いつものように自分を棚に上げた勝手な言い草ですが、学生さんへの論文指導を通じて思うことの一つは、論文のアイデアを生み出すことおよびアイデアを論証することの両方を苦手とする人は、たいていの場合いわゆる「数学的思考」あるいは「理数系の発想」を苦手としているということです。
ここで私がいう「数学的思考・理数系の発想を苦手とする」とは、高校までの理数系科目の点数が悪かったことを必ずしも意味するわけではありません。「数学が得意だった」や「元理系だ」と言う学生さんの中にも、アイデアを出したりそれを精緻化することが駄目だったりする人もいます(おそらくそういった学生さんは理数系科目の受験テクニックに習熟していただけで、理数科目の本質を学び損なっていたのではないかと私は考えています)。
こういった関心から、また、私自身が数学的思考や理数系の発想を得意としていないという理由から、私は折々に数学に関する啓蒙書や入門書を買い求め読むようにしていますが、仕事に追われ、なかなかそれが進みません。
しかし先日書店でふと目にしてそのまま出張の行き帰りに読んだ本書は、「論文執筆のための数学的思考」という点で非常に啓発的で、いかにしてアイデアを出しそのアイデアをきちんとした論証にするか、という点について非常に参考になりました。
以下、その本の内容のうち私の関心にかなった点を、私なりにまとめます。■印がそのまとめで、⇒印がその点に関する私の蛇足コメントです。まとめには私の誤解や偏見が入っているはずなので、ご興味をもった方は必ずご自身で本書をお読みください。
■三種類の世界
私たちの世界は、(1)「日常的世界」、(2)「分析的な世界」、(3)「構築的なアイデアの世界」、の三種に分けられる。(39ページ)
⇒強く実践を志向する英語教育研究では、多くの学生・大学院生(教職を休職しての社会人院生も含む)は、(1)の「日常的世界」ばかりで考え、そこから一気に(3)の「構築的なアイデアの世界」に飛び上がろうとする。だが、そのように(2)の「分析的な世界」を経ないままに構築されたアイデアは大風呂敷の杜撰なものに過ぎない(「調べてみたらTOEFLという試験は国際的だそうだから、それを大学入試試験にすれば英語教育は改善されるのではないか」といった提案と大同小異である)。(1)に基づき(3)に至るためにも、(2)は大切にしなければならない。
他方、たまにいるのは学部からそのまま大学院に進学した人で、(2)の「分析的世界」だけにとどまり、手堅い論文は量産するが、英語教育の日常感覚や改善・改革案を苦手とする人だ。さらには、苦手を自覚せずに、自らの論文の分析世界の単純な認識論・知見を強引に複雑な現実に押し付ける人もいるが、こういった人は本当にやっかいだ。
私たちはこれら三つの世界の区別をとりあえず仮定し、それらの間の往復についての感覚を磨くべきだと私は考える。
■三種類の思考
私たちが「考える」と呼んでいるものは、(1)「(幅広い)比喩的な解釈モデルを構築する思考」、(2)「想像力で(より深い)説明の層を見出し分析結果を論理的に跡付ける思考」、 (3)「(鋭い)アイデアを生み出す思考」 の三種(60-61ページ)に分けられる。
⇒実生活体験が豊かな人は(1)が強い。田尻悟郎先生などは、それに加えて(2)も(3)もできる稀有な人だと思う。
■三種類の世界におけるそれぞれの思考
(1)「日常的世界」では「(幅広い)比喩的な解釈モデルを構築する思考」、すなわち、ある理解困難な事態を、身近なものに喩えて、前者を後者のアナロジーとして考え、前者を後者のモデルを使って判断していく。 (46ページ)
(2)「分析的な世界」では「想像力で(より深い)説明の層を見出し分析結果を論理的に跡付ける思考」、 すなわち、ある対象を複数の観点から捉え、要素さらには基本的単位に分解し、対象を基本的単位の組み合わせと捉える。 (48ページ)
(3)「構築的なアイデアの世界」では「(鋭い)アイデアを生み出す思考」、すなわち、人間のシンボル体系の不完全性を常に自覚し、そのシンボル体系の部分から現実の全体を回復するべく「ないもの」を想像し、より的確なシンボル体系を作りだすことが行われる。(57-60ページ)
⇒(3)は、やはり(2)の訓練をしていないと困難だと思う。しかし、現実生活でさまざまな問題解決をしていないと(1)が弱く、いくら(2)の訓練をしても(3)に行けないと考える。
きわめて安っぽい言い方になるが、既成のゲームばかりして(1)が貧困で、学校でも受験テクニックしか学ばず(2)を真に経験していなければ、アイデアを出すことは非常に難しいものとなるだろう(それは単に論文が書けないということにとどまらず、現実世界への対応が難しくなることを意味する)。
この点、ある授業の感想として書いてくれた以下の学生さんの述懐が興味深い。
授業内でself-regulationの無い人の例として、「今日の練習は〇〇でいいですか?」と聞いてきた部活のキャプテンが挙げられていましたが、私の感覚からすると正直言って「意外だった」としかいいようがありませんでした。部活に関して言うと私は高校時代に軽音楽部に所属しており2年生からは部長も務めていました。軽音楽部では体育会系のようにコーチがいて、コーチの指示の元で全員が同じ練習メニューをこなすなどということは基本的に行いません。そのため部長である私が顧問の先生のところへ「今日の練習は〇〇をします」などと報告に行ったことは一回もありません。その代わり私たちは部活の活動として各々が楽器を持ち寄ってセッションしたり自分の練習をしたりしていました。したがって私たちは「今日の練習は〇〇でいいですか?」ではなく「今日の練習は〇〇がいいかな、それとも△△の方がいいかな」と現在の技量やバンドの状況などから自分自身で判断する必要がありました。
私自身のこれまでのギター練習でも同じことが言えます。私はギターを人から教わったことがない完全に独学のギター馬鹿です(笑)。 ギターの成長で壁にぶちあたったら何とかして「自分で」壁を越えなければなりませんでした。そのためには壁を超えるには何が必要か、そして今の自分には何が足りないのか、どうすればその足りない分を補えるかを全て自分で考える必要がありました。最もギターを練習したと言える高校時代、私はギター練習をする度に課題を見つけてその課題をどうやって解決するかお風呂やトイレの中、登下校中や授業中などとにかく四六時中考えていました。そして実際にギターを手にして「ああでもない」「こうでもない」と苦戦しながらなんとか練習に励む毎日でした。
また、「どうやったらギターが上手くなりますか」という質問・疑問をよく耳にします。このself-regulationという観点からすると、どれだけ自分のプレイに敏感になるかがポイントだと思います。自分の目標・課題は何か、今何ができるのか、何かできないのか、どうしたら出来るようになるのか、何が原因か、どのような練習が効果的と考えられるかなどとにかく考えて考えて、そして実際に弾いてみて、きっと一筋縄ではいかないだろうからまた最初から考えてまた弾いてみる。どうやったら上手くなるかと聞く人に限ってこのようなプロセスを無視してとにかく短期間で上手くなろうと考えているように感じます。
ギター馬鹿のギター談義になってしまい恐縮ですが、私にとって当たり前だと思っていた考え方に”self-regulation”という理論的な説明がなされるとスッと納得することができました。
■想像力の活性化
想像力は、(a) 日常的な設定で考える、(b)自分(あるいは具体的な人物になりきった自分)という視点を導入して考える、(c)比喩やアナロジーを導入して考える、と活性化され豊かなイメージが湧きやすい。(75-77ページ)
⇒私が学生さんに繰り返し言うのは、「抽象的な話が続いたら、『たとえばどういうことなのか?』と自問せよ」ということであるが、ある抽象概念を、日常生活の具体的な「例」を「喩え」にして説明しなおし、そこから類似的・類比的・相似的に考えを発展させる習慣を身につけておけば、想像力は活性化されるのかもしれない。
これよりも程度の低い想像力行使だが、新聞記事を読んでも、「これを中学生に面白く伝えるにはどうしたらよいだろう」と想像力をふくらませ、記事内容に「主観的」な要素を入れ込み、聞いていて面白い物語に仕立てることも習慣としておくことは教師の自己訓練の一つかもしれない(私はそれほどテレビを見ていないのでよく知らないが、なぜ池上彰氏の解説はわかりやすいのだろう)。
また、ついつい惰性的な見方しかしない私たちの日常生活を、複数の人物の立場から、多彩な比喩やアナロジーを使い分けながら書き上げる文学作品は、想像力の活性化のためには非常に有効な手段であることも理解していただけるだろう。社会で活躍する人々がしばしば文学的教養を重視することにはきちんとした理由がある。人文系でありながら、文学の価値を認めようとしない英語教育関係者の浅慮に私は我慢がならない。
■「思考力の優れた人」とは
上記の(a)日常的設定、 (b)人物設定、 (c)比喩・アナロジー導入を駆使して、理解し難い対象の構造を見抜く(あるいは措定する)想像力がある人を、私たちはしばしば「思考力の優れた人」と呼ぶ。 (85ページ)
⇒「思考力」には、形式論理の行使以上に、そこにない設定や想定を思いつける想像力の行使が重要である。だが、現在の学校教育は、「結果」を急ぐあまり、あまりに想像力を抑圧していないか。これからの日本を救うのは、学校秀才ではなく、きゃりーぱみゅぱみゅのような人だと私は思っている(笑)。(←スカパーでたまたま彼女のビデオ特集を見たら、結構面白く、ずっと見てしまった 汗)。
■「非凡なアイデア」とは
「非凡なアイデア」とは、上記の(1)日常世界での比喩的解釈思考から、(2)分析世界での分解・統合思考に至り、問題の基本的で本質的な構造を大局的に眺めることができるようになり、さらにそこから導かれる新しい比喩的なイメージ(上記 (c)参照)に敏感である人に訪れる。(96ページ)
⇒この中でも、曖昧模糊としてとらえどころのない「イメージ」の世界のありように敏感であることが特に重要だと私は考える。浮遊する聴覚世界、目の前に広がる視覚世界、身体の中に知覚される体感世界などを豊かに経験する音楽・美術・運動などが実は人間の知性に根源的に重要なのであると私は考える(だから芸術や体育を理解できないエリートを私は決して信用しない)。
RSA Animate - The Divided Brainのビデオ紹介でも書いたが、私からすれば、体育・音楽・芸術・技術家庭などこそが、学校教育の基盤科目であり、その上に国語と算数(数学)の基礎科目があり、さらにその延長として社会・理科・英語といった発展科目があると考えるべきだ。
■数学における論理と想像力
数学において論理は想像力の補佐役である。(99ページ)
「「世界」が立ち上がってくるときに必要な「考える」力の大部分は、「見えないものを眺め、仮定をする想像力」によるものであって、論理はそれに厳密な基礎付けをする際に使われるセメントのようなものなのだ。」(127ページ)
⇒だが私も含めた人文系は、やはり論理を詰めることが得意でないので、どうしても論証が甘く、かつ論の展開も十分にできない。やはり、人文系とて、理数系の論証と論の展開をきちんと体感できるように勉強するべきだ(この点で、私は高校生を早くから「文系」か「理系」に分けて、しかも選んだ科目でも受験テクニックしか教えないような教師を心底憎む)。
■論理の三つの重要な効用
論理には三つの重要な効用がある。(ア)アイデアの真偽を確実に推論することができる。(イ)「真と偽の建築物を、時空を超え、万人が学習可能な方式でアウトプットできる」。(ウ)背理法によってモデルの整合性をチェックすることができる。(101ページ)
⇒私も "Never too late to learn"ということで数学的思考・理系的発想の勉強を時間を見つけて行いたい。(去年、無理やり自分で作った夏休みでは『資本論』を読んだが、今年は『虚数の情緒』を読みたいと思っている)。
■数学世界での発見
数学では、(i)「素材の抽象化と数学世界の発見」、(ii)「帰納・一般化と演繹、拡張」、(iii)「反省的思考」により、ブレイクスルーが生じるとまとめられる。 (114-115ページ)
(i)「素材の抽象化と数学世界の発見」の一例は、オイラーが「ケーニヒスベルクの橋渡りの問題」を「点と辺から成り立つ図形」に抽象化して、グラフ論という新たな幾何学を発見したことである。(117ページ)
(ii)「帰納・一般化と演繹、拡張」に関しては、引き続き「ケーニヒスベルクの橋渡りの問題」を例に使うなら、「帰納」は経験からおそらく「ケーニヒスベルクの橋渡りの問題」は解決不可能ではないかと推測すること、「一般化」はグラフ理論の抽象化により「一筆書き問題」へと新たに問題を展開すること、である。「演繹」はすでに証明されている定理を個々の具体例に当てはめて興味深い結果を示すこと、「拡張」は定理の条件を少し変えたりして類似の命題が成り立つかを研究することである。(119-124ページ)
(iii)「反省的思考」とは、思考方法に対する意識的な反省、つまりは「思考についての思考」(=メタレベルでの思考」であり、この反省的思考が優れていると、ある思考法の長所短所が把握でき、かつ、思考方法の枠組を変えることも可能になる。 (125-126ページ)
⇒私は独立数学者の森田真生先生のセミナーにできるだけ出るようにしている(といってもその回数は悲しいほどに少ない)のだが、そこで学んだことの一つは、数学は歴史的にたどると、人間の発想の展開・進化がわかって非常に面白いということだ。遠山啓『現代数学入門』(ちくま学芸文庫)も面白かったけれど、これからも数学史の本を(私が理解できる範囲だけれど)積極的に読んでゆきたいと思う。それこそが根源的なところで「生きる力」につながると私は真剣に思っている(狭い業界で量産されている論文ばかり読んでいると、私は無性に芸術や哲学の世界を欲するようになる。哲学書に加えて数学関係の本も私の好みの書籍にしたい)。
■「Xとは何か」という概念把握
「Xとは何か」と、ある概念の意味を問う思考では以下の四つの理解が大切である。
(A) 比喩的な理解:適切な喩えを見出して理解する。
(B) 差異の理解:既知の概念との違いを理解する。
(C) 有用性の理解:概念がなぜ必要になったのかを理解する。
(D) 具体例の理解:概念が具体的に使用されている例を通して理解する。(153ページ)
⇒学校秀才は、こういった多面的な概念把握がほとんどできない。教員採用試験対策にしても英語資格試験対策にしても、多くの学生さんはX, Y, Zといった新しい概念や単語を次々に丸暗記するだけで、上記の(A)から(D)の理解を試みようともしない。だから一問一答式クイズ形式では答えられても、学んだはずの概念や単語が悲しいほどに使えない。面接対策でも、英語発話でも、知っているはずの概念や単語が、驚くほどに出てこない。また、それらの概念や単語が別の文脈で使われていたら、それらを適切に理解することすらできないこともしばしばである。
「それは、わかりやすく言うならどういうことなのか」(比喩的理解)、「それは○○とはどう違うのか」(差異理解)、「それは何のためにあるのか」(有用性理解)、「それは例えばどのように使われるのか」(具体例理解)を尋ねられた学生さんは、しばしば絶句する(学生さんの中には「ボクはマジメに暗記してきたのに、どうしてそのことをホメてくれずに、そんな意地悪な質問をするんですか」と言わんばかりの表情を示す人もいる)。
本書の著者も言うように、学校教育関係者は、想像力を再評価することが必要です。
また、論文執筆で苦しんでいる学生さんも、たまには目先を変えて本書のような書を読んでみてはいかがでしょう。
追記
本書の著者はレイコフには言及していても、マーク・ジョンソンには言及していないが、ジョンソンは『心の中の身体』で想像力の働きを強調している。
そういえば、ジョンソンのThe Meaning of the Bodyも買ったままで読んでいない。こういった本質的な読書をしなければ!
さらに思い出した(泣)。ホフスタッターの新刊(Surfaces and Essences)も買っただけだし、I Am a Strange Loopも途中まで読んでそのままにしている・・・ゆっくり読書をする時間がほしい!!!
柳瀬先生 今晩は。
返信削除今日は、一言お礼がしたくて、コメントします。
いつも、先生が紹介してくださる本が、興味深くて、勉強になります。ありがとうございます。
先日も、綾屋紗月さん熊谷晋一郎さんの本よんで、本当にわかっていなかったなぁと反省もし驚きもしました。読んだ直後に、教育大学釧路校の二宮教授のインクルーシブ教育についての講演を聞いたので、少しは理解が深まったかなぁと思っています。
もう少し勉強して、以前よりは少しはましな学級づくりや学習指導がしたいです。とはいえ、もうあまり残り年数はありませんけど。
新英研の全国大会、札幌ということと、現地実行委員が大学の恩師小山内洸先生なので、参加することにしました。楽しみです。
ポッピーママ さん
返信削除コメントをありがとうございました。
全国英語教育学会北海道大会でお会いできたら幸いです。私はシンポジウムを主催します。その前後にでもお声をかけていただけたら幸いです。
2013/06/29
柳瀬陽介