2012年5月30日水曜日

コミュニケーションとしての授業: 情報伝達モデル・6機能モデル・出来事モデルから考える





1はじめに

本稿は、授業をコミュニケーションとして考えた上で、コミュニケーションのモデルに何を採用するかで、授業観がどのように変わるかを検討する。コミュニケーションのモデルとしては、情報伝達モデル・6機能モデル・出来事モデルの3つを検討するが、中心的に検討したいのは出来事モデルである。



1.1 コミュニケーションとしての授業

「授業も一つのコミュニケーションである」という主張に反論を加える人は少ないだろう。だがコミュニケーションをどう捉えるかで、この主張の意味するところは大きく違ってくる。本稿では、コミュニケーションのモデルとして、最も普及している情報伝達モデル、ヤコブソンによる6機能モデル、言語人類学による出来事モデルを取り上げ概説し、それぞれのモデルにより「コミュニケーションとしての授業」がどのように描かれるかを検討する。



1.2モデルとは歪曲を伴う単純化である

具体的な検討に入る前に、「モデル」について注釈を入れておきたい。「モデル」とは複雑な現実を単純な形に還元して表現したものであり、その単純化においては、それぞれのモデルにおいてそれぞれの歪曲が入る。歪曲とは、特定の側面の強調であり、その他の側面の軽視である。したがって現実のすべての側面を表現するモデルはないと考えるべきであり、それぞれのモデルは現実理解においてそれぞれの長所と短所を有する。

だがこのことは、すべてのモデルが等価であることを意味するわけではない。ある目的が与えられた場合、より適したモデルと適しないモデルの差はあると考えるべきである。またそれぞれのやり方で現実を表現する複数のモデルも、それぞれが描き出す現実理解の差において、好ましいものと好ましくないモデルがあると考えるべきである。

結論を先取りして言うなら、本稿は授業を描き出しその意味合いを探るためには、3つのモデルの中で出来事モデルが現在最も適していると考えるが、このことは他の2つのモデルが授業について考えるため、あるいはコミュニケーションについて考えるために無効であることは意味しない。それぞれのモデルにはそれぞれの特徴がある。しかしそれらの特徴を考えるなら、出来事モデルが、授業を考えるためにはもっとも実り豊かな理解をもたらすと著者は考える。以下、なぜ著者がそのように考えるようになったかを論考により示す。


1.3 本稿の限界

だが本稿の限界を予め述べておくべきだろう。本稿は立教大学の小山亘先生の論考、特に『コミュニケーション論のまなざし』三元社『記号の系譜―社会記号論系言語人類学の射程』(の第2章第2節)に触発されて書いたものである。だが、私は(1)小山先生の論考を十二分に理解しているかについて確信を抱けていない、(2)小山先生が引用する主要文献(特にヤコブソンシルヴァスティン)を読んでいない、(3)自分のルーマン理解(特にhttp://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/Luhmann.html#071124で示した理解)に基づき、自分独自の解釈・改変を加えた論考をしている、ことをここで明らかにすべきだろう(また用語法も小山先生の用語法に必ずしも従っていないことも付記しておく)。本稿の理論的理解に少しでも見るべき所があるとすれば、それは小山先生の論考に負うものであり、そう感じられた読者は、小山先生の著作(およびヤコブソンやシルヴァスティンの論考)を直接読むべきである。本稿の欠点や短所などはすべて私の責任であることを予め述べておく。

そう述べた上で、以下、情報伝達モデル・6機能モデル・出来事モデルをそれぞれ概説し、それらのモデルからどのような授業像が見えてくるかを検討する。







2 情報伝達モデル

最初に取り上げるのは、情報伝達モデルである。しばしばコード・モデルとも呼ばれるこの考え方は、シャノンとウィーバーの工学的モデルに由来するモデルであり、コミュニケーションをもっぱら情報伝達の点から考える。(参考:コミュニケーションの伝達モデル




2.1 図説・概説

以下は、Wikipediaに掲載されている画像である(図をクリックすれば図が拡大します。以下、同じ)

このモデルはよく知られているので詳しい解説は省略するが、コミュニケーションとは、ある情報Xを送信者が符号化(encoding, codifying)し、符号化された情報はある経路を通って受信者に届き、その受信者はその情報を復号化(decoding, decodifying)して情報Xを復元することであると考えられている。コミュニケーションの成功は、符号化と復号化の正確さ、経路での障害のなさなどからもたらされると考えられている。




2.2 コード重視 ― メッセージ(テクスト)は所与で同一

この情報伝達モデルが、コミュニケーション ―本稿では言語コミュニケーションを「コミュニケーション」として考え、他の種類のコミュニケーションはとりあえず考えない― のモデルとして不十分なのは、Relevance: Communication and Cognitionに詳しいので省略するが、ここで他のモデルとの比較から注目すべきは、情報伝達モデルが、コード(code)を重視したもの(小山 2008, p. 197)であり、またメッセージ(テクスト)(注1)は所与のものとして想定され、ただ送受信されるだけのものとして扱われ、かつ送信者と受信者においてそれは同一のものである(べき)だと考えられていることである(小山 2008, p. 204)。これらの特徴から考えられる授業像を次項で述べる。

(注1) 本稿では「メッセージ」と「テクスト」という用語を同義として扱う。



2.3 情報伝達としての授業

授業とはコミュニケーションであり、コミュニケーションとは情報伝達であると考えるなら、その情報伝達モデルに従い、授業において重視されているのは、教師(送信者)と学習者(受信者)の間に同じコードが共有されていること(あるいは同じ符号化・復号化手段が共有されていること)となり、メッセージ(テクスト)としての教育内容は、例えば教科書などによって予め与えられたものであり、授業は教師が有する教育内容テクストを、学習者も共有できるようになれば成功だと考えられる(実際、学校の定期テストの多くは、教師によって授業で伝えられた教育内容を学習者が忠実に再現することを求めている)。授業の成功のために重要な他の事は、例えば情報が伝達される経路が確保されることであり、それは具体的には私語のない静かな空間が確保されるなどを意味する。

やや単純な例をあげるなら、この情報伝達モデルに基づく「良い授業」とは、静粛な環境での流暢な講義であり、そこでは教師の発話や板書が学習者によって速やかに記録されることが求められている。学習とは記録された教育内容を学習者自ら再現することである。あるいは英語の「良い授業」とは、コミュニケーションのコードを目標言語にしてしまういわゆる「オールイングリッシュ」となるのかもしれない。情報伝達の情報内容が英語についてであるだけでなく、情報伝達回路そのものが英語によるなら、それこそは英語教育という目的に適った授業・コミュニケーションと考えるのかもしれない。だが、このモデルでは、以下の6機能モデルで明らかになるような側面に注目することが困難である。







3 ヤコブソンの6機能モデル

ヤコブソンは、コミュニケーションを6つの要素から考え、それぞれの要素を重視した際に生じる6つの機能を明らかにして、それをコミュニケーションのモデルとした。このモデルは、「(会話分析や談話分析を含む)諸々の語用論的研究を包括的に捉える射程を持っている」のであり、「現代の言語使用(語用)の諸研究の枠組(フレーム)となっている」ものであると小山は述べる(2008, p. 217)。以下、小山に従いこのモデルを概説する。用語法も基本的に小山に従うが、小山が"referent"としている箇所(小山 2008, p. 207)は、ヤコブソンの元々の用語に従い"context"としているところは明確に異なる(下図参照)。


  3.1 図説・概説

小山の解説を元にヤコブソンの6機能モデルを図示するなら、以下のようになる。すべて大文字で書かれた用語はコミュニケーションの6つの要素であり、括弧の中に斜字体で書かれた用語はコミュニケーションの6つの機能を示す。






それでは6つの機能を概説する。

(1) Emotive function (表出的機能)

表出機能は、コミュニケーションの一要素である語り手(Addresser)の働きが強く現れるものであり、「送り手の態度や感情、また、社会的アイデンティティ、ステータスなどの社会文化的特性」(小山 2008, p. 209)などが伝えられる。


 (2) Conative function (動能的機能)

動能的機能は、コミュニケーションの要素としての聞き手(Addressee)への働きが強いものであり、聞き手への呼びかけ・命令などがその代表例である(小山 2008, p. 210)。


(3) Referential function (言及指示機能) 言及指示機能は、例えば「彼女は突然その場に現れた」や「織田信長が桶狭間の戦いで・・・」といった発話で、「彼女」「その場」や「織田信長」「桶狭間」といった言葉で実際に指示 (refer) されているコンテクスト (context) を明らかにする働きである。

以上の、表出的機能・動能的機能・言及指示機能は、例えばサールのスピーチ・アクトの5つのタイプでも説明されている。例えば表出的機能はサールの言う「勘定表出型発話行為」(expressives)と「行為確約型発話行為」(commissives)によって主になされるし、動能的機能は「行為指示型発話行為」(directives)でなされ、言及指示機能は「記述表象型発話行為」(representatives)と「規約宣言型発話行為」(declarations)でなされると考えられる(小山 2008, p. 210)。しかしサールの論などでは、以下の3つの機能は説明しがたい。

(4) Phatic function (交話的機能)

交話的機能とは、コミュニケーションの接触回路(contact)に焦点があたった機能であり、挨拶が典型例である。挨拶は、「いわば、社会文化的な相互行為(コミュニケーション)の「スイッチ」が入ったこと(あるいは切れたこと)を明示的に示す、メタ・コミュニカティヴな記号」と考えられる(小山 2008, p. 211)。

(5) Metalingual function (メタ言語機能)

メタ言語機能 ―ヤコブソンの言い方なら"metalingual function"だが現代の言い方なら"metalinguistic function"となろう― は、使われる語や言い回しの意味に焦点化した「メタ意味論的機能」(metasemantic function)と、発話行為の解釈枠組に焦点をおいた「メタ語用論的機能」(metapragmatic function)の二つの側面をもつ。いずれにせよ、コミュニケーション使われた言語に関してのコミュニケーションである(ちなみに、ベイトソンの「メタ・コミュニケーション」は「メタ語用論的機能」についてのものである)(小山 2008, pp. 211-213)。

(6) Poetic function (詩的機能)

詩的機能とは、コミュニケーションのメッセージ(テクスト)の働きが強い時に現れるものである。この機能を「詩的」とヤコブソンが呼ぶのは、テクストそのものへの工夫創意は詩において最も典型的に現れるからである。(小山 2008, p. 214)



3.2 テクストとコンテクストは生成するが同一

このヤコブソンのモデルを、情報伝達モデルと、次に述べる出来事モデルと比べた場合に注目べき点は、情報伝達モデルと異なり、このモデルではテクストとコンテクストが生成されるものとして捉えられていることである。テクスト(メッセージ)は、言及指示機能によってコンテクストが示されて初めて十全なものとして現れる(注2)。情報伝達モデルにおいては、テクスト(メッセージ)は送信者の頭の中に十全な形で存在していると想定されおり、コンテクストはせいぜいコミュニケーション経路(例えば、電波が送信される空間)ぐらいにしか考えられていないといえるだろう。情報伝達モデルで、テクストとコンテクストは所与であるが、ヤコブソンモデルではテクストとコンテクストは、コミュニケーションにおいて生成されるものとされている。

(注2)この3.2の論点に関しては、ヤコブソンの原典を読んでもう一度じっくり考えたい(ヤコブソンの論文は約20年前に翻訳を読んだだけである)。現時点では上記の理解を仮設的に提示しておく。





3.3 6つの機能から考える授業

これら6つの機能を列挙することにより、授業のどのような側面が描き出されるだろうか。以下、田尻悟郎先生といった有名な実践家の実践を例にしながら、このモデルが提示する授業理解を明らかにしてゆきたい。なお、実際の授業行為は、複数の機能が重なったものである。以下の例にしても、主にその機能が強く見られるというだけであり、他の機能が見られないなどということは意味しない。なお田尻悟郎先生の実践に関しては、以下からしばしば引用する。

田尻悟郎先生の多声性について
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/blog-post.html


(1) Emotive function (表出的機能)

田尻先生は、教師として教育内容に言及するときに明瞭性と規範性に富む標準語を使い、学習者と心理的交流を深め学習を支援するときなどに親和性と親密性に富む関西弁を使い、職員室での教員同士の会話では出雲弁を主に使っていた(当時の勤務校は島根県)。また、日本語・英語を問わず、様々な声色・声質・声量で、教師と生徒の関係性(あるいは自らのアイデンティティ)を表現していた。

(2) Conative function (動能的機能)

田尻先生の授業では、生徒への指示は主に英語でなされていたが、その指示はクラス全体に対して行われる場合、個人に対して行われる場合、困難な課題に対して行われる場合、日常的になされている指示の場合などで、巧みに使い分けがなされていた。

(3) Referential function (言及指示機能)

田尻先生の授業は、英語教室で行われ、そこには壁のいたるところに、英語学習の参照物が掲示されていた。また、参照物は生徒に配布し常時机の上にも置かせていた。田尻先生の実践の大きな特徴の一つは、この言及指示機能の豊かさにある(以下の(6)も参照)。

(4) Phatic function (交話的機能)

生徒がある学習項目でつまずいた時に、田尻先生は笑顔で「おーっ、忘れたかー。忘れたなー」といかにも楽しそうに言いながら、その学習項目の復習のために教材の入ったCDプレーヤーに向かった。学習上の失敗という、しばしば教師-生徒間のコミュニケーションの断絶につながりかねない事象に対して、このようにコミュニケーションが継続されていることを保証するような言語使用が田尻先生の授業には見られた。あるいは、生徒の間違いをわざと誇張して笑顔でからかう「55 minutesって何だよ。なんで55分もかかるんや」と標準語から関西弁になるのもこの事例の一つと考えられる。

(5) Metalingual function (メタ言語機能)

田尻先生の場合、発話中の語句の意味に関するメタ意味論的機能は、明瞭な標準語でなされていたが、生徒の発話行為全体をどう解釈するかというメタ語用論的機能は、さりげない褒め言葉(「うん、そうそう、えらい、えらい」)でなされたり、反応の遅いクラスを陰気にならずからかう笑顔での挑発の「遅いやん」という関西弁などで巧みになされていた。

(6) Poetic function (詩的機能)

これは田尻先生の実践の最大の特徴と言えるかもしれない。田尻先生が生徒に覚えさせる言語ルールなどは、語調・語呂よく、何度も繰り返して唱和することが楽しくなるようなものとして作られてきた(このネーミングの巧みさは、現在NHKで放映されているテレビで基礎英語でもしばしば観察される)。この点については時間があれば、具体的にもっと検討したいが、今回はこの論点の提示のみに留める。

もちろんこれらの特徴は、ヤコブソンの6機能モデルでないと解明されないわけではない。しかし、情報伝達モデルでしかコミュニケーションを捉えない場合と比べると、このモデルでコミュニケーション理解をすると、授業理解も豊かになることは納得していただけるだろう。「コミュニケーションとは何か」といった根底的な問いは、しばしば「哲学的」と敬遠(というより揶揄)されるが、根底的な理解を確かなものにしなければ、表面的な現象も確かなものにならないことをここでは強調しておきたい。





4 出来事モデル

三番目のコミュニケーション・モデルは、現代言語人類学が採択する出来事モデルである。このモデルでは、出来事(event)を中心にコミュニケーションが概念化されている(小山 2008, p. 221)。私はこのモデルの理解についてまだ十分な自信を持つことができていないが、思い切って自分なりの理解で、この出来事モデルを概説してみたい。


  4.1 図説・概説

コミュニケーションの出来事モデルを私なりに図解するなら以下のようになる。






黒色はコミュニケーションの参加者Aによる身体的行為・心理的認知、白色はBによる身体的行為・心理的認知を示す。話を単純にするため、AがA1という発話をしたことからこのモデルを始める。そのA1は、命題内容という情報 (information) を述べる"saying"の部分と、社会的な発話行為 (speech act) を示す"doing"の部分の統合として、Bによって理解 (understanding) される。ただ統合とは言うものの、これは必ずしも単純なものでなく、そもそも"saying"のlocutionary actが明確に把握 (comprehension) されない場合もあるし、どのような発話行為として解釈(interpretation)するべきか確証がもてない場合もある。また、情報の把握と発話行為の解釈の両方を同時に考えてそれぞれをどのように統合的に理解しなければならない場合もある(注3)。

(注3) このモデルは、ルーマンの以下の見解に基づいている。詳しくはhttp://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/Luhmann.html#071124を参照されたい。

コミュニケーションが成立するのは、情報と告示行動の差異が観察され、確認され、理解されて、この差異が接続行動の選択を基礎づける場合に限られている。その際、理解するということには、程度の差はあれかなりの誤解がノーマルなものとして含まれている。しかし、これから明らかにされるとおり、点検可能で修正可能な誤解が重要になるのである。

したがって、これから本書では、コミュニケーションを三極の統一体として取り扱うことにしたい。コミュニケーションが創発的事象として成立するためには、三つの選択が総合されなければならないということから出発することにしたい。(221ページ)。



Kommunikation kommt nur zusatnde, wenn diese zuletzt genannte Differenz [=Differenz von Information und Mitteilungsverhalten] beobachtet, zugemutet, verstanden und der Wahl des Anschlusverhaltens zu Grunde gelegt wird. Dabei schliest Verstehen mehr order weniger weitgehende Misversandnisse als normal ein; aber es wird sich, wie wir sehen werden, um kontrollierbare und korrigierbare Missstandnisse handeln.

Kommunikation wird also im weiteren als dreistellige Einheit behandelt. Wir gehen davon aus, das drei Selektionen zur Synthese gebracht werden mussen, damit Kommunication als emergentes Geschehen zussandekommt. ( p. 196)



Communication emerges only if this last difference [=difference between information and utterance] is observed, expected, understood, and used as the basis for connecting with further behaviors. Thus understanding normally includes more or less extensive misunderstandings; but these are always, as we shall see, misunderstandings that can be controlled and corrected.

From now on we will treat communication as a three-part unity. We will begin from the fact that these three selections must be synthesized in order for communication to appear as an emergent occurrence. (pp. 141-2)


AによるA1のsayingとdoingを同時に勘案にいれながら、BはA1を理解するが、その理解こそはBにとってのテクスト(Bが理解するAからのテクスト(メッセージ)である。そのBの理解の際には、sayingの把握の部分にせよ、doingの解釈の部分にせよ、sayingの把握とdoingの解釈の統一体としての理解そのものにせよ、何を背景・後景、つまりはコンテクストとして措定するかを定めることが必要である。つまり理解によってテクストが生成される時、そのテクストのコンテクストも同時に生成される(というより生成されなければならない)。理解とはテクスト生成 (textualization) でありコンテクスト生成 (contextualization) である。

BはB1という理解(=テクスト生成・コンテクスト生成)に基づき、自分自身の発話(B1)を行う。これもsayingとdoingに分けることができるが、Aはこれを統合的に理解し、Aなりの理解を行う(A2)。その理解とは、Aなりのテクスト生成(A2)でありコンテクスト生成(A2)であり、その理解を基にAは次の発話(A2)を行うが、その発話もsayingとdoingに分けることができるのは言うまでもない。


4.2 差異を有する複数人の間での相互作用によるテクストとコンテクストの生成と発展

このモデルにおいて、Aの理解とBの理解は同じものと想定されてはいない。AはAなりの理解しかしない(できない)し、BもBなりの理解しかしない(できない)。ということは、Aのテクストとコンテクストは、Bのテクストとコンテクストと必ずしも同じものではないことになる。しかしAとBの発話が連続(接続)する限りにおいて、AとBの理解・テクスト・コンテクストは相似的であり、発話が連続(接続)につれ、つまりはコミュニケーションが続くにつれ、その相似の度合いは原則として高まると考えられる(もちろん、何らかのきっかけで突然大きく離れる場合もあるのだが)。

通常、現象的に(あるいは外面的に)「コミュニケーション」と見なされるのは、観察される発話 (saying + doing) であるが、この発話は通常は観察されない心理的な理解に基づくものである。しかもその理解は個人的なもので、複数の人間は理解を明らかな形で共有することはできないのだから、発話の発展は、コミュニケーションのどの参加者も予想できないものとなりうる。コミュニケーションは、個人内のレベルで出現するのではなく、相互行為(interaction)のレベルで創発(emerge)する。コミュニケーションはどんな個人内に回収することもできない、相互行為である。この意味でコミュニケーションにおいて、参加者一人ひとりの中で独自に生成される理解・テクスト・コンテクストも相互作用的(interactional)なものであると言える。

この出来事モデルは、テクスト・コンテクストの生成を強調する点で、ヤコブソンの6機能モデルと似ているが、出来事モデルでは、テクスト・コンテクストは(たとえ相互作用的であるとはいえ)個々人間で差異を有するものだと考えられる。ヤコブソンのモデルにおいては(私が考える限り)生成されるテクスト・コンテクストは語り手と聞き手の間で同じものと想定されているように思える(少なくとも語り手と聞き手の間でのテクスト・コンテクストの差異を積極的に主張しているとは思えない)。出来事モデルは、コミュニケーションの相互作用性だけでなく、個人性(個人間での差異)もよく表していると言えよう。

この特徴は、出来事モデルが「オリゴ」"origo" ( = deictic center)を重視している (小山 2008, p. 197) ことにも重なるかもしれない。コミュニケーションの参加者は、それぞれのオリゴ (deictic center) を有し(あるいは投射 (project) し ― deictic projection―) コミュニケーションを行う。言い換えるなら、コミュニケーションは参加者がそれぞれに有する(あるいは投射する)オリゴ (deictic center)からでしか発生しない。しかしコミュニケーションはどの個人のオリゴ (deictic center)にも回収されることなく、参加者は相互のオリゴを想定しつつ、それぞれのテクスト・コンテクストを生成し続ける。

テクスト・コンテクストの生成が接続し連続するなら、つまりはコミュニケーションがつながるなら、それは一つの「出来事」(event)となる(注4)。コミュニケーションという出来事は、心的世界を異にする参加者が、それぞれの心的世界の理解を基にしながら、発話を重ね、それが相互作用的に、つまりはお互いにひとつのまとまりとして知覚されるものである。

(注4)このあたりの論考も、実はもっと文献を読んで慎重に行いたいが、今回はこのように論じておく。


4.3出来事としての授業

この出来事モデルを採択することにより、授業理解も新たになるだろう。本来はもっと時間をかけて考察してから書きたいが、今回なりに論点を提示するなら、それは授業においての「テクスト」とは、例えば誰にとっても同一に見える教科書でもなく、「コンテクスト」も共通の物理空間である教科書でもないということである。

出来事モデルによってコミュニケーションを理解した上で浮かび上がってくる授業像は、教師が自分のオリゴ (deictic center)から、学習者のオリゴ (deictic center) を想像し、その想像に基づき言動 (saying + doing) を行い、生徒はそれが自分にとって関連のある(=これまでの自分やこれからの自分につながる)出来事 (event) として理解 (understand) できる限りにおいて、自分なりのテクストとコンテクストを自分の中に創り出すということである。

生徒は自分なりに関連のある・つながりのある理解を、教師の言動から創りあげることができる限りにおいて、自らの言動も始動させる。生徒がそれぞれに理解に基づく言動を開始させたなら、生徒の間での理解ひいては言動の差異は、それがつながりを断絶させるものでない限り、さらなる理解の生成を促す。こうして生徒それぞれが、それぞれのテクスト・コンテクストを生成するが、それらはコミュニケーションという出来事としてつながる限りにおいて、それなりのまとまりをもったものとなり、決して生徒が自分勝手に「何でもあり」の理解をするわけではない。

授業の成功は、円滑な情報伝達だけに還元できない。また、授業における表出的機能・動能的機能・言及指示機能・交話的機能・メタ言語機能・詩的機能はそれぞれ重要であるが、授業というコミュニケーションは、参加者個々人の差異を認め、かつ活用することにおいて成功すると言える。これが出来事モデルから描き出される授業像である。(コミュニケーションにおける差異の活用については「現代社会における英語教育の人間形成について -- 社会哲学的考察」のPDFファイルをご参照いただければ幸いである。)





5 おわりに

社会が産業社会からポスト産業社会に移行し、求められる学力が、典型的には工場労働者に必要な均一な知識から、個性的で協調的な知識創造に変わりつつある現代において、私は出来事モデルが最も時代に適した授業理解を提示していると考える。佐藤学氏は、的確な授業理解・教育観を提示し続ける教育学者だが、氏の論考と出来事モデルによる授業というコミュニケーションの理解は重なるところが多いとも予感している。本日はブログという媒体での試行的な論を展開したが、今後、考えを深めてゆきたい。





















関連記事:小山亘(2012)『コミュニケーション論のまなざし』三元社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/05/2012.html





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