせずともそれだけでくつろぐ。
そんな「存在」の幸福を私はあまり知らなかったのではないか。
ぽつねんと、ただいる。あるいは在る。
いずれにせよ、ただ在ろうとすれば、おのずとその周りの世界は美しい世界であることを私たちは望む。なぜなら私たちは世界の中に存在する以外のことをしていないのだから。かくして人は部屋を整え、何も生産しない飾り物を置き、やがては枯れるだけの生花を活け、やがては伸びる庭を手入れし、そうしてぼんやりと座る。語り合う。あるいは語り合うこともせず、ただ共にいる。これは確実に人生のあり方の一つである。
しかし私はこの存在という人生の喜びをほとんど知らなかった。それどころか、存在を犠牲にして仕事の生産性を高めることばかりに血道を上げてきた。無論、この合理的な態度は近代社会に必ず伴うものである。合理的な仕事がなければ、私たちは高層建築に昇ることも、飛行機を利用することもない。
だが時に仕事は存在を敵とみなす。あるいは無能だとみなす。
逆に、存在からすれば、仕事は、時に自分たちを侵食し否定する敵に見える。あるいは有能で正しすぎるから、どうしても好きになれないと思ってしまう。
だが象徴的な意味での<男>と<女>が敵対関係にあるのではなく、相補的関係にあるように「仕事」と「存在」は相補的関係にある。
相補的といっても先行するのは存在である。存在こそは私たちの生の目的である。仕事は存在に奉仕する限りにおいて認められる。仕事が存在に取って代わることはない(ちょうど存在が仕事の代わりはできないように)。仕事の暴走が存在を損ねることはあってはならない。それは大きく言うなら地球に住む生物としてやってはならないことである。
話が大きくなりすぎてしまったが、私の仕事が中毒のように暴走し、私の存在を損ねるというのは、実は私自身の問題だけではない。バランスを失った私は、気がつかないうちに、周りの存在を損なっているだろう(早い話が私は元妻を損なった)。それは周りへの過剰な要求によって損なっているのかもしれない。何気ない瞬間に私が不要に緊張した顔を見せていることによって損なっているのかもしれない。乱雑な部屋(というよりゴミ箱のような部屋)を学生や同僚に見せることによって彼/彼女らの正常なバランス感覚を損なっているのかもしれない。親切な彼/彼女らは言う。「いや、先生はお忙しいですから、こんなになってもしかたないですよ」。いや違う。心が亡びているだけなのだ。必要な物が自分から最短距離に乱雑に置かれた部屋の合理性は実は高い。その仕事の合理性によって、存在の喜び、存在の美、ただその部屋にいることの幸福を、すべて忘れきっている私の歪が彼/彼女らにも伝播しているかもしれない。
私は生き方を変えなければならない。
たとえ少しずつにせよ。
リハビリを兼ねて部屋の大掃除をした。
散らかされた物やゴミを一つ一つあるべきところに収めてゆくことは、大げさに言うならこれまでの業を一つ一つ消してゆくことのようにすら思えた。
部屋は前よりはましになった。
いつまで続くか。
それはひとえに私が存在の美をどれだけ心から感じることにかかっている。
ただ在ることの至福を私はいつになったら学べるのだろう。
仕事で存在を忘れようとしてはいけない。
存在の欠損を仕事で補おうとしてはならない。
互いに異なるものとしての存在と仕事を共に受け入れなければならない。
そして仕事を存在に調和的に奉仕させなければならない。
人間の価値は仕事にではなく、存在にある。
貧乏から家庭内は不和だった。家族がそろう食事は、父と母がけんかばかりをしていた。子どもの私にはそれを調停する知恵も力量もなかった。ひたすらに早く食事を終え、自分の部屋にこもることを望みながら、両親のけんか、あるいはその予兆に耐えていた。
部屋にこもれば本があった。音楽があった。本は私にまったく違った世界を見せてくれた。音楽は日常では表現できない複雑な表現を私のために代弁してくれた。図書館とNHK-FMは私を支えてくれた。
学業はそれなりにできた。学業での認証も私の存在を支えてくれた。自然と勤勉になった。
本、音楽、学業への適性、これらが私をいわゆる「通常のコース」にとどめてくれた。どれかが欠けていて、かつ私にガッツがあったならばいわゆる不良になっていたかもしれない(しかし私は昔からヘタレだった)。
私が中学一年の時に父は脳溢血になった。彼は12年後に逝去するまで基本的に寝たきりだった。困ったのは母だった。父の商売の失敗からできた借金を払いながら私を育てた。その苦労には感謝している。というより一人の人間として偉大な努力だった。
しかし生活保護を受けていれば大学には進学できなかった。私はどうしても大学で勉強したかった。もっと本を読みたかった。母は生活保護を打ち切った。私は最初の数ヶ月だけ家賃をもらったものの、その後はすべて奨学金と授業料免除とバイトで自活した。
自活して勉強していたから、授業に対しては傲慢な態度を取っていた。ちょっとでも面白くない講義だと自分で本を読んで勉強した。休める授業はすべて休んだ。
大学では宗教哲学を勉強したいと高校生の時分には思っていた。小説家になりたいと夢想していたこともある。しかしそれでは飯は食えないという周囲の助言に、貧乏人の私は素直に従った。文学部でなく教育学部に進路先を変えた。高校の国語教師になって、好きな小説を読みながら、高校生に読書の喜びを伝えようと思っていた。
ところが共通一次試験で、偶然で高得点が取れた。「これなら英語科でも行けるよ」「国語より英語のほうが就職にも有利だよ、きっと」と周りに言われて、進路を変えた。高校時代に数学をすぐに捨てたり、世界史を真面目に勉強しなかったり、最後の最後で進路先を変えたりと、私の高校時代の学びには方針というものがなかった。
英語科に入ってすぐに後悔した。「よくわからぬ他人のことばを勉強して何になる」と思った。新入生歓迎会の飲み会で大先達にその疑問を思い切ってぶつけてみた。ていよくかわされた。後悔の念は増した。二年の頃、授業はほとんどさぼって自分でユング心理学ばかり勉強していた。心理学科に転科してやろうと思っていた。
しかし技能としての英語というのはまったく新しいチャレンジだった。ESSの課外活動でディクテーションとか暗誦とかは真面目に毎日続けた。悔しかったのだろう。コンプレックスに負けそうだったのだろう。どこかで自分の存在を自分で認めたかったのだろう。だから懸命に続けた。私の勤勉などそのくらいのものだ。
英語を勉強する者の常として留学に憧れた。大学で留学奨学金を得ればなんとかなるかもしれぬ。だが事務官はそれでも自己資金で最低100万円は必要だと冷静に告げた。
アルバイトを詰めに詰め込んだ。しばらく必死で働いた。グランドでソフトボールをしている奴の気が知れなかった。そんな時間があれば時給いくら稼げるとか、勉強がどれだけ進むとか計算していた。私の目的合理性がここで強化された。
しばらくすると20万円たまった。しかしため息をついた。この調子で100万円ためるなら、自分はためた時に人相が変わってしまっているだろうと思った。留学は諦めた。
悔しかった。英語圏で生活する人間はすべての時間が英語の勉強だと思い込んでいたからだ。金がないという理由だけでそんな人間に負けるのが嫌で嫌で仕方なかった。かくしてコンプレックスの強い力を得て、私は懸命に英語習得に励んだ。「留学する奴もやがては帰国する。帰国したら彼らの勉強のペースは落ちる。私はこのペースで勉強を続ければ、留学期こそは負けるかもしれないが、帰国後はかならず私が勝つ」と自分で自分に言い聞かせた。人に負けたくないという歪んだ根性だった。そもそも誰も競争などしていなかったのに。
大学四年次に割りのいいバイトを見つけた。そのバイトでなら院生生活も何とか自活でやってゆけそうだった。それまでサークルのESSで英語ばかりやっていて、肝心の読書をあまりやっていなかったことに気づいた自分は大学院に進学することを決めた。
修士課程1年目は何をやっているのか自分でもよくわからなかった。最初の半年は大学院を止めることばかり考えていた。後半は何を勉強していいのかまったくわからなかった。しかし冬に当時隆盛し始めていた認知科学のリーディングの本に巡り合った。ようやくディシプリンのあるまともな学問に会えたような気がした。修士論文はpsychology of readingの真似事をした。
毒食わば皿まで、と博士課程後期にも進学した(バイトもより割りのよいものを見つけていた)。科学的なアプローチでリーディングのプロセスを解明し、それによって教授法を導き出そうと思っていた。いや出せると思っていたし、出さなければ教育は遅れたままであるとすらも思っていた。ちょっと学問をして馬鹿になる典型だった。
ところがコミュニケーションの問題が起きた。早い話がつきあっていた彼女と別れたということだ。私は自分を言語の、ひいてはコミュニケーションの専門家だと早くも傲慢に思い込んでいた。それなのにこの現実は何か。しばらくするうちに心理言語学が、巧妙に作り上げられた知的ゲームのように思えてきた。心理言語学にリアリティを感じられなくなった。
そうやって煩悶していた冬、生協食堂の外を歩いていたら、ふと半年前に他研究科で学んだウィトゲンシュタインが言いたかったことが一瞬にしてわかったような気がした。妄想だろう。だが妄想こそは人にエネルギーを与える。私はウィトゲンシュタイン全集を即刻注文し、それを読み始めた。
心理言語学の発想からウィトゲンシュタイン哲学へと自分の発想が転換するのに一年半ぐらいかかったと思う。その間、論文などまったく書けなかった。やがてようやく習作を書き始めたが、もちろん周囲の反応は「それ何ですか?明日の授業にどう役立つのですか?」だった。私は教育実践・教育研究における哲学の意義を直観的には把握していた(少なくともそう信じていた)。だが具体的に説明できなかった。しかし私にとっての哲学は、別れによって生じた自分の穴を埋めるために不可欠のものでもあった。私は頑迷に我流で哲学を読み続けた。
やがて幸運なことにある大学で英語教師としての職を得ることができた。リベラルな学部だったので、自分で好きなことが勉強できた。途中仏教哲学にはまったこともある。やがて(当時流行していた)複雑系の議論に興味を持ち、ハイエクを読み始めた。寛容な留学をさせてもらい(というより自分勝手な留学だった)、デイヴィドソン哲学の面白さを知った(スピノザの面白さをも学んだのだが、こちらはまだ勉強できていない)。
やがて大学を変わり、教育学部に就職した。教育学部では勝手な哲学オタクであることは許されなかった。どうあっても博士論文を書けと厳命を受けていた。ある晩帰宅途中の電車の中で、チョムスキーによるデイヴィドソン批判を読んでいた。「これだ!」と思った。この対立を軸に、応用言語学のコミュニケーション能力論を描きなおせばなんとかなると直感した。そこから博士論文にかけての勉強が本格的にスタートした。
その頃私は結婚して数年目だった。最初の頃は夕方には大学を出て早く帰宅していた。週末の休みは二人で街を歩いていた。
だがやがて仕事が増え始めた。それと同時に私の野心もふくれあがりはじめた。私のコンプレックスはまだ解消されていなかったのだろう。次々に仕事を引き受けた。大学行政の仕事も多くなった。専門科目を教えることの難しさがわかるにつれ、授業の準備時間も長くなった。
往復三時間以上の通勤時間を厭い始め、私は「合理的なシステム」を編み出した。週二日(時に三日)大学に泊まって仕事をし、残りの日は早く帰って妻と時間を過ごすというやり方だ。通勤による疲労のことを考えても、宿泊による長時間の集中的な仕事という点で考えても合理的だと私は信じて疑わなかった。
だが私が泊まった晩、妻はいつも長電話してきた。私はそれなりに愛想よく応えていた。しかしそのようなおざなりの会話を彼女は欲していたわけではなかった。彼女はおそらく人間と人間として空間と時間を共有したかったのだろう。だが、小さい頃から個室にこもり勉強をすることに慣れきっていた私は彼女のそんな欲求がわからずにいた。
結婚から五年後、幸せな関係は不幸な破局に終わった。離婚時私は怒っていた。怒ることによって自分の正しさを不問の前提としたかったのだろう。あくまでも自分は真面目で勤勉に仕事をする正しい男である、と思っていた。言うまでもなく、これは最低の野郎である。だが私は最高を目指して働く仕事人だと思っていた。だから離婚して半年間、博士論文が完成するまでは、私はごく限られた親友以外には離婚のことは伝えなかった。同僚には博士論文の完成の目処がついて初めて知らせた。途中で同僚に伝えると仕事人としての自分が崩壊してしまうと私は恐れていた。
離婚後私はすぐに次の合理的なシステムを作った。大学の近くに居を構えた。大学に泊まらずとも朝から晩まで仕事ができた。食事は生協食堂に任せた。朝8時に研究室に着き、昼食と早めの夕食をはさんで夜10時、11時まで働いた。深夜12時を越えて働くこともめずらしくなかった。出張仕事も多く入れた。土日はほとんどが出張だった。出張のない週末は、土曜に働き、日曜に教会に行った後働いた(私は離婚の苦しさからキリスト教に救いを求めていた)。毎日毎週毎月毎年、体力が尽きるまで働いた。どこかで仕事だけが自分の人生でしかないことを察知していたのだろう。外では「よく働くいい先生」という世評を欲しながら。
しかし生身の人間は「合理的なシステム」だけには耐えられない。離婚前から発症していた鬱病は、大学の近く居を構えてからも時折私を苦しめた。全身疲労がはなはだしく、キーボードに載せた自分の腕が鉛のようだった。日内変動ということで特に午前中は疲労感と希望の喪失で授業以外はほとんど何もできなかった(面白いもので、授業に出るとどこか「面白がってもらおう」と何とか身体が動いた。ただ時にはとてもしんどく、90分間ほとんど椅子にすわったままというのも何度かあったが)。本当に苦しい時は音楽も聴けなかった。方々で義理を欠いた。年賀状の返事を出さない(というより出せない)失礼を私はどれだけ多くの方々にしたことだろう。鬱病の経験のない方には理解しがたいかもしれないが、本当に苦しい時は、何もできない。健康な自分なら1分でできることの存在が、できない自分を苦しめ続ける。30分も1時間も、時には数日も。
昨年は7月に疲れがどっとでた。全身疲労。日内変動。授業はなんとかできるが本が読めない。読んでも頭が真っ白になって頭に入ってこない。複雑な事務仕事ができない。頭が回らない。脳を含む全身が徹底的に疲れ果てていた。秋になるまでその疲れを私は引きずってしまった。
そして今年の7月。またもや同じ症状に襲われた。考えてみれば昨年と同じような生活をしている。一月は年賀状の返事書きを終えないうちに長期出張、さらに複数の短期出張、2月に学会発表、大学院と学部の入試、複数の短期出張、3月は各種年度末事務書類提出、長期出張、複数の短期出張、論文投稿。ここらで実はヘトヘトなのであるが、4月に新入生が入ってくると張り切ってしまうのが外面の良い馬鹿である。お互いの緊張の中での授業やゼミ。しかし二つの長期出張、一つの学会講演。5月の連休は遅れた仕事を取り戻す時期である。そしてまた長期出張、複数の短期出張。6月で梅雨の低気圧に身体が重く感じられる頃、また長期出張と短期出張、そしてきついのが月末の学会発表。この学会は所属大学が深く関与しているから、ぜひとも発表しなければならない。しかしもちろんのことながらいいかげんな発表はできない。そこで疲れきったところに今年は原稿用紙40枚の原稿を書かなければならなかった。それが終わって長期出張。さらに別箇所から緊急な原稿依頼。これが終わったあたりで、私の頭は真っ白になっていた。疲労が全身を襲った。
去年にこりて私はひたすらスローダウンした。研究は全く断念した。授業は時々頭が働かなくなるがこれまでの経験で何とかやりこなした(ひどい教師だ)。行政では迷惑をかけた。穴の多い仕事をしかも締め切り後に何度も出してしまった。メールの返事をはじめとして、いたるところで義理を欠いた。それでも何もできなかった。夕方6時には大学を出て、家でひたすら静養した。テレビも音楽も読書もしばらく身体が受けつけなかった。睡眠障害なのか、ひたすら寝られる夜もあれば、一晩中半覚醒のままの夜もあった。
昨年よりは早めにかかりつけの医者に行った。去年と同じ薬を処方された。自助努力としてもビタミン・ミネラルなどの効果的な摂取を心がけた。すこしずつ、全身の鉛が軽くなってきた。朝もまともな状態でいることができるようになってきた。今はおそらく普通の体調に戻っていると思う。最悪の時期と比べると、全く別の人間、別の人生だ。言い古されたことだが、健康ほど大切なものはない。
この駄文も実は家で、リハビリ代わりに書きためていたものだ。大半が自己正当化や自己憐憫になっているだろうが、それでも書く事で多少は自分の半生あるいは生き方を振り返ることができる。それに若い人がこの駄文を読んで、少しでもこのような生き方の愚かさを学び、自らは断じて避けてくれればそれは望外の喜びではないか。
とりあえずここで仕事中毒というほどの私の真面目さと勤勉さについてまとめてみる。
根本は幼少の頃の育ちである。小・中・高の頃は家庭の不和から逃げるためである。部屋にこもって勉強すれば学校で他人から認められたからだ。家族からの無条件の認証ではなく他人からの条件付きの認証をよすがにしていたのだろう。大学の学部時代もコンプレックスから勉強していた。大学院時代は自分の欠損部分を埋めるため勉強した。
第一の職場で自由に勉強したのは、喜ばしい間奏曲のようなものだ。
現在の職場に変わってからは博士論文を期日までに完成させるためにひたすら勉強した。
離婚してからはおそらく自分の空虚さを忘れるため、そして外からの世評を得るために、仕事ばかりをした。
もちろん私の仕事(研究・教育)がすべて私の不全感を解消するためになされているというのも極端な見解である。研究と教育には、それぞれに他では得られない充足感がある。まず読書を通じて自分の知的世界がどんどん深く広く複雑になってゆくことは純粋な快感である。また授業や書き物を通じて、他者と結びつくことができるということも喜びだ。学生さんとの面談ではむしろ私の方が学んでいるぐらいだ。だから、私は仕事のし過ぎによって自らを壊しているが、仕事自体からは生きる意味をもらっている。その意味では私は自分にとってこれ以上ない幸運な職業選択をしているといえる。ただその職業生活において私が何かを歪ませているのだ。
ともあれ仕事中毒は進行し、二年連続同じように体調を崩した。
今回は特に、何もせずに、ただぼんやりするしかできなかった。
でもきっとそれが大切なことだったのだろう。
私は「何か仕事をする」ではなく「ただ存在する」という生のあり方を学び始めている。
ただある場所にいる。
特段何をするわけでもない。というより何をせずともそれだけでくつろぐ。
そんな「存在」の幸福を私はあまり知らなかったのではないか。
ぽつねんと、ただいる。あるいは在る。
いずれにせよ、ただ在ろうとすれば、おのずとその周りの世界は美しい世界であることを私たちは望む。なぜなら私たちは世界の中に存在する以外のことをしていないのだから。かくして人は部屋を整え、何も生産しない飾り物を置き、やがては枯れるだけの生花を活け、やがては伸びる庭を手入れし、そうしてぼんやりと座る。語り合う。あるいは語り合うこともせず、ただ共にいる。これは確実に人生のあり方の一つである。
しかし私はこの存在という人生の喜びをほとんど知らなかった。それどころか、存在を犠牲にして仕事の生産性を高めることばかりに血道を上げてきた。無論、この合理的な態度は近代社会に必ず伴うものである。合理的な仕事がなければ、私たちは高層建築に昇ることも、飛行機を利用することもない。
だが時に仕事は存在を敵とみなす。あるいは無能だとみなす。
逆に、存在からすれば、仕事は、時に自分たちを侵食し否定する敵に見える。あるいは有能で正しすぎるから、どうしても好きになれないと思ってしまう。
だが象徴的な意味での<男>と<女>が敵対関係にあるのではなく、相補的関係にあるように「仕事」と「存在」は相補的関係にある。
相補的といっても先行するのは存在である。存在こそは私たちの生の目的である。仕事は存在に奉仕する限りにおいて認められる。仕事が存在に取って代わることはない(ちょうど存在が仕事の代わりはできないように)。仕事の暴走が存在を損ねることはあってはならない。それは大きく言うなら地球に住む生物としてやってはならないことである。
話が大きくなりすぎてしまったが、私の仕事が中毒のように暴走し、私の存在を損ねるというのは、実は私自身の問題だけではない。バランスを失った私は、気がつかないうちに、周りの存在を損なっているだろう(早い話が私は元妻を損なった)。それは周りへの過剰な要求によって損なっているのかもしれない。何気ない瞬間に私が不要に緊張した顔を見せていることによって損なっているのかもしれない。乱雑な部屋(というよりゴミ箱のような部屋)を学生や同僚に見せることによって彼/彼女らの正常なバランス感覚を損なっているのかもしれない。親切な彼/彼女らは言う。「いや、先生はお忙しいですから、こんなになってもしかたないですよ」。いや違う。心が亡びているだけなのだ。必要な物が自分から最短距離に乱雑に置かれた部屋の合理性は実は高い。その仕事の合理性によって、存在の喜び、存在の美、ただその部屋にいることの幸福を、すべて忘れきっている私の歪が彼/彼女らにも伝播しているかもしれない。
私は生き方を変えなければならない。
たとえ少しずつにせよ。
リハビリを兼ねて部屋の大掃除をした。
散らかされた物やゴミを一つ一つあるべきところに収めてゆくことは、大げさに言うならこれまでの業を一つ一つ消してゆくことのようにすら思えた。
部屋は前よりはましになった。
いつまで続くか。
それはひとえに私が存在の美をどれだけ心から感じることにかかっている。
ただ在ることの至福を私はいつになったら学べるのだろう。
仕事で存在を忘れようとしてはいけない。
存在の欠損を仕事で補おうとしてはならない。
互いに異なるものとしての存在と仕事を共に受け入れなければならない。
そして仕事を存在に調和的に奉仕させなければならない。
人間の価値は仕事にではなく、存在にある。
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