2008年11月13日木曜日

言語使用の倫理?

二項対立の間でデイヴィドソンを考える」という小文で、デイヴィドソンの復習をし、内田樹氏の身体論について授業をしたら、デイヴィドソンに対する私の考えが少しだけ変わりました。

私はデイヴィドソンをしばらく学んだ後に、関連性理論を学んだこともあって、言語コミュニケーションを理解するためには、関連性理論(Relevance theory)の方が洗練された議論を展開していると思っていました(それと同時に、デイヴィドソン哲学と関連性理論の相似性をなぜみんな語らないのだろうと不思議に思っていました)。

確かに、relevance概念により、言語処理のeffortとeffectのバランスを考える関連性理論の方が、truth概念とprinciple of charityでコミュニケーションを考えるデイヴィドソンの根源的解釈(radical interpretation)よりも、言語表現を具体的に考えるには適しているかと思います。それは端的に関連性理論が例示する文の多さ・豊かさによっても示されていると言えましょう。

しかしそれは、相手にとってのrelevanceを考えながら言語を表現できる同等の能力をもつ人間同士でのコミュニケーションについていえることだけなのかもしれないと今日思い始めました。


内田樹先生は、子どもに接する大人について次のように言います。


コミュニケーションの現場では、理解できたりできなかったり、いろんな音が聞こえてくるはずなんです。それを「ノイズ」として切り捨てるか、「声」として拾い上げるかは聞き手が決めることです。そのとき、できるだけ可聴音域を広げて、拾える言葉の数を増やしていく人がコミュニケーション能力を育てていける人だと思うんです。

もちろん、拾う言葉の数が増えると、メッセージの意味は複雑になるから、それを理解するためのフレームワークは絶えずヴァージョン・アップしていかないと追いつかない。それはすごく手間のかかる仕事ですよね。そのとき、「もう少しで『声』として聞こえるようになるかもしれないノイズ」をあえて引き受けるか、面倒だからそんなものは切り捨てるかで、その人のそれから後のコミュニケーション能力が決定的に違ってしまうような気がする。
内田樹・名越康文 (2005) 『14歳の子を持つ親たちへ』新潮新書、48ページ


ここでいう「コミュニケーション能力」とは、一定の記号体系を正確に受発信すること、さらにはその記号使用の枠組みを堅持する能力ではなく、子どもの、声にならぬ声、ことばにならぬことば、コミュニケーションとして死産に終わりそうなコミュニケーションを絶望寸前のところで目指す試みを、どう聴くか・読み取るかに関する能力です。


パロールについて偉大な思想家が教えることはほとんど寸分も変わらない。それは、聴き取る用意のある者、外部から到来することばを解そうと欲望する者の耳にだけ、ことばは届く、ということである。読む用意のある者は「白紙」からでも聖賢のメッセージを読み取ることができ、聴く用意のある者は「豚の鳴き声」からでも人間のことばを聴き取ることができる。内田(2004:119)
内田樹(2004)『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』海鳥社、119ページ


理想化された、あるいは標準化された「言語」から少し自由になってコミュニケーションを考え直せば、内田先生がここで述べているような「コミュニケーション能力」の方が、言語学・応用言語学での標準的な「コミュニケーション能力」より基盤的であるように思われます。


そこでデイヴィドソンの根源的解釈が再登場します。


Radical interpretation is a matter of interpreting the linguistic behaviour of a speaker ‘from scratch’ and so without reliance on any prior knowledge either of the speaker's beliefs or the meanings of the speaker's utterances.
(...)
The basic problem that radical interpretation must address is that one cannot assign meanings to a speaker's utterances without knowing what the speaker believes, while one cannot identify beliefs without knowing what the speaker's utterances mean. It seems that we must provide both a theory of belief and a theory of meaning at one and the same time. Davidson claims that the way to achieve this is through the application of the so-called ‘principle of charity’
(...)
In fact the principle can be seen as combining two notions: a holistic assumption of rationality in belief (‘coherence’) and an assumption of causal relatedness between beliefs -- especially perceptual beliefs -- and the objects of belief (‘correspondence’) (see ‘Three Varieties of Knowledge [1991]). The process of interpretation turns out to depend on both aspects of the principle. Attributions of belief and assignments of meaning must be consistent with one another and with the speaker's overall behaviour; they must also be consistent with the evidence afforded by our knowledge of the speaker's environment, since it is the worldly causes of beliefs that must, in the ‘most basic cases’, be taken to be the objects of belief (see ‘A Coherence Theory of Truth and Knowledge’ [1983]).
Stanford Encyclopedia of Philosophy


言語コミュニケーション力をまだ発達させていない子どもは、大人の想定するrelevanceでもって自らの発話を組み立てることはできません。そうならば、そのような子どもの発話に、relevanceのバランスが取れていることを期待してはいけません。

もちろん理論的には、relevance概念を「子どもなりのrelevance概念」に読み替えればよく、「子どもは子どもなりにrelevantな発話を試みている」と言えばいいのでしょう(実際、関連性理論はそのように説明していたと記憶します)。

しかしそれなら、いっそのこと、relevance概念よりも洗練されておらず、より始原的で、粗雑ともいえるぐらいのtruth概念をコミュニケーションを前提にした方がいいのではないでしょうか。

・・・この子どもはわけのわからない行動を示している。大人である私の感覚からすれば、とてもrelevantとは思えない行動だ。
しかしこの子は、この子なりのtruth概念に基づいてこの行動をしているはずだ。子ども相手とはいえ、truth概念に関しては、明らかな錯誤や例外的な悪意がある場合を除くなら、私も同じ基盤に立てるはずだ。Truth概念を基にしてこの子が表現しようとしていることを理解することができるはずだ。
少なくとも理解不可能と諦めるのはまだ早い。私のこれまでの知識を必要に応じてどんどん捨てて、この子の行動、環境・状況、そしておそらくこの子がもっている基本的な信念をできるだけ整合的に解釈しよう。その解釈が自分の中に芽生え始めるまで待とう。
その解釈は、必要な情報がないままに連立方程式を解くようなものかもしれない。しかし耳を傾けよう。よく見よう・・・


こういった態度こそは子どもとのコミュニケーションにおいて私たち大人が身につけておかなければならないのかもしれません。

さらに拡張して考えるなら、これは大人と子ども、あるいは教師と生徒の間の関係だけにとどまらず、母語話者と外国語話者、学校教育で標準語の書き言葉を習得した者とその習得の機会を得ることができなかった者の間でも言えるのかもしれません。「言語強者」は「言語弱者」に対して、言語表現のrelevanceではなく、一般的なtruth概念を基にコミュニケーションを図るべきと言えるのかもしれません。これは「言語強者」の倫理でしょうか。

日本での英語教師は、高等教育を受けた者として日本語においても言語強者の立場にあり、英語という言語を操るという点でも言語強者の側にいます。実態はともかく、社会心理的には二重の意味で言語強者であると言えましょう。そうならば、言語弱者の「言語」ではなく、彼/彼女らの「真実」を見つめるというのは、英語教師を一例とするような「言語強者」が自らを律する原理として掲げなければならないのかもしれません。

しかしもしその原理が「倫理」なのなら、そして「倫理」とは万人が掲げるべき原理なのなら、「言語弱者」もこの原理を自らに対して掲げるべきだということになるかもしれません。

・・・言語コミュニケーションでは、そこに使われる言語表現ではなく、その言語表現が基づいているはずの「真実」に目を向けよ。コミュニケーションを促進するのは言語の共有というよりは、真実の共有である。
言語表現の根底にあるはずの真実が姿を現すまで判断を控えよ。言語表現に熱狂するな。しかし拒絶もするな。
真実を言語よりも大切にせよ。解釈においてはradicalであることを怖れるな。だが真実を伝えうる言語の力を信じよ。そしてその言語の力を自ら獲得せよ・・・


言語強者も言語弱者も、言語において対等な者も、言語のためではなく、truth概念のために可能な限り収束すること、そのためには時に使用されている言語に即しながら、そして時には使用されている言語に抗しながら、truth概念に即して言語を使い・再生し・創造することーーこれが言語使用の倫理と言えるかもしれません。


いつものように生煮えの思考をとりあえずブログに書きつけました。おそまつ。


デイヴィドソンの関連論文
1973, ‘Radical Interpretation’, Dialectica, 27, reprinted in Davidson, 2001b.
1983, ‘A Coherence Theory of Truth and Knowledge’, in D. Henrich (ed.), Kant oder Hegel?, Stuttgart: Klett-Cotta, reprinted in LePore, 1986, and Davidson, 2001c.
1991, ‘Three Varieties of Knowledge’, in A. Phillips Griffiths (ed.), A.J.Ayer Memorial Essays: Royal Institute of Philosophy Supplement 30, Cambridge: Cambridge University Press, reprinted in Davidson, 2001c.
2001b, Inquiries into Truth and Interpretation, Oxford: Clarendon Press, 2nd edn.
2001c, Subjective, Intersubjective, Objective, Oxford: Clarendon Press.






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