東広島大学、『武道英語』を必修に
『英語狂育通信 2012年4月1日号』
この春、武道が中学校保健体育において必修化される。そんな中、東広島大学では武道と英語教育を統合した『武道英語』カリキュラムを始めるという。『英語狂育通信』では同大学で英語教育を統括する柳瀬妖介狂授(48)にインタビューを試みた。
偏執部(以下、偏): 今回の東広島大学での『武道英語』導入は、文化省の武道必修化と何か関連があるのでしょうか。
柳瀬妖介(以下、妖):うむ。儂(わし)は文化省の浅慮に我慢がならん。よって、この『武道英語』を導入したのぢゃ。
偏:浅慮といいますと、やはり安全対策がなっていないといったことでしょうか。
妖:それは重要じゃが、細かなことに過ぎぬ。儂が言いたいのは、歴史認識と精神における根本的な錯誤じゃ。文化省のいう「武道」とやらの必修化で、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という教育基本法の考えを活かすなどとほざくのならば、片腹痛いわ。
偏:しかし武道は日本の伝統文化ではないのでしょうか。
妖:ふっ、ヌシも日本を知らぬ愚かな現代人のようじゃの。よいか武道 ―というよりも武術なのじゃが、まあ今回は武道でも武術でも同じ意味だとしよう― 現代人がいう「武道」というのはの、明治の文明開化と、第二次大戦後の占領政策によって、昔日のものから根本的に変えられてしまった別物に過ぎぬ(内田樹(2010)『武道的思考』筑摩書房)。オリンピックの柔道選手などに儂は拍手をおくることにやぶさかではないが、オリンピックの柔道なぞはもはやJudoというスポーツに過ぎず、昔日の武術としての柔術とはまったく別物ぢゃ。
偏:そんなものなのですか?
妖:そんなこともわからぬか。よいか武術とは護身の術じゃ。敵は剣でも棒でも突きでも攻撃してくる。「待て」という審判などおらぬ。二人、三人がかりで攻撃されることもある。それらすべてに対応するのが武術としての柔術じゃ。ところがスポーツとしての柔道ではそのような状況は考えもせず、何の訓練もせぬじゃろう。試合場に立って審判に「始め」と言われてはじめて戦おうとすることなぞ、昔日の武術とはまったく別物の所業ぢゃ。
偏:なるほど、スポーツとは、まずもって気晴らしであり、近代に入って制度化され、競争を楽しむようになった文化ですから、護身としての武術と、気晴らしや制度化された競争としてのスポーツは根本的に違うのかもしれませんね。
妖:ヌシもわかってきたか。それなのに文化省の役人どもは武術とスポーツを混同した愚を、権力をもって我が国に普及させようとしておる。例えばホームページにはこう書いておる。
武道は、武技、武術などから発生した我が国固有の文化であり、相手の動きに応じて、基本動作や基本となる技を身に付け、相手を攻撃したり相手の技を防御したりすることによって、勝敗を競い合う楽しさや喜びを味わうことができる運動です。また、武道に積極的に取り組むことを通して、武道の伝統的な考え方を理解し、相手を尊重して練習や試合ができるようにすることを重視する運動です。
http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/jyujitsu/1221013.htm
「勝敗を競い合う楽しさや喜びを味わう」などとは愚昧もはなはだしい。よいか、闘いとは命の取り合いであり、勝敗とは生死のことである。死ねば無念、生き残っても恨みをかうだけのことであろう。ならば闘いの邪気をいち早く察知し、それを鎮め祓うことこそが人の道ではないか。武術とはそのための身心の術ぢゃ。決して競い合うものではない。しかるにもって「勝敗を競い合う楽しさや喜びを味わう」ことなどを「武道の伝統的な考え方」と称するなら、これは日本の伝統を偽ることぢゃ。
偏:しかし、競い合うことは人間において必須のことではありませんか?
妖:ヌシもまだ近代にとらわれたままじゃのぉ。「ポストモダン」などの浅薄なことばは口走っても、肝心のことがわかっておらぬ。よいか、競い合う競争とは、たしかに古来からあった人間の性(さが)なるも、近代の産業革命・工業生産・市場原理・資本主義・植民地支配などによって激化された人間の一側面に過ぎぬ。その一側面をいたずらに肥大化させ、人々の助け合う心、惻隠の情、たおやかなる暮らしを殺しているのが、現代じゃ。現代日本も、明治以来の近代化という歴史的課題を終え、近代の超克へと向かわねばならんのじゃ。
偏:で、その近代とスポーツの関係とは?
妖:まだわからぬか。学校教育の体育とは、国民を「近代化」すること、近代的競争の「人材」を大量生産することの一手段なのぢゃ。野口体操の継承者たちもこう言っておる。
明治に入り、欧米諸国に追いつくために1885(明治18)年、初代文部大臣・森有礼は青少年の身体能力の向上が不可欠であるとして兵式体操に着目しました。1886(明治19)年に交付された「学校令」のなかで、教科として「体操」を位置づけ、徹底した教育を施しました。近代的な制度を担える身体づくり、合理的な身体の動かし方や身体の所作、隊列をつくり集団で効率的に行動することなど、合理的に組み立てられた運動を通して近代合理主義の思考を身体にしみ込ませること、戦争時に対応できる強靭な身体、体力の形成が国家的な課題となり、それを「体操」を中心に構成しようとしたのです。(羽鳥・松尾 (2007)『身体感覚をひらく』pp. 23-24)
今回の文化省の武道必修化も、「伝統と文化の尊重」などとは口先だけぢゃ。明治以前の歴史を知ろうともせず、第二次大戦後の自己欺瞞にも向き合おうとしておらぬ。なあに、文化省のホンネは「人材育成」に過ぎぬ。グローバル資本主義競争の釜の中に入れ込む石炭を作り出そうとしておるだけじゃ。あるいは自ら何も考えることもできずに時代の波に翻弄されておるだけぢゃ。
偏:ちょっとことばが過激なのではありませんか。
妖:ヌシまでそう言うか。ふっ、ならばオリンピックでもテレビで見て喜んでいるがよい。スポーツ選手の個人の純粋な気持をうまく使って国威発揚を図り無駄な消費をさせ、真に眼を据えて見据えなければならぬ国や世界の問題から国民の目をそらす馬鹿騒ぎに浮かれておるがよい。
偏:そこまでオリンピックを悪く言わなくてもいいんじゃないですか。
妖:馬鹿者。オリンピックこそは、西洋近代・工業生産・市場原理の結晶的象徴なのぢゃ。ひたすらに人々を競争に追い込む巨大なイデオロギー装置なのぢゃ。何が「より速く、よりうまく、より安く」じゃ!
偏:あの、それ「より速く、より高く、より強く」です。「より速く、よりうまく、より安く」じゃ、吉野家とすき家の競争になっちゃいますよ。
妖:儂は松屋を贔屓にしておる。
偏:いや、そうじゃなくて。ま、いいですから、武術の話に戻りましょう。先生は、それだけおっしゃるからには、武術をかなり修得されていらっしゃるんでしょうね。
妖:いや上泉伊勢守信綱様に比べれば、儂なぞ小童(こわっぱ)じゃが、まあ、剣術、柔術、空手、中国拳法ぐらいは極めたと言えよう。
偏:そんなにたくさんの武術を!
妖:ハッハッハ。『バガボンド』、『コンデ・コマ』、『空手バカ一代』、『拳児』は全巻読んだぞ。
偏:えっ、それってみんな漫画ですけど、まさかその漫画を読んだだけって言うんじゃないでしょうね。
妖:馬鹿者!話は最後まで聞かぬか!その他にも『北斗の拳』、『キン肉マン』も全巻読んでおるわ!
偏:ちょっと待ってください。他にどんな漫画を読んでいてもいいんですけど、まさか漫画の本を読んだだけで武術を修得したとおっしゃっているんですか?
妖:ふっ、儂は理論派ぢゃからのぉ。
偏:・・・(しばし絶句) まあいいでしょう。本誌は英語教育の雑誌ですから、武術にはあまり踏み込みません。しかし、その武術的な考えとやらは、英語教育にきちんと反映されているんでしょうね。
妖:当然じゃ。儂の『武道英語』は、近代批判であり、近代競技スポーツのイデオロギーを超克した英語教育ぢゃ。
偏:ご説明をお願いします。
妖:よいか、英語というのはもとより英米などで話されておる言語ぢゃが、その教授法・指導法まで英米由来でなければならぬという法はない。ところがハロルド・パーマーの昔から、フォーカス・オン・フォームとやらの今日に至るまで指導法も舶来のものばかりをありがたがっておる。
偏:しかし舶来であろうが、よいものはよいのではありませんか?
妖:それは違う。英米の英語教授法・指導法とは、所詮、母語話者が考えるものに過ぎぬ。自らは英語を不如意なく話す御仁の考える方法ぢゃ。そこに、英語を外国語として身につけなければならぬ我が同胞の日本人の苦労に対する配慮はない。これはスポーツ的ぢゃ。
偏:スポーツ的とおっしゃいますと?
妖:よいか、スポーツは所詮、身体の大きな者が勝つ、それだけのものに過ぎぬ。多くの競技が体重別になっているのが動かぬ証拠。スポーツとは、もともと身体的な強者のためのものに過ぎぬのじゃ。そこには、小さな者とて我が身を守るために闘わなければならぬ「小よく大を制す」の武術の精神がない。
偏:まだよくわからないのですが。
妖:舶来の英語教授法・指導法とは、もともと英語がそれなりに使える者 ―英語強者― がさらに英語を使えるようになるためのものに過ぎぬ。それをスポーツ的と言っておるのぢゃ。
舶来の教授法・指導法には、母語と異なる統語法・談話展開・発声法・身体操法に苦難を覚える我が同胞の英語弱者が、いかにしてその構造的に不利な状況を打開するかという「小よく大を制す」の武術の発想がない。日本人にとっての英語の学びとは、不利な状況の中で英語母語話者とやりあってゆかねばならぬという武術的な発想で行わねばならぬ。
偏:つまり、身体の小さな人が、身体の大きな人向けのトレーニングをやっても強くなれず、身体の大きな人との差は永遠に縮まらないのと同じように、英語強者向けの英語学習法をいくら行なっても、英語弱者である日本人は永遠に英語弱者のままである、ということですね。
妖:そうぢゃ、よう言うた。弱者が強者に立ち向かうには、強者と同じ事をやっておってはならぬ。強者の力任せの技を超えるために、弱者は武術の術理に適った技を体得せねばならぬ。武術の術理とは、そうじゃのぉ、一つには、無駄な動きを徹底的にそぎ落とし、最小・最短・最弱の動きだけで、闘いの肝心要を抑えることぢゃ。無駄にペラペラしゃべってもいかぬ。無益にダラダラ読んでもいかぬ。英語を話すにせよ書くにせよ、聞くにせよ読むにせよ、限りなく本質を求め、無駄を省くことぢゃ。
偏:学習の質を高めるということですね。
妖:うむ、そう言ってもよいが、むしろ学びをその者の天命に適ったものにすると言った方がよかろう。もっとも、天命とは棺桶の蓋を閉めるまでは定まらぬものじゃがのぉ、ハッハッハ。
偏:しかし天命とは大げさですね。そもそも所詮語学訓練なのですから、そんな人間的なことを出すのは余計なこと、というよりごまかしじゃないですか?
妖:ヌシはやはりわかっておらぬようじゃの。よいか、英語だけペラペラになって、人間の中身がついておらぬなら、世界中に向けて自らの馬鹿ぶりを宣伝するようなものではないか。幕末の侍が欧米諸国を訪問した時、彼らは欧米言語を話さなかったが、その人格の高潔さは彼らの立居振舞から自ずと欧米人に伝わり、彼の地での歓待と敬意に至った。人物ができていてこその語学じゃ。儂は語学教師じゃが、語学と人間のどちらが大切かと問われれば、迷うことなく人間と答えるぞ。
昨今、日本の政治家や高級官僚も英語を話すことが必要だとか言われておるが、人物ができていない者が英語を話せば、愚かさを世界中に露見させるだけぢゃ。ことばとは人が発するものゆえ、人ができておらずば、そのことばはいくら外見を装うとも、力を持たぬ。原発事故に関する日本政府による英語記者会見に、ついに外国人記者が誰も来なくなったことはヌシも知っておるはずぢゃ。
偏:いや、そのエピソードは核心をつきすぎておりまして、文化省はおろか銭金省まで刺激しかねませんから、この業界では語らないことになっております。お手柔らかに。
妖:ふっ、そうしてジャーナリズムまでもが腰抜けぢゃから、儂が『武道英語』を立ち上げたのぢゃ。
偏:わかりました。それではいよいよ『武道英語』についてのお話を伺うことにしましょう。この柔道場が教室となるのですね。
妖:そうぢゃ。ここには西洋式の机も椅子もない。学生は座るときは正座かあぐらぢゃ。いずれにせよ、事あらばすぐに立ち上がることができねばならぬ。そのため腰骨を立て、顎をわずかに引き、眼を涼しうしておらねばならぬ。
正座を何分続けられるかというのは問題ではない。座り姿だけで、その人となりを現せねばならぬ。というより、座り姿、立ち姿、立居振舞こそが人となりなのぢゃ。立居振舞から無駄を省き、本質の身心になることこそが人間修業なのぢゃ。昔日の日本の躾(しつけ) ―身を美しくする営み― こそが修身であり倫理なのぢゃ。オカルト以来の心身二元論で心だけを分離させて、それを修めようとしてもうまくゆくわけはあるまい。
偏:「デカルト」ですよね(この人ボケじゃなくて、天然で間違えるからやっかいだよなぁ)。
妖:だから『武道英語入門』の授業では半年間、この道場で座ることしかせぬ。身体を練り上げるのぢゃ。隙があらば、儂が木刀で叩く。心身を無にし、気を充たし、敵に付け入られぬ身体を作り上げるのぢゃ。
偏:座るだけで英語の授業ですか?評価はどうするのでしょう。
妖:ヌシらは、二言目には評価、評価という。それも近代やスポーツの宿痾ぢゃ。技とは自らの心身で自得するもの。冷暖自知で、他者からの評価、ましてや「標準的」や「制度的」などと称する評価など、学びにとって本質的なものではない。技の自得は自らの心身と師からの木刀でわかるじゃろうが。
偏:そうは言いましても、一応、文化省からのお達しですから。
妖:だから儂も一応、筆記試験はやることにしておる。
偏:えっ、半年間座り続けるだけの授業の試験が筆記ですか?
妖:そうぢゃ。学生は、試験の時間、ただ座り続ける。
偏:解答用紙には何も書かないんですか?
妖:当たり前ぢゃ。心が無になっておるのに、何が書けようか。
偏:それでは学生の間に差が出ないでしょう。それでどうして評価なのですか?
妖:アッハッハ。まさにオリンピック万歳ぢゃのぉ。人々の間に差はある。だが他人との差は己の人生にとっては無意味ぢゃ。己は己の人生に向き合うだけぢゃ。その中で人事を尽くし、天命を待つ。天を敬し人を愛する。それだけのことぢゃ。無意味な評価なぞ、犬にでも喰わしておけ。
偏:まあ、いいことにしましょう。で、『武道英語入門』の次は『武道英語映画』ですね。これは何をやるんですか。
妖:うむ、映画に心身没入することにより、心と身体と英語を一致させるのじゃ。心体言一如の三昧に至ると言えよう。
偏:そんな大げさに言わずとも、ただ映画を見るだけでしょう。
妖:馬鹿者。心体言を一致させる経験無くして、心体言がバラバラのままに英語を勉強するからこそ、いつまでたっても英語が「身につかぬ」のぢゃ。
心ここにあらずで丸暗記しても、それは試験が終わって三日も経てば忘れておるぢゃろう。身体をおろそかにすれば、ぎこちなく傍から見れば滑稽な身体作法でしゃべるに至るだけであろう。英語だけが心身から離れて扱われるから、不要な文法理論ばかりに拘ることになろう。
心体言が一致するとき、ことばが人になり、人がことばになる。そのようなことばでなければ、世界の人々に通じない。映画を何度も見て、映画のことばに没入することにより心体言一如を、まずは映画視聴の中で体験することが『武道英語映画』の目的ぢゃ。
偏:わかりました。で、具体的には何をご覧になるのですか?
妖:『カンフーパンダ』。
偏:えっ、それって子ども向けのアニメでしょ。
妖:愚か者はそうしてすぐに外見だけに囚われてしまう。この映画も続編も、武術をよくわかった上で作られた娯楽作品ぢゃぞ。それにもちろん、英語の勉強にもなる。例えば、ヌシはなぜ今のことを"the present"と言うか知っておるか?
偏:ああ、"Yesterday is History, Tomorrow a Mystery, Today is a Gift, Thats why it's called the Present" っていうやつでしょ。
妖:えっ、知ってたの?
偏:知ってたも何も、これって何かコジャレた言い回しで、常套句といってもいいぐらいですよ。
妖:ふん、そうかも知れぬが、学生はこれを聞いて喜ぶぞ。
偏:まあ、そうでしょうね。
妖:それだけではない。この映画では不定冠詞と定冠詞の違いも学べるぞ。例えば、悪漢にて強者のTai Lungが、主人公のパンダに思いもかけない敗北をくらいながら言う台詞と、それを受けてのパンダPoの台詞ぢゃ。
Tai Lung: You can't defeat me! You... you're just a big... fat... panda! [He throws a weak punch, Po catches his hand by the finger]
Po: I'm not a big fat panda. I'm THE big fat panda.
http://www.imdb.com/title/tt0441773/quotes
偏:なるほど、これはわかりやすい例文かもしれませんね。
妖:それだけではない。これは自分で自分を情けなくしか思えておらなかったパンダのポーの自己肯定の台詞でもある。武術とは自己を見出すことでもあるのぢゃ。その他にも、この映画では師がいかにして師になるかという教師の成長論にもつながるテーマが、シーフー老師の苦難を通じて描かれておる。授業ではこの映画を半年間徹底的に見続けるのぢゃ。
偏:わかりました。もう評価のことは聞かないことにしましょう。で、次の授業は『武道的日英原理体得』ですね。
妖:そう。この授業では、日本語と英語の違いを徹底的に身体に染み込ませる。日英語の違いは、「組み伏せてから失神させる」か「失神させてから組み伏せるか」の違いじゃ。
偏:はぁっ?
妖:まあ、実践してみよう。(二人、柔道場に立つ)。日本語は ―細かい議論を省いての単純化ぢゃが― 典型的には「Aは、B・・・・、Cである/でない」となる。Aとは「懸り」でCが「結び」ぢゃ。日本語は懸りと結びの間に具体的情報を伝えるBが入る。これが構造じゃ。
例えば、「Aは」(と言って偏執者の手を取る)、「B・・・・・」(と言いつつ編集者の身体のバランスを崩しつつ引き回し畳の上に組み伏せる)、そして「Cぢゃ」(と言って、偏執者の身体にトドメの突きを入れる所作をする)。この「懸り・組み伏せ・結び」が日本語の構造ぢゃ。
偏:(服の埃を払いながら)はあ、つまり最初に話題を提示して、それについて具体的に述べて、最後にそれを肯定するか否定するかと結ぶわけですね。
妖:そうぢゃ。それが日本語の発想ぢゃ。まあ、Aから始めて、Bに時間をたぁ~っぷりかけて、Cでトドメをさすというのは、男女の仲でも言えることぢゃがの。ゲヒゲヒゲヒ(卑猥な笑い)。
偏:すみません、品がないですし、俗語が古すぎますよ(助手の女性も冷ややかな目で狂授を見つめる)。
妖:(それにかまわず)で、次は英語ぢゃ。英語は「失神させて組み伏せる」。これを儂は「ワンツー理論」としてまとめておる。
偏:「ワンツー」ってボクシングの連続パンチのことですか?
妖:そう。英語はワンツーパンチのように連続して、主要要素を述べることを特徴とする。主要要素とは、言うまでもなくS(主語)とV(動詞)ぢゃ。英語では「SV!」(と言いつつワンツーパンチの所作をする)と、まず主語と動詞を先に述べる。英語ではまずこれで相手を失神させるのぢゃ。
日本人が日本語発想に引きずられたままじゃと、Sを述べた後、長々と述べてからようやく文末になってVを述べる。これは他の英語話者にはわかりにくい英文なのぢゃ。だから日本人は、英語においてまずはSVのワンツーパンチを打つことを徹底的に身体に叩き込まねばならぬ。ほれ、お前さんら二人もやってみなさい。
「SV!」「SV!」(偏執者と助手の二人、掛け声と共にワンツーパンチの所作を繰り返す)。
SV構文とは、ワンツーパンチで相手を失神させておいて、あとは組み伏せて具体を述べるものぢゃ。ほれ、当てぬから安心しておきなさい。
"I live!"(といって偏執者にワンツーパンチを向ける。偏執者、のけぞりバランスを崩す。そこで狂授、偏執者の身体を引き回し畳の上に組み伏せて)"in Hiroshima."(と言ってトドメを刺す所作をする)。
偏:(立ち上がりながら)つまり文の動作主と動作(および動作の肯定・否定)を素早く述べてから、具体を語るという構造ですね。
妖:そうぢゃ。これは米国人自身も自覚しておることぢゃ
そしてSVCとSVOはワンツー・ストレート(「SVC!」「SVO!」と叫びつつ3連打を2回)、
SVOOはワンツー・ジャブ・ストレート( 「SVOO!」 と叫びつつ 4連打)、
SVOCはワンツー・フック・フック( 「SVOC!」 と叫びつつ 4連打。 最後の2つのパンチは身体をひねらせての連打)、なのぢゃ。ハァハァ。
偏:先生、息上がってますよ。
妖:そう、これは武術の身体操法と違い、無駄な動きが多いから、疲れる。ハァハァ。というわけで学生は、この「懸り・組み伏せ・結び」系の動きと、ハァハァ、ワンツー系の動きを半年間徹底的に繰り返す(助手に:ねぇ、オネエちゃんの飲んでるペットボトルの水飲ませてくんない?ダメ?)。最後には、ハァハァ、儂の掛け声と共に瞬時に身体が動くようになる。
偏:おそらく、「英語の前に身体を作れ!」とか言うことで、英語をまだやらなくても、立派な英語の授業だとかおっしゃいたいんでしょう?
妖:ほう、お前も少しはわかるように、ハァハァ、なってきたか。
偏:(やれやれ)で、次の授業の、何でしたっけ・・・『先の先(せんのせん)、後の先(ごのせん)、対の先(たいのせん)』ですか、これでようやく本格的な武道英語となるわけですね。
妖:(ようやく息が整いつつ)そうぢゃ。
偏:でもこの「先の先、後の先、対の先」って何ですか?
妖:うむ、宮本武蔵は「懸(けん)の先、待(たい)の先、躰々(たいたい)の先」と言っておるが、要は兵法・武術においての最重要は、先(せん)を取る、つまり機先を制するということぢゃ。「先の先」とは、相手が機先を制しようとする、その先を取るということぢゃ。
偏:はぁ。
妖:わからぬようじゃの。それでは、ヌシ、何か儂に向かって英語を話してみるがよい。
偏:えっ、私が先生に英語で話しかけるんですか。そんな突然だなぁ。えーっと・・・
妖:(大声で)FINE THANK YOU, AND YOU!?
偏:あぁ、びっくりした。いきなり大声で怒鳴らないでくださいよ。びっくりしたなぁ。
妖:ハッハッハ、これが先の先ぢゃ。ヌシが儂に英語で話しかけようとする先(せん)の先(せん)を儂が取ったものぢゃから、ヌシは何が起こったか一瞬わからず儂の英語に対応できなかったのぢゃ。この先の先を取ると、どんなネイティブもヌシのように目を白黒させてことばを失うぞ。これこそ「小よく大を制す」武道英語ぢゃ。
偏:(さすがに怒って)ちょっと待ってくださいよ。何が「先の先」「武道英語」ですか、そりゃ、いきなり大声出されればネイティブだろうが誰だろうがびっくりしますよ。でもこれって、完璧に子供だましじゃないですか?こんなことを教えるのが英語教育って言いたいんですか?何が近代批判ですか。だいたい、先生は・・・(数分間怒りに任せてしゃべり倒す) ちょっと、先生、聞いているんですか?
妖:ノォ。
偏:はぁっ?
妖:ノォ。アイ・ワズ・ノット・リスニング・ツー・ユー・アット・オール。
偏:えっ?聞いてなかった?
妖:アイム・ソーリー、ヒゲ・ソーリー、プライム・ミニスタ・ノダ・ソーリー。
偏:(がっくり肩を落として)もうなんなんだ、この人。
妖:ハッハッハ、これが後の先ぢゃ。つまりヌシにわざと攻撃させる。しかし儂はヌシの攻撃を読みきった上での先を取っておるのぢゃ。どうぢゃ、儂にもう英語で反論する気がなくなったぢゃろう。これこそ日本人が英語母語話者に英語の議論で勝つ方法ぢゃ。
偏:あー、もう嫌だ、嫌だ、こんな取材もう嫌だ。だいたい去年の取材で懲りたはずなのに、なんで今年も取材に来ちゃったんだ。
妖:エー・ビー・シー・ディー・イー・エフ・ジー
偏:なんでこんな人が大学の先生なんだ。
妖:エイチ・アイ・ジェィ・ケー・ムニャムニャムニャ~
偏:ちょっと、なに、一人で歌ってるんですか!
妖:ふっ、これが「対の先」ぢゃ。相手と技を出しあいながらも、常に儂が機先を制しておる。ぢゃからヌシはことばを発しながらも、すべてが無力化されておるのぢゃ。武道の術理を思い知ったか。
偏:もう、センセ、こんな茶番止めましょうよ。先生は、本当は武道だけでなく、英語教育でも、偽物なんでしょ?
妖:ハッハッハ、そう思いたければ思うがよい、これこそ武術の奥義の忍術じゃ。ヌシは、儂の凄さがわからぬと言うが、儂から言えば、ヌシはわかろうとしていないだけぢゃ。ヌシの常識の枠から一歩も出ようとせずに、儂を理解しようとしておる。それでは常識を超えた儂の奥深さをわかることはできない。
偏:はぁ、先生が常識はずれということだけはよくわかりましたけどね。
「SV!」「SV!」(偏執者と助手の二人、掛け声と共にワンツーパンチの所作を繰り返す)。
SV構文とは、ワンツーパンチで相手を失神させておいて、あとは組み伏せて具体を述べるものぢゃ。ほれ、当てぬから安心しておきなさい。
"I live!"(といって偏執者にワンツーパンチを向ける。偏執者、のけぞりバランスを崩す。そこで狂授、偏執者の身体を引き回し畳の上に組み伏せて)"in Hiroshima."(と言ってトドメを刺す所作をする)。
偏:(立ち上がりながら)つまり文の動作主と動作(および動作の肯定・否定)を素早く述べてから、具体を語るという構造ですね。
妖:そうぢゃ。これは米国人自身も自覚しておることぢゃ
そしてSVCとSVOはワンツー・ストレート(「SVC!」「SVO!」と叫びつつ3連打を2回)、
SVOOはワンツー・ジャブ・ストレート( 「SVOO!」 と叫びつつ 4連打)、
SVOCはワンツー・フック・フック( 「SVOC!」 と叫びつつ 4連打。 最後の2つのパンチは身体をひねらせての連打)、なのぢゃ。ハァハァ。
偏:先生、息上がってますよ。
妖:そう、これは武術の身体操法と違い、無駄な動きが多いから、疲れる。ハァハァ。というわけで学生は、この「懸り・組み伏せ・結び」系の動きと、ハァハァ、ワンツー系の動きを半年間徹底的に繰り返す(助手に:ねぇ、オネエちゃんの飲んでるペットボトルの水飲ませてくんない?ダメ?)。最後には、ハァハァ、儂の掛け声と共に瞬時に身体が動くようになる。
偏:おそらく、「英語の前に身体を作れ!」とか言うことで、英語をまだやらなくても、立派な英語の授業だとかおっしゃいたいんでしょう?
妖:ほう、お前も少しはわかるように、ハァハァ、なってきたか。
偏:(やれやれ)で、次の授業の、何でしたっけ・・・『先の先(せんのせん)、後の先(ごのせん)、対の先(たいのせん)』ですか、これでようやく本格的な武道英語となるわけですね。
妖:(ようやく息が整いつつ)そうぢゃ。
偏:でもこの「先の先、後の先、対の先」って何ですか?
妖:うむ、宮本武蔵は「懸(けん)の先、待(たい)の先、躰々(たいたい)の先」と言っておるが、要は兵法・武術においての最重要は、先(せん)を取る、つまり機先を制するということぢゃ。「先の先」とは、相手が機先を制しようとする、その先を取るということぢゃ。
偏:はぁ。
妖:わからぬようじゃの。それでは、ヌシ、何か儂に向かって英語を話してみるがよい。
偏:えっ、私が先生に英語で話しかけるんですか。そんな突然だなぁ。えーっと・・・
妖:(大声で)FINE THANK YOU, AND YOU!?
偏:あぁ、びっくりした。いきなり大声で怒鳴らないでくださいよ。びっくりしたなぁ。
妖:ハッハッハ、これが先の先ぢゃ。ヌシが儂に英語で話しかけようとする先(せん)の先(せん)を儂が取ったものぢゃから、ヌシは何が起こったか一瞬わからず儂の英語に対応できなかったのぢゃ。この先の先を取ると、どんなネイティブもヌシのように目を白黒させてことばを失うぞ。これこそ「小よく大を制す」武道英語ぢゃ。
偏:(さすがに怒って)ちょっと待ってくださいよ。何が「先の先」「武道英語」ですか、そりゃ、いきなり大声出されればネイティブだろうが誰だろうがびっくりしますよ。でもこれって、完璧に子供だましじゃないですか?こんなことを教えるのが英語教育って言いたいんですか?何が近代批判ですか。だいたい、先生は・・・(数分間怒りに任せてしゃべり倒す) ちょっと、先生、聞いているんですか?
妖:ノォ。
偏:はぁっ?
妖:ノォ。アイ・ワズ・ノット・リスニング・ツー・ユー・アット・オール。
偏:えっ?聞いてなかった?
妖:アイム・ソーリー、ヒゲ・ソーリー、プライム・ミニスタ・ノダ・ソーリー。
偏:(がっくり肩を落として)もうなんなんだ、この人。
妖:ハッハッハ、これが後の先ぢゃ。つまりヌシにわざと攻撃させる。しかし儂はヌシの攻撃を読みきった上での先を取っておるのぢゃ。どうぢゃ、儂にもう英語で反論する気がなくなったぢゃろう。これこそ日本人が英語母語話者に英語の議論で勝つ方法ぢゃ。
偏:あー、もう嫌だ、嫌だ、こんな取材もう嫌だ。だいたい去年の取材で懲りたはずなのに、なんで今年も取材に来ちゃったんだ。
妖:エー・ビー・シー・ディー・イー・エフ・ジー
偏:なんでこんな人が大学の先生なんだ。
妖:エイチ・アイ・ジェィ・ケー・ムニャムニャムニャ~
偏:ちょっと、なに、一人で歌ってるんですか!
妖:ふっ、これが「対の先」ぢゃ。相手と技を出しあいながらも、常に儂が機先を制しておる。ぢゃからヌシはことばを発しながらも、すべてが無力化されておるのぢゃ。武道の術理を思い知ったか。
偏:もう、センセ、こんな茶番止めましょうよ。先生は、本当は武道だけでなく、英語教育でも、偽物なんでしょ?
妖:ハッハッハ、そう思いたければ思うがよい、これこそ武術の奥義の忍術じゃ。ヌシは、儂の凄さがわからぬと言うが、儂から言えば、ヌシはわかろうとしていないだけぢゃ。ヌシの常識の枠から一歩も出ようとせずに、儂を理解しようとしておる。それでは常識を超えた儂の奥深さをわかることはできない。
偏:はぁ、先生が常識はずれということだけはよくわかりましたけどね。
妖:「わからぬ」と思うところを一歩踏み込むのぢゃ。それが学問ぢゃ。そしてこれは剣術でも同じ。「怖い」「できぬ」と思うところを、一歩踏み込めば、そこに極楽があるのぢゃ。ヌシはこんな道歌を知らぬか。
斬り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ
臍下三寸そこは極楽
偏:・・・って、ちょっと待ってくださいよ。それは「斬り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ 一足ふみこめそこは極楽」でしょ。先生の「臍下三寸そこは極楽」じゃ、春歌になっちゃう。
妖:(本気でわからず)えっ、そうなの?ボク、間違って覚えてた?変な意味になっちゃうの?
(狂授、女性助手を見つめる。女性助手もはじめはわからぬ顔をしていたが、やがて意味を解したのか一気に赤面する)。えっ、どういうことなの。ねぇ、オネエちゃん、「臍下三寸」って何?
助手:バカーッ!(狂授を張り倒す)。偏執長、もう帰りましょう!(助手と偏執者、柔道場から去ろうとする)。
妖:えーっ、帰っちゃうの?ねぇ、ボク、なんか変なこと言った?悪いことしたの?ねぇ、待って~。アイム・ソーリー、ヒゲ・ソーリ~。プライム・ミニスター・ノダ・ソーリ~・・・ (幕)
2012/04/01
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