未だ現実の試練をあまりくぐり抜けていない人間の過大評価は慎むべきですが、The New York Review of Booksに続いて(下の旧ブログ記事(1)参照)、The New Yorker, May 7, 2007. pp. 46-87もBarack Obama氏についての好意的な記事を掲載しました。Staff writerのLarissa MacFarquharによるThe Conciliatorという記事です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Obama
Obama氏は、旧来の政治家のように、自らの知識を誇るような態度は取らないし、安っぽい同情や怒りは示さないと書かれています。
He tends to underplay his knowledge, acting less informed than he is. He rarely accuses, preferring to talk about problems in the passive voice, as things that are amiss with us rather than as wrongs that have been perpetrated by them.. ... He comments in a neutral, detached way. He doesn’t express sympathy for sickness, or scorn for bureaucracy, or outrage at unfairness. He says that the system is broken and needs to be fixed, but conveys no particular urgency. (p. 49)
このようにクールな態度こそはが ‘professional’ ではないかと述べた後で、著者は、いや、 ‘medical’という比喩の方がふさわしいのではないかと述べます。
No, Obama’s detachment, his calm, in such small venues, is less professional than medical – like that of a doctor who, by listening to a patient’s story without emotional reaction, reassures the patient that the symptoms are familiar to him. It is also doctorly in the sense that Obama thinks about the body politic as a whole thing. If you are presenting a problem as something that they have perpetrated on us, then whipping up outrage is natural enough; but if you take unity seriously, as Obama does, then outrage does not make sense, any more than it would make sense for a doctor to express outrage that a patient’s kidney is causing pain in his back. (p. 49)
なるほど、(英語)教育界でも、どこかに不倶戴天の敵を見つけてきて(あるいは作り出して)、それをひたすら呪詛するパターンの言説は多くありますが、もし本当に(英語)教育界を良くしようとするのなら、怒りや罵倒ではなく、全体のバランスと相互作用を慎重に見極めながら、少しずつ事態全体を改善する必要がないでしょうか。関係者の話を辛抱強く聞き、全体の構造を理解し、あちらが立てばこちらが立たずのジレンマも受け入れながら、忍耐強くあちらもこちらも活かしてゆこうとする姿勢は大切なような気がします。
Obama氏は、このような態度を、主に、父母、祖父母を反面教師にすることで学んだようです。
Innocence, freedom, individualism, mobility – the belief that you can leave a constricting or violent history behind and remake yourself in a new form of your choosing – all are part of the American dream of moving west, first from the old country to America, then from the crowded cities of the East Coast to the open central plains and on to the Pacific. But this dream, to Obama, seems credulous and shallow, a destructive craving for weightlessness. (p. 51)
ですから、この意味で彼は「保守」であると言えます。
In his view of history, in his respect for tradition, in his skepticism that the world can be changed any way but very, very slowly, Obama is deeply conservative. (p. 52).
私も以前、西部邁氏の言葉をめぐって短文を書きましたが(下記の旧ブログ記事(2)を参照)、私もこのような意味では「保守」でありたいと強く願っています。
もちろんObama氏は民主党員ですが、旧来のイメージの民主党員ではないようです。以下はObama氏自身の言葉です。
“I’m a Democrat. I’m considered a progressive Democrat. But if a Republican or a Conservative or a libertarian or a free-marketer has a better idea, I am happy to steal ideas from anybody and in that sense I’m agnostic.” (p. 53)
ここにおいても私はとても深く同意します。自らがagnosticであることを深く自覚することが、「保守」であることの大切な資質の一つであると思います。自らの信条を大声で喧伝する自称「保守」には、私は常に抵抗を感じています。(ちなみに洋の東西を問わず自らをatheist/atheisticと語る人は現代では多いのですが、それはagnosticの間違いではないでしょうか。神の不在をあなたはどうやって「証明」するのでしょう(不在の証明は、存在の証明よりも一般に、はるかに困難なものです)。私は、神の存在について私はagnosticであると自覚した上で神の存在を信じて生きることを決めた ‘believer’です。自称atheistは、しばしば ‘believer’を軽蔑しますが、agnosticであるにもかかわらずatheistを僭称する彼/彼女らこそは、「神はいない」と信じたいだけの ‘believer’ではないでしょうか)。さらに脱線を重ねますとObama氏も成人後に神を信仰するようになっているそうです。
話を政治に戻しますと、Obama氏は、非現実的であることを嫌い、自由とは傲慢を避けることであり、自分は、知らないことを知っているとは決して言いたくないと語っています。
Even when he was very young, Obama was scornful of, as he puts it, “people who preferred the dream to the reality, impotence to compromise.” (p. 54)
“The spirit of liberty is the spirit which is not too sure that it is right.” (p. 54)
“I don’t want to make claims as if I had been in a position to articulate a clear position on it.” (p. 55)
私はこの記事に、過剰に自分の理想を仮託しているだけなのかもしれません。しかし現代は、あまりに「現実離れすることを誇るリベラル」や「自らの正しさを疑わない保守」が多すぎるのではないでしょうか。そうでなく「異見を容認するリベラル」と「自らの知識と知恵に対して謙虚な保守」がもっと必要ではないでしょうか。また、そうした時にリベラルと保守は通じ合うように思います。
私は下の記事(2)で、自らを「リベラルな保守」と称しました。それが「リベラルな保守」であれ「保守的なリベラル」であれ、この希望的宣言で私が述べたかったのは、成熟した社会を私は望み、そのためには私自身が少しでも成熟しなければならないということです。
Obama氏の動向にも今後注目したいと思います。もちろん保守的な感覚は、生ける人間に過剰な期待を持つことを警戒するのですが・・・
****以下は旧ブログの記事*****
(1)
Barack Obama
The Phenomenon by Michael Tomasky
Barack Obamaという今人気の政治家はレトリックに長けるようです。
以下は彼の演説の一部。
There's not a liberal America and a conservative America; there's the United States of America. There's not a black America and a white America and a Latino America and an Asian America.
NYR November 30, 2006. p. 14
なるほど、古典的ともいえるレトリックですね。
しかしもちろん彼は口先だけの人間ではなく、健全な判断力も持っているようです。
I believe it is in the interest of both Americans and Iraqis to begin a phased withdrawal of US troops by the end of 2006, although how quickly a complete withdrawal can be accomplished is a matter of imperfect judgment, based on a series of best guesses.
NYR November 30, 2006. p. 16
"A matter of imperfect judgment, based on a series of best guesses"なんて覚えておきたい表現ですよね。ここを見誤ると大変なことになりますから。自他を制するこのような台詞は重要です。
彼は民主党ですが、いわゆる「リベラル」とは一線を画しているというのがこの著者の見解のようです。
He really is not a political warrior by temperament. He is not even, as the word is commonly understood, a liberal. He is in many respects a civic republican -- a believer in civic virture, and in the possibility of good outcomes negotiated in good faith.
NYR November 30, 2006. p. 17
2008年の大統領選挙に向けて、彼はどう出ますでしょうか。
(2)
「保守」とは何か
私という人間を形容する言葉は何だろう、と思っていたら"liberal conservative"という言葉が浮かんできました。(けっこう暇だね、私も)
私は、文化的・政治的には"liberal"、というより「ストライクゾーン広し!」のような人間かと思いますが、本質的なところでは、口語でいうところの「おそれ」です。
果ては全体主義的国家から、末は官僚主義まで、私は、人工的な計画の実施をけっこう「恐れ」ています。ハイエクのいう「設計的合理主義」--世界や人生を設計図どおりに作り変えようという知性--を警戒しています。そのような知性の驕慢にはしることにより、私たちが気づいていないかもしれない昔からの知恵が失われているかもしれないことを「怖れ」ています。
さらには、人間にはなかなか理解しがたいが、実は真にして義なることがあるのではないかと「畏れ」てもいたりします。ですからこの世俗的な日本の中の、「科学主義」がしばしば見られる中途半端な人文社会系の学界に属するにもかかわらず「神」などを信じたりしています。私は本質的なところで"conservative"なのではないかと最近思うようになってきました。
まあ、歳を取ってきただけのことかもしれませんが。
下は、西部邁氏の言葉です。
人間は合理的なことしか理解できないわけね、でも自分の理解を超えた不合理なことがある、だから信じるんだと。自分には保守すべきものが何であるか分かりやすく言うことが難しい。難しいからこそ、それがあるはずだと探し始める。ところが、世間の右翼や自称保守は、保守すべきものが「ここにある」と思ってる。そんなものがあれば苦労はないって。
西部邁「保守とは何かを考える」毎日新聞2007年4月24日