「市場」という語は、しばしば「開かれた場」の象徴として使われます。誰もが入ることを許され各々の自由意思で交換をする場としての意味です。そこでは自由や公正の概念が重んじられ、革新や進化が促進されます。(ハイエクが自生的秩序といった概念で市場を評価するのもこういった意味合いでしょうか)。
一方、「市場原理主義」といった用語や「市場の論理」といった表現での「市場」には否定的な意味合いがつきまといます。この場合の「市場」は利益第一で人々が競う場であり、しばしば公共性や安全性などが軽視されるといったイメージが付きまといます。(この意味での「市場」はしばしば「新自由主義」との関連で語られます)。
「教育が市場の論理に支配されている」というのは明らかに否定的な表現ですが、同時に「学校を開かれた場所に」という表現には私自身惹かれます。またマット・リドレーが『繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史』(最近、文庫化されました)で言うように、自由な交換こそが人類を発展させてきたのだと私も考えます。
この二つの意味合いをもつ「市場」ということばをどう理解したものか、というのは私ではなかなか折り合いをつけられない問題でしたが、たまたま本屋で見つけて出張の移動中に読み始めた本書はとてもおもしろく、「資本主義」と「市場秩序」を私たちは区別してことばを使うべきだということがよくわかりました。
以下は、本書を読んでの私の「お勉強ノート」です。三流大学経済学部の学部一年生のノートぐらいのレベルですが、備忘録としてここに掲載しておきます。以下のまとめには、私自身の表現がかなり多く混入していますので、きちんとした理解をしたい方は必ずご自身で本を読んでください。
■ 重商主義者とアダム・スミスの対比
⇒しばしば、アダム・スミスは自由市場の旗手のようにも思われているが、彼が批判した重商主義との対比で考えるなら、彼が重視したのはまず国内での富(豊かさ)であり、自由市場はそれあってのものであることがわかる。他方、重商主義は、保護貿易などにはしったが、その基本的前提はグローバルな市場での貨幣・金銀の獲得であり、こちらの方がむしろ「グローバリスム」の考え方に近い。
<前提とする経済> (49-50ページ)
グローバル経済(重商主義)
VS
国内経済 (アダム・スミス)
<経済政策> (49-50ページ)
貿易管理による貨幣・金銀の獲得 (重商主義)
VS
国内生産の向上の結果としての自由貿易 (アダム・スミス)
<経済を始める「最初の贈与」> (63ページ)
「最初の暴力」・「最初の略奪」 (重商主義)
VS
土地と労働力という「自然の贈り物」・「神の恵み」 (アダム・スミス)
<貨幣の役割> (80ページ)
(剰余としての)貨幣があって市場交換が(本格的に)始まる (重商主義)
VS
物々交換から貨幣が導入され市場交換へ移行する (アダム・スミス)
<市場交換とは> (97-98ページ)
貨幣的交換レベル:モノはモノと交換されるのではなく貨幣と交換される (重商主義⇒資本主義へ)
VS
財物交換モデル:モノは貨幣と交換されるのではなくモノと交換される(ロックやアダム・スミスひいては新古典派経済学⇒市場秩序へ)
<市場の役割> (122ページ)
貨幣がその価値を自己増殖させるための装置 (重商主義)
VS
土地と労働の生産性を高め、富や富の基礎を適切に配分するための装置 (アダム・スミス)
・ 重商主義
重商主義者は、「富」 (あるいは「豊かさ」 - wealth) を、貨幣つまり金銀であるとした (48ページ)。したがって国富の問題を、貨幣・金銀が大きく動く外国貿易から考え、国境を超えて移動する貨幣と金銀という「グローバルな現実」を前提とし、その意味での国富を増やすために貿易の管理という一国中心的な経済政策を説いた。経済政策だけ見れば閉鎖的に見えるかもしれないが、前提としているのはあくまで「グローバルな経済」である (49ページ)。
・ アダム・スミス
アダム・スミスは、「富」 (あるいは「豊かさ」 - wealth) を、日常品や労働生産物であるとした(48ページ)。したがって「グローバルな経済」により外国貿易で貨幣や金銀を獲得することではなく、国内の土地や労働の生産性を向上させることが国富につながると考えた。富はますは国内の生産から始まり、国内の土地が改良され製造業が発展してから、最後に外国貿易が起こることが「事物の自然な順序」だとアダム・スミスは主張した (50ページ)。アダム・スミスは、国内の土地や労働の生産性の向上を一切もたらす。
・ 16世紀の経済システム再編
ヨーロッパは新大陸から(奴隷的労働によって採掘された)金銀を大量に持ち込み(「最初の暴力」あるいは「最初の略奪」 ― 参考 『インディアスの破壊についての簡潔な報告』)、新大陸やアジアと交易を開始し、ヨーロッパ、新大陸、アジアのそれぞれで比較的秩序だって住み分けられていた交易組織をいったん打ち壊し、遠方の大規模交易をも含めた経済構造へと経済システムが再編成された。この再編により、国民国家を単位とする経済と、それを超えた超国家的経済の二重構造がもたらされた。(56-57ページ)
・ 経済の始まり
富を貨幣となる金銀とする以上、重商主義者にとって経済の始まりは、新大陸から「最初の暴力」もしくは「最初の略奪」によって得た金銀によるものだった。これに対して、富を生活の必要物資と考えるアダム・スミスにとって、経済は土地と労働という「自然からの贈り物」もしくは「神の恵み」によって始まったとされる。(62-63ページ)
・「富」(「豊かさ」) = 貨幣
「富」(「豊かさ」)を、日常の生活を充たすものではなく、貨幣だとする重商主義的見解(ひいては「グローバリズム」)は、日常生活を超えた規模の市場取引で貨幣を自己増殖させることこそが「豊かさ」だと考える。貨幣をもつことは世界を象徴的に手に入れる方法とみなされる。ここで貨幣とは支配力であり、貨幣愛とは権力欲である。(143ページ)
■ ゾンバルトの資本主義とマックス・ウェーバーの資本主義
⇒マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』はあまりに有名であるが、彼がこの本で取り上げた「資本主義」は、資本主義の一類型に過ぎず、現在の「グローバル資本主義」はむしろ彼の論敵のゾンバルトの方によってよく取り上げられていた。
<前提とした資本主義> (155ページ)
金融・商業・政府が結合した国境を超えた「賤民資本主義」(パーリア・キャピタリズム) (ゾンバルト)
VS
合理的経営・勤勉労働の職業倫理による「市民的資本主義」(マックス・ウェーバー)
<「大地」とのつながり> (250-251ページ)
「脱大地的」(=特定の場所に固着せずただ「奇食」するだけのボーダレスな商業・金融活動 (ゾンバルト)
VS
「大地」(=具体的な場所)での労働生産による必要物資の交換 (マックス・ウェーバー)
■ 資本主義社会と大衆社会
⇒資本主義社会と大衆社会は互いに親和性が高い。
資本は常に過剰なものとしてさまざまなボーダーを超えて生産体制に入り込み、自己増殖を図る。資本が自己増殖することに適合した社会が資本主義社会である。他方、大衆とは、帰属すべき場所をもたない人々のことである。大衆は、帰る田舎をもたず、特定の地域共同体や階級に深く帰属するわけでもなく、自分たちのための政治的代表をもち得ず、特定の宗教的信念もなく、強い国家意識も公共心ももたない。このような大衆が増えた社会が大衆社会である。(274ページ)
となると、資本主義社会と大衆社会は親和性が高いと考えられる。流動的な大衆を資本主義的生産体制は必要とし、大衆も資本主義生産体制から賃金を得るしか生きる術がないからである。
「大地」から切り離された大衆は「自由」な賃金労働者(そして消費者)となるが、そういった賃金労働者が大多数を占める大衆社会では、関心の焦点は大地に根ざした生産・労働から、いかにして総消費を増加させ雇用と賃金を確保するかに移行する。(293ページ)
資本主義は一方で大衆を動員し「普通の人々」をそこに巻き込むが、同時に資本主義的競争により過剰生産となれば賃金低下と失業率上昇が生じ、資本主義からの脱落者を「普通の人々」の中に生む(367ページ)
■ 資本主義と帝国主義
⇒資本主義は帝国主義の中でさらに膨張した。
資本主義と帝国主義も親和性が高い。資本主義が資本の限りない増殖を根幹とし、帝国主義が経済・政治・文化・宗教も含めた「膨張こそがすべて」の運動だからである。(282-283ページ)
■ マネーゲームにおける貨幣
⇒マネーゲームにおいて貨幣は、人間の生活から離脱し、ひたすら自己増殖することを欲望するものとなった。
十分に組織化された金融市場におけるマネーゲームでは、もはや貨幣はモノの価値を代理するものというよりは、それ自身の分身(株、債権、外国貨幣)と交換されるものである(359ページ)。ルーマンは金融市場を「自己準拠的なシステム」と呼んだが、金融市場では貨幣やもはやモノの世界を象徴するのではなく、自分自身を象徴し自分自身を追いかけている(362ページ)。
人間の心理で言うなら、マネーゲームを駆動しているのは未来への漠たる不安といったものではなく、欲望である。この欲望とは、欲望自体を追い求める欲望である(363ページ)。
各種の自由化や技術革新により世界的に生産過剰傾向になる。これにより先進国の賃金水準が低下し失業率が上がる。かくして生産と労働力と資本が過剰になる。これに消費が伸びないと予測されれば、過剰な資本は金融市場へ流れていく。(366ページ)
■ 経済の歴史を貫く二項対立
⇒重商主義とアダム・スミスの対立や、ゾンバルトとマックス・ウェーバーの対立、あるいは「グローバリズム」と「経世済民」の対立は、以下のような抽象的な二項対立としてとらえることができる。経済には常にこの対立があるが、現代は右項が強さを増し、左項を圧倒している時代である。
固着するもの VS 浮動するもの
生産的なもの VS 金融的なもの
実体的なもの VS シンボル的なもの
確かなもの VS 不確かなもの
不動のもの VS 運動するもの
生産的なもの VS 金融的なもの
実体的なもの VS シンボル的なもの
確かなもの VS 不確かなもの
不動のもの VS 運動するもの
■ グローバリズムの三つの波
⇒グローバリスムは現代だけの現象ではなく、歴史を見ても少なくとも以下の三つのグローバリズムを想定することができる。
グローバリズムの第一の波は15-17世紀の「大航海時代」(「地理上の発見」)、第二の波は19世紀後半から20世紀初頭にかけての帝国主義の時代、そして第三の波が20世紀末から私たちが経験している時代である。(424ページ)
■ 国家の役割
⇒グローバリズムが今後ますます進行するなら、国家がなすべきことは、グローバル資本主義への過剰適応ではなく、グローバル資本主義に晒されながらも決して根絶やしにされない「大地」を築くことではないか。
市場経済が「大地」から「脱大地化」し、グローバルかつヴァーチャルな世界へ拡張すればするほど、同時に、人は「大地」への回帰を希求するのではないか(参考:『レクサスとオリーブの木』)。もしそうだとすれば、国家の役割は、ただ景気を調整し所得分配を按配するものではなく、人々を確かな形で「大地」に結びつけるものでなければならない。(403-404ページ)。
私たちが必要としているのは、やみくもなグローバル化や金融経済への移行ではなく、またITによる情報化でもなく、それらを意味ある形で定位するべき「大地」をどのように再構成するかという政治的構想力である。(410ページ)
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