アラン・ケイ(Alan Kayは、かつて「メディア・リテラシーとは、自分に最適のメディアを作ることだ」と言ったとも聞く。この発言が本当に彼のものかは今チェックできていないが、
The best way to predict the future is to invent it.
と言った彼なら、このように発言してもおかしくない(私は1997年にホームページを開始した時に、このことばに励まされて、そのホームページの「言葉」)の最初(最下部)にこのことばを引用した)。
あるいは上のメディア・リテラシーの定義には、ジェロ・ビアフラ(Jello Biafra)の
Don't hate the media, become the media
にも通じるところを感じる。ひょっとしたら上のメディア・リテラシーの定義は、アラン・ケイやジェロ・ビアフラらのことばが混じってできたものかもしれない。しかし、今は真偽がわからないので、とりあえず「メディア・リテラシーとは、自分に最適のメディアを作ることだ」ということばを、いかにもアラン・ケイや彼の精神に共感するものが言いそうなことばだとして話を進める。というより、私自身、ウェブ活動を15年以上やってきて、上記の定義に大いなる説得力を感じている。
「リテラシー」 (literacy) の原義は、読み書き能力だ。だから「メディア・リテラシー」を、例えば「情報を読み解く能力」だけに限定する必要もない。自らメディアを適切に使いこなし、書くこと、表現することも「メディア・リテラシー」の意味に含むべきだろう。
しかし「メディア」とは何か。カタカナ語というのはわかっているようでわかっていない場合が多い。学生に聞くと、たいてい「新聞とか雑誌とかテレビとかラジオのこと」と答える。しかしそれは「マスメディア」の種類であって、メディアの本質を捉えた列挙ではない。
愚直に"media (medium) "を辞書でひくと次のような定義が見つかる。関連部分の概略のみを転載する。
1 a : something in a middle position
2: a means of effecting or conveying something
a (1) : a substance regarded as the means of transmission of a force or effect
b plural usually media (1) : a channel or system of communication, information, or entertainment (2) : a publication or broadcast that carries advertising (3) : a mode of artistic expression or communication
3 a: a condition or environment in which something may function or flourish
つまり、「間にあるもの」、「力や効果を伝達する物質」、「コミュニケーションや情報などのための経路あるいはシステム」、「告知を広く伝えること」、「芸術やコミュニケーションの表現様式」、「何かが機能し活躍するための条件や環境」、といったところだろうか。さらにまとめると定訳である「媒体」「媒介」に落ち着く。さらにかみ砕くと、「何かと何かをつなぐもの」だろうか。
そうなると「メディア」は、新聞・雑誌・テレビ・ラジオなどだけに限らない。コンピュータもメディアだろうし、言語、音楽、絵画、身振りなどもメディアである。またそもそも自分の心と他人の心との間に存在し、コミュニケーションや表現を可能にする物質的基盤・経路・システムであり条件でもあるものとすれば身体もメディアである。
これらを私なりに整理してみると以下のようになる。
図の一番下にあるのが根源的なメディア (medium) (以下、「媒体」)である身体である。身体こそは、私たちのコミュニケーションや表現が喚起する「意味」が生じる意味生成媒体である。私たちが身体の中に覚える蠢きが意味 (あるいは意味の原初形態) である(このあたりの詳しい議論は後日改めて展開したい。現時点では、「野口三千三氏の身体論・意識論・言語論・近代批判」、3/4京都講演:「英語教師の成長と『声』」の投影資料と配布資料、Another short summary of Damasio's argument on consciousness and selfなどを参照されたい)。
身体という媒体で生成された意味を私たちは他者に伝達するために、言語・音楽・絵画・身振りなどのメディアを使う。これをここでは意味喚起媒体と呼ぶ。自らの身体に生じた意味を基盤にして、私たちは言語などを使い、他者の身体に他者にとっての意味を喚起される。私に生じた意味と、他者に喚起された意味が必ずしも同一のものでないのは、コミュニケーションの情報伝達モデル批判が指摘するところである (参考:「コミュニケーション・モデルの再検討から考える 英語教師の成長」)。
意味喚起媒体である言語・音楽・絵画・身振りなどは、他者から十分に観察可能な物理的形態を取るので、その物理的形態という情報を忠実に視覚的・聴覚的に伝達する印刷物や放送などのメディアで画一的に伝達することができる。これらのメディアを情報伝達媒体とここでは呼ぶことにする。新聞やテレビは大規模な伝達を行うのでマスメディアと呼ばれるが、個人が配るワープロ印刷(言語を伝達)、音声録音(音楽を伝達)、コピー印刷(絵画を伝達)、ビデオ録画(身振りなどを伝達)なども情報伝達媒体である。
最後にコンピュータは、上記のワープロ印刷、音声録音、コピー印刷、ビデオ録画などの多くの機能を一台で行うことができるので、ここでは多機能情報伝達媒体と呼ぶことにする。コンピュータは、例えば匂いや微妙な身体感覚などは処理できないので、多機能ではあるが汎用情報伝達媒体とは呼びがたい。
私は「英語教師のためのコンピュータ入門 (2012年度)」という授業を教えるが、そこではコンピュータを多機能情報伝達媒体として認識して教えたい。多機能情報伝達媒体は、情報伝達媒体などのいわばオールドメディアの延長にある。無論、延長といっても情報伝達が地球規模でほぼ無料で行われたりと、大きな変化があるのだが、やはり伝達すべき情報が良質なものでないと、コンピュータは宝のもちぐされ、猫に小判である。
情報は、意味喚起媒体の物理的伝達である以上、良質な情報は良質な意味喚起に基いていなければならない。つまりは、言語・音楽・絵画・身振りなどのいわゆるコンテンツが良質なものでなければ、いくら(多機能)情報伝達媒体が高価なものであっても、それは無駄というものである。
意味喚起の基盤は、自らの身体の中の意味生成である。とすれば、豊かに意味を生成できる身体こそが、もっとも重要な媒体であると言える。つまり、身体という意味生成媒体の感受性が繊細多彩であってこそ、言語などの意味喚起媒体、印刷物などの情報伝達媒体、コンピュータという多機能情報伝達媒体が活きる。逆に言うなら、あなたの身体が凝り固まり微細な感動を感知できず多種多様の意味を生成できないものならば、いくら言語などの意味換気媒体を技術的に訓練しても、最新の (多機能)報伝達媒体を購入しても、あなたはそれらの媒体を活用はできない。
要はみずみずしい身体を育てること -- このことを抜きにして、英語の教育もコンピュータの教育も語ることはできないことを、ここでは訴えておきたい。
逆に言うなら、あなたがみずみずしい身体 --豊かな意味を生成する身体ーーを育てているなら、あなたは自分に最適なメディアを見つけ、やがては作り出すことができるだろう。それがここでいうメディア・リテラシーである。
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追記(2017/10/10)
「みんなのミシマガジン」では、独立研究者の森田真生先生による「数学の贈り物」を随時掲載していますが、2017/10/1掲載の中には次のような文章がありました(http://www.mishimaga.com/sugaku/019.html)
コンピュータは、新しい時代の鉛筆や紙や本のようにならなければならないというのがアラン・ケイの発想だった。コンピュータはメディアなのであり、しかも単なるメディアではなく「メタメディア」すなわち、あらゆるメディアを作ることを可能にするメディアなのである。この特異なメディアを使いこなすための能力を、読み書きの能力を身につけるのと同じくらい真剣になって身につけていこうではないかと、彼は何十年も前から提案している。読み書きを常識とすることによって人間社会が生まれ変わった。同じように、コンピュータリテラシー(これは単に「プログラミングができる」という表層的な意味ではないことはアラン・ケイがくり返し強調している)を常識とすることで、これまでとは違う人間に生まれ変わることができるのだと。
森田先生の言う「メタメディア」あるいは「コンピュータリテラシー」の意味を皆さんはどう理解していますか?
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