全ての創造主である旧約聖書の神は、かなり怒る神です。最初の人間であるアダムとイブも、最初神は二人を楽園に住ませていましたが、二人が神との約束を破り善悪の知識の木の実を食べると、「おめーら、俺のたった一つの戒めも守れんのかい、オラ! もうおめーら、ここから出てけ。あほんだら。楽園なんぞおめーらに住ませるかい!!」と二人を追放してしまいました。
その後もいろいろあるのですが、旧約聖書の神は、「あかん、こんな人間なんぞ生かしとっても何もならへん」と地上を洪水で滅ぼそうとしたり(←スケールでかい 笑)、都市ソドムの乱れに対しては「もう堪忍ならん」天から硫黄と火を注いで滅ぼす(←かなりエグイ 汗)とか、もう人間に対して相当怒っています(←上司だったら、忘年会で部下が寄って来ないタイプ 爆)。
そうはいってもその神は、洪水の時にはノアに希望を託したり、都市ソドムの破壊に際しては、厳しいのか優しいのかわからない人間の父親のようにロトとの交渉に応じたりしています。神は人間に対して失望し怒らざるを得なかったのですが、同時に人間を見捨ててしまうことはできなかったのでしょう。
そこで神は考えます。「まあ、ワシが創ってしもうたものとはいえ、この人間というものはどうもアカンわ。ワシもたいがい堪えて、たいがい怒ったが、それでもこいつら改めようとせん。ワシ、八方手を尽くしたで。もうどないしょ。」
というわけで、旧約聖書の神は、前々からちょっとずつ口にしていたように、自分の一人息子(神の子)を人間のもとに送り出すことにします。「我が子、イエスよ、ワシはもうこいつら人間をどないにして更生させたらええのか、わからんわ。お前、ワシの代わりに、あんじょうやってや。ま、お前なら何とかなるやろ」。旧約聖書の神様は、こうしてイエスによって人間を救おうという新しい約束(新約)を人間に対して実行したわけです。
そういうことでイエスは地上に人の子の形で姿を現しました。彼も父に似て激しい気性を見せる時もありましたが、しかしたいていは温厚で慈愛に満ちた人--というより驚くほど深い愛情をもった人でした。「人間は仕方ない奴や。だから父ちゃんの怒りもわかるけど、あんなに怒ってばっかりでもうまくいかん。まあ、ぼちぼちやろか」と思われていたのかもしれません。
自分はどうしょうもない奴やと思うたり、もうどないしてええかわからんわと泣いたり、お人好しで損ばかりしたり、おべっかが言えず出世でけへんかったり、「まあまあ怒らんとってや」と仲裁して逆に怒られたりしとっても・・・
まあ、ええんとちゃうか。考えようによっちゃ、そっちの方が幸せやで。
左の頬にエルボー・スマッシュをくろうたら、連続してミドル・キックも右腹に受けてやるのが、プロレスラーとしてのたしなみと違うか。
といったイエスの教えは当時においても現代においてもまあ、革命的といっていいぐらいに斬新な考え方でした。それは実現不可能と思えながらも、人間の思考と感情を大きく揺さぶりました。
しかし人間はその優しいイエスにも難癖をつけ、ついには彼を十字架にはりつけました。弟子達は「ああ、どないしょ。何とかならへんのか」とオロオロしておりましたが、イエスは「ええねん、ええねん、こいつら自分で何やっとるかわかっとらへんによって、赦したれ。ま、ワイは死んでも三日後に帰ってくるさかい、よろしくな」と言って絶命されました。
で、イエスは三日後に「よっ!」と帰ってきたのですが、弟子達ですら最初はそれを信じられませんでした。(弟子でない人たちにとって、この「復活」などは噴飯もののおとぎ話であることは言うまでもありません)。しかし弟子達は「ああ、やっぱ、イエスはええ人やった。ちゅうか、やっぱあの人は神の子やで」と思い、以来、弟子、弟子の弟子、弟子の弟子の弟子・・・が、世界各地で福音を伝えています。この福音のおかげで、各種小売業は、十二月にある程度の売り上げを期待することができるようになっています。
イエスが本当に神の子であったのか、それとも人の子に過ぎなかったのか--これは各人で大きく見解が異なるでしょう。でもまあ、今から約二千年前に人々に「イエス・キリスト」と呼ばれた人がいて、その人のメッセージは以来人類に大きな影響を与えたというのは事実として揺るがないでしょう。
まあ、怒ったり、裁いたりばっかりしとってもあかんで。赦したりや。そうせんと、あんたも赦された気になれんとちゃうか。
やっぱ、最後は愛やで。ラブ・アンド・ピースいうやっちゃ。イエィ!
クリスマスは、そのイエス・キリストが生まれたとされる日です。
苦しんでいる人も、ブイブイいわせている人も。謙虚すぎて弱気になってしまっている人も、威張りすぎて自分がイヤな奴になっていることに気づかない人も。お金や健康に見放された人も、お金や健康は自分が偉いから得られたと思い込んでいる人も--
どんな人にも、私たち人間には、キリスト教的解釈によれば、「こらボケ、ええ加減にしとかんと、どつくで!」という旧約の神の怒りと同時に、「ええねん。気がつけば。あんたらの罪はワイがぜーんぶ被って償うさかい。ワイの父ちゃんには、ワイからよう言うとくから、あんたらは心配せんでええで。あんたらは赦し合い、愛し合いや」という新約の神の赦しと愛が与えられているわけです。
クリスマスは新約の関連行事ですから、日頃怒ったり裁いたりばかりしている人は、どうぞそれだけで人間は救えないことを思い出して下さい。旧約的なやり方も、新約的なやり方もおそらく両方必要なのでしょう、私たち人間には。
そして他人を赦し愛することで、ご自身が赦され愛されて下さい。
偉そうな言い方してますが、私自身、赦され愛されるよう、悔い改めますよって(汗)。
メリー・クリスマス。
まいど、おおきに。
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