2012年12月23日日曜日

小坂忠 (2010) 『グッド バイブレーション』、あるいはクリスマスの幸せについて



教会のクリスマス祝会で、ふと赤ん坊の表情に吸い込まれた。教会で小さな子どもは、しょっちゅう親以外の大人にも抱かれ、あやされるが、このときの赤ん坊もそのようにして親以外の他人に抱かれながらも、ぐずらずに周りを見るとはなく見ていた。

見るとはなく見ていたというより、その赤ん坊には、私たちがありふれたことばで把握する感情(例えば、嬉しさ、不快感)が認められなかった。赤ん坊は、しっとり・しっくりと大人の腕の中に落ち着いていた。明白な感情が認められないといって、赤ん坊に何の心の動きも認められないというのではない。その逆で、赤ん坊の表情には、確かな心の動きがあった。心の動きは赤ん坊の全身に現れていた。

赤ん坊は大きな動きを何らしていなかったが、身体には生命のさざ波があった。呼吸や心拍よりももっと微細で精妙な身体内の動きが無数にあり、それが一つの調和となっていた。その調和に、私の身体が同調した。私が忙しく仕事に追われていたら、こんな同調はできないだろう。だが教会という空間で、私は仕事の焦燥感から解放されていた。だから私の身体は赤ん坊の微かな調和の波動を感知できた。だから私の心は赤ん坊に惹きつけられた。

これは理屈抜き、あるいは理屈以前の心の働きである。私たちの心は、にわかには言語化できない身体内の変化により、その基調が決定される。



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神経科学のダマシオは、『感じる脳 -- 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』で、言語による明晰な意識は、前-言語的な思考でもある感情 (feeling) を基盤としていることを論じている。

その感情にも、より根底的な基盤があり、それをダマシオは情動 (emotion) と呼ぶ。情動には、喜びや悲しみなどの主要情動 (primary emotion)、共感や軽蔑といった社会的情動 (social emotion) があるが、それらよりはるかに微細で名状しがたいのが背景的情動 (background emotion)である (私たちは心を落ちつけたときに、この背景的情動を自らの身体の中に認めることができるが、意識的な仕事に忙殺されているときはその限りではない)。情動よりも根源的なのは、私たちが生命システムとして本能的に行なっているホメオスタシスなどの身体内の反応(つまりは動き)である。

「感情」も「情動」も同義語だとする日常的語法にあって、このダマシオの区別は、若干奇異に思えるかもしれない。しかし例えば綾屋紗月さんはこのダマシオの理論にリアリティを感じている。もっとも綾屋さんはダマシオの「感情」と「情動」を、それぞれ「心理的感覚」「身体的感覚」と呼び換えている (綾屋 2008, p. 18) ので、日本語としてはこちらの方が通りがいいのかもしれない。だがここではダマシオの用語法にしたがい、以下も論を進めることとする。

「心」といえば、それをはなから「身体」と対峙するものと考え、二者を相互排他的に考えてしまうのが多くの近代人の思考の癖(あるいは思考の慣性)だが、私がここでダマシオの理論的背景のもとに語っているのは、心とは身体の変化(およびその自覚)であるという考えである。心は感情、情動、そしてそれ以前の身体内の微細な動きに端を発する。意識とはその身体的な心の自覚に過ぎない。これは日本の多くの武術家や芸術家が古来有していた考えであり、デカルト的心身二元論を払拭する現代科学者が前提とする一元論でもある。

心とは、身体の変化、そしてその身体の変化を自覚することである。身体の変化としての心は、非意識的心 (nonconscious mind)、身体変化の自覚としての心は、感情を感知し思考を司る意識的心 (conscious mind)と呼べるだろう。言語使用も含めた私たちの営みの多くは非意識的心の働きであるが、意識的心はその働きに特有の介入をする。この非意識的心の働きと意識的心の働きの関係を知ることが、教育理論・学習理論の重要課題だと私は信じているが、理屈っぽい語り方はここでひとまず止めて、私が教会で感じた別のエピソードに話を移したい。



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この秋、私の教会にあるシンガーがギターを抱えてやってきた。私はそれ以前におたふく風邪に罹患し、その症状からの回復のためしばらく教会を休んでいたこともあり、そのシンガーのことについてほとんど知らなかった。

演奏が始まり、彼が歌い始めて仰天した。彼のことばは彼の音楽と共に私の心にそのまま入ってきた。

これは私にとっては驚くべきことだった。というのも私は音楽を聴くことだけは好きで、おそらく所有しているCDも500枚を下回るとはとても考えられず、自分の仕事である英語を聞いていた時間よりも、はるかに多くの時間、音楽を聴いているぐらいなのだがボーカル音楽だけは苦手だからだ。

ボーカル音楽、特に日本語や英語の歌声が入った音楽では、歌詞のことばがしばしば邪魔に感じられ、私はたいていの場合、歌声を言語として処理せずに、一種の音の響きとして聞こうとする。だからたいていの場合、歌詞の意味が伝わってこない。

とはいえ、言語は自動的に意味を喚起するから、歌詞の断片の意味は私にも想起される。だが残念ながら多くのボーカル音楽において、その想起される言語の意味が、音楽と調和していない(少なくとも私にはそう聞こえる)。だからおそらく私は歌詞を言語的に処理することを抑圧しているのだろう。そんな抑圧は、素直に音楽に身を委ねることの障害となることは間違いない。だから私はそんな葛藤を避けるべく、一般的にボーカル音楽を避けているのだろう。

だが、一部のボーカル音楽では、歌詞がそのまま私の心に入ってくる。そんなボーカルは音楽は(少なくとも私という人間にとって)、演奏者の身体と音楽そして歌詞が調和した一体となって経験されるものである。演奏者の身体のあり方と演奏される音楽の表情、そして歌詞の言語的意味の間に不調和がない。だから私の身体と心は、ボーカル音楽の複合的な調和をそのまま受け入れる。それは私の身体と心を微細かつ精妙に揺り動かす。なんだか偉そうな言い方になって恐縮だけど、私の教会にやってきたその歌手 ― 小坂忠さん ― は、私にとって数少ない、歌詞の意味をそのまま伝えてくれる音楽家だった。

教会の昼食時に小坂さんとお話させていただく機会を得た。牧師としてもすばらしい方だった。小坂さん(先生)の信仰の喜びが自然と私たちの教会にも伝播してきた。場を共にすることで、よい波動が伝わってくるようだった ― 「波動」というと、なんだかオカルトのようで嫌なのだが、他にいいことばがないのでこの語を使う。"Vibrations" の訳語とお考えいただいてほしい。小坂さんの、たたずまい、声、そしてもちろん話から、何かよきものが伝わってきた。その伝わりは私たちが身体のレベルでまずは感じるものだった(教会の友人も同じように語っていた)。

その日の午後の東広島市内のキリスト教教会が合同で行ったコンサートでも小坂さんの音楽を聞く機会を得た。すばらしかった。会場でCDを4枚買った(私はいい音楽に対しては思い切ってお金を使う)。帰宅して「小坂忠」とグーグル検索してみたら、すごい人だった。こんな人を知らなかったなんて、私はまだまだ音楽好きを名乗れない。しかし私にとって重要だったのは、小坂さんがいかにすごい経歴をもっているかでなく、小坂さんの身体と楽器演奏と歌声と歌詞のメッセージがいかに調和しているかということだ。私は小坂さんの演奏でボーカル音楽を心底楽しむことができた。

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音楽経験を、ダマシオの身体論・意識論で解釈してみよう。

音楽家は、まず身体の中に何らかの情動をもっていなければならない。それは情動の中でも、背景的情動のように、言語では表現しがたいほどの微妙なものである。よく「なぜクラシック音楽では『悲しみの交響曲』といった標題を付けないのか」と聞かれるが、それは音楽が、そんな単純な言語表現ではとても表現し尽くせないぐらいの精妙な情感の移行と展開を表現しているからだ。作曲家にせよ演奏家にせよ、音楽家の根本的な才能とは、自らの身体の情動を繊細に感知することができることだろうと私は考える。

もちろんそんな背景的情動が、主要情動や社会的情動のように、比較的言語に翻訳されやすい情動につながる場合もある。そういった情動はやがて感情という形でまとまり、表現者のテーマが定まってくる。詩人や作家なら、表現媒体として言語を選ぶ。だが、音楽家は音の振動(つまりは音楽)を選ぶ。

演奏家の仕事とは、楽譜から作曲者の感情や情動、つまりは身体内の微細な動きを感受し、それを自分の身体で共鳴させ、その共鳴を自らの情動・感情として増幅し、それによって身体を大きく動かし楽器を演奏し歌声を出すことだ。小坂さんのような楽器を抱えた歌手の場合は、身体の内の蠢きと、身体の外の身体奏法(楽器演奏や発声)、そして歌詞のことばを完璧に、と言っていいぐらい同調させることだ。そんな音楽は確実に他人の心に届く。

だが楽譜と歌詞から、表面的なことしか読み取れない拙い音楽家は、とりあえず通念的に歌詞を発声する。「このことばは、このぐらいの意味でしょう」というレベルで声を出す。楽器演奏もとりあえず標準的な身体操作をして、物理的な意味では外れてはいないが、心身で感知するという意味では外れてしまっている音を出す。「楽譜通りには弾いていますよね」といった演奏をする。だがそこから出てくる音楽は、身体の内と外そしてことばがバラバラのままだ。音楽を愛する人であれば、聞きたくない音楽だ。

音楽も、根本のところでは、身体の波動 (vibrations) である。身体の内の蠢きであり、身体の外の音波であり、両者の同調である。だから伝わる。他人の心身にも。



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教会の赤ん坊から私に伝わったものも、身体の波動なのだろう。快や不快といった明確な感情以前の、微細な情動、つまりは背景的情動だったのだろう。私は赤ん坊の身体の背景的情動を感知し、それに同調し、その波動を私の身心で共鳴させ増幅させた。だから書きたいと動機づけられた。そして実際今、こうして時間を取って文章を書いている。



人間にとって根源的で大切なものは、こうやって身体のレベルで伝わるのかもしれない。言語による理屈ででなく。



教師にしても、もし教師が若い世代に学ぶことを覚えてほしいと願うなら、教師が行うべきことは「学ぶとどんなに得か、学ばないとどれだけ損で苦しむか」ということを、計算と論理で補強して、明確な言語の理屈(説教)で表現することではないのだろう。

教師は自ら学びの喜びの波動を覚え、ただ学習者と共にいるべきだ。ただし、よい波動を出す身心を保ち続け、学習者の身心に共鳴を引き起こすことが教師には必要だ。また学習者の身心に生じた波動もそのままに感知し、それがよきものであれば、教師自身もその波動に共鳴し、それが悪しきものであれば、その波動を受けつつそれを自らの身心で少しでもよき波動へとゆるやかに転換してゆかねばならない。教師はまずもって身体のレベルでよき教師でなければならない。

だがメディアの発達は、ますます私たちのコミュニケーションの脱身体化を促進している。この話とて、本当は私は肉声で語りたい。肉声なら、私の身心の動きをもっと精確に伝えられるし、聞き手の身心のあり方を端的に感知できるからだ。だが「情報化社会」は、もっぱら脱身体化された情報ばかりを伝え、私たちはそんな情報を処理することばかりに追われる(無機的な事務書類による、意義を感じられない報告指示を想像してほしい)。

私たちは身体的なコミュニケーションのかけがえのなさを自覚しなければならない。さもなければ私たちはますます実感できないことばの情報にのみ込まれるばかりだろう。情報ばかりが交換され、私たちの心と身体はますますやせ細る。そんな情報交換の迅速さを、「コミュニケーション能力」ともてはやす人もいるかもしれない。だが、私にとってはそんな営みは、身体と心とことばがバラバラな歌を歌い続け聞き続けることのようだ。私の身体は、端的にそんな営みを受けつけない。身体的に形成された心 (embodied mind)を失った私たちは、資本主義的生産体制の末端で作動する、出来の悪いコンピュータに過ぎない。





こう言い切ってしまおう。




大切なことは、身体のあり方を通じてでしか伝わらない。






信仰というものも、身体のあり方で伝わることなのかもしれない。少なくとも理屈だけである人を ―それが他人であれ自分自身であれ― 信仰に導くことはできない。

信仰は神学理論によってでなく、信仰者の日々の身体のあり方 ― 具体的な行為以前の佇まいや、とりたてて何というわけでもない表情 ― によって伝えられてきたのだろう。

だからクリスチャンの拠り所とは、聖書の知識でも格別の善行でもなく、イエス・キリストに端を発し、人から人へと時代を超えて伝承され、自分の身体と心にも伝えられ共鳴を始めた生命のあり方 ― good vibrations ― なのかもしれない。



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クリスマスは言うまでもなく、このように世界の多くの人々に2000年以上の長きにわたってgood vibrationsを与え続ける元となったイエス・キリストの生誕のお祝いです。



ハッピー・クリスマス。クリスマスの幸せ。



あなたが今どこにいるのであれ、どんな状態でいるのであれ、あなたも身心の内にgood vibrationsを感じていますように。

感じられないのなら、あなたにもgood vibrationsが伝わりますように。感じているのなら、それがあなたの周りでも共鳴しますように。

クリスマスの幸せ。このブログという脱身体化されたメディアで、私は自分のgood vibrationsを伝えます。小坂さんや教会の赤ん坊やその他数えきれないほどの多くの人から伝えられたgood vibrationsを。イエス・キリストに端を発するgood vibrationsを。

ハッピー・クリスマス















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