5月26日に東北大学で開かれる第85回日本英文学学会シンポジウム・「文学出身」英語教員が語る「近代的英語教育」への違和感 ― 大学の英文学教育は中高英語教員に何ができるのかの準備として、このまとめを作成しました。シンポジウムでは私が理論的な枠組みを提示して、佐藤先生・和田先生・組田先生に生徒の心に寄り添った授業をしている実践者だからこそ語れる具体的な話をしていただき、鈴木先生にまとめてもらおうと思っています。以下のノートは、私の理論的枠組の整理のための準備の一つです。
私はマルクス資本論の商品論を理解するときに、ハーヴェイの『〈資本論〉入門』に大変啓発されましたが、この本は新自由主義の歴史的展開をまとめ、その本質を解き明かしたものです(原著の発刊は2005年、この翻訳書の発刊は2007年)。ここでは歴史的展開については割愛し、「新自由主義とは何か」について整理します。本当は原著も参照してまとめるべきですが、今はその余裕がありませんので、以下のまとめは翻訳書を読んでのものに過ぎないことをご了解ください。
■ 新自由主義の定義
新自由主義の定義を、著者はまず序文で示します。
新自由主義とは何よりも、強力な私的所有権、自由市場、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内で個々人の企業活動の自由とその能力とが無制約に発揮されることによって人類の富と福利が最も増大する、と主張する政治経済的実践の理論である。国家の役割は、こうした実践にふさわしい制度的枠組みを創出し維持することである。たとえば国家は、通貨の品質と信頼性を守らなければならない。また国家は、私的所有権を保護し、市場の適正な働きを、必要とあらば実力を用いてでも保障するために、軍事的、防衛的、警察的、法的な仕組みや機能をつくりあげなければならない。さらに市場が存在しない場合には(たとえば、土地、水、教育、医療、社会保障、環境汚染といった領域)、市場そのものを創出しなければならない -- 必要とあらば国家の行為によってでも。(10-11ページ)
内田樹先生もおっしゃるように、新自由主義の流れで、教育までもがビジネスの論理でなされることが当然視されはじめている昨今、「グローバル資本主義が私たちに要請する生き方をどうやって学校の外へ押し戻すか(『街場の教育論』 202ページ)」を考えるためにも、新自由主義について理解を深めておく必要があります。
■ 新自由主義の帰結
私的所有権・自由市場・自由貿易の体制下での企業活動を推し進める新自由主義の帰結には、より多くの事物・事象の商品化と民営化(私有化)、そして金融化、があります。
新自由主義を推し進めると、これまでは収益計算があてはまらないとみなされた領域をも商品化し民営化(私有化)して、企業の収益源とする動きが増強・拡大します。電気通信や交通機関といった公益事業はもちろん、公共住宅・年金・医療・教育といった社会福祉、大学・研究所といった公共機関でさえも、民営化(私有化)して、そういった事業や営みも次々に商品化しようとします(実際に単価まではつけないにせよ、事業や営みをあたかも商品のように扱います)。(223ページ)
「民営化」はわかるにせよ、「私有化」ということばは強すぎるのではないかと思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、世界の新自由化の流れ --それは1978~80年に始まったと著者は考えます(9ページ)-- の中では、個人がある企業を独占的に所有することはなくても、有力な人々が金融化してしまった株などを通じて、企業を自らの財産として私有化することが当たり前になってきました。従来は分離されていた資本主義企業における所有権と経営権が、CEO(経営権をもつ者)らへの支払いにストック・オプション(所有権)を用いるなどで融合し、企業の営みがもっぱら株価で評価されるような文化ができました。さらに、これも従来は距離があった、利潤を得ようとする生産資本・製造業資本・商業資本と、配当や利子を得ようとする貨幣資本の二者が融合し始め、たとえば製造業が金融取引もすることは珍しくなくなりました。かくして金融世界の活動力や権力が爆発的に発展しました。(47ページ)
■ 新自由主義の本質
こうした新自由主義の本質を、ハーヴェイは富裕階級の権力の回復と強化だと喝破します。
とはいえ「階級」ということばは、胡散臭くも聞こえます。しかし、上記の金融化で融合した資本家と経営者が緊密に結びつき、政治家・行政人・マスメディア・学者なども資本家と経営者の権益につながろうとして互いに結びつき、お互いの利権を確保し強化するためにさまざまなことを巧みに行なっていることは、「原子力ムラ」の存在でも明らかになったことです。彼・彼女らは一枚岩の集団ではありませんが、一つの階級を作り上げているとハーヴェイは考えます。
企業、金融、商業、開発業者の世界に埋め込まれたこのまったく特殊な人間集団は、必ずしも一個の階級として陰謀を企てているわけではないし、彼らの間にはしばしば緊張関係がある。それでもなお、彼らには一定の利害の一致が存在するのであり、それゆえ彼らは総じて新自由主義化から生じる利点を(今では一定の危険性をも)認識しているのである。彼らはまた、ダボスの世界経済フォーラムのような集まりを介して、政治的指導者たちと意見交換したり交流したり相談したりする手段を有している。彼らはグローバルな諸問題に巨大な影響力を行使し、普通の市民にはけっして持ちえない行動の自由を持っているのである。(51ページ)
日本の英語教育も、もはや財界と政治権力が結託して、それを強引に変えようとしていることは、たとえば江利川春雄先生が、「格差に抗し,全員を伸ばす英語教育へ(4)」で経団連と文科省のつながりや、「「大学入試にTOEFL」の黒幕は経済同友会」で経済同友会と自民党教育再生実行本部のつながりを指摘しています。原発ほどの巨大な利権はまったくありませんが、英語教育にも利権で結託する財界人・政治家・行政人・メディア・学者のつながりがあるようにも思えます(少なくとも一部の英語教育研究者は、決して文部科学省の方針 --それはしばしば財界や政治家の意向から定められています-- を決して批判しようとしません。というより文科省・財界・政治家の方針を徹底的に擁護することこそが自分たちの仕事と思っているようにすら見受けられます。
話を戻しますと、ハーヴェイは、富や権力の集中こそが「新自由主義化の本質であり、その根本的核心」(164ページ)であると主張します。
新自由主義の真髄の一つは、自立、自由、選択、権利などの聞こえのいい言葉に満ちた善意の仮面を提供し、剥き出しの階級権力の各国および国際的な --とりわけグローバル資本主義の主要な金融中心国における-- 回復と再構築がもたらす悲惨な現実を隠蔽することなのである。(164ページ)
実際、多くの国々で富裕階級の権力が強化されました。権力の集中は新興国などではすさまじいものがありますが、ここではアメリカの例をあげます。アメリカの所得上位1%の者 -- まさにOccupyWallStreet 「ウォール街を占拠せよ」のスローガンにも使われた数字です -- の所得が国民所得に占める割合は、第二次世界大戦前の最高値16%から、大戦末に8%未満に落ちたままほぼ30年間その水準で推移しましたが、戦後の経済成長が終わった1970年代を経て新自由主義が70年代末から進行された後の20世紀末には15%にまで増加しました。さらにアメリカの上位0.1%の所得者の収入が国民所得に占める割合は、1978年の2%から1999年には6%以上に増大しました。また、最高経営責任者(CEO)の給与と労働者の平均値の比率は、1970年代の30対1強から2000年にはほぼ500対1へと広がりました。(28-29ページ)1996年における世界の金持ち上位358人の純資産は、世界人口の貧困層下位45%(23億人)の総収入と同じとも言われています(50ページ)。
■ 新自由主義が広まった要因
新自由主義が普及し、「言説様式として支配的なもの」になり「われわれの多くが世界を解釈し生活し理解する常識に一体化してしまうほど、思考様式に深く浸透して」いる(11ページ)要因を、ハーヴェイは 1980-90年代の(1)金融自由化、(2)資本の地理的移動性、(3)「ウォールストリート-財務省-IMF」複合体、(4)アメリカの経済学の偏向、の四つにまとめ、新自由主義は「ワシントン・コンセンサス」として定式化されたとしています。
この流れの結実がワシントン・コンセンサスです。
(1) 金融自由化:1970年代に始まった金融自由化が1990年代に加速し、金融市場が富を調達し集中する強力な手段になった。(130ページ)
(2) 資本の地理的移動性:輸送・;通信のコストが急激に下がった。(130ページ)
(3) 「ウォールストリート-財務省-IMF」複合体がクリントン政権時代にアメリカの経済政策を支配するようになっただけでなく、他国の経済政策にも強い影響を与えるようになった。(132ページ)
(4) アメリカの経済学の偏向:1982年には、ケインズ経済学がIMFと世界銀行から姿を消し、80年代末までにはアメリカの大学の大部分が新自由主義に忠実な経済学だけを教えるようになった。(132ページ)
これらすべての要素が、1990年代半ばのいわゆる「ワシントン・コンセンサス」のうちにまとめられた。そこでは、アメリカとイギリスの新自由主義モデルがグローバルな諸問題に対する解決策だとされた。新自由主義の道をとらせるために、日本やヨーロッパにさえ(世界の他の部分に関しては言うまでもない)、かなりの圧力がかけられた。(133ページ)
■ 新保守主義との共生
しかしこのように経済競争ばかり促進する新自由主義では、ごく一部の「勝ち組」は(それがわずかの間かもしれませんが)この世の栄華を堪能するものの、大多数の人間は「負け組」とされ、鬱積し、それが積もり積もると社会的秩序がゆらぎかねません。
そこで登場するのが新保守主義です。新保守主義は社会的秩序を重視し、経済的自由以外の自由を批判します。さらに、国内外の危機を警戒して国家の重要性を説き、道徳を強調します。そうして社会・国家を安定させながらも、新保守主義は、財界人・政治家・行政人・マスメディア・学者といった新自由主義の「エリート」の権力強化を支持します。新自由主義は新保守主義により補完され、より強力に私たちのあり方を規定しようとしていると言えるでしょう。
■ 新自由主義の前提
かくして新自由主義は、私たちの多くが当然視し、何ら疑問をもたない時代のイデオロギーになってしまいました。イデオロギーの怖いところは、その前提が、他の領域にもどんどんと侵入し、それらの領域までもそのイデオロギーで包摂してしまうことです。私たちはイデオロギーが前提としていることが何かを十分に自覚しなければなりません。
新自由主義の前提には、以下のようなものがあります(すべてを枚挙しているわけではありません)。
(a) 個人の自由は、市場と取引の自由により保証される。(18ページ)
(b) 自由市場と自由貿易こそがもっとも確実に貧困を根絶できる。(95ページ)
(c) 個人間、組織間、地域間の競争こそは最大の美徳である。(95ページ)
(d) 各人(個人・組織・地域)は自分自身の行為と福利に自己責任を有する。(95ページ)
(e) 以上の前提は、福祉・教育・医療といった分野にも拡張されるべきである。(95ページ)
折しも先日の朝日新聞(2013年5月1日)に自民党教育再生実行本部長・衆院議員の遠藤利明氏の英語教育論が掲載されましたが(http://e-toshiaki.jp/blogs/1601)、遠藤氏も、「英語教育を変えることでグローバル人材を育成しようという大きな目的があります」、「まず目標を決め、そこから逆算して教育の中身を決めていく」、「TOEFL一本にする。(中略)TOEFLが必須になれば、学校現場は変わらざるを得ません」などの発言から推測しますと、ビジネスの目的と教育の目的を同一視し、かつ手法もビジネスのやり方をそのまま教育にもってくるべきだと思っており、上記の(a),(c),(d),(e)といった前提を当然視しているように思えます。
英語教育に直接の責任をもつ者としては、自民党教育再生実行本部の背後にもあると言われている、実用的な英語力を問う大学入試の実現を ~初等・中等教育の英語教育改革との接続と国際標準化~ (経済同友会 2012年度 教育改革による国際競争力強化PT 委員長 三木谷 浩史)といった文書なども読み込み、新自由主義を始めとした財界人の多く(しかしすべてではない)が共有する考え方をまずは理解し、その論理に対して、教育の論理を対抗言説として説得力ある形で展開する必要があります。
日々の仕事に追われ、時間はほとんどとれませんが、きちんと勉強し、発言しなければと思います。
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