人間を単数性で考えるなら、「私」あるいは「理想的な人」以外の人間とは、「私」あるいは「理想的な人」の単純な延長、つまり「私」あるいは「理想的な人」と全く同一な存在であるべきとも考えられます。「私」あるいは「理想的な人」と異なる人々の存在は不可解なもの、あるいは不愉快なものにさえ思えてきます。
しかし、「私」あるいは「理想的な人」と異なる目の前の人、そして人々の存在こそは、人間とは複数的な存在であるということを証明しているのではないでしょうか。その複数性という「人間の条件」を無視し否定するような社会とは、非人間的な社会に他ならないということをアレントは--ホロコーストを見てしまった人間の一人として--訴えているように思えます。
複数性を否定する社会は、唯一存在するとされた単一的存在が好きなことをできる社会です。何しろ社会には、その単一的存在者(およびその同類)しか存在しないのですから! 単一的存在者とは全能である、いや全能であるべきなのです。そうして、そういった単一者の社会は、実際は存在している異なる人々を排斥し、あげくのはてには抹殺しようとします。
単一性なのか複数性なのか。
同一性なのか差異なのか。
人間社会の前提はどちらなのでしょうか。
以下はアレントの『思索日記』(Hannah Arendt (2003) Denktagebuch 1950-1973 Erster Band München: Piper)からの抜粋とその拙訳です(誤訳があればご指摘ください)。きちんとした訳は青木隆嘉先生の『ハンナ・アーレント 思索日記I』(法政大学出版局)の74-75ページをご参照下さい。
Heft II Januar 1951
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Der Mensch -- die Menschen:
In den totalitären Regimen erscheint deutlich, dass die Allmacht des Menschen der Überfüssigkeit der Menschen entspricht. Darum entspringt aus dem Glauben, dass alles möglich sei, unmittelbar die Praxis, die Menschen überflüssig zu machen, teils durch Dezimierung und generell durch die Liquidierung der Menschen qua Menschen. Wenn der Mensch allmächtig ist, dann ist in der Tat nicht einzusehen, warum es so viele Exemplare gibt, es sei denn, um diese Allmacht ins Werk zu setzen, also als reine objekthafte Helfer. Jeder zweite Mensch ist bereits ein Gegenbeweis die Allmacht des Menschen, eine lebendige Demonstration, dass nicht alles möglich ist. Es ist primär die Pluralität, welche die Macht der Menschen und des Menschen eingrenzt. Die Vorstellung der Allmacht und des Alles-ist-Möglich führt notwendigerweise zu der Einzigkeit. Von allen traditionellen Prädikaten Gottes ist es die Allmacht Gottes und das »bei Gott ist kein Ding unmöglich«, das Vielgötterei ausschliesst.
Es wäre denkbar, dass die europäischen politischen Theorien deshalb in reien Macht-Theoremen geendet haben, weil die europäische Philosophie von dem Menschen ausging und von dem Einen Gott. (53-54)
単数形で考えられている人と、複数形で考えられている人間
全体主義的政治体制ではっきりと現れてくるのは、単数形で考えられている人の全能とは、複数形で考えられている人間を余分なものとしてしまうということに相当するということである。複数形で考えられている人間の存在を、一部の場合では激減させることによって、しかし一般的には抹殺してしまうことによって、余分なものとする実際行動は、全てが可能であるという信念から直接的に生まれている。単数形で考えられた人が全能である時、なぜたくさんの個体が事実存在しているのかということを理解することができなくなる。もっとも、たくさんの個体が、単数形で考えられた人の全能さを実行するための純粋に客体的な助力者として存在するということなら理解できるのだが。どのような人であれ二人目の人が存在するならば、それは既に、単数形で考えられた人の全能の反証であり、全てが可能であるわけではないということの、生きた証拠である。複数形で考えられている人間の権力と、単数形で考えられている人間の権力を区別しているのは、まず複数性である。全能および全てが可能であるという考えは必然的に単一性にたどり着く。全ての伝統的な神の特性から多神論を締め出してしまうのは、神の全能と「神のもとでは不可能なことはなにもない」[という考え]である。
ヨーロッパの政治理論がそれゆえ、権力の定理に終わるというのは十分考えられることである。というのも、ヨーロッパの哲学は単数形で考えられた人、そして単一の神に由来しているからである。
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