2014年1月27日月曜日

レイコフとジョンソンによる「客観主義」と「経験基盤主義」に関して寄せられた学部生コメント





学部3年生対象の「コミュニケーション能力と英語教育」という授業で、先日、下のサイトやスライドを参照しながら、彼らのいうところの「客観主義」 (objectivism) と「経験基盤主義」 (experientialism)について講義し互いに意見交換をしました。



■ 身体性に関しての客観主義と経験基盤主義の対比
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/06/blog-post.html

■ ジョージ・レイコフ著、池上嘉彦、河上誓作、他訳(1993/1987)『認知意味論 言語から見た人間の心』紀伊国屋書店
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/19931987.html

■ マーク・ジョンソン著、菅野盾樹、中村雅之訳(1991/1987)『心の中の身体』紀伊国屋書店
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/11/19911987.html

■ ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン著、計見一雄訳 (1999/2004) 『肉中の哲学』哲学書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/19992004.html






口頭での意見交換だけでなく、(いつものように)授業用のWebCTにもたくさん面白い意見が書かれました。以下は、そのごく一部で、私の個人的ツボに特にはまったものです。明らかな誤植の校正以外はすべて学生さんの文章です。

授業の準備は決して楽ではありませんが、毎回私も授業をすることで学ばせていただいております。





HS君

客観主義に基づく科学と、その科学を神に位置づける人々がいることについて少し考えてみました。

科学が基づくものはすべて、合理的思考のもとに産み出されたものです。身体に発生する特徴的な兆候や感情といった一時的かつ合理的でないものに対して、科学がそこに真実を求めるようなことは決してありません。合理的・理性的に導かれた科学における帰結はその意味で、真理をつかさどる絶対的な”神”として位置づけられるのだろうと思います。

一方で、科学を神と位置づけることは図らずも自らの立場を明らかにすることであるとも言えます。先日映画「天使と悪魔」を観たのですが、そこでは「科学は神」と謳う秘密組織イルミナティと、本来の神であるべきイエスを崇めるヴァチカン協会の思惑渦巻く緻密な内部抗争が精彩に描かれていました。何に対して神の存在を感じるか、ということは人が何を信じ、何を生きる意味とするかに大きく関わってくるものですが、映画のようなスケールでその神を巡る争いが描かれると、客観主義がその果てに行き着くものはなんなのだろうかとも思えました。

一部の人が言うように、教育に科学の考え方を応用すること自体は画期的ですしそれによって成果の得られることも少なくないのだと、私も思います。教育が目指すものは、しかしながら、身体やこころを排除して扱う「科学的」な視点とは相反するものであり、決まり通りに考えれば100を解決できるなどといった合理的で短絡的な世界ではありません。

教育をするのはひとであり、神ではありません。教育とは人と人の間に生まれる愛情であり、迷いであり、喜びなのです。人ならば、時に感情的にもなりますし同じ体をもつ人など誰一人としていません。「世界を人を一元的にとらえることで、全員が同じように成績を上げられるようになる。神のように人々を思いのままに教育できる」と思っているような人には感情ひとつ動かされることはありません。そこに残るのは、最も人間らしくない支配や脅威といったものばかりです。多くの進展を支えてきた科学の客観的思考を教育に持ち込むことを否定しているのではありませんが、教育者として、教室で一番最初に起こるのは授業法に基づいて用意してきた完璧な授業ではなく、人と人の関わり合い、だということを肝に銘じておきたいものです。





ASさん

客観主義と経験基盤主義について、特に客観性のとらえ方について気になりました。客観主義は自らの視点やそれにつながりかねないものを毛嫌いし、より神の視点から物事を見ることを目指しています。それに対し経験基盤主義では、自らの視点はあるもののそこから一旦離れて、物事をできるだけ多面的に見ようとしています。客観主義のように神の視点という一つの視点のみにとらわれてそれに近づこうとしていると、やがては客観主義自体が破綻すると批判しました。私にとってはこの「神の視点」の定義や、何をもって「神の視点」に到達したとみなすのかという点を疑問に思います。

まず、神の視点に近づいたと判断するのは誰なのでしょうか。誰かが神の視点というものを何らかの形で神から直伝され、それを民衆に体得させようとするのでしょうか。

(中略)

やはり客観主義では最終的に無理が生じてくるのではと思いました。神の視点というものを意識しすぎず、人間としての多面的な視点を大事にするという経験基盤主義に納得しました。





HS君

新しい見解における「真理」、「科学と哲学」についての考察です。

「真理」とは、簡潔に言えば、「真」と思う、或いは思わされているもののことである。 初めから極端な話ですが、1500年頃の開拓時代には生まれてすぐ奴隷として働くことをしいられたり、身体的な罰を日常的に受けたりすることが「真」となることが珍しくない世界もありました。そのような世界で、しかしながら、自分たちの住む世界の外を訪れ、それらの「真」が絶対的なものではなく少数の人間によって押し付けられていたものだったのだと知った人々は抵抗し、変化を望み、改革を起こしました。政治、市場、国家、これらすべてに変革がもたらされたのは、そのように人々の間で「真」とされるものが移り変わってきたからに他なりません。

非常に短絡的ですが、このことから人々が思う「真理」に客観性を持たせることがとても不安定なことであり、また、まずはその「真理」を打破することこそが新しい発明や想像を超えたアイデアをうみだすきっかけでもあると思えます。

「科学と哲学」は「WhatとWhy=実践と信念」、と私は考えます。

その点で、「科学との接点がなければ哲学とは単なるお話」(予習用スライドから引用)という言葉は、「What=やっていることとWhy=思っていることが一致していなければ、思っても無駄」となり、つまるところ、科学と哲学どちらか一方だけではなく両の絡み合いが必須、ということを示唆するものと言えます。ただ、必須とはいいつつも、両方を均等に保つのはむずかしいことです。そんな場合、個人的に私はWhyを優先させます。なぜか。漫然と何かをこなすより、どんなに小さなことをやるときでも自分の信念=なぜそれをやるのかに応えられることが生きることそのものだと思うからです。Simon Sinekは、こう言っていました、「人々はWhatに動かされるのではなく、Whyに動かされるのだ。」(TED talks) "Energy motivates but Charisma inspires" そしてCharismaはWhyから生まれる、と。科学なしに哲学をかたれば、ただのきれいごと。一方で、哲学のない科学には到達点もなく発展につながる糸口もない。その二つを峻別するのは不毛なことかもしれませんがやはり、何をするかよりなぜするかを考えることが、動物と一線を画し人間として生きることの「らしさ」と言えるような気がします。「科学と哲学」どちらも必須ですが、優先順位をつけるならば哲学をその上位に持っていきたく思います。

「真理」と「科学と哲学」について、でした。





TD君

客観主義における客観性は「物事を神の視点からよりよく見るために主観的、身体的な側面の全てを排除すること」を意味するとありましたが、つまり客観主義者にとって「身体」とは、物事を視る上で障害にしかならないいわば仕切りのようなものである、という捉え方をしていると解釈しました。それに対して経験基盤主義では、一つは客観主義とは逆に身体の中から世界を見る、つまり身体を物事を視る上での障害ではなく物事をみる媒体として捉えており、かつ他の視点から視ることを客観性として捉えています。

(中略)

ここで客観性の話に戻ると、客観主義にとっての客観性とは現実世界に対応することができているか、できていないかを神に近い視点から見ることであり、経験基盤主義にとっての客観性とは自分の理解している世界を他の視点から視なおしたり、基本的な概念とそこから派生した概念を区別し、基本的な概念に戻って派生した概念を視直すこと、と考えました。

(中略)

客観主義的な立場に立つならば、言語とは最初から最後まですべて制御されたプログラムのようなものであり、僕たちはそのプログラム上でのやりとりを通して生活をしている、というようなイメージが浮かびました。しかし、僕にとって言語とはとてもプログラムで制御、あるいはプログラムとして書き出せるような範疇のものではなく、つねに世界に影響を与え、つねに世界の影響を受け、日々変化していく生物のようなものにも思えます。





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