■SSさんによる「高校時代の吹奏楽部活動で受けたさまざまなアドバイスから ―意識について再考する―」(全文)
高校時代の吹奏楽部活動で受けたさまざまなアドバイスから
意識について再考する
1.はじめに
私は高校時代、吹奏楽部に所属していました。部員が多かったため、「音楽」という抽象的で言語化できないものを無理やりにでも言語化してパートごとや、セクション(音域が同じ楽器のグループ)ごとでの動きをそろえる必要がありました。その先輩方や先生からのアドバイスには、意識を共有したたくさんの言葉があったのだとこの授業での「意識」の回に気づきました。これまで私が部活動を通して受けたアドバイスの言葉をもとに「意識」についてもう一度考えて生きたいと思います。
2 吹奏楽部でのアドバイス
2.1「頭の上のキャパシティーを広げて!」
私が所属していた吹奏楽部では、楽器での表現の仕方、息の使い方を学ぶために誰でも音を出すことができる合唱を定期演奏会で行っていました。その練習の際に、歌唱指導の先生からうけたアドバイスがこれです。先生の解説によると、そのときの私たちの声は「音楽になっていなかった」そうです。一人ひとりの口から勝手に声が出て、しかも口からそのまま声が出ているから何一つまとまったフレーズにならない、と言われました。
そこで先生が下さったアドバイスは、「頭の上に大きなホールのような空間があって、そこから声をだす」ことで、「みんなの声が響きとなって、空気を伝って客席に音楽として伝わる」というものでした。ただ口を伝って音程をもつ音が出ればそれが歌というわけではなく、空間(空気)を隙間なく振動させること、そして全員の音楽の流れが共有できること(この音楽の流れを私は意識と解釈しています)で音楽になる、という意味でした。そのアドバイスを受けてから私は自分の声を口から出すのではなく自分の上にある(しかもかなり高い所にあると想定した)頭蓋骨に向けて声を出すように意識を向けるようになりました。そうすると自然と声が縮んでしまっていた高音域の跳躍(オクターブなど1つの音が次の音との間にかなりの距離があるもの)が容易になりました。
それまでは丹田から出る息と、前にいるお客さんにどうやってその息に乗った音を届けるか、ということしか意識できていなかったので自分の意識が及ぶ範囲が狭かったのですが(丹田から口まで)、このアドバイス以降、丹田から自分の頭上にあるキャパシティーまで意識の範囲を広げることができるようになったため、その範囲で音楽を創れるようになり、とても表現の幅が広がったように感じました。みんなも同じように感じた人が多かったのか、それ以降、個々の口から声が出るのではなく、声域(アルト、ソプラノ、男声など)ごとでのまとまりや、声域間の音の交流もできるようになりました。
2.2「意識せずに無意識にできるようになるなんて無理」
楽器をやっていて、よく「いらん力は入れない」といわれます。と、同時に「脱力は力んでしまった者にしかわからない」とも言われます。これは少しスポーツにも関連があるようにも思いますが、高校1年で初めてこの言葉を言われたときはまったく理解できませんでした。
楽器を演奏する際に脱力するべきところはたくさんあります。私はフルートパートでしたが、フルートは木管楽器のなかで唯一、唇に脱力を求められます。(ほかのリード系楽器も楽器をくわえるのに必要な力以外は脱力をしなければなりませんが。) 私は特に力みやすい人間なので、「唇の力を抜け!!」といつも言われていました。しかし本当に唇からすべての力を抜くと、アンブシュア(楽器に息を送るための口の形)が崩れてしまって音になりません。
意識してしまってできないのなら意識しなくてもいいのでは?という疑問が浮かんできて、意識するのを止めてしまったら、すぐに先生にばれました。「今まで自分が意識してなかった部分をいきなり無意識にできるようになるなんてありえん。まずは端から端まで意識しろ。できるようになったら、勝手に無意識にできるようになる。」と言われました。
それ以降私は唇を意識し抜きました。音を出す瞬間、音を終わらせる瞬間、自分の唇がどうなっているのかを頭の中で観察しながら練習しました。そうしているうちに、だんだんと音楽のほうに集中できるようになりました。きっと無意識に唇が脱力を覚えたのだと思います。
要するに、先生が言いたかったことは、「今まで意識の及んでいないことを無意識にできるようになるには、新たな意識を創り、体得させる必要がある」ということだと今となって考えなおすことがよくあります。ほかに、管楽器を演奏する際の一番の基本となる「腹式呼吸」についても、同じことが言えます。中学校から吹奏楽を始めた私も、高校に入ってすぐ先輩に呼吸のしかたを指摘されました。「最初はどうしてもお腹に息を入れて、お腹を絞ることで息を出すことを意識的にしないといけない」と言われました。中学校で腹式呼吸ということを知っただけで、実はできていなかったことにその時気づかされました。
2.3 メトロノームの時間と音楽の時間は違う
この言葉は私たちに音の価値を共有するための先生のアドバイスでした。この文をこのままの意味で解釈すると、メトロノームどおりに演奏しなくてもいいのか、というふうに捉えられてしまいがちですが、そういう意味ではありません。
音の価値というのは、曲を表現するのにとくに大事な意味をもつ音がどれなのかを理解するために意識するべき項目です。特にジャズやワルツなどの変拍子(6/8や5/8などの均等にメトロノームで割り切れない拍子)の音楽を演奏する際に理解が必要です。たとえば、6/8は、1つの小節に八分音符が6つ入る、という意味なので八分音符3つで1拍とカウントしますが、通常の2/4拍子(1小節に四分音符が2つ入る)に三連符を2つ入れることと実質は同じことですが、音の重みは違います。2/4であらわす場合は、すべての音に同じだけ価値がありますが、6/8では、リズムにイレギュラーさを盛り込むことで音楽の流れを活き活きとしたものにします。そのため、6/8の八分音符の1つめと4つめ(1拍目と2拍目の最初の音)が音楽的な価値を高くすることで、6/8のリズムが持つイレギュラーさによって音楽の流れを変えることができます。
このように、曲を表現するために大事な音を大事にしようとすると、演奏者にはその音が長く感じます。しかし、指揮者やメトロノームを無視しないかぎり、テンポは乱れません。メトロノームが示すのは物理的な時間ですが、指揮者や演奏者が意識するべきなのは音楽的な時間だ、ということを私たちに理解させるための言葉でした。
2.4 パーカッションもちゃんと息を吸え!
パーカッション(打楽器)は、吹奏楽部のなかで息を使って演奏しないパートの1つです。そのため普通はフレーズに関係なく通常通り息をしていればいいわけですが、それでは、2.3で述べた物理的な時間は合っていても、音楽的な時間はずれてしまう、ということです。フレーズを作り出している管楽器パートと同じところでブレスをし、同じだけ息を吸っていく事で、音の形や、音楽的な時間を共有でき、それまでの音楽の流れを崩すことなく演奏することができるということなのだそうです。
パーカッションパートにいた友達に管楽器と同じように息を吸うようになってから何か変わったかを聞いてみました。すると「今までは蚊帳の外から演奏していたような感じだったけど、同じ動きをする管の人らがどういう音を求めているかが分かって、もっとどんな音を出すべきか、叩き方はこれでいいか、とか考えてシビアにできるようになったし、音楽の流れが見えるようになって、それに上手く乗れるようになった」と言っていました。つまり、パーカッションも管楽器と同じようにブレスをとる(息をする)ことで、管楽器と意識を共有できた結果だと考えます。
2.5 音の切り方を揃えろ!
人間は、音の始まり方には比較的気を配りやすいものですが、音の終わり方には意識を向けにくいものです。そのため、管楽器では、何もせずに音を切ると、息のスピードが下がってしまって音の終わりに音程が下がってしまいます。音の終わりなんて意識したこともなかった私は自分の音の終わりが下がっていることさえも最初はまったく感じることができず、やみくもに下がらないようにすることだけ考えてしまっていました。ですからきっと想像もつかないほど不自然だったのではないかと思ってぞっとします。(意識できていなかったので自分の音の終わりが実際にどれほど汚かったのかは今となっては知る由もありませんが。)
それでも意識し続けているうちに、徐々に自分の音のおわりがぼんやりと視覚化できるようになりました。音の終わりなんてとっくに意識できていて、その時その時の音の終わり方を図示することまで出来ていた先輩方に、少しだけ近づけたような気がしました。音の終わり方が自分で観察できて、図示できるようになったのは、2年生になる少し前でした。
今まで意識の隅にすらなかったことを体得し、無意識にできるようになるのはこんなにも労力を費やすものなのだと今振り返ってもあの頃は頑張ったな、と思うことがよくあります。この音の終わり方は、どう頑張っても視覚化するのが精いっぱいで、言語化するとしても、「煙みたいに消えろ」だとか、「切れん包丁で切ったような鈍い切り口を残せ」といった、とてもあいまいで比喩的なものとしてしか表現することが出来ません。このような曖昧なものを80人、100人といった大人数が揃えるためには、同じ意識を共有する必要があって、先生はこの授業で習ったようなことを高校生にも分かるように伝えようとしていたのだと気づきました。
2.6 音のカーテンを作れ!
2.1や2.5の話とも関連してきますが、特に印象的な言葉だったのでこの言葉についても述べたいと思います。吹奏楽部の一般的な編成のなかで、もっとも人数が多いのはクラリネットで、8~15人が理想の人数とされています。そのため、クラリネットがメロディー系の音色や音楽性の高さの決め手のなることが多いのですが、人数が多いためまとまらないこともよくあります。そのときに大人数をまとめるために意識させられたのが、「息のスピード」「フレーズの頂点」「音の方向性」でした。いずれも非常に抽象的な言葉なので、説明していきたいと思います。
まず「息のスピード」というのは、楽器に入れる息のスピードのことなのですが、もちろん隣の人や前後の人が出している息のスピードは見ることができません。そのため、実質は息を出す前の段階のブレスの勢い、体の動きなどで息のスピードを予測していきます。最初は意識するだけでも気疲れしますが、これが意識できると、回りの音ととてもシンクロできているのが体感でき、よりまとまりのある演奏ができるようになります。
次に「フレーズの頂点」ですが、これは音楽のフレーズ(曲を構成している意味のまとまり、文章でいう文のようなもの)がどこで一番の盛り上がりを見せるのかを揃える、ということです。演奏者でフレーズの頂点がそれぞれ違ってしまうと、全体で聴いたときにどこが一番の盛り上がりなのかが分からず、輪郭のにじんだ音楽になってしまうのです。
最後に、「音の方向性」は、2.1の合唱での話と関連しますが、ホールや音楽室のなかで、どの場所に向かって音を届けるか、という意識です。これが3つのなかで一番意識しづらく、抽象的なものなので実際に音の方向性が全員揃えられているかは、演奏者からは分からず、聴衆や指揮者しか感じることができません。が、これを意識するのとしないのとでは、音楽全体のまとまりがまったく異なります。これを意識できるようになるのにはなかなか時間がかかりました。ホールで練習するときには2階席に続く空気全部を通るように意識しよう、とよく言われていましたが、意識しようとして実際にできているかは幽体離脱しないかぎり分かりませんが、この音の方向性を意識するかしないかの違いは本当に歴然としています。これは言語化が難しいですが、あえて無理やりに言葉にするとすれば、音の方向性を意識した場合は「水が管の中をいっぱいに満たした状態で押し迫ってくる」ような音のうねりが客席にやってきます。この表現ではやはり表現しきれいないので、ぜひ実際に体感していただきたいと思います。
3.おわりに
私が高校時代に吹奏楽部で新たに意識するようになったことは、数え切れないほどあります。実際に、入部したての頃と、3年生になる頃とでは、自分の音楽やそれ以外のものへの見方が大きく変わったのです。より研ぎ澄まされた感覚を得ることができたと実感しています。それまでは楽譜どおりの強弱、音で、正しい音程で、あとは雰囲気で、という音楽性をまったく省みず感覚のみでの演奏でしたが、今では音楽の頂点はどこなのか、自分はどこから音を出しているのか、音を届けたい場所はどこか、今の自分の唇はどんな形か、丹田から息を出せているか、重心は地面と垂直か、周りの空気を自分の音で振動させられているか、など、色んな部分に意識を縦横無尽に張り巡らせていますが、それは演奏している自分は意識していません。3年間の部活動で、意識してきた部分が、今では無意識に自分で確認できているようになっているのです。今までは、後輩の「どうやったら音が遠くに飛びますか?」や「どうやったら唇の力を抜けますか?」などという質問に上手く言葉だけでは伝えられず、自分が実際に吹くことでなんとなく教えていましたが、これからは自分が意識していることをなるだけ言語化し、それを共有できるようになれればいいなと考えています。
■NSさんによる「音楽と『意識』」(全文)
音楽と「意識」
1.はじめに
わたしは、5歳のころからピアノを習っており、もっといえば、記憶がないほど幼いころから母が弾くピアノに合わせて手をたたいたり、歌ったり、常に生活の中に音楽がありました。中学生から高校生まで通っていた教室の先生はとても厳しい方で、時には途中でレッスンを切り上げられ帰れと言われたり、拳が飛んできたり、悔しくて泣きながら帰ることもしばしばありましたが、その教室に通い始めてしばらくすると、それまで記念出演だったコンクールで賞がもらえるようになりました。また、それまでよく分からなかった感覚的な指示が理解できるようになったのもその時でした。音という非言語的なものを(100パーセント再現できないにしても)言語というものに置き換え、それを相手に伝えることは至難の業です。それでも感覚的なタッチ、音作り、奏法が上達したのは、さまざまな練習法を試行錯誤しながら見つけていくうちにいつの間にか共有していた意識がコミュニケーションを円滑にしていたからだと思います。このレポートでは、非言語的なものの意識化について考えたいと思います。
2 音楽における意識
2.1 手のフォーム
私は当時、テンポの速い曲を弾き続けると手の甲から手首にかけて痛んでくることに悩んでいました。先生はそれをすぐに手の形が悪いからだと指摘し、そこから猛特訓が始まりました。
ピアノを弾くには理想的な手のフォームというものがあります。一流のピアニストや、ジャズなどといった違ったジャンルの場合は、必ずしもこのフォームどおりではありませんが、そうでない限り原則的には理想とされるフォームです。第一関節から下と鍵盤がほぼ垂直(80度くらい)になるように鍵盤の上に指を置き、第三関節(指の付け根)は絶対に下げない。手首も絶対に下げない。力を入れるのは打鍵の一瞬だけ。しかし、弾いている途中に手の甲を上から押さえたときに手がつぶれてしまうようでは力の入れ方が足りない。
はじめは、本当にこんなことできる人間がいるのか、と思うほど難しいことでした。テーブルの上などで手の甲を上から押さえられても、簡単にはつぶれないのに、いざ実際に弾きながら手の甲を抑えられると、簡単にフォームがくずれて手がつぶれてしまうのです。つぶれるもんか、と力を入れすぎると今度は速いテンポで弾けなくなります。要は、力を入れるところと抜くところを無意識的に加減して弾くことができなかったのです。
そこで、まずは手を鍵盤に置いた時に空洞になる手の中の部分にハンカチを丸めたものを入れて固定し、それが鍵盤に触れないように弾くよう言われました。また、手首と手の甲の境目くらいのところに10円玉を置き、それが落ちないように、なおかつなるべく速いスピードで鍵盤の端から端まで88鍵すべて半音階で行ったり来たりする練習もするよう言われました。
苦労しながらもなんとかそれができるようになると、今度はそれをすべての音をスタッカート(短く切る)で弾くように言われました。そんなのできるわけないだろう、まずそう思いました。すべての音を短く切るというのは、それだけの衝撃が手首にも伝わって、どうしても手首が揺れてしまうものだと思っていたからです。でも、それこそが誤りであり、手首が揺れるというのは、打鍵の瞬間以外にも力が入っているということでした。そしてこの練習を続けるうちに、速いテンポの曲でも痛みを感じることなく最後まで弾けるようになりました。実際にはこんなに手首を固定して演奏することはまずありませんが、古典やバロック音楽を演奏する際にはこの奏法が基本となるため、クラシックを学ぶ上では必要なことでした。この練習により、先生と私の共通意識である「固い音」「パリパリした音」が出せるようになりました。
2.2 テンポと肘
ロマン派の音楽では、それまでの機械的でめったにテンポをくずさない曲調とは打って変わり、曲全体がひとつのストーリーのように叙情的です。演奏する際には、その曲がもつストーリーを演奏で再現する(言語を使わずに身体・物体を使う)必要があります。
わたしは、どちらかというとバロック音楽は苦手で、ロマン派や近現代音楽のような、テンポが比較的自由で緩急がある音楽のほうが好きでした。ショパンのワルツを練習していたときは、ここぞとばかりに緩急をつけ、速いところでは腕が痛くならなくなったのをいいことに自分ができる限界まで速く弾き、dolce(ドルチェ:歌うように)やgrazioso(グラツィオーゾ:優美に、上品に)などといった音楽用語が書いてある部分では、ワルツの3拍子をまるっきり無視し、自分では「あえて」テンポをくずしているつもりで弾いたものでした。
しかし、これだと聞いているほうにとっては耳障りな演奏にしかなりません。わたしは無意識的にテンポをくずして弾いていたのですが、先生の指摘からメトロノームに合わせて本来のテンポ通りに弾く練習をしました。ロマン派の音楽をバロック調で弾くのは、はじめは非常に違和感があり、なんとなく落ち着かないのですが、とにかくメトロノームが刻むテンポ通りに弾くことに集中しました。それができるようになると、メトロノームなしで弾く練習。さらに、のばすところで肘を内側から外側に円を描くようにまわす練習。こうすることで、テンポを意識しながらも自然な伸びのしかたが身に付くそうです。曲調が変わる境目のところと、伸びが多いところで、肘をまわしはじめるときに少し力を入れると、タッチが柔らかくなり、自然とdolceがかかったような演奏になります。肘でテンポをとることをイメージして練習を重ね、だいたいの大枠をつかみ、自分なりの解釈で肘をまわすテンポを調節しながら曲を自分のものにしていきました。
ここでは、無意識のうちにくずしていたテンポを意識的にもとに戻し、それから意識的に肘を使って伸びの弾き方をつかんでいくと、また無意識のうちに自然な緩急のついた演奏になります。無意識から意識へ、そして意識から再び無意識への移行により、それまで気付かなかった自分の勘違いに気付き、意識的にそれを直し、そして無意識的な自然な演奏につなげていくこと。大枠は言語によって与えられ、そこから微妙な感覚をつかんでいくこと。これは、音楽のみにおいてではなく、スポーツや、英語学習にもつながるものだと思います。たとえば英語学習だと、自分の発音(無意識)についてだれかから指摘されたら、その音の発音のしかたを知ること(意識)、そしてその練習をすること(意識)で、正しい発音が身に付く(無意識)のではないでしょうか。
2.3 ストーリーを考える
近現代の音楽は、抽象的なタイトルや変拍子、変速記号や不協和音が多く含まれ、ロマン派と違い曲の中のストーリーがつかみにくくなっています。また、曲の解釈のしかたも人それぞれであるため、近現代音楽はこうやって弾く、といったルールはありません。
そこで先生が私にさせたのは、完成した演奏をCDなどで聞く前に、楽譜を見てだいたいの曲の雰囲気をつかみ、ストーリーを考えさせることでした。そしてそれをメモするなり絵に描くなりしてあとから見てわかるようにし、自分の考えたストーリーどおりに表現します。見返したときに同じ演奏にならないようにすることで、毎回思いつきの演奏にならないようにすることができます。ストーリーには正解も不正解もなく、弾いている途中で、これは違うなと思ったら消し、こういう解釈もあるかな?と考えればそれを書き加え、自分なりの解釈をストーリーにしていました。
曲という抽象的なものを自分で意識化し、演奏しながら試行錯誤することにより、自分のストーリーに沿った演奏ができるようになります。たとえば、中学生のときのコンクールの課題曲、カスキ(フィンランドの近代音楽家)作曲の「牧歌」という曲では、曲全体を「自然」というテーマでイメージし、ここは川の流れみたい、とか、ここは川の水面がキラキラ光っているかんじ、とか、この部分は風の音、ここは森のざわめき、など、曲調や雰囲気から連想されるものに見立てて、練習を重ねました。また、アルペジオ(分散和音。和音に含まれる音を高い音、あるいは低い音から順番に出すこと)移動が続くなか、規則的に考えれば同じアルペジオが来るべきところでアルペジオが来ないときは、それはなぜか?といったことを考え、分析し、イレギュラーな意味を考えて大切に弾くなど、細かい分析も重ねました。この曲は、速度記号が楽譜の随所に見られ、テンポの変化が多くあるのですが、ただ楽譜に従うのではなく、解釈を加えて楽譜を見るとそのテンポ変化の意味に気付いたり、速度変化前後のつなぎがスムーズにできたりします。
近現代音楽は、人によって演奏が大きく変わります。コンクール本番でも、近現代音楽のときは何人も続けて同じ曲を弾くにもかかわらず、その演奏はひとりひとり違い、聞いていて飽きません。無意識という段階に至るまでに、解釈を加え、分析を重ね、ストーリーを意識しながら弾くことにより演奏に深みを増すことが近現代音楽の面白さだと思います。
3.おわりに
このレポートでは、バロック、ロマン派、近現代に分けて、音楽という抽象的で非言語的なものを意識化することに焦点をおいて、意識と無意識に関連付けながら記述してきました。音楽にのめり込めばのめり込むほど、その非言語の魅力に気づき、人を感動させることのできる演奏とは、非言語で言語を伝える演奏なのではないのかな、と思います。
私がこのクラシックの経験を通して学んだ感性や感覚といったものは、今やっているジャズの分野でも大いに役に立っているし、絵画や写真など、ほかの芸術にも興味をもつようになりました。内田樹さんの身体論的にいえば、芸術は非言語的なものではあるけれど、「声」はその内に持っており、感情を豊かにする一要因であると考えます。ことばにできない感情は、ことばにできたらそれはとてもいいことだと思いますが、ことばにできないことの価値もきっとあるはずです。コミュニケーションにおいて、相手を100パーセント理解することは不可能であり、それは芸術の分野においても、作者の解釈や本人の演奏をそっくりそのまま再現することは不可能で、それでも声を拾い解釈を加えることでそれが誰かを感動させる要因になりうるものであると思います。それを人に教えるとき、どうしても必要になるのが言語であり、その言語をうまく使える存在が教師であると思いました。
■UJ君による「音楽とコミュニケーション」(全文)
1. はじめに
「音楽でコミュニケーションを行う」。多くのミュージシャンがこのことをインタビューなどで口にしているのを見た。このことから筆者は音楽におけるコミュニケーションが、普段我々が考えているコミュニケーションとどのような共通点があるのかについて興味を持った。
本レポートはその共通点を、授業でも取り扱った「身体」というキーワードをもとに探っていくことを目的とする。以下では音楽を「身体」という観点から見る、コミュニケーションを「身体」という観点から見るという大きな2つの流れから、今まで「音楽と身体」、また「コミュニケーションと身体」はどのように考えられてきたのかを紹介し、その中から共通点を探り、所見を述べていく。
予めここで述べさせてもらいたいが、本レポートでは筆者の推論や所見などが多く含まれる。そのためやや強引な部分もあるかもしれないが一推論としてとらえて頂きたい。
2. 音楽を「身体」という観点から見る
2.1 音楽=身体論
ロラン・バルト(1915‐1980)はフランスの批評家である。バルトは音楽のうちに指向対象としての身体を見出し、音楽=身体論を展開した。ただし、これは科学的実証でもなければ、音楽的記述でもなく、隠喩的、文学的に語ろうとする試みであった。
バルトはこのテーマに関して「声のきめ」(1972)において記述しており、音楽の「きめ」を考慮に入れるだけで別の音楽史を記述できるとまで断定している。「きめ」とは「歌う声における書く手における、演奏する肢体における身体である」と彼は定義し、また「きめ」は声だけにあるのではなく、器楽にもあり、声によって音楽をする者に体があるように、楽器の演奏者にも身体はあるとも言う。(鈴木 2007)
鈴木(2007)はこのバルトの考えを「ほとんど持論として読むことができる」と述べているが、筆者はバルトが音楽と身体との関係に着目していることからここに取り上げた。
2.2 音楽における身体の重要性
スイスの作曲家でもあり音楽教育家でもあったエミール・ジャック=ダルクローズ(1865‐1950)は音楽における身体の重要性に着目している。彼は幼児教育や子供の音楽教室における基礎コースなどで一般的に普及している、「リトミック」の創始者として名前が知られている。リトミックを一言であらわすならば「音楽をリズムの要素を中心にして身体の動きを通して教えるメソッド」と説明することができるだろう。このことから彼も音楽における身体の存在に着目していることがわかる。
ダルクローズはジュネーブで和声学を教えていた際に、学生たちが、将来和声学で身をたてていこうとしているのにも関わらず、記譜しようとする和音を自分の耳で聴き取る力が身についていないという印象を持ったという。そこから学生たちに、和音を記譜する訓練よりも前に、まず彼らの音を聴く力の発達を促すための、体験に基礎をおいた訓練を施すことを試みた。年齢の異なる学生や子どもたちとの訓練・実験を通して、年齢の低い子どもたちの方が、音楽教育を受けてきた年齢の高い生徒たちに比べて、聴覚が自発的に養われ、音の分析的な理解ができ、結果として記譜を容易に行うことができるようになることを発見した。
この年齢の低い子どもたちの時期とは「身体と脳が平行して発達していて、絶え間なく印象や感覚を互いに伝え合っている」時期と考えたため、ダルクローズは技能訓練の前に、音楽に対する感受性やリズムに対する感覚をまず経験や体験を通して学ぶことが、音楽学習の基礎として何よりも重要であると考えた。その後ダルクローズは様々な観察などを経て「音楽的感情の鋭敏さというのは、身体的感覚の鋭敏さに左右されるのである」とも述べている。(塩原 2008)
2.3 音楽家と聴衆との関係
ここまでは音楽家という個人の身体について着目してきた。しかしながら音楽において聴衆という存在を忘れてはならない。この音楽家と聴衆との関係性についてはフランスの美学者ミケル・デュフレンヌが指摘している。彼は「見るものが同時に見られるものであり、触れるものが同時に触れられるものである」というメルロ=ポンティの身体論をより発展させ、彼の身体論に欠如していた音楽的身体論を語った。彼は「身体全体が世界全体そのものと交流している」のであり、「われわれが対象を作り上げるのではなく、対象が豊かで統一した形でわれわれに対して多様な現れ方をし。そして知覚がまっすぐ対象に向かうのである」とした。また、音楽=身体としたときの私の身体(音楽家)と他社(聴衆)の身体との関係について、各々が他者に「反響し」、「共鳴する」と考える。(鈴木2007)このようにデュフレンヌは音楽家と聴衆との身体の共鳴に着目している。
デュフレンヌが着目した音楽家と聴衆の身体の共鳴に関しては、現在最前線で活躍しているギタリストも無意識的に認識しているということができるかもしれない。ここでキコ・ルーレイロとジョージ・リンチという2人のギタリストを紹介する。キコとジョージはどちらとも現代ヘヴィーメタル界の最前線で活躍するギタリストである。キコはブラジル出身でヘヴィーメタルからジャズやボサノヴァまで幅広い音楽性を持ち、また音楽理論に広く精通している、いわゆる理論派ギタリストである。一方アメリカ出身ギタリストのジョージは理論派のキコとは全く正反対で、あまり楽譜が読めず、多くのところを自分の耳やフィーリングを頼りするため、他のギタリストにはない独特なトーンとプレイスタイルを確立しているギタリストである。一見全く違ったタイプのギタリストである両者だが、「身体」「共鳴」などという言葉自体は使っていないにしろ、どこかで身体の重要性や身体の共鳴について認識していることが伺えた。以下にそのことに関して筆者が非常に興味深く感じた両者の対談インタビューの抜粋を掲載する。この対談インタビューは株式会社シンコーミュージック・エンタテイメントが出版する雑誌、月刊YOUNG GUITARの2008年6月号に掲載されたものである。
注:以下「GL=George Lynch」、「KL=Kiko Loureiro」GL : (キコの「理論などをしこたま学んだあとにはそれらは忘れるべき」という発言をうけて)「学んだことを忘れるべき」という考えは賛成だね。プレイヤーの中には、何年も練習を積み重ねて様々な事を理路整然とマスターしていく人もいる。それは素晴らしいことだと思う。ただ、キコが言ったように、ある程度の成熟したレベルに到達したと思ったら、違う次元に入るべきなんだ。学ぶことをストップするわけじゃないよ。技術の習得過程を卒業して、次は「リスナーに何を伝えたいのか」「リスナーが感情的に愛情を持てるのは何なのか」という高いレベルの考え方をすべき…という事なんだ。要は“心”だね。(中略)テクニカルなスキルを持っているかどうかなんて取るに足らない事さ。KL : 音楽は言語だと思ってるんだ。学校に行けば、その言語を操るための文法を全て教えてくれる。つまり、文法は手助けになってくれるわけだよね。ただ、言語を覚えること自体が目的になっては何の意味もない。そこで完結してしまったら、何のための勉強だったか…ということになる。大事なのは、その言葉を使って実際に人とコミュニケーションを取ることだろ?文法はあくまでも、そのための手段さ。音楽でも然り。理論やテクニックはプレイするための手助けであって、それを身に付けることが最終目標ではない。それをどう使って良質の音楽を創作するか、ここが大事なんだよね。僕はそういう訳で、音楽という言語を学んできたわけ。
この両者の発言には彼らが「身体」「共鳴」という感覚を認識しているということが隠れていると思う。音楽=身体と考えて、ジョージの「リスナーに何を伝えたいのか」「リスナーが感情的に愛情を持てるのは何なのか」という発言を見ると、彼は、彼の作り出す音楽という身体そのものと、リスナーの身体を共鳴することを考えている。またキコの発言の「コミュニケーションを取ること」も音楽に当てはめた場合、リスナーと身体を交流、共鳴させることと取ることができるかもしれない。
よって、やや強引かもしれないが両者ともに、「身体」「共鳴」などという言葉を直接的には使っていないにしろ、無意識的にデュフレンヌの身体の共振に近いものを感じているのかもしれない。
3. コミュニケーションを「身体」という観点から見る
ここまで音楽を身体という観点から見てきたが次はコミュニケーションに焦点を当てて話をしていく。
3.1 逆向きの相拮抗するベクトルを持つ人間
鯨岡峻は「見るものが見られるものであり、触れるものが同時に触れられるものである」というメルロ=ポンティの考えをコミュニケーション研究の基礎にすえて、人間とは「もともと他者に向かって開かれた存在、つまり他者身体があらわにする志向をいつもすでに受け止める用意をもった存在」と前提したうえで、「現前し合う二者の身体がおのずから感応しあい、それに従って関わり合うということは、人間存在の自然なあり方であるとしている。また「人間は一方では個に収斂するベクトルを持ち、他方では他者に向かうベクトルをもつというように、逆向きの相拮抗するベクトルを本来的に持っている」、そして「対人関係、とりわけそこにおけるコミュニケーションは、その逆向きのベクトルをうまくバランスさせようとするところに表れてくるのだ」。そのような両義性に深く根ざしているのがコミュニケーションなのであるとした。(鯨岡 1997)
3.2 身体の共鳴
デュフレンヌが彼の音楽的身体論の中で音楽家と聴衆の身体の共鳴に関して指摘をしていたが、片山洋次郎も同様に身体の共鳴に関して指摘している。片山の指摘する「身体の共鳴」はデュフレンヌに比べもっと一般的であると考えたため、こちらの「コミュニケーションを「身体」という観点から見る」で紹介する。以下、片山を授業で取り扱った際の予習資料「片山洋次郎先生の身体的コミュニケーション論」(柳瀬 2009)からの抜粋を取り上げる。
・身体の響きは、内側だけでなく、実は外側にも漏れ出ていて、無意識のうちに影響し合っているものです」(片山洋次郎(2007)『身体にきく』文藝春秋、25ページ)
・「身体そのものがメディアであり、身体同士が直接相互作用し、共鳴するということは、意識化されにくい。例えばある程度親しい間柄でも、何も話さずに同じ場所にいるということは、「気まずい」感じを生む。こういう場合、何らかの会話なり挨拶なりが必要になってくる(片山洋次郎(2001)『整体 楽になる技術』ちくま新書、22-23ページ)
・よく「気を送る」とか「気を通す」とかいうことがあるけれども、「送って」いる側も同時に受けているのであり、「受け」ている側も「送って」いるのである。だから、「”共鳴”している」といえば一番ぴったりくる。「送って」いる側は”共鳴”の対象や仕方(間合いの取り方)を調整しているのである。(片山洋次郎(1994/2007)『整体。共鳴から始まる』ちくま文庫、27ページ)
・たとえば自己をA、他者をBとする。AはBにはなれない。Aという場はBにとって代われないが、共鳴状態では<AB>であって、AでもBでもない状態、そしてAでもありBでもある状態で、さらに進めばAもBも消えて空っぽの感じになる。つまり全世界と共鳴している状態になる。(片山洋次郎(1994/2007)『整体。共鳴から始まる』ちくま文庫、115ページ)
これらのことから片山も鯨岡とほぼ同じような観点から身体を見ており、また「全世界と共鳴している」ことに関してはデュフレンヌと同様の考え方をしているとも言うことができる。
4. まとめ
ここまで音楽と身体、コミュニケーションと身体について現段階で既に提唱、指摘されていることなどを紹介してきた。その中で筆者が特に注目したのは「共鳴すること」である。音楽において共鳴することとは、音楽家の演奏を聴いた聴衆が音楽家の生み出す音楽(=身体)と聴衆自らの身体とを重ね合わせることとも言えると筆者は考えた。この点で音楽は何か官能的でエロティックなイメージを伴っているとも言えるかもしれない。ただしこの身体の共鳴は音楽家と聴衆の間だけではなく、音楽家と音楽家の間にも成り立つと筆者は考える。
その理由として挙げられるのがアドリブやセッションである。アドリブやセッションにおいては各音楽家たちの身体が上手く共鳴して重なりあった時に一種の連帯感を感じたり、時には共鳴をあえて無視しスリリングな展開をしたりしていく。そしてその生み出される音楽(ここでは音楽家”たち”の身体)と聴衆の身体が共鳴してさらに大きな世界との共鳴をしていく。コミュニケーションにおいても同様に、(片山の言葉を借りるなら)身体がメディアそのものであり、お互いの身体同士が直接相互作用し、共鳴をしていく。
よって音楽とコミュニケーションは共に「共鳴を起こしていく」という点で共通点を持っているということができるかもしれない。また一見全く違う分野である音楽とコミュニケーションだが、音楽という全く違った観点からいつも私たちが考えようとするコミュニケーションを見つめていくと違った発見があるかもしれないという事を、併せて本レポートからから発見することができた。違う分野からの視野に関してはこれから卒業論文を書くにあたって、また何かを考察していく上で実は意外なアイディアを与えてくれる可能性があるため、今後是非頭に入れておきたい。
参考文献
・鈴木正美(2007)「音楽的身体とパフォーマンス」 『テクストと身体』北海道大学スラブ研究センター、pp.122-137
・塩原麻里(2008)「ジャック=ダルクローズ音楽教育論の心理学的再考―脳神経科学との関連から―」『東京学芸大学紀要、芸術・スポーツ科学系』60:pp.43-49
・鯨岡峻(1997)『原初的コミュニケーションの諸相』ミネルヴァ書房、84頁
・柳瀬陽介(2009) 「片山洋次郎先生の身体的コミュニケーション論」(授業予習資料)
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