2008年10月31日金曜日

人間らしい生活----英語学習と使用の喜び

以下は、以下の文章は、『15(フィフティーン)―中学生の英詩が教えてくれること』のために私が書いて、没になった第二原稿です。先日第三没原稿も公開したので、毒食わば皿まで、で公開します。現在の私は、アレントの "das Herstellen / work"は「制作」と訳すべきだと思っていますが、この原稿を書いた当時は「仕事」と訳していました。下の文章はその「仕事」の訳語の語感を使って書いたものなので、ここでは修正をせずにそのまま公開します。

というわけで、『15(フィフティーン)―中学生の英詩が教えてくれること』買ってね(笑)

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人間らしい生活ってどんなものでしょう。この本の中嶋英語教育実践は、人間らしい生活とどうかかわっているのでしょう。ここではハンナ・アレントという哲学者が編み出した枠組みを踏まえて私なりに考えてみます。

世の中のほとんどの大人は働いています。「なぜ?」と尋ねられたら、一番正直な答えは「生き延びるために必要だから」ではないでしょうか。生き延びるためには食料が必要です。健康でいるためには、きちんと食事を作って後片付けをし、掃除・洗濯をしなければなりません。家族に小さな子どもや手足の不自由な方がいれば、その世話や介護も必要です。このように、人間が生き延びるために必要としている営みをアレントは<労働>(labor)と呼びました。

この<労働>にも、もちろん喜びはあります。一日汗をかいて働き終えた時の爽快感、食事の後片付けを終えた時の充実感、乱雑としていた部屋がきれいになった時の満足感、介護した人の笑顔に癒される充足感、こういった喜びは人間の生活にとって重要なものです。

でも、どうやら人間は<労働>だけでは満足できない存在みたいです。<労働>の特徴は、生き延びるための必要最小限の営みということで、その成果はすぐに消えてゆきます。<労働>とはある意味、自然との闘いです。自然は厳しいですから、人間は<労働>を繰り返さなければなりません。食料を収穫するためには毎日汗をかかなければなりません。手間隙かけて料理した食事はすぐに食べられてなくなります。きれいに片付けた部屋はすぐにまたちらかります。世話や介護に終わりはありません。生きてゆくために人間はこのように<労働>を延々と繰り返さなければなりません。人間が自然界に生まれてきて、死すべき運命を持つ生物である以上、人間にとって<労働>は不可欠のものです。私たちは<労働>を自分で行うか、誰か他人に行なってもらわないと生きてゆけません。でも、人間は何か成果を残したいのです。それが証拠に、少しでも生活に余裕ができたなら、人間の文化は、単なる生き残り以上の、自分たちの成果を残そうとします。それが人工物です。

たとえば家です。雨露をしのぐだけの居住空間なら、それはまだ<労働>の成果に過ぎず、人工物とは呼びがたいかもしれませんが、たいていの人は、そのような半自然状態の中に住むことには満足せず、家という人工物を作りあげたがります。生き延びるためだけのものではない工作物としての人工物です。人工物という言葉が先ほどから続いていますが、ここでの人工物とは、「財産」として残るために必要な耐久性を持ち、「財産」として他の人と交換する価値をもっている工作物・生産物のことです。人間の文化が人工物であふれていることからすると、こうした人工物を生産できることも人間にとって重要なことなのかもしれません。このように耐久性と交換価値を持つ人工物を作り出す営みをアレントは<仕事>(work)と呼びました。

自然との闘いである<労働>においては、人間は自然のペースに合わせて働かなくてはいけませんが、人工物を作り出す<仕事>において人間は自分のペースで<仕事>を始め、終えることができます。家を建てること、工芸品を作ること、商品を企画・制作・販売すること、などなどといった様々な<仕事>において、人間は自分の<仕事>の主人となれます。(もちろん、<仕事>とて、様々な締め切りにさらされていますが、それにしても自然に追われる<労働>と比較するなら、<仕事>における人間の自律性は高いものです)。

こうして人間は<労働>に加えて、<仕事>を行い、この地球上を様々な人工物で埋め尽くすにいたりました。物理的な工作物から、機能上の組織まで、世の中は人工物で一杯です。美しい地球の自然が素晴らしいことには異論はありませんが、一方で人間が作り出した人工物のおかげで、地球は人間にとってより快適な場所になったことは否定できません(もちろん<仕事>のやりすぎは環境破壊につながったりしますが、もう私たちは人工物無しの、<労働>だけの自然界には戻れないでしょう)。

この<仕事>は人間の思考法にも影響を与えました。<仕事>を行なうためには合理的に考え設計しなければなりません。<仕事>の目的である最終生産物とは何か。その目的を達成する手段には何があるか。その手段を採択するには何が必要か、などと人間は、合理的に計画することを学んできました。この合理性によって近代社会の生産性は飛躍的に高まりました。その高い生産性によって生産物は多く生み出され、それは「市場」と呼ばれる交換のための空間によって取引されます。その取引により、近代社会はますます多様に発展し、さらに発展を続けようとしているのです。<仕事>は近代の人間にとって欠くべからざる営みといえましょう。

さあ、それではこれで十分なのでしょうか。必要な<労働>を済ませ、<仕事>に従事していれば、それは人間らしい生活なのでしょうか。

一瞬、そのようにも思えます。家族と共に<労働>を行い、一人の人間としては<仕事>で生産物を生み出す。家族と共に生きることによって「私的領域」での憩いを得て、自分の作り出した生産物をお金と交換することによって市場という「公的領域」につながる。これはある意味、現代日本での標準的生活でもあるようにすら思えます。

でもアレントは、そのような生活は人間として十分な生活ではないと考えます。

古代ギリシャ・ローマでの人々の暮らしぶりから、アレントは、人間にとっては、家族以外の様々な人間と関わり合って、その関わり合いの中で、お互いがお互いを認め合うことが非常に重要だと考えたのです。アレントは、多種多様な人間がいるという多数性・複数性を「人間の条件」と考えました。彼女は、人間を、一人だけでは(あるいは家族といった限られた親密な関係の中だけでは)十分に人間的でありえない存在であると考えました。人間が人間らしい、人間的な生活を送るには、他の様々な人々との自由な連帯をもつ必要がある----様々な複数の人々の中で生きていることこそが人間なのだから----とアレントは考えました。

でもそんなに他人との関わりは重要なのでしょうか。アレントはそうだと言います。例えば、莫大な財産を持ち、<労働>も<仕事>もする必要がない人がいるとしましょうか。その人は、その理由だけで非人間的といえるでしょうか。ちょっとそれは言葉がきつすぎるのではないでしょうか。ではその人が、一人きりで部屋にこもっていたらどうでしょう。または家族の人としか話をせず、他の人々との関わりを一切絶ったらどうでしょう。それはちょっと非人間的とでも呼びたくなるような生活ではないでしょうか。ある人が、いくら他人が羨むような衣食住を得て、個室で自分の趣味を非常に洗練させていたとしても、もしその人が「引きこもり」の生活をしているとしたら、あなたはその人が十分に人間らしい生活をしていると考えますか?

あるいは<労働>や<仕事>に従事している人でも結構です。その人が<労働>や<仕事>に必要な限りでしか他人と関わらず、その他の事は一切の話題を他人と口にしないというならどうでしょう。もしそんな人が同僚なら、あなたは「どうしたの、あの人?」と不安になりませんでしょうか。もしそんな人があなたの家族なら「大丈夫?」と心配になりませんでしょうか。他人と共に生きることは人間的であるためには必要なことであるようです。

「そんなことをいったって、もう既に私たちは他人と共に生きているではないか。街では多くの人とすれ違っている」と反論する人もあるかもしれません。でもそれは大衆の中の孤独に過ぎません。「それなら<仕事>でのつながりはどうだ。<仕事>をする中で私は多くの人と関わっている」という反論もあるかもしれません。ですが<仕事>のつながりは、原則として、生産物の交換のためのつながりです。<仕事>の仲間は、原理的にいうなら、あなたという人格ではなく、生産物の製作者・販売者などとしての人間に興味を持っているのです。それが証拠に多くの人は定年退職と共に、職場のほとんどの人間関係を失ってしまいます。

それでは私たちは人間的には、どのように他人と関わるのでしょうか。それは<活動>(action)を通じてだ、とアレントは言います。彼女によれば、<活動>とは、人間が、他の人間との中で自分が「何者」("who")であるかを明らかにする営みです。もちろん人間は<労働>や<仕事>によってもその人らしさを表現できます。しかしその自己表現は、あくまでも<労働>や<仕事>の、間接的で限られた副産物でしかなく、営みの主目的ではありません。<活動>とは、他人の中での自己表現を主な目的とする営みです。

したがってこの<活動>には、語り(speech)が非常に重要です。自分が何者であるか、どのような人間であるか、という自己表現を行なうには、言語という人類が持つ素晴らしい思考媒体・表現手段を使うことが最適だからです。「自分のこだわりは何だろう。なぜそれにこだわるのだろう。このこだわりを理解してもらうためにはどうしたらいいのだろう」----こういった動機に基づく自己表現を、可能にしてくれるのは、多くの人間にとって言語です。言語による精妙で正確な語りこそは、その言語を共有する多くの人に、その表現者の理解を可能にしてくれます。語りによって、人間は自己表現という<活動>を行い、その<活動>を通じての理解で、人間は他人とつながるのです。

もちろん言語による語りは、<労働>でも<仕事>でも使われます。ただその場合の語りは、他の手段に容易に変わりうるものです。例えば身振りや矢印などの記号だけの方がはるかに効率的に<労働>がなされる場合はたくさんあるでしょう。コンピュータに定められた記号をインプットしてゆくことによって最も効率的になされる<仕事>もたくさんあるでしょう。しかし自己表現という<活動>に関しては、ほとんどの場合、語りを省くことができません。言葉によって自分自身と自分の行動を明らかにしなければ、私たちはおよそ原始的な自己表現----人間的というよりは動物的な自己表現----しかできないでしょう。

「ちょっと待って。自己表現は言語を使った語りでなくても、芸術作品制作でできるのでは?」という疑問を感じた人もいるかもしれません。確かに、天分に恵まれ訓練を重ねた芸術家は、言語ではなく、音楽や絵画によって複雑微妙な自己表現をできます。比喩にすぎませんが、芸術作品は(言葉なしで)「語る」ではないか、というわけです。でも、それは例外的な表現者と、例外的な鑑賞者の間での例外的な事例というべきです。そのような天才と玄人の間でなら、言語なしでの高度な表現-理解が可能かもしれません。

しかし、たいていの人間にとっては言語が必要です。絵や音楽に長けた人も、しばしば自分からその作品の解説を語ります。絵や音楽を鑑賞する人も、しばしば誰からも強いられないのに、作品の感想を語り合います。言語というのは、おそらく人間が持った最高の思考・伝達手段で、人間は言語を獲得し使用するように生まれてきた生物なのですから、語りのない人間の生活というのはどこか不完全なのです。たとえ言語を使わない芸術でも、人間は語りたがるのです。お互いがどのような人間であるかを表現し理解しあう<活動>には、言語による語りが不可欠です。

ちなみにアレントは芸術作品制作を<仕事>として考えています。作品は人工物であり、耐久性をもち、それはしばしば交換価値を持つからです。芸術作品制作は、芸術家が個室で行なう限り、<仕事>に過ぎません。芸術家は、自分がその作品製作の主人であるという喜びは味わうことができますが、それはまだその芸術家が人間的な喜びを完全に得ている状態ではありません。

芸術家は作品を他人に見せるでしょう。他人の感想を心待ちにするでしょう。感想には製作者としてのコメントを返し、語り合うことでしょう。芸術を鑑賞する方もそうです。一人で鑑賞してもそれなりに楽しいですが、その理解の喜びを誰かにわかってもらいたいと、だれか語りを聞いてくれる人を探すでしょう。この意味で面白いのは趣味です。趣味というのは元来、個人的なもので、一人だけで行なうものかもしれません。でも音楽鑑賞にせよ、何かの収集にせよ、個人の趣味も、それが高じると、私たちは仲間を探します。趣味が進むとサークルに入ったり、ホームページや掲示板で仲間を求めたりしますよね。おそらく他人と語り合うというのは、人間にとって欠かせない営みなのでしょう。芸術という<仕事>も、趣味という営みも、語り合うという<活動>が加わることで、より人間的な営みになるのです。

自己表現という<活動>は人間としての根源的な喜びの一つです。考えてみれば友達づきあいというのもそうではありませんか。友達とは自分をよく理解してくれる人です。また自分もその人をよく理解します。表現と理解によって相互に結ばれる絆こそが友達関係です。友達は、あなたと、<労働>や<仕事>で利してくれる存在としてのあなた(what you are)としてではなく、一人の人間としてのあなた(who you are)として付きあっているのです。

もちろん友達関係といっても色々な関係があります。一番浅い友達関係が、何かが同じという理由だけで結ばれている関係です。私たちは、出身地が同じ、趣味が同じ、職場が同じ、といった理由だけでもある程度は他人と仲良くなれます。ですがそのような関係はそれだけのものです。出身地や趣味以外のことはあまり語らないでしょう。職場が同じでなくなれば、自然と離れてゆくでしょう。ですが、本当の友達はそんなものではありません。出身地や趣味も違っていてかまいません。職場や住んでいる場所も違っていてもかまいません。たまに会うだけでもかまわないかもしれません。お互いの人格を、様々な語りと語りに伴う行動によって理解し合った友達は、たいていの浅い「友情」が死に絶えてしまうような条件でも続くのです。そのような友達を持つことは、私たちにとって説明しがたいような人生の喜びをもたらします。この根源的で人間的な喜びは、語りによる自己表現を通じて得ることができるのです。語りによる自己表現は、様々に「違う」条件にある他人ともあなたを結びつけうるのです。

もちろんそのように喜びが大きければ、危険性もあります。あなたの自己表現は、他人に受け入れられないかもしれません。笑われるかもしれません。馬鹿にされるかもしれません。家族や、「何かが同じ」という、浅いけれど安定した理由で結ばれた関係の中にとどまっていれば、そのような危険に遭うこともありません。自己表現をしなくともあなたは家族であり仲間であるからです。でも自己表現をしないということは、自分の可能性を探らないということです。自らの潜在的な可能性から顔をそむけ、限られた自分で満足してゆくということです。しかし人間とは多種多様な複数の存在です。あなたを理解しない人もいるなら、あなたを理解する人もいるでしょう。勇気を持って自己表現をするなら、人間は、他人に理解してもらうため、自らを深め、表現を豊かにしようと試みます。そういった自己表現の高まりこそが、個々人の人間的な成長を促し、私たちの住む社会全体の人間的な豊かさをもたらすのではないでしょうか。自己表現としての語りという<活動>は、人間らしい生活に必要な営みなのです。

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ここで中嶋英語教育実践の話をします。

中嶋実践の素晴らしいところは、英語学習を<活動>としているところだと思います。中嶋実践では、それぞれの生徒が、自分というものを深く見つめ直し、そのように発見した自分を、他の人にもわかってもらおうと、勇気を持って自己表現を行なっています。それを、中学三年間で学習した英語という言語を媒体にして行なっています。英語学習が自己表現という人間的な<活動>に昇華しているのです。

英語学習は、毎日の中で英語を使わなければならない人にとっては、<労働>とみなされています。企業人にしても「英語ができなければ生き残れない」と多くの人が肌で感じています。<労働>としての英語学習には、ひょっとしたら、それなりの楽しさや喜びはあるかもしれないけれど、実のところは必要悪とみなされているのかもしれません。企業人も、もしビジネスが日本語だけでできるのならそれに越したことはないと考えるでしょう。注文票に数字を記入するだけでビジネスが成立するのなら、そちらを選ぶでしょう。英語を使うことを<労働>としてしか考えないなら、英語を学ぶことなんてできれば無しですませたいというのが正直なところでしょう。

学校の生徒はそのあたりを直感的に感じているから、あまり英語学習に本気になれないのかもしれません。「英語なんか使わなければいいじゃん。それでも日本で暮らしていけるし」というわけです。それを聞いた、英語を使わなければならない大人は反論します。「私だってそう思っていたけど、金を稼ぐにはそう言っていられないんだ。英語を使わなくちゃいけないんだから、今勉強しときな」というわけです。

しかし学校の生徒とは、自己成長のために若い日々を費やすことを社会から期待された存在です。少なくとも日本では生徒は、社会制度的に<労働>を免除されています(この意味で、<労働>が免除されず、学校に行けない小さな子どもが多い社会は本当に不幸な社会だと思います)。ですから日本の生徒に、<労働>としての英語学習の必要性をいくら説いても、それはピンとこないものでしょう。だって生徒は現在、<労働>をしていないのですから。せいぜい一部の生徒が、英語を使うことが未来の自分の<労働>の一部となるだろうと考えて、英語を勉強しようかと思うぐらいでしょう。

それでは日本の学校ではどのように英語教育を行なっているのでしょうか。私がアレントの枠組みで考えますに、多くの教師は英語学習を生徒にとっての<仕事>としてしか認識していません。

多くの英語教育実践において、英語学習は、大学受験合格や資格試験の高得点といった「財産」を得るためのものとして捉えられています。大学受験合格や資格試験の高得点は、少なくとも当面は価値を失わない耐久性のあるものであり、それと引き替えに、高収入を得ることができる価値を持った財産であると信じられています。

また<仕事>の別の面でいいますと、英語学習は、多くの人にとって、合理的な計画に自らを従わせ、その結果、自分が自分の学習の主人になるための訓練としても捉えられています。そういった合理性こそは、より多くの財産の入手を可能にしてくれるのでしょうから、英語学習は合理的な人生設計の訓練として重要なものだと考えられています。

と、学校英語教育の話をしましたが、みなさんにとっての英語学習とはどんな営みでしょうか。<労働>でないとしたら、<仕事>ではありませんか?自分のキャリアアップのための「財産」として資格試験を目指して、英語学習をし、その学習のプロセスの中で自分をコントロールすることを学び、そこからの喜びを得ている----そういったところが皆さんにとっての英語学習ではありませんか?

あわてて言いますが、そんな認識が間違いだというのではありません。確かに英語力は「財産」となります。英語学習は合理的な人生設計のための訓練にもなります。英語学習を<仕事>と捉えることには、近代社会での意義があります。英語学習を<仕事>として確実に達成することはある意味必要だとさえいえるでしょう。これらのことを否定するのは大きな間違いです。私は何も英語使用を<労働>としている人や、英語学習を<仕事>と考えている人を非難しようというのではありません。

私が言いたいのは、英語の使用と学習には別の喜びもありますよ、ということです。

英語学習は<労働>や<仕事>でしかありえないのでしょうか。英語という言語を学ぶことの意義は、生き残りと経済競争に有利になることだけでしょうか。多くの人は、その通り、と疑問を感じません。多くの英語教師もこれらの問いに、口ごもってしまうだけです。

じゃあ、学校は<労働>と<仕事>のためだけに英語学習をみんなに強いているのでしょうか。人間は生きて、お金を稼がなければならないのだから、それもある程度は正当化できるのかもしれません。でも、そもそも学校とは子どもに人間らしい生活を教えるところではないのでしょうか。英語学習もどこかで人間らしい生活に結びついているべきではないのでしょうか。それが学校であり、教育であり、学習ではないのでしょうか。

このような状況の中、中嶋実践は、英語学習が<活動>でもあることを示しました。その結実がこの本で示した生徒の英語自己表現です。この表現は、皆さんに見せるための作品となっていますから、アレント流に言うなら、<仕事>の成果です。でもこの<仕事>には、多くの語りつまり<活動>が伴っています。

生徒の英詩は一日でできたのではありません。中嶋先生は、生徒に語りかけ、生徒一人一人が自分を深く見つめることを促します。生徒もぽつぽつと、語り始めます。自分を見つけ始めるのです。そして中嶋先生と生徒は語り合います。そうしていくうちに、生徒は語りを英語表現に結晶化してゆくのです。こうした日本語に始まり、英語に結実する語りは、人間的な楽しみであり喜びです。

こうして英語文集ができあがりました。生徒は自分の詩がどのように受け入れられるだろうとわくわくします。詩を読まれることも喜びなら、詩を読むことも喜びです。詩を読む友達は実際、詩に託されたその人らしさを感じ取り、感想を言い合います(後年の英語文集には、友達のコメントも掲載されていました)。こうしてクラスは、人間的な空間へと変容してゆきます。お互いが、成績といった「交換価値」によって判断されるのではなく、人格によって理解される、語り合いの場、<活動>の空間になるのです。

いや小難しい理屈で説明する必要もないのかもしれません。出町中学校のある男子生徒は、英語卒業文集についてこう言いました。


「思わずグレート!と叫びたくなる本だ。みんなの魂がこもっている。自分もその中に入っていると思うと、なんだか泣けてくる。うれしいやら何やらでもうぐちゃぐちゃだ。この本は僕がじじいになっても、くたばって骨だけになっていても、ずっと側に置いておこうと思う。そうすればいつでも出中の3年生に戻れるし、共に卒業したみんなに会える!辛くなったり、苦しくなったりしたら、この本を読もうと思う。みんなの思いに励ましてもらおう」


こんな言葉が生徒から聞けるだけでも素晴らしいと思いませんか。

もちろんこのように、英語表現を楽しみにするは、準備が必要です。その一つは英語理解を楽しむことです。中嶋先生は生徒に英語の歌をたくさん教えます。英語の歌を理解し、歌うことで、生徒は英語によって表現された世界、ひいては表現者の人格を理解する喜びを知ります。歌というのは聞いているだけで楽しいものですが、歌詞を理解し、それを表現者と同じように、心を込めて歌うこと、つまりはメロディーをつけて語ることはもっと楽しいことです。中嶋実践にはこのような側面もあるのです。

もう一つの準備は、英語の徹底的な訓練です。機械的といってもいいですし、<仕事>的な英語学習といってもいいかもしれません。中嶋先生は音読やシャドウイング(英語の音だけ聞いて、それをその場で再生すること)などの、再生練習(reproduction)も徹底してやっています。自由な自己表現というproductionを行なうにはreproductionの練習も必要なのです。

「それにしてもこのような実践は国語教育でやるべきであり、英語教育でやる必要はないのでは?」という声もあるかもしれません。もちろん、このような実践は国語教育でもやれるでしょう。でも国語教育の実践ではやりえないことを、英語教育での実践はやりえていると私は考えます。それは英語が外国語であり、第二言語であるからです。

外国語というのは馴れない言葉ということです。英語は外国語ですから、生徒にとって遠い言葉です。でもそのように遠い言葉を使うことによって、逆に表現しやすくなることってありますよね。例えばI love you.あるいはI'm proud of you. 日本語ではなかなか表現できない。せいぜい「好きだよ」ぐらいでしょうか。このような肯定的・積極的な表現は、日本語使用ではどこか照れくさくてやりにくいですよね。でも新しく習い覚えた外国語なら、逆にストレートに表現できる。日本語なら恥ずかしくてなかなか言えないことが、英語なら素直に言える----これは英語教育実践ならではのことではないでしょうか。

さらにいうなら英語は第二言語でもあります。ここでの第二言語という言い方は、人間が母語(第一言語)に次いで、二番目に学ぶ言語ということを強調したいから使っているものです。人間は第一言語をすらすらと習得できる能力をもっていますが、人間の脳は、第一言語に限らず、その他に、地球上のどんな言語でも学べるようにできています。もちろん、思春期からは、幼い時期(「臨界期」や「敏感期」と呼ばれます)ほどには簡単に言語獲得はできませんが、それでもできるということが、人間の素晴らしい潜在能力です。中嶋実践は、中学生が第二言語でも自己表現という<語り>を実現できるということを示している点でも素晴らしいと思います。

「地球上のどんな言語でもいいなら、別に英語でなくてもいいのでは?」という声も聞こえてきそうです。それはその通り。私たちの外国語・第二言語教育は、お隣の韓国語でもかまいませんし、最近ますます存在感を増している中国語でもかまいません。しかし私たちは、様々な歴史的・政治的・経済的理由から、国際的に最も普及していると考えられる英語を主な外国語・第二言語教育の言語として選びました。その選択の理由を批判的に考察することは重要ですし、英語の選択が完璧に正当化されるなどとは私も決して思いませんが、英語を選択するのは、現状ではそれほどおかしな選択ではないと思います。

英語を選び、英語を教えることによって、中嶋先生は生徒に、世界で最も通じやすい言語で自己表現をする能力を身につけさせました。皆さんも最初に英語が通じた時の喜びを覚えていると思います。英語で自分がどんな人間であるかを示し、英語で結ばれる世界に自分も加わることができる。英語を通じて、お互いが人間として理解しあい、尊重しあう。これって素晴らしいことではないでしょうか。英語を使ってビジネスができることも貴重なことです。でも英語を使って人間が人間としてつながることができる----これも素晴らしいことではありませんか。

<労働>と<仕事>の発想にますます支配され、人間が人間らしく生きるために不可欠な<活動>の喜びを忘れつつあるようにも思える現代日本において中嶋英語教育実践の持つ意義は大きいと思います。

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というわけで

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