2008年4月30日水曜日

ヘラヘラして勉強しない若者へのおじさん的おせっかい

以下は、勉強しないどころか、勉強することに対してヘラヘラ笑い続け、テレビばかり見て読書もせず、ミクシィと携帯ばかりいじくっている一部の(あるいは多くの)若者へ向けての、あるおじさん(筆者)からのおせっかい的発言である。また、これは30分で書き上げた駄文でもあることを先に断っておく。この時点で以下の「字の多い」ブログを読む意欲を失ったなら、どうぞこの時点で他のサイトに行ってほしい。


■未来に関してはピーター・ドラッカーの至言が素晴らしい。「未来に関して私たちは二つのことしか知らない。第一に私たちは未来に関して何も知らない。第二に私たちが現在未来に関して予想していることはすべて外れる」。したがって、以下に書く私の未来予測は、愚者の戯言である。


■だが、未来のことを考える前に過去のことを少し振り返っておこう。

■日本から仕事を求めて海外に移民したのは、1893年のグアテマラ移民をきっかけにして始まり、アメリカ合衆国(特にカリフォルニア州)とブラジル(特にサン・パウロ州とパラナ州)が圧倒的に多かった。だが、戦後日本の経済復興に伴い1960年代に移民希望者は減り始め、1980年代にはほとんどわずかなものとなった。(参考:「日系人」 )

■だから今から約50年前には、日本で仕事がなければ海外に働きに行くという発想は日本にあった。

■だがこの戦後の高度経済成長は、世界市場でも特筆すべき発展であり、この経済成長は常態よりは例外的事態として考えられるべきかもしれない。(参考:「高度経済成長」)

■さて、日本人の多くは日清戦争以来、中国を何か一段と低い国のように捉えてきた。

■しかし、そもそも日本と中国の関係で、日本が優位に立っていたと多くの日本人が思っていたのは、日清戦争終了の1985年(明治28年)ぐらいからの一世紀ぐらいではないか。(付言するなら、この間も中国に対して敬意を払ってきた日本人は多くいるし、逆に現在、あるいは未来においても中国に対して否定的な感情を持つ日本人は少なくないだろう)。

■仮に過去一世紀ぐらいの間、日本の国力が中国の国力より勝っていたとしても(あくまでも仮の話だ)、長い歴史から考えれば、それは例外的事態であり、常態とみなすべきではないだろう。

■現在、日本で「移民」について語られるとき、それは主に「いかにしてこれからの日本が移民を受け入れるか(それとも受け入れないのか)」という論点で語られがちだ。

■しかし、そもそも今後の日本が、多くの労働者にとって魅力のある国であり続けるのかに関しては疑問がないわけでない。

■財政破綻から税金が上がり、教育程度の凋落から国力が落ち続け、貨幣価値が下がり続けるならば、日本は移民を受け入れる国というよりは、移民を出す国になるかもしれない。

■現在、日本で「海外に働きに行く」というなら、知的仕事で働きに行くということがしばしば意味されているが、これが「海外に出稼ぎに行く」という言葉に代わり、意味も単純労働の意味に変わるかもしれないことは十分ありうる。

■NHKの「クローズアップ現代」によれば、OECDの中で唯一日本だけが近年教育予算を減らしている(出典情報なし)。

■大学の現場でも学生の学ぶ意欲の減退、学力の低下は著しい。筆者の近辺で、これを最も痛切に感じている者の一人は、私の知る生協食堂の従業員である。彼女は「もう最近の学生さんはひどい。一から十まで言わないと何にもできない」、「漢字もまともに読めない子が増えてきた」と嘆く。私は彼女に反論すべき術を知らない。

■一方例えば英語圏では、USEFUL ONLINE RESOURCES FOR APPLIED LINGUISTS に示したような環境は当たり前であり、このような知的リソースをさらに相互作用で豊かにしながら勉強している。日本人の学生が「図書室に行ったんすけど、資料とか何にもないっすよ」とゼミで報告するようなことは少なくとも英語圏では考えがたい。

■上でも述べてきたように、最近の若者の多くはまともに日本語で読み書きができない。新聞は「取っていない」のではなく「読めない」。音読させれば音読できるかもしれないが、論説記事の趣旨などは理解できない。自分で本を選ぶこともできない。新書は「難しい本」であり、ケータイ小説などこそが心から共感できる本である。

■最近子どもが映画館に行かなくなったと言われているが、それは子どもが二時間あまりのストーリーに集中できなくなっているからではないかと筆者は愚考する(出典情報および証拠なし)。少なくとも現在の子どもがラジオドラマを聞いて長時間、音声言語だけから生き生きとした想像力でストーリーを楽しむということは考えがたい(もちろん例外的に頭のよい子はたくさんいるが)。

■映画ファンやドラマファンの多くが言うことであるが、日本の映画やドラマは、アメリカの映画やドラマ(完全に大衆向けのものは除く)に比べて、おそろしくストーリーが単純で、テンポが遅く、「ベタベタ」に筋が語られる。私の友人は、これは日本の観客が複雑でスピーディで含意に富んだ展開を消化できなくなっているからではないかと語る(これも反例はたくさんあるだろう。だが一般的傾向としてこのようなことはあたっているように私は思う)。

■しかるにこれまで「発展途上国」と言われていた国では、グローバリゼーションをチャンスと見なそうとして、多くの若者が貪欲に学ぼうとしている。

■したがってこのまま単純に未来予測するなら、日本の若者の知的競争力は、他の多くの国の若者の知的競争力に比べてどんどん劣るものとなるだろう。知的競争力に大敗するなら、後は肉体労働で生きるしかなくなる。

■現在、例えばメキシコからアメリカに多くの人が移民として住み着き、カタコトの英語で肉体労働に励んでいるが、それと同じように将来多くの日本人が、中国あるいは他の外国に渡り、カタコトでそこの国にとけ込もうとしながら肉体労働に励むようになったとしても私は驚かない(繰り返すが、これは50年前までは日本にあった発想である)。

■話が未来に飛びすぎたので、現在に戻る。第一生命研究所のレポート「子育て負担と経済格差」によると、非正社員の男性の生涯平均賃金は6176万円。一方、正社員の男性の生涯平均賃金は2億4221万円。(毎日新聞2006年8月25日)

■上のことをわかりやすく言い換える。議論のためにあなたが育った家庭を正社員男性によって支えられていたもの(2億4千万)だとしよう。あなたの家の収入が半分になったことを想像してほしい。あなたの家族はどんな家に住むだろうか。その家の広さや壁の厚さなどはどのようになるだろうか。家の周りの環境はどうなるだろうか。夕食のおかずはどうなるだろうか。外食に行く度合いはどうなるだろうか。旅行に行く度合いはどうなるだろうか。乗る車はどんなものだろうか(というより車はあるだろうか)。

■十分想像できたら、その収入がさらに半減したと考えてほしい。それが四分の一の収入(6000万円)しか得られないということだ。

■だがこれは現在の話である。未来に、日本の中産階級が復活し、また「一億総中流」になる可能性はもちろんある(私たちは未来について何も知らない)。

■だが現在の傾向が続くならば、日本の中産階級は(アメリカがそうであったように)どんどん没落し、社会の格差は広がる。日本は一握りの金持ちと、後は生活がやっとか、明らかな貧困に苦しむ層に分けられる。古今東西、「富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる」と言われる。

■このように日本人の多くはこれから少なくとも肉体的には辛い人生を送らなければならないかもしれないが、これは世界的に見れば南北の富の格差が是正されることだとも考えられる。今まで日本に生まれたというだけの理由で豊かな暮らしをしていた者の富が、今まで発展途上国と言われてきた国に生まれたが、真面目に勉強し働く人のもとに移る。これは正義とさえいえるかもしれない。

■以上のような悲観論を取るならば、現代日本の若者が第一になすべきことは、自ら自律的に学び続けることができるように、自分の知的能力を徹底的に鍛えること、つまり勉強することのように思える。

■だが、一方で上記のことは、錯乱しかけたおじさんの戯言に過ぎない。はずれる可能性は高い。それに勉強は辛いものだ。また勉強すると周りから浮いてしまう。

■一方、君の前にあるテレビは次々に無料で娯楽を与えてくれる。その代償はCMを見るだけであるが、そのCMも君に魅力的な商品があることを(というよりは、君はその商品を持っていないということを)教えてくれるだけである。まあ、CM自体も結構面白いし、商品も、きれいなお姉さんが勧めてくれる(しかしなぜか「ご利用はご計画的に」と言う)ローンを使えばきっと購入できる。それにテレビを長時間見ていればKYと呼ばれなくてもすむ。

■またミクシィや携帯は、君にとって安全で温かい世界をいつも提供してくれる(嫌なことを言う人からは離れればいいだけだ)。君の前に小さな幸せは確実にある。目の前に確実に存在するものを、未来の不確実なことのために犠牲にすることは愚かなことなのかもしれない。外れるかもしれない未来予測など無視しよう。

■まあ、いざとなったら親にもう少し金を出してもらえばすむことだ。親は自分たちの年金が不安というが、責任与党が年金についてはきちんと約束してくれている。人の言葉を疑ってはいけないじゃないか。

■おじさんはとりあえず言いたいことを言った。嫌な気持ちにさせたらすまなかった。申し訳ない。おじさん的には改行を多くして読みやすくしたつもりだが、字が多くて頭が痛くなったかもしれない。すまん。さっぱり忘れてくれ。君の人生は君のものだ。好きに生きてくれ。


*****


追記(2008/05/07):コメント欄に以下のようなレスポンスを書きました(一カ所字句修正)。うちの学生の名誉もありますので、念のため、ここにも掲載しておきます。

*****

匿名さま、

コメントをありがとうございます。コメントの掲載が遅れて申し訳ありませんでした。

まず私の勤務する地方国立大学の「客観的な」現状で言いますと、上記のような学生はまだ少数です。

実際、私が今朝一コマ目に授業をした四年生などはどの学生の学力も態度も優秀なものだと思っています。

私は彼/彼女らのためなら、どんな組織に対しても自信を持って推薦状を書けます。

ただ私が懸念する「少数」の学生の存在は、もはや「例外」として無視できるような数ではなくなったと私は認識しています。

数年前からこの懸念はあったのですが、今はもはや直視しなければならないと思い始めました。

「火は小さいうちに消せ」とも言います。
私は今、小さな火から大火が生じてしまうことを怖れ、行動する必要を感じています。

実は私は、現在の勤務校が母校なのですが、自分たちのの20数年前をついつい思い起こしてしまいます。

もちろんそのような主観的な想起は、たいていの場合、自己美化に終わってしまうので、警戒が必要です。

それでも、まだ昔は大学の勉強をサボる人間も、きちんと自分で自分のための読書をしていましたし、また自分の考えを持っていたようにも思います。

「学びからの逃走」の分析に関しては、私は例えば
諏訪 哲二著『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ)
などに共感したりしています。

あるいは先日、たまたま
阿川弘之著『大人の見識』(新潮選書)
を読みましたが、戦後は(私を筆頭に)このような「大人」が本当に少なくなったのだろうな、とも思いました。


ですが、私の今の関心は、分析よりもむしろ対応にあります。

妙に澄ました用語を使うつもりもないのですが、上記の「若者」たちに「近代」の(あるいはもっと身近な言い方をすれば「昭和」の)枠組みで語りかけても駄目なような気が最近しています。

言葉の深い意味で「ポスト近代」、つまり、近代を見極め、客体化し、その限界を熟知した上で、いったんそれをバラバラにし、しかしその破片を、古来から続く人間の知恵で新たに集めてアプローチし、またそのアプローチを壊しては新たなアプローチへと変幻自在にやっていく必要があるかと思います。

話が大きくなりましたが、旧来のアプローチでは駄目だろうという気持ちにはなっております。

私なりにこのトピックについて考え直すことができました。今一度、コメントに感謝します。

追追記(2008/05/08)
内田樹先生のエッセイに共感したので、リンクをはります。
http://blog.tatsuru.com/2008/05/08_1200.php

USEFUL ONLINE RESOURCES FOR APPLIED LINGUISTS

USEFUL ONLINE RESOURCES FOR APPLIED LINGUISTS


GENERAL ACADEMIC SEARCH
(all are freely available from Hiroshima University except for Questia)

Amazon.com
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Blackwell Synergy
http://www.blackwell-synergy.com/

Cambridge Journals
http://journals.cambridge.org/

ERIC
http://www.eric.ed.gov/

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Google Scholar
http://scholar.google.co.jp/

Hathi Trust Digital Library


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Life Science Dictionary

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OneLook Dictionary Search

Oxford Journals
http://www.oxfordjournals.org/

Questia
http://www.questia.com/Index.jsp

SAGE Journals
http://online.sagepub.com/

Science Direct
http://www.sciencedirect.com/

Social Science Japan Data Archive



SPECIFIC ACADEMIC JOURNALS
(all are freely available from Hiroshima University)

Applied Linguistics
http://applij.oxfordjournals.org/

Annual Review of Applied linguistics
http://journals.cambridge.org/action/displayJournal?jid=APL



International Journal of Applied Linguistics
http://www.blackwell-synergy.com/loi/IJAL

Journal of Communication
http://www.blackwell-synergy.com/loi/JCOM

Journal of Research in Reading
http://www.blackwell-synergy.com/loi/JRIR

Journal of Second Language Writing
http://www.sciencedirect.com/science/journal/10603743

Language Learning
http://www.blackwell-synergy.com/loi/LANG

Language Teaching Research
http://ltr.sagepub.com/archive/

Language Testing
http://ltj.sagepub.com/

Nature


Reading and Writing
http://www.springerlink.com/content/0922-4777/

Science

TESOL Qurarterly
http://www.ingentaconnect.com/content/tesol/tq

World Englishes
http://www.blackwell-synergy.com/loi/WENG

Written Communication
http://wcx.sagepub.com/



FREE ONLINE REFERENCES

Dictionary.com
http://dictionary.reference.com/

Purdue OWL (Online Writing Lab)
http://owl.english.purdue.edu/owl/

Transcription conventions

Stanford Encyclopedia of Philosophy
http://plato.stanford.edu/

Wikipedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Main_Page


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Chrome: the fastest browser!
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Google Japanese Input System: better than Microsoft IME, but not as good as ATOK

iTunes: Podcast and iTunes U!

2008年4月28日月曜日

大学院入学を考えていらっしゃる現職教員の方へ

「大学院入学を考えていらっしゃる現職教員の方へ」という文章を旧ホームページの「教育」に掲載しました。20歳代の現職教員の方から頂いたメールをもとに、個人情報を隠すなどの配慮をしてその方の承諾を得た上で公開する文章です。ご興味のある方、ぜひお読み下さい。

⇒「大学院入学を考えていらっしゃる現職教員の方へ

英語教育学界の論文に対する批評

「女教師ブログ」は私の愛読するブログの一つですが、その最近の記事に面白いものがあったのでここでも紹介します。英語教育界で「論文」とされているものに対する的確な批評になっていると思います。
http://d.hatena.ne.jp/terracao/20080427

2008年4月27日日曜日

7/5-6広島市で「ゆかいな仲間たち」

―7月5日,6日広島で何かが変わる?―
         もれなく元気の素進呈!

日 時:2008年7月5日(土) 13:00~17:00
         6日(日) 10:00~15:00
主 催:英語教育「ゆかいな仲間たち」実行委員会

共 催:広島国際大学心理科学部コミュニケーション学科・
    国際交流センター・教職教室

場 所:広島国際大学 広島キャンパス(国際教育センター)200号室
    〒730-0016 広島市中区幟町1-5

地 図:http://www.hirokoku-u.ac.jp/access/hiroshima/index.html

出演者:久保野雅史(神奈川県出身、横浜・神奈川大学)
    田尻 悟郎(島根県出身、大阪・関西大学)
    菅  正隆(岩手県出身、東京・国立教育政策研究所/文部科学省)
    高橋 一幸(大阪府出身、横浜・神奈川大学)
    中嶋 洋一(富山県出身、大阪・関西外国語大学)

司 会:小畑  壽(大阪・柏原市立玉手中学校)
    松永 淳子(大阪・大阪府教育センター/大阪府立高津高等学校)

内 容:(第1日目:7月5日)13:00~13:10 開会
     13:10~14:20 (1)菅ワールドにようこそ
     14:30~15:40 (2)田尻ワールドにようこそ
     15:50~17:00 (3)久保野ワールドにようこそ
    (第2日目:7月6日)
     10:00~11:10 (4)中嶋ワールドにようこそ
     11:20~12:30 (5)高橋ワールドにようこそ(以後、昼食)
     13:30~15:00 ジョイント・トーク

会 費:1日1,000円(2日2,000円)
    ※資料代として当日会場でお支払いください。
    ※事前予約は必要ありません。当日、直接会場にお越し下さい。

問合せ :TEL  090-3494-7664(菅)

2008年4月18日金曜日

「いい加減な人は教育実習に来ないでください」

ある教育実習校の先生から伺った話をもとに、学生さんへ向けての文章を書きました。旧ホームページの「教育」をご覧下さい。

⇒「いい加減な人は教育実習に来ないでください」へ

2008年4月17日木曜日

大津由紀雄・窪薗晴夫『ことばの力を育む』慶應義塾大学出版会

平板な言語観が横行しています。その考えによると、言語は単純な道具に過ぎません。つまり言語を知る、あるいは使うとは、「初めて人に会ったなら"How do you do?"と言え」、「塩を取って欲しいなら"Can you pass me the salt?"と言え」と言ったように、If A, then B あるいはA→Bとでもまとめられる操作を覚え習得するだけのことです。後はいかにA1, A2, A3...., B1, B2, B3....といったように操作の数を多くするかだけの問題です。

ここにはBつまり言語には独自の原理があることに関する洞察はありません。言語の法則や特徴を自覚して、言語を豊かに、巧みに使いこなすという発想も乏しいです。ましてや言語についての知識を深めることで、Aすなわち思考や状況認知そのものをさらに細かに、多彩にしてゆくという考えもありません。

言語を単純な道具としてしか捉えないなら、言語はしばしば標識や身振りにすらも劣るものとなってしまいます(実際、原始的な状況でしたら、赤信号や目の前に差し出された両手の方が、「止まりなさい」という言語より有効かもしれません)。しかし言語は、言語以外の(文法を持たない、あるいは文法に乏しい)記号よりも、はるかに複雑なことをきわめて効果的に表現できます。言語を単純な道具として考えることは、言語の豊かな可能性を否定することです。それは言語を使いこなすことができる私たち人間の潜在能力を否定することでもあります。

言語教育に関わる者は言語に関する洞察、気づきを深めるべきでしょう。いやほとんど全ての教育の領域で言語が重要な役割をしている以上(スポーツのコーチングや音楽批評における言語の重要性を否定することは困難です)、教育に携わる者は言語に対しての学びを深めるべきでしょう。

いや教育者だけではありません。プレゼンテーションを行うビジネスパーソン、患者に声かけする看護士、政治家の言葉を注意して聞こうとする市民・・・近代社会においては言語の仕組みと働きについて私たちは十分に自覚的である必要があります。

しかし言語に関する学びというのは、存外になされていません。ですから、言語の仕組みと働き、あるいはそれらの記述・説明法を知っていれば、すぐにわかるようなことでも、私たちはわからないままで、どこかおかしいなぁと思いながら日々を過ごしたりしています。

この本は、二人の言語学者によって私たちに贈られた「ことば」「言語」への、やさしくて深い入門書です。「理論編」では抽象的な「ことば」の理解から、現代的な時代認識にまで的確な解説が読めます。「実践編」では楽しいイラストや読みやすいレイアウトなどに助けられながら、それこそ子どもから大人まで「ことば」「言語」の豊かさを楽しむことができます。

第一義的には、小学校における外国語活動のために使われることを想定して書かれたこの本ですが、私はすべての市民にお薦めできる良書だと思います。

⇒慶応義塾大学出版会へ

2008年4月15日火曜日

中山元『思考のトポス』新曜社

21世紀の現代を理解するのに、前世紀すなわち20世紀の哲学を理解しておくことは非常に有効な手段だと思います。少なくとも私には20世紀哲学は、現代理解に有効な枠組みを提供してくれるように思います。

また近代の哲学を現代において読むのに、20世紀の哲学を理解しておくことは必須かもしれません。私にとってそれは、現代においてバッハ、ベートーベン、ブラームスを聴くことは、シェーンベルクはおろか、ドビュッシーやストラヴィンスキー、あるいはミニマリズムなどを聴いておくこと抜きには考えられないことと同じです。サティやバルトークなどの影響を深く受けた音楽を、安物テレビドラマのBGMですら聴いている私たちにとって、もはや20世紀音楽を抜きにした聴き方はできません。たとえそれが20世紀以前の音楽であっても。哲学においても、20世紀の出来事とその中から紡ぎ出されてきた哲学を抜きにして、私たちは近代の哲学を無垢に読むことはもはやできないと私は考えます。

この本は20世紀の哲学を、ということは20世紀という時代を、さらにはそれ以前の哲学と時代をきわめてわかりやすく解説した良書であると思います。52のキーワードが8章にまたがってそれぞれ4ページで簡潔にまとめられています。

本を通じている姿勢は、「はじめに」の冒頭の文章に端的に表現されているかと思います。


現代の哲学の最大の特徴は、近代の哲学的な枠組みが崩壊し、さらにそれまでの道徳的な原理そのものが破砕されたところから出発しなければならなかったことにある。アドルノが明言したように、哲学は「アウシュビッツの後で」、いかにして可能になるかという問いから始めなければならなかったのである。(3ページ)


この姿勢はアリストテレスからフッサールに受け継がれた「第一哲学」批判につながります。


しかしこの第一哲学という考え方には、いくつかの重要な問題が孕まれていることを指摘したのがアドルノである。まず第一哲学においては、存在にせよ、純粋な自我にせよ、ある究極の第一者を前提とせざるをえない。この第一者の重要な特徴はその自己同一性にある。デカルトのコギトが、疑い思考する自我から哲学を基礎づけたように、第一哲学では自己との同一性だけを特徴とする一者まで還元してゆく。「その原理が存在であるか、思考であるかを問わず、主観であるか客観であるかを問わず、また本質であるか事実性であるかを問わず、ともかく哲学上の第一者として主張されている原理のもとに全てのものが吸収されていると考えられている」[テオドール・W・アドルノ『認識論のメタクリティーク』古賀徹・細身和之訳、法政大学出版局、10ページ]のである。
(中略)
たしかに「私が身をおいている存在の場は、私の自由の領域のごときものである。しかるに他者が全面的にこの領域に組み込まれることはない。他者が私と出宇野は、存在一般にもとづいてではない。他者のうちにあって存在一般にもとづいて私に到来する要素はどれもみな、私による了解と所有のもとにある。他者の歴史、その環境、その習慣にもとづいて、私は他者を了解する。しかし他者のうちで了解からこぼれ落ちるもの、それこそが他者であり存在者なのだ」[エマニュエル・レヴィナス「存在論は根源的か」。『レヴィナス・コレクション』合田正人訳、ちくま学芸文庫、360ページ]と言わざるを得ないのである。現代の哲学の重要な課題は、自己という一者からは原理的に考察できないもの、思考できないものを思考することにあるのである。(26ページ)


私のような勉強不足の者は、このように丁寧にまとめられた入門書に非常に助けられます。それぞれの学問領域で、哲学的背景の勉強を必要とされている方々への一冊としては非常に良い本ではないでしょうか。


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梅田望夫『ウェブ時代 5つの定理』文藝春秋

買って良かったです。現在進行形の世界史的大変化を引き起こしている考え方への理解が深まるように思います。ウェブにより新しい「良い」世界を創り出そうとしている人々の、心にまっすぐ届くことばと、それをめぐる梅田さんのエピソードや考えが読めます。

この本のコンテンツの重要な部分である名言とその翻訳を大量に引用することは著作権上も控えるべきでしょう。しかしこの本で使われている梅田望夫さんと翻訳家の上杉隼人さんの翻訳ではなく、拙訳を少しここに掲載することは社会的に許容されることかと思います。

というわけで、私の個人的に印象に残ったことばの拙訳を以下に掲載します。


常に目指すことは、最高の倫理。そして開かれたやり方で物事の真実を追求すること。隠し事はしない。 スティーブ・ウォズニアック (本文59ページ)


一流の人間は一流の人間と共に働くことを望む。二流の人間は、とかく三流の人間を部下におこうとする。 シリコンバレーの格言 (本文93ページ)

すごいと言われるだけで満足などしない。人々の期待以上の成果を常に出せ。グーグルにとって、世界一であることは目的ではない。それは出発点だ。 グーグル10カ条の10 (本文194ページ) 参考サイト:グーグルの哲学

私たちは誰よりも速く、誰よりも創造的に仕事をやり遂げる。合意形成を大切にするが、それは莫大なデータを使って行う。 エリック・シュッミット (本文206ページ)



ただ梅田さんにしてもウェブ文化について手放しで楽観しているわけではありません。一つは日本にはびこる匿名投稿文化です。


この「匿名性の方向に偏った」日本語圏ネット空間に特有の文化が、ネットの持つ豊穣な可能性を限定し、さまざまな「良きもの」が英語圏ネット空間では開花しても日本語圏では開花しないのではないかと、最近はそんな危惧を、強く抱いています。(本文223ページ)


私も同意します。匿名でしか言えないことというのは、社会では確かにありますが、ネットでの匿名発言の全てがそのように社会的に厳しい状況からの発言とはとても思えません。ネットの匿名発言は、よく言って怯懦、悪く言うなら狡猾、最悪の場合卑怯だと言えるのではないかと私は思っています。他愛もないことの発言ならともかくも、きちんとしたことを発言するときには、実名を使う文化が日本でももっと普及することを私は望んでいます。

最後に、私の懸念を述べます。梅田望夫さんの著作や、この本の最後にも取り上げられているスティーブ・ジョブスの演説はまさにinspiringで、私はそれらにたいしてシニカルな態度は取りたくありません。

しかし、最近の若い人のうち、自分の限界まで勉強したこともなければ、スポーツや音楽などに寝食を忘れるぐらいに熱中したこともない、「オレ」や「ボク」あるいは「ワタシ」が、「夢」ばかり追って、目の前にあることをきちんとしないのはとても怖ろしいことだと思います。「夢」を追求したいのなら、梅田さんの次のことばは噛み締めておくべきでしょう。


優れたアントレプレナーに共通する特徴は、人生のある時期に、たいへんな集中力と気迫で、新しい知識を確実に習得している、ということです。貪欲なまでに強烈な意志を持って、自ら道を切り開いていく。好奇心旺盛なアントレプレナーたちは、不確実な未来にいかようにも対応できるよう、徹底して「学び続ける意志」を持っているのです。(本文23ページ)


若い人に強くお薦めします。もっともっと勉強して、ワクワクするような人生を送りましょう。

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2008年4月11日金曜日

論文の構成要素とコミュニケーション的機能

大学・大学院で教え続けていると「なぜ論文を書くことは学生にとって重要なのか」、「論文を書く力とは、社会でのどのような力につながるのか」、「そもそも論文とはどのような書き物なのか」といった問いをどうしても自問してしまいます。そうしないと自分でもきちんと指導できないからです。

こういった観点から、私の旧ホームページの「教育」には、学生さんに向けた文章を集めて掲載するようにしています。

本日「論文の構成要素とコミュニケーション的機能」という駄文を掲載しました。ご興味があればご覧下さい。

⇒「教育」の「論文の構成要素とコミュニケーション的機能」へ

酒井聡樹(2007)『これからレポート・卒論を書く若者のために』(共立出版)

大学一年生はもちろんのこと、高校生にもお薦めできる良書です。物事を論理立ててわかりやすく他人に説明するコミュニケーション技術は、日本の学校が十分に育てていないところかと思います。ぜひ学生さん、生徒さんに薦めてあげてください。

⇒「教育」のページへ

「政治」とは何であり、何でないのか

「政治」ということばは、「宗教」と同様、現代日本ではしばしば否定的な意味で使われます。「宗教」が無思考を意味するメタファー(「あれじゃまるで宗教だ」)なら、「政治」は汚い駆け引きを意味するメタファー(「ちょっと政治的取引が必要だね)です。あるいは人々に押しつけられる強制力のメタファー(「教育に政治を持ち込むな」)です。

三省堂の『大辞林』も実際、「政治」の第一義として「(1)統治者・為政者が民に施す施策。まつりごと」を掲載しています。「政治」とは「政治家」だけがなすこと、なしうることで、人々はその受益者か被害者のどちらかであり、被害者でなく受益者になろうとすること、受益者になったらその地位を手放さないでおこうとすることこそ、人々が行う「政治」であるようにも思われています。

私がアレントの本を、哲学博士で弁護士資格も持つアメリカ人の友人と一緒に読み始めたとき、私も政治については上のような見解しか持っていませんでした。ですからその友人が「政治にかかわるということは喜びなのだ、ということを日本人は分かっていない。日本人は政治とは裏取引や収賄にかかわることとばかりだと思っている。もちろんそのような行為は残念ながら政治から絶えることはないのだが、それは『政治』の定義的な意味ではない」と私に力説しても、私は彼の言う意味が十分には理解できませんでした。

しかしアレントを彼と読み進めるうちに、だんだんと私の「政治」理解も広がって、あるいは変わってゆきました。政治とは、絶対的真理を確定することではなく、誰もが真理も正義も絶対的あるいは恒久的に所有し得ず、さらにはお互いに様々に異なっているという人間の事実に基づいて、複数の人間が何とかうまくやってゆくという人間の営みだと考え始めました。政治とは、真理と正義の単一なる神とは絶対的に異なる、愚かで悪から離れることができない人々が複数存在していることに関する事柄なのです。政治において、真理や正義は、仮想的に措定する理想としては重要ですが、それは永久に達成できない超越的な理念であり、誰か一人やある集団が真理や正義を所有するとか体現するということが「事実」として成立することはありえないのです (少なくともこれが「神」との対比から「人間」を考えた場合の帰結の一つだと思います)。

そうするなら「政治」の権力を、たとえそれがその時点での為政者の権力であっても、無謬のもの、反問されるべきでないもの、固定されるべきものと考えるべきでありません。政治とは、ほとんどその定義上、対立的で、流動的で、妥協的なものではないのでしょうか。政治を、あるいは政治的権力を、無対立的で、固定的で、非妥協的なものであるべきだという前提を持ってしまって、そうでない現状は嘆かわしいと思うことは、危険なことではないでしょうか。

こうすると政治とは、真理や正義を規定しようとする哲学や神学とも異なるばかりか、真理の発見を目的・終点(end)としようとする科学とも異なることになります。政治、すなわち私たちという異なる人々の共存の営みにおいて、真理や正義は事実としては現前せず、またその現前を望むべきでもありません。

政治を哲学や神学、あるいは科学の延長で考えることは危険なことではないでしょうか。


以下はアレントの『思索日記』(Hannah Arendt (2003) Denktagebuch 1950-1973 Erster Band München: Piper)からの抜粋とその拙訳です(アレントはこのセクションはドイツ語でなく英語で記しています)。きちんとした訳は青木隆嘉先生の『ハンナ・アーレント 思索日記I』(法政大学出版局)の379ページをご参照下さい。

Heft XIII Januar 1953
[2]
Experimental Notebook of a Political Scientist: To establish a science of politics one needs first to reconsider all philosophical statements on Man under the assumption that men, and not Man, inhabit the earth. The establishment of political science demands a philosophy for which men exist only in the plural. Its field is human plurality. Its religious source is the second creation-myth -- not Adam and rib, but: Male and female created He them.
In this realm of plurality which is the political realm, one has to ask all the old questions -- what is love, what is friendship, what is solitude, what is acting, thinking, etc., but not the question of philosophy: Who is Man, nor the Was kann ich wissen, was darf ich hoffen, was soll ich tun?
(295)

政治学者の実験的ノート: 政治学を確立するのに最初に必要なことは、これまで哲学が、単数形で考えられてきた人について述べてきたこと全てを、地球に住んでいるのは複数形で考える人間であり、単数形で考える人ではないという想定のもとに考え直してみることである。政治学が確立するためには、人間は複数性でのみ存在するという哲学が必要である。政治学が扱うのは人間の複数性である。政治学の宗教的源泉は、聖書の第二創造神話である。つまりアダムと彼の肋骨という[第一の創造神話]でなく、神が男と女、すなわち複数の人間を創ったという神話である。
この複数性の領域こそは政治的領域なのだが、ここで昔ながらの問いが問われなければならない--愛とは何か、友情とは何か、独立とは何か、活動するとは何か、考えるとは何か、といった問いである。複数性を扱う政治学では、単数形で考えられる人とは何か、という哲学の問いではない。私は何を知りえ、何を望むことが許され、何をなすべきなのかという問いも同様に、政治学の問いではない。

2008年4月10日木曜日

人間の条件としての複数性

唯一神のユダヤ-キリスト教を背景とする西洋哲学は、人間を単数性でしか考えてこなかったのではないか。つまり人間とは本来、複数的な存在であるということを西洋哲学は無視してきたのではないか。人々はそれぞれに異なり、その異なる人々が、その差異を超えて、いやむしろその差異を活用して共存しているのが人間の、人間的な社会であるということを、西洋哲学はきちんと考えてこなかったのではないか--これがアレントの問いかけです。

人間を単数性で考えるなら、「私」あるいは「理想的な人」以外の人間とは、「私」あるいは「理想的な人」の単純な延長、つまり「私」あるいは「理想的な人」と全く同一な存在であるべきとも考えられます。「私」あるいは「理想的な人」と異なる人々の存在は不可解なもの、あるいは不愉快なものにさえ思えてきます。

しかし、「私」あるいは「理想的な人」と異なる目の前の人、そして人々の存在こそは、人間とは複数的な存在であるということを証明しているのではないでしょうか。その複数性という「人間の条件」を無視し否定するような社会とは、非人間的な社会に他ならないということをアレントは--ホロコーストを見てしまった人間の一人として--訴えているように思えます。

複数性を否定する社会は、唯一存在するとされた単一的存在が好きなことをできる社会です。何しろ社会には、その単一的存在者(およびその同類)しか存在しないのですから! 単一的存在者とは全能である、いや全能であるべきなのです。そうして、そういった単一者の社会は、実際は存在している異なる人々を排斥し、あげくのはてには抹殺しようとします。

単一性なのか複数性なのか。

同一性なのか差異なのか。

人間社会の前提はどちらなのでしょうか。


以下はアレントの『思索日記』(Hannah Arendt (2003) Denktagebuch 1950-1973 Erster Band München: Piper)からの抜粋とその拙訳です(誤訳があればご指摘ください)。きちんとした訳は青木隆嘉先生の『ハンナ・アーレント 思索日記I』(法政大学出版局)の74-75ページをご参照下さい。




Heft II Januar 1951
[30]
Der Mensch -- die Menschen:
In den totalitären Regimen erscheint deutlich, dass die Allmacht des Menschen der Überfüssigkeit der Menschen entspricht. Darum entspringt aus dem Glauben, dass alles möglich sei, unmittelbar die Praxis, die Menschen überflüssig zu machen, teils durch Dezimierung und generell durch die Liquidierung der Menschen qua Menschen. Wenn der Mensch allmächtig ist, dann ist in der Tat nicht einzusehen, warum es so viele Exemplare gibt, es sei denn, um diese Allmacht ins Werk zu setzen, also als reine objekthafte Helfer. Jeder zweite Mensch ist bereits ein Gegenbeweis die Allmacht des Menschen, eine lebendige Demonstration, dass nicht alles möglich ist. Es ist primär die Pluralität, welche die Macht der Menschen und des Menschen eingrenzt. Die Vorstellung der Allmacht und des Alles-ist-Möglich führt notwendigerweise zu der Einzigkeit. Von allen traditionellen Prädikaten Gottes ist es die Allmacht Gottes und das »bei Gott ist kein Ding unmöglich«, das Vielgötterei ausschliesst.
Es wäre denkbar, dass die europäischen politischen Theorien deshalb in reien Macht-Theoremen geendet haben, weil die europäische Philosophie von dem Menschen ausging und von dem Einen Gott. (53-54)

単数形で考えられている人と、複数形で考えられている人間
全体主義的政治体制ではっきりと現れてくるのは、単数形で考えられている人の全能とは、複数形で考えられている人間を余分なものとしてしまうということに相当するということである。複数形で考えられている人間の存在を、一部の場合では激減させることによって、しかし一般的には抹殺してしまうことによって、余分なものとする実際行動は、全てが可能であるという信念から直接的に生まれている。単数形で考えられた人が全能である時、なぜたくさんの個体が事実存在しているのかということを理解することができなくなる。もっとも、たくさんの個体が、単数形で考えられた人の全能さを実行するための純粋に客体的な助力者として存在するということなら理解できるのだが。どのような人であれ二人目の人が存在するならば、それは既に、単数形で考えられた人の全能の反証であり、全てが可能であるわけではないということの、生きた証拠である。複数形で考えられている人間の権力と、単数形で考えられている人間の権力を区別しているのは、まず複数性である。全能および全てが可能であるという考えは必然的に単一性にたどり着く。全ての伝統的な神の特性から多神論を締め出してしまうのは、神の全能と「神のもとでは不可能なことはなにもない」[という考え]である。
ヨーロッパの政治理論がそれゆえ、権力の定理に終わるというのは十分考えられることである。というのも、ヨーロッパの哲学は単数形で考えられた人、そして単一の神に由来しているからである。

西洋哲学の寵児の政治的判断

ハイデガーは、ヒトラーが1933年1月30日にナチス党内閣首班としてドイツ首相になった後の、同年4月22日にフライブルク大学の総長に就任します。その直後ともいえる同年5月1日にハイデガーはナチス党に入党します。そして彼は同年5月27日にフライブルク大学総長としての就任演説をしました(以上Wikipediaより)が、その演説の英訳は、ここで読むことができます。

今、その原文をチェックする時間はありませんが、下に引用した箇所だけみても、"the essense", "'academic freedom' will be expelled" あるいは大学の"bond"としての"Labor Service," "Military Service," "Knowledge Service"などの警戒すべき言葉が多用されています。

特に"Knowledge Service"では、"Knowledge does not serve the professions but the reverse: the professions effect and administer that highest and essential knowledge of the people concerning its entire existence." とも言われています。

話は飛びますが、教育学部や工学部などというのは実学志向が強くあるべきところであり、教育学部にいる私も自らの研究を現実と遊離したものにしないように常に気をつけているつもりです。しかし学問研究も、「国民」「非常時」といったことばの乱用により歪められてしまい、気がついたら大政翼賛、戦争協力にまでつながってしまいかねないということは、歴史の教訓として肝に銘じておきたいと思います。

ハイデガーの政治的判断の誤りは、彼が西洋哲学の最も優秀な哲学者であるにもかかわらずなされたものなのか、それとも彼が西洋哲学の寵児だったからこそなされたものなのか。ハンナ・アレントは後者の解釈を取っています。

いずれにせよ、かつて下のような語り方をした者がいたことを記憶しておきたいと思います。そしてこれに似た語り方を聞くことがあれば、この政治的には愚か、いや愚か以下だった西洋哲学の寵児のことを思い出したいと思います。



Out of the resoluteness of the German students to stand their ground while German destiny is in its most extreme distress comes a will to the essence of the university. This will is a true will, provided that German students, through the new Student Law, place themselves under the law of their essence and thereby first define this essence. To give oneself the law is the highest freedom. The much-lauded “academic freedom” will be expelled from the German university; for this freedom was not genuine because it was only negative. It primarily meant lack of concern, arbitrariness of intentions and inclinations, lack of restraint in what was done and left undone. The concept of the freedom of the German student is now brought back to its truth. In future, the bond and service of German students will unfold from this truth.

The first bond binds to the national community [Volksgemeinschaft]. It obligates to help carry the burden of and to participate actively in the struggles, strivings, and skills of all the estates and members of the people. From now on, this bond will be fixed and rooted in the existence of the student by means of Labor Service [Arbeitsdienst].

The second bond binds to the honor and the destiny of the nation in the midst of all the other peoples. It demands the readiness, secured by knowledge and skill and tightened by discipline, to give the utmost in action. In future, this bond will encompass and penetrate the entire existence of the student as Military Service [Wehrdienst].

The third bond of the students binds them to the spiritual mission of the German people. This people works at its fate by opening its history to all the overwhelming world-shaping powers of human existence and by continually fighting for its spiritual world anew. Thus exposed to the most extreme questionableness of its own existence, this people wills to be a spiritual people. It demands of itself and for itself that its leaders and guardians possess the strictest clarity of the highest, broadest, and richest knowledge. Young students, who at an early age have dared to act as men and have extended their willing to the future destiny of the nation, force themselves, from the very ground of their being, to serve this knowledge. These students will no longer permit Knowledge Service [Wissensdienst] to be a dull and rushed training for a “distinguished” profession. Because the statesman and the teacher, the doctor and the judge, the minister and the architect lead the existence of people and state, because they guard and hone it in its fundamental relations to the world-shaping powers of human being, these professions and the education for them are entrusted to Knowledge Service. Knowledge does not serve the professions but the reverse: the professions effect and administer that highest and essential knowledge of the people concerning its entire existence. But for us this knowledge is not the dispassionate taking note of essences and values as such, but the most severe endangerment of existence in the midst of the overwhelming power of what is. The very questionableness of Being forces the people to work and fight and forces it into its state [Staat], to which the professions belong.
The three bonds . by the people, to the destiny of the state, in spiritual mission . are equally primordial to the German essence. The three services that arise from it . Labor Service, Military Service, and Knowledge Service . are equally necessary and of equal rank.

2008年4月8日火曜日

6/21-22 沖縄で二日がかりで田尻悟郎先生のワークショップ

以下の二日間の研究集会は、日本語教育学会によるものですが、別に日本語教育学会の会員でなくとも、参加自由だそうです。二日がかりで田尻悟郎先生(関西大学)のお話を聞く機会は貴重なものかとも思います。参加ご希望の方はぜひお早めにお申し込みください。


2008年度 日本語教育学会 研究集会
第2回 研究発表・講演   於:沖縄


日時:2007年6月21日(土)13:00~17:10

会場:沖縄国際大学
http://www.okiu.ac.jp/gaiyou/access/index.html
会場の詳細につきましては、以下のHPをご参照ください。
交通:以下のHPをご参照ください。
日本語教育学会研究集会ホームページ
http://wwwsoc.nii.ac.jp/nkg/menu-syukai.htm
九州日本語教育連絡協議会ホームページ
http://kyuunichiren.main.jp/
参加費:
学会員=500円 一般=1,000円 当日受付
問合せ先:
大城朋子(沖縄国際大学)電話・ファックス:098-893-2270
E-mail: tomokoo@okiu.ac.jp
尚真貴子(沖縄国際大学)E-mail: syo@okiu.ac.jp

当日の流れ:
12:30~  受付
13:00~15:25 研究発表(開会の挨拶終了後、5会場に分かれて)
発表の詳細につきましては、上掲のHPをご参照ください。
15:25~15:40 休憩

講演(15:40~17:10)
  「生徒の心に火をつける!田尻実践を体験してみませんか?」
      講師:田尻悟郎氏(関西大学外国語教育研究機構・教授)


 講師から一言
私の座右の銘は「下手な教師は教える。上手い教師は学ばせる。そして、素晴らしい教師は生徒の心に火をつける」です。私は英語教育の現場で、4技能(読む・書く・聞く・話す)を有機的に結びつけながら、InputとOutputの流れを重視し、生徒を惹きつけるための様々な工夫をしてきました。終了チャイムが鳴ったとき「え、もう終わったの!」という声が生徒から上がる授業を、皆様に体験していただきたいと思います。






2008年度 日本語教育学会 研究集会
第3回 会員研修   於:沖縄


日時:2007年6月22日(日) 10:00~16:45
会場:沖縄国際大学
http://www.okiu.ac.jp/gaiyou/access/index.html
会場の詳細につきましては、以下のHPをご参照ください。
交通:以下のHPをご参照ください。
日本語教育学会研究集会ホームページ
http://wwwsoc.nii.ac.jp/nkg/menu-syukai.htm
九州日本語教育連絡協議会ホームページ
http://kyuunichiren.main.jp/
問合せ先:
大城朋子(沖縄国際大学)電話・ファックス:098-893-2270
E-mail: tomokoo@okiu.ac.jp
尚真貴子(沖縄国際大学)E-mail: syo@okiu.ac.jp
定 員:
100名(申込みの先着順とさせていただきます。定員を超えた場合に限り,
       受け付けられなかった旨お知らせいたします。)
参加費:
学会員=4,000円 一般=5,000円 当日受付にて納入
申込み受付開始:
4月14日から
締 切:
6月7日必着
申込方法:
下記事項を明記して郵便・ファックスまたはE-mailにてお申し込みください。
                 記
   1. 氏 名(漢字・ふりがな・ローマ字を全て正確に書いてください。)
         なお,学会員(会員番号),一般の区別を明記のこと
   2. 現住所(郵便番号・住所・電話・FAX)
   3. 所属先(名称・郵便番号・所在地・電話・FAX・E-mail)
   4. 日本語教育の経験(外国語教育の経験がおありの方は、そのことについて記述してください)
   5. この研修を希望した理由
送付先:
〒901-2701  沖縄県宜野湾市宜野湾2-6-1
沖縄国際大学総合文化学部日本文化学科
大城 朋子
電話・ファックス:098-893-2270
E-mail: tomokoo@okiu.ac.jp
     

* この研修は終了後,(社)日本語教育学会より受講証明書を発行します。

テーマ:「生徒の心に火をつける!田尻実践のナゾを解明する! 」
講師:田尻悟郎氏(関西大学外国語教育研究機構・教授)

 
講師から一言
生徒の心に火をつけるためには、アイデアマンやパフォーマンス上手であるだけでは不十分です。教師による様々な働きかけの一つ一つが、複合的そして有機的に絡み合ってはじめて、生徒の心に火がつき始めます。例えば、到達したい最終ゴールをまず設定し、その実現のために、様々な教室活動を有機的に組み合わせた上で、全体像をいつも見ながら、毎日の教室活動での生徒たちのパフォーマンスによって、調整し続けること。「今、これを行っていることが、次にこうつながるんだ」という認識を生徒たちと教師が共有していること。一つ一つの活動で生徒を飽きさせずやる気を出させる工夫をすること。これらは必要不可欠な要素の一部です。私の英語教育実践の全体像に触れていただくことで、生徒の心に火がついていくメカニズムを理解していただければと思います。



当日の流れ

10:00~10:30
田尻悟郎氏のライフヒストリー
(ビデオショーにより、田尻悟郎氏のこれまでの人生を振り返る)
10:30~12:00
「自学」の秘密
田尻悟郎氏と自学との出会い、変遷、そして、自学を行う際に大切なこと
12:00~13:00 お昼休み
13:00~14:30
様々な教室活動の工夫とつながり:その1
学習項目の導入(文脈の中での導入)→文法説明→ドリル練習
14:30~14:45 休憩
14:45~15:45
様々な教室活動の工夫とつながり:その2
応用練習→自己表現活動(詩/スピーチ/ディベートなど)
15:45~16:00 休憩
16:00~16:45
ご本人に聞いてみよう!田尻実践のヒミツ(質疑応答)

2008年4月7日月曜日

知的訓練としての文法訳読

アレントの原書が手に入ったので、過去の記事(「この世の中にとどまり、複数形で考える」「アレントによる根源的な「個人心理学」批判」)に、私なりのドイツ語からの日本語訳を加えてみました(間違いをお見つけでしたらご批判下さい。私のドイツ語力はひどいものです)。



その作業の中で感じたことを、備忘録的に書き記しておくなら、「文法訳読」というのは、かつて渡部昇一氏が力説していたように、かなりに高度な知的訓練になりうるということです。



知的訓練というのを、私なりに言い換えてみます。


ざっと読んだだけでは正確に意味がわからない、知的に深く、文法的に複雑で、知らない語彙がたくさんある外国語を読むためには、文法関係を正確に捉えながら、辞書を引いて、その文法関係と語彙情報を基に相当に考えなければなりません。

いいかげんな当て推量ではなく、格関係に基づいて文の意味構成の可能性を絞り込むということは、外国語と母語の両方で、言語に忠実に思考するということです。

辞書を引くということは、一見した外国語をsegmentation(分節化)し、そのsegmentを単位としながら、grapheme-phoneme correspondence(書記素-音素対応)に基づいてarticulation(調音)して、そのsound representation(音的表象)をworking memory(作動記憶)に入れながら、辞書にある数々の単語--ここでは紙の辞書の使用を想定しています--のword recognition(単語認知)を行いながら目的の語を探します。

これらの知的作業は正確な知識に基づき、迅速に遂行されなければなりません(さもなければいつまでたっても文法訳読は終わりません)。この際にはphonotactics(音素配列論)といった無意識に獲得されたような知識も役立ちます。いやこれらの知識は、知的作業の役に立っているだけでなく、知的作業によって、より確実なものになっていると言えるかもしれません。

そうやって見つけた単語の記述を読みこなすことも外国語と母語を使った高度な知的作業です。さらに、目的の文に最も適切な訳語をひねり出すことは--しばしば最適の訳語は辞書には掲載されていません--、semantic features(意義素)の分析によって、自らが知っているはずの日本語の類義語を総動員して、最適な日本語を探し出すというこれまた高度な言語使用=思考です。この最適語探しは、文法関係の正確な理解に基づいていなければならないことは上述した通りです。

このように外国語の高度な文章を、大量に(ということは短時間のうちに)、正確に文法訳読するということは、まさに「知的格闘」ともいえるぐらいの高度な知的訓練です。私はわずかばかりのドイツ語を訳すなかで、「このような知的訓練は、時間をかけることができる若いうちにきちんとやっておくべきだった」と少し後悔しました。また若者は、このような知的訓練を長時間こなすことによって、きちんと机について考えるという知的な作法をようやく我がものにできるといえましょう。以前にも言いましたが、人文系は計算ができないのなら、せめて語学ぐらいはきちんとやるべきです。

私は劣等生ながらに、高校生の時は、当時自分で考えていた限界を超えるぐらいの勉強をさせられました。その強制のおかげで、高一の四月には中学校教科書の英語力しかなかったのに、三年後には大学入試程度の英語ならなんとかきちんと理解し、その理解を日本語で表現できるようになりました(それより程度は低いものの日本語を英語にすることもできるようになりました)。そのようなきちんとした「勉強」(=勉め強いられること)を大学・大学院時代にきちんとやっていれば、人生はずいぶん展開していただろうなと今頃になって後悔します。大学・大学院時代には、私は自分のペースで自分の好きなように勉強しました。それはそれなりに楽しくまた意義深いことでしたが、もっともっと地道に英語、ドイツ語、そして第三、第四の外国語をきちんとやっておけばよかったと思います(今思えば、私が大学院に入学した時の主任教授である垣田直巳先生は、「第二外国語をきちんとやっておきなさい」と一度だけさりげなくおっしゃいました。私は師の言葉を守らなかった愚かな学生でした)。

話を一般論に戻します。現行の指導要領は、実践的コミュニケーション能力を、「情報や相手の意向などを理解したり自分の考えなどを表現したりする」こととまとめています。リーディングも「まとまりのある文章を読んで、必要な情報を得たり、概要や要点をまとめたりする」ことであり、「まとまりのある文章を読んで,書き手の意向などを理解し、それについて自分の考えなどをまとめたり、伝えたりする」ことと規定しています。ここには文法訳読や精読の影は見えません。

そんな指導要領にもかかわらず(?)、一部の国立大学は二次試験で英文和訳(および和文英訳)を出し続けています。ねらいは高度な文章を的確に訳させることで上のような知的訓練の成果を測定しようとするものでしょう。

英語教育界の大半の人々は、そのような文法訳読を非難します。そのような入試問題があるからこそ英語教育は改善されないと主張します。

私はその意見に昔から違和感を感じていました。

少なくとも一部の大学が、丁寧に文法訳読の能力を評価しようとするのは、私は一つの見識かと思います(入試問題全てが文法訳読式であるべきかどうかは別問題です)。多くの英語教育関係者が、スローガンのように「文法訳読式は悪い」と言い続けた中、文法訳読式の入試問題を残した大学と、その大学入試のために丁寧な文法訳読の訓練を生徒に課した高校は、大げさにいえば日本の人文系の学力凋落の防波堤になっているとさえいえるのかもしれません(繰り返しますと、英語教育の全てが文法訳読訓練になるべきかは別問題です。また私は英語教育の全てが母国語を使ったものになることには反対です)。

しかしあわててつけ加えますと、文法訳読式ほど、粗悪で手抜きの授業をしやすいものもありません。私が時折学生さんから聞く(あるいは私の目で直接見る!)、あきれるほどにいいかげんで、学習者に学力をつける工夫をしているとはとても思えない惰性で無思考的な「文法訳読」の授業は、授業の名前に値しないものです。このような授業を見ていると「文法訳読なんか一切止めてしまえ!」と、つい思いたくもなってしまいます。

しかし、産湯と共に赤子まで捨ててしまってはいけません。文法関係に忠実に、適切に言葉を選ぶ授業は大切にされるべきでしょう。もちろん「文法関係に忠実に、適切に言葉を選ぶ授業」は、外国語だけを使った授業でも可能です(私がある大学生に「大学の授業できちんと正確に外国語を理解しなければならない授業をした先生はいるか」と尋ねた時に、彼が外国人教師の名前だけをあげたのは皮肉なことでした)。しかしそれは学習者に(そして何より教師に)高度な外国語を要求します。そこに至る段階で、母語を使った文法訳読があることは、私はきわめて現実的なことだと思います(注)。

正直、最近の学生さんが、英語を始めとした外国語だけでなく、日本語でも精読ができなくなってきていることに私は恐怖さえ感じています。人文系が本を読めなければ、それはただの○○です(←自主規制)。高校か大学の教育のどこかでは精読はみっちりやらなければならないと私は考えます。

かといって、私は最近の一部の「コミュニケーション=悪者」論にも与しません。一部の人々は最近、「コミュニケーションの重視こそが英語教育を駄目にしている」というのを口癖にしていますが、それはコミュニケーションに対して理解が浅いのであり、その理解の浅さと短絡においては、昔から現在に至る「文法訳読=悪者」論を繰り返す者と変わりがないと私は考えます。

それこそ人文系の者としての誇りをもって、英語教育、いや外国語教育のあり方について、的確に思考し語り合うことが必要です。



(注)
誤解のないように私的な追記をしておきますと、私は一つの授業(語用論)は8-9割を英語で行っています。その他の授業では日本語をかなり使っています。大学院の一つの授業は、かつて留学生と合同で英語で行っていましたが、そうすると日本人学生と留学生のどちらにも益さないような形になってしまったので、今では(制度改革もあり)、日本人向けの日本語を多用する授業と、留学生用の英語だけの授業をもつという形をとっています。

2008年4月1日火曜日

ソレ・ダリダ『英語教育の脱肛築』東広島大学出版会

 いくつかの問いがある。「英語教育が『教育』である限り、そこには人間の変容が企図されざるを得ず、その意味で英語教育は<暴力>に連なるのではないのか?」。あるいは「英語教育が『英語』に関わる限り、それは19世紀国民国家的意味での『帝国主義』の支配構造ではないにせよ、ネグリ・ハート的な<帝国>の支配構造に人々を組み込むことではないのか?」

 英語教育の日常においてこれらの問いは抑圧され隠蔽される。これらの問いを掲げる者は忌避され、彼/彼女の現前で忘却される。それはこれらの問いがデモクリトスの剣だからである。彼/彼女らが、デモクリトスの剣をつり下げる糸に、触れようとするからである。我々は9/11以降、「何かの拍子」に、世界が一変してしまうことを知悉している。デモクリトスの剣は私たちの意識の中から痕跡もなく消え去らねばならない。たとえその存在が事実だとしても。

 しかしフランスの現代思想家、ソレ・ダリダは、天使のように大胆に悪魔のように細心にデモクリトスの剣の糸に手を触れる。かつてジャック・デリダは「脱構築自体は脱構築不可能であり、それゆえに脱構築は正義なのだ」という事実確認を遂行的に発言した。ダリダは、デリダによって脱構築不可能であり正義であるとされた脱構築自体を脱構築し、脱肛築に至る。西洋哲学は、ここにその限界を越境し、「過剰の痛み」として私たちの心身を貫く。ダリダの英語教育に関する根源的論考(いやこれは病いなのだろうか)は、私たちの世界理解を、高速オセロ・ゲームのように反転させ、逆転させ、さらに反転させる。いやオセロのアナロジーは不適切であろう。ダリダは反転・逆転を無効化し、その無効化を嘲笑し、その嘲笑を嘆きつつ、いつのまにか新たな言語ゲームを開始している。

 読者としての英語教師は、ダリダの文体によって、英語教育の日常世界から、脱-西洋的な思考世界(しかしそれは断じて東洋的な思考世界ではない!)に拉致される。読者はダリダの問いに絡め取られ、ダリダの問いを措定しつつ否定する(「ダリダはダリダ?」)。これこそが「過剰の痛みを引き受ける」脱肛的思考である。ここに英語教育学は初の本格的な思想書を手にしたわけである。

 翻訳をしたのは柳瀬妖介氏(東広島大学殉教授)。「それまでフランス語をまったく勉強したことがなかった私が『ダリダを翻訳したい』と言ったとき、フランス現代思想を専攻する私の友人は一笑に付しました」。しかし氏は学習指導要領の精神に忠実にフランス語学習を始め翻訳をやりとげる。

「実践的コミュニケーション能力とは、『情報や相手の意向などを理解したり自分の考えなどを表現したりする』ことです。リーディングも『まとまりのある文章を読んで、必要な情報を得たり、概要や要点をまとめたりする』ことであり、『まとまりのある文章を読んで,書き手の意向などを理解し、それについて自分の考えなどをまとめたり、伝えたりする』ことです。ですから私は「精読」や、文法に忠実な「直訳」という過去の忌まわしき伝統は捨て去りました。情報や意向を理解したり、概要や要点をまとめたりすることが、外国語の力なのです」と氏は語る。

 かくして氏は「ダリダは、だいたい、こんなこと?が、言いたい?みたいな、感じ?? ってか、まぁ、オレ的には、こんなとこ?、みたいな??」を口癖としながら、フランス語を読み続け、ダリダの意向を日本語でまとめ続けた。解釈が揺らぐときは、センター試験方式にならい、氏なりの「こんな感じ?」の翻訳文を四つ作り、その選択肢を鉛筆をころがすことによって決定し(「暗闇での跳躍!」)、翻訳を続けた。氏の翻訳は、現行学習指導要領の勝利である。

 学習指導要領による英語教育の日常を自明としていた「私たち」は、逆説的に、学習指導要領の勝利によって脱肛築される。「私たち」ってダリダ?。脱肛築の痛みはあなたの心身を貫くだろうか。


[以上、『英語狂育通信 2008年4月1日号』より転載]

Real Barker『英語教育の脳科学』東広島大学出版会

「英語教育学は科学である」。

 たとえ、これが予算獲得のために発せられた言葉だとしても、この宣言以上に英語教育学者を鼓舞する言葉があるだろうか。そして本書の刊行によって、この言葉は否定できない事実となった。英語教育学における記念碑的作品である。

 Barker博士(University of Diploma Mill)は科学の最先端である脳科学に果敢に切り込む。もちろんこれまでの英語教育学に脳科学を扱ったものがないわけではない。しかし従来の研究は特定の認知活動を行った場合には、脳のどの部位が活性化するかを報告したものに過ぎなかった。これは現象の「記述」に過ぎず、そこから結論できるのはある種の相関関係だけである。現象の「説明」ではない。仮説演繹的で反証に耐えうる説明理論がないのだ。

 この点、Barker博士のアプローチは大胆だ。彼は相関関係でなく、因果関係の立証に取り組む。しかも根源的な因果関係である。そして彼の研究は、反証仮説に打ち勝った。ここにおいて英語教育学初の本格的な脳科学研究が誕生したのである。

 Barker博士は、脳(およびそれに連なる内臓器官)がないことだけを除けば、通常の学習者と全く同じと想定できるアンドロイド「A1」(Antarctica #1)を作り出し、このA1と通常の学習者(以下、対照群)の学習発達を比較するという方法で、英語学習に脳が働いているかという根源命題を実験的に立証することを試みた。どの部位が活性化するなどといった断片的な研究でない。誰もが指摘されれば「はっ」とせざるを得ない、根本の因果関係の立証に彼はチャレンジしたのである。

 Barker博士は、氏が開発した英語テスト(Test Of International Literacy in English Teaching: TOILET)によってA1と対照群の英語学習の度合いを測定した。対照群は、最初はTOILETでほとんど何もできなかったものの(「何っすか、これって、どっかの○を黒く塗りゃぁよかったんすか。指示とかが英語で書かれているとマジわかんないんっすけど」というのが対照群の一人の声である)、次第に正答率は25%前後に落ち着く(問題は四択)。しかしA1は見事に正答率が0%のままであった(「てか、A1って、鉛筆握れないし」とは実験助手の証言である)。これにより英語学習には脳が不可欠であることが立証された。Barker博士は脳科学の根源的疑問に答えを出したのである。

 このようにこの書は科学の書であるが、同時に文学の書でもある。質的分析のパートでは、Barker博士は、霊長類研究や乳幼児研究では批判的に取り上げられるoverinterpretationの方法を大胆に採択し、A1の声なき声を聞き取る。翻訳者の柳瀬妖介氏(東広島大学殉教授)も「訳者後書き」で指摘するように、A1に表情と声を読み取り、彼女と対話するBarker氏の文章の行間から、彼が研究者としては自ら禁じたはずのA1への愛情が、いつのまにか伝わってくる。Barker博士の深い葛藤は、彼の記述を文学のレベルにまで押し上げている。

 以上まとめたようにこの研究は、大胆な哲学的構想に基づいた実証的な科学であり、また表現において文学である。ここにおいて英語教育学は、哲学、科学、文学のどの分野でも予算請求ができる学術的ステイタスを手に入れたと言えよう。慶賀と言わずに、何と言おう。

 なお翻訳についても一言。Barker博士の原文は英語であるが、これは上述の柳瀬妖介殉教授の達意の翻訳によって非常に読みやすい日本語となっている。「フランス語の翻訳に比べて英語の翻訳はずいぶん楽でした。ですから、翻訳者が読んでよくわからないところは思い切って省略するという方針でスイスイ翻訳は進みました」と述懐する彼の努力によって、原著800ページの英語は、120ページの読みやすい日本語となっている。忙しい毎日の仕事の合間をぬって、親指だけによって翻訳をケータイで完了させた翻訳者の労も讃えるべきであろう。「ケータイ小説」とならんで、このような「ケータイ翻訳」は今後普及するかもしれない。


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[以上、『英語狂育通信 2008年4月1日号』より転載]