そのような子どもは、大きくなっても、うぬぼれや自己に対する過信をなかなかぬぐい去ることができませんでした。彼は「決めつけ」を「判断」と呼び、「見切りをつける」ことを英断と呼んで、自らの正しさをなかなか疑おうとしませんでした。彼はことばの力を信じていました。「ことばで全てが語れる」とまでは思っていないにせよ、可能な限りことばで明晰に語ることを、万人に対して要求するほどにことばを操る自分を偏愛していました。
そのような子ども=大人にはジュディス・バトラーの次のような言葉を贈りましょう。
もし私たちが自分そのものであると言うところの同一性が、私たちを把握できないかもしれず、同一性のカテゴリーの外部にこぼれ落ちてしまうような剰余と不透明性を徴しづけているとすれば、「自分自身を説明する」ためのいかなる努力も、真理に近づこうとして失敗してしまうはずである。私たちが他者を知ろうと務める際に、あるいは他者に自分が最終的、決定的には誰であるかを述べるよう求める際に重要なのは、絶えず満足を与え続けるような答えを期待しないことだ。満足を追求せず、問いを開かれたままに、さらには持続したものにしておくことで、私たちは他者を自由に生かすのである。というのも、生とはまさしく、私たちがそれに与えようとするいかなる説明も超えたものだと考えられるからだ。もし他者を自由に生かすことが承認に関するあらゆる倫理的定義の一部をなすなら、こうした承認の説明は、知に基づくのではなく、認識論的諸限界の把握に基づくことになるだろう。
ある意味で倫理的姿勢とは、カヴァレロが示唆するように、「あなたは誰か」と問いかけ、いかなる完全で最終的な答えも期待することなくそう問いかけ続けることにある。私がこう問いかける他者は、その問いを満足させるような答えによっては把握できないだろう。したがって、もし問いのなかに承認への欲望が存在するなら、この欲望はそれ自体を欲望として生かし続け、決してそれ自体を解消しないという義務を負っているだろう。「ああ、ようやく私はあなたが誰だかわかった」と言った瞬間、私はあなたに呼びかけることをやめ、あるいはあなたに呼びかけられることをやめてしまう。(81-82ページ)
以上、ジュディス・バトラー著、佐藤嘉幸,・清水知子訳(2008)『自分自身を説明すること―倫理的暴力の批判』月曜社より
非難は極めてしばしば、非難される者に「見切りをつける」行為であるだけでなく、「倫理」の名のもとに、非難される者に暴力を加える行為でもある。(87-88ページ)
先生の書かれた記事を読んでいて,とある大学の学生のことを思い出しました.今から2年前のある日のことです.
返信削除彼は当時,教員など目指しておりませんでした. 理由は「自分に教師の素質がないから」と考えていたためでした.
そんなとき,彼の大学の先生が,彼にこのように叱責しました.
「なぜそう決め付けるんだ?」
この熱い言葉を受けて,彼は決め付け=判断を行っていた自分の愚かさに気がつきました.そして,とりあえずの努力を試みることを決意しました.
彼が今,どのような生活を送っているのかは分かりません.もしかすると,2年前の自分を思い返し,その当時より人として退化しているのかもしれません.
もしそうであるなら,彼に再び,とりあえずの努力を始めるように伝えたいです.
思いつきのような書き込みで申し訳ございませんでした.
匿名さん、
返信削除コメントありがとうございました。
「なぜ、そう決めつけるの?」と、問いかけることは大切かもしれませんね。
でもその問いかけ自体が詰問、そして決めつけに響いてしまうことを怖れる気持ちも一方であります。
問いを開いたままにしておくというのは、シンドイことですが、そのシンドサに耐えるのが知性なのかもしれませんね。
それでは!