2012年6月9日土曜日

Jakobson (1960) Linguistics and Poeticsを読む



小山亘先生の著作を読んでいろいろ考えさせられて、やはりロマーン・ヤーコブソン (Roman Jakobson)(1986-1982)の'Linguistics and Poetics' (In Style in Language. Edited by Thomas Albert Sebeok. The M.I.T. Press. pp. 350-377は再読しておかねばと思い、およそ20年ぶりにこの論文を読み直しました。以下はその論文の中から、現在の私にとって関心のあるところをまとめて、そこから私なりの考えを書き連ねたものです。この夏にいくつかの発表をするための研究ノートとしてここに書き連ねます。

■Poetics (「詩学」)とは何か?

この論文タイトルの'Linguistics and Poetics'を見た現代人の多くは、poeticsなんてlinguisticsの中心からおよそ離れた、しかも時代遅れのトピックを扱って何になるのだろうと思うかもしれません(1990年代頃からの、日本の英語教育界における「文学叩き」はおよそ反知性的で醜悪なものでした。批判を受けた者が、誰か他の者に批判の矛先を向けて批判を逃れようとすることは、一般によく見られることでしたが、英語教育関係者の多くも英語教育で文学を教えようとする者を糾弾することで、自らが受け止めるべき責任を回避しようとしたのかもしれません。もっともその当時の文学的な英語教育が一切の批判を免れうる完全無欠なものだったとはとうてい思えませんが)。

しかしヤーコブソンは、poeticsを言語研究における周縁的なものとも時代遅れのものともとらえていません(そしてこの見識はこの論文が書かれた1960年よりも、現代の方が一層重要度を増していると思います)。Poeticsは、もちろん通常は芸術作品としての言語表現についてのものだとされています。

Poetics deals primarily with the question, What makes a verbal message a work of art? (p. 350)


しかし彼は、poeticsとはあくまでもことばの構造の研究であり、その意味で言語学の中核をなすと述べます。

Poetics deals with problems of verbal structure, just as the analysis of painting is concerned with pictorial structure. Since linguistics is the global science of verbal structure, poetics may be regardes as an integral part of linguistics. (p. 350)


さらに彼は、poeticsを言語学の中だけでとらえるのではなく一般的な記号論の中で考えるべきであり、さらにはpoeticsは狭義の言語芸術だけを対象にするのではなくあらゆる言語さらには記号の使用を対象とするべきとします。'Poetic features'は、芸術的な詩作だけでなく、広く観察されるからです。

In short, many poetic features belong not only to the science of language but to the whole theory of signs, that is, to general semiotics. This statement, however, is valid not only for verbal art but also for all varieties of language since language shares many properties with some other systems of signs or even with all of them (pansemiotic features). (p. 351)






■コミュニケーションのスピーチ・イベントを構成する6つの要因

Poeticsを以上のように理解すると、言語・記号表現に見られる'poetic features'とは何か、またその'poetic features'を作り出す'poetic function'とは何かということが大切な課題となってきます。というわけで、この論文で彼は'poetic function'を解説するのですが、その際に言語の(以下、記号一般の考察は割愛し言語の考察だけに絞ります)他の機能も共に考察して、'poetic function'を考えるべきだとしています。そこで登場させるのが、言語コミュニケーション (verbal communication) に必ず現れるスピーチ・イベント (speech event) ―適切な翻訳語が思いつきません!― を構成する要素 (constitutive factors) を示した有名な図です。以下はヤーコブソンが論文の353ページに書いている図をできるだけ忠実に再現したものです。




この図に対して、ヤーコブソンは、一見、コミュニケーションの情報伝達モデルとも思えるような説明をしています(例えば "The ADDRESSER sends a MESSAGE to the ADDRESSEE."や"the encoder and decoder of the message"など)。しかし注意深く読むと、従来私たちが考えがちのように、予めコンテクストがあって、その中でメッセージの伝達が行われるのではなく、メッセージがコンテクストを要求すると彼は書いています。さらにaddresserとaddresseeの接触も、単に物理的なものでなく心理的なものでもあると書いています。ヤーコブソンのコミュニケーション(スピーチ・イベント)モデルを情報伝達モデルと同じとすることはできません。

The ADDRESSER sends a MESSAGE to the ADDRESSEE. To be operative the message requires a CONTEXT referred to ("referent" in another, somewhat ambiguous, nomenclature), seizable by the addressee, and either verbal or capable of being verbalized; a CODE fully, or at least partiall, common to the addresser and addressee (or in other words, to the encoder and decoder of the message); and, finally, a CONTACT, a physical channel and psychological connection between the addresser and the addressee, enabling both of them to enter and stay in communication. (p. 353)






■ヤーコブソン・モデルの解釈

このヤーコブソンの図を私なりに拡張して解説するなら、ヤーコブソンの解説は「メッセージがコンテクストを創り出す」と言い換えることもできるでしょう。もう少し言うなら、「コミュニケーションの作動により、メッセージが創出し、そのメッセージ創出がコンテクストを創り出す」となります。さらに言い換えを続けるなら、メッセージを成立させるのはコミュニケーションの両者が出会うこと(CONTACT)です。こういった意味合いで、ヤーコブソンの図を少し書き換えますと以下のようになります。




ここではADDRESSERとADDRESSEEを直接に結びつけているのはMESSAGEではなくCONTACTとなっております。その両者の出会いを背後から支えているのが(たとえ部分的ではあっても)共有されているCODEです。これらの出会いと共有から生み出されるのがMESSAGEとCONTEXTです。

「メッセージ」と「コンテクスト」は、情報伝達モデルが考えるように最初から存在しているものと考えられてはいません。「メッセージ」と「コンテクスト」は、「呼びかける者」が「呼びかけられる者」に物理的だけでなく心理的にも「出会う」ことによってはじめて出現すると言うことができると私は解釈しています。「記号」はその出会いを間接的に背後から支えているだけです。このモデルは、「メッセージ」とは記号化と記号解読という記号の働きにより送信・受信・共有が行われるものではなく(=情報伝達モデル的解釈)、「メッセージ」とは、(共有されている記号の知識に助けられつつも)あくまでも「出会い」が創出させるものであり、さらにその「メッセージ」の創出がメッセージを成立させるための「背景」(=「コンテクスト」)を同時に創出する、ということを主張しているものだと私は理解しています(これは「関連性理論」 (Relevance Theory) の考え方とも合致します)。

と、これまでに私はヤーコブソンの用語を日本語で再表現(翻訳)してきました。この翻訳語は、これまでの定訳とは必ずしも一致していませんが、私なりに見出した日本語です。

それらの私なりのことばを使ったのが以下の図です。





以下、定訳でなく私なりのことばを選んだ理由を簡単に書きます。

ADDRESSERとADDRESSEEを私は「話し手・聞き手」あるいは「送信者・受信者」と訳すべきではないと考えます。現実世界のコミュニケーションにおいて、話し手は必ずしも聞き手に恵まれません(例えば、教師が大声で話しても、まったく生徒が聞いていない教室を考えてみてください)。また、話し手が伝えたかった「メッセージ」も、聞き手が10人いれば10通り(いやそれ以上)に理解されるのがコミュニケーションの現実かと思います。メッセージが送信・受信されると表現するのは、人間のコミュニケーションのモデルにおいては適切ではないと私は考えます。ADDRESSERは「呼びかける者」でしかなく、ADDRESSEEは「呼びかけられた者」でしかないという直訳的な日本語の方が私は適切だと考えます。

呼びかける」の呼びかけが呼びかけられた者に届いた時、「出会い」が成立する ―これらのことばを私が使う背景には、竹内敏晴氏の論考があります―。この「出会い」にはもちろん物理的条件(例えば聞こえるだけの声の大きさ)が必要ですが、それだけでは出会いは成立しません(例えば、声を上げれば上げるほど、生徒が教師のことを無視する教室を考えてください。あるいは教育現場の例ばかりでは嫌なのなら、うるさいだけでまったく心に届いてこない街頭演説を考えても結構です)。出会いは、身体のレベルだけでなく心のレベルでも生じます(いや身体と心で同時に生じる、と言うべきでしょう)。この意味で私はCONTACTを単に「接触」とは訳さず「出会い」と訳したく思います。

MESSAGEはうまいことばが見つかりませんでしたのでそのまま「メッセージ」としました。ですが、これを「テクスト」と読み替えることは控えました。「テクスト」と聞くと、私たちはどうしても、書記化された言語(=文書)や音声化された言語(=口頭言語)のように、物理的に確固として存在し、かつ万人に同型に認識されるテクストを考えがちだからです。この点、「メッセージ」でしたら、話し手にとっても必ずしもうまく伝えられないこと(話し手はしばしばことばを連ねた後に「つまり私が言いたいこと [=メッセージ] は・・・」と言います)および聞き手によっても異なって解釈されうること(聞き手はしばしば「要するに彼のメッセージは・・・」と自分の解釈を述べます)をうまく表現してくれます。こういった理由で私はMESSAGEはそのまま「メッセージ」としています。

同じようにCONTEXTを「コンテクスト」としたら、私たちはしばしば「前後の文章表現」( = co-text) のことを連想してしまいます。しかしヤーコブソンがCONTEXTという用語で意味しているのは、例えば「福島第一原発の事故は・・・」といったメッセージ(の一部)が指すreferentであり、そのreferentが結びついている多くの関連事象でもあるわけです。ですから私はこのCONTEXTはあえて「背景」と訳すことにしました。

CODEに関しては「記号」としましたが、これは「記号体系」とするべきか実は迷っています。しかし、人間がコミュニケーションで使う記号の中には体系性の低い、その場限りで使う非言語的なものもありますから、ここでは「体系」ということばは使いませんでした。





■スピーチ・イベントの構成要素はそれぞれどのような機能を発揮するか?

以上のようにヤーコブソンの図と用語を私なりに読み替えた上で、ヤーコブソン自身がこれら6つの構成要素が特に発揮する機能についてどう解説をしているかをまとめてみましょう。ヤーコブソン自身の解説をできるだけ忠実にまとめますが、時折、私の訳語と解釈も入れます。

まず、ヤーコブソン自身は、先程掲載したコミュニケーションのスピーチ・イベントの6構成要素の図に上書きするようにして、以下の図を357ページに掲載しています。下はその図のできるだけ忠実な再生です(353ページの図にあった破線はこの図にはありません)。





それではこの図を時折参照しながら、以下のまとめをお読みください。

(1) REFERENTIAL (背景の指し示し)

これは通常の言語コミュニケーションにおいて最も重要な (predominant) 機能で、ヤーコブソンは「指示対象へと向かう状況設定、背景へと向かうこと」("a set (Einstellung) toward the referent, an orientation toward the CONTEXT")と定義しています。このREFERENTIALの代わりに"denotative"や"cognitive"といった用語が使われることもあります(p. 353)。

(2) EMOTIVE (自己表出)

これは呼びかける者が、呼びかけの内容についてどのような態度を有しているかを直接に表現する機能です("a direct expression of the speaker's attitude toward what he is talking about")。"Expressive"と呼ばれることもあります。興味深いのは、[big]とと[bi:g]の発音の違いです。周知のように英語では両方の発音とも同じく'big'を意味しますが、後者の方は通常の前者の言い方に比べて、自らの感情などをより多く表現しています(p. 354)。EMOTIVEを考える時には、このように狭義の文法を超えてコミュニケーションを考える必要があります。

(3) CONATIVE (動かされる)

これは呼びかけられる者が発揮する機能で、典型的には命令文などで呼びかけられた時にその命令に従って動くことなどが例に上げられます(p. 355)。

Georg Bühlerなどは、上記のreferential, emotive, conativeをもって言語の主要3機能としました。しかしヤーコブソンは、もちろんのこと他の機能も説明しなければならないとします(p. 355)。

(4) PHATIC (出会いを成立させ持続させる)

これはCONTACT(出会い)で発揮されなければならない機能であり、ヤーコブソンはマリノフスキMalinowski)の用語を借りてPHATICと呼びます。典型例は挨拶、相槌、あるいは"Are you listeing?"などの発話です(p. 355)。

(5) METALINGUAL (記号の解説)

これは論理学における"object language"(対象言語)と"metalanguage"(メタ言語)の区分に基づいたもので、コミュニケーションにおいて使われた言語(CODE)について解説する言語の働きのことです。ヤーコブソンは"glossing function"とも言い換えています  [現在の言い方なら "metalinguistics"となるでしょう]。彼は言語学習においてこの機能は重要であるとも述べています ("Any process of language learning, in particular child acquisition of the mother tongue, makes wide use of such metalingual opeations") (p. 356)。

(6) POETIC (メッセージの作品化)

こうして5つの機能を説明した後にヤーコブソンが述べるのがpoetic functionです(この機能は狭義の詩(=言語芸術作品)に限られないので、私はこれを「詩的機能」ではなく「メッセージを作品化する機能」と呼びます)。この機能をヤーコブソンは、メッセージ自体へと向かうこと、メッセージをメッセージとして成立させるためにメッセージを作品化させること、と解説しています (と言いましても、この表現には私の解釈が入っています。原文は "The set (Einstellung) toward the MESSAGE as such, focus on the message for its own sake"です)(p. 356)。

ヤーコブソンはこの機能は、芸術作品としての詩に最も見られるが、他の言語使用にも見られるものであり、poetic function(作品化機能)を芸術的な詩だけのものとして考えるべきではない (また詩はpoetic functionだけに留まるものではない)と述べています。

Any attempt to reduce the sphere of poetic function to poetry or to confine poetry to poetic function would be a delusive oversimplification. Poetic function is not the sole function of verbal art but only its dominant, determining function, whereas in all other verbal activities it acts as a subsidiary, accessory constituent. (p. 356)
日常的な言語使用でのpoetic function(作品化機能)の例としてヤーコブソンが挙げているのは、 ("Margery and Joan"ではなく)"Joan and Margery"と言うこと、("the dreadful Harry"ではなく) "the horrible Harry"と言うこと、("I love Eisenhower."でなはく)"I like Ike."と言うことなどです (pp. 356-357)。

これらの例でそれぞれの前者でなく後者が選ばれるのは、もちろん後者の方が「語呂がいい」からです。私たちはことばを選ぶ時、例えば「そうね、ドビュッシーの音楽は・・・」と適切な形容詞(的表現)を探す場合、「繊細だ」「洗練されている」「異常に美しい」などから選ぶと、語の選択という縦の垂直軸 (selection) で選びます。ところが、言語表現を「作品化」する場合は、縦の垂直軸(つまりはparadigmatic(系列的・連合的な軸)でことばを吟味するだけでなく、横の水平軸(つまりはsyntagmatic(統辞的・連辞的)な軸)でもことばを吟味し、ことばが並んだ時 (combination) に、聞き手に強い効果を与えるようにします。これをヤーコブソンは「作品化機能の実証的な言語学的基準」 ("the empirical linguistic criterion of the poetic function")として、次のように定式化します。

The poetic function projects the principle of equivalence from the axis of selection into the axis of combination. (p. 358, italic in the origninal)

拙訳(意訳):ある語の決定の際に人は、ほぼ等価と考える複数の語の中から最善の語と考えるものを採択するが、作品化機能においては、ことばのつながりにおいても、横に並んだ複数の語が様々な意味で等価になるようにことばを選ぶ。様々な意味で等価というのは、音節、強勢、韻律、統語構造などを意味し、これらの点でできるだけ等価になるよう語を配列することが、言語表現を作品化することである。


このように"poetics"を言語学的に定義した上で、ヤーコブソンは再び、poeticsとlinguisticsを分けて考えるべきではないとします。

To sum up, the analysis of verse is entirely within the competence of poetics, and the latter may be defined as that part of linguistics which treats the poetic function in its relationship to the other functions of lanuage. Poetics in the wider sense of the word deals with the poetic function not only in poetry, where this function is superimposed upon the other functions of language, but also outside of poetry, when some other function is superimposed upon the poetic function. (p. 359)


ここまでの10ページが、序論とコミュニケーションのスピーチ・イベントモデルの解説であり、論文の残り18ページはpoetic functionの例示に使われます。論文の最後は、再びplinguisticsとpoeticsのつながりの重要性を訴えるものです。poeticsに興味をもたない言語学者と、linguisticsに興味をもたない人文学者の両者を批判します。

All of us here, however, definitely realize that a linguist deaf to the poetic function of language and a literary scholar indifferent to linguistic problems and unconversant with linguistic methods are equally flagrant anachronisms. (p. 377)






■コミュニケーションのスピーチ・イベントにおける6つの構成要因とそれらの主要機能のまとめ

以上のヤーコブソンの論と図を私なりに少し改変してまとめれば、下のようになります。




日本語で表現すれば以下のようになります(私は今回も、自分なりに納得するように翻訳してはじめて得られる理解というものがあることを実感しました)。




人間の言語コミュニケーションという複合的 (complex) な事象をよりよく理解するには、複数の良質なモデルで考えることが重要だと思います。私は、博士論文で従来の言語学・応用言語学のコミュニケーション理論と哲学のコミュニケーション理論をなんとか統合的に考えた後、三次元的空間の合成ベクトルで言語コミュニケーションを考えるモデルで考察を進めてきましたが、これからはこのヤーコブソンのモデルも自らの理論枠組みの一つとして使ってゆきたいと思います。





■応用的考察

というわけで、早速応用的考察を試みます。と言いましても、時間がありませんので(最近は行政仕事・事務仕事に追われて、勉強時間がなかなか取れません 泣)、ここでは素描にとどめます。現時点での論の粗さはお許しください。


(A)授業というコミュニケーションは、教科書の内容というメッセージを、教師という送信者が生徒という受信者に伝達することではない。

これは中部地区英語教育学会岐阜大会シンポジウム(「学校英語教育を考える3つの視座: 成長する教師・自律する学習者・進化する授業」)で詳しく述べようと思っている考えの素描です。

授業をコミュニケーションと考えても、コミュニケーションを考えるモデルが情報伝達モデルでしかなかったら、授業とは、優れた教科書・教材をメッセージ(テクスト)として選定し、後はそれをいかに効率良く伝達するか(=プリント・プレゼンテーションなどの工夫)という問題だけに矮小化されかねません。

あるいは「英語の授業は、とにかくオール・イングリッシュでなければならない!」と眉を吊り上げる人は、コミュニケーションの作動の中で記号(CODE) が果たす役割を過剰評価し、コミュニケーションのその他の側面をきちんと理解しそこねてしまっているのかもしれません。

やや単純化して言いますと、優れた教科書・教材をテクストとして選んで、流暢な英語を教室の中の記号(CODE)として使えば、それは教師がいい授業をしていることだと、情報伝達モデル的に考えれば結論できるのかもしれません。それでいい授業にならないのなら、聞き手であるはずの生徒が悪いとも結論するのかもしれません。しかし、そう短絡していいのか、私たちはコミュニケーション・モデルを変えて考えるべきなのかというのが私が主張する予定のことです。



(B) 英文学の精読授業の再評価

ある英文学作品をテクストとして定め、それを読み、それについて教師が解説し学生と討議するという、伝統的な英文学の精読授業 ―と類型化していいでしょうか、識者の皆様?― は、現在の英語教育関係者には人気がない授業ですが、そう短絡すべきでないと私は考えます。

ヤーコブソンのモデルで言いますと、そのような英文学の精読授業は、テクストの精読を通じて、教師が丁寧に日本語で使用言語を文法的にも語用論的にも解説し、そのテクストの背景を文化・社会・歴史的にも指し示し教養を深めます。さらに重要なことは、これらのメタ言語的機能と背景指示機能が、文学テクストが、見事に作品化されていること(作品化機能)を示すために解説されることです。これらの授業では、言語表現の本質的特徴が学ばれるとまとめることができると私は考えます。



もちろん「英文学の精読」と称しながら、機械的な英文和訳に終始した実力のない英語教師もたくさんいた(今でもいる)はずです。ですから私は無批判的に英文学の精読授業の復古を主張するつもりなど毛頭ありません。しかし、ヒステリックに「英文学の精読なんて!」と冷笑する英語教育関係者の偏りだけは指摘したく思います。



(C) 「授業は英語で」の課題

私は「高等学校学習指導要領(外国語)へのパブリックコメント提出」などでも述べているように、「授業は英語で」という学習指導要領の方針が、形骸化したり暴走したりして、高校の英語の授業の営みをかき乱してしまうかもしれないことを懸念しています。しかし、他方で、高校の先生の一部には、(上の精読の要素も少しももたない)機械的な英文和訳しかせずに、英語の実力もつけないどころか生徒の日本語感覚までおかしくしている人もいることは承知しています(このことは、教員研修制度の貧困や教師の自由時間の剥奪あるいは大学の教員養成の不全などと共に語らなければ高校教師を不当に批判してしまうのですが、それは全国英語教育学会愛知大会:課題研究フォーラム(8/4土曜)などでも語ることとして、ここではとりあえず「授業は英語で」という原則が全国津々浦々の指導主事によって説かれ、公立学校の教師は建前としてはそれに逆らえないことを前提として話を進めます。下の図をごらんください。クエスチョン・マーク(およびその数の多さ)と赤色の濃さは、これからの英語教師の課題(端的に言うなら問題)の大きさを示しています。




私がこれまで観察してきた限り、「授業は英語で」の方針の授業のほとんどは、教師が流暢な英語で生徒に行動の指示をすること(クラスルーム・イングリッシュ)、および教科書の英文の表面的な文字通りの意味を尋ねることなどが多い授業となっています(時に深い発問を英語でするすばらしい教師もいらっしゃいますが、それは例外的で、多くは"When was he born?" "He was born in 1973."と教科書に明らかに書かれていることに関する表面的なやりとりばかりに終始しています)。ヤーコブソン・モデルで言いますと、生徒を英語で動かす(英語での指示)機能 (conative function) と、背景を指し示す機能 (referential funciton) は重視されていますが、後者にしても明らかな文字通りのreferentを指すだけで、行間やテクストの背後にある背景を指し示すことはあまりありません。

英語表現についてのメタ言語的解説(文法面と語用面)も英語で行うことは容易でないでしょう。また、たとえ英語教師がそれなりに英語で解説しても、生徒がその英語をわからなければ意味がないことは言うまでもありません。それでも文科省は文法解説までは英語使用を求めないようですから、これは大きな問題ではないかもしれません。

それよりも問題になるのは、ヤーコブソン・モデルの他の機能で言えば、教師が英語でうまく自己表出をできるか (emotive function)、英語で生徒の心と身体を動かす出会いを作れるか (phatic funcition)でしょう(これらの機能では、中学英語教師の方が優れている場合は多いと思います)。もちろん高校教師の方の中でも自己表出や出会いをすでに英語で行なっていらっしゃる方も多いわけですが、少数の優れた例を除くなら、まだ英語でのコミュニケーションは不自然で平板で、教育環境が整っている場合ならともかく、教育困難な状況においてそのような英語で「出会い」を作り出せるかどうかは疑わしいとすら言えるのかもしれません(上から目線でごめんなさい。私も教育困難な状況に置かれたらどう授業をしたらいいか深刻に悩み、試行錯誤を続けると思います。しかしその際に、もし私に「授業は英語で」がとにかく形骸的に強制されたら、私は困り果てると思います。指導主事や校長に見て見ぬふりをするだけの器量があればいいのですが、もし「授業は英語で」をスローガン化し管理者がそれを連呼するなら、英語でどう「出会い」を成立させるか、端的に言うならどう授業を成立させるかは大きな問題となってくると考えます。

私が最も大きな課題になると思うのは、言語表現の洗練に関する「作品化機能」 (poetic function)が、教師・生徒共に英語を使うことに気を取られ、ないがしろにされかねないことです。生徒が使う英語はもとより、教師が使う英語、ひいては教科書の英語までもが凡庸で平板なものにならないか。そのような英語を教える授業で、これからグローバル社会で人びとを説得しなければならないような未来をもつ学習者に対応できるのか、また、教育困難な環境で、知的喜びを喚起し学習者を内発的に動機づけることができるのか、私にはこれらの点を懸念しています。

いや大学までもが、資格試験の成績と大学授業の単位を交換する時代に、高校英語教育の英語が通俗的で知的には退屈になるのは、驚くべきではないのかもしれません。しかし、私が問いかけたいのは、その日本の教育界の「流れ」が、現在の日本が直面している諸課題にとって、妥当なものか、ということです。

いつもながら繰り返していることですが、根源的に考えることをためらわないようにしたいと思います。



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小山亘(2012)『コミュニケーション論のまなざし』三元社
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