■KS君による物語論(全文)
1はじめに
今期開講された「言語コミュニケーション力論と英語授業」で今まで単純に捉えてきたコミュニケーション観が大きく揺らぎました 。今までは単に言葉をお互いに通わすことがコミュニケーションだと捉えていましたが、これは一部は正解でも、原理的には一概にそうであるとは言えないようです。人間のコミュニケーションは互いに発せられたコミュニケーションを出発点とするのではなく、人間の意識の基盤としてコミュニケーションは出発しています。そしてコミュニケーションを通して生まれた言語、意識、無意識さらには非意識を総称したものを自己と呼んでいます。この自己も行為・認識を改めて観察・記述していくことでより具体的になり、形になってききます。
記述には二種類あり、社会的権力を持った言説に縛られた記述(例えば教師が自らの実践を振り返ったときに学習指導要領の用語を用いてしまう。)と自己の内側から発せられる記述とあります。後者に代表される例が小説家ということでした。(柳瀬(2010))
内側から紡ぎだされた言語を「物語」化した小説を、私たち読者はある意味単なる娯楽として享受しています。しかし作家の内側から発せられた「物語」は読むことは娯楽としての側面しか持たないのでしょうか。本レポートでは「物語」としての小説の新たな魅力について私見ではありますが再確認していこうと思います。
2.「物語」の持つ役割
2.1「物語」とは
小説家の小川(2007,22)は「物語」をこのように捉えています。
物語は本を開いたときに、その本の中にだけあるのではなく、日常生活の中、人生の中にいくらでもあるんじゃないかということです。たとえば非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、人間はほとんど無意識に自分の心のかたちに合うようにその現実をいろいろ変形させ、どうにかしてその現実を受け入れようとする。もうそこで一つの物語を作っているわけです。
私たちが日常で感じていることはすべて「物語」であり、それは悲しい事に限ったことではなく、嬉しいことや本当に何気ないことでも、自分の心に合うように「物語」となっているのでしょう。また小川は作家としての役割を以下のように示しています。
作家は特別な才能があるのではなく、誰もが日々日常生活の中で作り出している物語を、意識的に言葉で表現しているだけのことだ。
私たちが普段見過ごしがちな「物語」を小説家たちは言葉に変えて読者に提供してくれるということだと思います。重要なのは、小説としての「物語」は決して作家たちの頭の中の空想を展開して製作されたものではなく、私たちが言葉に出来なかった現実の何かを「物語」として表現してくれているということです。いわば「物語」の疑似体験を、小説を通して経験できるのです。
2.2なぜ「映像メディア」でなく「文字メディア」なのか
「物語」を持つのは小説に限ったことではありません。映画やドラマのような映像メディアにも「物語」は存在します。これらの物語はどう違うのでしょか。自分は2つのメディアの違いを強制力の違いだと考えます。映像の場合、目に入ってくる外部からの映像をひっきりなしに処理し、否が応でも時間は進んでいき、半ば強制的に「物語」は終了します。一方、文字メディアの場合、自分の中で引っかかったところは立ち止まることができ、「物語」の終焉も自分でコントロールできます。(「読む」という動詞の相からも想像できます。)また映像メディアの場合、あらゆる道具を必要とする「強制力」もあります。それは現場監督であったり、役者であったり、照明であったり、いずれにせよ自分以外の力を強制してきます。文字メディアに必要なのは自己と、言語だけで、「物語」の強制力は前者に比べて低いです。上の「物語」の定義のように、「物語」は日常に埋まっています。この「物語」へのアクセスは、映像では専門性という強制力が求められますが、このアクセスが言語だと、専門性は必要なく、自分の心の形を知った、言語を生み出す自分だけが必要です。このアクセスの容易さから文字メディアとしての「物語」、小説を採用しました。
2.3「物語」の持つ力
小説を読んだ所で、知識が読む前と後で明確に変わるわけでも、就職に有利になるわけでも、(よほど意識しない限り)文章の構成力が格段に向上するわけでもありません。上の「物語」の定義から言えばそれは当然のことで、そこに「物語」を読むことの本質は見えてこないのではないでしょうか。ここから「物語」の持つ力について私見を述べていこうと思います。
2.3.1臨床心理に見る「物語」の持つ力
2.1で述べたように、誰でも「物語」を作ることができます。現実を「物語」化することでショックを和らげたり、嬉しいことは何倍にも増幅させたりすることができるのです。しかしながら、中には現実を「物語」にできず、苦しんでいる人もいます。悲しい気持ちはあるが、なぜ悲しいのか自分で「物語」にできず、苦しんでいるのです。臨床心理では患者自身の物語を発見し、自分の物語を生きていける「場」を提供しています。なので、臨床心理士は自分で物語を作ろうとせず、ただ人が話しているのをきいているだけだそうです。そうしないと、患者と寄り添っているようで、先生だけが患者を置き去りにしてガンガン先に進んでしまうことになるのです。長年、臨床心理士として働いていた河合隼雄先生(1928-2007)はある高校生から興味深い体験をしています。
超ド級の素晴らしい高校生が来ましてね、「どうですか」と言うても、下向いて黙ってる。それで僕は、「いやぁ、高校1年ねえ」ってもう二人がわかっていることを言ったんです。[…]それで普通は「いやぁ、高校ねえ」って乗ってくる。向こうが言い終わるまで待つ。それ向こうから何か言い出したらこちらもまた乗れるわけです。ところがその子はなかなかそれ以上言わへんのです。そういう時に例えば、「お父さんの職業は」言うたら、こちらが向こうの世界から出てしまうことになるわけでしょう。[…]その人の世界から出ない。そうしているうちに普通は大体乗ってくる。[…]だけどその子はそこから全然乗らない。[…]ところが「今日はあまり話しできんかったけど来週来る?」と言ったら、ニコーッとして「はい」と言うんですよ。[…]その後母親から電話が掛かってきました。そういう子やからいつも憂鬱そうな顔しとったのに、ちょっと明るい顔で帰って来た。「高校生の気持ちをあそこまで理解してる人はいない。」とお母さんに言ったそうです。[…]正確に言うなら「あそこまで高校生の気持ちを大事にする人はいない。」ってことでしょうね。ものすごく大事にして、変なものを付け加えないように、変に触らないように、ただそこにいるようにしてやったら、それは彼はきちんと感じ取ってるんです。(小川・河合(2008)pp. 61-62)
このようにこの高校生は沈黙の中で、相手をどれだけ信用できるかという「物語」を作っていたわけですが、そこに外からの圧力がかからなかったために、彼の中で「物語」が枠組みを取るようになったのでしょう。言葉にせずそっと心に寄り添うことも「物語」を構成する要素になるのかもしれません。
2.3.2心に寄り添う「物語」
では心に寄り添うとは一体どういうことなのでしょうか。それは現実を謙虚に見つめ、観察することで、そこに確かに存在するが気づかれないでいる物語に言葉を与える、繊細な作業なのだと思います。上の河合先生も自分の頭であれこれ考えて喋っていたのではなく、目の前にいる高校生の世界の内側に留まろうとしていました。河合先生は、京都国立博物館の文化財保存修理所を訪ねた際に、布を修繕するにはもとの布よりも強いものを使うと、もとの布を傷めてしまうと知ります。「物語」に関しても同じことが言えると、小川は述べます。河合先生の用意した言葉にしないという「物語」によってこの高校生は自ら「物語」を構成するに至る指針を示してくれたのだと思います。確かに輪郭を持っているが、読者に強制しない、心にふっと沸き上がってくるような「物語」が心に寄り添うものなのでしょう。
3誰のための「物語」なのか
ここまで「物語」が持つ役割について考えてきました。しかしこの「物語」は本当にそのような意図で作られているのでしょうか。同じく作家の大江健三郎はこう述べます。
この人生には意味がない、人生には失望してしまった、しかし助けてくれと叫ぶことはできる、それが文学なのだ、自分は文学によって、助けてくれと叫ぶことにしよう、[…]もちろん作家がそう叫ぶことで他人を助けうるというのではない。むしろ自分が誰かを助けてやるという発想のできる人間は、すでに作家ではないでしょう。
この意味において、作家は自分のために作品を書いています。結果論として「物語」が「物語」としての役割を負っているのだと思います。作者が文学を製作すること通して自分が助かるために、自分が人間であることを証明します。この作業はアレント哲学に見る、人間の「活動」としての語りに通じる部分もあると思います。現実にある「物語」に、内側からあふれる自分の言葉を与えることで、大変な苦しみを経た作品になるでしょう。それだけ苦しんで現実を言語化したからこそ、読者の心と現実を結びつける効果が生まれるのだと思います。そしてその生産物として、読者自身の現実へのもどかしさの言葉を与えてくれて、読者が救われたり、ヒントを得たりすることができるのでしょう。
4終わりに
これまで、どうして小説を読むのかという問いに対し、自分としても確固とした解答は持っておらず、仕方なく暇つぶしや教養のために読んでいるといった、「物語」の本質とは少し離れた受け答えをしていました。「物語」とは私たちが普段気付かない何気ない現実を言語化したものを指します。その「物語」を読むことで、心や体が現実に結びつき、もどかしさに言葉を与えてくれるのです。最後にこのレポートを考える契機になった好きな小説の一節を引用して本レポートとします。
言葉たちはみんな私の味方だ。あやふやなもの、じれったいもの、臆病なもの、何でも形に変えてくれる。ブルーブラックのインクで縁取られた、言葉という形に。(小川(2000)p75)
主要参考文献
小川洋子(2007) 『物語の役割』ちくまプリマー新書
小川洋子・河合隼雄(2008) 『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮社大江健三郎(1976) 『言葉によって―状況・文学』新潮社
■OT君による「身体的コミュニケーションと言葉の授業を考える」(全文)
身体的コミュニケーションと言葉の授業を考える
1.はじめに
半年間の授業を通し、科学的分析や考察を経たコミュニケーション論や身体的コミュニケーション、哲学を通したコミュニケーションの理解を図ってきた。それらの第一印象としては難解であり、その中には完全までとは行かないものの理解できたものもあった。ただ、それらのコミュニケーションの考えによって、少しずつではあるが、私の授業についてのとらえ方やコミュニケーションに対する考え方が深まっていったと思う。
こう考えていく中で、私の中でもっとも印象づけられていったのは、「身体的コミュニケーション」についてである。授業の中では、内田樹さんや片山洋次郎さんの考え方を主に扱っていった。身体的コミュニケーションは、声や文字以外で発せられる、言語によってはとても表現できない微妙なニュアンスを伝え、また「無意識」的に感じ取ろうとするコミュニケーションであると考える(竹内, 1999)。では、その「身体的コミュニケーション」は言語教育、そして言語を元に教授しようとするであろう英語教育にどのように関わっていくのか。このレポートでは、授業で扱った内容とともに、竹内敏晴さんの「教師のためのからだとことば考」「子どものからだとことば」を通じて考察していきたいと思う。同時に、一意見として、私の高校時代から積極的に経験している「身体的コミュニケーション」である、「演劇」についても所々であるが触れていきたいと思う。
2.竹内敏晴の考える身体的コミュニケーション
竹内敏晴さんは、自著で語られるように、幼い頃より耳の病気に悩まされ、当時の(旧制)中学四年になるまでほとんど耳が聞こえなかったという。ところが、新薬の開発により、耳の病状が回復し、五年になったときには病状が安定し、聴力も正常人に比べて五、六十パーセント回復してきたという。しかし、聴力の回復が必ずしも「聞くことができる」ということと同意ではなかった。彼がちゃんとした意味で、「聞くこと」「話をすること」ができるようになるには、相当の努力があったそうである。
そのような背景がある中で、演出家として、また人間関係の変容や障害者療育に取り組んでいった者として、竹内さんは「身体的コミュニケーション」をどのように考えていったのだろうか。彼の考えを紹介しつつ、「話しことば」や「声」をキーワードとして、これについて読み解いていきたい。
まず彼は、現代の私たちのコミュニケーションのスタイルを、「抽象化した記号としてのことばの操作」と表している。しかし、本来のことばは、そういう体験とは全く異なるという。ことばは、身振り・身動きや社会的な人間関係、からだの共生、イメージの共有といった、具体的な生活や世界の中で、実際に体験していることとともにあるという。また、私たちの持つスタイルの他方として、「文章を音声化する」ことと「ジカに声をかける」ことの違いについても述べている。その大きな違いは、他者に対して「働きかける」かどうかである。人は、声を使って相手とコミュニケーションをとることが多いが、竹内さんはその声はただの空気振動ではなく、相手のからだにふれることができる「もの」であると考えている。この「働きかける」という行為は、声で相手のからだに思いをぶつけ、それを感じたときに自然とからだが動き出すということである。人は話しことばの内容は受容することができるが、音声化された文章では、たとえ受け入れたとしても納得まではいかないのであろう。
しかし、このようにコミュニケーションのスタイルを見たときに、竹内さんは、話しかける、声をふれる行為を「人間の基本的な行為」とした上で、私たちのこの能力が「しらずしらずのうちに奪われていきつつある」でのはないかと危惧している。前述した「音声化された文章」としてのことばを多用している現代にあっては、「胸に沁み」「腑に落ちる」というような、比喩ではなく、からだの内に入り込み、相手のからだとこころを動かす、変えるといった行為が無視されつつあるという。つまり、話しかけることによる伝達が、表面的な了解にとどまり、また相手から受けるときも、心を動かされるような経験がないため、この能力が発達していないと考え、このように「奪われていきつつある」と表現しているのではないかと考える。
コミュニケーションについて、ここまで主に声について触れてきたが、竹内さんは声、つまり言語だけでは表現できないニュアンスも、私たちは目や手、表情、あるいはからだ全体で表してことばを伝えているのだと考えている。そこに、「手話」の成立を例にして説明しているが、私たちは他者との会話において、意識的無意識的に非言語的な表現を瞬間に感じとってことばを交わしているため、「からだの語ることば」は独立しても機能しているという。これが「話しことば」支え、また一体となっていくことによって他者とのコミュニケーションを成り立たせるのではないかと述べている。
ここまで総じてみると、私たちの現代の生活では、どうしても考えられた文章に依存して、その文章をそのまま会話に持ち込もうとしている。しかし、本質的に「話しかける」という行為は、「声」によって相手のからだやこころに訴えかけ、相手を動かそうとする「働きかけ」であり、頭だけでなく全身で受容することによって、はじめて行為が成立しているのであろう。ただ、そのコミュニケーションの行為は、言語だけでは表現できず、それを補うために、からだを使って表現する。これによって他者とのコミュニケーションは成立するのであろうと考えられる。
3.身体的コミュニケーションと言葉の授業について
では、このような身体的コミュニケーションの考え方がある上で、私たちはどのように英語、ひいては言葉の授業をどのように扱い、どのように考えていくべきなのだろうか。
前述したように、私たちはしばしば会話の場面で、「抽象化した記号」としての言葉を使ってしまう。これの一端はいわゆる「受験競争」にあるのかもしれない。ほとんどは塾などでの行為であるが、「受験に打ち勝つ」という目標を掲げている余り、学習の場面では、A=Bという公式が成り立ってしまう単純暗記のような記号的操作の訓練がなされたため、このような言葉を使ってしまうのだろう。そして、その学習によって受験を制した者が、何の変化も持たずに社会に出てしまうため、この形が連鎖的に次の世代へと受け継がれてしまうため、記号的操作による学習がなされていったのではないだろうか。どの教科・科目にも共通するだろうが、結果を重視する余り、結果までの過程を無視した場合、その間の思考は無視される。この状況で何らかの異常が起こったときに、過程が分からないために、とっさの判断ができなくなる。
まして、言語の世界はどうであろうか。例え文法であっても、ある程度の法則があったとしても、全てが全てA=Bといった公式にあてはまるわけではない。特に、これから重視されていくコミュニケーション能力にいたっては、そのような法則は有りやしないのではないだろうか。たとえば、典型例ではあるが、"How are you?"との返答で、私たちは"I'm fine(tired...), thank you."という固定表現を学ぶ。しかし、私がイギリスでホームステイした際に、ホストファミリーは"I'm fine"とは答えることがないように思う。ほとんどが"That's nice day, isn't it?"といったような違った返答であった。このような場面にもし、その固定表現だけを持ち込んでいたらどうであろうか。きっと混乱してしまい、これ以上の会話は望めないのではないだろうか。
そして、固定表現を覚えるだけでは、例え音声化してもどうしても文章依存したものになってしまう。"Good morning."という表現も、発音して聞き分ける、相手にどう聞こえているか確かめるだけでは、単なる文字を読んでいるだけになってしまう。この表現を朝の挨拶として定着させるためには、自分の中の感情と一致するまで、何度も何度も納得できるまで調整し続ける必要があるだろう。表現を自分の中で上手く言えるまで訓練していく必要がある。竹内さんは、社会的言語としての言葉の成立として、音声だけでない「声」の合致も条件であると述べている。
ここで、授業の中でふれた田尻先生の実践について考えてみる。"My treasure"のスピーチは、確かに文章から音声化したものであろう。これだけでは、身体的コミュニケーションを無視した、ただの文字の音声化にとどまっている。しかし、ルールなど田尻先生の実践を詳しく見てみると、単純暗記にとどまらせない工夫がなされている。「聴き手にメッセージを送るもの」とスピーチ大会を定義した上で、「聴き手に分かってもらえるよう」な読み方を心がけること、「教卓の後ろに立って聴衆に話しかけること」がルールとしてある。つまり、自分のメッセージを相手に伝えることを心がけ、自分の気持ちを分かってもらえるように、頭だけの言葉ではない別の「何か」を使って話しかける工夫をする必要がここには生じている。加えて、スピーチ後にコメントを書くことが授業では決まっている。また、スピーチをした生徒を全員が暖かく迎え入れるように拍手を自然としている。別の形ではあるが、言葉のやりとりがなされることによって、生徒が話しやすい環境を作り出している。もしこれが、うるさい状況下であった場合、もしくは誰も聞く耳を持たなかった場合、この実践は通用しないだろうし、さらには生徒はコミュニケーションすることに恐怖を感じてしまう兼ねない。この状況自体に、非言語的なメッセージが隠されているためである。
竹内さんは、日本人の会話の成り立たなさについても言及している。会話は言いっぱなし、もしくはすれ違いばかりで相手に働きかけることはない。そして、この事態は演劇だけでなく教育の分野においても致命的に働いてしまう。この事態を避けようと実践しているものが、この田尻実践であるように考える。私たちは、まず言葉のやりとりの方法を考えた上で、片方がコミュニケーションを拒否しないように、また積極的に生徒や教師がコミュニケーションをとりやすい環境を作れるように、授業あるいは学級を作っていくべきなのだろう。
4.おわりに
身体的コミュニケーションを通した言葉の授業は、おそらく小学校時代に特別活動や総合的な学習の時間を通して学んでいるのであろう。これは、あくまでも活動としての授業であり、何かを「学ぶ」というものではないのかも知れない。まして、幼稚園時代は、一つ一つの身体的な活動を通して言葉を、コミュニケーションを形成していくのではないだろうか。しかし、中学校・高校に進むにつれて、知識としての言語ばかりを学習するあまり、からだの感覚を駆使したコミュニケーションを育成することを無視しつつあるのではないだろうか。
また身体を使ったコミュニケーションを取ることによって、社会的な関係を良好に保つことは期待できないのだろうか。竹内さんはコミュニケーションについての言及もされているが、「からだの悲鳴」として落ちこぼれであったり学校の荒廃についても考えを持っている。この教育の問題についても、日常から身体的なコミュニケーションが奪われていること(加えて大人がそのメッセージを読み取れないこと)が一因となっているのだと述べている。
身体的コミュニケーションは、机上だけで得るのは難しいかも知れない。しかし、それを無視するのはあまりにも残酷であると私は考える。言葉を使う以上、本来、からだを使うことを切り離して考えてはならないのだろうが、全身を使って、相手に気持ちを伝えるためのコミュニケーションを身につける方法を開拓して、授業に取り入れる必要があるのではないかと私は思う。
【参考文献】
竹内敏晴(1983).『子どものからだとことば』晶文社
竹内敏晴(1999).『教師のためのからだとことば考』筑摩書房(ちくま学芸文庫)
横溝紳一郎、大津由紀雄、柳瀬陽介、田尻悟郎(2010).『生徒の心に火をつける』教育出版
■NT君による「生徒の心を育てる英語教育の実践についての一考察」(全文)
生徒の心を育てる英語教育の実践についての一考察
1. はじめに
この授業を通して、チョムスキーからウィトゲンシュタインまで様々な方向から、コミュニケーション論について考え、学んだ。現代の英語教育において、「コミュニケーション」は最も重要なキーワードだと言っても過言ではない。しかし「コミュニケーション」という言葉の定義は様々で、しばしばあまり考えられずに使われている。私自身、「コミュニケーション」という言葉は、口先ばかりが先に動き、その意味を考えることはなかった。この授業において、多くの「コミュニケーション力論」を学んだことで、今後は「コミュニケーション」という言葉を、責任を持って使用できると思う。
またこの授業では、理論のみならずいくつかの実践例を学べたことで、自分の英語教育に対する考え方が変わってきた。特に田尻悟郎先生のスピーチ実践や、組田幸一郎先生のリメディアル教育の実践についての紹介より、英語教師の役割は、英語を教えることだけではなく、英語授業を通して生徒を育てることであると感じた。特に私は組田幸一郎先生の考えや実践にとても心を打たれ、今回のレポートのテーマ ―生徒の心を育てる英語教育の実践についての一考察― に至った。今回のレポートでは、組田幸一郎先生と中嶋洋一先生の実践より、英語教育がどのように英語以外の教育活動につながるのかを考えてみた。
2. 内容
2.1. 組田幸一郎先の実践
組田幸一郎先生の初任校は、教育困難校と呼ばれる高校で、問題行動が絶えず、部活動と生徒指導に多くの時間を費やしており、英語の授業は準備もほとんどしてなかった。当時の組田先生は、「分からない生徒に問題があり、自分は十分にきっかけを与えている」と考えていた。しかし教育相談との出会いをきっかけとして、生徒の目線に立って物事を考えるようになった。生徒の目線たった授業を実践することで、生徒に「成功体験」を与え、それが「自尊感情」を芽生えさえ、授業のみならず学校が落ち着いていった。その授業の実践例として、単語の発音指導の徹底、主語と動詞の組み合わせの徹底をした後の音読活動、ALTの積極的活用などが挙げられている。一見どこにでも行われているような活動に見えるが、学力が低く、まともに授業ができない中で、このような実践を行うことは決して容易くないとも考える。しかし残念ながら具体的にどのように授業を進めたのか、指導法と呼ばれることなどは読み取れなかった。
組田先生はこのように英語を苦手としている生徒に対し、英語授業を通して、できる喜びを与えることで、生徒の自尊感情を育てた。英語教育を語る人の多くは、「よりよい英語教育」、つまり「どうしたらより日本人が英語を不自由なく使えるようになるか」を目指していると考える。それは当然のことで、日本の英語教育発展のためには必要不可欠のことである。しかし現状は非常に厳しい。英語を使うどころか、英語を理解できない生徒だらけである。そんな状況下で、学習指導要領の目標を達成するために授業をすること、例えば2010年に出された高校学習指導要領で提示された「授業は英語で行なうことを基本とする」方針にのっとって授業をすることが生徒に必要かは、言うまでもないことである。その状況で求められる英語教育とは何か、学校教育とは何かを原点に帰って考え直すことが必要である。
少し違う角度からとらえると、「柔軟な対応力」が必要であるということもできるだろう。「学習指導要領」は法的拘束力を持ったものだとされていて、教員はこれに従うことが求められる。しかしながら、上記のような現状下で、マニュアル通りに、学習指導要領に沿った授業をすることが最も求められているとは思わない。生徒の実情に合わせた内容、方法を適切に判断し、実践する力もまた重要だと考える。
2.2 中嶋洋一先生の実践
中嶋先生もまた、若い頃に校内暴力などの荒れた学校に勤めており、授業は専ら教師主導のもの、特にテストの点を取るための解き方のノウハウを教えることに重きをおいた指導だったと顧みている。そんな中嶋先生の考えを変えたきっかけが隣校の先生の授業見学において、生徒が生き生きと自己表現活動を行っている授業を観たことだった。それより生徒が生き生きとした授業を目指し、何度も挫折しようになったが、あきらめずに地道に活動を続けた結果、生徒たちの心が開いていったと述べている。
とりわけ中嶋先生の実践においては、「ペア学習」がキーワードとして挙げられる。中嶋先生の「ペア学習」の特徴をまとめると、1つはペアを心地よくする、つまり仲の良いペアを作るということだ。これは正直びっくりというか、そんなことをしてよいのかと思わず反応してしまった。私は仲の良い生徒同士をペアにすることは、その他の生徒とのつながりを薄くしたり、もしくは仲間外れを生むことにつながるといったマイナスの面ばかりに目がいってしまい、プラスの面を考えることができなかった。しかし、コミュニケーションを考慮に入れると、その考えは全く変わってくる。そこに話したい、伝えたいという気持ちがなければ、コミュニケーションは生まれない。中嶋先生は生徒同士のコミュニケーションによりクラスの雰囲気を高め、生徒の英語力のみならず、学校生活の在り方まで変えた。2つ目は、教師は活動中のペアをよく観察し、取り組みを評価し、クラス全体にそれを広めていく役割が重要であるということだ。これはその通りだと理解するが、実際に行うとなると非常に難しい。まず観察力が必要になってくる。授業時間中に生徒の英語使用、細かな言動を注意深く観察する必要がある。そして生徒の活動を肯定的にとらえ、全体共有しなければならない。
中嶋先生の「ペア学習」は、「じゃあ、とりあえずペアで話し合ってみよう」といった消極的なペア学習ではなく、これは「ペアでやらせる必要がある」と判断し、実行する積極的ペア学習である。ペア学習が全てではないし、そのデメリットも同時に考えて実践していかなければならないが、「ペアは最小限のコミュニケーションのユニット」と中嶋先生がおっしゃっているように、学校における英語授業において、ペア活動は重要な活動の1つであるのは間違いない。そのペア活動を、どのような位置づけで、どのような工夫をして行うかによって、生徒につく英語力または、豊かな人生を送る力をつけることができるのだと思う。
3. 考察
この2人の先生の実践から、私が気付いた共通点が2点ある。1点目は、両氏ともに理念を持っておられるということだ。自分の教育観、英語教育観を持っていると感じた。その原点はもしかしたら、教師生活の若い時期に、両先生とも荒れた学校に勤務され、壁にぶつかり、苦悩した過程、そして何らかのかたちできっかけを得たことにあるのではないかと考える。ここで大切なのは言うまでもないが、苦悩したという事実だろう。壁にぶつかっても別にその壁をあえて乗り越えない教師もいると思う。しかし彼らは苦悩から逃げることなく、きっかけを与えられた時に、実践をしたということだ。もちろん最初はうまくいかないこともあるが、それを継続して、または発展させたという過程を看過してはいけない。両氏ともこの授業を通して生徒にこういう力をつけたいという短期的目標とともに、卒業するときに生徒にこうなっていてもらいたいという長期的目標を持っている。
2点目は、生徒を一番に考えた授業を行うという点である。当然と言えば当然なのかもしれないが、「数値目標」といった言葉が示すように、現在の教育の中心は、意外にも生徒にないことが多い。しかしながら両先生の授業実践は、一番に生徒の将来を考えている。組田先生の実践は、一見教師中心型のように思えたが、生徒の学力に合わせ、生徒が英語をできるようになることを何よりも考えた実践である。それは、受験に合格することなどのような目先の目標だけを目指したものではない。また、部活動などを通して生徒指導を行うことが一般に多いが、組田先生は「授業こそ最高の生徒指導」と述べているように、授業で行われる教育活動はほんとうに幅広い。中嶋先生は、授業をよりシステマティックにするための大切なことに「生徒に役割を与えて使命感をもたせること」を挙げている。生徒に活動をさせ、生徒に考えさせる、その結果生徒が成長していく実践である。
4. 終わりに
本来であれば、両先生の講演会に参加するなどし、直接話を聞く機会があればより正確にどのような考えで、どのような実践がされているのかを理解できたと思うが、残念ながら組田幸一郎先生の講演会にも参加できずに、文献、インターネット、または授業内でのスライド等からわかることのみをまとめさせてもらった。今になってみると、組田先生の講演会に参加できなかったことは、ほんとうに残念である。もし機会があれば、是非直接お話を聞いてみたいと思う。
しかしながら、私はこの2人の先生の経験談を読んで、改めて英語教育を含めた教育の可能性について考えさせられた。その1時間の授業を、何ともないただの1時間の授業、今日の授業もまた英語を日本語に訳して終わりとかの授業にするのか、それとも長い目で考え、こつこつと英語の知識・技能、コミュニケーション能力、そして協調性といった人間らしい感覚を養わせていくのかは、まったく違う。教師という仕事は、やはり第一に生徒がいて成り立つもので、そこが他の仕事とは大きく違う点でもある。英語教師は、英語を教えることが全てではない。生徒を社会に出ていく準備をし、その後の生徒の人生をより豊かにさせるために何ができるかを考えなければならない。
最後に忘れてはならないことは、この2人の実践の真似をすれば同じようにうまくいくわけではないということだ。彼らの実践の成功には、彼らがはっきりとした理念を持っていることにあると考える。たしかに「リメディアル教育」や「ペア学習」は重要だし、彼らの実践から学べることは多く、真似をすることが悪いわけでもない。しかし、まずもたなければならないのは、生徒が卒業するときに、どういう人間になってもらいたいかということ、そして卒業後も死ぬまでどういう人間でいてほしいかということだと思った。
参考文献
三浦孝、弘山貞夫、中嶋洋一.(2002).『だから英語は教育なんだ―心を育てる英語授業のアプローチ』.東京:研究社
柳瀬陽介、組田幸一郎、奥住桂.(2011).『成長する英語教師をめざして ―新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』.東京:ひつじ書房
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