■ 見逃されていた愛着障害
「愛着障害」という用語は私も知らなかったが、『母という病』があまりに面白かったので著者の岡田尊司先生の関連書であるこの二冊を読んだ。これも非常に面白かった。うつ、不安障害、依存症、パーソナリティ障害あるいは発達障害などで苦しむ人達への支援のためには、愛着障害に関する理解が重要だと岡田先生は考えるが(岡田 2011, p. 7)、精神科医も心理療法家も愛着障害に対する認識を欠いていることが多いという(岡田2011, p. 243)。そういった現状では、およそ人間に関わる職業についている人は、この愛着障害について理解を深めておいた方がいいのかもしれない。
■ 広義の愛着障害
「愛着障害」とは、最初は戦災孤児などのように明らかに幼少時に適切な養育を得られなかった児童に対して使われた概念だったが、やがて研究が一般の児童を対象にしはじめると、実の親に育てられていてもかなりの割合で愛着障害が見られるし、成人ですらも愛着障害に苦しむことがあることがわかってきた(岡田 2011, p. 48)。かくして明らかな虐待や養育放棄による愛着障害を「反応性愛着障害」(狭義の愛着障害)とした上で、岡田先生は広義の愛着障害(特に回避性愛着障害)についてこの二冊で一般読者のためにまとめる。
■ 「安全基地」としての養育者
健全な家庭では、養育者が子どもの「安全基地」 (safe base) となる。安全基地とは、「いざという時に頼ることができ、守ってもらえる居場所であり、そこを安心の拠り所、心の支えとすることのできる存在」である(岡田 2011, p. 259)。
健全な家庭では養育者が、(1) 安全感を保証する、(2) 感受性(あるいは共感性)豊かな存在であり、(3) 応答性に優れ子どもが求めることに応じ、求めないことを押し付け子どもの主体性を損なうことがない。養育者はさらに (4) 安定性を備え態度が一貫し、子どもが (5) 何でも話せる存在であり、子どもをいたずらに否定したり傷つけたりしないし、説教や秘密の暴露などで子どもを追い詰めてしまうことがない。 (岡田 2011, pp. 262-264)
■ 養育者による「共感的応答」
健全な養育者の特徴を別の言い方で表現すれば、それは「共感的応答」を子どもに対して与えることができる存在となる。子どもの気持ちを理解することができない、あるいは子どもが何かを求めてきても応えようとしなかったり、求めているのとは見当違いのことを押し付けたりする親は言うまでもなく共感的応答ができていない。
共感的応答は以下の三点で子どもの発達を助ける。 (1) 子どもにわかってもらったという安心感や満足感を与え、他者に対する肯定的な認識を育てる。(2) 共感的な言語化により、言語的にまだまだ未発達な子どもの自己理解を助ける。(3) 子ども自身が他人に対して共感的応答ができるようになる。(岡田 2013, pp. 57-59)。
■ 養育状況の欠損
このような安全感・感受性・応答性・安定性・信頼感や、安心感・共感的言語化・子どもによる共感的応答の取り込みは、虐待や養育放棄などをする養育者によっては与えられないことは火を見るより明らかだ(そして昨今、虐待や養育放棄は決して珍しくないことを私達は忘れてはならない)。
だがそこまでひどい例ではないにせよ、離婚などによる片親の不在や、親の過酷な労働条件などによる子どもの情緒的放置、あるいは家庭内不和による両親の相互非難(子どもはどちらの親も信頼できなくなる)などで、子どもは親密で情緒的な関係をもつことに対して、希望や関心よりも不安や抵抗を覚えるようになる 。子どもは母親だけでなく父親にも愛着しているので、両親が諍い争うことは、子どもにとっては身を裂かれるような苦痛である(岡田 2013, pp. 75-76)。
さらに気をつけておかなければならないのはいわゆる「教育熱心」な親である。「教育熱心」の実質が、親自身の強迫的な「○○せねばならない」という思考に基づく、自然な情愛を欠いた専横的なしつけ(事実上の子どもの支配)だったら、子どもはひたすらに息苦しい毎日を過ごさなければならない。岡田先生はそのような「教育熱心」な育て方について以下のようにまとめる。
ここまで考えると、一見、ネグレクトとは正反対の子育てにみえるものの、その実態は、子どもの欲求や感情、意思というものを”無視”するという点において、まさにネグレクト(無視)が起きていることがわかる。いや、意思とは無関係に強制し、子どもの主体性を侵害しているという点で、ネグレクト以上に過酷な虐待ともなり得る。それゆえ、問題が深刻な場合もあるのだが、親も子もそれを自覚するどころか、この親は”良い親”だと思いこんでいる点で、なかなか質(たち)が悪いと言える。(岡田 2013, pp. 68-69)
加えて近年の新生児室・ベビーベッド・保育所といった制度は、女性が資本主義社会の競争に参加する手助けとはなったが、乳幼児を実の親から引き離すという、他の哺乳類では考えられないことを「当然のこと」としている制度である(人類史上でもこのような引き離しが制度化されたのはここ数十年のことに過ぎない)。さらにテレビはおろかタブレットやスマホあるいはゲーム機などがもっぱらの乳幼児・子どもの相手となることも増えている。
かくして、安全感・感受性・応答性・安定性・信頼感の獲得や、安心感・共感的言語化・子どもによる共感的応答の取り込みを経験しないまま成長する子どもが増える。そうした子どもが苦しむのが愛着障害で、その障害は成人になってからも続く場合が珍しくない。
■ 愛着障害の四類型
健全な育てられ方をした人の愛着パターン(愛着とは、「人と人の間の親密さを表現しようとする行動」と定義できるだろう 参考:ウィキペディア「愛着理論」)は、安定型 (secure) と表現できるが、不安定なパターンは、3つに下位分類される。
(1) 不安型(抵抗/両価型)
不安定な愛着パターンの第一は、「不安型」(Anxious-preoccupied attachment)である(子どもの場合は「抵抗/両価型」(Ambivalent/Resistant) と呼ばれる)。不安型をWikipedia (Attachment in adults)は、次のような表現(不安型の人の自己記述)で端的に説明している。
"I want to be completely emotionally intimate with others, but I often find that others are reluctant to get as close as I would like. I am uncomfortable being without close relationships, but I sometimes worry that others don't value me as much as I value them.”
「他人との申し分ないぐらい情緒的に親密な関係を望んでいるが、多くの場合、他人は私が望むほどの近い関係を望んではいない。親しい関係がないと苦しいが、私が他人を大切に思うほど、他人は私のことを大切に思っていないことが時々心配になる。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Attachment_in_adults
かくして不安型の愛着パターンをもつ人は、困ったことが起きた場合、誰かれなく相談しようとし、過剰なまでに大騒ぎをし、甘えられる人になら誰にでも甘えようとする(岡田 2013, p 16)。子ども(抵抗/両価型)なら、母親から離されると激しく泣いて強い不安を示すが、母親が再び現れると拒んだり嫌がったりする(だがいったんくっつくとなかなか離れようとしない)(岡田 2011, p. 38)。
(2) 回避型
第二のパターンの「回避型」 (Dismissive-avoidant attachment) を、Wikpediaは次の自己記述で代表させる。
"I am comfortable without close emotional relationships.", "It is very important to me to feel independent and self-sufficient", and "I prefer not to depend on others or have others depend on me."
「親しい情緒的関係がなくても平気だ。自分にとって大切なのは一人で充足感を覚えることである。他人に頼りたくないし、頼られたくもない。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Attachment_in_adults
岡田先生は次のようにまとめている。
回避型の人は、自分の心中を明かさず、相手が親しみや好意を示してきても、そっけない反応をしがちである。他人といっしょに過ごすことよりも、基本的に一人で何かすることの方が気楽に楽しめる。他人と過ごすことにまったく興味がないわけではないし、その気になればできないことはないが、そこには苦痛と努力を伴うのである。(岡田 2013, p. 18)
かくして回避型の人は、親密な信頼関係を避け、感情や情緒を抑える(岡田 2013, p. 19)。困ったことが起こっても何事もないかのようにただ一人で耐える。(岡田 2013, p. 16)
「普通」の人からすれば考えがたいこういった回避パターンも、小さな頃から親に拒まれ、否定され続けてきたならば(あるいはいくら求めても親は来なかったのならば)、そもそも自分は情愛などを必要としないという自己規定をしていないと子どもは生き残ってゆけなかったと考えれば納得もいくかもしれない。
回避型の子どもは、「母親から引き離されてもほとんど無反応で、また、母親と再会しても目を合わせず、自分から抱かれようともしない」(岡田 2011, p. 38)という。大きくなっても、問題を一人で抱えて耐えるため、周りも異変に気づかない。だが心よりも体の方が先に悲鳴をあげ、頭痛や腹痛、下痢、吐き気、動悸、めまいといった身体症状になってあらわれることも多い(岡田 2013, p. 37)
(3) 恐れ・回避型(混乱型)
第三のパターンである恐れ・回避型 (Fearful-avoidant attachment) をWikipediaは、次のような自己記述で表現している。
"I am somewhat uncomfortable getting close to others. I want emotionally close relationships, but I find it difficult to trust others completely, or to depend on them. I sometimes worry that I will be hurt if I allow myself to become too close to others."
「他人と親しくなるのがやや苦手である。情緒的に親しい関係を欲してはいるが、他人を完全に信頼することができないし、他人に頼ることができない。もし自分が他人に近づくことを自分自身で許してしまったら、自分が傷ついてしまうのではないかとときどき不安になる。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Attachment_in_adults
岡田先生のまとめによれば、「人に過剰に気をつかい、親しみを求める一方、誰にも心を許せず、他人が信じられない」、「もっとも不安定なタイプ」である(岡田 2013, p. 17)。
子どもの場合は「混乱型」 (disroganized) と呼ばれるが、このタイプの子どもは回避と抵抗が入り混じり、外から見れば一貫性のない行動パターンを示す。精神的状態がひどく不安定な親の子どもにみられやすいとも言われている。(岡田 2011 p. 39)
むろん、愛着障害は相互排他的にこの三種類に分類されるわけではない(人間を単純に類型化することはほとんど暴力的なことであるが、「知的な」人はこの暴力を無自覚に行いやすい)。
岡田先生も、二冊の巻末に45の質問からなる簡単な「判定方法」を出しているが、そこでの類型は、「安定型」、「安定-不安定型」、「安定-回避型」、「不安型」、「不安-安定型」、「回避型」、「回避-安定型」、「恐れ・回避型」の9種に増え、2013年の本ではそれらに併存しうる「未解決型」も加えられている。もちろん9か10種類なら単純化による知的暴力を避けられるというわけではないが、類型化による裁きの凶々しさもこれなら多少は緩和されているのかもしれない。
■ 自分と他人に対する肯定・否定
以上3つの不安定型の愛着パターンと、健全な安全型の愛着パターンを、自分と他人に対する肯定感・否定感から整理すると以下のようになるとWikipediaはまとめている(Wikipedia掲載の表を日本語に翻訳)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Attachment_in_adults#Organization_of_working_models
■ 回復への途
このようなことが多くの症例からわかっている以上、現在いる乳幼児に対して養育者は健全な愛情 ―それは溺愛でも支配でもない― を潤沢に注ぐことに全力を尽くすべきであることは言うまでもない。これは子どもの一生の問題である。いや、それどころか、愛着障害を抱える人は親になった場合、知らず知らずのうちに生まれた子どもまでも愛着障害にしたしまう可能性が高い以上、これは何代にもわたる未来に関する重大な事柄である。
しかし、もうすでに思春期に達してしまった若者はどうすればいいのだろうか。
母親との関係で苦しんだと推定される宮崎駿氏は、次のようにも言っている。
親というものは、子どもの純粋さ、大らかさをややもすれば踏みにじることがあるんですね。そこで、子どもに向かって「おまえら、親に食い殺されるな」というような作品を世に送り出したいと考えたのです。親からの自立ですね。 (大泉実成 (2002) 『宮崎駿の原点』潮出版社 pp. 92-93)
いわゆる「問題行動」とされることにも隠された意味がある。それを思春期の当人が自覚していることは少ないかもしれないが、少なくとも周りの大人(親、親族、教師など)は、その隠された意味を見出すよう努力するべきだろう。少なくとも安っぽいお説教で当人をさらに追い詰めることは止めるべきだろう。また、当人も、若者の抵抗・反抗・自立を描いた芸術作品(特に文学)の力などを借りながら、抑圧的でも冷淡でもない大人を見つけだすべきだろう。
だが、もはや成人になってしまってから自らの愛着障害に気がついた人はどうすればいいのだろうか。
宮崎駿氏は次のようにも言っている。
傷が癒やされるかといったら、それは耐えられるだけであって、癒されることはないですから。人間の存在の根本にかかわることですから、耐えられればいいんですよ。 (大泉実成 (2002) 『宮崎駿の原点』潮出版社 p. 174)
「傷が癒えることがなくともそれは悲劇ではない。傷は耐えられればいいのだ」という諦観はなるほど一種の救いである。これで気が楽になる人も多いだろう。だが、身体の方がもう耐え切れずに諸症状を示し、それと共に心も弱り切ってしまおうとする人はどうすればいいのだろうか。もちろん症状が重篤な場合は専門施設の力を借りるしかないが、岡田先生のこれらの本はそのような人たちというよりは、市井の人々の中にまぎれながら人知れず苦しんでいる人々のために書かれている。岡田先生は、少なくとも三つの途を示している。
一つはまず社会的・職業的役割を充たすことから自己回復を図ることである。個人的で親密な関係に抵抗を覚える愛着障害の人も、機能中心でそれほどの親密な関係を必要としない社会的・職業的な役割なら果たせるかもしれない。その中で少しずつ親しい対人関係を築くことはほどよい訓練となるかもしれない(岡田 2011, p. 294) ― ただし、子どもの頃から親に義務を強要されるような養育を受け、その親の期待に応えることに成功してしまい、親の基準を自らの中に取り込んでそれに同一化してしまった「強迫性パーソナリティ」の人はワーカホリックになりやすい(岡田 2013, p. 47)ので要注意である。
二つ目の途は、後輩や若い人の親代わりとなって、その人達を育てることである。岡田先生は夏目漱石を愛着障害に苦しんだ一人としているが、漱石は、実子の父親としては失敗したにせよ、門人に愛してはよき指導者であったと評価している。門人たちの「安全基地」になることによって漱石は人間的に成長できたのではないかというのが岡田先生の見立てである(岡田 2011, pp. 300-301)。
三つ目の途は、「自分が自分の親になる」ことである。愛着障害に苦しんだ、エリック・エリクソン ―今や誰もが使う「アイデンティティ」概念の生みの親の研究者の人生について、この本を読むまで私は何も知らなかった―は、養父からもらった名前であるホンブルガーをミドルネームのHにして、エリクソンという名前を自分でつけた。彼の名前はエリク (Eric)であり、エリクソンとはもちろんEric-sonつまり「エリクの息子」という意味である。当然のことながら改名は象徴的行為にすぎないが、それでも彼のこの自覚的行為は彼の人生の再生への礎となったであろうことは想像にかたくない。
無論、愛着障害に苦しむ人も、きわめて個人的で親密な情緒的つながりをもてる相手を見つけることができれば、そしてその関係を維持・発展することができれば、それが一番いいのだろう。しかし障害の度合いや置かれた状況によってはそれも難しいかもしれない。それならば宮崎駿の言い方を借りて、「障害がなくなることはない。だが、それは耐えられればよい」とばかりに、以上の三つの途(あるいはそれ以外の途)に可能性を見出すことができるのかもしれない。
■ 愛着障害に苦しんでいたと思われる人たち
この二冊では、愛着障害に苦しんでいたのではないかと岡田先生が推定する著名人が数々のエピソードと共に紹介されているが、これらの人々の名前をずらりと並べる(順不同)と一種壮観である(『母という病』に掲載した著名人はここでは割愛する)。
夏目漱石、太宰治、川端康成、谷崎潤一郎、井上靖、中原中也、種田山頭火、高橋是清、 ミヒャエル・エンデ、アーネスト・ヘミングウェイ、ヘルマン・ヘッセ、エリック・ホッファー、マーガレット・ミッチェル、ジャン・ジュネ、バラク・オバマ、ビル・クリントン、スティーブ・ジョブズ、チャールズ・チャップリン、マーロン・ブランド、ウィノナ・ライダー、カール・グスタフ・ユング、エリク・エリクソン、ジャン=ジャック・ルソー、セーレン・キルケゴール、ゴータマ・シッダルタ
最後にゴータマ・シッダルタ、すなわち釈迦の名前が出てくるところなどは驚きを通り越して笑いすらこみ上げてきかねないが、彼の出生直後に母親を失うということもあり青年期に物思いに深く悩む彼のことを心配した父親(王)が、妻を娶らせ、その結果かわいい子どもまで生まれたというのに、妻子と王位を捨てて出家するというのは確かに尋常ではない。この愛着障害概念を生半可な理解のまま振り回すのは、愚かさを通り越して危険であるが、この概念は人間理解のためになかなかに重要なのかもしれない。
■ 愛着障害と創造
上のリストを見てみると、文学作品を筆頭に偉大な創造を行った者が多いことに気づく。偉大な創造とは、旧来の価値の破壊であり、安定した愛着関係をもつ者は逆にそういった破壊になかなか踏み切れない。親を代表とする旧勢力に対する根源的な憎しみがあった方が偉大な創造にエネルギーを向けやすいのではないかというのが岡田先生の見立てである(岡田 2011, p. 185)
■ エリクソンの「奇跡」
最後にエリクソンの「奇跡」と呼ばれるエピソードを紹介してこのまとめを終える。エリクソンは1933年にナチスの脅威から逃れるためにウィーンからアメリカにやってきたが、彼は英語がしゃべれず、英単語も百個ぐらい知っていただけだったという。やがて彼も生活のため、精神分析を始める。そんな語学力で精神分析などできるものか、というのが常識だろうが、驚くべきことに、彼は次々に患者―多くは他の精神分析医が見捨てていたような患者―の治療に成功する。
この「奇跡」が起こった要因には、エリクソン自身が愛着障害を抱え、それを克服しようと苦悩しながらもしてきたことがあると岡田先生は考えている。マーサという名前の患者とのエピソードをまとめて岡田先生は次のように言う。
エリクソンは、語学力に大きな困難があってさえも、マーサが直面している困難を、直感的に感じ取ることができたに違いない。なぜ、それが可能だったかと言えば、彼も同じ問題で悩みつづけ、それを克服してきたからだ。彼を苦しめたアイデンティティの問題の根底には、母親や名前も知らない父親、そして養父との不安定な愛着の問題があった。エリクソンのこれまでの人生は、愛着障害を克服するための道のりであったとも言える。(岡田 2011, p. 253)
人間が後世に残せる最大のものとは何かという問いに対して、内村鑑三は、なるほど金も事業も、思想も文学も残すには素晴らしいものであろうが、後世への最大遺物とは「勇ましい高尚なる生涯」だとある講演で述べた。「勇ましい高尚なる」という表現は、日清戦争のあった明治27年にこの講演がなされたという時代背景からくるものか、少なくとも21世紀のポストモダン的現代を生きている今の私には若干の抵抗を覚える表現だが、人間が後世に残せる最大のものはその人の生涯、人生、生命―便利なことばでまとめてしまえばlife―だというのは共感できる。実際、内村は次のように言って講演を終えている
われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います
http://www.aozora.gr.jp/cards/000034/files/519_43561.html
生まれと育ちというものは、ほとんど当人が責任をとりようもないうちに定まってしまい、それが存外残りの長い生涯に影響する(岡田先生によれば、漱石が自らの愛着障害に向かい合うことができたのは、ようやく『道草』―彼の最後の作品―になってからである)。生まれと育ちというものは、一種の定めであるが、定めのない人生がない以上、その定めを生き抜くことこそが人間の偉大さなのかもしれない。少なくとも儲けた金の多寡や勝ち得た地位の高低で人生の価値を測ろうとすることよりは、定めを生き抜くことに人生の価値を見出す方が、多少は品のあることかと思う。
後世への最大遺物
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