2008年12月18日木曜日

ある礼状への返信

○○中等教育学校 ○○ ○○様

先日は私の拙い講演に対して丁寧な礼状をありがとうございました。読んでとても嬉しく、温かな感情に満たされました。お返事が遅くなり大変申し訳ありません。

礼状の中で○○君は「今こうして、先生へのお礼を述べているこの手紙は、僕からの一方的なものですが、先生が読んでくださることで、僕の思いが伝わり、一種のコミュニケーションとして成立するのかもしれません。こう考えるとコミュニケーションとは、様々な種類や手段があり、おもしろいなと思いました」と述べていました。私もその思いにとても共感します。

今、私はこの手紙を書いていますが、残念ながら私は○○君の顔を思い出すことができません(○○君は講演終了後、代表で挨拶をしてくれた生徒さんでしょうか?)。また、今この瞬間、○○君にしても、私が○○君に対して返事を書いているなどとは思いもよらずに時間を過ごしているでしょう。かくいう私にしても、○○君がこの手紙を読んでくれる瞬間には、おそらく他のことに熱中しているでしょう。

ある意味で○○君の心と私の心は直接につながることはありません。しかし時間差・空間差を超えて、○○君と私の間にはコミュニケーションが成立します。

しかしその成立したコミュニケーションとて、○○君は思いの全てを文章に込めることができたわけでなく、また私にしても、その文章に込められた○○君の限られた思いの全てを理解したわけではないかと思います。○○君は○○君なりの不完全な表現しかできず、私は私なりの不完全な理解しかできません。また逆も同じことで、私もこの手紙で私なりの不完全な表現しかできず、この手紙を読む○○君も○○君なりの不完全な理解しかできません。

こうしてみますと世の中には「完全なコミュニケーション」などないことがわかるかと思います(そもそも「完全なコミュニケーション」とは何でしょう?)。しかしそれでも人々はコミュニケーションを行ないます。コミュニケーションを求めます。コミュニケーションを続け、止めません。(コミュニケーションが終わってしまう時とは、個人や社会が死を迎える時だけなのかもしれません)。

さらに、実はこの手紙は、私が○○君の許可を得ないまま、勝手に、○○君の名前などは伏せたまま、私のブログ(「英語教育の哲学的探究2」)に掲載しています。そのブログで私の知人・友人だけでなく、私が知りもしない人たちが、○○君のこともほとんど知らないままに、私たちのこのコミュニケーションについて知るでしょう。彼/彼女らが私たちのコミュニケーションに接してどう感じ、どう考えるかは私は知るよしもありません。しかし彼/彼女らは彼/彼女なりに(「不完全に」!)理解し、コミュニケーションは続いてゆくでしょう。

こうして見ますと、各種メディアが発達し、直接対面しての方法以外でもコミュニケーションが可能になった現代はとても面白く複雑な時代であるように思えます。書き手の思いや予想を越えて、様々な時空でコミュニケーションが成立するからです。

かつて字を書くことを覚えた人々は手紙というメディアで、時空を越えたコミュニケーションを可能にしました。グーテンベルクの活字印刷の実用化以来、人々は出版というメディアで、手紙の相手のように直接には知らない相手(=著者・読者)ともコミュニケーションができるようになりました。そして現代、インターネットの普及により多くの人がブログなどのメディアで、自分たちの予想を超えた範囲のコミュニケーションを可能にしています。

このように様々な種類のコミュニケーションが、時空を越えて莫大な量で存在している現代はとても複雑な社会です。しかしその複雑さは私たちに予想もできない可能性をもたらしてくれています。もちろん可能性の中には悪い可能性もあるでしょう。しかし私たちは少なくとも良い可能性を願い、そのために行動し、反省し、再び行動することができます。一人一人がよいコミュニケーションをしようとすることにより、現代社会は、誰もが予想しなかったように良くなることができるはずです。

実は考えてみますと、歴史認識も、社会認識も、人間理解も、多くのことは言語によるコミュニケーションによってできあがっています。目の前のリンゴを手に取るように、私たちは「歴史」を手に取って観察することはできません。私たちは日々様々なものを見ますが、「社会」そのものを目にすることはありません。目の前にいる人間も、見るだけではわからず、私たちはコミュニケーションを重ねることでしかその人を理解することはできません(正確に言いますと、私たちは他人を完全に理解してしまうことはできず、少しでも理解しようと努力し続けることができるだけです)。こうしてみますと私たちは言語を使ったコミュニケーションで、歴史も、社会も、人間も理解しているわけです。コミュニケーションは私たちにとって本当に重要なものだと思わずにはいられません。

私はこの手紙で私の思いを「完全に」伝えることができたでしょうか。○○君は私のこの手紙を「完全に」解読できたでしょうか。答えは「否」です。しかしその「否」は悲観的なものではありません。それは人間が人間である限り、避けることができない不完全さからくる「否」です。さらに人間はその「否」を自覚できることにより、よりよいコミュニケーションを目指すことができます。自分の不完全さを知る人間の方が、自分が完全だと思い込んでいる人間よりは、よりよいコミュニケーションができるのではないでしょうか。少なくとも私は、自分の不完全さを自覚している人の方が、自分は完璧だと思い込んでいる自信満々の人より好きです。

とりとめがなくなりました。ここでとりあえず、私から○○君への返事を書くというコミュニケーションは終えることにします。しかしこれはコミュニケーションの完全な終結ではなく、このコミュニケーションは○○君や私やこの手紙を読む様々な人々の中で、少なくとも部分的に受け継がれてゆくことでしょう。コミュニケーションは続きます。

○○君が、これからもよいコミュニケーションが続けられますようにお祈りします。

お元気で。よい勉強をしてください。


2008/12/18
柳瀬陽介








Google




Search in WWW
Search in Yanase's current Japanese blog

(注:エンコードはUTF-8を使っています)


2 件のコメント:

  1. 自分で書いてみて言うのもなんだけど、なんだか上の文章、大江健三郎的でキモイような気がする(笑)。

    返信削除
  2. とても魅力的な記事でした。
    また遊びにきます。
    ありがとうございます。

    返信削除

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。